私の名はスカサハ。
影の国の女王にして彼の世と此の世を別つ門の番人である・・・いや、であった。
それというのも、此度は魔術王の偉業により人類史は焼却され、我が影の国も灰と化したからだ。
まあ永遠とも思える永劫の中で生きることに飽いていた私だったので、英霊となることで人間性を取り戻し、久しぶりにセタンタと再会し、またカルデアに召喚されてからというものの様々な英傑との手合わせを行い、充実した生活を送っている。
さて長年叡智を積み上げてきた私であるが古今東西様々な英霊たちには驚かされる事も多い。
(アーサー王が女性だとか、宝具を投影するとか、そもそも弓矢を滅多に使わないアーチャーしかいないとか、黒ヒゲとか、Xとか、日本の主神がヒドイとか、大体葉山のサーヴァントが該当されるのだが・・・。)
だがその中でも、マスターであるところの葉山慎二は中々に興味深い存在である。
まずその在り様が異常である。
あの男は魔術師であり、極東の鬼という魔の血を引く混血である。
だがそんなこと気にならないレベルでの異常、「魂と世界のズレ」がある。
通常この世界に存在するモノは大なり小なり世界、究極的には根源に繋がっているのだが、それは死ぬ寸前であろうとも一定以上の繋がりが存在する。
だがマスターの場合、健常な状態でもほぼ繋がりがないように思えるのだ。
彼はその特性により良い意味でも悪い意味でもこの世界のルールに囚われにくいという性質を得ているようだ。
分かりやすい部分では混血ということを差し引いても、神秘の薄い現代の人間としては異常な身体能力であろう。
だが真に注目するべき場所、おそらくダ・ヴィンチを初めとするキャスターたちは気づいているだろうが、それは“治癒力”“成長力”と“特異な魔術基盤”である。
具体的には第五特異点での昏倒事件だ。
彼は聖杯を何故か内蔵しており、その魔力を汲みだし自身の魔術回路を経由してサーヴァント達に供給していた。
その結果、戦闘時に許容値を超える膨大な魔力を回路に流し続けたため回路自体が耐え切れず摩耗しマスターは昏倒した。
いやハッキリと言おう。
ソレは摩耗というよりも断裂に近く、決して“二、三日安静にしたかろといって治るようなものではない。”
むしろ魔術師としては再起不能と言った方が正しいだろう。
だが彼は治癒し、有ろうことか以前よりも強靭かつ質の向上した魔術回路を形成していたのだ。
また同様に筋断裂を起こしていた全身の筋肉や罅や骨折していた骨等も治癒し以前よりも質が向上していた。
マスターの治癒力自体は既知のモノならば「天性の肉体」をいうスキルで説明がつくのだが、その成長力というよりも一度負った損傷に対する適応力は既に一種の概念に類するモノなのかもしれない。
次に特異な魔術基盤である。
一般的に魔術基盤とは、世界に知られることで力を持った魔術系統によって「世界に刻み付けられた」大魔術式。既に世界に定められたルールであり、人々の信仰がカタチとなったもの。人の意思、集合無意識、信仰心によって「世界に刻み付けられる」ものの総称である。
詳しくは省くが、つまり広く大勢の人間に知られていればいるほど、魔術基盤は強固なものになるということで、一種の知名度補正とも言えることである。
私が使うルーン、西欧のカバラや黒魔術、極東の陰陽道、密教、道教などがその最たる例であり、キリスト教の教えなどは現在世界で最も普及しており魔術基盤と言えるだろう。
因みにもしもの話であるが、先日マスターに行っていたドラゴンクエストなるゲームが世界中で伝説として語り継がれていたならば、ドラクエ魔法という魔術基盤、ひいては“勇者”や“魔王”という英霊すら存在していたことだろう。
・・・話が脱線した。
通常は土地や文化圏に応じて基盤の規格が異なるため、ルーンの魔術基盤に適していたならば道教は使えない、もしくは威力が落ちるなどの変化があるものなのだが、マスターには一切そのような兆候は見られない。
私はその余りにも不可思議な状態に興味を覚え、マスター本人に魔術の行使について問うてみた。
「あ、実家は知らないけど俺無神論者だから!でも強いて言うなら八百万信仰?神道じゃないよ?きっと何でもコミコミの八百万信仰だから俺の脳内で勝手に世界中の魔術基盤も含まれてるんじゃない?」
という頭の悪い解答を返された。
もちろん腹立たしかったのでフェルグスを嗾けた。
だが、まあ話半分で聞くにしろ、まるで全ての基盤に対応する規格を持っているかのような、もしくは全ての基盤を統括するより上位の基盤にアクセスしているかのようであるのは確かである。
しばらくは退屈しなくて済みそうだ。
先日、マスターである葉山慎二が暴行を受け肉体的にも重症、精神的には強烈な心的外傷を抱えて再起不能となってしまった。
それにより今更ながらカルデアでは私達サーヴァントの危険性も含めて、我らへの処遇について話し合われた。
カルデアでは深刻な空気が満ちていたが、正直なところ私はあまりマスターについて心配していなかった。
まあ何の前触れもなく深夜に土下座してくるとは思わなかったがな!!
だがマスター、いや葉山は自分から
「茨木童子にリベンジしたいので勝てるよう鍛えてください!!」
と言ってきたのだ。
私は内心スグにでも鍛え上げたかったが、自制心を働かせ葉山に問うた。
「それは殺されかけた、恥をかかされたことへの復讐心からくるものか?」
実際はもっと色々聞いた気がするが、纏めると私はこのようなことを聞いた気がする。
すると葉山は
「?当り前じゃないですか?」
あっさり答えられた。
「人理を救うためなどの理由はないのか?」
非道い目にあってその復讐のために力を求める。
駄目ではないが妙にあっさり答えられ過ぎて私は意地悪にもそういった耳障りの言い理由はないのか問うてみた。
「人理?正直どうでも良いです。俺は単に人生健やかに、幸せに生きたいだけです。
その為に人理修復が必要だから戦うだけで、極端な話エジソンのように俺自身が幸せならば他の者を犠牲にすることすら・・・躊躇いはしても行うでしょうね。」
「もちろん俺自身が第一優先ですが、俺に着いてきてくれるサーヴァントやカルデアの連中とは、なんというか親しくなりすぎました・・・。以前ならまだしも、今の俺は彼らも満足しないと俺は心底幸せになることはないでしょう。」
「だからみんなが諦めないのならば、例え俺だけが助かるとしても人理修復を諦めません。」
「但し茨木童子テメーは駄目だ。全力でボコボコにリベンジして(物理的にも、性的に)屈服させてヤル。」
予想以上に俗というか私欲に塗れた答えが返ってきた。
だが良い。
お綺麗な大義を持ち出されるよりも、己の利益を第一とし、報復を望むのも親しい物を大切にするのも人として当然の感情である。
一部ゲス発言があったきもするが先にヤラれたことを、本人が努力して真正面からヤリ返すのだ。
現代ではどうか知らないし、おそらく円卓などではギルティだろうがケルト的にはセーフであるので問題ない。きっとギリシャ的にもセーフというかギリシャの方がギルティなので問題ないだろう。
「は、ははっはははは!!」
全く世界を救おうとする者の言葉ではない、エゴに塗れた動機であるが私個人としては好ましかった。
つい爆笑してしまい、葉山はポカンとさせてしまった。
「良かろう。己が欲望に忠実なお前の願いは気に入った。鍛えよう!」
「!・・・ありがとうございます!!」
先日も思ったことだが、葉山の特異性として挙げられる“治癒力”と“適応力”。
それはつまり理論上は適正な治療を施し、滋養のある食事を摂らせれば扱けば扱く程に再生した時にはより良質に変化するということ。
しかも本人から土下座までされて懇願されたのだ。
私も“全力”で臨まなければ礼を失するだろう。
なあに才覚如何については分からぬが、死ななければ成長するなど何と楽な育成だろうか。
よし!競える相手がいる方が葉山も修行に身が入ることだろうからセタンタの奴も連れて行こう。
「楽しくなりそうだ。」
ピコン!
葉山とクーフーリンにフラグ(死亡)が立ちました。