早朝の陽光が、白く質素な部屋に差し込んでいる。窓から
この部屋の主__由美は陽が当たらない部屋の端に縮こまって白の床をボーッと眺めている。しかしその目には光はなく、代わりに黒く沈んだようなものが見える。それはまさしく、絶望の色。
由美は目を閉じて重い溜息をつくと、縮こまったまま横に倒れた。ひんやりと硬い感触が肌に伝わる。ただ、鳥の
冷たい空間に、白で統一された部屋、それに動かない由美。陽光が差し込んでいなければ
由美は学校でいじめにあっていた。最初は無視されるだけだったが、だんだんとエスカレートしていき、教科書や体操着を切られたりするようになった。最近では暴力も振るわれるようになってきた。このような行為は相応のものだった。
由美たちは来年受験を控えているため、どうしても
もう、行きたくない。どうせ両親の会社に就職するのだから、行く必要なんてないじゃない。どうして、どうして、どうして…!由美の頭の中はそれでいっぱいだった。両親にも相談した。私は学校でいじめを受けているのだ、と。
しかしは母は言った。
「それくらい耐えられなくてどうするの?
ね?と、母は由美の両腕を強く掴んで、軽く揺さぶった。殴られてできた痣が、ズキズキと痛んだ。
父は言った。
「大体、お前にも何か原因があるんじゃないのか?もしかして運動が出来ないからじゃないのか?私も妻もスポーツは万能なのに、なぜお前は出来ないんだ、そんなお前を見兼ねてみんなが手伝ってくれているんだろう。なぜそれが理解できない?頭だけはいいと思っていたが、全く、お前には失望してばかりだ!」
父は由美の頬を平手打ちし、その勢いで床に倒れこむ。由美の頬は赤く腫れ、それと同時に熱く熱を持ち始めた。頬を押さえる由美の目に映ったのは鋭い眼差し。
両親は由美がいじめられている事を受け入れてはくれなかったのだ。それに絶望し、こうして塞ぎ込んでいる。
「はぁ…」
思い出しただけでまた溜息が漏れる。
__プルルルルルップルルルルルッ
その時、リビングにある固定電話が鳴った。由美は弾かれたように部屋を飛び出した。きっと両親のどちらかが掛けてきたのだろう。そもそもここに電話できるのは両親しかいない。
もしかしたら学校に行かなくてもいいって言ってくれるかも…!そんな期待を抱えながら電話に出る。
「はい、もしもし!」
「由美!電話に出るのが遅い!何をしていたんだ!」
「ごめんなさいお父様!学校へ行く準備をしていました」
由美の言葉に父は落ち着きを取り戻し、言った。
「今日も私たちは大事な会議があるんだ、変な
「はい…、お父様…」
由美が力なく返事をすると、一方的に電話が切られた。由美は再び暗闇に__絶望で染められた世界に突き落とされた。腕がだらんと下がり、その場に立ち尽くす。しばらくして、由美の手から受話器が滑り落ちた。その音で我に返った由美は呟く。
「行かなきゃ…。行か、な、きゃ…」
受話器を拾って静かに元の位置に戻し、何かに取り
なるべく早く準備を済ませ、靴を履いた。家を出る直前、溜息をついた。何回目かも分からない溜息を。
******
教室に着いた由美を待っていたのは、突き刺すような視線と黒く汚れた机、そして、かすかな笑い声。机の上には丁寧に花が生けられた花瓶が置いてあった。綺麗な白い花。これは確かスノードロップ。花言葉は__あなたの死を望みます__
由美はそれらを見下ろして、回っていない頭で考えた。何からやればいいのやら…。とりあえず花瓶を移動させることにした。鞄を持ったまま花瓶を抱えて教室を出た。鞄を持って行かなければ何をされるか分からない。それは机を見る限り間違いなかった。階段を降りて職員室に向かう。
__コンコンコン
扉を開けて担任を呼ぶ。
「山下先生、いらっしゃいますか…?」
小さな声だったが、他の先生が気が付き呼んでくれた。扉の前で待っていると、大柄の男__山下が出てきた。山下は由美を見ると
「なんだ、また持ってきたのか。もう持ってくるんじゃねぇよ。邪魔なら自分でどうにかしろ。俺は忙しいんだ」
由美が話す間も無く扉を勢いよく閉められた。由美はすみません、と消えそうな声で謝った。
由美は山下にもいじめのことを相談したが、こちらも由美の言うことを信じてはくれなかった。
「俺の生徒がいじめなどという
山下は鬼の
行く宛てがなくなった由美はどこかにおける場所はないかと歩き回った。校内は広いのに、花瓶一つ置く場所すらなかった。しかし急がないとチャイムが鳴ってしまう。
「あそこなら…」
あそこ__美術室なら置けるかもしれないと思った。美術室では時々花のデッサンをすることがある。だから置いてあっても不審がられないだろう。
肩を上下させて扉の前に立ち、来た道を振り返る。良かった、水は溢れていない。ゆっくりと扉を開けると木の匂いが部屋から流れ出てくる。辺りを見回しながら入ると、窓辺に花瓶を置いた。幸いにも中には誰もいなかった。早まる
__キーンコーンカーンコーン
由美が戻ると、丁度チャイムが鳴った。席に着き、鞄を置くと、文字で埋め尽くされた机を眺めていた。しばらくして山下が出席簿を持って入ってくる。
すると異変に気が付き由美のところへやって来た。これで、いじめを認めてくれるよね…。これで、やっと…。
由美が山下の言葉を待っていると、山下は机を見て形相を変え__
「何なんだこれは!!机に落書きするなど、何を考えている!!」
と叫んだ。予想だにしない言葉に由美は大きく目を見開き、顔を上げて山下に向かって叫び返す。
「私がやったんじゃありませ!これはクラスのみんなが…」
みんなに目を向けると一斉に
「何を訳のわからないことを!すぐそうやってお前は人のせいに…!もういい、放課後、職員室に来い!」
顔を真っ赤にしてそう言い放つと、山下は教室を出て行った。その途端数人の生徒が立ち上がり、由美を囲むように立つ。他の生徒はそれを見ている。
やがてリーダー格の女がこちらを見て見下した声で言う。
「由美ちゃんひっどぉい、私たちのせいにしようとするなんてぇ。考えたらわかるでしょぉ?あんなこと言ったらどうなるか。由美ちゃん賢いんだからさぁ、ねぇ?」
それを
苦しい、辛い、もう…嫌だ。
思わず泣きそうになるのを下唇を噛むことによって抑えた。泣いてしまえばもっと酷くなることを知っていた。これ以上は、耐えられない。
これらの行為は学校に来る日は毎日、朝の教師が来るまでの間や昼休み、放課後に行われた。
今日は何をされるのだろう…
それだけが、思考が停止した頭の中を巡っていた。机を見つめる目が黒く沈む。それと同時に周りの声も頭には入ってこなくなった。
そしてやって来た、昼休み。
再び女が由美のところに来た。その手には裁縫用の
女はニヤリと不気味に微笑むと、裁ち鋏を由美に向けて、言った。
「由美ちゃん、髪伸びたよねぇ。邪魔になってきたでしょぉ?だから私が切ってあげる!」
女と目があった瞬間、椅子が倒れるほど立ち上がり後ずさる。顔から血の気が引いていくのをを感じた。身体を震える。
逃げなきゃ!
本能的にそう思った。後ろを振り返り、扉に向かって走り出す。
が、扉の前に立ち塞がる男子生徒に左右から腕を捕まえられた。強引に女のもとへ連れて行かれる。必死にもがいて抵抗する。しかし、男の力に女の由美が
その間にも女は由美の近づいて来る。それに合わせるように生徒たちも興奮していき、早くやれ!と声があちこちから聞こえて来る。廊下側のカーテンは閉められており、誰も中を覗き見ることなどはできない。
もはや教室は処刑場と化していた。罪を犯した女とそれを裁く王女、そしてそれに歓喜する国民。女は赦しを乞うがそれを受け入れる者など一人もおらず、それどころか早く裁けと言う声が飛び交う__そんな処刑場。
女は由美の髪を乱暴に掴み、大きく開いた鋏を近づけて__
ジョキッジョキッジョキッ
由美の長く墨のように黒い髪がどんどん切られていく。バラバラと落ち、自分の視界を埋め尽くす髪を見ながら由美はゆっくりと目を閉じた。見たくはなかった、これが現実だと受け入れたくなかった。
目頭が熱くなり、瞼の裏に溜まっていた涙が溢れ出した。乱雑に切られている髪に涙が染み込む。
生まれてから一度も切ったことのない髪が、こんなに雑に切られるなんて…。唯一、両親に認められたものだったのに…。髪だけは…お願い…もうやめて…!!
「あははは、いい感じになったじゃん!今のあんたによくにあってるよ!そんじゃ、片付けやっとけよ」
女は
ふと、由美の視界に男子生徒の上靴が映った。思わず顔を上げる。上から降って来るかもしれない優しさに期待しながら。しかし上から降ってきたのは大量のゴミだった。
それを見てクラス中がどっと沸く。その男も笑いながらゴミ箱を投げ付け、仲間の元へと帰って行った。
「どうしてっ私が…!こんっな、こと…!」
由美の言葉も消えてしまうほどの笑いの中で、泣き続けた。これ以上酷いことが起ころうとも、今だけは泣いていたかった。そうしなければ、心が押しつぶされてしまいそうだった。
どうして…。いじめを受けてから毎日思っていたことだった。どうして自分がいじめに
「どう、してっどっして、私、なの…!?どうして!?」
誰かに答えを求めるように叫んだ。たとえ、それの答えてくれる人がいなくても。
由美の叫びを聞いてクラス中から答えとは信じがたい理不尽な言葉が飛ぶ。先ほどの
__マジでうざいから
__
__苦労も知らないくせに
耳が、頭が、心が痛い。由美は後悔した。誰かに助けをたことも、いじめの理由をクラスのみんなに聞いたことも。言葉が深く強く由美の心に刺さっていく。刺さった所から徐々に
もはや、由美自身の防衛機能さえも働かない。このまま壊れてしまったほうが楽なのかもしれないと思った。楽になれると言うなら、由美は間違いなく壊れる方を選ぶ。いじめほど苦しいものなどこの世には存在しないのだから。
由美の心が壊れる直前、あの女が、言った。
「
ガコンッ
何かが押された。何かは分からない。だが確実に由美の中で何かが押されたのだ。
由美はふらふらと立ち上がり、鞄を持って扉に向かう。とりあえず、どこかに行きたかった。自分でも何が何だか分からないこの状況で、冷静に後片付けをする事など出来なかった。
静寂に包まれた教室の中で、自分の心臓の音がクラスの生徒全員に聞こえてしまいそうなほど大きく鳴る。
由美はそのまま教室を出て、その音を隠すように走り出した。走って、余計に呼吸がしづらくなっても、走っていたかった。得体の知れないものから逃げたかった。
教室に残された生徒たちはただそれを見ることしかできなかった。
急に目を見開き、大きく口角を上げて笑い出した由美のことを。