和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦640年~643年
高向玄理は唐の使臣と和国へ向かう途中、百済に立寄って息子イリとウィジャ皇子と謀議し、百済と和国、両国の王を同時に除きウィジャ皇子を両国の王に即位させることを企む。その後ウィジャは百済の武王を倒し即位し和国への工作を始めた。しかしイリは和王より先に高句麗の栄留王を倒してしまい、ウィジャの息子ホジャン(宝蔵王)を高句麗王に即位させる。その後、イリは和国へいき中臣鎌足らと共謀し和国の実力者・蘇我入鹿を巻き込んで山背王を倒した。三国の親唐派の王が全て除かれ半島と列島の趨勢は反唐のウィジャ王とイリに傾いていく。

1話 百済  武王の最後
2話 百済  ウィジャ王政権
3話 和国動乱へ
4話 大臣・沙宅鎌足
5話 高句麗 栄留王没す
6話 和国  山背王没す



第3章 百済・高句麗・和国【三国動乱】

【百済 武王の最後】

640年、高句麗では唐からの監視が強まり緊張が高まっていた。

 

10月になり、和国使節として唐へ行っていた高向玄里は、唐の返礼使僧・清安と共に和国へ帰国する途中、百済に立ち寄り、高句麗のイリも父高向に合うという名目で百済にやってきた。

 

百済のウィジャ皇子、高句麗のイリ大臣、和国と唐を結ぶ高向玄里、三国の三傑が、百済武王の前に勢ぞろいし威圧する。

 

三人は武王を除いて会談し、その後、高向玄里は百済からの使臣も唐使節団に同行させ、唐の使節清安と共に和国へと向かっていく。

 

 

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高向玄里が、唐から和国へ向かう途中に百済に立寄るのは重要な意味があった。

 

百済ウィジャ皇子と、息子である高句麗のイリ大臣と謀議する必要もあったが、

 

何よりも

 

「唐の使節を伴った高向玄里は、武王ではなくウィジャ皇子と会談した」と、

 

百済国内に知らしめることで、唐がウィジャ皇子とも関わりを持ち始めていると有力部族たちに思わせる狙いがあった。

 

その上、高句麗の大臣も参加させたことで、百済国内の日和見だけで親唐派になっていた有力部族たちを動揺させるだけの効果は充分にあった。

 

 

三人での会談は、5年前ウィジャ皇子が和国で挙兵した時以来であり、ウィジャ皇子は、久しぶりに会うイリの変貌ぶりに、

 

「男子三日会わざれば刮目してこれを見よというが、暫し会わぬ間に将しく逞しい壮(おとこ)になった」と

 

感心していた。

 

 

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会談の冒頭、高向玄理は

 

「元に戻る時がきました」と、きり出す。

 

ウィジャ皇子とイリは高向に視線を凝らして次の言葉を待つ。

 

「親唐派の百済武王と和国の山背王を同時に取り除き、ウィジャ皇子様に百済・和国の両国の王として即位して頂きたいと思います。」

 

「すると、百済と和国で反乱を起こすということか?」ウィジャ皇子は、

 

(時節到来か)と、眼に気迫を込めて聞き返す。

 

「上宮法王以後は、和国・百済の両国にまたがる王位が失われてしまいました。今こそ蘇我氏に簒奪されてしまっている和国の王座をとり返し、以前の様に和国・百済の統一王座へと戻すべき時かと思います。」と、

 

高向は粛々と語る。

 

「そして吾が、和国と百済の二国の王になったら、今度はお前が蘇我氏にとって代わり和国を簒奪するつもりなのか?!」とウィジャ皇子は、皮肉を挟み高笑いする。

 

高向は少し首を傾げるだけで全く表情も変えなかったが、実のところウィジャ王を百済・和国の王に即位させ、自分はウィジャ王の下で和国を総督し、いずれは蘇我氏の様にとって代わって和国の統治者となり、高句麗の息子イリと和国から百済を制するつもりでいた。

 

百済と和国の両国の王位擁立を望むものは皆、王を百済の玉座にすえて、自分が王に代わって和国を任されることしか望んでなく、蘇我氏のように主家逆転の下剋上を狙っている者ばかりだったが、ウィジャ皇子はむしろそうした野心家たちの力を利用し、百済・和国両国の王に君臨するのも悪くないと考えていた。

 

 

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イリは高句麗の大臣であったが、政庁の統治よりも戦いの場を求め、さながら大臣というよりは将軍のようだった為、親唐派の王を倒す計画には喜んで乗ってきた。

 

武王と山背王を倒すにあたり、高句麗側から百済を牽制し、また和国で山背王を倒す実行部隊を引き受け自分の武力を発揮する機会を得た。

 

イリの胸中にも、ウィジャ皇子の即位の助けとなる大きな勲功を立て、やがては自分が和国を任されたいという願望も当然あった。

 

しかし、ウィジャ皇子は、イリと高向玄里をあくまでも将軍と策士以上の存在にはみておらず、即位後に二人を国政に関わらせる気など毛頭なかった。特に高向玄里は、唐の力を背景にして自身の野心を図ろうとの姿勢がありありとみてとれる。

 

だが、高向親子の協力なしでは成し得ないことであり、高向の話には前向きに乗り、信用はしていなかったが作戦は共に実行しようとした。

 

一方、高向もその様なことは織り込み済みであり、あくまでも唐の手先として振る舞って、百済・和国の王の即位に協力する見返りとして「唐の冊封」を受けることを提案する。

 

反唐派の二人にこの条件を飲ませるには難航し、特に息子のイリとは抜き差しならない軋轢を生み、ウィジャ皇子が間に入り逆に説得しなければならなかった程だった。

 

 

「唐が我が即位冊封を認めると思うのか。」とのウィジャ皇子の問いに、

 

高向は「必ず認めるようにします」と

 

自信をもって答えた。

 

高向玄里は、入唐した時に、武王の次はウィジャ皇子を冊封することについて既に唐の実力者「長孫無忌」氏を説得していた。

 

「しかし、唐の皇帝は、隆王子を百済皇太子として認めているので、それを差し置いて百済王として冊封することは有得ないと思います。冊封を願いでることが重要で、恭順の態度を示すだけの表面上の外交であって、真に唐に臣属するということではありません、」

 

とウィジャ皇子に説明した。そして、

 

「私、高向玄里は、唐から和国への使節を伴ってきています。唐の後ろ盾がはっきりとあり、百済・和国の親唐派を抑えるのは、最も唐に近い私が、最も適任です。有力部族の多くは、保身の為に唐に靡いているだけで、日和見主義者がほとんどなので、私と共に、親唐派の巻き込みをすれば、そんな奴らをいちいち相手にせずに一気に王位につけるはずです。」と強く、ウィジャ皇子に約束をした。

 

 

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「ウィジャ皇子様が即位すれば、唐からの圧力を受けることは必然で、その時も自分の存在は役に立ちます。そしてむしろ、唐で人質になっている皇太子・隆王子を唐が冊立してくる前に、こちらから先手を打って冊封を願い出てしまった方が、即位後の混乱が遙かに少ないはずです。」と続けた。

 

ウィジャ皇子は、唐に恭順の態度を示すことは戦略上の偽計であり、第一の目的は、和国・百済両国の王になることで、あえて強気な態度で緊張を高めるよりも、実を取るべきと高向の言うことに納得した。

 

百済・和国の親唐派の者どもも雷同して纏まれば侮り難い勢力となり、力押しで武力対決するのは負担も大きい、

 

高向が言う

 

「親唐派を抑えるのは、親唐派の高向自身である」

 

ということを理解し、高向玄里の存在価値を認めて、政治的な駆け引きによって両国の有力部族達を抑える方が得策と判断し、決心をした。

 

高向は、

 

「後日、宮廷で唐の使臣が武王に謁します。そのときに私は唐の使臣・清安と共に、百済からも共に和国に向かう使臣を同行させるよう提案しますので、ウィジャ皇子様は、親唐派の使臣をどなたか推挙して下さい。私達は武王を介さず直接それに応えます。私は唐の使臣・清安とは旧知の間柄ですので、滞りなくそのようにできますので。」と提案し、

 

「親唐派の群臣が私達のやり取りを見て、唐の使臣とウィジャ皇子様の親和が感じとれる様な場面にし、親唐派の関心をウィジャ皇子様に向けます。」と、その意図を伝えた。

 

 

ウィジャ皇子は、少年時代に高句麗と隋との戦を体験している。そして、亡き父、高句麗の嬰陽王から、隋との戦に勝利した話しを聞かされて育ってきたウィジャ皇子は、唐との戦いにも負ける気はなく、高向親子の力を利用して、高句麗・百済・和国三国をまとめあげ新羅を滅ぼせば、朝鮮半島と日本列島の全兵力で充分対抗できると考えていた。

 

そして唐に負けない大国を打立てるにはまだ程遠く、和韓統一の大業の為には一度、親唐派で国をまとめ上げてから、反唐に転じればそれでも良いと思っていた。

 

反唐の志を持ち続け三国を廻ったウィジャ皇子のみが持ち得る感覚で、反唐を称えるものは出世ばかり、親唐をとなえるものは保身ばかりを考え、足元と利得しか見えておらず、どの国でも「親唐派」と言っても、誰も唐の為に命までかけようという程の気概はなく、国よりも自分が大事な連中ばかりで、地位や金さえ与えれば、有力部族や貴族はどうにでも転ぶだろうという、ウィジャ皇子なりの見切りだった。

 

まだ、この時代の支配階級達は、朝鮮半島から日本列島にかけてを一つの国としてみるという感覚は誰も持っておらず、高句麗、和国、百済など一つの国に捉われずに、半島から列島にまたがる一つの大帝国を建国して、唐と対抗しようなどと考えている者は、三国を渡り歩いたウィジャ皇子と高向玄里しかいなかった。

 

 

ウィジャ皇子は大望の為、唐に対して一時恭順の態度を示すことに妥協できたが、イリは、反唐の血の気が強く、一度たりとも唐に下手に出ることが断固として許せない。

 

「蘇我王朝を倒すまでの間、唐との軋轢を避ける為に恭順の態度を示すだけだから」

 

と、単なる腹芸でしかないことを説明しても、若いイリは政治的な駆け引きなど理解しようという気もなく、決行後の冊封だけは頑として受入れなかった。

 

「親子でありながも、思想が違うことは分かるが、今こそが天の時だ、ここで期を逸してはならない」とウィジャ皇子からも説得されて、イリは仕方なく従った。

 

イリは、常に周囲を見下して、誰の言葉にも耳を貸さず、唯一自分だけを信じるような傲岸な若者になっていたが、自分の世界を啓く導きになった金ユシンやウィジャ皇子の言葉だけはなんとか聞き入れることができた。

 

結果的に三者は決別せずに歩調を合わせることになったが、イリは強い遺恨を残した。

 

 

高向玄里もまたおくびにも出さなかったが、

 

「東アジア統一」をめざしている。

 

百済でウィジャ王を立てながらも自分が和国の権力者となり、高句麗の大臣である息子イリと共にやがては百済を制し新羅エフタル王家を操り、朝鮮半島と日本列島を統一し唐に負けないほどの強大な帝国を作るつもりでいた。

 

その上、半島と列島を統一した後には、ウィジャ王の背後で実権を握り、反唐のウィジャ王に唐を征服させることまでも考えていた。

 

 

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(唐を征服する)、などという大それた発想は、

 

隋滅亡から唐の建国までの動乱の時代を大陸人として生きた高向玄理にしか持ち得ない発想である。

 

結果的に唐の太宗に滅ぼされてしまったが、隋末に李密、王世充、竇建徳、劉黒闥、宋金剛、薛仁杲らが兵を挙げた様に、太宗さえいなくなれば中国は再び天下大乱の戦国時代となってアジアの覇者となる機会はめぐってくることもまだ視野に入れている。

 

高向玄理は、唐の手先として立ち回っていたが、本当に従っているということではなく、心の底には、

 

「漢王室の復興」という秘めた大望を持ち続けていた。

 

唐からの使者を伴った高向玄里がウィジャ皇子側についたことの効果は覿面に現れて、この会談の直後から百済国内でのウィジャ皇子の勢いは一気に強まった。

 

高向は打合せどおり唐の使者と共に宮廷に働きかけ唐使節団に百済の使臣も同行させるようにして、ウィジャ皇子の推薦者を伴って和国へ向かっていった為、この先、唐の後ろ盾が武王からウィジャ皇子側へ移るのではないかと判断した親唐派の有力部族達が、皆こぞってウィジャ皇子側につき、国政は徐々にウィジャ皇子に実権が移っていった。

 

 

権力を握ったウィジャ皇子は息のかかった腹心や将士を密かに要所に配置し、宮中内を固めていく。

 

 

高向が和国に渡ってほどなく、

 

壮挙の決行は凄然として行われた。

 

 

百済宮廷で突如内乱が起きた。

 

高句麗のイリは百済との国境に兵を出してきた。これにより百済の武王派の群臣や将軍らは招聘や伝令を受け、一時的に足止めされてしまった。

 

そして、予めウィジャ皇子によって宮廷内に配置されていた衛士らが、反唐派の兵を宮廷に引きいれると百済宮廷はあっけない程あっという間に制圧されてしまった。

 

一夜にして、百済の世が入れ替わる出来事だった。

 

641年3月、

 

百済武王は暗殺されその42年に及んだ長い在位を終えた。武王を倒すと、ただちにウィジャ王は即位し、そして武王の皇后であった上宮法王の娘の宝妃と宝妃の息子キョギ王子、その家族および高官40人らが、耽羅(済州島)へと島流しになった。打合せ通りであったかの様に、大した動乱にもならず速やかに政権交代が行われていった。

 

決行後は、武王派の巻き返しに対しても粛々とウィジャ団による誅殺が行われていき、残存勢力は蔭を潜めた。

 

キョギ王子は、父・武王を殺されて怒り心頭であり、おさまりがつかなかったが、復讐を試みるも、逆にウィジャ王側に殺されてしまいそうな勢いであり、母・宝妃に制止され、

 

「今は、臥薪嘗胆の思いで耐えて生き延びる時」

 

と説得され、悔し涙を流し耽羅(済州島)へと向かっていった。

 

 

 

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キョギ王子

 

 

和国では、唐の使者・清安が来和してくれたことを大変喜び、高向玄里による唐との国交回復の成功は一目置かれた。高向玄里は、百済からの使臣も使節団に同行させただけでなく、途中、新羅を通過して金ユシンや金春秋とも会談し、新羅からの使節も唐の使節清安と共にも和国へと同行させていた為、和国の蘇我王朝は饗応に追われた。

 

和国は、唐に認められたことによって、蘇我氏の王位簒奪による単なる暫定政権ではなく、正式に国として国際社会で認められたことになり、高向の果たした成果は大きかった。この後、和国は津守大海を遣高句麗使、国勝吉士水鶏を遣百済使、草壁真跡を遣新羅使、坂本長兄を遣任那使に任命して、正式に半島諸国へと通交を結ぶことになっていく。

 

 

【百済・ウィジャ王政権】

和国の蘇我王朝は、武王崩御の報をきくと、和国で百済の喪がりを執り行った。

 

武王は王族ではなかったが、新羅の真平王の娘を娶り加護を受け、その後は上宮法王に引き立てられ、百済の王位にまで登りつめた。しかし、常に王位を追われることを恐れ続けた王であり、扶余族と蘇我氏の血を引く田眼姫を娶り、上宮法王の娘・宝皇女を娶り唐の手先の高向玄里と結び、ウィジャ皇子を養子にして和国の蘇我石川倉麻呂を後ろ盾にし、縁組みによる外戚からの擁護を受け続け、上宮法王の志を継ぐ立場でありながらも新羅のエフタル王家ともつながり、唐の冊封を受け、節を曲げ変わり身し続けることで、王座を守り続けてきた。

 

新羅とつながっていた武王は除かれ、ウィジャ王が即位したことによって、再び百済と新羅は交戦状態になっていった。

 

これにより、百済から新羅の金春秋のもとへ嫁いで来ていた額田文姫は、安寧では居られなくなる。

 

懸念した鏡宝姫や金ユシンらは、

 

「このまま新羅に居ては危険が大きいから」と、

 

額田文姫と金春秋を説得し、

 

額田文姫を離縁して百済へと戻すようにした。

 

 

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額田文姫

 

 

しかし、戻ったところで、旧武王派の官臣や王族らは皆、耽羅(済州島)へと島流しになっていて、百済にも身の置きどころもなかった為、額田文姫は、耽羅(済州島)にいる兄・キョギ王子のもとにそのまま向かった。

 

金春秋は、まだ幼かった額田文姫よりも額田文姫と姉妹のように仲が良かった鏡宝姫の方に密かに心を寄せていた。

 

額田文姫が新羅を去った後のこと、

 

金春秋が蹴鞠をしている時に袴が破れてしまい、一緒に蹴鞠をしていた金ユシンはすぐに妹の鏡宝姫に繕いをさせた。それ以来、金春秋と鏡宝姫は近づき、やがて二人は結ばれていった。

 

鏡宝姫は、既にイリの息子・法敏を産んでいたが、イリの居る高句麗もこの後、百済側について新羅と交戦状態になってしまった為、まだ若かった鏡宝姫はイリをあきらめて、息子の将来を託し金春秋へと身を寄せることにした。

 

兄の金ユシンは、鏡宝姫とイリとの関係がなければもともと、金春秋に妹・鏡宝姫を嫁がせるつもりだったので、二人が結ばれ金春秋と義兄弟となることを慶んだ。

 

鏡宝姫は、金春秋に愛され、

 

「息子・法敏を正式に養子にして、私たち母子二人がこれから先も生きてゆけるように守ってほしい」と懇願した。

 

 

 

 

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百済は唐に、ウィジャ王の冊封を願い出る使臣を派遣した。

 

まず「百済の武王薨ず」とのことを伝えると、

 

唐の皇帝太宗は玄武門にて挙哀し、武王に光禄大夫を追贈して使者、鄭文表を百済に遣わした。

 

そして、予め高向玄里が唐の実力者「長孫無忌」氏へ根回ししていたとおり、唐はウィジャ王の即位を認めた。しかしあくまでも百済の王ではなく、ウィジャ王を「帯方郡」の王として冊封し、唐に留まっていた隆皇子の百済皇太子としての立場を残した。

 

 

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玄武門

 

                   

 

 

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太宗皇帝

 

 

ウィジャ王にとっては表面的に受けた冊封でしかなかったので、即位後は、引き絞られた矢が放たれた様に唐の臣属国である新羅を攻めまくった。

 

父・高句麗の嬰陽王の死は、唐・新羅の暗躍により暗殺されたものと思っていて、決して許さないという強い恨みも持ち続けている。

 

ウィジャ王は不世出の王であり、三国をめぐった果てにやっと王位に着いた。

 

元々は、高句麗の嬰陽王の皇子で、唐が高句麗王に栄留王を冊立してこなければ高句麗の王となっていたはずだが、親唐国になってしまった高句麗から追われ、和国へ渡った。

 

和国では、上宮法王の後継者となるも和王を継ぐに至らず、蘇我石川倉麻呂の擁護を受け百済の皇太子となり、そして今、武王を排除して王となり、ようやく唐と戦うための国と兵を動かすにいたった。

 

ついにウィジャ王は、国内を反唐に一新し進撃を開始する。

 

 

百済の有力部族達が権力を振るっていた「政事厳会議」を抑えて、ウィジャ王の三忠臣と呼ばれる、フンス公・ソンチュン公・ケベク将軍をはじめ、義直将軍(ウィジェク)、黒歯将軍ら、優秀な文官・武官たちがウィジャ政権の強固な支えとなった。

 

642年7月、ウィジャ王は自ら兵を率いて、新羅西部に侵攻し、あっという間に40余城を落としてしまった。

 

 

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この後、イリが高句麗を反唐に転じさせると、

 

8月には高句麗と共謀して党項城を攻めとって、新羅から唐に通じる路を封鎖しようとした。新羅の党項城は、唐の極東戦略上の橋頭堡であり、百済、高句麗にとっては捨てて置けない。

 

新羅の善徳女王は、たまらず唐の太宗に急使をおくった。

 

 

唐の太宗皇帝は、

 

(そもそも女が王についているから周辺国から侮られるのだ)と、思っている。

 

上古の昔より、中国では女性が王位につくことなどは絶対にあり得ないことだ。

 

唐は新羅を救援する条件として、

 

「女王などではなく男王を立てるように」と指示し、

 

伴侶も息子もいない女王を嘲り、

 

「男王がいなければ唐の皇族を新羅王につかわす」とまで言ってた。

 

そして皮肉を込めて、相方が居ないことを表した

「牡丹の絵」を女王に贈ってきた。

 

 

新羅の善徳女王は唐のあまりの女王否定に胸を痛めた。

 

 

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善徳女王

 

 

新羅王室は、王家直系のみに与えられる称号「聖骨」という血統の者だけが、王位継承権を持ち、それ以外の王族は「真骨」といい王位につくことができなかったが、この頃は男系の聖骨が1人も居なくなってしまった為に、女性の聖骨であった善徳女王が即位していた。

 

しかし、もともとエフタル族には、和国の様に「女王」を立てるという習慣がなく、初めての女王即位は少なからず混乱のもとになっていた。

 

唐の太宗皇帝は、百済と高句麗に対しては使者を送り、

 

「唐の臣国である新羅を攻めるな。これ以上新羅を攻めたら汝の国を攻める。」と、

 

きつく諭告し党項城から手をひくように迫った。

 

高句麗に唐の使者が着くと、新羅攻めに出征していたイリは王に呼び戻されたが、

 

唐の使者に対し

 

「高句麗と隋が戦っている隙に、新羅は高句麗から五百里の土地を奪った。是を戻さない限り兵をひくことはできない!」と、

 

真っ向から反発し、不遜な態度で唐の使者に臨んだ。

 

一方、百済のウィジャ王は、唐の使いを丁重に迎え、陳謝の返礼使を唐へ遣わすと共に、唐に留まっている武王の息子、隆皇子を正式に百済皇太子に任じる許可を願い出た。

 

唐はこれを認め、隆皇子を百済皇太子としたことによって、「帯方郡の王」として唐に冊封されていたウイジャ王も正式に百済王として唐に認められることになった。

 

 

ところが、それでも百済のウィジャ王は、尚も新羅攻撃の手を緩めずに今度は新羅の任那地方の大耶城を攻撃した。

 

大耶城は、任那・伽耶諸国地域の城で、城主の品釈は金春秋の娘婿だった。

 

品釈は酒に溺れていて、戦うどころではなかったが、金春秋の娘・古陀昭妃は城を捨てて逃げ出そうとする夫・品釈に対して

 

「生きることなど考えず命がけで戦い、負けたら首を差し出すべき!」

 

と、叱咤した。

 

これによって城を捨て逃げることはふみとどまったが、大耶城はあっけなく落城してしまい、二人は殺されてしまった。

 

婿と娘が百済に殺されたとの報をきいた金春秋は慨然し、

 

「百済許さず」とその恨みを心底に刻み復讐を誓った。

 

しかし、いつも百済軍に敵わず連敗し続けていた金春秋は、百済への憎しみから我を失ってしまい、あろうことか、対立していた高句麗へと救援を求めに行ってしまった。

 

当然のことながら高句麗は窮してやってきた金春秋をすぐに軟禁する。

 

これを知った金春秋の義兄・金ユシンは、大急ぎで兵を率いて国境まで救援に向い高句麗に放還を迫った。

 

高句麗は最初、

 

「元々は高句麗の領土である竹嶺と鳥嶺を還せ。でなければ金春秋は還せない」と、

 

脅してくるほど強腰だったが、

 

「国難に望み身を顧みないことこそ烈士の志である!」

 

と大渇し、戦も辞さないほどの金ユシンの勇壮な訴えに耳を傾けた。

 

 

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金ユシン

 

そして、金春秋が高句麗イリ大臣の息子・法敏を養育していることを密かにイリに伝え情に訴えた。

 

ここで、もし金ユシンの訴えに応じず金春秋が無事でなければ、大事の前では私情を捨てる金ユシンでは、金ユシンの妹でイリの最初の妻である鏡宝姫と息子・法敏も無事ではいられないだろうと推測された。

 

金春秋からも知己のある高句麗の臣に働きかけをして、高句麗宮中にも釈放すべきとの世論を沸かし、なんとか金春秋は無事放免となった。

 

 

 

新羅朝廷では、金春秋が無事に高句麗から放免されたことが信じられずに、将来、高句麗に竹嶺と鳥嶺の領土を割譲する約束でもしてきたのではないかと疑われていた。

 

割譲の疑いは定かでないが、この金春秋軟禁事件の折、金春秋はその人柄と人当たりの良さで高句麗の諸臣を懐柔して、新羅側につく内通者をつくり出していた。

 

イリの近習にもその専横を快く思わぬ者どもは、金春秋の働きかけに応じて新羅に内通していた。

 

高句麗宮殿の警護に英光という者がいて、この裏切りに勘づいた。

 

しかし金春秋解放の後、真相を暴く前に黒幕に逆に察知されてしまい、濡れ衣を着せられ英光は戦闘地域の最前線へと左遷されてしまった。

 

戦地に赴く英光の妻は、折しも出産をひかえていた時であり、英光は戦場で息子の誕生をきくことになった。

 

そして、英光は息子と対面することはなく見事に戦場に散っていった。

 

息子の名は「若光」といい、後に高句麗が滅亡すると和国へと亡命し、朝廷より【高麗王】を賜り高麗郡(埼玉県)の初代高麗郡主となった。

 

(※若光は埼玉県日高市の高麗神社に祭らている。参拝した政治家たちから8人もの総理大臣が輩出された為出世開運神社として崇敬を集めている)

 

 

この頃から、金春秋は手段を選ばない復讐鬼となり、娘夫婦の仇を討つ為に唐の力を頼り、百済ウィジャ王を倒すことに傾倒していく。

 

鏡宝姫という「花」を手に入れ、復讐の為、唐の援護という「剣」を手に入れる為だけに、王座を望むようになってしまった。

 

新羅の真興王(宣化将軍)によって任那は滅ぼされてしまったが、元々は任那地方の伽耶国の王族であった金一族にとって、王位復興は悲願であり、金ユシンと金春秋は新羅の実権を握るために心を合わせて戦ってきた。

 

しかしこの頃より、反唐の志であった金ユシンと王位と復讐しか望まなくなった金春秋の関係は少しづつ乖離していった。

 

 

金春秋は、娘夫婦を失った寂しさから、金ユシンの妹の鏡宝姫を益々溺愛していくようになる。

 

 

 

 

 

 

【和国動乱へ】

百済での政変のあった642年、駐百済大使として百済に滞在していた安曇比羅夫は和国へと帰国してきていた。

 

翌643年3月になると、百済から耽羅(済州島)へと島流しになっていた宝皇妃とキョギ王子らが島抜けして、和国の筑紫へと上陸してきた。

 

 

上陸した一行は、知己のある前駐百済大使だった安曇比羅夫のもとへ行き、安曇比羅夫は百済からの客を自宅で饗応し、宝皇妃とキョギ王子らの来訪を伝えに都へと向かった。

 

新羅の金春秋と離縁し、義兄のキョギ王子を頼って耽羅(済州島)に向かった額田文姫も、キョギ王子につき従い和国へと落ちのびてきていた。

 

 

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他に島流しにされた、キョギの妹・間人皇女、百済武王妃で額田文姫の母の鏡妃ら、宝皇妃を合わせ四人の百済武王の王室縁りの姫らが共に和国へ渡ってきていた。

 

武王の正妃は宝皇妃であり、武王存命中は宝皇妃・間人の母娘と、鏡妃・額田文姫の母娘は政敵の間柄である。

 

宝皇妃は武王には心がない政略結婚の相手であったが、新羅系の鏡妃・額田文姫らの存在は面白くはなかった。

 

表面上は双方とも武王派として亡命してきた訳であり、鏡妃にも露骨に敵意の態度を表すことはなかったが、やがて鏡妃は、和国で命を落としてしまう。

 

後に、鏡妃は武王の遺物と共に押坂稜(奈良県桜井市)に埋葬された。

 

 

キョギ王子は、眈羅(済州島)から発つ頃に、島の安波という海辺で土着部族だった高氏の海女姫と出逢い逢瀬を交わしていた。

 

そして王子らが和国へ向かった後、海女姫は無事男子を出産し、キョギ王子との間にできたその子を「市」と、名付けた。

 

 

 

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眈羅(済州島)

 

 

 

キョギ王子ら一行は4月になって都へ行き、蘇我王朝の山背王に拝した。

 

報を聞いた蘇我蝦夷も、キョギ王子らを難波で饗応して馬と鉄を贈った。

 

「百済でウィジャ王が即位した後、武王派は排除され主だったものは皆、島流しにされてしまいましたが、尚も危険を感じ、和国へ逃げてきました。和国王様の情け深さで何卒、和国入りをお許し下さいますように」

 

と、必死で訴えるキョギ王子らの身の上に同情し、

 

山背王は和国への亡命を受け入れた。

 

 

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山背王

 

 

 

 

蘇我蝦夷は、

 

「百済のウィジャ王と蘇我石川倉麻呂の計略により、和国へやってきたのではないか」と、警戒している。

 

和国で敵無しの蘇我蝦夷とはいえ、百済で武王を倒し即位したウィジャ王には脅威を感じていた。

 

実際、キョギ王子の母の宝妃らは百済から島流しにされたふりをして、偽って和国へ下ってきていた。ウィジャ王に排除された様に装って和国へ乗り込み、蘇我王朝を瓦解させるという工作を担ってきている。

 

息子のキョギ王子は違い、母・宝妃に従って共に和国へやってきてはいたが、父を倒した憎いウィジャ王と戦う兵が無く、止むをえず和国へ逃れて来ただけである。

 

(いつかは和国兵を率いて、百済のウィジャ王を倒す)

 

と、父の仇討ちを腹に持ち続けていた。

 

そのようなキョギ王子の先の企みは別として、百済からの一行は、疑われずに和国へ帰化し蘇我王朝を倒すという目的ではみな同じである。

 

宝妃はウィジャ王の意図の為、キョギ王子はウィジャ王に敵対する為、相反する意図を持つ呉越同舟の一行は、ともかく和国に受け入れられなければならなかった。

 

 

ところが、翌5月、

 

キョギ王子の従者が一名殺された。

 

そして、翌日になりキョギ王子の息子が暗殺されてしまった。

 

恐らくは、和国へのキョギ王子らの亡命を喜ばない者の仕業であると思われた。百済のウィジャ王から排除された者達を、和国に受け入れてしまうことで百済との対立が深まることを懸念し、不安を取り除こうとする者するものも多い。

 

また、上宮法王の血統であるキョギ王子の存在そのものを和国にとって不要と感じる者がいた。

 

結局、誰の仕業かは分からずじまいだったが、一方でキョギ王子らを警戒していた蘇我蝦夷による警告と脅しともとれた。

 

 

キョギ王子らは落ち延びてきた和国でいきなり家族を失ってしまって悲嘆するが、暗殺を恐れて葬式には出ずに、妻子を連れて百済大井の家(河内長野市大井)に移っていき、人を使わせて石川に息子を葬らせた。

 

キョギ王子の心は和国まできて嗟嘆し凍りついてしまった。

 

 

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百済での実権が武王からウィジャ皇子に移った頃のこと、死を覚悟していた武王は、キョギ王子を呼び出して形見の短刀と遺言を残していた。

 

武王の遺言は

 

「誰も信用するな。母の宝皇妃さえも信じてはならぬ」

 

というものだった。

 

キョギ王子は、息子との理不尽な別れに痛嘆しながらも、その言葉を心に刻んでいたが、今になり、その言葉の深い意味を考えかみしめていた。

 

宝皇妃の心は知れないが、和国の百済大寺(奈良県)で亡き武王の菩提をそっと弔った。

 

 

【大臣・沙宅鎌足】

翌6月になり百済の大臣・沙宅鎌足が、表向きは公式な百済使節として来和してきて、旧武王派の百済追放を和国の蘇我王朝に対して改めて正式に伝えた。

 

百済ウィジャ王の側近・沙宅鎌足の来和は蘇我王朝にとっては脅威だったが、不気味さを感じながらも無下にすることはできず、山背王は大臣・沙宅鎌足を饗応して、相撲見物などをさせた。

 

沙宅鎌足は、先に百済から渡って来た者らと共に相撲を堪能し、ほろ酔いのままで帰ったが、帰り路でキョギ王子の家の前に通りがかると、門の前で立ち止まり一礼をした。

 

 

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沙宅鎌足(中臣鎌足)

 

沙宅鎌足が来和する少し前のこと、ウィジャ王は大臣の沙宅鎌足を呼びだして、和国王に即位するための密命を下していた。

 

それは、排除した武王派の主だった者達を、百済からの亡命を装って和国へ潜入させて蘇我王朝を倒し、ウィジャ王が和国王につく為の計画だった。

 

22年前、

 

親唐派の蘇我氏が上宮法王を暗殺し、

 

ウィジャ王は上宮法王より「唯一の後継者」と指名されていながらも、蘇我氏の暗殺から逃れる為に百済に逃げ捲土重来を期した。

 

「和国は未だに蘇我に簒奪されたままであり、今こそ憎き蘇我を倒し捲土重来を果たす時である」と、

 

ウィジャ王の意気込みは強く、

 

沙宅鎌足に密命を下した席では、わざわざ自分の寵姫である阿部小足姫を接待のために同席させて、沙宅鎌足を厚くもてなした。

 

政変後に武王派の者が百済を追われるのは当然であり、ウィジャ王は、百済武王妃で義理の姉でもある宝妃を埋伏の毒として和国に追いやり、和国での蘇我王朝打倒の工作を計画していた。しかし、宝妃の息子のキョギ王子は、計略ではなく本当にウィジャ王へ対し「父武王の仇」としての強い憎しみをもっていたので、逆に蘇我王朝側についてしまい百済と敵対してしまう恐れもあった。

 

ウィジャ王は、そのキョギ王子を見張ることと共に懐柔し、なんとしても蘇我王朝打倒に協力させるようにと沙宅鎌足へ厳命を下した。

 

そして、ウィジャ王は、沙宅鎌足の接待をしていた自分の寵姫である阿部姫を、なんとそのまま鎌足に与えてしまった。

 

鎌足は、寵姫を下賜されたことに感激し、

 

「命に代えても必ずしやウィジャ王さまの和王即位を!」と

 

強く誓って、蘇我王朝打倒の為に和国に向かっていった。

 

 

阿部姫はその時既に懐妊していて、翌年にウィジャ王の子を鎌足の子として産み定恵と名付ける。

 

 

 

和国入りした鎌足は、百済追放者の帰化を正式にとりつけた後、和国の古い名門部族で昔は蘇我氏とも対立していたことのある中臣氏に縁を結び、『中臣鎌足』と和国名を名乗って和国人となり、早速、蘇我王朝打倒の為の暗躍に動きはじめた。

 

まず、百済からの間者として和国入りしていたウィジャ王の息子・扶余豊璋から、和国内部の詳細な情報を聞き出して、宝妃と共に蘇我蝦夷の息子の蘇我入鹿に狙いをつけた。

 

 

入鹿は生真面目で直情的な一面もあり組し易かった。そして、宝妃の大人の魅力に心を奪われていて、宝妃が入鹿に接近し秋波を送ると、どちらからともなく二人は関係をもってしまった。

 

キョギ王子は、母と蘇我入鹿の関係を知るとそのことを嫌悪する。

 

母・宝妃は、

 

「和国で味方をつくり生き延びるために」と、

 

説明したが父・武王の喪もあけないまま、そのようなことなど到底受け入れられる訳はなく、キョギ王子は権力者・蘇我入鹿を激しく憎んだ。

 

しかし宝妃の心は、もとより武王にはなく高向玄理にあったので、武王を愛していなかったどころか、その息子のキョギ王子にさえも愛情を注げずにいた。

 

 

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蘇我入鹿

 

母としてあるのも王妃としての務めを果たすのも、蘇我入鹿に近づくのも、全て愛する高向玄里のためだった。和国での工作を担うのもウィジャ王と高向玄里の企みが同じであるからであり、ウィジャ王の為だけにそうは動かない。

 

宝妃は、和国では珍しい顔立ちの中央アジア系の美女で、歳月を経ても美貌は衰えず、妖艶な魅力を醸し出していた。

 

王家の血を引く女性は皆、血統のため権力のために伴侶が変わっていくものであり、自ら人を愛したり恋を喜ぶなどということが許される時代ではなかった。

 

宝妃の母も、上宮法王のために嬰陽王の妻となり、宝妃自身も政略結婚で武王妃となって、キョギ王子を産んだが、王室育ちで父が殺されるまでたいした騒動も経験してこなかったキョギ王子には、そうしたことが全く理解できず、受け入れることができない。

 

 

上宮法王が百済・和国へと行ってしまい、高句麗に置き去りにされていた宝妃にとって、高向玄里が現れたことは孤独な高句麗での人生にさした一筋の光であり、恋人でありながらも父のように高向玄里を慕っていた。

 

そして、その想いを全て心の底に沈め、高向の為に王女としての役割の人生を生きると悲恋の覚悟を決めて以来、誰にも心をゆるすことなく生きてきて、むしろそのことが宝妃の女性としての魅力を深いものにしていた。

 

 

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入鹿は、父・蘇我蝦夷とともに和国で権力をふるい、その勢いは王を凌ぐと言われていたほどだったので、当然和国は自分たち親子のものであるように感じていた。

 

(もはや吾らが和国の王である)と思っている。

 

和国には、武王と蘇我氏の血を引く、古人王子などもいたが、皆、入鹿よりも力はなく、何故、自分達が王位につけないのかが、むしろ不思議に思えることさえあった。

 

宝妃は

 

「どうか和王になって私達を守ってほしい」と、

 

入鹿に懇願した。そして、上宮法王の血筋である自分を王妃に据えて、この和国に安寧をもたらして欲しいと頼んだ。

 

中臣鎌足(沙宅鎌足)は、和国の反唐派である大伴馬養や蘇我石川倉麻呂らと共謀し、

 

「王権交代後の百済に備え、より強い和国であるために蘇我入鹿が王につくべきだ」と噂を流しはじめた。

 

そして、

 

「蘇我蝦夷の権力はもはや和国の王に等しい。しかし口には出さないが、蘇我蝦夷は山背王を擁立して権力の座についたため、山背王をのぞいて自らが王につくことは逆賊の汚名を残すことになるので、それができずにいる。息子の入鹿が父・蝦夷の心を汲んでそれを行うべきだ」

 

「これほどの権力を持ちながら王位を望まないのは不幸である」と吹き込み続けた。

 

 

父・蘇我蝦夷のおかげで容易く権力の座についた蘇我入鹿には、たいした国際感覚もなく、権力集中も当然のことと考えていたので、百済ウィジャ王の側近だった中臣鎌足らの賛同をうけると、百済の一派閥からの擁護を受ける様な錯覚さえ覚えた。

 

 

蘇我入鹿は元々父・蘇我蝦夷より強気であったため、もはやその気になり、山背王を取りのぞいて和国の王に即位するつもりになってしまった。

 

 

【高句麗・栄留王没す】

百済の会見の後、イリ大臣が帰国すると、高句麗にはただならぬ気配が漂っていた。多数の唐の間者が入り込み、奸臣は唐へ情報を流し、売国行為がそこかしこに横行していた。

 

唐を相手に戦うは愚かと判断した有力部族達は、保身の為に積極的に国を売るものが多くいた。戦争と政変が続き、ウィジャ皇子のような気概のある者は少なくなり、高句麗に残ったものはそのような輩が多く、その上、主だった群臣らは、強烈な反唐派で傍若無人なイリが邪魔者であり、取り除いてしまおうと画策していた。

 

イリは、ウィジャ皇子と父高向との百済での会盟で遺恨を残したまま帰国した為、高句麗のそのような有り様に触れたとたん、反唐感情の火が一気に燃え上がり、爆ける怒りとなって、郡臣たちへ憎悪をむけた。

 

やがて、

 

 

「百済王没す」との報をきいたイリは、

 

反唐の一点に目的をしぼり、

行動を起こす決心を固めていく。

 

父高向に対する怒りや、得も言われぬ虚無感を吹き飛ばすかの様に、イリを排除しようとしている群臣に対して思い切った行動に出て、イリの名を唐のみならず「唐に逆らう者」としてアジア中にその名を知らしめるほどの暴挙を起すことになった。

 

(必ず、高句麗の親唐派を一掃する)

 

怒りとは裏腹なほど、イリは冷徹に標的を絞りこんだ。

決して討ちもらすことが無いよう綿密に兵を布陣することは得意であり、策謀家の父ゆずりと言えなくもないが、豪気なだけに父・高向玄里の様には策をろうさない。

 

 

642年10月、

 

イリは、反唐派の同志の仲象将軍(テ・ジュンサン)に協力させ軍を抑えた後、宮城の南で盛大な酒宴を開き、大臣以下百官を招いた。

 

 

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仲象将軍(テ・ジュンサン)

 

そして、一網打尽に酒宴の場にいた百人以上の親唐派の群臣たちを囲いこみ捕えてしまった。

 

身分の上下を問わず、ひとりひとり目の前に引き出しては、売国行為の罪名を挙げ、その場で次々と撲殺していった。

 

高句麗に父高向が残した黒い歴史を、一つづつ叩き潰していくかの様に、眉一つ動かさずに粛々と親唐派の群臣を粛清していく姿は鬼気迫るものがあった。

 

 

唐に媚びる者は何ひとたりとも許さないという揺ぎ無い義憤に自らが陶酔し、

 

(これでもう引き返すことはできない)

 

と、覚悟を決めての強行だった。

 

親唐派の群臣ら180名余りを皆殺しにしたイリは、そのまま宮中に乱入し圧倒的な戦力で栄留王を襲う。

 

この時のイリはともかく強かった。

 

 

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兵を指揮したことしかないイリにとって初めての実戦となる。

 

まるで、

 

10代で抑圧した感情を全て爆発させるかの如く、

 

それが強力な起爆力となって、宮廷内をところ狭しと暴れまわった。

 

次々と現れる敵を剣を翻し討ちまくり、

 

金一族の粋を結集したイリの豪剣は、どんなに打ち合っても刃毀れせず血糊を弾いた。

 

 

イリは、視界に入る敵は全て屠り続けているうちに、ある種の戦闘の境地に意識が至った。

 

 

時空間が、イリの周りだけ変化してしまった様に、

 

瞬間は長く伸び、敵の動きがゆっくりと見え、

 

空間は短く縮み、敵がイリの間合いへと入ってくる。

 

武人としての不思議な感覚を覚醒しながら、

 

必死で逃げる栄留王を寝所まで追い詰め、とどめを刺した。

 

イリは殺害した死体を溝に捨てた。

 

大国唐が後ろに控えているにも関わらず、唐の冊立した王を殺すからにはイリも相当な覚悟をしなければならない。

 

 

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栄留王

 

栄留王を殺して宮中を掌握したイリは、ただちにイリの傀儡となるウィジャ王の息子の「宝蔵王子」を高句麗王に即位させ、自らは宰相(大莫璃支)となって、高句麗の実権を握った。

 

そして宰相の人事権を行使し、イリはすぐに高句麗宮中内を反唐色に固めなおした。

 

王の従者も全て入れ替え、特に父・高向玄里の息のかかった親唐派の者は徹底的に排除した。

 

各部族達の私兵を国軍に編成し、「趙義府」という直属の諜報機関を設置して、高句麗内外の情報を管理下に置いた。

 

イリは、宰相として高句麗全軍の統制権を持つことになり、ようやく唐と対峙することができる強い高句麗軍へと戻りつつあった。

 

 

唐は周辺国を次々と滅ぼしていて、アジア天下制圧を狙う太宗皇帝がどんなに「和平」をちらつかせようと、隋に負けなかったほどの強国・高句麗をそのまま放置しておくことなど考えられなかった。

 

が、しかし、栄留王と群臣らは誰もそれを認めようとせず、戦で私有民や私兵を損ないたくないがために「和平」を主張し続けていた。

 

反唐派は、その様に「和平」を唱えながら無し崩しに高句麗を無力化させていく栄留王と親唐派に対して、激しい憤りを感じてきた。大国隋と三度戦っても負けず、100万の大軍をも全滅させた高句麗の強さを誇りに思う者も多く、今までその高句麗の誇りを唐の臣属国のように貶めてしまった栄留王の売国行為を激しく憾んでいた。

 

その栄留王がようやく取り除かれたいま、反唐派は溜飲の下がる思いだった。

 

反唐の旗頭として即位した宝蔵王は、

 

イリの擁立により高句麗王になったことの喜びは大きい。

 

父・ウィジャ王が栄留王に追われ和国へと逃げていった後、親唐一色となった高句麗に一人取り残され逼塞していた頃の心細さを考えれば、まるで奇跡のようである。

 

イリのような武闘派が現れ、親唐政権を倒さなければ、唐の天下では決して陽の目をみることはなく、ただひっそりと生涯をおえたか、或いは殺されていたかもしれない。

 

 

しかし、宝蔵王は、イリのあまりの残忍さを目の当たりにして恐ろしくなってしまい、イリに対し王としての威勢を張ることができずになっていった。

 

一方で、宝蔵王はそのようなイリの唯一の理解者でもあり、イリの孤独に共感することができる人物だった。

 

イリも宝蔵王を常に立て、国王と宰相の関係でありながらも二人は親子の契りを結んでいた。

 

三国どこに行っても地縁血縁が薄かったイリにとってたった一人の肉親のような存在でもあり、宝蔵王も、イリも、父との関係が希薄だっただけに、実の親子よりも二人の絆は強い。

 

 

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宝蔵王(ポジャン王)

 

高句麗の反唐派の実力者イリ大臣が、栄留王を殺す大乱が起きたとの報はすぐさま世界に伝わり衝撃を与えた。

 

イリの大逆に唐の太宗皇帝は烈火の如く怒り、すぐさま高句麗を攻めようとしたが、

 

側近の長孫無忌が

 

「隋の敗戦の轍を踏まぬよう隠忍自重するように」と、

 

懸命に諌めた為、高句麗攻めを留まり、ひとまずイリが擁立した宝蔵王を高句麗王として認めて冊封することにした。

 

そして、唐は長安の苑中で栄留王の葬儀を執り行い、使者を高句麗に使わして王の霊を弔った。

 

唐は、介入手段として、極東への手先に高向玄里を使ってきたが、高向玄里では息子イリの抑えが効かず、もはや何の役にも立たないと判断し、極東政策を変更をせざるを得なかった。

 

和国にいた高向玄里は、息子イリの突然の暴挙に最も驚いた。

 

百済と和国の現政権を倒し、ウィジャ皇子に両国の王として即位させることが先決だったはずであり、次の決起は和国で行う計画で、それより先に栄留王を殺してしまえば、和国の政権奪取以前に唐に攻められてしまい、それどころではなくなってしまう。

 

何よりも、百済でウィジャ王と謀った時の様に高向が蔭から働きかけて動かすのでなく、高向玄里の息子イリが堂々と表だって暴挙を行ってしまったことは問題であり、確実に高向は唐の後盾を失うこととなる。

 

唐の力を後ろ盾に、唐に対抗できるほどの大国をつくろうという高向玄理の計画は、あえなく頓挫した。息子に高句麗を動かさせて、自分が和国から半島を牽制するなどということも不可能になり、高向の大望は一気に崩れてしまった。

 

イリには、それらは父高向に対する反抗でもあり、父の言いなりに生きてきたイリにとっては、高向に逆らうことで自分を取り戻すことができた。

 

父への反抗心と唐への反逆心が絡み合い、父に支配された人生を取り返し、自分は自分の道をいくというイリの親離れの代償は、あまりにも大きく、このことで生涯イリは唐から命を狙われ続けることになってしまった。

 

当代一の政治家・高向玄里には、倒行逆施とも思えるイリの暴挙の根底には、父に対する怒りや反抗が根深くあるということが理解できなかった。

 

 

イリは、高句麗を制した強烈さで、暴虐な自我を確立し大人になった。

 

イリは宰相でありながらも、およそ宰相らしからぬ屈強な武人である。

 

常に、身に5本の剣を俳し、外出する時は徒党を組み出かけた。

 

 

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イリの先触れを聞き、惧れ隠れぬ者はなく誰もが恐れおののいたが、一方でイリは、気楽に兵卒たちとザコ寝をしたりする様な気さくな一面もあった。

 

しかし、一度怒ると周囲の者が手の付けられないほどに暴れた。

 

恐れを知らないイリの強硬な姿勢は、東アジアに最強の武闘派としての雷名を知らしめ、高句麗にいながらにして豪気を払い三国(和・百・新)に威圧を与えるほどとなった。

 

そして皆、武力よりも

 

「何をし出すか分らない」

 

イリの危うさの方に不気味な恐怖を感じていた。

 

 

 

しかし、高句麗きっての武闘派であり安市城の城主だった楊万春将軍(ヤン・マンチュ)だけはイリの執権を頑として認めなかった為、イリは自ら兵を率いて安市城を攻めた。

 

 

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イリと楊万春将軍の攻防は二ヶ月以上に及びなかなか決着がつかなかった為、イリの同志でもあり、楊万春将軍と共に隋・高句麗戦に従軍した戦友、仲象将軍(テ・ジュンサン)が仲介にたち楊万春将軍を説得し、イリと楊将軍は互いに相手の実力を認め、鉾を納めた。

 

 

イリは、楊万春将軍を城主に復職させ、楊万春将軍は、イリを高句麗の宰相として認め共に反唐の誓を立てた。

 

仲象将軍(テ・ジュンサン)の仲立ちによって、高句麗最強の将軍を片腕に得たことは、イリにとって大きな強みとなる。

 

その昔、漢末の劉備のもと、関羽、張飛、という二人の豪傑が義兄弟となり支えた様に、楊万春将軍と仲象将軍はイリの双璧をなした。

 

 

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イリの強硬な姿勢は、その後も唐との間の緊張を高めていく。

 

イリは百済のウィジャ王と連携して新羅と唐との交通路である党項城を攻め、新羅の唐への通交を遮断した後、そのことに対する唐からの諭告の使者に対しても一切諂うことなく強気で不遜な態度をとっていた。

 

その一方でイリは、高句麗には無い道教をもたらすため宝蔵王に願い出て遣唐使を送り、叔達導師ら道教の道士8名と『道徳教』を高句麗へ持ちこんで、文化興隆を行うなどの智勇を兼ね備えた一面もあった。

 

権力の座は、武と法による統制主義だけでなく「礼教思想」による鎧でも覆う必要があることを、どかこでイリは、知っていたのかもしれない。

 

武力の向上心だけでなく、知識と情報を集めることにも貪欲であり、道士たちより道教の全てをイリは学んだ。

 

五行風水、とりわけ「遁甲術(忍術)」を懸命に学び、

趙義府配下の間者の育成に取り入れていった。

 

少年時代より修行に打ち込んできたイリは、何かを体得することに関しては人一倍努力する。イリは、僅かな期間で、世を睥睨するだけの気合いや学識をそなえた。

 

 

 

【和国・山背王没す】

643年、蘇我入鹿が、山背王を倒して自分が和王に即位しようと心を固めた頃、6月になって、高句麗から実行部隊を率いたイリが筑紫へと上陸してきた。

 

イリは新たに設置した直轄の諜報機関「趙義府」の監視体制を強化し、息子ナムセンや楊万春将軍に高句麗を任せて、表むきは高句麗使節として自ら来和してきていた。

 

しかし、武器等を多量に携えてきた為、和国への介入であることが疑われ、上陸時にちょっとした小競り合いが起きて紛糾したが、イリは強引に上陸し、あっという間に姿がみえなくなってしまった。

 

イリにとっては、かつて知った和国であり、少年時代までを過ごした懐かしい故郷だった。

 

(高句麗と違って、和国の風は温かい)

 

何年ぶりかの肌感覚と共に、和国で過ごした子供時代の意識が蘇ってくる。

 

イリはまず、育ての親である長老・大海宿祢に挨拶をする為に、丹後の国の大海の里に立寄った。

 

長老・大海宿祢は再会を喜び、イリはそのまま大海の里に留まって、裏日本側を廻ってやってくる関東から陸奥・甲信越にかけての和国での配下の者を集めた。

 

 

イリは、表向きは高句麗からの使節として来和してきている。

 

山背王の殺害という目的から蘇我蝦夷の目を逸らす為に、イリはもう一つの来和目的である唐・高句麗戦に備えた「援軍要請」の為に一度動いた。

 

蘇我蝦夷・入鹿親子らは、イリの姿が見えなくなった事に訝しみ、

 

(何故、来和してきたのか)、、と

 

神経を尖らせていた。

 

 

 

その、蘇我蝦夷の館へ、イリが突然やってきた。

 

 

「蘇我蝦夷よ!」と、

 

門の前に仁王立ちで大声を張り上げ、

 

「高句麗の宰相イリ・ガスミが参った!」

 

と叫ぶ。

 

 

豪胆というより、あまりの傍若無人なイリの来訪ぶりに、蘇我蝦夷は言葉を失った。

 

互いに一国の宰相である。

 

その上、このような型破りな壮(おとこ)は和国にも百済にも居ない。

 

人をくった無礼な来訪に蘇我館の者は、苛立ちを感じながらも、

 

丁寧に、イリを出迎えた。

 

 

(イリとはこんな奴だったのか)、、

 

 

と、蘇我蝦夷は呆れる。

 

しかし、イリのその壮漢な堂々とした佇まいには、目の前に立たれただけで高句麗の軍威が伝わってくるかのような重厚な威圧感がある。

 

蘇我蝦夷は気を入れかえてイリを饗応し、その用向きを尋ねた。

 

「高句麗は、唐との戦に備えている。その為、和国にいる突厥の残存勢力から徴兵させたい。」と、

 

厚かましい要求をイリはさらりと言った。

 

これは、即答で「否」と断られ、

 

「そうか!」と、

 

あっさりと引き下がり館を後にした。

 

 

蘇我蝦夷は、更に呆れ果てた。

 

 

蝦夷の目には、

 

勢いで乱を起こしたものの唐に攻められそうになり、

 

(気が動転したか、、)と見えた。

 

 

 

そしてイリは、蘇我蝦夷があっけにとられている間に、引き連れてきた手勢と和国での実行部隊をあっという間に組織して大海の里より斑鳩へと向かわせた。

 

全て夜間に移動し山中を抜け、山背から難波、斑鳩から飛鳥に至るまで伏兵として配置する。

 

山背王の居る斑鳩の宮から背後の山へ出て尾根を通り生駒山へ抜ける道筋を囲み、山背王の別宅のある生駒谷・平群谷への逃げ道も全て封鎖した。

 

(必ず山背王を倒す!)

 

ウィジャ王に自分の武威を示す絶好の機会であり、

 

高句麗を制したばかりで和国入りしてきたイリは、必殺の気合いは誰よりも強い。

 

 

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イリは内心、

 

「斑鳩の山背王だけでなく上宮法王家そのものを消してやる」と

 

考えている。

 

幼い頃に慕っていた母・宝妃が上宮法王の娘であるという事を知って以来、同じ上宮法王の血をひく者でありながら和国斑鳩で上宮王家として暮らしている者達と、三国を転々としなければならなかった宝妃の身の上の違いに憤りを感じていた。

 

 

イリの父・高向玄里は、そのようなイリの思惑などは余所に、唐の使節清安と来和してからは、そのまま和国へ留まって山背王の対唐政策の相談役として和国の政庁で顧問活動を粛々と続けていた。百済からの来訪者への対応の提案をしつつ、裏では宝妃とつながり、蘇我入鹿への介入を間接的に操作していた。

 

イリとはまだ顔を合わせていない。

 

中臣鎌足が、つなぎ役となり、イリの山背王の包囲が整ったことが伝わると、高向玄里は直ぐに宝妃を通じて蘇我入鹿を動かし、山背王へは、

 

「唐についての相談に参ります」と伝え、山背王を斑鳩の宮へと留めた。

 

 

643年10月、

 

蘇我入鹿はついに武将・巨勢徳太に、山背王を襲う様命令を下した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

巨勢徳太は、ただちに兵を起し山背王のいる斑鳩の宮を急襲する。

 

山背王は突然のことに驚き、山背王の側人や数十の舎人らが、蘇我入鹿の派遣した巨勢徳太や土師娑婆連らの軍勢と懸命に戦っていたが、山背王は馬の骨を寝殿に投げ入れ火をつけて、妃や子弟らと共に生駒山へ向かい逃げだしてしまった。

 

そのとき従っていた三輪文屋君は山背王に対し、

 

「深草屯倉(京都市伏見区)から馬で東国まで逃れ、王の私有民を中心に軍勢をおこして反撃するべき」と、

 

進言した。

 

これを容れ山背王は大急ぎで逃げようとしたが、高句麗からやってきたイリの伏兵らに方々を阻まれてしまい生駒山の山中から脱出できなくなってしまっていた。

 

 

【挿絵表示】

 

巨勢徳太将軍

 

巨勢徳太らは、斑鳩の宮の寝殿の焼跡に骨を見つけ焼死と判断し、一旦兵をまとめて蘇我入鹿のもとへ報告に戻ったが、その後すぐに、山背王が山中に逃げこんだとの報告があり、蘇我入鹿は近くに控えていた高向玄里に

 

「すぐに追手を出す様に」と言った。

 

しかし、高向玄里は

 

「私は宮を守るので」と出撃を断ってきた。

 

仕方なく蘇我入鹿は、自ら兵を率いて山背王の息の根を止めに出陣しようとするが、そこへ古人王子が止めに入り、

 

蘇我入鹿に対し

 

「ネズミは穴に隠れて生きるの、穴を失っては生きられない」と言い、

 

山背王をのぞいてしまったら、まだ誕生したばかりの蘇我政権は穴を失ってしまうことになってしまう、今はその中でこそ和国の専横が可能なのだということを諭した。

 

蘇我蝦夷は古人王子の説得に耳を傾け、ひとまず出陣を留まる。

 

 

しかしこの時既に、イリの伏兵は生駒山中に山背王を探し出していて、

 

追いつめられた山背王は絶対絶命の危機にあっていた。

 

生駒山を抜けることを諦めて、仕方なく斑鳩へと戻ったところをイリ達が包囲し、山背王らを殲滅して火をつけた。

 

山背王と、上宮法王の娘や息子たち上宮王家の者達は全て運命を共にした。これで上宮法王の血をひく者はイリの母・宝妃だけになった。

 

 

百済の武王、高句麗の栄留王に続いて、和国の山背王も亡くなり、親唐派の王を取り除くという反唐派の目的は達成された。

 

この後、三国は表面的には唐の冊封を受けながらも反唐派勢力が台頭していく。

 

 

蘇我蝦夷は、山背王か崩じたとの報をきき、その大逆に息子の入鹿が加わっていたことを知ると、被っていた大臣の証しである紫の冠をとり床にたたきつけて激しく怒った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「入鹿の大馬鹿者め!なんという悪逆を!なんと危ういことをしたのだ!」と叫び、

 

息子・蘇我入鹿の愚かな行いに地団駄を踏み何度も悔しがった。

 

 

 

そして、和国で権勢を誇っていた蘇我親子が、

 

とうとう、最後をむかえる。

 

 




【後書き】
余談、、その2

日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境がなかった件(朝鮮南部はまだ日本側だった説)。

3世紀の卑弥呼の時代以降、

4世紀〜5世紀は【空白の世紀】と言われるほど日本史がボヤける時代がやってきますが、朝鮮半島と日本列島の間の国境もぼやけたままです。

中国は分裂王朝の時代。六朝(南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)

倭王は、中国に使いを送り中国側の史書には【倭の五王】として5代に渡る記述がありますが、

卑弥呼の名が日本書紀に登場しないように、倭の五王の名も日本書紀に登場していないので、歴代天皇に比定しにくいようです。

中国側には「倭王は新羅、任那、倭国、など6カ国の軍事総督が認められ大将軍の称号を授与されたが、百済は含められなかった」という記述があり、

日本書紀にはこのストーリーは一切書かれてませんので、

この倭国の王とは朝鮮半島側にいた倭人のことでは?とみるむきもあります。

(※もともと倭人は朝鮮半島から日本列島にかけて住んでいた民族です)


日本書紀に出てくる雄略天皇が「武」という名を使っていた為、倭国の5代の王のうちの一人、
倭王『武』のことである!というのが通説ですが、

古代日本において「武」とは一番強い男という意味があり、武=タケルは個人を特定する呼び名でなく、その地域(国)で最も強い男の称号名乗りに使われていたものでした。

雄略天皇も、めっちゃ強いです。

ヤマトタケル
イソタケル
ワカタケル
クマソタケル
、、、強い男は皆さん『武=タケル』の称号です。

中国の種々の史書に、和国の5代の王が紹介されているものを、「武」の一文字だけで全て繋ぐにはやはり無理があるのか、この通説も仮説とされているようです。

和国統一戦の前の時代なので

日本書紀は大和王朝側の歴史を記し

中国の史書は九州王朝側の歴史を記している

と、理解すると分かり易いかもしれません。

朝鮮半島南部から九州、
或いは山陰山陽あたりまでを倭人の国々としてみる様な文化が私は好きです。

ですので、この小説の第一話には、

九州勢力(朝鮮半島南部含)

 対 

大和勢力の

和国統一決戦から

書かせて貰いました。

大渡王(継体天皇)が日本列島を総べたことにより、かつてなかった強い和国が誕生します。

朝鮮半島南部から九州にかけて、独自の海峡文化をつくり交易で栄えた製鉄の民たちの国々も消えていき、

日本列島と朝鮮半島の間に
明確な国境が誕生する時代に入ります。

国が強くなるほど、国境も明確になっていきます。

この後、親唐派政権が倒され
大化の改新を経て日本列島中に龍の如くパワーがうねっていき、強力な和国になっていくストーリーに繋げていきたいと思います。

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