伊勢海老が死んだ。
大学二回生の夏の事だった。
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そう、あれはいつのことだったか。
あの怪盗団の美しき日々の中で、日々俺は美しいものと出会って来た。
美しい恋情、美しい芸術、美しい激情、美しい欲望。
俺は喪われた時間を取り戻す様に、真の芸術を追い求めていた。
そう。芸術の糧が何処に転がっているかなぞ、簡単に解ってしまうようならば、芸術なぞ存在しないのだ。だから俺は過ぎ行く日常と非日常の中、芸術という名の路傍の宝石を探していたのだ。
それはまるで、砂漠の中から宝石を見つけ出そうとするかのようだった。砂塵の最中、彷徨っていた。
ジョーカーと共に、恋人とは何かを求めて兄弟の経過観察を行い、キリストの前で磔刑のポーズも取った。しかしてそれでも俺は芸術という名の海の中、窒息しかけていた。いつまでも見つからぬ美を求めて、俺は何処までも探し続け、疲弊していたのだ。
そんな時に―――俺は運命的な出会いを果たしたのだ。
伊勢海老、二匹。
あれは、確か皆と海に行ったときであろうか。
売店で売られていた、その美しくも力強い紅の存在感に、俺は一瞬で心奪われた。
サユリを初めて見た時以来の衝撃であった。
透明な水に映える紅のフォルム。体躯に似合わぬ巨大な鋏。二体の伊勢海老がまるで寄り添うように、その身をくっつけている姿が、脳裏に焼き付いた。
―――この美を芸術に昇華できぬようであるならば、芸術家を名乗るべきに非ず。
決心は早かった。
二匹とも、買った。
芸術を解さぬあの引き籠り少女に危うく喰われかけ、当時の全財産の九割を失った。しかし、それでも俺は彼等を愛した。迷いなく、俺は彼等を飼育することに決めたのだ。
彼等が脱皮する度、彼等が餌を食う度、彼等を書き留めた。正面、側面、背面。やはり俺の眼には狂いはなかったのだ。何処を切り取っても、彼等は美しかった。
彼等とは、大学に進学した後も連れて行った。
京都の風情に身を焦がされ、俺は彼等を伴い様々な場所に向かった。
京都の街並みと、彼等はひどく映えた。
彼等を京都を背景に幾度となく書く。それだけで、俺の中に在る芸術が、爆発する様に屹立し出す。
そんな日々が続いた、大学二回生の事。
彼等は、死んだ。
絵を描いている途中に水槽から逃げ出そうと暴れ出し、そのままコンクリに焼きつけられて。
実に、あっさりとした死に様だった。
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「―――貴君、何をしているのだね」
「儀式を、行っているのです-------」
「ほう、儀式とな」
「はい」
「わざわざ下宿の前でコンロを出し、伊勢海老を煮込み、味噌と塩で拵え、恐らくこれから君の胃袋の中にそれらを嚥下させる行為が、かね」
「はい」
「―――なにゆえ、それを儀式と呼ぶのかね?」
「彼等は、相棒だった。俺の芸術を高め、創り、時に慰め時に叱ってくれた。彼等はそこに存在するだけで、俺に力をくれていた。友であり、家族であった。故に、彼等を喰わねばならない。彼等に墓石は必要ない。俺がその身を、感謝と共に喰う」
俺の下宿先の、三つ隣の男が俺に話しかけてきた。
正直、今は誰とも話したくない心境であった。儀式の最中、無粋にも程がある―――そう思うものの、何故かこの男の声音には不思議な軽やかさがあった。それはまるでそよ風の様だ。絵を描く時にも、儀式の最中にあっても、軽やかに吹き付けるそよ風に不機嫌になることなぞないように、男の声はこの世界と調和していた。
「ふむ、成程―――貴君、中々面白い。どれ、私も食っていいかね?」
「貴方も―――?」
「そうだとも。君は彼等を感謝故に食うのだろう?ならば私も、彼等を感謝故に食べよう」
「貴方が、彼等に何を感謝するというのですか?」
「今、こうして君と出会えたことに対して。貴君は見るからに面白い。そういう縁を偶然にも拾った時には、普段は信じぬ神にも感謝の念を払う事もある。そして、今私と君を結び付けた事象は、その伊勢海老だ。故に、私は彼等に感謝したい」
「そうですか-------」
「ああ、そうだ」
そう言うと、彼は何処から持参したのやら箸を握り、一つ手を合わせて彼等を食い始めた。
恐らくは、相当な大食漢なのだろう。箸を使う手さばきでそれは見て解る。
しかして彼は無造作に食う事を善しとせず、静かな所作と共に彼等を口の中に持って行っていた。
これが、俺と―――下宿先の怪人、樋口との最初の出会いであった。