隣人ができた。
「隣に引っ越してきた須賀京太郎です。よろしくお願いします」
その男はお人好しで、変わり者だった。
「シロさん! 実は料理作りすぎちゃって……よかったら一緒に食べませんか?」
おせっかいで騒がしい奴。だけど……。
「やっぱり一人より二人で食べる方がおいしいな、白望」
不思議と悪い気分ではなかった。
◆◆◆
高校を卒業した後、私はふらりと町を出た。誰にも居場所も告げずに。
最初で最後の全国大会が終わった後、みんなは離れ離れになってしまった。豊音は村へ、エイスリンは母国へ戻り、塞も胡桃もそれぞれの道に沿って進学した。
その中でふわりと浮いた存在だったのが私。誰かについていく形で大学に行ってもよかったし、地元で就職してもよかった。
そういう意味では最も自由だったのが私で、それらの道をすべて閉ざしてしまったのも私自身だ。
あの結果をいつまでも引っ張っているのは小瀬川白望だった。
自分自身が一番驚いている。簡単に乗り切れると思い込んでいたのに。なんならば初めに立ち直るのも私だと半ば確信めいたものもあった。
私にとってあの宮守で過ごした五人での記憶は鮮明に記憶へ刻み込まれ、エラーを引き起こす。何度も何度も。
きっとそれはあの光景が、私にとって初めての宝物と言える時間だったから。
……ダルい。
遠く離れた場所で私は社会人チームに所属して目立たずに生活をしている。プロの目に留まらない程度の成績を残すように調整してまで。宮守の誰かといれば辛くなっておかしくなってしまう。
「……ただいま」
ぼそりと呟く。私は一人暮らしだ。言葉が返ってくるわけがない。――それも半年前までの話だけど。
「おかえり、白望。ご飯作ってるから洗濯物はそこのかごに入れといてくれ」
「……うん」
リビングから顔をのぞかせると簡単にすませて彼は調理に戻る。
もちろん母親じゃない。私の暮らすマンションの隣人の須賀京太郎。二つ年下なのに私よりも家事ができる社会人だ。とはいっても少し特別で彼はプロ雀士を数人担当するマネージャー業を務めている。宮永咲、原村和、片岡優希とどれも新人ながら成績を残すビッグネームばかり。
そんな彼と私と出会ったのは一年目だから荒波にもまれてすでに二年が経過している。
何もやる気が起きなかった日々。生きる気力もほとんどなかった私のもとへやってきたのが彼だった。
まさか毎日やってきて終いには大家を使ってまで入ってくるとは思わなかった。それも引っ越しのあいさつをしたいという理由なんかで。
留守とは考えなかったのかと聞けば、何かあったときの可能性が心配だと平然として返す彼のバカらしさに私は折れた。
ただただ時間をむさぼっていた私の世界に入り込んできた愛すべきバカ。
気が付けば友達になっていて、恋人になっていて、体も重ねていた。だけど、どれもこれも嫌な気分ではなかった。
誰とも一緒にならない。関わらない。
そう思っていたのに京太郎はぽっかりと空いた私の穴をゆっくりと埋めていった。今となっては同棲生活を送っている。
着替えるために衣装棚のある寝室へ行く。すると視界に入る飾られた私と彼の思い出の数々。遊園地に行って、温泉に行って、旅行もした。
どれもみんなとしたかったこと。
過ごすうちにわかったが京太郎の優しさは異常だ。誰かに頼られることを、必要とされることを求めている気がする。きっと彼も私と同じように何か断ち切れない過去を背負っているのだろう。
だから私も受け入れて、彼と生活を共にしている。
わかっているのだ。そうやって京太郎を利用していることは。
……こんなのは愛じゃない。醜い傷のなめあい。
「……ダルい」
上からカッターシャツだけ羽織るとリビングへ向かう。この格好をすると京太郎に怒られるけど楽だし、どうせすぐに風呂に入るのだから構わないと思う。
「……いい匂い」
「破廉恥!」
「……好きなくせに」
「それとこれは別だから。……ったくちゃんと寝るときは着替えるんだぞ」
「……うん」
適当に相槌を打って私はテーブルの前に座る。だけど、そこにおいしい料理は並んでいなくて後にやってくる京太郎も手には何も持っていない。
それにいつもは正面に座るのに今日は隣に腰を下ろした。
「……何かあった?」
「さすがに気づくよな。……うん、白望に話しておきたいことがあって」
「なに? お小遣いほしいの?」
「俺もちゃんと働いてるから! そうじゃなくて――俺たちの今後の話」
今後の話。今まで避けてきた未来の話。
……別れ話だろうか。確かに彼に愛を返せているかと言えば自信をもって答えられない。簡単に離れてしまう未来が頭をよぎる。
その瞬間、ドクンと胸が大きく跳ね上がる音がした。鳴り響くサイレンが過去を呼び起こし、思考をぐちゃぐちゃに犯していく。
悔しさに泣いていた黒髪の親友。最後まで別れを嫌がった留学生。彼女たちの泣きはらして汚れた笑顔が次々と支配していった。
「実は俺、やりたいことがあって――白望?」
気が付けば京太郎の手を握りしめていた。絶対に離さないように強く。深く爪が刺さり、裂けた皮膚から薄く血がにじみ出る。それぐらい彼の手をつかんでいた。
「……ダメ」
「どうして?」
「……もういなくなるのは嫌」
わかっている。こうすれば優しい京太郎は私の意見を汲んで諦めることも。
それを狙って私はこんな行動に出た。
自分に京太郎の寵愛を受ける権利はない。きっと彼にはもっとお似合いな素敵な女性がいる。だから、こんな互いの依存の沼に沈んでいないで、さっさと手放してあげるのが彼のためになるだろう。
わかっている。わかっているけど……!
「……いなくならないでよ、京太郎……!」
あの時に言えなかった言葉が、感情があふれ出す。ぽたぽたとこぼれる雫が跳ねる。
……そうだ。私はわかっていてずっと理性で蓋をしてきた。私に資格はないと、彼の邪魔になると、御託を並べてはこの想いに気づかないふりをしていた。
どんなにも汚くても、醜くても、私はどうしようもなく須賀京太郎が好きたというのに。
「そばにいて……京太郎……」
こうすればよかった。素直な気持ちを吐きだして止めればよかった。そうすればきっとみんな離れ離れになんかならなくて済んだのに。
ずっと、ずっとそんなことばかり考えていた。
後悔は心から消えない。何年もそれを味わった。
そして、また大切な人を失おうとしている。
あんな絶望は二度とごめんだ。
「……好き。好き」
繰り返して私は彼の胸元へと飛び込む。ぎゅっと抱きしめる。
どこかへ行ってしまうなら私も一緒に。そんな気持ちを込めて、力いっぱいに。
「……そっか。白望の気持ちが聞けて、俺もうれしかったよ」
「…………うん」
そっと頭を撫でられる。背中をさする動きが優しくて、加速していた鼓動も落ち着きを取り戻し始めていた。
すぐ近くに感じられるぬくもりに包まれて、心地よい時はゆっくりと流れていく。
「まさか白望がそこまで想っていてくれたとはな」
「…………」
「でも、何か勘違いしていないか?」
「していない。京太郎は私と別れる話をしようとした。そうでしょ?」
「違うぞ」
「……嘘」
「嘘じゃない。いいか? 俺はあの後にこう言おうとしていたんだ」
京太郎は私を下ろすとそっと手を取る。重ねるようにして握られると、京太郎はまっすぐな視線を向けて言葉をつづけた。
「俺はやりたいことがあって――それには白望の気持ちが必要で。俺は白望以外に考えられないから。よかったら結婚してくれませんかって。そう言いたかった」
「……結婚? 私と?」
「他に誰がいるんだよ。……新しい依頼も入って生活も俺一人で支えられると思う。やっと前から考えていたことを伝えられると思っていたんだぞ」
「……本当に、私でいいの? 料理も下手だし、ずぼらだし、なんだって京太郎任せで……」
「そういうところも全部含めて、お前が好きなんだ」
「――――」
ようやく止まったと思ったのに……。
また、また涙が出てきて……バカ……。
「……白望にどんな過去があって、どうしてあんなことを俺に言ったのかはわからないけど……でも一つだけはわっきりとわかる。俺は白望から離れない。死ぬ時まで、ずっと一緒だ」
約束しよう。そう言って彼は小指を立てる。泣きじゃくる私も、ぼやける視界の中で自分の指をからませた。
これで私たちの愛は結ばれた。永遠に切れることのない愛が。
彼の腕が私の背中に回って、抱き寄せられる。
……あぁ。いつから私はこんなにも弱い女になってしまったのか。
恥ずかしさがこみあげて、でも嬉しさが簡単に上回って受け入れてしまう。
……ダルい。
「それでさ。今度、お嫁さんができたって長野まで報告に返るんだけど……白望はここで待っているか?」
彼はからかうようにわざとらしく、そんな問いかけをした。
……調子に乗って。いいだろう。年上をからかった旦那には罰を受けてもらおう。
今の私と同じ気持ちになる罰を。
「……京太郎」
「ああ」
「……私も連れて行って」
そして交わしたキスは今までで最も長く唇を重ね合わせていた。