ごパン戦争[完結]+番外編[連載中]   作:Anacletus

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第81話「東部動乱Ⅹ」

 

―――帝都エレム大通り端アンジェラ。

 

 今日も少年少女達が老若男女の諸々の人々と共に文字を学ぶ青空学校。

 

 文字の読める人々は近頃出回るようになった帝都広報に驚きを隠せなくなっていた。

 

『ああ、何て事なの……』

 

 そう瞳を哀し気に細めた教室の先生。

 

 少年少女達にとってのおねーさんたる貴族の子女達の顔は沈鬱そのものであった。

 

『ど、どうしたの!? おねーちゃん!?』

 

『……姫殿下の悲しむ顔が目に受かんでしまって……ごめんなさいね』

 

『どうかしたの? 小竜姫殿下がお怪我されたとか?』

 

『違うの……東の大きな森で犯罪者になった軍人達をお裁きになられたの』

 

『ハンザイシャ? 悪い軍人さん?』

 

『ええ、彼らは軍の規律に従わず。怖ろしい罪を現地で働いて大勢の人間を理由なく傷付けた……それに軍が罰を下す事になったのだけれど、その時に刑を執行出来る方が権利を持つ方が姫殿下しかいなかったそうなの』

 

『どーいう事?』

 

『姫殿下が刑の執行にサインして、その責任を取る為に自らの手で刑を執行した……あの方のお気持ちを思うと……っ』

 

『おねーちゃん!? 先生!? 泣かないで!?』

 

 このような調子でアンジェラの青空教室の貴族の子女達は涙を流すやら啜り泣きするやらしながら姫殿下の心身を按じて軍などに姫殿下の心身の心配をする書簡などを親伝手で送ったり、議会でも取り上げるように言ったのだった。

 

 勿論のように軍の評判はガタ落ちである。

 

 だが、当の軍にしてみれば、軍制改革された挙句に軍内部の軍律違反した連中がいつの間にか合法的に姫殿下の手で処断されたという話になる。

 

 これが姫殿下による軍の掌握手法なのだろうという見方が半分。

 

 もう半分は戦中に好き放題していた連中の顔も見納めかというのが半分。

 

 蒼褪めた軍規違反しまくりだった将校の一部は自主退職という形で姫殿下の綱紀粛正から始まる大改革での糾弾から逃れる為に下野し、軍内部の風通しが良くなった事は皮肉られた。

 

『あの彼が途中で退職とは……年金も半分になると言うのにな』

 

『仕方ない。前線で好き放題していた事は誰でも知ってる。軍制改革の最後には嘗ての英雄も単なる犯罪者……姫殿下の不興を買っては資産も権威も何一つ残りはすまい?』

 

『それはそうだが……これでどれだけの兵が軍から抜けるものか』

 

『さすがに姫殿下も軍から抜けた者達にまで軍制改革だけで手は出せんだろう。連中の目算だが、それは本当に奴らの意志なのかどうか』

 

『どういう事だい?』

 

『姫殿下の軍の改革の最後に軍の腐った部分が自分から出て行ってるんだ。これは最初から姫殿下が軍内部の浄化を考えてやられてい―――』

 

『面白い話をしているようだ。混ぜてくれませんか? 将補殿』

 

『ふ、不動将閣下!? い、いえ、単なる世間話ですよ。世間話……はは、ははは』

 

 こうして多くの者が噂する最中。

 

 その報を聞いて、現在の帝国陸軍でも執行されていない刑法に定められた最大級の極刑を当人がやったと聞いた不動将などは溜息を吐くしかなかった。

 

 それもそうだろう。

 

 全てあの姫殿下の掌の上だと理解していたのだから。

 

 軍には綱紀粛正と軍律の徹底が民間から姫殿下になんて事をさせたんだという圧力の形で噴出し、それは軍人達からしてみれば、かなり厄介なものなのだ。

 

 単なる非難ならば無視出来るが、今回の事は軍の怠慢で姫殿下がやらねばならなかったという類の情報工作で成り立っている。

 

 つまり、軍のせいで聖女の手を汚させたと国民の目には映る。

 

 ついでに公開執行で現地の氏族達の前でやったという事ならば、尚更責められただろうと想像する知的階級層からは姫殿下は同情を買う事が出来る。

 

『はは、本当……軍情報部の一部を抱き込んでるとはいえ、これは少し芸術的過ぎるでしょう。姫殿下……』

 

 たった数十人の犯罪者を自らの手で処断した本来ならば畏れられるべき情報がいつの間にか求心力の増大と軍の掌握と軍内部のまともにやっては手が届かない層の排除に繋がったのだ。

 

 軍政改革の最終局面がこの情報工作であると理解する者は限られており、不動将と呼ばれる男以外には軍の最優層や上層部だけが頭を抱えていた。

 

 軍の最終的な統帥権は現在緋皇帝にあるが、事実上は大公が握っている。

 

 だが、それにしても軍の意向はちゃんと聞いてくれていたが、これから先の未来に待つのは完全な軍の掌握だ。

 

『もはや、残る軍閥で姫殿下に降らぬ者。いや、降らずとも良い者は大将閣下達くらいのものだろうな』

 

『軍事費の合理化。兵士の削減。作戦の高度化。戦略の変更。新兵科の創出。兵器の軍民共同研究……姫殿下に出来ぬ事は無いと思うしかあるまい』

 

『たった数か月で随分と見たくない顔が減った。だが、それ以上に……』

 

『あの醜悪将を配下に加えておるのだ。清濁を併せ呑む器量だけで十分過ぎる。この30年で幾多の戦友と出会って来たが、別れを我々は知らなさ過ぎた』

 

『次が最後の戦いになるやもしれんな』

 

『ああ……戦友に後方を任せるのだ。何も心配など無いさ』

 

 動かせる部隊は縮小され、金食い虫だった軍そのものの体質は改善されて、逆に各地の大規模公共事業への参入で軍人達の多くが戦争中よりもまともに食べられるようになった。

 

 その上で軍の縮小と同時に始められた軍の高度化という精鋭主義を取る事になった各地の地方軍では帝国最新の学問的な知見から見出されたと太鼓判を押される優秀層が台頭し始めている。

 

 それもこれも軍制改革で軍に登用する人材の検査が何処かの研究所基準の合理的な学問に基くものになったからだ。

 

『此処が西部軍の国境地帯……西部の独立領と共同軍事演習だって話だけど、まさか独立された国の軍と一緒に演習する事になるなんてなぁ』

 

『お前、知らねぇのか? 独立って言っても西部は姫殿下の庇護下にあるんだぜ?』

 

『庇護下?』

 

『オイオイ。どこの田舎から出て来たんだ? 独立した西部領の王族は姫殿下に自分の息子と娘を預けてるって話だぜ?』

 

『え? もしかして人質?』

 

『ばっか!? 姫殿下と親し気に笑い合うご友人だって話だ!! 西部の連中に聞かれたら、ぶっ殺されるぞ!?』

 

『そ、そうなのか……知らんかった……』

 

『帝国との国境には基本的に関所も税関も無いし、帝国領だった頃と変わったのは上の顔が地方の王様か姫殿下かってだけだ』

 

『やっぱ、姫殿下はどえらい方なんだなぁ……』

 

『あったりまえだろぉ!? 病人怪我人、腕や足を失くした連中や死にそうだった連中が軒並み治されたんだぜ? もうブラジマハターの化身だよ化身!!』

 

『お、おう。そういや、そろそろ時間だ。お前、階級は?』

 

『伍長だけど?』

 

『悪い。伍長。オレ、少尉なんだ』

 

『ッッ――――し、失礼しました!? 少尉殿!!!』

 

『いいよ。学問と数学しか取り得の無い研究者出だ。世間知らずなのは自分が一番よく分かってるからさ。ちなみに兵站管理を任されてる……食事とあっち方面の物資は任せておけ。伍長。帝都からいいのを直輸入してやる』

 

『ッ、了解致しました!! 少尉殿!! 一生ついて行きます!!』

 

 彼らは最優層で固められた旧来の軍上層部よりは力が落ちるものの、それでも纏まった数が姫殿下派……軍閥関係者ならば理解出来る姫殿下に直接間接を問わずに登用された私兵的な側面を有している。

 

 多かれ少なかれ、軍の命令系統が知らない内に乗っ取られており、正式な布告こそまだ出ていないが、その内に軍の完全掌握が終わるのは時間の問題。

 

 これを最優層の大半は新たな統治者による再編と見て、文句も無く知らぬフリをしている。

 

 が、軍のトップに立つ男達にしてみれば、自派閥の最終的な取り込み段階に入ったという事に外ならないのは自明であった。

 

『大将閣下も大変だ。ご自分の孫娘の友人が上司か……例の軍の極秘研究関連も開示させられるのは時間の問題だろうな……』

 

 何処かの軍施設で不動将と呼ばれる男は愚痴る。

 

 これは嵐の前兆だと知る故に。

 

 こうして帝都は新たな統治者の情報操作によって鳴動し、新たなる時代の幕開けに震えて眠る者達がその最先端を走る少女を東の空に仰ぎ見るのだった。

 

 *

 

―――大森林新都市予定区画。

 

 戦場を構築するに当たり、三氏族との取り決めが為されたのは刑執行から3日後の事だった。

 

 翌日から2日間まだ具合が悪い者が多いという事で見送られたのだ。

 

 取り決めは三つ。

 

 三氏族の後方にいる非戦闘員と帝国の後方都市への攻撃の禁止。

 

 彼らを巻き込む規模の攻撃の禁止。

 

 夜襲奇襲などは構わないが、医療従事中の後方拠点への攻撃も禁止。

 

 簡単に言えば、民間人襲うな、後方に達する大量破壊兵器使うな、病院狙うな。

 

 まぁ、現代戦でも大抵守られない陸戦協定というヤツである。

 

 今までも軍同士で幾らかの取り決めをする事は大陸でも多かったらしいが、有名無実化する事が殆どであり、ここからが本番という事であった。

 

 相変わらずリセル・フロスティーナは大量の竜騎兵がいるので後方待機。

 

 仲間達の大半も今後の事を考えて近隣一帯への立ち入りは自分が死んだり、敵軍が後方都市を焼き始めようとしたらという事になっている。

 

 なので、一人のはずなのだが、先日から何か傍にいてダラダラし始めた黒猫が傍にいる。

 

「マゥヲ~~~」

 

 メシーという言葉が脳裏に再現出来そうだ。

 

 仕方なく焼いたチーズをナイフで削って、皿の上のカリカリに焼いたベーコンと麺麭の上に掛ける。

 

 焚火を囲む黒猫の前に差し出すとバクバクと人間染みて食べ始めた。

 

「最初はウルタイア、次にオーデラニカ、最後にアイアリア……難題だな」

 

「まを、まを、まを~~まぅ~~~♪」

 

 アツアツのチーズとベーコンと麺麭の三重奏をハフハフしながら食べている黒猫は呑気この上ない様子であった。

 

 協定締結から4日。

 

 相手にバレぬように色々と用意して微調整も終わった。

 

 それと同時に世界の果てまでも埋め尽くす勢いで現れた動く死者達は森の最中に身を潜めて陣地を作っている様子。

 

 号令さえあれば、すぐにでも動くだろう。

 

「これ食ったら、オレは行くぞ。お前は?」

 

「マゥヲ?」

 

 ビローンとチーズを口から垂らした黒猫がこっちを見る姿に苦笑するしかない。

 

「ま、好きにしろ。オレはそうする。ああ、後、悪いがもしもオレが死んだり、変質したりしたら、あいつらだけじゃ大変かもしれない……もしもの時はお前がどうにかしろ。それくらいしてくれるだろ? まさか、タダメシ喰らいじゃないよな?」

 

「………」

 

 黒猫がやれやれと肩を竦めてから頷いていた。

 

 人間臭い仕草はもうまったく猫とは掛け離れている。

 

「じゃあ、頼んだぞ。大事な初戦だ」

 

 食べ終えた皿を焚火の横に置いて立ち上がる。

 

 朝日が森に始まりを告げていた。

 

 それを横にして男達の姿が陣地より現れる。

 

 全員が鋼の毛で覆われた獣。

 

 そう見える何かに跨っており、片手には槍を、片手には盾を。

 

 そして、鋼の獣の顔面には首と頭を護る兜が据え付けられた。

 

 武器は恐らく獣の抜け毛で編んだのだろう。

 

 編み上げられた鋼糸の武器は並みの鋼よりも強く軽く弾力を持つ事で使い手によっては槍術で振り回す際の遠心力や地面を用いて伸ばしたり、縮めたりするらしい。

 

 騎兵よりも一段低いバルバロスを用いた高速突撃。

 

 地面スレスレを通り抜け様に相手のがら空きの胴や馬を打ち倒し、切り倒す一撃は同じ騎兵相手には鬼門とされ、最終的にはまともに戦わないか。

 

 もしくは戦列歩兵で全周を固める陣形で受け流し、撤退する事で防がれた。

 

『あなた。武運を祈っています』

 

『ああ、行ってくる』

 

『母さん。オレ行くよ』

 

『……帰って来いとは言いません。貴方の前途に祖らの加護を』

 

『お父ちゃん?』

 

『大きく為れよ。お前ら……』

 

『必ず付いて往きます。あなた』

 

『待っている。だが、もしも思うところあるならば、我らの先の世を少しでも見届けてから来て欲しい』

 

『……はいっ』

 

 帝国は徹底的な護りと同時に後方を焼き、毒で食料を奪う焦土戦術、飢餓戦術で相手を追い詰めざるを得なかった。

 

 決定的だったのは7年前。

 

 前代氏族長が病気でウルタイアの防衛戦に綻びが出来た時を狙った一戦だった。

 

 帝国軍は相手に戦線突破する囮部隊を用いて敵を引き付け、大回りの迂回路から最後方に少数精鋭部隊を突入させた。

 

 その目標は後方陣地の人々ではない。

 

 相手の食糧源となる森の果樹や飲み水だ。

 

 それに遅行性の毒を打ち込んで撤退。

 

 結果としてその後の3年で氏族の9割が飢餓と中毒で死んだ。

 

『同胞よ!! 我ら長年の怨敵はあの要塞と化した街に在り!!』

 

 遠方まで伸ばした触手の一部が伝えてくれる。

 

 その声は老人の声だった。

 

『覚えているか。あの三十年前よりも昔の事を!! 我らが森に敵はあれど、それでも穏やかに暮らせていたあの頃を!! 今、若き者には伝わらぬ程、この地の実りは豊であり、無限にも思える食料が我らの傍らにはあった』

 

 若者も中高年も等しく聞いている。

 

 その数はもはや300を割っていた。

 

『だが、帝国は我ら森の諸氏族との交渉を諦め、自らの手で森の民を滅ぼそうと攻め、我らは戦いを始めた。幾多の見知った氏族も、見知らぬ氏族も、あの帝国と戦った』

 

 空の晴れやかな朝焼けが赤く赤く全てを染めていく。

 

『そして、負けたのだ。我らは最後まで戦った。戦って戦って、幾多の同胞を失った。父母、息子娘、孫、兄弟、姉妹、親族……多くの者をだ』

 

 そこで僅かに鼻を鳴らす者が出始める。

 

『だが、我らは今、その大陸に覇を轟かせる帝国に一矢報いる位置にいる。あれこそは、あの幼くも悪鬼の如き所業をやってのける者こそが、我らの最後の敵だ!!』

 

 遥か彼方から槍で示された。

 

 それを受けて立つ。

 

『同胞よ!! 我らが最後の戦いに集う兵達よ!! お前達が死しても我らの戦は歴史に残るだろう!! 我らはあの帝国の大公竜姫!! 悪虐大公の孫娘を貫く一本の豪槍であったと!!』

 

 その言葉に鬨の声が上がる。

 

 それは己を奮い立たせるものではなかった。

 

 泣きながら、歯を食い縛りながら、男達は死ぬ為に其処へ立っている。

 

 死よりも恐ろしいのは何か。

 

 それを知っているからこそ。

 

 茶番にも見えるこの戦争を彼らはしようと思ったのだ。

 

 敗北したとしても、その敗北から己の大切なものを護り抜く為に。

 

『心せよ!! 我らの敵は今まで戦った幾多の勇者、幾多の悪党、あらゆる悪虐を尽くした敵よりも手強いぞ!! 祖先よ!! 我らが最後の戦いを御照覧あれ!!!!』

 

 旗が振られる。

 

 それは鋼の獣と共に進む同じ色の槍。

 

 煤けた旗はそれでも今、旭に輝いた。

 

『全隊突撃!!! 前方の屍に構うな!! 最後の一槍が届く限り、我らの勝利である!!!』

 

『父上。御達者で』

 

 最も力を持った者達が務める槍の穂先は幅5m。

 

 その先端には現氏族長アレルカがいた。

 

 その背後には力の弱い者達が続き。

 

 最後尾には前氏族長がいる。

 

『行くぞッッ。戦士達ッッッ!!! 鬨の声を上げよぉおおおおおおおおおおお!!!!』

 

 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――。

 

 彼らの背後。

 

 全ての女が、子供が、願っていた。

 

 祈っていた。

 

 刃を片手にする者も多かった。

 

 だが、同時に絶対に死なせるものかと子供達を抱き締める者もまた多数。

 

 獣の速度は森では凡そ時速80km。

 

 そして、平地では恐らく140kmにも達する。

 

 その馬などよりも余程に早い高速の突撃はバルバロス自身すらも砕き得る。

 

 故に彼らは擦り抜けて戦うヒットアンドアウェイが得意だった。

 

 だが、その衝撃力がたった一点に集約されれば、恐らくは従来のどんな騎兵突撃をも超えるだろうし、もしかしたら機甲部隊の戦車すら吹き飛ばすかもしれない。

 

 それ程のバルバロスの強度と速度である。

 

 命を燃やした者の突撃は風となって吹き抜けて来る。

 

 決死の覚悟と速度を持った集団の一撃は数秒で最高速度へと達し、数kmもの距離を集団とは思えぬ速度で縮めていく。

 

「………グアグリス。オレの限界を引き上げろ。全てだ」

 

 初めてだろう。

 

 この命令を能力に直接下すのは……。

 

 グアグリスによる命令には限界がある。

 

 生物の細胞の制御には限界がある。

 

 しかし、その限界を引き出せる力による強化は細胞を自壊させる事も解っていた。

 

 そもそも物理的な限界は殆ど超越していない。

 

 グアグリスの能力は研究でそう考えられている。

 

 物理的な限界とはつまり細胞の増殖速度や硬度などだ。

 

 タンパク質や生態内部で分泌される様々な物質を操っているグアグリスだが、その出来る事の多さと引き換えにして殆どの生物は従来の物理的な限界は超えない。

 

 例えば、水が無ければ、細胞を増やせる重量には限界があるし栄養が無ければ、細胞を増やす速度も増やせる数にも同じように限界がある。

 

 大本の資源としての栄養素が無ければ、足りない栄養を補う事も出来ない。

 

 造り出せない栄養素はどうにもならないという現実がそこにある。

 

 だが、この限界に関して超重元素を用いるバルバロスは恐らく通常生物よりも遥かに限界の閾値が高いとも推測されていた。

 

(複数のバルバロスを取り込んだオレの細胞はもう変質してる。だが、その限界は……)

 

 突撃してくるアレルカの姿は正しく槍の切っ先だ。

 

 腕で止められるかもしれないが、腕はダメージを喰らわなくても、腕以外の未強化な部分はどうなる事かと考えられるくらいには死そのものに見えた。

 

「………悪いな。オレはまだまだ死ねないんだ」

 

 両手に棒を生成する。

 

 いつもの鱗で造り出したソレは超重元素を取り入れていなければ、生物の鱗を強固な分子構造で繋いだ尋常のものでしかない。

 

 しかし、今日に限っては違う。

 

「まったく、超重元素もマズイったらありゃしない。困ったもんだ」

 

 今日の朝食の献立は超重元素を粉末にして麺麭に練り込んだ金属麺麭と体に悪そうな重金属細粉入りのスープである。

 

 舌が激烈にビリビリした以外は普通の人間ならば、中毒死するというのが解っているだけだ。

 

 バルバロスは数年から数十年に一回。

 

 超重元素を含んだ土や鉱石。

 

 あるいは同族の肉体を喰らう事で生態を維持しているという。

 

 恐らくは旧い個体程にその元素の喰らった総量が大きい。

 

 故に人間に育てられた竜、超重元素を取らないモノは総じて弱くなるのだろう。

 

 デュガ達の話に拠れば、昔から竜を育てる時の飼料には高額で特別な金属粉を一部の個体にのみ配合していたとか。

 

 結果として言えば、今の自分も恐らくは同じようなものだろう。

 

 グアグリスの加護がある内はこんな事はしなくて良いかと思っていたが、そうも行かない事態。

 

 なので、緊急時用の能力の増幅薬として超重元素の精錬済みのものは細粉の形で持ち歩いていたのだが、初使用となった。

 

 腕に吸わせればいけるかとも思ったのだが、肉体のまだ侵食され切っていない部分が不安材料だった事もあり、結局は量を見極める為にも直食いする事にしたのだ。

 

「………いつもと光沢が違うな」

 

 後4秒。

 

 アレルカの突撃が迫る。

 

「行くか……未来を見ろ。過去の動きと照合する」

 

 グアグリスに今まで得て来た能力への干渉を許す。

 

 それと同時に今まで何となくでしか使っていなかった力が一気にアクティブになったのが解った。

 

「殺ったぁあああああああああああああああッッッッ!!!!?」

 

 鬼気迫る鋼の獣とアレルカとその背後の者達が息を合わせて胴体一点狙いで槍を詰め込もうと殺到する。

 

 そして、その切っ先の群れと獣の脚がこちらを―――。

 

『姫殿下ぁああああああああああああああああああああ!!!?』

 

 籠ってろと言っていた背後の街の先。

 

 砦の中の窓から次々に男達の声が響いて―――。

 

(心配性過ぎるだろ。まったく、良識のある軍人てのもこういう時は困ったもんだ)

 

 よく聞けば、涙目で鼻水まで流して絶叫する男達の群れである。

 

 こうして初戦は終わる。

 

 相手の膂力、勢い、加速度、物量、その全てを薙ぎ倒す力は確かに此処にある。

 

『なん、だ、と―――』

 

 約4m程の波濤となって吹っ飛んだ槍が自らが何故そうなっているのかも分からず。

 

 次々に獣毎、両手で横薙ぎにした棒の一撃で空中を舞う。

 

 バルバロス達は吹き飛ぶ最中にもう意識を失っている。

 

 やった事は簡単だ。

 

 両手で棒を左右に一回薙ぎ払っただけだ。

 

 インパクトの瞬間に人間を巻き込まないようにとバルバロス達だけを狙ったが、横面を胴体を薙ぎ払われた瞬間に砕けた骨と血肉は辛うじて皮膚を突き破る事無く。

 

 しかし、常人にしか過ぎないアレルカを筆頭にした全ての先方は吹き飛んだ際の衝撃で意識を刈り取られ、同時に落下時の衝撃で全身の骨を骨折、内臓を強打して吐血、バルバロスに圧し潰されて肉体の何処かしらをグチャリと血の染みにした。

 

 無論、その背後にも続く者達がいる。

 

 だからこそ、真正面からの攻撃には価値がある。

 

『な―――』

 

『ば―――』

 

 相手が最短最速で突っ込んで来るのならば、最短最速で相手を倒す機会である。

 

 棒で薙ぎ払う。

 

 進む。

 

 薙ぎ払う。

 

 歩く。

 

 薙ぎ払う。

 

 早歩き。

 

 薙ぎ払う。

 

 小走りで。

 

 薙ぎ払う。

 

 走る。

 

 薙ぎ払う。

 

 相手を吹き飛ばしながら、相手の最も吹き飛ばし易い位置へと向かいながら、未来を見て、過去を見て、相手の癖を残像に見つめながら、相手の対応を確認しながら、間延びする世界へと没頭しながら、突き進む。

 

 それは過去の動作を学習し、未来の動作で確認して間隙に滑り込む作業。

 

 この際、生身の腕がどうなっているのかは見ない。

 

 そうして―――。

 

「見事」

 

 前氏族長の槍を体を前に出して避けながら、残っている利き腕でバルバロスを真横に殴り飛ばし、数mは舞い上げた。

 

 最後の列が終わった時。

 

 ふと、片腕を見る。

 

 完全に潰れたらしい。

 

 やはり、浸食され切っていない腕の方は筋力を底上げして限界を引き上げても自壊する限界が低かったらしく……拉げて粉砕骨折した挙句に紫色に充血していた。

 

「グアグリス」

 

 治せと念じると同時に数秒もせずに片腕の感覚が戻る。

 

 そうして15秒程で元の状態に復帰していた。

 

 アドレナリンが出ている時には気付かなかったが、ドッと汗が出て来る。

 

 視界を元に戻した後、急激に肉体が怠くなっていた。

 

 それも数秒で消え去るが、恐らくは消費されたカロリーが大きかったのだろう。

 

 急いで腰元から乾パンを削って小さな飴玉くらいに加工したものを数個口に含んで飲み下す。

 

 水が欲しいところだ。

 

 初めて体に汗が僅か滴っていた。

 

 常識的ではない肉体の高速機動で物理的に肉体へ熱が籠ったのだ。

 

 やっていた事はよく相手の動きが遅くなるアクションゲームに近い。

 

 問題は一手も間違えずにやらなければ、超重元素を含有した武器で普通に非浸食部位は傷を負うだろうという事だ。

 

 だが、自分の弱点である非浸食部位の限界はこれで解った。

 

 今まで予測していたよりも少し高いくらいだろう。

 

 現実で試したくなかったものが此処で確認出来たのは大きい。

 

 ゆっくりと地面に手を付いて予め用意していた接触点。

 

 地表に出ているグアグリスの一部に靴底に開いている僅かな穴から触手を出して直結、背後に散らばる兵を治すように―――。

 

 ドスリと脇腹に槍が突き刺さっていた。

 

 後ろを見れば、老人が最後の力で投げたらしい。

 

 能力を切った瞬間に見極められたかのようなタイミングの良さ。

 

 いや、こちらにしてみれば、悪さだった。

 

「っ」

 

 バタリと倒れ伏した前氏族長の底力は偉大という事なのだろう。

 

 槍を引き抜く前に今にもチアノーゼで死亡しそうな連中を地面からのグアグリスの侵食で治しつつ、バルバロスも沈静作用のある物質を生成して流し込みながら復活させておく。

 

 背後の砦から絶望の叫びが上がっているが、こんなところで死んではいられない。

 

 すぐに槍を引き抜いて傷口からグアグリスを増殖させて傷を塞ぎつつ、傷付いた細胞を融解して、新しい細胞を増殖させ、繋ぎ合わせていく。

 

「………」

 

 パタリと体が倒れる。

 

 目が霞むが、グアグリスに解毒と回復を指示。

 

 遠くを見れば、オーデラニカはもう武装していた。

 

 恐らくはそういう事なのだろう。

 

 最初から二氏族の長達はこちらを倒す為の策を練っていたのだ。

 

 表向きは連戦という事にしたが、互いの力を利用しないとは言っていない。

 

(傷口から入った毒は……量が多いのか? 解毒が間に合わないレベルで強力だな。まったく、普通なら死んでいるだろうに)

 

 首がブツリと嫌な音を立てながら化粧のように侵食している金属的な浸食部位以外全て真っ二つに数cm離れる。

 

 時間が掛かるだろう解毒まで頭部を死守。

 

 その間はグアグリスが予め頭部に仕込んでおいた酸素マシマシの血液を供給して小さい心臓みたいな喉奥のポンプで頭部を維持してくれる。

 

 毒用に肉体には実質的に分割して心臓と大概の毒を引っ掛ける分子フィルターみたいな解毒作用の強いバルバロスの胃粘膜を用いて造った膜を入れ込んである。

 

 各連結部は神経以外は9割くらいまでフィルターで分割されており、神経系統も毒が入り込んだ瞬間に連結を切り離して皮膚だけで繋がった状態で維持する。

 

 例え、相手が30秒でバルバロスを殺し切る毒を使っていても、解毒に45秒掛るとすれば、自分は死ぬだろう。

 

 そう考えた際の一番簡単な準備は肉体の一部のみ連動させて、後は体内の栄養素や酸素をやりくりして、物理的に切り離しておくというものだった。

 

 こうすれば、毒の周りが常人よりもかなり下がる。

 

 一瞬で体中に回る毒も0.001秒が10秒になれば、あるいは回る前にその周辺区画を神経毎切り離して作業が終わるまでそのままにしておけば、解毒は可能だ。

 

(前日から膜を喉に流し込んで自分の体をグアグリスでパッチワークとか。ホント、裁縫を習ってて良かったと思うのは昨日が人生で最後だろう)

 

 瞬時に回った毒が脳に届く前に首は切り離した。

 

 脇腹の肝臓辺りを解毒するまで24秒。

 

 だが、その前に走り出していた後続のオーデラニカが来る。

 

(首を元に戻せるまで全身を解毒するのに40秒弱。解毒は34秒弱。首を元に戻すのに5秒弱。動かせる部位は全部解毒中で自立稼働か)

 

 この時の為に大量のコマンドを仕込んでおいたグアグリスが体内の各部位には在中している。

 

 心臓の役目を果たしている上に酸素を供給もしているので、それが砕かれればゲームオーバーという事になるだろう。

 

 命が掛かった戦いが始まるまで残り22秒。

 

 10秒少し足りないが、解毒作業が追加されるとまた死が近付くだろう。

 

「やるか……」

 

 殆どオートの操り人形状態で申し訳ないが、上から生物の細胞を焼き潰す類の薬品を掛けられても困るのでカクカクとした動きで起き上がる。

 

 それに馬で突撃していたアマゾネス達は驚いていたが、隠されていた刃が露わになった為、もう構う必要もなく最速で突撃を掛けて来る。

 

 その手にあるのは筆のようなものだ。

 

 革製の壺らしきものが片足には付けられている。

 

(毒を塗り付ける為の武装か。まぁ、だよなぁ)

 

 水鉄砲の類を想定していたが、量を考えるのならば、相手に皮膚接触で塗り付ける方が効果的な毒もあるだろう。

 

 避けられる心配が少ないという意味でならば、最適なのかもしれない。

 

 会敵まで残り3秒。

 

 槍の背後に土煙と共に隠されていたオーデラニカの牙はやはり強かった。

 

 だが、その先頭を征く氏族長シリンの横には夫なのだろう男が共に並走している。

 

「覚悟ぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

 きっと、武器は全部毒塗布済みだろう。

 

 男の背後に隠れるようにして暗器らしいものを袖に隠すシリンや夫の後ろにいるアマゾネス達は完全にヤバイ人々である。

 

 もしも、毒が自らを焼けば、一瞬で絶命するのだ。

 

 それを見越しての戦術すらあるだろう。

 

 だが、生憎と此処で死んでもらっては困る。

 

 子供には両親が必要だ。

 

 あるいはそれに匹敵する家族が。

 

 血の繋がりの在る無しは関係無い。

 

 嘗て、両親に虐げられた少女が1人ヒキコモリになるまでの事を知っている身からすれば、そんなのを何人も量産しては気が重いというものだ。

 

 片腕が拳銃を引き抜く。

 

 込められている銃弾は集団戦用……まぁ、空砲だ。

 

 撃った。

 

 その瞬間。

 

 猛烈な空気の爆発で横に離れた首が侵食痕の金属部位で繋がってはいたが、それでもクタリと倒れる。

 

 猛烈な振動と空気の暴発で馬が倒れ薙ぎ払われて先頭集団が完全に吹っ飛んだ。

 

『?!!!』

 

 だが、その最中も瞬時にシリンはこちらの首が途切れて横折れしてカクカクしている体を見て理解したのだろう。

 

 そして、こちらの非常識な対処法に喉を干上がらせてはいたが、それでもすぐに起き上がり、ふら付きながらも突撃してくる。

 

 首を狙って長い筆をこちらに振り下ろそうとするが、二発目の空砲が火を噴くと同時に筆と共に風圧に吹き飛ばされる。

 

 そうして、11秒後。

 

 空砲の圧力が終了する間際。

 

 倒れた女と男達の合間から忍者の苦無染みたものが一斉に投擲され、こちらの首を含む全身に毒を摺り込もうと殺到し、突き刺さらない。

 

 ついでに言えば、毒も沁みない。

 

 揮発する毒も吸わないし、肌に塗った軟膏や首筋にあるフィルターを突破出来ない。

 

【わ・た・く・し・の・か・ち・で・す】

 

 唇を動かすとシリンがガクリと両手を地面に付いた。

 

 片腕で首の内部に張り付けていたフィルターを取っ払い。

 

 クラゲの触手で首を繋げて片腕で首を胴体と連結させる。

 

「耐性は獲得させて頂きました」

 

 ようやく起き上がった女達は絶望した表情と共に夫なのだろう者達と共に抱き合っていた。

 

 もう毒で蟲の息の者達もある。

 

 予め解毒用の薬は処方していたから、まだ持っているのだろう。

 

「………我らの負けか……この化け物め」

 

 そうは言いながらもシリンの顔には苦笑が浮いていた。

 

 涙が零れた彼女達が懐に隠し持っていた自決用の毒薬が使われる前に靴の下から伸ばしていたクラゲさんの触手を接触地点に付けて、地下のクラゲさんの触手で相手を侵食。

 

 行動不能にして毒薬の類を全て意識を奪うと同時に捨てさせる。

 

「だが、真なる毒の効能をお前は知らない」

 

「どういう事ですか?」

 

「この毒は我らの先祖がずっと究めて来たもの……グアグリス……その力を目指して」

 

 グラリと再び視界が傾ぐ。

 

「そういう、事ですか」

 

「自ら毒に耐性を持つ生物達はその耐性によってグアグリスの攻撃では死ぬ。同じ事が毒で出来ないかと研究してきた。お前の今の状況ならば、我らの―――」

 

 勝利だ、と言う前に腰に付けていた超重元素を入れ込んで作った小瓶から薬液を飲み干す。

 

「無駄だ……どのような回復も意味は無い。自らの力に殺されるがいい!!!」

 

 この大陸でサイトカインストームみたいな自己免疫による細胞破壊とか。

 

 さすがに自分はならないと思っていたのだが、どうやら違っていたらしい。

 

 だが、こちらには現代知識さんがある。

 

 生憎とそういうのは一番最初から自分を殺せそうな手札に関連した力として研究所で研究させていた。

 

 特にグアグリスの力を取り込んだ後は弱点をそのままにしておく事は出来ないと熱心にやっていたので研究者達にはきっと死ぬまで頭が上がらないだろう。

 

「ふぅ……(´Д`)」

 

 自己免疫の過剰。

 

 特定のタンパク質、サイトカインタンパク質の大量放出による全身の細胞の炎症が薬の作用が回った途端に収まっていく。

 

「な、に?」

 

 ゆっくりと体を立て直したこちらにシリンが目を剥く。

 

「何だ!? どんな薬も効かぬはずだ!? どうやって!?」

 

「体の中にある毒に対抗する機能を一時的に弱める薬を開発したのですよ。ウチの帝国の研究者達とわたくしが共に考え抜いた末に創った薬です。グアグリスの攻撃方法で放出される物質。つまり、あなた達が何世代も掛けて造った毒はウチにもありました」

 

「な―――ッ!?」

 

「それそのものをグアグリスに大量投与してもグアグリスは死ななかった。何故でしょうか? 答えは単純です。グアグリスにはそれを防ぐ為の機能を持つ体液を体内で作る能力がある。わたくし達はそれを大量に先程の毒を注入したグアグリスから抽出する事に成功しました」

 

 実際にはこちらの能力で出したグアグリスにサイトカイン物質に当たるタンパク質を大量に出させて、それを同じようなグアグリスに撃ち込んで、状態が変化した様子のグアグリスを絞って、その液体を再び別のグアグリスに与えるという事を繰り返した。

 

 結果として残るのはサイトカインストームを引き起こす自己免疫物質と抑制する為の物質の混合液を受けたグアグリスが更に抑制する物質を大量に放出した薬液。

 

 それをこちらのグアグリスの能力で濾過、分離したのだ。

 

 つまり、問題無いレベルまで高濃度のサイトカイン物質の影響を中和する何かがグアグリスの中では生成され続けていたし、それを使用可能な薬として生成済みなのである。

 

 これを生成するまでに大量の鼠さんが犠牲になった。

 

 やっぱり、鼠さんは偉大だし、その命の成果は後世に語り継ぐべきだろう。

 

 取り敢えず、良く分からないブラジマハターとやらの彫刻の横には今後ネズミさんが追加される予定である。

 

 グアグリスに刺されても死なないようにと。

 

 各地の養殖場に配備する為に作っていた自己免疫抑制剤。

 

 効能は冷やして安置しておけば、約40日前後。

 

 先日、帝都に返った時にようやく完成した代物だ。

 

「そうか……これが敗北か。済まない夫よ……我らは此処までのようだ……」

 

「構わないさ。君と共にならば……」

 

 完全な敗北にようやく大人しくなったオーデラニカの者達が最後の時間を惜しむようにして抱き締め合う。

 

「そんなところでイチャイチャして貰っても困ります。とっとと自分の陣地に帰って下さい。そんな調子だと後ろの連中も困るでしょう」

 

「何?」

 

 ようやく周囲が見え始めたバカップルというか夫婦の群れが自分達よりも街に近付いていた鋼の獣の群れとそれを降りて近付いて来る男達に目を見張る。

 

「な―――生きて、る?」

 

「どうやらこちらの武器は貴方達の命まで届かなかったらしいですね。ですが、こっちも重症なので。敗北者はとっとと戻るように。それにそちらの情けない敗北具合にあっちはもう戦闘態勢です」

 

 ハッとしてシリンが空を見上げる。

 

 アイアリアの氏族長代理。

 

 イオナスが敗北した二氏族を見下ろし、歯がゆいような、怒鳴りたいけれども怒鳴れないような顔で何とも言えない様子のまま。

 

「とっとと退けぇええ!! 敗北した者に用はない!! お前達が戻るまで我らはこの戦場に干渉せず!! だが、二刻後!! 我らは総攻撃を開始する!!!」

 

 こちらを憎々し気に見た少女はそう叫んで数百期の竜騎兵と共に後方へと戻っていった。

 

「………」

 

 ようやく起き上がった男女がやってくるウルタイアと共にこちらを一瞬だけ見てから敗走していく。

 

 背後から来る氏族達の誰もこちらに背中から襲い掛かって来る者は無かった。

 

 そうして、最後に男達の最後尾。

 

 横に付けたウルタイアの現氏族長はこちらに視線を向ける事も無く。

 

「……我らが言えた事ではないのは知っている。だが、もうあの軍勢を止められるのは貴殿しかいないのだろう……あの娘を頼む」

 

「任されるまでもありません。それは最初からわたくしの仕事です」

 

 何も言わず男達が去っていく。

 

 男女が去っていく。

 

 それを見送って数秒後。

 

 背後の砦からは律儀に命令を護り続けている涙と鼻水塗れで喉も枯らした様子の男達の歓声が響き……しかし、休む暇もなく地表に墜ちた毒武器を解毒しながら地面内部に回収しつつ、最後の戦いに向けて街へと戻るのだった。


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