「あのドラゴンそのものが、神器…………?」
「そう。あれは悪魔を殺すためだけに力を与えられた、ひどく特異的な存在なんだ」
クリスは、どこか憂いを帯びた顔で、かのエンシェントドラゴンについて語り始める。
「強大な魔力から放たれる魔法は、敵を正面から打ち倒す。その肉体は、触れただけで悪魔やモンスターを殺していく」
まるで身内の不始末を嘆くような表情のまま、ただ悲しげな彼女の言葉を、スバルは聞いていた。
「真骨頂は後者の力。駆除の際、相手の生命力や魔力を、その肉体ごと体内に取り込んでいくんだ」
「相手の力を、身体を…………体内に?」
その言葉に、スバルはある光景を思い出す。それはこの周回で最初に見た光景だ。
「なんだか覚えがありそうだね?」
「ああ…………ある彫像に一撃ウサギが衝突して、崩れるように死んでいったのを見たことがあるんだ」
あの時一撃ウサギは、角の先から徐々に、竜の彫像に取り込まれていくように死んでいった。
「彫像……その像ってどんな感じ? 触ってみたりした?」
「えーっと……あのエンシェントドラゴンをいくらか小さくしたような感じだったよ。ちょっと触った感じだと、ゴツゴツした石かなんかみたいだった」
あの彫像に触れ、観察したのは『死に戻り』直後。つまりスバルにとってもそれほど前のことではない。
思い出しながら話していると、硬い表情をしたクリスは、そっとスバルの手を取った。
そのまま、手をじっと観察するように顔を近づけると、何を思ったかスンスンと臭いを嗅ぎ始める。
「えっと……あの……?」
話の流れに合わないクリスの行動。それは、魔女の残り香によって起きた疑いを想起させ、スバルの心は必然的に警戒を帯びる。
――――殺されるのはいい。だが、それは全てを聞かせてもらってからでなければならない。
「そっか……うん、そうなんだ…………」
そんなスバルの考えを知ってか知らずか、銀髪の盗賊は、クリスは、まるで何かを納得したように小さく頷いた。
その瞳には敵意もなければ疑念もなく、何の悪意もありはしない。
むしろ慈悲か憐憫の情に近いものすら感じられる。
それが何なのか、スバルが答えを得る前に、クリスは話を再開した。
「一定の傷を負ったエンシェントドラゴンは、時が来るまで休眠して、目覚めてからは自己を再生させる……って聞いたことがあるよ。きっとキミは、起きた直後に出くわしたんだね。目覚めた直後のエンシェントドラゴンが、力を取り戻すためにモンスターを取り込んでいたんでしょ」
「取り戻すため……ってことは、あのドラゴンは、モンスターのエネルギーをそのまま吸収してパワーアップするってことか?」
「うん、その考えが近いかな。これはすべてを吸収できるわけじゃないし、際限無くパワーアップするわけじゃないけど……」
そこで彼女は一旦目を伏せて、
「……アンデッドのドレインタッチに等しい効果に加えて、相手の全身を取り込んで効率よく
――――この世界では、あらゆる生物が魂を体内に秘めており、冒険者のレベルアップに密接な関わりを持つ。生物の生命活動を停止させたり、その身を体内に吸収したりすることで、この魂の記憶の一部を吸収して、レベルアップする。
あのドラゴンは、相手の身体をそのまま取り込んで殺すことで、効率の良いレベリングを図っているのだろう。
「HPとMPを吸収しながら、レベルアップしまくる敵って感じか…………。モンスターや悪魔と戦わせたら、エンシェントドラゴンを消耗させるどころかパワーアップさせちまうってわけだ」
「そうだね。きっとあの悪魔を滅ぼすためにモンスターを取り込んでいたところを、あの紅魔族の娘が使おうとした爆裂魔法の光を見て、そっちの脅威を優先したんじゃないかな」
初めてエンシェントドラゴンと遭遇した周回。二周目のあの時、めぐみんの爆裂魔法によって追い立てられた奴らをはじめ、森から平原に出てくるモンスターが激減していた。
それも、エンシェントドラゴンが自身の力を高めるべく、ことごとく狩り続けたと考えれば説明がつく。
クリスがスバルの捜索よりも森の悪魔の討伐を優先したのも、万一スバルの話が本当の場合、エンシェントドラゴンが暴走したまま悪魔を喰らい、更なる力をつけることを恐れたのかもしれない。
悪魔の天敵、エンシェントドラゴン。
姿を消して音もなく接近してくる。
触れられたら終わり。
遠ざかって魔法で攻撃しても通じず、逆に、向こうから凶悪な魔法が飛んでくる。
命がけで消耗させようとしても、逆に自分のせいで強化されてしまう。
なるほど、悪魔にしてみれば、確かにこんなやつを相手にしたくはあるまい。自分が悪魔ならば、間違いなくとっとと逃げる。
「俺が無事だったのはなんでだ?」
ところどころ服の裂けた自分を指さして、そう問いかける。
スバルは竜尾によって捕らえられたのだ。まさか服越しならば効果がない、などという甘いものではあるまい。触れた相手が侵食対象になると言うなら、スバルも死亡、あるいは衰弱していてもおかしくないはずだ。
しかしスバルはもちろん、左腕に食いつかれたゆんゆんも、生命力や魔力を吸われてるようには見えなかった。
「……………………悪魔やモンスターを倒すための兵器だからね。人間が対象にならなくても不思議じゃないでしょ? 何故か主を失った後も動き続けて、しかも暴走しているけれど。そういう部分はセーフティーロックが働いてるみたいだね」
人間は倒すべき対象でないから吸収しない一方で、人間を平気で攻撃し殺戮し虐殺する。
完全な矛盾を抱えた自らの行動に、疑問すら抱いていない。
――――まさに、バグやプログラムミスを抱えた機械だ。
「クッソ……どうすりゃいいんだ」
「あの悪魔はテレポートを使えた……もしアレが逃げてるとしたら、ドラゴンはまだ本調子じゃないはずだよ。アクセルには魔剣の勇者くんもいるっていうし、きっと何とかなる…………してみせる」
独り頭を抱えたスバルに、励ますように声をかけるクリス。
最後の言葉は、まるで自身に言い聞かせるようだった。
「あたしはテレポート屋でアクセルに戻るよ。なんとか、一人分くらいの運賃は捻出できそうだしね。……キミはどうするの?」
「そうだな…………」
「アクセルに戻るって言うなら、テレポート代は無理でも、馬車代くらいは出させてもらうけど……」
そう、申し訳無さを漂わせておずおずと言うクリスに、スバルは首を振った。
「いいや。俺はもう、あのエンシェントドラゴンと会うのは懲り懲りだ。俺にできることはもうないしな。……こっちはこっちでなんとかするよ」
「そっか…………。今回の件は、あたしに大きな責任がある。どんな手段を使ってでも、必ずなんとかしてみせるよ」
違う。彼女は最善を尽くしただけだ。
今回ゆんゆん達を失ったのは不可抗力。
悪いのはあのエンシェントドラゴンと――――救うべき運命を変えられなかったスバルだ。
「……ゆんゆんとめぐみんを見つけたら、その…………頼む」
「うん…………うん。わかった。約束するよ」
それから、更にいくつかのことについて教えてもらったあと。
挨拶をして、クリスはスバルの元から去っていった。
クリスの背中が小さくなるのを見送りながら、スバルは自嘲する。
何がゆんゆんとめぐみんを頼む、だ。
あの重傷。彼女たちは助かることはないだろう。
今、彼女たちが死体になっていようと、それをクリスが埋葬しようと、もはや関係ない。
スバルは既に、この世界を終わらせると決めているのだから。
もう終わるこの世界で意味のないことを他人に頼む。
なんという偽善。なんという欺瞞。
完全な自己満足だ。
意味がないとわかっていながら、それでもスバルは言わずにはいられない。
「この弱さも、いい加減なんとかしねえとな…………」
胸部を貫かれながらもなお、強い意志を見せ続けためぐみんを思い出す。
片腕を喪失しながらもなお、ただ鮮烈に戦い続けたゆんゆんを思い出す。
彼女たちの死に報いるためには、スバルが責任を持ってやりとげなければならない。
クリスではなく、スバルが全てを救うのだ。
「でも、今回はきっと無駄じゃねえ。少なくとも、次に試すための一歩は見つけたんだから」
つぶやいたスバル、その足下から視線を向けるのは、めぐみんの猫であるちょむすけだ。
漆黒の毛皮を持った、愛らしい猫。
その姿に、前の世界にいた、巨大な獣へと姿を変えた鼠色の猫を思い出す。
「なあ……まさかお前が、ウォルバク様だったりしないよな?」
スバルの言葉に、「なー」という鳴き声で応え、ちょむすけは向こうへと走り去ってしまった。
一瞬止めようかと手を伸ばしたが、その手を引っ込めて、そのままちょむすけと反対の方向へと足を向ける。
「もう、関係ないもんな…………」
そう言ってスバルが移動する先は、人通りの少ない道、そのさらに人が目撃しないような物陰だ。
鞘に収めたショートソードを一度抜き放つ。その白刃は、僅かに差し込んだ太陽の光の下で、鈍い輝きを放つように見える。
既知の苦痛を幻視し、自然と手が震え、勝手に膝が崩れ落ちる。
それでも。
誰にも見つからない、治療の余地のない場所で座り込んだスバルは。
目蓋を閉じ、大きく息を吐いて。
「じゃあな」
それは、別れの言葉。
この終わる世界への別れの言葉だ。
その一言で未練を断ち切った――そう自身を騙し、両手でしっかり握りしめた刃を自らの首へ突き立てた。
「――――――――ガ――、ッ…………」
皮膚を突き破り、千切れた血管から大量の鮮血が流れ落ちる。
真紅に切り開かれた喉から命が流れ落ちる。
血潮と共に熱が流れ出し、スバルの意識は溺れるように沈み、そのまま世界から消えていく。
これで、いい。
次こそは、きっと。
溢れる血に溺れながら、ナツキ・スバルは命を手放した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――――――――4周目
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
スバルが『死』を超えて最初に感じたものは、ゴツゴツとした岩のような感触だった。
二度、三度とまばたきを繰り返し、『死』の衝撃から自身の意識を慣れさせる。
「ナツキさん? どうかしましたか?」
鼓膜を揺らすのは、このループの間に慣れ親しんだ、少女の声。
瞳に映るのは、幾度となく見てきた竜の彫像。
鼻孔に感じるのは、冷たい湿り気を含んだ、森の香り。
――戻ってこれた。
セーブポイントは更新されていない。
片手でショートソードの重みを感じながら、スバルは小さく安堵の吐息を漏らし、『死に戻り』の成功を実感する。
自分の『死』が無為に終わらなかった。
ゆんゆんやめぐみんを犠牲にしたまま終わらずに済んだ。
これでスバルは未来を諦めずに済む。
「……なら、次だ」
と、その時。
後方でがさりという音がした。
すぐにゆんゆんは片手で杖を構え、残った片手で短刀を抜きつつ身体を反転させる。
かつて見た光景。
スバルは手の中にいたちょむすけを足元に置き、自身の記憶にある一点を睨みつける。
スバルの記憶の通り、愛らしくも悪辣な白いウサギが、よちよちと茂みから――――
「っ――――!」
現れる瞬間、スバルは跳躍するように一歩を踏み込み、自らのショートソードで敵の頭を打ち砕いた。
「な、ナツキさん!?」
ゆんゆんの驚愕の声も他所に、ウサギの脳をきっちりと破壊し、その生命を奪う。
それを証明するように、スバルの冒険者カードに変化があった。
レベルアップ。
ステータスが僅かに成長し、同時にスキルポイントが与えられる。
それを肉眼で確認したスバルは、すぐに踵を返してゆんゆんの元へ。同時に、空いた手で冒険者カードを掴み、親指をスキル欄の方へと伸ばす。
「ナツキさん、なんてことするんですか! あんな…………むぐっ!」
突然目の前でウサギを殺され、文句を紡ぎかけたゆんゆんの唇。その唇を、ショートソードを収めた右手で塞ぎ、素早くちょむすけを押し付けて、そのまま空いた左手で強引に彫像の陰へと引っ張り込んだ。
「んんっ!? んーっ! んーっ! んんーっ!」
「しっ…………! 声出すな……!」
スバルに流れるような動きで陰へと連れ込まれ、混乱の境地にあるらしいゆんゆん。モガモガと口を動かす彼女を抑えながら、スバルは一言。
「――――――――『潜伏』」
言葉を聞いてスバルの意図を察したのか、ゆんゆんがピタリと動きを止める。
これが、今周回でのスバルの策。
多数いる一撃ウサギの群れを、被害もなしに殺し切ることはゆんゆんにも出来ない。もちろん、スバルが殺し切るなど論外だ。
しかし、初期レベルかつ低ステータス、基本職”冒険者”のスバルには長所がある。
レベルが上がりやすいという点と、あらゆるスキルを取得可能な点だ。
そして、『死に戻り』というスバル自身の特性を組み合わせれば、それは状況に合わせた最適なスキルの取得を可能とする。
――――スバル達に一撃ウサギの群れを相手にできないのなら、相手にしないままやり過ごせばいい。
自害の前にクリスに教わり、たった今一撃ウサギの命と引き換えに取得した潜伏スキルの効果が、全身に発揮されていく。体表面から外気へと放出される熱量が極限まで低下し、呼吸音が自然と低くなる。
眼の前にあるはずのゆんゆんもそれは同様で、目の前の身体から気配が、存在感が急速に薄れていった。
まるで、路上の石ころになったかのよう。
確かに動いているはずの自分の心臓、その存在が疑わしくなるほどに。
そうして、潜伏スキルの効果が全身に行き渡ったと同時に、先程の草むらから次々とウサギが現れた。
ぞろぞろと現れたその口元は、食した何かの鮮血で赤く染まっており、外見に似合わぬ獰猛な習性が窺える。
「――――――――っ」
スバルの行動の意味、かのウサギ達の悪辣さと危険性。それらを察したのか、ゆんゆんは漏れそうな悲鳴を噛み殺し、必死で息を潜める。
ウサギ達は、同胞の死体を観察し、その下手人を探すように周囲を見回し、ヒクヒクさせた鼻で地面を嗅ぎ始める。
スバルの脳裏に以前の惨劇がよぎり、目の前が真っ赤になる。聴覚を、幻の咀嚼音が支配する。
それでもはっきりと、その手にあるゆんゆんの
存在を悟らせないように、潜伏スキルの効果が消えないように。
二人は全身を緊張させつつも、必死で互いの手を握り、身を寄せ合った。
じわり、じわり。
スバルの手のひらを、汗がびっしょりと濡らす。
皮下組織に埋まった汗腺から、恐怖と緊張からくる精神性発汗がどんどん分泌されていく。
おそらく、時間にしてわずか数分の出来事。
それが、今は永遠にすら感じられた。
いつかの周回、この少女と共にゲームを興じた平穏の時ならば、数時間が光のように過ぎ去ったというのに。
二人の緊張が頂点に高まった時。
ウサギ達はようやく、スバル達の視界から姿を消した。
「ふぅ……………………行ったか」
「はぁ……………………よ、よかったぁ…………っ………………!」
スバルは胸をなでおろし、ゆんゆんも大きく息をついた。互いの手を重ねたまま全身の筋肉が弛緩し、体重が自然と背中の彫像へとかかる。
「もう……なんなんですか、あのウサギ達……! あんなに可愛い顔して、私達を狙ってたんですか? なんて悪辣な生き物なの…………!」
全身から力が抜けたまま器用に小声で怒鳴るゆんゆん。彼女が差す指先をたどると、一撃ウサギの群れが現れた草むらがあり、その先には奴らによって肉塊とされた、孔だらけのオオカミが垣間見える。
あまりの恐怖からか、紅い瞳はじんわりと涙をためており、ニキビひとつない純白の肌を真っ青に染めていた。
「その意見には、まったくもって同感だが……」
あいにく、スバルにとってはとうの昔に受け入れている事実である。怒りも恐怖も理解はできるが、それらについて新鮮な感情で語り合うことはできないし、今それをやる気にもなれない。
今は、休眠状態にある竜の彫像の破壊を試み――――――――。
不意に、視界が青と白の二色へとに切り替わった。
まずその光景は蒼天であり、自分が仰向けに寝転がっていることを理解する。
そして遅れて、自分の身体が脱力のままに後ろへと転がったのだと気づいた。
横目で見ると、ゆんゆんも同じように横転し、目を丸くしている。
スバルはそんな彼女の手を感じながら、自身が背後の支えにしていたものがなんだったか思い出して――――
高らかに鳴り響く咆哮が鼓膜を揺らすと同時、スバルはもう一度、潜伏スキルを発動させた。
咆哮に戸惑いを隠せないゆんゆんを他所に、スバルの思考は混乱する。
自身の舌先をとっさに噛んで、漏れそうになった声を強引に飲み込んだ。
(嘘だろ……………………!?)
背後にあったはずの竜の彫像の姿がない。
休眠状態にあった最古の竜の姿がない。
それはつまり、ドラゴンが活動を開始し、自身の姿を認識偽装したことを示していた。
セーブポイントから数分、エンシェントドラゴンの活動開始が早すぎる。
前々回の周回は一週間、前回の周回は一日。襲撃からエネルギー補給までどれだけの時間があったかは知らないが、少なくともわずか数分でこのドラゴンが活動していたとは思えない。
仮にそうならば一周目、スバルとゆんゆんを襲っていた一撃ウサギや初心者殺しを、このエンシェントドラゴンが標的にしていてもおかしくない。
否。それ以前に、一度も竜の咆哮を聞くことなく森を抜けていたというのはいくらなんでも考えづらい。
なにせ、めぐみんが入り口の方で放つはずの爆裂魔法、その破壊すら未だ起きていないのだ。
ドラゴンの覚醒があまりにも早すぎる。
一体何故、と考えながらも、スバルは潜伏スキルを維持し続ける。
ドラゴンのサイズ、それは人間を遥かに超えた大きさだ。
自身の足元にいるアリを、人間がわざわざ意識しないように、巨体を持ったエンシェントドラゴンにとっても、矮小な体躯しかないスバルとゆんゆんは意識しづらい存在のはずだ。
まして、今のスバルたちは潜伏スキルが発動している。物陰に隠れてこそいないが、はるか高みに頭部を上げたドラゴンにとって死角となる位置。決して効果がないはずもない。
先程、白い毛玉たちにしたことを再現するように、スバルとゆんゆんは、ただ息を殺して時を待つ。
そして、スバル達は、見えないエンシェントドラゴンが姿を消したと確信できるまで、そこに潜み続けた。
長い時間、そこで潜み続けた。
思索の果て。
何故、という疑問の答えに気付けるほどの時間が、そこで流れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
鬱蒼と生い茂った木々。そこにできた道を抜け、ゆんゆんは森を抜け出した。
「ふうっ…………な、なんとかなりましたね、ナツキさん」
振り返り、自身の唯一のパーティメンバーに声をかける。
ちょむすけを追いかけて進んでいった森の奥。まさか愛らしいウサギの姿をして人間を騙す、悪辣なモンスターが生息しているとは思わなかった。
やはり駆け出しの街といっても、冒険者は命がけであることに変わりはないらしい。無事、生還できて何よりだ。
そのちょむすけを胸に抱えて、ゆんゆんは大きく安堵の息をつく。
自分もこの子も無事だったのも、とっさに潜伏スキルを覚えて対処してくれたスバルのおかげだ。
危険な状況下でも、素早く対処してくれた彼に、ゆんゆんは軽く感動していた。
これぞパーティ同士の助け合い。一人ではどうにもならない状況を、力を合わせて乗り切ることが、冒険者には大事なのだ。
なんと素晴らしいことだろうか。
明日からは、また自分もスバルを助けよう。
今日はまず、冒険者ギルドへの報告だ。あの謎の咆哮に、突然消えた竜の彫像。それらについてきちんと報告をして、それからまたスバルとご飯を食べておきたい。
きっと楽しい夕食になるだろう。
想像に頬が緩み、森からの帰り道もずっと押し黙っていたスバルに笑いかける。
「えとえと、あのですね、ナツキさん。今日はこれから――――」
「ゆんゆん」
ゆんゆんの言葉を遮るように、スバルがはっきりとした声でこちらの名を呼んだ。
よく見ると、その表情は真剣そのもので、声にもふざけたような様子はどこにも感じられなかった。
これはきっと、今後に関わる大事な問題であろう。
そう思い、ゆんゆんも真面目な顔をして、ちょむすけを抱きしめたままスバルに正対する。
ゆんゆんに聞く姿勢を見て取ったのか、スバルは目を合わせ、はっきりとした声で告げた。
「パーティは解散だ。たった今から、俺たちの関係は終わりにしよう」
「――――――――ぇ」
唇からは声にすらならない、小さな音がこぼれ落ちた。
理解できない。
言葉の意味を、そのまま受け取ることができない。
どうして。どうして。どうして。
「……………………ど、うして、ですか?」
やっと出てきたのは、心中を埋め尽くすたったひとつの疑問である。
自分は受け入れられていたのではなかったのか。
スバルとともにいた短い時間。その短いながらも楽しかった時間。
その間、自分が感じていた仲間意識は勘違いだったのか。
森で潜伏スキルを発動させた時、スバルの腕が必死で自分を守ろうとしてくれていたと思ったのは、思い込みだったのか。
自分が感じた思いが、思い込みでないのなら。
どうして自分たちのパーティは、終わらなければならないのか。
「どうもこうもない。俺がこれからやらなきゃいけないことと。ゆんゆんがこれから歩もうとしてる道。それらが、決して交わるべきものじゃないんだって、気づいただけだ」
スバルがやろうとしていること。
――――なんつーか…………俺、魔王を倒したいんだよ。
スバルが言っていた言葉が頭をよぎる。
確かに自分はスバルの目的に最後まで付き合えないと言った。魔王退治なんていう無茶は出来ないと言った。
あくまで、ある程度の間だけ、共にパーティを組むというのがスバルとの盃を交わして決めた約束だ。
でもそれは決して、こんなに早く終わるものではなかったはずだ。
スバルの力は未だ弱く、自分の力がもっと必要になるはずだ。
いくらなんでも早すぎる。せめて、もう少し一緒にいて欲しい。
そう言い募ろうと、口を開いて。
「――――――――――」
声が出ない。
信頼しつつあった相手に拒絶されたという事実が、彼女の心に恐怖を生み、たちまち肉体を支配する。
――――自分が楽しいひと時と思っていただけで、スバルは不愉快なのを我慢してくれていたのではないか。
――――これ以上すがってもただ相手を不快にさせるだけではないか。
――――二日も付き合ってもらえたのだ。自分のような人間には、むしろ上等が過ぎるのではないか。
頭の中で、自分の声が冷徹な予想を告げる。
ありもしない幻聴がゆんゆんの脳を揺らし、自分の意志を封じ込める。
言いたい。けど言い出せない。
止めたい。なのに手が出ない。
縋りたい。でも縋れはしない。
たった一言。『私は嫌だ』という、シンプルな意思表示すらできないまま。
「じゃあな、ゆんゆん。生き残れよ、何があっても」
スバルはゆんゆんに、背を向けた。
「――――――――ぁ。待っ――――」
その背中に手を伸ばそうとして、
「痛っ…………!」
ゆんゆんの足がもつれて、小さく転び、顔を打った。
スバルはそれを受けて、一度だけ足を止め。
「……………………!」
振り返ることなく、再び歩き去っていった。
一度もこちらを見ることなく、早々に平原を抜け、姿が見えなくなった。
「痛い…………」
地面にぶつけた顔が痛い。
「痛い…………」
尖った石で小さな傷ができた、首が痛い。
「痛いよう…………」
かきむしられるように、胸が痛い。
また、独りになってしまった。
また、友達になれなかった。
また、誰かの隣にいられなかった。
その事実が、ただただ苦しかった。
黒い猫が、ゆんゆんの顔を舐める。
小さく「なー」と鳴き、鼻でツンツンとこちらの顔をつつく。
そんな慰めも、今の少女には届かない。
置いてけぼりにされた孤独な魔女は、一人平原で泣き続けた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ゆんゆんと別れ、スバルは姿を隠した後。
そのまま潜伏スキルを発動させると、ぐるっと大回りをして、別方向から平原に向かう。
広い平原。遠くにある人間の姿は小さく、そうそう気づかれるものではない。
遠目に見ると、平原のゆんゆんが、未だに一人うずくまっているのが見えた。
それに気づかれぬよう、悟られぬよう、潜伏スキルを全身にまとわせつつ、そっと森に入る。
ゆんゆんを見捨てた。
彼女の心に大きな傷を負わせた。
その罪深さは、スバルも理解している。
ループを含めてもそれほど長い期間そばにいたわけではないが、それでも彼女が人間関係というものに強い固執を抱いているのは、十分に理解できたつもりだ。
それが拒絶された時、彼女の強くも繊細な心が、大きく傷を負うということも。
当然、スバルは決して彼女を拒絶したかったわけではない。彼女とともにある時間は、十分に好ましいものだった。
だが。
「それでも、気づいちまったからな…………」
考えてみれば、当たり前のことだったのだ。
クリスが。こちらの言い分をまるで聞かず、敵意を剥き出しにして自分を悪魔、あるいは悪魔憑きと決めつけていた彼女が、エンシェントドラゴンの出現後、一転こちらへの態度を切り替えたのは何故か。
エンシェントドラゴンが悪魔の天敵だというのなら、スバルが悪魔憑きだとしても、人間に
エンシェントドラゴンの覚醒。それが今回ここまで早くなったのは何故か。
スバルの見る限り、モンスターを一体たりとも取り込んでいなかったはずなのに。
ただ。この不自然な式に、スバルが感じていた違和感を代入すれば、話は変わる。
その違和感とは、「クリスは前々回、スバルから漂う瘴気をほとんど嗅ぎ取れなかったのか」ということだ。
経験上、瘴気――――魔女の残り香は『死に戻り』によってひどく強まり、その悪臭は一日や二日でそう消えるものではなかった。
スバル自身に瘴気を嗅ぎ取ることはできないが、誰よりも信頼のおける少女の証言だ。間違いない。
にも関わらず、一度目の『死に戻り』ではほとんど瘴気を感じとられていなかった。
さて、ここでエンシェントドラゴンの方に視点を移してみよう。
彫像と化して休眠状態にあったドラゴン。これまで冒険者たちが一度もあの彫像を見ていなかった以上、ドラゴンは休眠中は空間偽装によって姿を消していたということだ。
休眠の解除が偶然か必然かはさておいて。
寝ぼけ眼のドラゴンに触れたものはスバル――――つまり、その身に悪魔そっくりの瘴気を漂わせた存在だ。
いわば、カンフル剤のようなものなのだろう。
ドラゴンはスバルの知覚外で、悪魔の力――その瘴気を身に取り込み、活動を開始したのだ。
「は―――――ははは」
暗い、昏い森を進み、スバルの口から乾いた笑いが漏れる。
前々回は、『死に戻り』直後、触れていた彫像にほぼすべての瘴気を取り込まれたから、クリスはスバルの瘴気を感じ取れなかった。
前回は『死に戻り』直後に尻餅をつき、彫像から手を離したから、スバルの瘴気はかなり濃厚に残ったままだった。
故に一度はクリスから「自覚のない悪魔憑き」という疑いを呼び、その後スバルが竜尾に拘束され、瘴気を吸われ尽くしたからこそ。テレポート後のクリスは、『エンシェントドラゴンのドレインで、取り憑いていた悪魔が殺された』と判断し、温厚な態度になったのだろう。
そして今回。周回を重ねてより濃厚になった瘴気を吸い込んで、エンシェントドラゴンは早期覚醒してしまった。
そう考えれば、辻褄が合ってしまう。
スバルがいなければ、エンシェントドラゴンは再び眠りについたのではないか。
悪魔ホーストとの戦いの後、冒険者たちがドラゴンという追い打ちを受けることはなかったのではないか。
スバルがいなければ、誰も死なずに済んだのではないか。
「全部、ぜんぶ…………」
その身を喰い破られ、全身を咀嚼されたゆんゆんも。
身体を切り刻まれ、何が起きたかわからぬままに殺されためぐみんも。
そのめぐみんを背負いながら、胴体を二分された少女も。
竜にその胸を貫かれためぐみんも。
竜に片腕を食いちぎられ、奮戦を続けたゆんゆんも。
その全てが、スバルの引き起こした犠牲者だ。
スバルは彼女たちを救えなかったのではない。
スバルが彼女たちを殺したのだ。
スバルが災厄を引き起こしたのだ。
「俺の、せいで…………」
ナツキ・スバルは、この世界の疫病神だった。
今スバルが死のうと、わずかでも瘴気を吸い込んだエンシェントドラゴンはいずれ動き始める。それは、前回の周回で証明済みだ。
スバルの纏う瘴気。
それはあくまで『残り香』であり、エンシェントドラゴンも真の持ち主がスバルでないことを理解しているはずだ。
前の世界で世界の半分を飲み込んだ
他の街からの応援は呼べない。つまり、もはや瘴気を拭ったところで意味は薄い。
悪魔ホーストか、エンシェントドラゴンか。
限られた戦力でそれらを何とかする方法を、生み出さなくてはならない。
それが、スバルに課せられた、償いだった。
そう――――だから。
この世界でしかできないやり方で。
ナツキ・スバルにしかできない戦いを。
ナツキ・スバルだけでやるべき戦いを。
今、始めよう。