どうかお収めくさだいませ。
「ねぇお母さん、私達もあの綺麗な所に行けないの?」
義娘からの言葉に、あぁこの時が来てしまったか、と思った。
嘗てよりも成長し、一人の女性の姿となったサドゥは己に抱き着き、無垢な瞳を向けてくる少女の姿をしたモノへと慈しみと共にその頭を撫でる。
何れ来る事だと分かっていても、それは悲しいものがあった。
「少し手間がかかるけど…大丈夫、行けるよ。」
「本当!?」
「えぇ、でもこれだけは覚えておいてね。」
頭上の輝き、この世界には無い正常な気が固まり、一つとなる事で出来上がったそれを見上げながら、サドゥは娘である金毛白面九尾狐へと、何時か思い出してほしいと考えながら告げた。
「あの場所では、私達は異物なの。私達を受け入れてくれる人よりも、拒む人の方が多い事を、覚えていてね。」
その言葉を、娘はよく理解できなかった。
あんな綺麗な場所に住んでいる人達がそんな事をする訳がない。
そう無垢に信じ切っていたのだ。
後に、その言葉を娘は後悔と共に思い出す事になる。
……………
現代から2500年以上の昔、インドにシャガクシャ、と言う男がいた。
男はとある村に生まれた。
彼には家族はいない。
彼以外の村人達は須らく戦争で殺され、生まれて間もない彼だけが産後間もない母親によって隠され、生き永らえた。
遠縁の親戚らに引き取られ、辛うじて働ける程度まで成長した彼はずっと働いていた。
彼の中には恨みしかなかった。
この苦しみだらけの世界に産み落とし、生き永らえさせた母親。
自分達が楽をするために、自分に仕事を任せ続ける親戚達。
この時代のインドにおけるカーストではクシャトリヤ(戦士階級)に当たるシャガクシャであったが、他のクシャトリヤとは会った事も無い故に助けられた事もない。
彼の中には憎悪だけがあった。
そして、自分の後見人であった親戚が死に、戦に狩り出された時から、彼の人生は大きく変わった。
戦って、戦って、戦った。
憎悪のままに、怒りのままに、殺意のままに何年も何度も戦った。
シャガクシャは強かった。
その戦いぶりにより、幾度も国を護り、領土を広げた。
彼一人が先頭に立つだけで敵兵は逃げ散り、抗戦を命じた将軍は殺された。
果てしない憎悪が、彼の身体を突き動かした。
死への恐怖も、敵への憐憫も、他者への悲しみも、何かへの愛もない。
それ故に彼は強かったのだ。
あるのはただ周囲への憎悪、そして憎悪を募らせる度に熱くなる背中だけ。
それだけが彼にとって生きると言う事だった。
それ故に、彼は誰かへの愛を、誰かへの憐憫を、誰かを失う恐怖を覚えた時、弱くなってしまった。
きっかけは些細な事だった。
彼はたまたま戦で敵軍に襲われた村に入り、敵兵を皆殺しにした。
その折に偶々二人の姉弟を助けたのだ。
二人はシャガクシャに命の恩を返すべく、何くれと奉仕した。
今まで彼を憎むか媚びる者ばかりだったシャガクシャにとって、恐れも媚び諂いもなく純粋に慕ってくる二人の存在は初めての事だった。
二人の中にはシャガクシャへの感謝があり、次に憐憫を抱き、そして愛を覚えた。
二人の存在にシャガクシャは次第に絆され、二人を守る様になった。
そして、二人を切っ掛けに村人や部下達とも交流を持つ様になり、彼の周囲には次第に笑顔が増えていった。
それを、彼の中から見ている者がいた。
また戦争が始まった。
しかも、戦闘が始まったのは村に程近い国境線であり、攻めてきたのは嘗て村を襲った国の軍だった。
シャガクシャは部下達を率いて戦った。
しかし、敵は以前の10倍以上の戦力を用意しており、次第に劣勢となっていた。
シャガクシャ達は何とか二人の姉弟と村人達を後方へと避難させながら、味方が戦力を集結させるまでの時間を稼ぐ事となった。
しかし、敵はその国だけではなかった。
嘗てシャガクシャが戦い、時に逆撃し、侵略し返した国々が同盟を組み、同時多発的に攻めてきたのだ。
そのせいで、援軍は絶望的だった。
否、軍事における国民的英雄であるシャガクシャを亡き者にしようと言う国内外の意思が垣間見えており、寧ろ後ろから刺される事を警戒しなければならない程だった。
ここまでくれば通常の指揮官なら降伏も考えるが…それは出来ない。
避難民の移動と言うのは時間がかかるのが常で、それも最低限の家財だけ、と言うのも心情的に無理だった。
よって、村人達は下手に時間があったが故に、家財の多くを抱え、えっちらおっちらと逃げていたのだ。
それは平時なら兎も角、国内の軍が手薄になった状況で、非常に危険なものだった。
逃がした村人達の無事を祈りつつ、シャガクシャ達は10倍もの戦力を相手にして善戦した。
否、最終的に敵の大将首を獲り、潰走させた事で実質的に勝利したと言っても過言ではなかった。
しかし、代償として兵士達は全員戦死、シャガクシャも深手を負った。
そして逃げ出した村人達と合流すべく、這う這うの体で何とか進んだ先で
村人達が襲われている所を見た。
護衛もなく、家財を抱え、女子供老人が多くいる避難民など、夜盗からすれば襲ってくれと言っている様なものだった。
そんな当たり前の事を思いつかなかった自分にすら憎悪を抱えながら、シャガクシャは傷だらけの身体でなお戦った。
しかし、元々死に体のシャガクシャでは、最早どうにもならなかった。
数人程殴り殺した所を捕えられ、辛うじて無事だった姉と弟の下へと引き摺られていく。
いや、よく見ればこの夜盗達はこの国の人間ではない。
嘗てシャガクシャが蹴散らした国の人間達だった。
となれば、姐と弟の末路は決まっている。
自分達の仇の前で惨たらしく殺すのだ。
勿論、存分に愉しんだ後に。
今から行う事を愉しそうに語る夜盗の、否、非正規部隊の長を前にして、シャガクシャは初めて自分自身を憎悪した。
この状況、この瞬間に、今まで暴虐の限りを尽くした自分が余りにも無力である事を憎悪した。
己自身の無能さに憎悪したのだ。
(頼む…誰か…)
痛みと疲労と出血で意識が遠のきかける中、それでもシャガクシャはまだ生きていた。
(オレはどうなっても構わない。だから…)
生きて、今までやった事が無い事をした。
(この二人を、助けてくれ…!)
自分は地獄に墜ちるだろう。
憎悪のままに猛り狂い、殺し過ぎた。
それは地獄に墜ちるに十分な罪科だ。
だが、この二人は違う。
この二人は善人であり、オレの様な悪鬼に手を差し伸べてくれた。
ただそれだけの善人なんだ。
この二人がこんな末路になるのは、間違っている!
誰でも良い、オレの声を聞いている者がいたら、応えてくれ!
それは、自分の命よりも大事な事ですか?
不意に、頭の中に声が響いた。
それが何かは分からない。
だが、シャガクシャはそれに是と答えた。
そう、なら貴方の肉を貰います。
そしてもう一つ、貴方は人間として生きられなくなります。
いっそ無垢とも思える女の声にも、シャガクシャは是と答えた。
何でもいい!
オレの全部をくれてやっても良い!
だから、二人を助けてくれ!
その願い、叶えましょう。
そして、シャガクシャの背中に熱が走った。
……………
それは幻想的な光景だった。
満身創痍のシャガクシャ、その広くも無数の傷だらけの背中から、唐突に黒い尾が5本突き出た。
直後、背中の肉が剥がれる痛々しい音と共に、ソレは現れた。
5本の尾を持った、黒い獣。
全長10mを優に超えたソレは、ギロリとその場にいる盗賊たち全員にその隻眼の赤い瞳を向けた。
まるで邪魔な虫を見るかの様な視線に、元は正規軍だった男達は皆一様に身体を恐怖で硬直させた。
その瞳から発せられる殺気に、祈る事すら忘れて、ただ己の前に現れた死の予感を想起した。
そして、間を置かずそれは現実となった。
縦横無尽に伸縮し、振るわれる尾は凶器となって荒れ狂い、男達をものの10秒程で一人残さず惨殺した。
ぎぃぃぃぃぃぃ…
獣の口が開き、その隙間から僅かな鳴き声が響く。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーーーッ!!
それは第三の獣、「悪」の理を持つビーストⅢが、不完全な状態とは言え、この世界に生まれ落ちた産声だった。
シャガクシャは、姉弟は、それを呆然と見ていた。
すると、獣はシャガクシャを見つめると、告げた。
それは確かに自分の内側から響いた、あの女の声だった。
この地を西に逃れれば、誰もいません。
貴方達に害成す者はいないでしょう。
そこで傷を癒しなさい。
それだけを告げて、黒い獣は彼方へと飛び去って行った。
……………
後に残った三人には獣の助言に従い、西へと逃れ、何とか傷を癒した。
その3年後、シャガクシャは姉の方と結婚し、子供も設けた。
弟は独り立ちし、近くの街へと移って就職した後に結婚、こちらも子供を設けた。
此処まではまぁ不幸だが探せば見つける程度の、不幸な男が幸せになったと言う話だ。
典型的な、万人受けしそうなハッピーエンド。
しかし、男は契約していたのだ。
第三の獣、この世全ての悪と。
故に、その幸せが崩れる事は必定だった。
気づいたのは何時だったか。
愛しい女と結婚し、子供が生まれた頃だったと思う。
ある日、水甕の水面に映った自分の顔を見た。
戦争していた頃と全く変わらない顔。
それは子供達が成人した頃も変わらなかった。
妻がゆっくりと老いていくのに対し、自分は変わらないまま。
そして妻が天に召された時、シャガクシャは漸く気づいたのだ。
自分がもう、人間ではないと言う事を。
あの獣が言っていたではないか、自分はもう人間として生きられない、と。
「行くんだね、シャガクシャ…。」
「あぁ…。」
そして今日、義弟が高齢により妻と同じ所に逝こうとしていた。
それを機に、自分もまた旅立つつもりだった。
「私も、姉さんも、貴方に会えて幸せだったよ…。」
「あぁ、オレも、お前達と出会えて、幸せだったよ…。」
年甲斐もなく涙が流れる。
だが、それも仕方ない。
憎しみだけで生きていた男にとって、二人が差し伸べてくれた手は確かに救いだったのだ。
「貴方を…置いていく事だけが…。」
「良いんだ。もうゆっくりして良いんだ、ラーマ。」
「あぁ……シャガクシャ……ねえさん……。」
こうして、義弟は妻と同じ所に旅立っていった。
そして、葬儀が終わったと同時に、シャガクシャはインドを旅立った。
目的はあの黒い獣に会う事。
会って、この不死を、この命を終わらせてもらう事。
徐々に人間の形から外れていくこの身体はもう人の前に出るべきではないし、愛する者のいない世界で永遠に彷徨うつもりもない。
「オレも、何時かお前達と同じ所に逝きたい。だから、もう暫く向こうで待っていてくれ。
嘗て英雄と呼ばれたシャガクシャの長い旅は、こうして始まりを告げた。
マシュ姉×うしおととら1
インド編終了
次回、中国編