自分の匂いというのは自分ではわからないもので、自分ではなんともないと思っていても、人から臭いと言われればひどく落ち込んでしまうものだ。だからこの状況はある意味喜ばしいことなのかもしれないが。
「ハスハス……クンカクンカ……んー、キミって本当にいい匂い!」
ちょっとは遠慮しなさいよ、と呟くと、私の体に顔を埋めていた少女、一ノ瀬志希はにゃははと笑った。
初めて志希を見かけたのは4ヵ月前、ちょうど学校では2学期が始まる頃。はだけた制服を着た彼女は、まるで物事全てに興味がないように光のない目をして、気だるげに電車の扉に寄りかかっていた。
午後5時46分発の電車は、午後6時からの帰宅ラッシュ時ほどではないものの、やはり乗る人は多く、人と人とのスペースはほとんどない。その時はたまたま彼女の隣に押し込まれてしまっていた。
そのまま20分程電車に揺られる。私は彼女のことが気になっていた。端正な顔立ちに似つかわしくないボサボサの髪の毛、それがまた可愛らしい。床にある、半開きになっていたバッグからは小難しい学術書のような分厚い本が覗いていて、まるで高校生離れした雰囲気すら感じられた。
彼女の観察をしていると、突然電車はけたたましい音をあげて急ブレーキ。油断していた私は隣にいた彼女に向かって倒れ込んで、彼女を電車の壁と私の体で挟むような体勢になってしまった。結構な勢いがついていたようで、彼女の頭が壁に打ち付けられる。鈍い音がちいさく響いた。
「ご、ごめん、大丈夫?……うわっ」
慌てて体を離そうとすると、急に彼女は私の背中に手を回してきた。抵抗しようにも、私の腕は彼女の腕が作る輪の中にすっぽりと収まっていて身動きが取れない。
「お、おーい……」
そのまま動かない彼女は私の呼びかけにも応じず、時間だけが過ぎていく。スーツの女性が女子高生にもたれかかって抱きしめられている絵面は強く、周りの人達がざわざわとし始める。顔から火が出そうなほど恥ずかしくなってきて、体を懸命に揺すっていると。
「くんくん……」
ようやく動き出した彼女はちょうど目の前にあった私の首筋を嗅ぎ始めた。
「くんくん……にゃはは!クンカクンカ、スーハースーハー♪」
やがて楽しそうに匂いを嗅ぎ始めた彼女の目には、キラキラとした光が宿っていた。
あの強烈な出会いの後、彼女は平日同じ電車同じ場所に乗っていて、残業のない日は毎日のように鉢合わせ、彼女のいいように使われていた。
顔を埋めて深呼吸されたり、抱きつかれたまま寝られて降りる駅を乗り過ごしたり、スーツを脱がされかけたり。彼女の行動は徐々にエスカレートしていく。私は疲れた体に鞭を打って、予想できない彼女の行動に応対しなければならなかった。
それでも、いい匂いだと言う彼女の笑顔が眩しくて、悪い気はしないのだが。
「でも、ちょっといつもと違うんだよなー」
いつものように匂いを嗅いでいた彼女が、ふと顔を私の服から離す。いつもの笑顔とは少し違う表情をして、不思議そうに首をかしげた。
「違う?」
「2つの匂いが混ざってるような……」
そう言って顔をまた首筋に近づけた。その行動にあまり抵抗をしなくなっていた自分が情けない。しばらくすると顔の位置はそのまま私の顔の方を向き、そしてニヤリと笑った。
「女の子の匂い……さてはキミ、女の子誑かしたね!」
「ちょっ、声でかいって」
慌てて彼女の口を手で塞ぐ。彼女の声は車両中に響いて、視線が一斉にこちらを向く。
「変に誤解生むこと言わないでよ。家出娘を助けてあげただけ」
「いひてはいっはいにおひういへるえー」
塞いだ手を物ともせずに、もごもごと口は動く。息の生暖かさが手のひらを蒸らして、思わず手をどけた。
「にしてはいっぱい匂いついてるねー」
「昨日いろいろあったからね」
「ふーん」
彼女の興味は一瞬のうちにどこか別のところへ行ってしまったのか、反応が薄い。なんだか恥かき損だ。
「あたしもキミの家に行ってみたいにゃあ」
「何言ってんの、志希は帰るところあるでしょ」
そう言うと彼女はムスッとして。
「…………あー、なんだか家に帰りたくないなー、家出したい気分だなー」
「そんな取ってつけたような理由でもダメ。だいたい、一人暮らしなんだから家出も何もないでしょ」
「にゃはーバレちゃった……」
彼女はシクシクと泣き真似をした。露骨にテンションが落ちた彼女を見てなんだか可哀想という感情が湧いた。
「……そんなに行きたいの?」
「行きたーい!」
「じゃあ条件、これからあまり匂いを嗅がないこと」
「えー……」
「じゃないと行かせません」
「ぶー、分かったよー。その代わり今ハスハスしよー!」
相変わらず女の子には甘いなぁと自分に一言。彼女は私に飛びついて、それから電車を降りるまで数十分、私は周りの視線に耐えながら、彼女にハスハスされ続けた。
音の少ない夜の帰路の途中、空を見上げると、だいぶ傾いたところに月が浮かんでいた。はっきりと見えるのは半月から少し欠けた三日月型で、その月の陰の部分もぼんやりと弱い光で包まれている。
「珍しい月……」
「んー、ほんとだー!地球照だね!」
「地球照?」
「そうっ!太陽の光が地球に反射してうすーく光って見える現象ー」
「へぇ、詳しいね」
「フフーン!シキちゃんは天才だからねー」
得意気に鼻を鳴らす彼女は、お世辞抜きで本物の天才である。ギフテッドという、生まれつきずば抜けて頭がいい子だったようで、飛び級に飛び級を重ねて海外の大学に行き、それも簡単すぎてつまらなかったのか、日本に戻って高校生をしているらしい。天才の考えることはよくわからないものだ。
そんな彼女と談笑していると、ふと彼女は何かに気づいたように目を見開かせ、それからすぐに走り出した。
「ちょっと!」
「キミの匂いがするところに行けばいいんだよね!」
「そうだけど……!」
まだ少し距離があるがそれも気にしない彼女は一目散に走り出した。急いで追いかけても家につく頃にはもう見失っていて、見つけようにもすっかり陽の落ちた夜の闇は深い。仕方なく家の中へ入ると、鍵は開いていて、玄関には靴が乱雑に脱ぎ捨てられていた。
「いったたた……」
周子の声が聞こえる。玄関の引き戸を開けると、キッチンで、尻餅をついている周子に覆いかぶさった志希が首筋に顔を近づけて深呼吸しているのを見た。
「ぁ……お、おかえり」
「……ただいま」
困惑している周子のために、後ろから志希を引き剥がす。これから始まる騒々しい夜を予期すると頭が痛くなった。
「こっちが志希で、こっちが周子」
「どうもー、よろしゅーこ♪」
「にゃはは、よろしくー!」
志希のテンションもある程度落ち着いたところで初顔合わせ。周子はさっきのことはあまり気にしていないようだが、志希も志希で全く悪びれる様子はない。
周子は今日は自分がご飯を作ると言って、キッチンに篭っていて、志希も隣でその様子を見ていた。
「ねぇねぇ、あたしはどんな匂いするの?」
「んー、周子ちゃんはねー……くんくん……シンナムアルデヒド……シナモンの匂いがする!」
「シナモン……あ、八つ橋の匂いかな?」
「そーかも!あたし、周子ちゃんの匂いも好きだにゃー」
「おお、嬉しいこと言ってくれるねー」
「でも1番好きな匂いはー……」
2つの顔がソファーに座ってくつろいでいる私の方を向く。志希がキッチンを抜け出してこちらにじわじわと近づいてきた。
「はいはい、志希は匂い嗅ぐの禁止」
「そんなー」
「それに周子は大丈夫なの?昨日はあんなんだったのに」
「だから言ったでしょ、あたし1回寝たら気持ちリセットできるってねー」
「わお、周子ちゃんすごい!」
「でしょでしょー」
志希のテンションが移ったのか周子のテンションも高くなっていて、少しホッとした。
「よし、もう少しでできるよ」
「じゃあ志希、お風呂洗ってきて、どうせ暇でしょ」
「えー……めんどくさい」
「……仕方ないなぁ、終わったら私の匂い嗅いでもいいから、ってもういないし」
気がつくともう志希はお風呂場でゴキゲンな鼻歌を鳴らしている。現金な彼女にやれやれと頭を抱えていると、ふとキッチンにいる周子がこちらにひょこりと顔を出した。
「あのさ、昨日の話だけど」
真剣なトーンで話す周子に、私は思わず背筋を伸ばした。
「あたし、アイドルやりたい」
「本当に?」
「うん、和菓子屋の看板娘もいいけど、それっていつでも出来るなーって思って。だったら今しかできないことやった方が楽しいでしょ?」
笑顔で語る彼女はとてもすっきりとした雰囲気があって、とてもじゃないけど敵わないなぁという気分にさせられるほど、キラキラとしたオーラがあった。
「だから、あたしを綺麗なシンデレラにしてね、柚希さん♪」
「今更さん付けはちょっとむずがゆいね」
「あたしのプロデューサーになるんだから、ちゃんと上司は敬っていかないとねー」
「まぁそういうことにしとくよ」
「なになに、なんの話ー?」
気がつくとお風呂を洗い終わった志希が興味津々に私達の話を聞いていた。
「アイドルやるって話だよー」
「なにそれ面白そう!」
「ん、志希ちゃん聞いてないの?あたしてっきり志希ちゃんにも話してるのかと」
「あたし聞いてないー!あたしにも教えて教えてー♪」
「ああ、そっか、すっかり忘れてた」
周子をスカウトして満足してたけど、志希も確かに端正な顔立ちの美少女だ。
「志希、ちょっと来て」
「はーい♪」
志希は私に呼ばれソファーに座った。そのまま匂いを嗅ごうとしたので手で静止して、ポケットの名刺入れから名刺を取り出す。
「私、一応こういうことしてるの」
「ふむふむ、アイドルのプロデューサー……面白そうだね!」
「まだ駆け出しだけどね。もしよかったら、アイドルやらない?」
「いいよ!どうせ暇だし、楽しい方がいいもんね!」
あっさりと志希はアイドルになることを受け入れて、私に抱きついた。
「学校もつまんないし、暇つぶしにはなるでしょ?」
「いつか暇なんてなくしてあげるよ」
「にゃはは、言うねー!そーいうとこあたし好きだよ」
「ん、ありがと」
頭を撫でてやると志希は気持ち良さそうにしながら、鼻を鳴らして当初の目的を晴らしていた。
「お熱いところ失礼するけど、ご飯できたよー」
「わーい♪」
「周子もしてほしい?」
「後でお願いするわー」
済ました声で周子は言うが、その耳がピンク色になっていたのを見逃しはしなかった。
周子の作るご飯は、私のとは違い薄味で品数が多い。私と志希がべた褒めしながら食べていたので、食べ終わるまでにいつもの2倍くらいの時間がかかってしまった。
「周子ちゃん料理うまいんだねー!」
「家で作ってたからねー」
志希は相当お気に入りのようで、私がゆっくり食べていると、横から箸を伸ばしてくるほどだった。
「今度は志希の料理も食べてみたいな」
「あっ、それあたしも」
「んー、あたしの料理は変な色してるよー」
軽く談笑していると、軽快な音楽とともに、お風呂が沸いたことを知らせるアナウンスが鳴った。
「お風呂沸いたみたい」
「志希ちゃん最初入る?」
昨日のこともあってか、あのお風呂に入ることに少し抵抗があった。それは周子も同じのようだ。
「んー、あんなに広いんだし、みんなで一緒に入ろうよ!」
「一緒に?」
「そう!1人じゃ絶対寂しいし、つまんないと思うんだよねー」
盲点だった。お風呂は1人で入るものだと勝手に思っていたから、その提案は私にとってとても魅力的なものだった。
「……そうだね、一緒に入ろう。周子は着替えある?」
「あるよー」
「志希は?」
「んー、あたしは白衣だけー」
「それだけ?」
「んー、普段はこれだけー」
「……下着とか用意するね」
「にゃはは、お願いしまーす」
志希の分の下着を探しに自分の部屋へ向かう。タンスを開けて、私が昔使っていた下着をいくつか見繕った。ふと顔を上げると、机の上には写真立て、それが立った状態で置かれていた。
突然、もやもやとした気持ちが心を覆う。なぜこれが立っているのか、そんな些細なことはもうどうでもよくて。私はその写真を手に取ったまま、しばらく動けなくなっていた。
「…………ごめん」
小さく呟くと、潤んだ目からは涙が溢れかけていて、思わず袖で涙を拭う。
「柚希さーん、ありそうー?」
相当時間が経っているのが心配になったのか、周子が部屋に入ってきた。私はハッとなって写真立てを伏せて置いた。
「…………それって」
「いや、大丈夫。周子、お風呂入ろ」
何か言いたそうにしている周子を促すように部屋を出て、階段を降りる。この気持ちはそうすぐには引っ込まないようで、途中でもう一度涙を拭った。