私が喜多川祐介と出会ったのは、実に珍妙な場面であった。
何とも奇怪な男であった。
およそその眉目秀麗な顔立ちと彫刻の如き細身の肉体は老若男女問わずその姿に見返り、そしてそこから紡ぎ出される奇行に思わず目を伏せるであろう。なにせ私がそうであった。
街中、古本店から出た私の眼前を通り過ぎたその男は切れ長の瞳に大粒の涙を浮かべながら通りを疾走していた。
―――その両手に、泡を吹き絶命した伊勢海老を掴みながら。
その男の名を喜多川祐介であると知ったのはその一週間後の事であった。
喜多川祐介は、下鴨幽水荘の住人であったのだ。
★
俺は悲しみの彼方で、ふらふらと歩いていた。
あの不思議な樋口なる男と共に飯を食らったはいいものの、それでも心に出来た空虚な穴を埋められずにいた。
樋口は「一飯の礼だ」というと、一先ず外を歩いてみるといい、とアドバイスした。
そういう訳で、俺は今夜の街を歩いている。
―――美とは何だ。
問いかけても問いかけても、その解はいつまで経っても降りてこない。
飲み屋を過ぎ、風俗街を過ぎる。いかがわしいスーツ姿の男共の勧誘を無視しながら、歩く。
その夜に浮かぶ誘蛾灯の明りの軒下に、その光の当たらぬ静かな民家があった。
月光に照らし出されたその家の正面に、奇妙な老婆がいた。
一瞬、シャドウかと見紛った。
その老婆は泰然としていて、奇妙な妖気を纏っていた。幽霊屋敷の如きその民家の風貌も相まって、俺は息を飲んでその姿を見た。
―――占い、だと。
その民家は、占い屋であったらしい。木の机の前に椅子を引き、占いの看板がそこに存在している。
老婆はこちらを認識すると、こちらに笑んだ。
「ようこそいらっしゃった、―――怪盗さん」
「なに!!」
その老婆は、俺を一目見た瞬間―――怪盗だと、そう言った。
「何を隠すことも無いのです、怪盗さん。貴方の心の奥底に、ついぞ消える事のない怒りが垣間見えます。叛逆の意思とでも言いましょうか。これは、大変な心持ちです」
もごもごと綿でものんでいるかの如き口調で、老婆はそう言った。
妖気が、弾けるように肥大化したかの如く感じた。
「怪盗さん、何を占ってほしいのですかな?」
―――間違いない。この老婆の占いは、本物だ。
妖気にあてられたかの如く、俺は老婆に全てを打ち明けた。
―――美とは、何だ。伊勢海老が死んでからの俺は、ずっとその疑問が頭にチラついていた。捕らえようの無い感覚に、苛立っているのだ。
「貴方のお顔からしますと、大変な怒りを抱えていらっしゃる。とにかく、一度原点に戻るべきです。せっかく、大変な才能がおありなのに、怒りで折角の好機を逃しておいでです」
「怒り―――」
「そう。怒りです。貴方は心の何処かに怒りを常に孕んでいらっしゃる。怒りは大切ですが、それで貴方の眼が眩んでいらっしゃる」
すとん、と心の中に何かが落ちる音がした。
怒り―――。
班目の裏切り、盗んできた大人たちの醜い欲望、無責任な大衆―――俺はそれら全てにどうしようもない怒りを覚えてしまっていた。
その怒りが、俺の心の中から色彩を奪っていたのか。
怒りとは、受け入れられぬ心だ。
何事かを拒否したい心が、怒りを生み出す。
全てを受け入れ、受容し、はじめて美を生み出せると言うのに―――俺の心は、その在り方を喪ってしまっていたのか。
だからだ。だから―――彼等に、伊勢海老に拘ってしまっていたのだ。
過去、俺が直感的に美しいと感じたこの伊勢海老。
―――いつの間にか俺は、この伊勢海老が美しいから描いていた訳じゃなくなっていた。
過去の俺が美しいと思ったから描いていただけだったのだ。
今の俺じゃなく、過去の俺。
今の俺の心がくすんでいるから、過去の俺に縋っていた。
今全てを忘れこの街を見てみれば―――こんなにも美しいものに溢れているのに。
「お婆さん―――感謝する」
「では、料金を戴くよ」
「ああ。今俺の財布には1005円しかないが」
「はい、1000円」
迷う事無く俺は1000円を払った。
この晴れやかな気分の代償には安いものだ。
俺はスキップでもしたい軽やかな気分を抱えながら、四駅分ほどの距離にある四畳半のアトリエへと戻る事にした。
★
俺は、彼等の墓を建てる事にした。
俺なりの方法で。
題名、「残骸」
彼等を喰った後の、甲羅を描いた。
何だか晴れやかな気分であった。
「俺は、お前等を忘れない」
打ち捨てられた甲羅を前に俺は一つ手を合わせた。