ごパン戦争[完結]+番外編[連載中] 作:Anacletus
ごパン戦争/最終章「彼方と此方の食卓を」
知識とか。
役に立つ。
そう、思っていた。
正しい。
だが、全部が全部上手くなんて行くわけもない。
命を自然と終えた者には安らかなる眠りを。
そういう事だった。
だから、伝えた時。
涙を湛えながらも、最後の最後の最後まで哀しそうに嬉しそうに微笑む妻の事を抱き締めてしかやれなかった。
言葉は意味を為さない事もある。
きっと、嬉しかったのだろう。
最後まで父が自らの命を全うした本当に誇れる者であった事が。
きっと、哀しかったのだろう。
最後の瞬間に立ち会えずに行かせてしまった事が。
だが、全ては済んだ事だ。
そして、我儘すら言わずに気を失った彼女をそっと寝台に寝かせるのは夫の役目に違いなかった。
誰もが、そうしてようやく時間が経った事を知り、家の事を考えただろう。
それはもしかしたら、場所かもしれないし、大切な人達の事かもしれない。
だから、別に何もせず抱き締めてやるくらいの事。
出来ると思って己惚れていたのだ。
夜。
少女達がやってきて、話を聞いた、不安を聞いた、抱き締めた。
けれども、それは解決ではない。
ただ、手を握って何処かを触れ合わせて眠る。
それだけの事だ。
ホームシックなんてものじゃない。
時間とは残酷であるという事実を彼女達はきっとようやく知ったのだ。
いつか自分が祖父母の死に感じたものと同じものを。
ただ死んだ者を悼むだけの事ではない。
それを遠くに見てしまう己に怖くなるのだ。
この世界の真実に不意打ちを受けたのだ。
誰だとて時の流れには抗えず。
どれだけ大切なものだろうとも遠くに消えていく事は逃れられない。
最もそういう決意が出来ているのだと思っていた彼女。
始めて、この世界で出会った少女が一番震えていた。
他の誰もが涙一粒寝入った頃にも。
「………」
そっと、頭を撫でて胸に抱き締めて落ち着いたのか。
でも、やはり眠れはしないようで。
「体に障るぞ。軍人は身体が資本なんじゃなかったのか」
耳元で小さく小さく呟けば、少しだけ胸元のシャツを掴む手にキュッと力が入れられて。
「……エニシ。私は弱くなった」
「そうなのか?」
「お前に出会ってから、死が怖くなった……」
「そっか……」
あのスライムなタワーに上から倒れ込まれた日とは真逆の位置関係。
けれども、あの日から何が変わったかと聞かれれば、言葉にする程の事も無い。
仲良くなったし、互いに好き合いもしている。
「お前が力を付けて、私を護ったりするから……私の為に死んだりするから……お前を護るはずの私は……お前に護られてばかりの私は……こんなにも脆い」
部屋の中。
温もりはホッとするような心地。
しかし、じんわりと胸元から染みが広がる。
「確かに出会った頃とは違うかもな」
「……お前が言うなら、祖国はきっと安泰だろう。きっと、お父様もお母様も無事だろう。だが……私はそれを護るべき場所にいて、それを護る為に戦って来た……なのに……」
「軍はお前だけで動いてるわけじゃないだろ?」
「分かっている……分かっているとも……私だって……だが、一番大切な時に間に合わなかった……それは……私にとって……」
「許せないなら、別にそれでいいさ。それでお前の今が変わるわけじゃない。苦しいなら幾らでも愚痴くらい聞いてやる。哀しいなら好きなだけ泣けばいい。オレにしてやれる事はお前が言う弱さとやらを聞いてやるくらいだ」
「……総統閣下が身罷られた時、一人の軍人として働けていなかった事は私の生涯の汚点だ」
「そうか。だが、コピーな閣下は肩を竦めて苦笑するだろうさ」
「だとしてもだ」
「真面目だな」
「ああ、それが取柄のはずだった。だが、今はお前の胸にずっと浸っていたいなんて思う……まったく……もっと私はお前に……格好良いところを見せられるかと思っていたんだがな」
顔を上げた少女の瞳は複雑だった。
泣きたいのに目の前の夫を前にして涙を見せたくなくて。
笑いたいのに真面目だからこそ笑みを作るのに失敗して。
しかし、自分が安らかな気持ちになってしまうのを誤魔化しも出来なくて。
どうしたらいいのか分からない迷子を見ている気分。
「オレもお前も人殺しだ。だが、別に笑い合う事もあれば、悲しむ事もある。辛い時には真面目に成れない事だってある……でも、此処はオレ達の寝台だ。いいじゃないか……夫婦ってそういうもんだろ? まだ、ロクに夫婦らしい事なんてしてないけど」
「ふ……慰めているのか。呆れているのか……本当にお前は……」
表情が少しだけ笑みに傾く。
それを切なさと評するのならば、自分はきっと悪い人間なのだろう。
人に正しき道を示せず。
愛する者に真摯な慰めの言葉だって掛けてやれない。
「昔のお前も今のお前もオレにとってはフラム・オールイーストだ」
「そうか……」
その昔ならば付ける事も無かっただろう甘い香りが梳いて撫でる指の間から薫った。
それはきっと軍人としての少女にとっては堕落にも思えるのかも知れず。
「お前を、お前らを失ったと思った日。オレだって変わったさ。でも、お前達が……オレをエニシだと言ってくれる。オレをオレにしてくれる……だから、此処までやって来れた」
「エニシ……」
「今だから言うが、オレは痛いのが嫌いだ。でも、結構頑張ったと思う。涙出そうな時だって、ちゃんと我慢したし……」
「褒めてやろうか?」
「そうしてくれ。そうしたら、今度はオレがお前を褒めとこう。よくやった。頑張ったってな」
「ふふ……似合わないな。私達には……」
ようやく笑みを浮かべてくれた少女は少しだけあの太々しい逞しさを取り戻したのかもしれず。
「ああ、でも……悪くない」
魔王様をやっていた男は弱々しい自分になったのかもしれず。
「………………エニシ」
「何だ?」
少しだけ頬を朱に染めて、少女は初めて見るくらいに恥ずかし気な上目遣いだった。
「今の……私の顔は……酷いか?」
「本当の事を言えたら、オレはお前らと結婚してない」
「馬鹿……女だってその……気にする……好きな男に覚えておいて欲しい顔とそうでない顔の区別くらいある……」
「フラム。お前……」
「だから、その……今のわた―――」
それ以上は言わせられなかった。
一切合切、言いたい事なんて理解している。
不器用で自分みたいに臆病で馬鹿馬鹿しいくらいに本心なんて言えない。
最初からきっとそういうところが自分には直球だったのだろう。
「無粋なのは承知で言わせてくれ」
涙に赤い瞳も目元もスッと元に戻す。
量子転写技術のまったく不合理なリソースの使い道として呆れられるに違いない。
「初めて見た時から」
でも、それでいいと思うのだ。
「オレはずっと」
自分の為に造られた力ならば。
「お前を……」
だって、そうだろう。
「こうしたいと思ってた」
所詮、自分は単なるヲタニートなのだから。
「―――ん……ぁ……ぅ……っ……っ……」
僅かに鼻に掛る子犬が甘えるような吐息を零した少女は悩まし気で艶やかに瞳を潤ませて。
「気にするな」
涙脆い少女なんて昔ならば、想像も出来なかった。
でも、何処かで泣いているのだろうとも思っていた。
それを見せてくれるのが、どれだけ嬉しい事か。
だから、笑みに滴は一度切りでいい。
「誰にも渡さない。オレのものに……オレの傍に……いてくれ……フラム」
「――――――」
何と答えられるのか。
何と答えて欲しいのか。
そんなの何一つ思い付かなかった。
でも、少女の顔は輝いて。
そっと手を絡め取られて、胸元に引き寄せられる。
「……いつか、ちゃんと謝ろう……そう思っていた」
「?」
思ってもいなかった言葉。
その合間にも少女は手を抱き締めるようにして。
「あの日、殴って……悪かったな……エニシ……」
涙を零さぬよう、今にも壊れてしまいそうなくらいに儚くも幸せそうな微笑みで……鮮烈に蘇るのはガラスの鎧に猛々しくも凛々しかった少女の瞳か。
始めての和解なのかもしれなくて。
そんな事を今の今まで思っていたなんて予想のしようもなくて。
また、始められるのだとすれば、それは此処からなのだろうと分かるから。
(好きな女に殴られた事を謝られるなんて、まったく……本当にまったく……オレってやつは……)
言葉に成らなかった。
そうして、少女の手がそっと自らを包む装いを開いていく。
夜はきっと永い永い時間となるに違いなかった。