ごパン戦争[完結]+番外編[連載中]   作:Anacletus

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前日譚 なげーぷろろーぐ-Last-

『感有り、だ。生神宗学生』

 

「そうですか」

 

『直ちに装備を装着。ヴァーリ側の陣地に合流して最後の確認をして来てくれ』

 

「了解しました。数は?」

 

『1200名前後。後方には更に後詰の戦略予備が数百名。総勢で1800くらいはいるように見えるな』

 

 ガレージでの最後の作業が終了してから更に2日。

 

 前日の夜にようやくヴァーリ総出でのお出迎え。

 

 いや、オモテナシの仕込みは終了した。

 

 男達は最後の陣地構築に励んでいたし、学外の壁を囲うようにして複数の落とし穴が教授主導の下で設置。

 

 内部にはしっかり木材の死なないが戦闘不能になる()()()()()をするような仕掛けが施され、鉄条網は張り巡らせられなくても馬による迂回突撃を潰す為の仕掛けも多数。

 

 真正面の陣地には大量の粗製ボウガンを持った男達が詰めており、昇って来る敵を打ち倒す中世欧州の最強戦術の一つである英国面に落ちそうな弓と陣地の防衛陣を築いている。

 

「午後10時……登山に夜襲に馬か。アバンステアもご苦労様だな」

 

 現在時刻は夜中へと向かう最中。

 

 それでもすぐに相手を発見出来たのは屋上に仕掛けていた高原全体を見渡す紫外線を感知する高精度なカメラのおかげだろう。

 

 相手は奇襲と思っているが、こちらは準備万端で何ら問題無く迎撃する態勢が整えられている。

 

 2000人近い兵を投入してくる以上は防衛を何処まで上手く熟せるかが撃退の鍵になるだろうが、戦略的にソレは下策。

 

(この1回……この1回で相手を完全に戦意喪失から軍の瓦解まで持って行く)

 

 教授の私室の一角に備えられた粗末なカーテンを引かれた場所で着替えを済ませ。

 

 そのまま襤褸の外套を羽織って歩き出す。

 

 学内の体育館周囲では校内放送で避難勧告が出され、静かに女子供の全員が所定の地下通路に付随する駐輪場へと移動。

 

 鍵が掛けられる場所という事で内部から施錠してバリケートを張って貰う。

 

 相手がもし侵入したとしても地下の空かない部屋を制圧しようとするのは確実に時間が掛る。

 

 後はこの状況を最大限に生かして相手を瓦解させるだけだ。

 

(此処で撃退しても相手をこの地方から追い出せなきゃ安全に次の軍団を相手にする準備が出来ない。辛勝でもこちらのマンパワーが落ちて同じだ。相手が絶対に仕掛けて来ないように皆殺しにするのが難しい以上は……教授の案が妥当)

 

 建物の前でマウンテンバイクに跨り、そのまま立ち漕ぎで陣地前まで走らせる。

 

 陣地後方のテントにはもうレン邦長と主要な部隊の隊長が3人。

 

 そして、ルシアが横にザグナルとリーオを連れていた。

 

「おお!! 凛々しいぞ。シュー殿」

 

「揶揄からかわないで下さい」

 

 苦笑しながらそう返すと周囲が微妙にざわつく。

 

「ドクターの話では部隊が動き出した。真夜中には到達するようだ」

 

「陣の構築はどうなっていますか?」

 

「ああ、言われた通り、木の柵にねじった鋼の糸を刺々しく括り付けたのをあちこちに配置。

 

 その背後に馬や人が足を取られる程度の穴と罠を複数。これを数列に渡って繰り返した」

 

「正面は歩兵部隊を真正面から受け止めて貰う事になります。この一戦でオレ達が達成しなきゃならない目的は2つ。敵をある程度負傷させる事。もう一つは軍を瓦解させる事です」

 

「予め聞いていたとはいえ、本当に相手の殺傷を主目的にしないのか。中々、この世界では見掛けない戦術だな……」

 

 完全に日本語をマスターしたと思われる秀才だけがフムフムと頷く。

 

 ルシアは恐らく3分の1くらいは解っているが、話に入って来られる程には解っていないだろう。

 

 他はサッパリな様子で邦長から自国の言葉で話し掛けられてようやく理解したようだった。

 

「基本的に数の差は覆せません。覆して防衛しても新しい兵士を補充されて何回も攻めて来られたら持ちません。なので、相手の軍の機能を完全に瓦解させた上でこちらに仕掛けて来ない理由を作ってやる……相手に畏れさせる。それが主目的です」

 

「……道理だ。大国と小さな邦ではそもそも同じ勝利の定義が使えないという事だな」

 

「ええ、相手を全滅させるのも難しいとなれば、一番簡単なのは心を折る事ですから。心の折れた人間は戦おうとしません」

 

 ルシアが何とか理解した様子でリーオやザグナルに今回の戦いの目的を話して聞かせ始める。

 

「その為のあの仕掛けであり、君の姿という事か」

 

「はい。今後の事を考えるならば、相手をこの地方から撤退させて初めて勝利と言えるんです」

 

 それから部隊長達に何やら言って聞かせたレン邦長がこちらに頷く。

 

「では、配置に付こう。我々は後が無い。君達の策に乗る以外にもう邦を取り戻す機会も無いだろう。必ず、こちらの働きはやってみせる」

 

「お願いします。じゃあ、オレはこれで。合図は教授が出しますから」

 

「ああ、共に生き抜こう。異なる世界から来た者よ」

 

 握手を求められて、それが共通の認識になる世界で良かったと手を握り返してテントを出る。

 

 すると、ルシアが後ろから追い掛けて来た。

 

「シュー!! だ、大丈夫?」

 

「ちょっと、無理してるけどな」

 

「む、無理、ダメ、だよ?」

 

 思わず心配そうな顔をされてしまう。

 

「ああ、解ってる」

 

 そう返してもルシアの顔は晴れない。

 

「戦場に出るってのは聞いてる。でも、だから、言わせてくれ。お前こそ無理するなよ。お前が死んだら悲しむヤツが出るだけじゃ済まない。ヴァーリもきっと負けるんだ……」

 

 この数日、来る戦いに備えて部隊を編成してある程度の戦い方を試行錯誤しながら教授と共にプランニングしていたが、自分も絶対に戦うと言ってルシアは利かなかった。

 

 男達が戻って来たなら、何も姫様が戦わなくてもと周囲の人間は止めたようだが、その意志は曲げられなかった。

 

「……あ、だ、大丈夫!!」

 

「じゃあ、オレからもこう言うぞ? 無理、ダメだよ、だ」

 

 それに言い返されたと理解して思わずルシアの頬が膨れた。

 

「無理してないよ!!」

 

「解ってる。だから、死ぬなよ?」

 

 頭をポンポンしてやると『また子供扱いして!!』と膨れたが……すぐに顔が真面目なものとなった。

 

「シュー……帰って来て?」

 

「解ってる。じゃあ、明日また」

 

 手をヒラヒラさせて自転車に乗る。

 

 学内に戻る背中にはテントから漏れる光の最中でも輝く瞳が見つめている気がした。

 

 夜道を自転車のライトを点灯して走る。

 

 教授のガレージにはもう準備万端に例の改造されたEV車が置かれていた。

 

「教授」

 

『何だね?』

 

「人のプライバシーを覗くのは頂けませんよ」

 

『大丈夫だ。問題無い。私は気にしないからな』

 

「気にして下さい。はぁ……」

 

 耳元のインカムからは明瞭に相手の声が聞こえて来る。

 

 無線機の類の改造は思っていたよりも簡単だったらしく。

 

 電波を経由する無線端末化したドローンもザックリ用意された。

 

 元々は農業用地の確認に使う代物だとの事だが、高高度を飛行させて、適当にバッテリーと

 

 アンテナも増設したらしいので数時間は跳びつつ中継が可能だとの事。

 

 学内では大学関連の情報をFM放送設備で流していたのでそれを使ったとの事。

 

 バッテリーが持つ限りは通信も確保されている。

 

「ほ~~ほ~~これがセーカが言ってたヤツやね。うわ~本当にそれっぽく出来てるなぁ?」

 

「エーカか? お前はもう避難先に非難してるはずなんだが、何か忘れ物でもしたのか?」

 

「やれやれ、鈍いヤツやなぁ」

 

「何が?」

 

「これから死地に赴こうってヤツに少しばかり言葉くらい掛けるやろ。フツー」

 

「有難いけども。何か差し入れでもあるのか?」

 

 ガレージ前にはドラム缶が設置されており、内部には木材の使用後に出た廃材が詰め込まれ、もしもの時の燃料として転がっていたのだが、煌々ともう燃えて天に煙を吐いている。

 

 その背後、パイプ椅子に座って待っていたエーカがオズオズ立ち上がって、こっちの前までやって来た。

 

「手」

 

「手?」

 

 出せという事だろうかと手を出すとポンと何かを握らされた。

 

 それを確認すると日本人には馴染みのある少し縦長の小さな布地の袋が一つ。

 

 紐に括られて内部には何か入っている様子だ。

 

「御守りって……この布、手作りしたのか?」

 

 少しくすんだ色合いの紅い布地はちょっとヨレヨレであった。

 

「まぁな。ええやろ? これで少しはカミさんに願掛け出来とるんやないか?」

 

「……忙しかっただろ。お前も妹も……助かる」

 

 その言葉に少し照れた様子で頬が紅くなった。

 

「いやぁ、ついでやついで!! ヴァーリの子らの面倒見とる時に女性陣が服繕ってたから、糸や裁縫道具貸したんよ。そしたら、こんないいものを貰って悪い。何かお礼をさせてくれってな」

 

「それで一緒に?」

 

「ああ、ヴァーリの男連中の分も一緒にな。ウチらの邦の風習なんよって」

 

「そういや、夕方頃におっさん連中がデレデレしてたな」

 

 思い出したのは何やら上機嫌で体育館から戻って来た兵達の姿。

 

 目撃しつつも何があったのだろうかと思っていたのだ。

 

「中身は覗いたらあかんよ? それとこれはウチとエーカとシュリーからや」

 

「あいつらもか。お前の妹からは随分と色々として貰ったな。結局……」

 

「え? いつの間にそんな!?」

 

 思わず驚愕の表情で固まるセーカに苦笑する。

 

「いや、何を勘違いしてるか知らないが、この鎧だの衣服だのだ」

 

「ああ?! そういう事かいな。いやぁ、案外ウチの妹は多才やからな」

 

「ホントな。デザイナー目指してたり、同人作家なだけあるよ。鎧のデザインだのを教授からオファーされてたとか。妙に禍々しいのを作ってくれた挙句にコーティング前に生々しく着色までしてくれて」

 

「似合ってるで?」

 

「ファンタジー世界には魔法が無くてもドラゴンはいるからな。これくらいがリアリティーなのかもしれないと納得するくらいの出来栄えだ。コスプレイヤー相手に商売でもしてたのか?」

 

「いや、実はレイヤーやねん。あの子……カワイイ服を服飾デザイン学んでザックリ本物で造って来るから、ウチの衣裳部屋も随分とアレでなぁ」

 

 そうやって話しているとガレージの影の部分に誰かがこちらを見ているのに気付く。

 

「ま、無事帰って来いって事や。じゃ、ウチらはこれで。行くで~~」

 

「おねーちゃん。ホント、心配性だよね。このヨンローがそんな簡単に死ぬように見えたなら、目が節穴になってるよ?」

 

 いつもの毒舌に何処かホッとしながら、2人が並んでその場を後にする。

 

 手を振られて、何となく覚悟が出来た気がした。

 

 ガレージの車庫内から車両を出して、地図をスマホで確認する。

 

 周囲の地形データはもう教授がいつの間にやらデータをドローンで確保していた。

 

 小規模な電力きょうきゅうは小型の手作り感溢れる風車で充電可能になっている。

 

 高原はそれなりに風が拭くので本数を増やせば、バッテリーを通して、纏まった電力をある程度得られるめどはついている。

 

「ええと、ここからこう通って……」

 

 大掛かりに迂回して学内の背後から罠の無い場所、大きな岩が無い場所を通って前線まで向かう事になっている。

 

 スマホを車両の汎用の設置式の台にセットして出そうとした時。

 

 ミラーが後部のモゾモゾとしたモノを捉えた。

 

「オイ……どういう気だ。此処から地獄の一丁目まで行く事になってんだぞ?」

 

『教授に許可取ったもん』

 

 そのモコモコが言うので確認しようとしたら。

 

『ああ、許可は出した。理由は単純だ。彼女の臨床心理学、社会心理学、犯罪心理学の知識は1年とは思えない程に熟達している。あいつの愛弟子なだけあるよ』

 

「教授……」

 

『君が戦場での状況判断を見誤らないよう保険として付けた。車両そのものは既に硝子も含めて例の金属を溶かした保護液を塗布済みだ。普通の硝子の強度が1だとすれば、最新の強化ガラスやプラスチックが100と言ったところだが、ソレは数百だ。剣や弓じゃ傷一つ付かんよ』

 

「教授……」

 

『連れて行きたまえ。君の心理状態を保つ為でもある。彼女にはこの数日、こちらでエーカ君に運転も教えさせた。もしもの時は助けて貰え』

 

「普通の衣服を着込んでる女の子に何を―――」

 

『例の金属を溶かした溶液を沁み込ませたカーボンシートを内側から縫い付けて、急所と臓器の前には薄い金属プレートを入れた外套を完備だ。靴も君に履かせたモノと同じだよ』

 

 安全靴をベースにしてドラゴンから抽出した金属とカーボンシートで強化した靴は膝丈まであるブーツのようになっており、普通にハンマーで叩こうが剣で突こうが傷一つ付かなかった様子はガレージで昨日見たばかりである。

 

「……朱璃」

 

「何?」

 

 モコモコがようやく姿を現した。

 

「いいんだな? お前も人殺しまっしぐらだぞ?」

 

「宗が……シューが死ぬよりはいい」

 

「死ぬより酷い目に合うかもだぞ?」

 

「ぜ、絶対、シューを見捨てても助かるから大丈夫!!」

 

「それならいいけども。って、いや、よくねぇ?! とにかくだ!! 覚悟はあるんだな?」

 

「ヒキコモリ止めるより楽そう……」

 

「すげー数の腐った臭いのする兵隊にグヘヘとか下卑た笑い声をあげられながら、薄い本展開になっても場合によっちゃ助けられないかもしれないぞ?」

 

「もしもの時の為にあのヤバイ臭いの小瓶も完備したぞ!! 完璧だな!!」

 

 胸を張る幼馴染がサムズアップした。

 

 臭そうでは済まない臭いをさせて、敵から恐れられる様子を想像したら、もう何も言えなくなった。

 

「あ……そう……はぁぁぁ……教授、恨みますよ? ホントに」

 

『惚気はその辺にしておいくれるか。うん』

 

「もーいーです。発進!!」

 

『事前の作戦通り、馬を出来る限り狙って貰う。位置はこっちで送信しよう』

 

 半ば自棄になって車両を発進させると後部でやったーと子供っぽい喜びようでオサナナジミがガッツポーズしたのだった。

 

 

 

 *

 

 

 

 時に世界の多くの国々が嘆く事実はこの世の終わりまで争いが無くならないだろうという現実であり、多くの場合において戦う者達は平和に近付く程に忌避される傾向にある。

 

 要は彼らにこそ彼ら自身の国家の牙が剥かれているという事実が端的に全てを顕していた。

 

「本国への召還命令!!? 一体、どういう事ですか!?」

 

「何をと言われましてもねぇ……」

 

 現在、前線の兵達が次々に登山を開始し、平原を横列で次々に敵兵がいないか索敵しながら侵攻を開始していた。

 

 多くの兵達がこの夜間の無謀な攻めに何も言わず従事してたのは諦めからだったが、彼らの後方に本陣にして戦略予備の兵力を置く簡易の屯所では現在大声が上がっていた。

 

「グラナン卿!! 自分を召喚するよう本国に働き掛けましたね!?」

 

 剣幕だけで人を殺せそうな青年ウィスの言葉にグラナンは肩を竦める。

 

「生憎とそんな余力はありませんよぉ。単純に貴方の事を報告しろと言われていたのは大本営からの命令であって、貴方が来る前から決められていた事です」

 

「な?!」

 

「大貴族というのもしがらみが多いんですねぇ? 随分と貴方は大事にされてますよぉ。それが勝利の学び舎か、本家か、大本営の誰かか。それは一野戦指揮官の私には解りませんがねぇ」

 

「ッ、この状況なら一人でも戦力が欲しいはずでしょう!! この作戦が終わってからでも何も問題無いはずです!!」

 

「いえいえ、本国からの伝令はこうです。学生の身分で作戦に従事させる事は今後の本学生の教育を行う上でも好ましくない。しっかりとした野戦行軍教育が終了した後に行わせるべきであり、専任指揮官は本学生を作戦従事から離脱させ、直ちに帰還させよ」

 

「―――そんな馬鹿な……自分以上にあの学園で野戦の点数が高い者はいないんですよ!?」

 

「嘆くならば、学生である自分の身をお嘆きなさい。まぁ、約束は守りますよ。約束はね? ただし、ヴァーリの男共には辛酸を嘗めさせられた事ですし、生け捕りにしたら嬲り殺しですが」

 

 爪ヤスリで無い爪を研ぐ男がキロリと青年を見つめる。

 

「御坊ちゃん。これが軍というものですよぉ。理不尽でしょう? ですが、大本営に勤める多くの者達がこの理不尽を呑み込んで戦い続けているのもまた事実……その一端を知った。それだけで十分に貴方は他の者達には無い強みを得た。これで満足しておきなさい」

 

「―――作戦に参加しない。それならば、まだ帰る時期は明瞭に定められていないはずですね? 直ちに帰還させよと言われても夜中です。馬を走らせて帰るわけにも行かないでしょう。明日の朝まで此処に詰めさせて貰いますよ」

 

「往生際が悪い……まぁ、いいでしょう。では、此処の兵は全て貴方に預けますよぉ。まぁ、大丈夫だとは思いますが、もしもの時は貴方が次の専任です。その時は存分におやりなさい」

 

「死ぬ気で行くような性格には見えませんよ? 貴方は……」

 

「ははは、死ぬ時は死ぬんですよぉ。戦場とはそういうものだ。私の初めての上官なんか勝ち戦の戦場の最中で部下に責任を押し付けて怒鳴っていたところを横合いの死兵から弓を撃たれて、首を一撃……いやいや、傑作でしたねぇ」

 

 そう言い置いてグラナンがカンテラを持つ兵士達に連れられて、軽装の鎧を身に纏い軍馬へと跨たがる。

 

「グラナン卿。敵には竜の男。いや、竜の騎士がいる。あの炎の力は決して幻などでは無かった。どうするつもりですか? 一杯の水で大火を消し止めるのは不可能だ」

 

「【ウィシャス学生】……人間はねぇ。血が出れば、殺せるし、心だって殺せる。疲れれば殺せるし、毒でも殺せる。殺し方なんて何でもいいんですよぉ。覚えておきなさい」

 

 初めてグラナンがいつもの様子とも違い。

 

 軍馬に跨ったまま。

 

 両側のカンテラから照らされた顔を厳しい指揮官のモノにした。

 

「人間は脆い。戦う者は決してソレを忘れてはイケナイ。己も含めてねぇ……」

 

 そうしてまた意地の悪そうな子悪党の風情で声が周囲に響く。

 

「さぁ、生きますよぉ!? 30年来の戦友諸君!! 今日はヴァーリの血で喉を潤し、この勝ち戦に華を添えに行きましょう!!」

 

『おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!』

 

 近衛部隊の男達が時の声を上げると同時に馬は夜道をカンテラで照らしながら速足に高原を昇っていく。

 

 それは卓越した馬の扱いと同時に現場の周囲の状況や道を頭に入れていなければ、不可能な速度であり、その点を見てもグラナンが単なる平凡な指揮官ではない事が見て取れるだろう。

 

「中尉殿」

 

「ああ、これはどうも。すいません。従者の方を前に声を荒げてしまって」

 

「いえ、お気に為さらず。大貴族の方を前にしても不遜なのは我らが主の方であって、こちらこそ詫びねばならないでしょう」

 

 幕屋の後ろからやって来たのは先日、ウィスと共に商人の街を防衛した部隊の纏め役だった。

 

「……どうか誤解しないで頂きたいのです。確かに我らが主グラナン卿は貴族を傘に来て卑怯姑息を旨としますが、それ故に多くの部下から慕われています」

 

「え……?」

 

 騎士というものが尊ばれるご時世。

 

 アバンステアにおいて騎士道は何よりも重宝される兵の美徳として貴ばれる。

 

 実際の戦場で戦う兵士にそれを強要しようという将校すらいるくらいなのだ。

 

 だが、そんな中にあっても卑怯や姑息と言う言葉を平然と言われながらも慕われるというのはウィシャスにはまるで別の国の事を訊いているような心地であった。

 

「我が主グラナン卿は元々最初期に併合された中小国の小領主でした。多くの併合された国々で徴兵が行われているところを自分で強制徴募するから、勝手に兵を持って行くなと大本営に怒鳴り込んだのは本当に昔の事を知っている軍の上層部の方々ならご存じのはずです」

 

「あのグラナン卿が?」

 

「当時、まだ軍に志願したばかりの一兵卒に毛が生えた程度の指揮官。その場で軍事法廷を開かれてもおかしくない。だが、彼はそうした」

 

「信じられません。本当に?」

 

「ええ。そして、自分が強制徴募した兵士によって、戦功を立てれば、本国からの勝手な徴兵は無しにして頂こうと当時の大将閣下に啖呵《たんか》を切った」

 

「当時の大将。って、まさか?!」

 

 思わずウィスが目を見開く。

 

「ええ、皇帝陛下にです」

 

「あの男が本当に?」

 

「はい。そして、彼は確かに任された任を全うし、大会戦となった平定争乱時に部隊の損耗率を1割以下で戦を終えた。その手法は酷いものだった」

 

 その状況がありありとウィスには見える気がした。

 

「軍法会議に掛けられるギリギリの手法を用いて、敵を騙し、篭絡し、裏切らせ、味方を欺き、孤立させ、貶め、挑発し……あそこまで人間はやるのかと戦った相手国の将に言わせ、また味方からすらも陰口を叩かれた」

 

「……よく無事でしたね」

 

「そうですね。刺されてもおかしくない程の手です。味方からすらもあまりの汚さに嫌われた。けれど、多くの兵達は故郷に帰れたのですよ」

 

「故郷に? それはつまり……」

 

「グラナン卿が戦に出る時、強制徴募するのは決まって領地の荒くれものと働く事も知らぬ無智蒙昧な貴族の子供と相場が決まっています」

 

「………彼は【領主《マジェスト》】なんですね」

 

「ええ、最初の会戦で生き残った者達は今その荒くれと貴族のボンボンを率いて、残りは近衛として戦っている。3000という数も領地から出せる。いえ、出しても構わない人材だけで固めているのです。いつ死んでもいい者達を使い。いつ死んでもいいように戦っている」

 

 ようやくウィスは自分の指導教官替わりに指定された男が何者なのかを知った気がした。

 

「死んだ者達の事は顧みませんが、結果的にグラナン卿の領地は併合された地域の中でも栄えている。悪人や荒くれは少なく。商売は栄え。多くの老人達が酒場で謳うのはチョビ髭の英雄だ」

 

 ウィスは長い傾斜を上がるランタンの明かりだけとなった人馬の一団を遠くに見る。

 

「人の心を捨てた悪鬼。彼の者は戦の相手には災厄の運び手。然して、多くの戦いに勝利する悪辣を絵に描いた背中に領地からの罵倒は一言も無い。だから、彼の事を、我が主の事を軍の者達はこう言うのです」

 

「……【醜悪将グラナン】」

 

「はい。戦に強いわけでも、戦功が大きいわけでもない。必ず大半の任務を全うし、生きて帰り、兵の損耗の少ない臆病者にして卑怯者。騎士道無き将と」

 

 その後、男は笑みを浮かべてウィスにお茶を入れ始めた。

 

(貴方の無事は祈らない。貴方がレン邦長を騙し討ちした事は許せないが……納得はしよう。それが貴方の戦争の勝ち方なら……グラナン卿)

 

 卑怯故に民から愛される男はこうして戦場へと赴く。

 

 シニカルな笑みに悪辣を含めて、卑怯を戦法としながら、闇の行軍を遂行する。

 

 だから、出会うのも致し方ない。

 

 そう、彼は悪役なのだから。

 

 ソレは唐突に彼らが行軍中に現れるだろう。

 

 次々に高原を昇る男達の正面を突破して、緩やかな逆を時速数十kmの軍馬無き馬車が、戦車が奔る。

 

『軍馬!! ドローン様々だな!! 悪いが此処で馬は没収だ!!?』

 

 横一列に高原を目指す平押しで山狩りをしながらの行軍となれば、分厚い戦列は期待出来ず。

 

 同時にまたその中央を夜中に突破する事は明らかに容易だろう。

 

 命知らずであれば、馬一つでもやってのける事は可能。

 

 だが、生憎にもソレは馬ではなく。

 

『ひ、く、くく、来るぞ!! 真正面から数百!! ほ、本当に大丈夫なのか!? 軍馬ってアレだぞ!? け、結構大きいんだぞ!?』

 

『直接ブチ当たれば、車両はガタガタだろうが、相手にドリフトで車体を掠るように走ってりゃ、どうって事ない!!』

 

 突如として瞬いた蒼く光を発する二つのライトが馬達を怯えさせる。

 

 先頭集団は最中に突っ込んで来るソレを避け、スレスレを衝突させながら、次々に落馬、落馬、落馬、落馬。

 

 阿鼻叫喚の最中には衝撃で骨と肉を砕かれた者達の悲鳴。

 

 ついでに相手を殺せという絶叫が響く。

 

『ここで死ねぇって言ってるぞ!? 剣も槍もガンガン当たり過ぎぃ!? ひぇ?!!』

 

『教授の変態的技術力を適当に信じろ!! 分断して中央突破だ!! 馬を避けながらブチかますぞ!! その後は再突撃をリピートだ!!』

 

 剣が弓が槍が馬上からの巨大な斧が、斬り、突き、投げられた。

 

 しかし、ソレは止まらなかった。

 

 馬の集団を追い回すように傾斜をドリフトしながら突撃し、反転し、馬を轢く勢いでエンジンを吹かす。

 

 後部車体でドリフトを相手に掠らせ、吹き飛ばし、離脱し、また追突し、凹まぬ装甲のままに、傷付かぬ硝子のままに数百の騎馬隊はこうして消えていく。

 

 20分余りもの大立ち回り。

 

 あまりの事に馬が逃げ惑い。

 

 兵士達が馬体に圧し潰され、蹴られ、逃げられ、投げ出された先で自分達の鎧の重さで殴り付けられるようにして落馬の衝撃で失神し、戦う以前に相手を視認する為の光も足らず。

 

『な、ななな、なんまいだーなんまいだぁ!?』

 

『神は死んだ!! 周辺状況くらい報告しろ!!』

 

『ぜ、絶対死んだヤツいるってぇ!! まだ人間轢殺して無いだけだってぇ!?』

 

『そろそろ人間を轢きそうな数だな。このまま麓まで行くぞ』

 

『轢いちゃうのはさすがにアウト?』

 

『そんな呑気な倫理語ってられる状況か!? 車軸や車輪が逝ったら、オレ達が今度はやられる番なんだぞ!!』

 

『そ、そういう事ぉ?!』

 

『連中の武器を車輪に巻き込む前にさっさと麓まで抜けるぞ!!』

 

 兵士達の奮戦も空しく。

 

 遂にタイヤ一つパンクさせられず。

 

 数百の騎馬隊は轢き逃げされて、馬の死体の下で小男は叫び続けていた。

 

 多くの呻き声が響く最中、辛うじて岩が馬の巨体を支えた故に圧死する事も無く。

 

「キィイィイイィィイ?!!! 誰か助けなさいよぉ!? 誰かぁあああああああ!!!?」

 

 夜間故に横の部隊の連携が取れず。

 

 何かが暴れている場所に近付く事も無く。

 

 兵達は恐怖に襲われながらも行軍を続ける。

 

『よ、よくパンクしなかったなぁ!? 案外、シューってドラテクあるな!!』

 

『じーちゃんに鍛えられたからな』

 

『また、じーちゃん?』

 

『よくレーシングやロボゲーで競ったんだ』

 

『………ちなみに免許取ってから一度でも運転て、した?』

 

『この間、レッカー動かした時まで一度も?』

 

『―――(((((;゜Д゜)))) やっぱ、帰るぅうぅぅぅぅ!?』

 

『HAHAHA、死ぬまで付き合え。付き合えば、死なないかもしれないじゃないか』

 

 戦いはまだ始まったばかりであった。

 

 

 

 *

 

 

 

―――総歴:蒼の時代3430年:帝国歴30年4月40日末日。

 

 

 

 アバンステアによる周辺領土併合。

 

 この大規模な侵略活動の一貫として南東部の経済的重要拠点である大山脈周囲の小さな邦々を取り込もうと動き出していた帝国軍は山脈南下中に存在する小邦。

 

 ヴァーリの全住民を奴隷化するべく喉元を後ろから掻き切っていた。

 

 しかし、予期せぬ女子供の事前避難。

 

 戦場での若者達の大量離脱を阻止出来なかった事実。

 

 更に大将である邦主レンを逃した事で彼ら帝国軍第7平定師団所属醜悪将グラナン・ライエが率いるライエ連隊は奇妙な戦局へと歩みを進める。

 

 逃げ出したはずの民を率いていた姫ルシャが連れていた仮面の男。

 

 竜の剣を用い、毒の吐息を吐き、火竜の加護で火炎を扱う。

 

 この面妖な相手に強襲偵察部隊を火計にて撃退され、兵糧までも焼かれていたグラナンは兵糧の備蓄と兵の商人への傭兵としての貸し出しで兵站問題を解決。

 

 再編成した部隊を2列に分けて山狩りと同時に高原上部にあると思われるヴァーリ残党の防御陣地へと向かっていた。

 

 まだ、この時、多くの兵達は連携を取れる距離ではなく。

 

 夜間行軍という事で中央配置の騎馬部隊が謎の馬の引かない戦車によって潰走しているとは露程にも思わなかったのである。

 

『た、隊長!! 部隊の西端から伝令です!! 我、騎馬隊の無人の馬を見ゆとの事です』

 

『見間違いだろう!! 先日、失った馬だろうさ。我らは両翼からの包囲を仰せ付かっている。この隊は左翼の中核。敵の防衛陣地に取り付き、これを突破せよというのが命令だ。行軍は続行する!!』

 

『はッ!!』

 

 この時、両翼の部隊の一部が中央から駆け抜けて来た馬を目撃するも、これを部隊長級の指揮官は全員が無視。

 

 夜間の奇襲という事を最大限に生かす為、狼煙や炎、火矢などでの行軍中の連絡もまた厳禁であった事が最大にして最初の致命的過失となるが、それはまだこの時の部隊の誰にも分からない出来事であった。

 

『右翼の伝令が来ました!! 準備と配置は整ったとの事です。また、防衛陣地をこちらと同じく補足しており、囲い込んだようです!!』

 

『では、後方の部隊が来る前に片を付けようか。ヴァーリの男共に死を!! 前衛は出来る限り、ゆっくりと索敵しながら進め!! 敵、落とし穴や馬を阻むモノを全て探せ!! 盾を翳して前進だ』

 

『了解です。直ちに伝令を』

 

 本隊とも言える騎馬隊の辿る道を作る為、次々に兵達が腰を低くしながら盾を頭上に構えて地面を慎重に歩いて行く。

 

『良し。弓兵隊は応射用意!! 敵陣地にしこたま打ち込んで照らし―――!!』

 

 その時、左翼本隊に起った出来事は劇的であった。

 

 何かが本隊中央付近の上空で何かが彼らをゆっくりと照らし始めた。

 

『な―――?!! 火矢か!? 明る過ぎる!? それにこのままでは!?』

 

 即座に気付いた指揮官は有能と言える。

 

 照らし出されたのは陣地に程近い場所で頭上に盾を構えて索敵と同時に罠を探っていた先行部隊……それが一気に姿を露わにさせたのだ。

 

 敵からの猛烈な弓矢の雨で被害を出すのは避けられないだろうと彼らは思った。

 

 だが、生憎と襲い掛かって来たのは矢では無かった。

 

 ヒューという甲高い笛の音が響くのと同時に照らし出された男達に向けて布地で包まれたと思われる何かが落ちた。

 

 途端だった。

 

 高原が一気に明るく照らし出される。

 

『ほ、炎?! 火種を仕掛けられていた?! 先行した部隊はどうした!?』

 

『げ、現在退避中!! さ、幸いにも油が塗られていたと思われる地点より前に部隊がいるようです!!?』

 

『い、一時後退!! 明かりがあるなら好都合だ!! 弓兵でこちらが奴らを貫いてやればいい!!』

 

 だが、その伝令が飛ぶより先に陣地後方から巨大なこの世のものとは思えない雄叫びの如き振動が響き―――。

 

『な、何だぁああ!!?』

 

 彼らは陣地より更に後方の光源に薄っすら闇夜でも見える建物を視認した。

 

 事前の斥候達は陣地の先に建物。

 

 石作りの遺跡のようなものがあるという事を言っていたが、多くの指揮官達は昔の建造物で逃げたヴァーリが立て籠もる洞穴やボロボロの石や岩の寄せ集めを想像していた。

 

 よしんば、建物らしいものがあったとしても、制圧してしまえば良い。

 

 この小さな邦が用意出来る陣地や本拠地など然したる脅威ではない。

 

 そう評価していたのだ。

 

 幸いな事にすぐ火は鎮火した。

 

 油が足りなかったのだろう。

 

 そう劣等共めとほくそ笑む男達は今回も我が方の勝利で戦は終わると確信した時だった。

 

『あ、あぁ!? あぁあああぁ!? た、隊長ぉおおお!?』

 

『何だ!? どうした!?』

 

『あ、あちらをご覧下さいぃぃ!!? アレは一体!? 一体、何なんだぁ!?』

 

 彼らが薄い霧掛る学内へと目を向けた時、その最中から巨大な形がヌッと現れた。

 

 ソレは巨大な影だった。

 

 朧な影が立ち込める霧の最中から動いた、ような気がした。

 

 その瞬間、更にハッキリと重低音に響く獣のような声が響く。

 

『う、動いてるぞぉ!? あの明かりの先に何かいるぅううう!!?』

 

『ひ、か、火竜!? まさか、噂通り火竜がいるんじゃ!?』

 

 一瞬で兵の士気が崩れそうになった瞬間。

 

 檄を飛ばそうとした隊長よりも先に巨大な炎らしきものが上空へと吹き上がった。

 

 それも禍々しい程に毒々しい色合いが鮮やかに兵達の目に焼き付く。

 

『う、うわぁあああぁあ!? 炎を吹いたぞおおおおおおおお!?』

 

『や、焼き殺されたくねぇ!? オレはあんな姿になりたくねぇぇええ!!?』

 

 次々に兵達の脳裏に思い浮かぶのは命辛々帰って来て酷い火傷に苦しむ同僚の姿。

 

 その苦しむ姿を馬鹿にしていた男達ですら、恐ろしい火傷跡に薬を付けて呻く姿は見るに堪えなかったのだ。

 

 いっそ、殺してやった方がいいのではないかという様子で魘され、爛れた皮膚のままに1人で食事をするのも儘ならない男は後送されていった。

 

『か、火竜を本当に飼っているのか!? そんな馬鹿な?!!』

 

『ひ、ひぃ、う、うわぁあぁあああああ!!?』

 

 先行していた部隊の一部が離脱し、次々に山を駆け降りるように逃げ出していく。

 

『も、戻れぇえええ!! 軍法会議で死刑になりたいのかぁああ!!?』

 

 その隊長の声も空しく。

 

 元々が荒くれや貴族のボンボンばかりだった兵達にはこの時に逃げなければ、いつ逃げるのかという事しか頭に無かった。

 

 事実、此処で逃げ出せばまだ生き伸びる可能性がある。

 

『こ、こんなんやってられっかよぉお!?』

 

『酒もねぇ!! 女もねぇ!! 竜の男に濁る川なんてよぉ!?』

 

『焼け死ぬくらいなら川に飛び込んで死んでやらぁああ!!?』

 

 敵の兵隊や罠ならまだしも竜や化け物まで相手にしていたら、確実に下っ端の兵士は死ぬだけでは済まない悲惨な目に合う。

 

 それを部隊の誰しもが知っていた。

 

 これはある意味で醜悪将グラナン自身が引き起こした部隊の離脱であった。

 

 殆どの兵が楽な戦場しか渡って来なかったのだ。

 

 言わば、勝てる戦しかしてこなかった。

 

 時にグラナンは兵を使い捨てるが、多くの兵の命を無駄に費やす事も無く。

 

 基本的に堅実な戦ばかりをして来た。

 

 彼の巧みさは話術、交渉の場で発揮されるものであって、そこで得たアドバンテージを最大化する事で戦功を立て続けて来た。

 

 結果として部隊長級の兵員はともかく。

 

 数年程度の付き合いも無い下っ端の兵達は基本的な兵士としての能力はあるものの、兵士に必要とされる苦労の大半を味合わずに済んだのだ。

 

 兵糧は略奪もすれば不足なく。

 

 女も現地で拉致して調達。

 

 酒も女も食事も付いていれば、誰も文句は無い。

 

 ついでに敵は無謀なところを襲撃するだけで勝てる相手ばかり。

 

―――慢心。

 

 その一言でグラナンの兵は語るに足りた。

 

 それがいきなり人間が戦う事をそもそも想定していない化け物。

 

 火竜なんてのと夜間に戦えとは無理難題を通り越して死刑宣告に等しい。

 

『か、勝てねぇ!? 竜の火炎で焼かれながら矢で射られるなんて最悪な死に方はしたくねぇ!? お、おらぁ抜けさせてもら―――」

 

 ドスリと隊長級の男達の剣が次々に中核部隊から逃げ出そうとした兵を背後から一突きした。

 

『逃げ出したい者は逃げろ!! だが、死んで盾となれぇええええええ!!!』

 

 血走った目で兵達に喝を入れる隊長級の男達だったが、その見せしめも届く場所までの事。

 

 目の届かない闇夜の中に姿を晦ます兵達は次々に持ち場を離れて山を下山していく。

 

 その数が一定数を越えれば、どうなるかは隊長級の男達が一番良く解っていた。

 

 今度は軍の兵糧が襲われるだろう。

 

 後続の味方部隊に撤退して来たと嘘を付いて逃げる為の兵糧を盗み出してトンズラする気なのは言わずとも知れている。

 

 そこで揉め事が起これば、正しく内輪もめで戦う事になり、自壊は免れない。

 

『で、伝令!? ぶ、部隊の半数以上が山を下りています!!? こ、後続部隊に伝令で事態を伝えなければ、このままでは混乱したまま同士討ちが発生するかと!?』

 

『く、反乱発生を合図しろ!!』

 

 左翼部隊の隊長が闇に照らされた化け物が建物の上に影を映し出し、未だ鳴いている様子に悔し気ながらもそう命令した。

 

『で、ですが!? それでは本当に半数の兵を処分する事に!?』

 

『構わん!!? このままいきなりの同士討ちや襲撃になってみろ!! 後方部隊が味方の不意打ちで崩れれば、我々はまともな退路すら失うのだぞ!!』

 

『りょ、りょうか―――』

 

 伝令兵が専用の炎の色で事態を伝える火矢を持ち出そうとした時。

 

 その矢を見て、左翼隊長がハッとした。

 

 化け物の炎は散発的に吹き上がっている。

 

 その色合いが部隊長級しか知らない火矢の合図の色と被った。

 

『だ、騙したなぁあああぁあ!!?』

 

『な、何を!?』

 

 思わず、その剣幕に伝令兵が後ろに下がる。

 

 その人工的な炎であるという事実を彼が周囲の部隊に伝えようとした時。

 

 本当の悲劇が彼らに襲い掛かる。

 

『ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!』

 

 巨大な鬨の声が学内から周辺に響いたのだ。

 

 その数はどれだけいるものか。

 

 次々に軍馬が無数に駆ける音が続き。

 

 遂に中核部隊の指揮統制が瓦解した。

 

『ひ、あ、相手は馬を持ってるぞおおおおおおおおおおおおお!!?』

 

『き、騎馬隊はまだかぁああ!!?』

 

『い、一時退却!! 退却だぁああああ!!?』

 

 冷静な隊長級もいた。

 

 闇夜の中にこの高原の傾斜を馬で突撃して駆け降りる。

 

 そんな事が可能なのか。

 

 そして、その数は本当なのか。

 

 だが、考えるよりも先に中核部隊から次々に兵が離脱。

 

 もしも下がって兵達を諫める事が出来なければ、同士討ちで兵糧を全て失う可能性すらあった。

 

『ぜ、全隊に撤退指示を送れ!! グラナン卿が来る前に部隊が全て瓦解してはどうにもならんのだか―――』

 

 ドスリと男の背後からの一突きが心臓を穿った。

 

 中核部隊の兵の1人が顔を引き攣らせながらも『お前もやってたんだから、いいだろ?』とでも言いたげに嗤いながら剣を引き抜き。

 

『お、お前も逃げないのか? 逃げないのか!? なら、オレ達の敵だぁああああああ!!?』

 

『う、うわぁああぁああああああああああああ!!?』

 

 伝令兵に複数の脱走兵化した男達が襲い掛かる。

 

 こうして隊長級の男達の殆どが脱走兵に襲われ、それを統制の取れた部下と共に返り討ちにし、同士討ちが拡大。

 

 次々に瓦解した部隊は闇夜の中で散り散りになりながら、巨大な竜の炎と絶叫に彩られて、狂気の世界が幕を開ける。

 

「え? マジ……野蛮過ぎやろ。この世界の兵隊……」

 

 その様子を新聞部の部室から持って来た盗撮用の遠赤外線カメラで屋上から確認していたエーカは妹が肩を竦めて溜息を吐いているとも知らず。

 

 部隊がどのようにして瓦解していったのかを克明に見てしまうのだった。

 

「ウチら畏れて全部逃げ出すかと思っとったら、止めようとする部隊と相打ちとか。何か悪い事した気分やわ」

 

 彼女達が用意したのは最新式のプロジェクションマッピング用の機器であった。

 

 霧に光を当てて更に白布を大きく広げて後方から竜の形をした平たい模型を動かす。

 

 影絵に色を付けつつ、炎まで模型のギミックで出せる優れものである。

 

 学内の音響設備を外まで延長して、大音響で軍馬や鬨の声のBGM(映画シーンから抜いた音声)をリピートで流せば、夜なら大軍が出来てしまうという寸法である。

 

「十分に悪い事してるから今更だよ。おねーちゃん」

 

「そうか?」

 

「ヨンローの言う事聞いて避難せずに相手を待とうとしたり、妹がそれを見逃せないと知ってても強行する辺り、やっぱりおねーちゃんはおねーちゃんなんだなって思うよ。私」

 

 セーカがやれやれと首を横に振った。

 

「命掛ける馬鹿を命掛ける馬鹿が見届けると決めただけや。それにセーカだって、シューの為に御守り作ってくれたやろ」

 

 それに思わず紅くなった少女が屋上出口で思わず後ろを向く。

 

「あ、ああ、あれはちょっとした気の迷いだよ。おねーちゃん」

 

「はは、気の迷いで自分の大切なとこの毛を御守りには入れんよなぁ?」

 

「バカ、アホ、今日のおねーちゃんキライ!!?」

 

 膨れた妹を前にカワイイヤツと姉が上機嫌になる。

 

「いやぁ、嫌われてもうた♪」

 

「も、もぅ!? 不謹慎!! 超不謹慎!! バカッターに晒し上げられちゃえ!?」

 

「異世界で死にそうだから、兵隊を同士討ちさせてみた……うん。絶対、炎上するわ。命で遊ぶな。最低です。この人、ヤバイ。命を何だと思ってるんだぁあ!! 兵士が男だけなのはオカシイ!! とか……色々なご意見を頂けそうやなぁ」

 

「もぉ……」

 

 仕方なさそうに妹が振り返るのを見て、姉は肩を竦める。

 

「でも、残酷かもしれへんけど、ウチの一番はセーカとシューやから。一応、シュリーも入れとくけど」

 

「その為なら悪魔にもなる?」

 

「なるなる。人殺しで何も解決せーへんとかいう意見。命掛った戦いを前にしたらゴミやろ? それを言っていいのは安全地帯にいるヤツだけや。此処は残念ながらウチのこたつの中でも布団の中でもあらへんからな」

 

「おねーちゃん……」

 

「ウチらはそれでも後方にいるんやで? シューとシュリーは最前線……ホンマ、あの場所変わって欲しいわ……いや、何が出来るかって言われたら、困るけども」

 

「大丈夫だよ。きっと、今度は留年するのに戻って来るだろうし」

 

「あはははは!! せやな!? ホンマ、その通りや!!」

 

 呵々大笑。

 

 大笑いに大笑いしてから、再び戦場を見つめたエーカはカメラ越しに殺し合う男達を見る。

 

「……堪忍してとは言わへんで。でも、最後まで見とるよ。これがウチの覚悟や……」

 

 その呟きに何も言わず。

 

 後ろからそっと毛布を掛けた妹は同じ毛布に包まるようにして高原の地獄の夜を見続けるのだった。

 

 

 

 *

 

 

 

 思っていた以上に相手の対処が早い。

 

 そう認めざるを得なかった理由は2つ。

 

 街の周囲に堀ではないにしても念入りに塹壕よりも浅いくらいだろう溝が掘られていた事。

 

 そして、あちこちに落とし穴らしきものがあった事が上げられる。

 

 車両で後方に突撃し、関ヶ原のヤバイ人々みたいに陣中突破を仕掛けつつ、後方の兵糧を再度焼く。

 

 というのがまず最大の目的だったのだが、相手の対処が上手だった。

 

 車両で降りる先に張られた陣地付近には大量の後詰の部隊が散在しており、こちらを見て一騒動になっていたが、更に後方へと逃げ去るようにして向かったら、ヴァーリの里はご覧の有様。

 

 兵糧を集積している場所は見当たらず。

 

 街へも容易に入れないとなれば、遂に最終手段であるウィルスの投入となるわけだが、ダメ押しの兵糧攻めが不可能に見える以上は―――。

 

「宗!! 後方から馬が一頭追い掛けて来てる!!」

 

「何?!」

 

 騎馬部隊は凡そ部隊の統制が取れないくらいにボロボロにしたはずだったが、単騎でこの街に戻って来るどころか。

 

 追い掛けて来る騎兵がいるという事実がもはや驚きだ。

 

「武器は持ってるか?」

 

 車両を街の周囲を走らせるようにして事前の地図に照らして街道沿いへと向ける。

 

「腰に……たぶん、剣刺さってる気がする」

 

「松明でも持ってるのか?」

 

「馬の横にランタンみたいなのが下がってるぞ」

 

「……街道沿いから街の中に入れないか見てみよう。兵がいても、車両自体はまだまだ動く。後方部隊が駆け付けて来る前に残りのニトロで根拠地や野営地を焼くだけでも大分違うはずだ」

 

「りょ、了解だけど。あ、何か相手が速度落としてるぞ?」

 

「普通に考えれば、馬の限界なわけだが」

 

「いや、でも……あの顔……左前方に罠とかあるかも!!?」

 

 咄嗟にハンドルを切った。

 

 瞬間、確かにタイヤの一部が何かに当たった様子になる。

 

「ッ、タイヤをやられたかもしれない」

 

「止まった方がいいんじゃないか?! 何か他の周囲にも目をやってる。絶対、アレ同じような罠仕掛けてるの確認してるぞ!!?」

 

「解った。傷が広がらない内にだな」

 

 どの道、釘や金属片で対策される可能性は戦ったのだ。

 

 もしもの時は車両自体を放棄する事はあるが、まだ相手は単騎。

 

 他の相手が来るより先に追っ払って車両のタイヤの状態を確認しなければ、今後の作戦をするにしても逃げるにしても問題しかない。

 

「何だアイツ?!! 街の方に矢? 火付けてって?! まさか!?」

 

 後方で驚いたらしい幼馴染の声にバックミラーを見れば、こちらと同様に立ち止まった馬の上の青年らしき人影が火矢を街の方へと一射。

 

 それが落ちて数秒後。

 

 メラメラと街の残骸の周囲が燃え上がり始めた。

 

「油で街を焼いてるぞ?! な、何で……」

 

「そういう事か。マズッたな。今すぐ逃げないと袋叩きに合―――」

 

 言うよりも早く複数地点から叫び声が上がったかと思えば、次々に車体を取り囲むようにして人影が飛び出してくる。

 

 咄嗟に車両を相手を轢き殺すのを前提で急発進させた途端。

 

 次々に男達が車両の周囲に何かを撒いたのが見えた。

 

 咄嗟に急ブレーキを掛けるもタイヤに何かが当たる異音が連続する。

 

「待ち伏せしてたのか。このままじゃ、叩き殺されなくても数で包囲されて餓死だ。ちょっと連中を黙らせてくる。お前は此処から出るなよ。合図したら、さっき言ってた通りにしろ」

 

「う、うん!!」

 

 助手席の襤褸布に包んだ剣を取り、ベルト式になった腰にタンクを背負う火炎放射器を装着。

 

 すぐに車両から飛び出して、足裏が何かを踏む感触で忍者モノに出て来そうなマキビシっぽい鉄釘を乱雑に焼き溶かして付けたようなソレを確認。

 

 安全靴で良かったと思いつつ、襲い掛かって来る兵士達の槍がこちらに届く前に再改造された火炎放射器……今度はモデルガンではなくて、園芸用のホースとアタッチメントを例の金属で塗布して改造したと説明されたソレを相手に向けて、腰のスイッチを音にする。

 

 ミニサイズのコンプレッサーが待機状態に移行。

 

 充電池からの電源を取って、瞬時に相手へ大量の灯油を撒ける状態になる。

 

「悪いな。此処で死んでやれないんだ」

 

 周囲へ払うようにしてトリガーを引く。

 

 一瞬後、コンプレッサーの吸気音と共に噴出した灯油が改造された点火用の仕掛けからの小さな電気の火花で発火。

 

 猛烈な勢いで周囲を嘗め尽くした。

 

『ぐあぁ゛あああぁ゛ああぁ゛あああああああ!!?』

 

 絶叫が車両の180°後ろから前まで満遍なく上がる。

 

 灯油は燃焼が遅い。

 

 バタバタと男達が次々に炎で転げ回り、焼ける肉と灯油の刺激臭と炎の揺らめきが周囲を街の火よりも明るく照らし出していく。

 

(この状況で街を焼く。つまり、相手に再利用させるものはもう此処には無い。後方部隊そのものが護ってるか。あるいは兵士に全て食料を分配したか。どちらにしても手を読まれてるのか)

 

 馬の蹄鉄が道を走る。

 

 街道に止まった車両の周囲にはまだ数名の男達が遠方からもやって来る様子であったが、一定間隔以上は近付いて来る様子が無い。

 

 だが、白馬は違った。

 

 上にいた人影が抜剣し、馬上から瞬時に襲い掛かって来る。

 

 咄嗟に炎を相手に向けた時だった。

 

 相手が消える。

 

「なッ?!」

 

「と、跳んだぁあ?!」

 

 車両を飛び越すようにして後方へと着地した白馬がそのまま走り去る。

 

 だが、その上から飛び上がった相手が炎をあちらに向け切る前に剣を振り下ろして来た。

 

 受けるのは危険と判断し、外套で腕を庇いつつ、咄嗟に背後へと跳躍する。

 

 だが、距離を取ったと思った瞬間には懐に入られていた。

 

 一閃。

 

 重い打撃を受けたように外套の上から猛烈な圧力がこちらを吹き飛ばす。

 

 腕は辛うじて折れていない。

 

 が、痺れて手から火炎放射器のトリガーが落ちた。

 

 すぐにベルトを片手で外して、もう片方の手で武器を取り出そうとした瞬間。

 

 相手の斬撃が今度は真正面から兜にブチ当たる。

 

「ぐッ?!」

 

 馬鹿力。

 

 首が折れるかと思うような衝撃がこちらを更に背後へと吹っ飛ばす。

 

『硬いッッ!? この剣が折れるだって?! ならッ!!?』

 

 どうやら相手の剣はブチ折れたらしいが、更に相手が咄嗟に両手を突き出してくるのを見て、打撃やサブミッションを警戒。

 

 身体と手足を縮こまらせる。

 

『く、このッ?!』

 

 身も蓋も無く防御態勢を固めたこちらを見て、相手が手を拱いた。

 

 力任せに叩こうとすれば、相手自身の身体がこちらの鎧で傷付く。

 

 そもそも未だ外套に包まっているこちらは全体像が見えていないのだ。

 

 まったく、無様だろうが、命には代えられない。

 

『ならッ!!』

 

 ゴムボールよりも弾んだ気がした。

 

 相手の鎧われた靴がこちらを踵で踏み潰すように蹴って来る。

 

 蹴り殺すというのは本当に伝統的な殺害方法だろう。

 

 身を縮めている相手に対して一番効果的かもしれない。

 

 剣で防御しようにも先程の一連の流れで剣そのものが周囲に転がって遠ざかっているのではどうしようもない。

 

 周囲の兵達も炎に己慄いている間は近付いて来ないだろう。

 

 が、それもいつまでもつか。

 

 衝撃で目が回り、蹴りを捻じ込もうとしてくる相手が蹴る関節部や鎧の隙間は何とか殴打される程度の痛みで堪えていたが、相手の力そのものが尋常ではないのか。

 

 そろそろ全身が打撲で鬱血しそうだと思った時。

 

 車両の後部座席が開いて、開いた窓越しにこちらへ銃口が見えた。

 

 咄嗟に蹴りより先に横っ跳びにその場から離れる。

 

 途端―――雷撃が奔った。

 

『ガァ゛ァアアアアアぁ゛アアア゛アアあ゛アぁアアア゛ァアぁああアア゛ア―――』

 

 まさか、叫ぶとは思わずに顔が引き攣る。

 

 相手の頑丈さに喉が干上がった。

 

(本当にこいつ人間かよ?!)

 

 雷撃で撃たれたら人間は即死する可能性が高い。

 

 そもそも相手が鉄製品を持っていたら、電撃が奔る部位が瞬時に火傷で爛れる。

 

 なのに、相手は背中からテイザーを撃たれたというのに悲鳴を上げる余力がある。

 

 つまり、絶望的に相手が化け物級の耐久力を持っている事の証明に他ならないのである。

 

『ひ?! い、雷がぁ!? ほ、炎だけじゃなくて雷も使うぞおおおお!!! さ、下がれぇええええ!!!』

 

 周囲の兵の叫びと共に十人近い兵が次々に後ろへと下がっていった。

 

 叫び終えた後。

 

 棒立ちになる相手が復活する前に逃げなければ、態勢も立て直せない。

 

 立ち上がって、相手を迂回するように朱璃に合流しようとした時。

 

『―――そこだ』

 

 背中を完全にテイザーで直撃されたはずの相手が動いた。

 

 腰から腕が何かを投擲。

 

 それがこちらのフード付きの外套の隙間から入り込み、首筋に無理やり刃を捻じ込み。

 

 ブシュゥ、と。

 

 血潮が奔るのを感じた。

 

 首を咄嗟に手で押さえるが、出血が酷い。

 

『自分は此処を、任された……貴様が仮面の男、か』

 

 相手の身体がガクガクと震えている。

 

 全身が感電死する寸前だったに違いない。

 

 いや、そうなっていなければ、おかしい肉体で動く様子はもはや単なる超人。

 

 だが、傷付く様子はこちらも左程変わるものでもないだろう。

 

 切り傷を塞ぐ為に教授から予め貰っていた人口アミノ酸の止血薬を手で首元を止めながらもう片方の手で首筋にスプレーで重点的に塗布する。

 

「ぐ……教授、しんじ、ますよ……」

 

 本来は内服したり、注射が必要らしいのだが、ウチの大学ってこんなのもやってるんだよなぁと教授が持って来た限りでは最新版の使い方は直接出血箇所に大量に塗り込んで圧迫。

 

 凝固して一時的に固まったら、バンドで患部を撒いて対処するものらしい。

 

 数秒もせず。

 

 気が遠くなってきた。

 

 だが、最中にも車両へとふらつく脚で戻ろうとすると。

 

 相手がガクガクと震える全身から力を振り絞るようにして口を開いた。

 

『自分、は……ウィシャス……もう、お前は、終わり、だ。ここ、にもうじき後詰の、もの、た……ちが……』

 

 ドサリと相手が前のめりで倒れ込んだ。

 

「シュー!!? 血が!? い、今治療するからな!?」

 

「そ、れより、にげ、るぞ……このままじゃ、うんて、んしろ……」

 

「うん!? うん!? ど、どっちに逃げるんだ!?」

 

「とに、かく、車に、ロック、し」

 

 的確に止血したとはいえ。

 

 それでもようやく血が止まっただけに過ぎない。

 

 辛うじて致死量は避けられたが、貧血ではもう戦えない。

 

 切れた血管を繋ぐか。

 

 あるいはこのまま安静にしていなければ、再び傷口がパックリ開くだろう。

 

 薬品も大量に突っ込んだせいで血栓で死ぬ可能性もある。

 

 そうなれば、脳梗塞で死ぬより辛い目とやらに合うのは間違いない。

 

「わ、りぃ……」

 

 引き摺られて後部座席に載せられた後。

 

 車両がパンク覚悟で発進しようとしていた。

 

 だが、その時に気付く。

 

 遠間から音が響いていた。

 

 すぐに窓が閉められそうになったが、それよりも先に今度こそ呆然とする。

 

 空が猛烈な勢いで紅に燃え上がっていた。

 

 本日は曇りなのだが、その薄曇りの空が地平の果てまで星の明かりすら消し去られる光量によって染まっていた。

 

(なん、だ? 今度は、どんな化け物が……)

 

 どうなっているのかを確認するよりも先に雲が瞬時に遠方へと真円を描くようにして綺麗に遠ざかっていく。

 

 この夜半の空に僅か夜が戻ろうとしていたが、その光の中心が上空で露わとなる。

 

「りゅう……いや、何だ……あのおおきさ……」

 

「もう出すぞ!!」

 

 その幼馴染の声も聞こえているのかいないのか。

 

 見上げた夜空には煌々と紅の空を現実にする輝く何かが降臨しようとしていた。

 

 問題はソレがあまりの光に形が朧である事か。

 

 それがこちらを、見た、気がした。

 

「アクセル、めいっぱいだ!!」

 

 力が入らない声で叫ぶ。

 

 だが、さすが以心伝心並みに心は読んでくれる幼馴染である。

 

 パンクも構わずにアクセルが完全に押し込まれ、車体が急加速し、街道を南部へと驀進しようと―――光から何か軌跡のようなものが奔って、それが屋根を貫通し、胸に当たったのを確認する。

 

「………死ぬな。朱璃」

 

 だが、最後まで相手に聞こえていたのかどうか。

 

 車両後部と前部。

 

 その車体が熱量で焼き切れた瞬間。

 

 車両から投げ出された幼馴染は輝く紅天の下。

 

 何かを叫んでいた……気がした。

 

 ―――シュゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!!!?

 

 こうして長い長いプロローグは終わる。

 

 これが生神宗の生前譚。

 

 死ぬ前の話。

 

 物語の終わり。

 

(昔、じーちゃんんが言ってたっけ。女一人護って死ねるなら上等な命の使い道だって……)

 

 そして、始りへと世界が巡り始める。

 

 跡形もなく生神宗は蒸発したに違いなかった。

 


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