ごパン戦争[完結]+番外編[連載中] 作:Anacletus
本当にお茶が室内で出されたが、元皇帝陛下直々に入れるとは思ってもいなかった。
何も言わずに口を付けると僅かに薄い甘さが口に広がって、それが白糖の類だと分かる。
柔和な老人は簡素な一室で豪華な赤地に金糸の刺繍が施された椅子に寛ぎ、こちらに視線を向けていた。
壁際の薬缶と家電らしい電気コンロ。
大きな棚には幾つも銀の缶が詰められており、内部にはたぶん茶葉が大量に収蔵されているらしい。
何と言うか。
皇帝を軟禁するにしてはチグハグな場所だった。
寝台やらは至ってシンプルな長方形の代物だったので、椅子だけが奇妙に浮いている。
「……此処、お茶入れる部屋なんじゃないのか?」
「おお、君は分かるのか。そうだ。此処は本来、女官達がお茶を入れる部屋だよ。今はこの老いぼれの寝室だがね」
「地下に幽閉って話だったはずだが」
「昨日、娘が帰ってきた時、嘆願してくれて、出られたんだ」
「パシフィカが帰ってきてもう一日経つのか?」
「……娘の事を知ってるのかい?」
老人が始めて反応を見せた。
その瞳が少しだけ真面目に細められている。
「ヴァルドロックとシーレス。あの二人をパシフィカに付けて逃がしたのはあんたなのか?」
「……二人とはどういう関係かな?」
「共和国で誘拐されて以来、とりあえず仲間ってところか」
「仲間……パシフィカとは?」
「あいつからは可哀想な下層民扱いされてるが、仲良くはしてる」
「あはは、可哀想な下層民、か。うん……言い得て妙だな。君が普通じゃないのは見ていれば、分かるが……あの子は……いつも通りか」
「ああ、一緒にいた時は元気だった。あんたは父親って事でいいのか?」
「その通りだ」
「アーモンド号。あの飛行船を発掘したのもあんたなんだよな?」
「そうだ」
「ついでに大陸の統一って願いを飛行船に掛けるロマンチストでもあると」
そこでようやく老人が驚きを顔に出した。
「あの子から?」
「ああ、空から見たら一つのお家になるって話を聞いた」
「そうか……君を信用していたのか。あの子は……」
「訊ねたい事は幾つかあるが、まず今回の発端となった枝について詳しく知りたい。それとパシフィカが追われた詳しい理由。あんたなら全部知ってるはずだ」
「枝の事まで……二人からかい?」
「ああ、あんたが遺跡を破壊して回ってる話も聞いた。そもそも、どうして次の皇帝を決めるという段になって枝の破壊に手を出した? あんたが本当に賢いなら、最初にまず枝を破壊しておくべきだったんじゃないのか?」
老人がこちらを見つめて、静かに溜息を吐く。
「色々と訊ねたい事があるんだろうが、まずは前提となる話をしなければならないだろうな」
「前提?」
「オルガン・ビーンズ創始者達の話だ」
「……聞こう」
老人が話し始めたのはそもそもこの地域において豆類耐性の都市国家群が乱立していた理由というものだった。
「この地域の都市国家は全て“枝”に関わる関係者が散逸後に生き延びる目的で集落を作ったのがそもそもの始まりなんだ」
「つまり、枝の事は都市上層部の連中なら誰でも知ってたのか?」
「そういう事だ。オリーブ教の進展後、枝は幾つかの時代に使われてきた。その度に各都市の事情を知る指導者層は協力もしてきた。その中から百年前、連邦国家として各城砦都市を平和裏に併合し、象徴である皇帝を据えて今まで散逸していた遺跡の技術と知識を集約し、国力を高めようとする者達が出てきた。だから、オリーブ教はその中心軸として扱われ、皇家はその遺跡の技術と知識を全て統括する管理責任者としての地位を与えられた」
「枝を最初に破壊出来なかったのはそもそもが皇家の存在理由だったからなのか?」
「そうだ」
老人が重々しく頷く。
「他の遺跡は壊せても、中核たる枝には容易に手が出せなかったと」
「ああ、八年前の大敗北で人的資源の約7分の1を一気に喪失したオルガン・ビーンズは失地回復の為に遺跡の技術や知識を活用するしかなくなった。だが、それでも私は枝の軍事利用だけは……思い留まるよう事情を知る層に働き掛けてきた」
「だが、それも限界に達したと」
頷きが返る。
「……私の指導力が足りなかった。見れば分かるだろうが、そろそろ本当に天寿を全うしそうでね。次期皇帝の選定は不可避だったが、それにしても私が後十歳若ければ……今回の一件は無かっただろう」
老人にはありありと自責の念が見て取れる。
その老いというものに追い掛けられた姿は真っ白に燃え尽きる寸前とも見える程に弱々しい。
「それで枝の概要は二人から聞いたが、軍事転用すれば、驚異的な教育が可能ってだけの代物なのか?」
老人が己の顔をゆっくりと片手で上から下に撫でた。
「……この話は私が墓まで持っていくつもりだったんだが、どうやらそうもいかないようだ」
「少なくとも、そんな状況じゃないのは分かるだろ」
僅かな沈黙の後。
老人が再び語り出す。
「アレの教育方法はかなり特殊なものなんだ」
「特殊?」
「人の脳に情報をインプットするのは基本的に難事だ。しかし、視覚情報を駆使すれば、ある程度はやれる。だが、事細かにあらゆる情報を送り込んで記憶させるとなれば、それには自我が邪魔になる。だから、アレは人間の五感を全て運用して情報を強制的に叩き込むように作られた」
「五感を?」
「そうだ。その当時の叡智でも直接的に脳へ情報を送る技術は無かったらしい。だからこそ、アレに使われたのは人類の叡智が物理的に届かない領域を探る学問だった」
「物理的に……どういう意味だ?」
「遺跡が稼動していた時代に脳内情報の調整に使われたソレを……古の書物では臨床心理学と呼んでいた」
「?!」
思わず顔に出た。
それを見つめた老人が肩を竦める。
「どうやら理解の範疇のようだ……」
「臨床心理学だと……五感を使って情報を送るってのはそういうカラクリか」
世の中には心理学を科学と認めない科学者もいるが、実際には人間の精神と肉体は不可分であり、臨床心理学の知識には通常では手が届かない精神の領域に干渉する術が複数存在する。
催眠術なんてものはこの世に存在しないが、催眠誘導による自我の沈静化と当人への行動の促しは可能な事の範疇だ。
また、催眠による脳機能の運用は自我さえコントロール出来れば、従来的には科学が及ばない領域に対して極めて有用な効能を発揮する。
眠れない人間が眠れるようになる。
食べられないものが食べられるようになる。
嫌いなものが好きになる。
またはそのような状態を獲得する。
どれもこれも念入りな自我の低減を行い、当人の欲求を表出させたり、単純な反応をプロトコルとして組み合わせ、精神を巧みに誘導した結果として可能な事だ。
後催眠、複数の暗示を多重で組めば、複雑な反応を相手から引き出す事も出来るだろう。
少なくともそれは世間一般が思うような人の心を操る術ではなく。
人の心理を巧みに誘導する術なのである。
どうしてそんな事を知っているのかと言えば、両親の影響だ。
珍しく家族団欒の時間をテレビを見て過ごした時。
話題の催眠術師とやらが観衆を沸かせていた事があった。
それに対して『催眠術なんて無い』と力説する学者二人の話に触発されて、一時期ネットで調べたり、興味を持って本を購入したりした事があったのだ。
臨床心理学の知見はどうしても事物を客観的に見る事が基本の科学とは隔たる場合が多いのだが、それでも人間の反応をトライアンドエラーで知識として蓄積してきた骨子は極めて固い。
通常の科学では分け入れない脳という未知の領域と人間の精神を弄るなら、これ程に便利な学問も無いだろう。
「話を戻すが、その学問によって規定される人体と精神の相互的な影響。それらを五体への感覚供給によって制御し、映像で情報を脳に刷り込むわけだが、自我を沈める為には前頭葉の機能を極端に低下させる必要がある」
「自我の排除……操り人形にする気か?」
「その通りだよ。前頭葉へ装置を使った外部からの外科的干渉を行い。人間を操り人形にする為に枝は自我の剥奪……いや、気質的な破壊を行う」
「―――人間を情報の入れ物にするってのか?」
「今存在するオリーブ教の高僧は四十年前に一度起動された枝によって教育された者が殆どだ。君は見なかったかね? オリーブ教の人間の中に奇妙な程に感情が希薄で表情の読み難い人間を」
眉間に皺が寄った。
心当たりがあったからだ。
シーレスに誘拐されてから初めて起きた時、自分の檻を空けた男は確かにそんな様子だった。
(まさか、脳機能を破壊するロボトミー手術の進化版だとでも言うのか? クソッ、余計な雑学を今ほど知らない方が良かったと思うのは初めてだな)
僅かに脳裏に嫌悪感が湧き上がる。
第二次大戦後、精神医学分野において前頭葉の破壊による精神治療の一環が行われた事は調べればネットで出てくる程度の話だ。
心理学分野における前頭葉の役割は自我に関連するものだが、その手術は物理的な前頭葉の破壊によって人間を治療しようとする試みだった。
「彼らはもう二度と己の意思というもので行動する事の無い人形だ。だが、その状態まで持っていくには同じ時代に生きる人類の平均化された肉体と精神の反応に関する詳しい数値が必要なんだ。枝の核心部分となる人間の情報はその催眠誘導用の情報テンプレートの作成に使われる」
「テンプレート……そんなもんの為に人間を使い潰すってのか?」
「それがオリーブ教の根幹だったんだ。人々を遍く導く為の犠牲。大の為に小を犠牲にするしか生き残る術が無い時代には確かに許容されていた事だと多くの指導者が割り切ってきた」
「合理的な部分では頷けても、気分と精神的に頷けない話だ」
「そうだな。私も昔はそうだった」
「今のあんたは違うのか?」
「人間の生死を決め過ぎた人間の弊害なんだろう。あの子を生贄にしろと言われるまで実感なんて擦り切れていたよ……」
老人は悲しそうに己を嗤った。
「今までの話から全て推測出来るだろう。あの子も脳機能の破壊からは逃れられない。更にまずい事に……あの子の場合はテンプレート作成の為、あらゆる情報の入出力が行われる」
「あらゆるだと?」
「要は……脳髄がショック死する限界近くまであらゆる情報を五感から与えられ、情報を吐き出すよう強制される」
「胸糞悪いにも程があるぞ……」
老人が拳を白くなる程に握り締めた。
「昨日からパシフィカの姿が見えない。王城の地下で枝との接続準備に入ってると見て間違いないだろう。まだ、多数の人間が召集されていないから、具合を確認されているだけなんだろうが……あの男があの子を処置するのは明白だ」
「………時間は無いと考えていいんだな?」
「そうだ」
「あいつを助けるなら、今しかないんだな?」
「そうだ」
「分かった。あんたが出来る事を教えてくれ」
老人が顔を上げて、こちらを少し驚いた様子で見上げてくる。
「君は……怒らないんだな。あの子をそう育ててきたのは私だというのに……」
「怒って解決するなら、幾らでもそうしてやる。だが、あいつはあんたの夢を自分の夢として楽しそうに話すくらいには親として慕ってた」
「そうか……」
項垂れた男の下にポタリと一滴、人間性の現れが落ちる。
「地下への入り方。脱出口。その胸糞悪い装置の壊し方。全部教えろ。それと外に連絡出来るなら、やって欲しい事もある。死ぬ前に自分の娘くらい助けてやれよ。あんた、あの子の家族なんだろ」
「―――ああ、そうだ……まったく、老いたな……君の言う通りだ」
顔を上げた老人はもう男の顔をしていた。
それは確かに今にも死にそうな老人でも無ければ、元皇帝陛下という名の負け犬でもない。
確かに娘を救おうとする父親の顔だった。
「こんな老人の話を聞いてくれてありがとう。あの子を救おうとしてくれて、ありがとう……」
「礼はあいつを救いたいと思えるような人間に育てた自分に言え。あんたの娘は少なくとも本当の意味で人に愛されるに足る人間だ」
「そうだな。私はその親として命を掛けて責任を果たそう」
男の差し出した手を取る。
時間との勝負。
何処まで出来るのか分からないとしても、あの天真爛漫な笑顔を壊されるくらいならば、自分が傷付くくらい構わないと思えた。
「とりあえず、大概の事は解った。今度はこっちの話も手短にしよう。共和国との開戦が避けられない情勢なのはあんたも分かってると思うが、それで提案がある。国は無くなるだろうが、あの子と国民は助かるかもしれない手だ。あんたの協力で死人が殆ど出ない可能性もあるし、それなりに良い話だと思うんだが。乗るか?」
「……民と娘を救う為に躊躇する余裕は、この身体にもう持ち合わせが無い」
「そうか。なら、まずは―――」
老人に亡国への片道切符を提案する傍ら。
少女の無事を祈る。
今はただ出来る事をするしかない。
そう分かればこそ、手の中の汗を握り潰した。