鬱蒼と生い茂った木々。そこにできた道を、二人の人間がひたすらに進んでいる。言うまでもなく、スバルとゆんゆんである。
「くっそ……あの黒猫やたら速いじゃねえか……」
ちょむすけを追いかけて森に入ったはいいのだが、ちょむすけは予想外の速さで走っていく。猫の瞬発力は人間を凌駕するが持久力はないと、スバルは記憶していたが、ちょむすけには当てはまらないのだろうか。
さらに、スバルたちが歩く道はきれいに舗装されたものではない。冒険者たちが長年踏み固めたというだけの、大雑把な道だ。獣道よりはマシだろうが、足元には湿り気を感じるし、枝や石、尖った金属片なども落ちている。街の道とは比べ物にならない。
この手の道を歩き慣れていないスバルたちと、不思議とスイスイ進むちょむすけ。条件が違いすぎるのであった。
「そ、そうだ、これを!」
その時、ゆんゆんが黒いローブの懐に手を入れ、小さな袋を取り出した。その袋に再び手を突っ込んで、中身を乱暴に取り出す。
それは赤く、小さな長方形に切った食べ物だ。というかスバルもよく見覚えがある。
これはシャケの切り身だ。間違いない。
「ちょむすけ、これをお食べ!」
当たり前のように出てきたシャケ。まさかライバルの飼い猫にやるためにわざわざ用意していたのだろうか。
ゆんゆんが投げたそれにちょむすけは素早く反応し、落ちた地点へと駆け寄っていく。ゆんゆんに食事をもらうのは初めてではないらしく、毒などを警戒する様子もなくそのまま食事を開始した。
あとは簡単だ。
ちょむすけが切り身を食べている隙に、スバルとゆんゆんは両側から挟み撃ちの形を作り。
目の前のスバルにちょむすけが気づき、警戒し始めた頃に、ゆんゆんが後ろからちょむすけを抱きしめる。
「確保ー。ナイスだゆんゆん」
スバルはほっと肩の力を抜き、ゆんゆんも大きな胸をなでおろす。
「しかし、ここまでモンスターに出くわさなくてよかったな。森は凶悪なモンスターが多いっていうから、コイツ追っかけてるうちに出会うとやばいと思ってたけど」
「そうですね。ナツキさんは守れても、遠くにいたこの子までフォローできたかは怪しいですから……」
「なんか微妙に非戦闘員扱いされてんな!? 弱い俺でも足止めくらいなら頑張るよ!?」
小声で話しながら、スバルはゆんゆんからちょむすけを受け取り、今度は逃さないようにしっかりと抱きしめる。頑張るといった直後でなんだが、戦闘力という点から見てスバルよりゆんゆんの方が圧倒的に強い。ならば、今手をフリーにしておくべきなのはゆんゆん。そういう判断だ。
ぎゅっと抱きしめ、少し頬ずり。黒い毛玉は、人の肌に心地の良い気持ちを与えてくる。
そうやって漆黒の毛の感触を楽しんでいると、ちょむすけが妙に暴れ始めた。手の中から逃がすつもりはないが――。
「ただ頬ずりを嫌がってるだけって感じじゃないな。なんかあるのか? 実はギルドで言われてた悪魔がこの近くにいるとかやめてくれよ?」
「ナツキさん、あれ――――」
ゆんゆんが指差したその先に視線を移すと、大きな石像のようなものがあった。
硬い鱗に覆われた肌は緑がかった黒。その手には何者をも引き裂く鋭い爪が光っている。背中にはこぶのように膨らんだ箇所が一つ、さらには折りたたんだ翼のようなものも確認できた。
頭部には鋭い二本の角があり、その角はどこか光っているように見える。そこから続く鼻下の閉じた口からは、どんな剣よりも鋭い牙が垣間見えた。
いわゆるドラゴンを模倣して作ったのであろうか。
これが展示されていたなら、『眠れる竜』とかいうシンプルなタイトルが似合いそうである。
スバルならば『
「っていうか実は本当に眠ってるドラゴンで、すぐ目を覚ましてファイヤーブレスで即死なんてオチはないだろうな……さすがに焼死なんては経験ないぞ」
「あったら困りますよそんな経験」
ゆんゆんがごくごく常識的なツッコミを入れる。
呆れたような光を宿すその紅い瞳に、「まあ死ぬ時は大体失血死とかだよな」とは言えない。
ちなみにスバルの経験は衰弱死、投身自殺、凍死、喉を突いて自決など。実にバリエーション豊かである。
スバルはゆんゆんとともに、ドラゴン的なものに歩み寄った。
「やっぱりただの像ですね。まあ、こんなサイズのドラゴンが生息してるなら、ギルドから注意が来ないわけないですし」
確かに、眠っているような姿勢のためわからないが、これが活動状態ならばスバルの何倍もの高さがありそうで、大いに目立つだろう。
悪魔型モンスターが出たのはごく最近。それまでは多くの冒険者が森で狩りをしていたのだ。
誰も入らないようなほどの森の奥ならともかく、
「それに、明らかに生物の肌じゃありません。どう見ても石かなにかですよ、これ」
ゆんゆんにつられて軽く撫でると、スバルの手はゴツゴツした感触を得た。
スバルの拘束が片手になった時を狙い、ちょむすけも手を伸ばす。拘束から逃れようとするのかと思いきや、そうでもないらしい。
何故か彫像に向かって必死に猫パンチを浴びせようとしているが、まるで届いていないところが愛らしく思える。
「でも、こんな石像だの彫像だのがあったら、それはそれで言われそうなものだけどなあ……」
「そもそも森に入るな、という話でしたから。こんな像の存在を説明する必要もない……と考えられたのかもしれませんね。まあ、帰ったら一応報告しておきましょうか」
「そうだな。……しかし、よくできてるなあ」
思わず眼前の像をじっくりと眺めるスバル。今にも動き出しそうという表現がピッタリ似合うリアルさだ。
ゆんゆんもそれに何も言わず、像に猫パンチを仕掛けているちょむすけを可愛がっている。
と、その時。
後方でがさりという音がした。
すぐにゆんゆんは片手で杖を構え、残った片手で短刀を抜きつつ身体を反転させる。
同様に、スバルもちょむすけを背にかばいつつ身構えた。
そうして物音がした茂みに注視していると、まるで隠す素振りもなく、相手が姿を表した。
「か、可愛いっ……!!」
森の緑に現れたのは、毛糸玉のような、白。
ピンと立てられた二つの耳は長く、その白く柔らかな毛並みは全身を覆っている。その毛並みと血の色をした二つの目は愛らしい。小首を傾げて鳴き声を上げるその姿は、スバルの世界で知られているウサギに近い。
おそらく重さにして数キロほどしかなさそうなその体躯。その体にはまるで似つかわしくない、鋭く長い角が額から生えている。その一点が、スバルの知る大きく違う点と言えるだろう。
これは森の奥に生息している種のはずだ。
ゆんゆんはウサギを見て、すぐに目を輝かせ、短刀も杖も降ろしてしまう。
どうやらこのウサギの愛らしさに、一瞬で魅了されてしまったらしい。
ふらふら、よちよちと歩くウサギにゆんゆんは駆け寄――――
「てりゃあああああああああああああっ!」
る前にスバルが躊躇なくそのウサギの顔に拳ほどの石を投げつけた!
全力で投げたためか、当たりどころが良かったのか、ウサギが一撃で昏倒する。
「きゃああああああああああああああああああっ! なんてことするんですかナツキさん! こんなに可愛いのに!」
「ばっかお前、ウサギって言ったら可愛い顔した畜生に決まってんだろ!」
言いながらスバルは、石をぶつけられてピクピクしているウサギの頭を、ショートソードで刺し殺す。
スバルにとってもっとも印象深いウサギといえば『大兎』だ。
あらゆるものを喰らい尽くす無限の飢餓と、全てを同時に消さなければならないという無限の分裂能力を持った、倒すことの叶わぬ災厄の象徴。
スバルの頭の中では、かつて自らの身を喰い尽くした、三大魔獣の姿がフラッシュバックしていた。
「た、たしかに角があるし、モンスターかもしれませんけど……でもやっぱり何かの間違いですよ! ああ、あんなに可愛いウサギちゃんが……」
「俺はこれよりもっともっと小さいウサギが、人の目も耳も手も内臓も喰らい尽くした例を知ってんだよ! トラウマなんてもんじゃねえぞ!」
その声に応えるように、ウサギが現れた茂みから、複数のウサギが姿を見せる。口元や毛並みには獣のものかそれとも人か、赤い返り血がところどころについている。
茂みの奥をよく見ると、血まみれでところどころの肉が欠けた、大型のオオカミらしき死体が見えた。
「ひ………ひいっ!?」
出てきたウサギは二体、四体、六体……十はゆうに超えている。
最初の個体のよちよち歩きはどこへ行ったのか、素早い動きで次々と現れたウサギは、その肉体をしならせ。
「ら、『ライトニング』ーっ!」
反撃と同時に、スバルたちは闇雲に逃げ出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――『
仔犬ほどの大きさで、肉食。
群れで活動することが多く、大型の狼などを集団で突き殺し、食糧とする。
また、愛くるしい外見に加え、意図的に弱々しい仕草をすることで、人間の庇護欲を刺激し油断させるなど、狡猾。
高レベルの冒険者でも、事前知識を持たなかったために、不意打ちで殺された例もある。
その戦闘力、悪辣さともに、初心者冒険者は要注意とされるモンスターである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!」
「『ライトニング』! 『ライトニング』! 『ライトニング』ッ!」
全力で両足を前に進め、少しでもウサギの少ない方向から突破していくスバル。
同道するゆんゆんは、まともに詠唱する余裕すらなく、振り向きざまに魔法を連発している。
発現した雷は木々の隙間を通り、あるいは木そのものをなぎ倒して、ウサギたちへと襲いかかる。
もはや無我夢中だ。本来魔法の制御のために必要な詠唱をしないため、やや暴発気味ではある。
外見からは想像もつかない速度で追跡してくるウサギたちに対し、術者自身も全力で走りながら照準を合わせるのは至難の業であろう。
しかし彼女の天性の才能か、それとも研鑽の賜物か。何体ものウサギを潰すことはできていた。
歩き慣れていない、舗装されてもいない道をこれだけ走っても転んでいないのは、命の危機を感じるが故であろうか。
だがそれでもいずれは数に負け、追いつかれる時が来てしまう。
「ゆんゆん! カエルに使ってた炎の魔法頼む!」
「ええ!? 森が焼けかねませんよ!? 下手したらものすごいことになるんじゃ!」
「いいから頼む! 一帯が燃えたって俺のせいにしていいから!」
牽制代わりに拾った石をウサギに投げつけながら、躊躇するゆんゆんに叫んだ。
「お前が死ぬのは自分が死ぬよりずっと嫌なんだよ!」
「っ――――――――!」
その言葉を聞いたゆんゆんは詠唱を開始。飛びかかってきたウサギに、瞬間的に短剣を合わせながら――!
「『ファイアーボール』ッ!」
ウサギの群れの真っ只中に打ち込んだ火球は、そのまま爆散し多数のウサギを巻き込んだ。
そのまま炎は木々を燃やし、草にも燃え移っていく。
ゆんゆんが短剣で応戦したウサギも、突然の爆音を恐れたのか、走り去ってしまった。
あたりが炎で明るくなった。光が届く範囲には、ウサギの死体が大量に見える。
どれだけいるかわからないので、全てのウサギは望み薄だろう。だが、少なくとも第一陣は倒した、あるいは追い払ったのかもしれない。
今のうちにこれならなんとか逃げ切れるかと思考したとき、ふと気づく。
逃げるのにあまりにも夢中で気づかなかったが、炎であたりが明るくなったということは、それまでは暗かったということだ。
空から差す光が、明らかに薄くなっていたということだ。
いや、薄いなどというものではない。
炎の明かりが届かない空間は闇に満ち、何があるのかもわからない。
何故ここにいるのか。一撃ウサギに追われたためだ。
少しでも一撃ウサギが少ない方を、スバルたちは無我夢中で逃げた。
それはつまり、スバルたちが誘導されていたという可能性も考えられるわけで。
そして。
目の前の闇に、黒の魔獣が身を溶かしていることに気がついた。
それを見てスバルが最初に思い出した獣は、豹。
ただし通常の豹と違い、その上顎からは、細長くも鋭い犬歯がこれ見よがしに飛び出している。
スバルが記憶の隅から引きずり出した名は、冒険者たちが話していた怪物『初心者殺し』。
強さ、狡猾さ、悪辣さ、危険性。全てにおいて駆け出し冒険者の天敵となる、黒い獣であると。
想像以上のその巨体から、スバルは連想する。
全身から感じ取るような死の体現を。かつて見た、4メートルに届こうかという体躯の猛虎を。亜人の血を引いた男が全身獣化した虎を。奴が引き起こした、虐殺の光景を。
スバルを助けようとした人達の、死の光景を。
スバルを助けようとした友達の、死の光景を。
「――――あぁっ! ゆんゆんっ!」
放心したのは一瞬。未だウサギの群れを警戒する彼女に声を上げつつ、咄嗟に片手のショートソードで黒の獣に襲いかかった。
めちゃくちゃな体勢からの強引な攻撃。
初心者殺しがかの猛虎と同じような規格外の化物であれば、ゆんゆんとて無事ではいられはしまい。爪のひと薙ぎ、牙のひと噛みでその身は引き裂かれるだろう。
少しでも傷を与えられれば、というスバルの攻撃だったが、初心者殺しは身をひねることでそれをたやすくかわし、続いて初心者殺しは右の前足を横に払うように薙いだ。
スバルが打ち込んだ刀身に強い衝撃。横からのそれは、スバルの握力などものともせず、その手から一瞬で武器を弾き飛ばした。
空手になったスバルを見て、初心者殺しの口角が嬉しそうに歪んだのを見て、スバルは理解する。
こいつに敵意はない。
ガーフィールと違い、純粋な獣であるこいつには、スバルを敵だと認識していない。
気がつけばちょむすけが左腕の中から消えている。見れば遠く、初心者殺しから遠い方向へと駆け出している。足手まといを恐れたのか。
同時にゆんゆんがこちらを見ているのが目の端に映ったが、彼女がスバルを助けるべく足を向けた瞬間、火のない方向から回り込んだ一撃ウサギが彼女を襲う。
予備戦力を温存していたのか。その数は決して多くはないが、スバルへの救援の手を許すことはない。ゆんゆんが蹴散らすよりも、この獣がスバルに致命傷を与えるほうが先だ。とても間に合いそうもなかった。
これは連携か。それともどちらかが一方的に利用しているのか。
いずれにせよ最悪の形に追い込まれた、そう気づいたときにはもう遅い。
非常に狡猾なこの獣は。スバルを確実に殺し得ると確信したからこそ。スバルが敵となりえない獲物だと確信したからこそ現れたのだ。
「――――――――――――――――ッ!」
初心者殺しがその身を、四肢を折りたたむように小さくするのが見えた。
次の瞬間、猛烈な勢いで突進、その牙が狙うのはスバルの喉元だ。
視界の中、目の前の動きが緩慢となり、同時にスバルの脳が高速で再生をはじめた。
この感覚は記憶にある。何度も死を体験してきたスバルには経験がある。
走馬灯。
『死』を目前にして、スバルの脳はわずかな時間で過去の記憶を全て再生し、助かるための方法を、生き延びるための答えを探し始めたのだ。
十を超え二十に迫る自らの『死』の記憶。続いて、何度も体験した臨死体験の記憶。その中で最も近い状況――先程連想した、猛虎に襲われた時の記憶が再生される。
あの時何故生き延びられたのか。
忠竜パトラッシュがその身を犠牲にして逃してくれたからだ。大虎の上顎と下顎に挟まれたパトラッシュが身体を真っ二つにされ、絶命された瞬間が再生される。
パトラッシュが間に合ったのは何故か。勇敢で心優しい、スバルが顔も名前も知っている村人達が身を挺して時間を稼いでくれたからだ。
青年たちは短剣で、石礫で、枝で、抵抗にならないような無力さで虎に挑みかかり。そして猛獣の前足が振るわれる度に、ある者は人体がひしゃげ、ある者は臓腑が撒き散らされ、ある者は首が吹き飛ばされ、次々と肉塊に変えられていったのだ。
彼らの死の前。確かに何かがあったはずだ。弱く脆く知恵もないナツキ・スバルに何かが。
桃色の少女の死を理解し。凶獣に怒りに任せて叫びを上げ。恐怖を跳ね除けて罵倒してみせた後。
記憶の中の金色の獣は、スバル目掛けて突っ込んできた。
目の前の黒色の魔獣は、スバル目掛けて突っ込んできた。
息がかかるような距離に『死』がありながら、未だ再生が止まらない。
――あの時はどうして村人達が来るまで生き延びられたのか。
初心者殺しの牙。スバルの使っていたショートソードよりも、よほど恐るべき凶器に見えるそれが、スバルの首へと襲いかかる。
とっさに左腕を、魔獣の牙と首の間に割り込ませた。
長大な牙は勢いに任せてスバルの左腕を貫通。鋭い牙が腕の筋肉が断裂するのを直感的に理解する。その理解から遅れ、激痛が神経を走って脳を揺さぶってきた。
絶叫。
飛び散る血肉。
鮮血はそのまま右目を直撃。
視界の片方が物理的に紅く染まる。左腕に力を込めて筋肉を締めようとするも、思うように動かない。
それも当然だ。奴の牙はすでに左手の半ばを食い千切りつつある。
何度も味わってきた『死』の実感。
それでもスバルの脳は生存への道を模索し続け。
――――記憶の中の猛虎が、理解できないままに半回転しながら吹き飛ばされたのが見えた。
――――記憶の中のスバルは、己の内側でおぞましき何かを掴んだことを実感した。
あの時スバルが実感したそれは、今の肉体にも存在する。
あの時の感覚を、今のスバルは思い出す。
ずるり、と。
確かに「何か」を引きずり出す感覚を得た。
スバルの中の何かを、そのまま強引に現実へと引きずり出す。
スバルではない何かが、殻を破るように姿を表す。
否。表れるという言い方は正確ではない。
――――なぜならそれは、スバル以外には認識すらできていないのだ。
スバルの左腕に未だ噛み付く初心者殺し、その口腔に右手を突っ込み、強引に隙間を広げる。
初心者殺しはスバルのその行動を脅威だと思ってはいない。
当然だ。一撃ウサギに長々と追い回され続け、一度も反撃に加わらなかったスバルだ。魔法など使えはしない。
左腕を食いつぶされ、この体勢では両足もろくに使えはしない。右腕で顎を開いたところで、スバルにはそれ以上加えられる攻撃があるように思えるはずもない。
初心者殺しの目には、スバルの行動は、取れる手を失い死を前にした獲物の、無駄なあがきにしか映らないだろう。
だが、意味はある。
自分にはまだ『手』が残っている。
その口腔に向けるのは、黒く、暗く、おぞましい、外法の力だ。
スバルの中に潜む、エキドナが『馴染ませ』た魔女因子。
扱い方は、何故か理解できている。
かつてスバルが誰よりも憎んだ男の力。
かつてスバルの愛しき人を殺した力。
世界に生まれ出て、空間を歪ませ、一切の光を受け付けず。己が意志のままに手を伸ばし、世界に干渉する力。
「来い――――――――見えざる手えええええぇっ!」
スバルの紅い視線が、狙いを定める。
スバルの肉体が、多大な熱を帯びる。
スバルの魂が、絶対的な何かを捧げる。
引き絞った『それ』を。どす黒くうずまく『それ』を。
スバルはただ本能のままに、開かれた魔獣の口腔へと向けて、解き放った。
「――――――――――――!」
黒き獣は声にならない絶叫をあげる。
当然だ。
初心者殺しがどんな生態であれ、まさか血肉を取り込むための体内に、強固な鎧を持っているということはあるまい。それはスバル自身の目でも確認してある。
口腔から見えた喉。その奥、気管、食道、肺、心臓があるであろう位置。
スバルの解き放った『見えざる手』は、遠慮も呵責もなく、ただただその全てを、全力で潰しにかかった。
かつてガーフィール――4メートルもの猛虎を吹き飛ばしたほどの力だ。それを、無防備な体内へと叩き込まれた結果は想像に難くない。
喉を引きちぎり食道を蹂躙し気管を陵辱し心臓を捻り潰す。
おびただしい量の血が、照準をを定めるために口腔へ向けていたスバルの瞳に映る。
やがて、初心者殺しの全身から力が抜け、そのまま動かなくなった。
牙から強引に左腕を引き抜き、初心者殺しの肉体を乱暴に捨てる。大きな二つの穴が空いた腕は、何故つながっているのか理解できないような惨状になっていた。
どれだけ血が流れ出てしまったのか。紅い視界の中ではよくわからない。
熱いこれは自分の血なのか。初心者殺しの血なのか。
ゆんゆんは。彼女は無事なのか。かろうじて顔を横に向けると、数を減らした一撃ウサギは初心者殺しの死を直視し、警戒するようにスバルから、ゆんゆんから遠ざかりつつある。
形勢悪しと判断してくれているのか。
これならば、ゆんゆんが数発魔法を放てば、そのまま散り散りに逃げていくのではないか。そう思えた。
スバルが初心者殺しを殺し得たのは、『見えざる手』の持つ、不可視という初見殺しの性能あってのことにすぎない。
ましてや、そのためにスバルは武器と左腕を犠牲にしている。今一撃ウサギに襲いかかられればそれこそ『手』も足も出ないだろう。
さらに、肉体だけではなく、頭の回転も急激に鈍くなっている。これは先程の『手』を使った代償か。
ただの疲労ではなく、魂そのものを削り取ったような脱力感。
だが、それだけの価値はあったと信じたい。
ゆんゆんが詠唱しているのが見える。このまま残った敵が去っていけば、後は血にまみれた肉体を引きずって、アクセルの街へと帰るだけだ。
この世界の治癒魔法は取れかけた腕を治せるほどの性能なのだろうか。初心者殺しを殺した報酬で治療費が払えれば良いのだが。
そんな疑問を抱くスバルの前で、ゆんゆんは詠唱を終え――――
「――――――――ウォルバク様ああああああああああああぁっ!」
そこに突如姿を表したのは、黒。
闇に溶ける初心者殺しの黒とはまた違っていた。
その肉体の漆黒は、どこか金属のような光沢を放ち、それでいて存在があるだけで、そこに闇を感じさせる不思議な色。
そんな艶やかな黒の肌の背中からは、コウモリを連想させる二本の羽。伸縮性を持った膜でできたそれに似た羽は、それだけで成年男子の肉体を軽々超える巨大なサイズを誇っている。
漆黒の体躯は成年男子はおろか、巨漢であっても軽々捻り潰すであろうことを確信させる。
咆哮を上げた口元には、初心者殺しほどの長さこそないものの、生えそろった牙が禍々しさを象徴。さらに、どういうわけか口の両端から横に太く尖った突起が飛び出している。まさかあれも牙だというのか。
その頭にも緩くカーブを描いた角が二本伸びている。
瞳は怒りに燃え、初心者殺しを殺したスバルを一心不乱に見据えていた。
――――悪魔だ。
その外見から、スバルは直感する。
現代日本にいた頃は、マンガやライトノベル、あるいはゲームのダンジョンなどで目にするような、典型的な悪魔を連想させる外見。
一つ前の世界では、悪魔のような人間こそ会えど、悪魔自体をお目にかかったことのないスバルにとって、これが初対面となる存在だ。
まして、冒険者ギルドでは何度も注意されていた。森では悪魔型モンスターの目撃情報がある、と。高い知恵を持った上位悪魔の可能性も高い、とも。
「てめえら、ウォルバク様に何やってんだゴルァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
上位悪魔はそう叫びながら猛然とスバルの元へ突進し、即座に距離を詰め、そのまま拳を振るう。
ウォルバク様、と言っていた。
ウォルバクとはなんだ。この獣の名なのか。
いやそんなことより、とにかくこの腕をかわさなければ――。
思考は漫然と上位悪魔の言葉を咀嚼し、肉体は脳の命令を拒絶するように動かない。
全身を痛みと脱力感が支配。
削られた魂は悲鳴を上げ、肉体との接続がうまくいっていないようだ。
今のスバルには、その悪魔の腕を見送ることしか――。
「――――『ブレード・オブ・ウインド』!」
ローブを羽織ったゆんゆんが間に割り込んで、風の魔法を解き放つ。
しかし、そんな魔法で悪魔の拳は止まらない。
彼女はアークウィザード。肉体的に優れていると言えないその身体は、上位悪魔の一撃で放物線を描いて吹き飛んだ。
地面に仰向けに叩きつけられた彼女は、そのまま起き上がってこない。
続いて、上位悪魔の拳は再びスバルに襲いかかる。
スバルに対抗しうる手段はない。『見えざる手』を呼び起こそうとするも、消耗した魂はそれを拒絶している。
上位悪魔の瞳を見て、どこかで同じものを知っている、と感じる。
そのままその漆黒の拳を受け、全身に衝撃が走る。
動かない身体を持て余しながら、気づいた。
ああ、そうか。
大切な人を殺された時の自分と、同じ瞳をしているのだ。
自分の身体が崩れ落ちるのを、他人事のように感じていた。
今の衝撃で完全に千切れたのか、左腕はどこかに行ってしまった。腹部には大きな穴が空いた。
いや、そう感じるほどの痛みなだけだろうか。
その悪魔はそのまま、すでに死んでいる初心者殺しを連れて、どこか遠くへと飛び去ってしまった。
どこを目指しているのか。ただ離れようとしているだけなのか。
麻痺しつつあるスバルには、もうわからない。
ただ、せめてゆんゆんだけでも生かさなければ、と思い。
倒れながらも、未だ胸を上下させるゆんゆんの身体に、目を向けた。
倒れ伏して、白い毛玉が群がり始めたゆんゆんの身体に、目を向けてしまった。
「や――め、」
牙。
彼女のよく紅潮する頬が、えぐり取られるのが見えた。
彼女の形の良い耳が、噛みちぎられるのが見えた。
彼女の血色の良い唇が、咀嚼されるのが見えた。
彼女の友達がほしいと言った喉に、大きな穴が開くのが見えた。
彼女の上下していた胸が、平坦になるほど抉られたのが見えた。
たった二日間。
たった二日間の付き合いしかない彼女が。
たった二日間の付き合いしかないのに、最後まで自分を守ってくれた彼女が。
たった二日間の間に、良い仲間になれそうだと思っていた少女が。
強いのにおどおどして、優しいのに遠巻きにされていて、よく表情が変わり、些細な事でよく笑った少女が。
寂しがり屋の少女が。
今、スバルを助けようとした少女が。
目の前で喰い殺されるのを、見てしまった。
「あ――――あああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁあああああああああああああっ!」
思考が吹き乱れる。
今の今まで彼女だった物体に手を伸ばすこともできない。
こんな時に動かない肉体が、自分の弱さが、あまりに呪わしい。
スバルの狂乱する声に反応したのか、一羽のウサギが何かを持ち上げるように、姿勢を前のめりから戻した。
ぽとり、と。
血よりもなお紅い眼球が、地面に落ちたのが、見えた。
目と『目』が合った。
きゅうきゅう、きゅうきゅうと。
スバルの周囲にも鳴き声が集まってきていた。
生憎と、喰い殺されるのは初めてではない。あの時は、痛みで気絶すらできなかった。
「お――こりゃウ―――ク様じゃ――じゃねえか。クソ、――的に済ませるつも――ったってのに――」
空から黒いものが降りてきた。
何かが聞こえる気もするが、もうわからない。
何が見えていても、何が聞こえていても。スバルの脳は理解を拒否してしまっている。
仮に今すぐこのウサギたちが去ったとしても、もう何も変わらない。
初心者殺しにずたずたにされた左腕は、もう出血も止まりそうにない。ここから立ち上がり街に帰るほどの力も残っていない。
何より。
スバルは、ゆんゆんを惨たらしく死なせた世界を続けるつもりがない。
ゆんゆんを死なせた自分を許すつもりはない。
脳が熱い。
やがて起こる牙の感触。視覚も聴覚も理解を拒否しているのに、痛覚だけはダイレクトで脳に刻まれる。
絶叫。同時に開いた口腔へと牙が突き立てられる。
先程スバルが黒の獣にしたこと。かつてスバルが別の魔獣にされたこと。内部から肉体を破壊され、粉砕されていく。
舌が食われる。喉が蹂躙される。筋肉は内部から食い破られ、ウサギが皮膚を突き破って顔を出した。空いた穴から別のウサギが入り、また別の場所を食い破って顔を出す。
繰り返す。
繰り返す。
何度も繰り返し、スバルを穴だらけに変えていく。
スバルが絶命したのはいつだったのか。
スバルが死ねたのはいつだったのか。
ただ、ここで終わることは確かだった。
ここで、終わる。
――――――――そして、始まる。
ナツキ・スバルの、この世界でのループが、幕を開ける。