少しだけ加筆修正しました。
高校戦車道大会が劇的な結末で終え、世間の熱が落ち着き始めた頃。世の学生は夏の長期休業に突入していた。
あるものは学園艦を降り両親が待つ実家へ帰り、あるものは学園艦に残り部活動に励む。春樹の場合は前者であった。戦車道も落ち着き、しばらく学生戦も無いため家でゆっくりするつもりだった。
「あんたしばらく見ない間にまたでかくなったでしょ!?」
居間のちゃぶ台に頬杖を着く春樹の頭を母親が無造作に撫で繰り回す。
「俺は犬か猫かよ。」
「なーに言ってんの!お母さん心配だったんだよ、アンタが小さいままだったらどうしようって。」
「そうかよ。」
帰ってくるたびに成長している我が子が嬉しいのだろう。春樹は無抵抗でそれを受けていた。
「春樹、あのランサー普段使いには不便すぎないか?」
暫く見ない間に変わっていた息子だけではなかった。すっかり競技仕様に生まれ変わった車を見た父親は心配そうな顔をしていた。
「夏は扇風機があるし、日中の運転を避ければそうでもねーぞ?」
「確かにそうだがな…まさか彼女をあんな車に乗せる気じゃないだろうな?」
「え!?アンタ彼女出来たの!」
「……いるわけねーだろ。」
母親がしきりに問いただして来るのをあしらいながら春樹は父親の言葉も一理あると思った。確かに北海道の研修の時ミカはかなり熱そうにしていた。それにお世辞にも乗り心地が良いとは言いにくい。ついでに燃費も悪くLSDのせいでタイヤも変に摩耗する。ユミのRX-8を羨ましいと思った事は何度もあった。
「実はな、知り合いにラリーのサービスを頼まれてんだが…そいつが車を乗り換える予定らしい。」
…そう来たか。
「んで、俺が行けばその車を譲ると?」
「お、良く分かったな。どうだ、行く気になっただろう?」
「…まあ、それなら。」
相変わらず面倒ごとの押し付け方が上手い父親に春樹は苦笑するのだった。
「で、どこでやるんだ?」
「熊本だ。九州に行く機会なんて滅多にないだろう?楽しんで来い。」
春樹がサービスとして参加するラリーはいわゆる地方大会だった。全日本大会と比べて規模は小さいが、その分アットホームな雰囲気があるのが春樹は好きだった。
山奥の朝方は初夏であるもののまだ肌寒い。テントを設営してお湯を沸かす。
「君が本田さんとこの息子さんだね?僕は福永。今日はよろしく頼むよ。」
程なくして今回お世話になるチームの代表が現れた。ちなみに車両はランサーエボリューションⅩだった。
「はい、よろしくお願いします。」
「実は急遽ウチからもう一台出場することになってね。人手が足りなかったんだ。」
「参加台数が増えるのは良いことじゃないですか。」
「そうだね、僕の妻の母校の生徒さんなんだ。どうも若い子の相手は苦手でね…。」
福永は苦笑いをして頭を掻いた。程なくして見覚えのある車が現れた。深紅色のWRX-STIだ。
「……まさか。」
「あっれ?なんでこんなとこにいるの?」
車から降りてきたのは同じように赤い髪をした活発そうな少女だった。
「エントリーリストを見てまさかと思ったら。武者修行か?ローズヒップ。」
「もっちろん!来年こそは師匠をぎゃふんと言わせないと!」
学校にいるときのようなへんてこな喋り方をしなくていいからか、ローズヒップはとても自然体だった。余談だが、北海道の研修以来ローズヒップは春樹の事を師匠と呼ぶようになった。案外春樹も気に入ってているので特に文句は言わなかった。
「ごきげんよう春樹さん。今日はどういった御用でここに?」
大してダンデの方はますますお嬢様気質に磨きがかかっているようだった。
「福永さんとこのサービスにな。お前たちの世話を任された。」
「そうなのですか…。それは頼もしいですね。短い間ですがよろしくお願いいたします。」
ぺこりとダンデは頭を下げた。その仕草は優雅そのものだった。
「お前だんだん英国淑女に似てきたな…。」
「そうでしょうか?」
「あまり紅茶は飲みすぎるなよ。大きくなれないぞ。」
「えっ…そ、そうなんですか?どうしよう…最近ほとんど毎日…。」
春樹の言葉に動揺したダンデは困った様子でうんうん唸りだした。面白いので放っておくことにした。
「それで、この車には慣れたのか?」
「大分ね。今はセッティング出しに苦労してるけど。」
大柄なボディに強力なエンジン。最新のサスペンションを持つWRX-STIはランサーエボリューションシリーズが生産を終了をした今、最後の国産ハイパワー4WDの砦だった。
「すげーな…こんな長い間作ってまだ改良するのか…。」
春樹はそんな孤高のマシンの心臓部をみて感嘆の声を漏らす。それはインプレッサが生まれる前、レガシィRSがWRCに出場している時代から使い続けているエンジン。EJ20だ。水平対向四気筒のボクサーエンジン。その恩恵は重量バランスが最適化されたコーナースピードであった。ターマックのスバル、グラベルの三菱、オールラウンダーのトヨタ。かつて日本車勢が席巻したWRCはこのようにそれぞれ個性があった。
そして今日のラリーは舗装路を使ったターマックラリーだ。これは是が非でも勝ってほしいものだ。
「本当は一回ばらしたいらしいよ。」
「…てことはアタリをだしただけなのか。そんじゃあこれからだな面白くなるのは。」
「人間もまだまだ早くなるしね。」
ローズヒップは自慢げに胸を張る。
「確かにな。楽しみにしてるぞ。」
「ローズヒップさん、レッキ受付が始まりましたよ。」
「はーい。」
ダンデとローズヒップが大会本部があるテントの方に歩いていった。暇になった春樹は先ほど沸かしたお湯でコーヒーを淹れるのだった。
「ストレート50、4R&7Rプラス…キンクス30…」
レッキ走行が始まり、二人は今回のコースがどのような状態なのかをノートに書き込む作業をしていた。いわゆるペースノートというやつだが、ダンデは少しこの作業が苦手であった。
「ストレート10…7R~5Rマイナス…ストレート10…アウトスリップ…」
ローズヒップはたとえわずかでも真っすぐな道があればストレートと書き込ませるので、情報量が多くなりがちなのだ。それ故書くスピードが間に合わず基本的に目に見える景色と今書いているコースとズレが生じてしまうのだ。最近やっと慣れてきたが、最初の内は車載カメラが必需品だった。
「大丈夫?間に合ってる?」
SS区間が終わり、必死に鉛筆を走らせるダンデを見てローズヒップが心配そうに声をかけた。
「大丈夫、今終わった。」
ストップの看板を通り過ぎてダンデはラリーコンピューターのトリップをリセットさせた。コ・ドライバーの仕事はナビゲートをするだけには留まらない。コマ図(SS区間までの行き方が記された地図のようなもの)の通りに道順を指示しなければいけないし、ラリーコンピューターを設定する作業もある。前を見ている時間は殆どなく、手元を見ている時間の方が多いくらいだ。
「凄いなぁ。私だったらすぐ酔っちゃうよ。」
「もう慣れたから。」
熱くて揺れる車内で細かい作業をするため最初は車酔いでぐったりすることが多かったが、体力が付いてくるようになったのか最近は酔うこともあまりない。
「それより次はペース上げて走るよ。ちゃんと車にも気を配って。」
「もっちろん!」
前の車がスタートしてからちょうど一分後に走り出した。先ほどが30km/hとしたら今は50~60km/hの速度で走る。それでも本番のペースに比べたら遥かに遅い速度だ。
ちょっと足が柔らかすぎるかな…。
今回の路面は最近補修を終えたばかりの道路なこともあり、非常に綺麗だった。いつものセッティングではバネが柔らかすぎてコーナーリングスピードが稼げない。
「フィニッシュ、ストレート30ギャップ5L」
フィニッシュラインを過ぎてからすぐ直線と少しだけ緩やかなコーナーが現れる。そのコーナーの途中に舗装の継ぎ目があり、それが大きな段差を作っていた。
「…ここだけ気を付けよう。」
競技速度であればこの段差は無視できない存在だった。
「どうだった今日のコースは?」
レッキから帰ってきたローズヒップは早速セッティングについて尋ねてみた。
「そうだな…確かに固めても良いかもな。」
「でもあのギャップが怖いし…。」
「それならなおさら固めても良いんじゃないか?ギャップの手前でフルブレーキするんだし。」
固いバネレートにして4輪がしっかり接地するようになれば、その段差の手前でしっかり速度を落とせるはずだ。
「それもそうか…よし!バネを変えよう。」
「その前に開会式あるから。」
「足は任せとけ。そのためのサービスだろ?」
普段の癖で全部自分でやる算段をしていたが、そうだった今日は腕のいいメカニックがいるんだった。すっかり忘れていた。
「じゃあ任せても良い?バネは出しておくから。」
「おうよ。」
付け替える予定のスプリングを部品庫から取り出して並べてから二人は開会式会場に消えていった。
「さて、さっさと終わらせるか。」
車両をジャッキで持ち上げ、リジットトラックに乗せてからタイヤを外す。すると真新しいサスペンションが姿を現した。
「おぉ…さすがお嬢様学校。良い足使ってるな。」
ボルトを数本緩めるとサスペンションが外れる。ここはストラット式サスペンションの強みだ。構造が簡単で安価、それに丈夫なのでラリーベースの車両は殆どがストラット式を採用している。
スポーツカーに多いダブルウィッシュボーン式サスペンションはどちらかと言えばサーキットを走るときに有利なのだ。
「…これじゃあ確かに柔らかいな。」
サスペンションに取り付けられているスプリングは目に見えて細いものが使われていた。レンチでロアシートを緩めてからアッパーマウントを外す。そして新しいスプリングに入れ替えてから逆の手順で組み込んでいく。反対側も全く同じ手順だった。
「…よし、フロントは終了っと。」
メーカーが違えどよほどのことがない限りは足回りの構造は似たものが多い。特にホンダのダブルウィッシュボーンと三菱、スバルのマルチリンクは構造が似ていた。
ホンダ車の多い聖グロリアーナがスバル車を投入しだしたのもそこら辺の理由があるからなのかもしれない。
リア周りも問題なく作業を終え仕上げのアライメント調整に移る。
「……なんだこりゃ?」
計測値を見た春樹は眉をひそめた。明らかに安定志向の、もっと言ってしまえば市販車と全く同じ角度が付いていたからだ。これではすぐにアンダーが出てしまい思うようなコーナーリングは出来ないだろう。そう言えばアッパーマウントは純正形状のままだった。普通ストラットの競技用であればキャンバー角が調節できるピロアッパーマウントが付いているはずだからだ。
よほどの理由があるのだろうか?アイツ等が戻ってきたら聞いてみよう。
「いやーまさかストラットにそんな利点があるとは思わなくてー。」
ローズヒップに先ほどの事を聞いてみると開口一番「ほえ?」と素っ頓狂な声を上げた。詳しく聞いてみると、整備こそは自分でするもののセッティングのやり方が全く分からないらしい。
「まさかそんなセットでラリーやってたとは…。」
「だからそのための武者修行なんだってば!」
どうやら学生ラリーからわざわざセッティングを市販車仕様に戻してローズヒップに渡した模様。あちらの部員もなかなか意地の悪いことをする。
自分で走ってセッティングの大切さを知る。それがローズヒップに与えられた課題らしい。
「はぁ…ご丁寧にピロアッパーまで用意してあるし。」
「あ、それピロアッパーって言うんだ。乗り心地悪くなりそうだから敬遠してたんだよね。」
確かに乗り心地は悪くなるがそれ以上に余りある利点がある。コーナーでのタイヤ接地面積を上げるにはピロアッパーが必需品なのだ。
「とりあえずコイツはつけるぞ。セッティングはウチの部で定石になってるので良いか?」
「うん、それでお願い。」
折角付けたサスペンションだが、また外さなければならない。まあ、明日になって慌てるよりははるかにマシだろう。
「ほら、お前らはノートの清書でもしてろ。」
開会式を終えればあとは各々自分の宿に向かうなり、残って作業するなり自由だ。
「SS2,4,6の所で微妙なところがあるからちょっと確認して。」
車載映像をノートPCで見ながら二人はペースノートのおさらいを始める。
「順調かい本田君。」
公式車検を終えた福永が水を片手に現れた。
「ええ、とりあえずはですが。」
「そう言えば本田君は学生ラリー選手権のチャンピオンなんだっけ。」
「まあ一応は。」
「しかもエボⅣで今どきの車たちに勝てるなんて凄いよ。」
モータースポーツ、特にラリーという競技はベースとなる車の性能に左右される。毎年のようにマイナーチェンジを重ねるスバル、全く別の車両と言っても良いフルモデルチェンジを繰り返す三菱。どちらにも言えることは新しくなるほど性能が上がっているという事だ。春樹の乗るランサーエボリューションⅣは1996年に製造された車だ。ローズヒップのWRX-STIとおよそ20年もの差がある。
「好きな車には勝ってほしいですからね。…意地なのかもしれません。」
「僕なんかさっさと速い車に乗り換えちゃったからね。君みたいに腕を磨く暇も無いから。」
「福永さんもまだ若いじゃないですか。」
自分でアラフォーと言っているから30代なのは確かだ。
「家庭をもって仕事もあって、なかなか自分の時間って無いものだよ。こうして年に数回地方戦に出られるだけでも幸せなんだ。だからが君たちが凄く羨ましく見えるんだよ。」
そういうものなのだろうか…。10代の春樹にはあまりピンと来ていない様子だった。
「はっはっは!無理に理解しようとしなくて良いよ。君たちは今が大切だからね!」
そう言って春樹の背中を叩く。
ミカみたいなことを言い出したと思ったら今度はユミみたいなことを…。
「師匠ぉ…ちょっと相談がー。」
「待ってろすぐ行くから。」
…まあ確かに今は楽しいな。
そんなことを思いながらきりの良い所で作業を中断し、ローズヒップの所へ向かった。
「あ、あったったエンジン規定の項!」
大洗女子学園も世間の例にもれず夏休みの期間に入っていた。劇的な優勝を収め、廃校の危機を免れたためかこの夏休みはいつもよりも特別に感じる。
「どれどれ…。」
しかしいつもと変わらない光景が自動車部の部室に広がっていた。今回の決勝戦を通じて実感したのは自分たちの戦車の出力不足だ。重い車体に見合った出力が古いモーターでは出しにくいのだ。そこでエンジンをチューニングし、発電量を上げようと画策したのだ。今は戦車道大会のレギュレーションを確認している段階だ。
「うーん…どうにもエンジンは細かいね。」
ポルシェティーガーの場合でもエンジンの最高出力を上げるのはかなり条件があるようだ。
「じゃあやっぱりモーターかなぁ?」
「でもモーターなんて今までいじったことないしなぁ。ミニ四駆くらいしか。」
「あー分かる!一からコイルを巻きなおすんだよね。」
「ちっちっち…甘いなぁホシノ、スズキ。本気でやるならコイルを削って角型にして接触面積を上げるくらいのことはしなくちゃ。電池の性能には限界があるからね!」
「それだ!」
ツチヤの言葉にナカジマは大きく反応した。
「……へ?」
「エンジンの出力が決められてるなら発電機とモーターの効率を上げればいいんだ!」
「だからその方法が分からないんだってば。」
ホシノは呆れ顔だった。まだ良くナカジマの考えていることが分からないようだ。
「だからね、皆で図書館…行こ?」
人差し指同士を合わせて上目遣いという実に可愛らしい仕草で他3名を落としにかかる。普段見ることのないナカジマの仕草に3人は困惑の表情を浮かべた。
「そ、そこまで言われちゃぁ…ねえ?」
「まあレオポンのためだし。」
「勉強…しようか。」
4人はいつもの作業着から制服に着替える。夏休みともなれば殆ど作業着で過ごすことが多いのだが、まさか制服を着ることになるとは思いもよらなかった。
「夏休みでも図書館で勉強なんて私たちはなんてまじめな生徒なんだろうねー。」
ツチヤがそう言って図書館の扉を開ける。案の定図書委員以外の生徒は誰一人としていなかった。
「それじゃあ手分けしてモーターに関する本を探そう!」
かくしてレオポン改造計画が秘密裏に開始されたのであった。
黒森峰女学園の学生寮、その一室にまほとエリカが神妙な顔つきで座っていた。
「エキシビション…ですか?」
「ああ、優勝校が主催する記念戦。それ自体は毎年執り行われているだろう?」
まほが一枚の紙を取り出す。それはエキシビションに参加するか否かを確認するための書類であった。
「エリカはどうすべきだと思う?」
これは雪辱を果たす絶好のチャンスなのだろうか。しかしこれはエキシビションマッチ、言ってしまえばお祭りのようなものだ。勝敗よりも優先すべきは楽しい試合、そして大切なのは盛り上がる試合をすることだ。そんな場所に私たちが出てしまっては水を差すことになってしまう。それに今は車両の修復の方が先決だ。
小梅のパンターもやっとOHに出すことが出来た。無理に試合をして消耗するよりも先にやるべきことがある。
「見送るべきではないでしょうか。」
「そうか…私もそう思う。よし、この件は見送る方向で決まりだな。……それと別件なのだが。」
そう言ってまほは机の引き出しからまた別の紙を取り出した。
「学生自動車連盟からだ。目を通してみろ。」
おおっざっぱにまとめると、そこには正式に連盟に加入して欲しいという要望が書かれていた。その理由としては継続高校が”高校枠”から外れるためらしい。
「……どういう意味でしょうか?」
「ああ、来年度から継続高校が工業高等専門学校へ変わるらしい。」
実はかなり前からそう言う話はあったらしい。初めは工業高校のように機械分野を専門で学ぶことが出来る程度だったのだ。しかし次第に設備が充実していくにつれて講師も増え授業内容も多角化、自由化していき大学に近い授業形態になっていった。それに加え自動車部の活動や、戦車道の成績の評価もあり文部科学省が正式に決定したようだ。
そのため継続高校は高校枠と大学枠の二つの枠を持つことになり、学生自動車連盟は継続高校を大学枠に置くことに決めた。そうすると高校枠の連盟委員が減ってしまう。そこで黒森峰に白羽の矢が立ったわけだ。
「つまり新たに自動車部を発足してほしいと、そう言うわけですね?」
「部活動を作る必要は無いのだが…。あった方が都合が良いのは確かだ。」
黒森峰は戦車道連盟に大きな影響力を持っている。そして戦車道連盟と自動車連盟は深い関係がある。今後の事を考えればこの要望は受けるべきなのかもしれない。
「まずは人を増やしてみましょう。それが駄目なら了承したとしても上手く機能しないでしょうし。」
「そうか…。」
そう言ってまほは紙にさらさらと何かを書き始めた。
「まずは一人。お前も乗るか?」
それは部活動登録申請の書類だった。部員名の所にまほの名前が書いてある。
「…良いんですか?」
「たまには息抜きも良いだろう。」
エリカは力が抜けたように肩を落とし、まほの手から紙を受け取った。そして自分の名前を書き込む。
「それじゃあ部員集めに行きましょうか。」
「え、自動車部ですか?」
戦車道のドッグで工具の整理をしていた小梅を見つけた二人は早速勧誘してみた。
「別に強要するつもりは無いわ。興味があったらで―」
「入ります!」
エリカが言い終わる前に小梅は勢いよく手を上げた。
「なんでそんなに食いつきが良いのよ!」
「あの時一緒にラリーのお手伝いをしたでしょ?それで車も面白そうだなーって。」
「そんな簡単に決めていいの?授業と戦車道だけでも大変なのに…。」
小梅は首を横に振って笑った。
「それは逸見さんも同じでしょ?それに…その先に逸見さんの目指すものがあるなら近くで見てみたいの。」
あくまで真剣な顔でエリカを見つめる。
「す、好きにしなさいよ…。」
先に根負けしたのはエリカだった。
「これで三人だな。一応あと二人集まれば部としては認められるが。」
順調な滑り出しだとまほは満足そうだった。大してエリカは難しい顔をしていた。
ここまでは予想通り、問題はこの後だ。ここ数か月の他の生徒たちに対する態度を鑑みて、エリカが苦手な人間の方が多いはずだ。それに隣にいるのはあの西住まほ。この二人が並んで歩いていたら普通の生徒は無言で避けていくだろう。
「あー副隊長、丁度良い所に!」
そう。数少ない例外を除いては。
エリカと同じティーガーⅡに乗るメンバー二人が声をかけてくる。誰よりも近くでエリカを見ていた彼女たちはエリカの性格や、人となりをしっかり理解している。
「なによ、こっちは忙しいの。適当な用だったら許さ―」
「実は両親から車を貰えることになって、普通免許について教えて欲しいんですけどー。」
「実家の倉庫に眠っていた車を動かせたら乗って良いと言われて…。どうしても乗りたくて…その…どうすれば良いのでしょうか?」
「お前たち、丁度良い。今度新しく自動車部を作ることになった。興味は無いか?」
「入ります」「入ります」
とても自然な動作で二人は入部届に名前を書き込む。
「だから!なんでそんなにスムーズに話が進むのよ!?」
納得がいかないと言った様子で二人に突っかかる。
「だって私たち昔っから車が好きでしたし。」
「周りのみんなは戦車ばかりで話題も無くて…。」
その後も小梅の協力もあり新たに4人入部を表明してきた。確かに潜在的に自動車が好きな生徒は多いらしい。ユミの言うことは本当のようだった。
「私は彼女たちの事をあまり理解していなかったようだ。」
「……私もです。」
まさかここまで積極的な子が多いなんて。お堅い子が多いと思い込んでいたこと自体が頭の固い考え方だったようだ。
「本格的な活動は夏季休業明けになりそうだな。それまでは活動内容や、細かいことを決めよう。」
「不明な点は知り合いに聞いてみます。」
「ああ、任せる。」
再び寮の一室で話し合っているときふとエリカはチクリと胸が痛んだような気がした。その原因はもう分かっている。暫く顔も見ていない。隊長の言うことをきっちりと守っているようで、決勝戦にも姿を現さなかったあの男のことを。
春樹の事を考えれば考える程もやっとしたものが胸の中を渦巻くのだった。
……アイツは今頃何やってんのかしらね。
そしてその相手は案外近くにいるのだった。
「まずはRH6クラス優勝は9号車、聖グロリアーナ武者修行WRXのローズヒップ選手、ダンデリオン選手ー!」
表彰台に上がるローズヒップの表情はどこか浮かない様子だった。
今回のラリーの内容はローズヒップの圧勝と言っても良い結果だった。SS1で二位と30秒の差をつけ、1ステージは2分の大差が開いた。そこでこのままでは武者修行にならないと春樹はあることを提案した。
タイヤのグリップを意図的に落とすことで強制的に車の性能を下げさせたのだ。これはSSの距離が長い学生ラリー選手権を見越したものだった。するとローズヒップのタイムはみるみる落ち始めた。曲がらない車をテールスライドさせて無理やり曲げていくが、それではどんどんタイヤが減ってしまう。このままでは再車検で失格になってしまう恐れもある。結局どうすることも出来ずに前半のタイム差のおかげで何とか優勝することが出来たのだ。
…成程確かに一発の速さは彼に追いついてきた手ごたえはあったが、総合的な速さではまだまだ練習の余地がある。
「どうだった後半を想定したセットの味は?」
「曲がらない、止まらない、加速しない…こんなんじゃ車の性能の半分も出せやしない。」
「ダンデはどう感じた?」
「ローズヒップが苦戦しているのを凄く感じました…。あまりいじめないで上げてください。」
何となくダンデの春樹を見る目が冷ややかに感じる。確かに突然不安定な車に乗せられて気分が良いものではない。
「まぁ良い練習になったから良いか!ダンデ、帰ったら走り込むよ!」
少しだけ重くなった空気をローズヒップが吹き飛ばす。この切り替えの早さと持ち前の明るさは彼女の大きな武器だ。
「その前にエキシビションの事を忘れないで下さいね?」
「う…わ、分かってるよ。」
どうやら聖グロリアーナは大洗で行われるエキシビション戦に参加するらしい。ちなみに我が継続高校は観戦には行くが、参加はしない。「今はまだその時じゃない」とのことだ。
「本田君、そろそろ行こうか。」
福永に促されて春樹は荷物をまとめる。この後いよいよ車とご対面だ。ローズヒップたちと別れて福永の運転する積載車に乗り込んだ。
程なくして倉庫のような場所に着く。リフトやタイヤがあることから、ここが彼の秘密基地のようだ。
「車仲間と共同して建てたんだ。中にはエアコンも完備してる。」
休日はここで車を整備したり、仲間たちと世間話をするのが楽しみらしい。
ガレージの奥にカバーが欠けられた車があった。
「よっこいせ!」
福永がそのカバーを外すと、綺麗な青色のボディが姿を現した。
「…デルソルですか。」
ホンダCR-Xデルソル。型式がEGであることから分かるようにEG系シビックの系譜だ。他のSIRがハッチバックを多く採用する中この車はオープン・クーペという稀有なスタイルを踏襲している。
「ちょっと待ってねバッテリー持ってくるから。」
倉庫から新品のバッテリーを持ってきた福永はボンネットを開け、手早く取り付ける。
「…よし、これでエンジンはかかるはずだ。」
福永がバッテリーをテスターで確認する。続いて運転席に座りアクセルを数回踏み込んでからセルモーターを回す。
キュキュキュ……ブッ…ブッ…
長い間動かしていないのか少々エンジンの掛かりが悪いようだ。
ブ……ブッ…ブゥオオオオ!
程なくして無事エンジンか回りだす。
「キャブレターはいじったことあるかい?」
「毎日のように触ってますよ。」
何せ戦車のガソリンエンジンは最新式のFI車であるはずがなく、むしろこの車に搭載されているキャブレターが新しく見える程だ。
「あれ?EG1ってそこまで古い車でしたっけ?」
「エンジンはD15Bって型式でエンジン自体は昔からあるんだ。この車は94年式本当はPGM-FIだよ。でもこのエンジンはEF6のD15Bが乗ってるんだ。」
つまりこの車はわざわざ古いエンジンに乗せ換えられているわけだ。そこまでしてキャブレターに拘るという事は相当この車が好きなのだろう。
「でもなんで突然乗り換えることに?」
「これから家族が増えてってなるとオープンカーは不便すぎるからね。ただでさえ競技車を持ってるんだから、早いうちに手放して君みたいな子に託すのがこの車も嬉しいはずさ。」
この日のために準備をしていたのだろう。塗装剥げもない綺麗な青色のボディがきらりと光る。
「すぐに帰るのかい?」
「せっかくなのでちょっと観光がてらドライブしてから帰るつもりです。」
「それは良いね。是非楽しんでいくと良いよ。」
手荷物をトランクに押し込む。想像以上にラゲッジスペースが広く少しだけ驚いた。
運転席に乗り込み少しだけアクセルを踏み込む。電子制御ではない明らかに機械制御独特の吹きあがり方に心が躍った。
「良い車ですね。」
「気にってくれたみたいで嬉しいよ。」
「大切にします。」
「うん、君のお父さんにもよろしく伝えておいて。」
福永と別れ熊本市内をしばらくドライブする。海沿いの道を気ままに走っているとやはりアレをやりたくなる。駐車場にいったん車を止めてスイッチを押す。
するとゆっくりと屋根がトランクルームへ収納されていった。車内に日差しと共に潮の香りが入ってくる。
「こういうのも…良いな。」
今まで速い車が楽しい車であり、常に自分の車を早くすることを考えていた。しかし、それは間違っていたことを認識させられる。馬力が無くても車は楽しめる。そして車の楽しみ方は人それぞれであるという事。
すると突然春樹の携帯電話に着信が入る。相手は継続高校の事務からだった。
港の駐車場に車を止めて通話ボタンを押す。
「…もしもし?」
春樹の予定としては今日の夜に熊本港へ補給しに来る学園艦に乗って帰るつもりだった。しかし事務員から思いもよらない言葉が告げられた。
機関の不調で予定より1日入港が遅れることになった。
つまりはどこかで一泊しなければならなくなった訳だ。別に一日くらいなら問題は無いが、ラリーの疲れがある今ちゃんとしたところで寝たい気持ちもある。
「…さて、どうしたものか。」
暫く考えていると足首に何か生暖かい感触を感じた。
「ハッハッハッハッハ。。。」
いつの間にか茶色い柴犬が春樹の足元に座っていた。首輪にリードが付いていることから恐らく主人の手から逃れてきたのだろう。
「…なんだお前。主人はどうした?」
「わん!」
頭を下げ、耳を後ろにたたむ。どうやら撫でろという事らしい。
「駄目だろ逃亡したものは厳しく罰せられるんだぞ、うりうり。」
暫く撫でているとお気に召したのか寝転がりお腹を見せてきた。なかなか可愛がりがいのあるやつだ。
「はぁ…はぁ…はぁ…ようやく追いついたぞ。」
夢中になって撫で繰り回していると飼い主らしき女性が息を切らして現れた。
「もしかして飼い主さんですか?」
「す、すみません…うちの犬がご迷惑を…。」
二人は互いに目が合った瞬間「あ…」と声を漏らした。春樹は一瞬目の前にいる女性が西住まほだと認識することが出来なかった。犬の散歩だからなのかいかにも”田舎の女子高生”といったような服装だったからだ。
「えっと西住まほさんのそっくりさん?」
「残念ながら本人だ。こんなところで何をしている春樹。」
息を整えリードを握る。落ち着かないのか途端に犬があくびをする
「今日ここでラリーがあったんですよ。ウチの学園艦がここに寄る予定だったんですけど、不調で一日遅れるらしいんです。」
春樹が気に入ったのかしきりに犬は春樹の方へ行こうとして、その都度まほに止められる。
「どこかこの辺で安い宿とか知ってますか?」
「それなら良い場所を知っている。」
「本当ですか?」
そうとなれば話は早い。早速まほとそのお供を助手席に乗せ出発する。
「いつの間に車が変わったんだ?」
「今日引き取ったんです。普段乗る用に乗り心地の良い車が欲しかったので。」
「そうか…正直助かる。ずっと追いかけてたからな。」
よく見るとまほの額には汗が浮かんでいた。しかしまほの疲労の原因は能天気に外を眺めているだけだった。
「私生活で意外と抜けてるのは姉妹そっくりなんですね。」
「私だって気が抜けるときだってあるさ。」
それにしても犬の散歩中に犬をロストするのは抜けすぎなんじゃないだろうか?もしやこんなことを頻繁に繰り返してるんじゃないだろうか。少しだけ心配になってきた。
「普段は菊代さん…家の家政婦が散歩をしてくれているんだ。たまに私が代わることもあるが…。」
成程今日がそのたまにだったってことか。信号待ちでちらりと隣を見るとじーっと視線を感じる。犬の頭を撫でてやると無抵抗でそれを受け入れる。
「随分と慣れてるな。春樹の家も飼っているのか?」
「いいえ。…けど何となく分かると言いますか。」
犬っぽい人間の扱いに慣れているからだろうか。それを言ったら失礼極まりないから控えるが。
「実家にいる時間も少ないからか、菊代さんばかりに懐くんだ。」
少しだけまほが寂しそうな表情を浮かべた。これは思いもよらない弱点を見つけてしまったのかもしれない。
「それはそうと着いたぞ。」
ニヤつく春樹にジトっとした視線を送りながらまほは車を止めるように指示する。
いつの間にか立派な門を構えた大きな屋敷の前に来ていた。どう見ても安宿ではない。ついでに西住流戦車道家元という表札が。
「ちょっと待った…ここって…。」
「私の実家だが?」
一瞬思考がフリーズしかけたが寸でのところで踏みとどまる。早い所まほを下ろしてここから立ち去らなければ色々マズイ。しかし忘れてはいけない。今この車はオープン状態で外からは丸見えであるという事を。
「まほ、何をしているの?」
目の前にスーツを着た女性が立っていた。戦車道に疎い春樹でもこの人物は良く知っていた。西住姉妹の母、西住しほその人だった。どうやら丁度ご帰宅のタイミングと被ってしまったようだ。実に運が悪い、よりによって一番会ってはいけない人と鉢合わせてしまった。
「少しトラブルがあり、彼に送迎してもらいました。」
「そう…。」
まほが車から降りると二人はそのまま門を開けて中に入ろうとする。
「何をしているの?あなたも入りなさい。」
「……え?」
「お客様をもてなさずに帰すなど無礼なことはしないわ。車はそこの敷地に止めなさい。」
そう言われてしまったら断るわけにもいかず、戦車が並んでいる広場に車を止める。そして二人の後ろを追う。
島田流の家を知っていることもあり、春樹は西住家の佇まいを見てそれほど驚かなかった。古き良き日本家屋で代々歴史を受け継いできているという事が良く分かる。
大広間へ案内され座布団に座る。自然と正座になってしまうのも仕方のないことだろう。
「事情は理解したわ。ここで一泊することを許可します。」
「……ありがとうございます。」
ここがみほを追い込んでいった西住流の総本家であるという事を考えると微妙な心境だった。だがそんな個人的な理由を後回しにしたくなるほど、この家は立派だった。それはそれ、これはこれ、良いものなのだから使わないともったいない。ここら辺は実に継続の生徒らしい思考回路であった。
「……失礼。」
しほの元にどこからか着信があったようだ。廊下に出てしばらくすると、ほんの少しだけ眉をひそめて戻ってきた。
「まほ、菊代が帰りが遅くなるそうよ。」
「そんな…では、まさか。」
ええ、としほは神妙な顔つきでゆっくりと頷いた。
「あなたか私、どちらかが炊事をしなければならなくなったわ。」
しほの言葉を聞いてまほはとたんにこの世の終わりのような顔をした。戦車道はおろか普段の時でさえ一切表情を崩すことが無かったあのまほが眼の光を失い「終わった…」と呟く。
「あのー…。」
恐る恐る春樹が手を上げる。
「俺が作りましょうか?」
「いいえ、お客様にそんなことをさせるわけにはいきません。西住流の尊厳にかかわることよ。」
「ここはひとつ路頭に迷った人間が恩を返すためにってことで駄目ですか?」
それとも、と春樹は言葉を続ける。
「客人に下手なものを食べさせたとなればそれこそ西住流の名が泣くのでは?」
明らかに無礼な言葉だったが、背に腹は代えられないと観念したのかしほは春樹の自炊を許可するのだった。
「凄いな春樹あんなこと堂々と言える人間は初めて見たぞ。」
「あれだけ空気が死んでなければ言えませんよ。」
じゃが芋の皮をピーラーで剝き、一口大に切る。続いてニンジン、ナス、パプリカと次々と具材を切る。
「手慣れたものだな。いつも作ってるんだろう?」
「どこで知ったんですか?」
「アイツにも散々自慢されたからな。お前の料理は今まで食べてきた中で一番美味いと。」
なかなか嬉しいことを言ってくれる。帰ったらハムカツ料理をたくさん作ってやろう。
「普段はその菊代さんと言う人が作ってるんですか?」
「そうだあの人の帰りが遅くなるのは本当に稀なんだ…それが今日になるとは。」
きつね色になるまで炒めた玉ねぎと一緒に肉に火を通して水を張り野菜を煮込んでいく。
「まあそう言うときもありますよ。今日はたまたま犬に逃げられたり悪いことが重なっただけ、そのうち良いことも起きます。」
「相変わらず意地が悪いな。野宿がしたいならそう言っても良いんだぞ?」
具材を煮込む春樹の横でまほはじとっと睨みつけた。しかし、春樹は全く意に介していない様子だった。
「まあまあ、ほら早速良いことが起こりましたよ。」
「……誰から聞いた?」
春樹が作っていた料理の正体が分かったのかまほは驚いたような表情をする。
「大洗の隊長さんから。」
「みほが……。」
まほは尚驚いたような顔をしていたがやがて”姉の顔”に戻っていった。そして春樹の耳を摘まむ。
「いでっ。」
「生意気だぞ後輩。」
暫く春樹の耳をいたぶってから解放する。その際に小さい声で「ありがとう…」と呟いたのだが、春樹はしっかりと聞いていた。さてどう返してやろうものかと考えるがまほの方が一枚上手だった。春樹の頬に人差し指をぷにっと指す。
「そこは聞き流すものだぞ春樹。」
「…ばれてましたか。」
どうやらエリカのようにはいかないらしい。流石に姉であり隊長である彼女は一筋縄ではいかないらしい。
「それでお二人は本当に料理できないんですか?」
「私はしたことがないと言った方が正しい。野営には多少心得がるのだが…。」
「西住師範は?」
「………。」
途端にまほはだんまりを決め込む。視線を合わせようとするとサッと顔をそらす。まるで私に聞くなと言っているようだ。
「戦車道って良妻賢母を育成するための武道ではありませんでしたっけ?」
「うっ…そこを突かれると、痛いな。」
ちなみに世の男子高校生における「お付き合いしたい生徒ランキング」において黒森峰は下から数えた方が早い順位なのだ。トップは聖グロリアーナで長い間王座に君臨している。それを追うように料理が得意な生徒が多いアンツィオ、気さくで明るい生徒が多いサンダース、美人の多いプラウダと続いている。継続はデータ不足により評価対象外らしい。
生真面目すぎるのと戦車道のイメージが強すぎるのが原因なのだろうか、彼女たちから感じる近寄り難さはどうにも良妻賢母からは遠ざかってしまう。強い女性を好む人間にとっては良いのかもしれないが。
「まあ人の評価は料理だけではありませんから。気にする必要は無いと思いますよ。」
そう言って小皿に取ったカレーをまほに差し出す。無言でそれを受け取って味見をしたまほはフッと口元を緩める。
「嫌みか。」
そう言って春樹の額を軽く小突くのだった。
「ただいま戻りました…申し訳ございません。今すぐ準備をしますので…。」
程なくして台所に着物を着た女性が現れた。
「まほお嬢様…そちらの方は?」
「友人です。今日の夕食は彼が作ってくれました。」
「どうも…本田春樹と言います。」
女性は驚いたように目を見開きその後朗らかに笑った。
「それはそれは…ありがとうございます。私はこちらで家政婦を務めさせていただいている者です。菊代とお呼びください。」
物腰柔らかな雰囲気と着物が相まってまさに大和撫子、良妻賢母と呼ぶに相応しい女性だった。
「菊代さんは戦車道の経験はあるのですか?」
「もちろんです。西住流に仕える身ですので。」
という事は良妻賢母の育成については成功例もあるらしい。ちらりとまほを見る。
「何か言いたそうな顔だな。」
「いえ、なにもございませんよ。さて、揃ったところですし食べましょうか!」
まほの追求から逃れるように春樹はコンロの火を止めた。
「…まじか。」
ここまで大きな屋敷であれば浴槽も大きいのだろうと春樹は想像していた。しかし、それはまるで温泉の大浴場を思わせる広さでそんな春樹の予想を軽々と超えて見せた。
菊代さん曰く普段は別の場所にある家庭で使うサイズの風呂場を使っているそうだが、今回は来客用の方を用意したらしい。少しばかり申し訳なく思いつつも、大きな風呂場が使えることはありがたかった。
「あぁ…生き返る…。」
少し熱めのお湯はじわりと疲れが体から溶け出していくようだった。
慣れない浴衣に袖を通し縁側を歩く。すると窓を開けて外を眺めているまほを見つけた。明かりは落とされ月明りが彼女を照らす。白い浴衣と湯上りで赤く火照る肌が妙に色っぽかった。
「どうした。そんなところに立ってないで座ったらどうだ?」
ぼーっとしてるところをまほに促され彼女の隣に腰を下ろした。
「今日のカレー、美味しかったぞ。母も気に入ったみたいだ。」
「……あれでですか?」
夕食の時間の様子を一言で言えば静かだった。普段からよく話す人間がいないため黙々とカレーを食べる音だけが聞こえていた。時々菊代が春樹に普段の生活の事などを質問することがあったが、しほは終始何も話さなかった。
「あれでもだ。」
納得がいかない春樹を見て、まほは苦笑いをした。その顔は妹のみほにそっくりで、やっぱり姉妹なんだと実感する。実家にいて本人が思っている以上に気が抜けているようだ。
優しく涼しい風が夏の虫の声を運ぶ。ぼーっと月を眺めているだけで無限にこの時間を過ごせそうだった。
……そう言えばアイツも熊本市出身だったな。
同じように帰省しているならばもしかしたらどこかで会うかもしれない。そんな淡い期待が膨らむ。
「エリカのこと考えているだろう?」
「…分かります?」
分かるさと小さく笑う。
「あの時はすまなかった。突き放すような物言いをしてしまって…。」
「いや隊長の立場であればあれが正解ですよ。」
こちらこそ配慮が足りずにすみませんでしたと春樹は頭を下げた。
「…結局エリカを救ったのは春樹だったな。」
「俺は何もしてませんよ。」
「してただろう。」
ティーガーⅡを引き取らなければ、継続の生徒と日が落ちるまで外出することは無かった。あれ以来エリカは腫物が落ちたようにらしさを取り戻していった。
春樹が整備を教えなければ、パンターを一両失うという危機は回避できなかった。
免許を取ることが無ければ、息抜きにドライブをするという良い意味でらしくない行動をすることは無かった。
会うことを禁止した時には既にどうしようもないくらいに、本田春樹と言う人物がエリカの中で大きなものになっていたのだろう。
「お前がいなければエリカはとっくの昔に潰れていた。」
「………。」
まほの言葉を春樹は簡単に否定することは出来なかった。
「だからな春樹、今後ともエリカを支えてやってくれ。」
それは「会うな」という命令の実質の解消だった。まほも戦車道大会が終わるまでという期限付きという事は最初から決めていた。あの時はタイミングを逃し言いそびれてしまったが…。
「言われるまでもないですよ。ずっと前から約束してますから。」
そうかとまほは安心したように目を閉じて小さく息をを吐いた。
「春樹のようなもの好きがいてくれてエリカも幸せだな。」
「人を変態みたいに言うのは止めて頂きたい。」
少しだけムッとした表情をする春樹を見たまほは「ふふ…」と優しく笑う。まるで可愛い弟の成長を見守る様な眼差しだった。
そんな時ふいに眠気がやってきて大きめのあくびをした。
「眠いのか?」
「まあ、大会があいましたひ大きら風呂に入った後れすからね…。」
横になれば直ちに眠れる自信がある程度には疲労が回っているらしい。
「ならもう寝たらどうだ。」
「まほさんは寝ないんですか?」
まほはゆっくりと首を横に振って月を眺める。
「私は…もうしばらくここにいる。」
「…そうですか。それじゃあおやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
これまた大層な大広間に敷かれた布団に潜りこむとあっという間に睡魔がやってくる。人の気配を気にせず寝られるのがこんなに楽なのだと実感する。…あまり実感したくは無かったが。
…ああ、これで久しぶりにゆっくり寝られる。
重くなっていく瞼に身を任せるとすぐに意識が落ちていくのだった。
良い寝床にありつけたためか、今朝の寝起きはとてもすっきりとしていた。
「おはようございます。春樹さん、よく眠れましたか?」
割烹着を着た菊代が朝食を並べているところだった。
「はい、おかげさまでぐっすりでした。」
「ふふふ、それは良かったです。」
菊代が用意した朝食は豆腐の味噌汁、焼き魚、漬物、雑穀ご飯だった。シンプルでありながらどれも綺麗に盛り付けられていれ、見るだけでお腹が空いてくる。
「他のお二人は?」
「奥様は早朝に東京へ出張に行かれました。まほお嬢様はまだお休みのようです。」
まあ折角実家に帰ってるんだ、ゆっくりしたいのも分かる。用意されたのは一人分、どうやら菊代さんもまだ食べないようだ。
「折角お嬢様が帰ってきたのですから一緒に朝食を取りたいんです。」
そう言って笑う菊代はまるで本当の母親のような雰囲気だった。きっと昔からあの二人をこうして陰から支えてきたのだろう。
「家にいるときはいつもそうなんですか?」
「今日はたまたま…ですよ。春樹さんがいたので疲れてしまったのでしょうね。」
ふふふと菊代は楽しそうに笑った。
朝食を食べ終わり荷物を車に乗せてエンジンをかける。少しばかりアイドリングさせて今日のご機嫌を伺う。
「…調子は良さそうだな。」
「もう行くのか?」
その音に気が付いたまほが浴衣のまま庭に出てくる。どうやらお目覚めのようだ。
「菊代さんが待ってますよ。一緒にご飯が食べたいって。」
「そうか…。」
嬉しそうに笑ってからまほは少し神妙な顔つきになる。
「エリカには会わないのか?」
「黒森峰とは縁がありますからすぐ顔を合せることになりますよ。…それに、ちょっと気まずいと言いますか、どう声をかけたら良いのか分からなくなってしまいまして。」
「なんだ、らしくも無い。いつものように小競り合いの一つや二つすれば良いだろう。」
「ははは…」
確かにまほの言う通りなのだが、小競り合いをした後のビジョンが全く浮かんでこないのも事実だった。
暖機運転を終えて運転席に乗り込む。
「……ふぁ。」
まほが小さく欠伸をする。どうやらそこまで朝に強くないのだろう。それにしてもあの黒森峰の隊長様の寝ぼけ顔を拝める日が来るとは思わなんだ。
想像していた以上に彼女は春樹に対して気を許しているのかもしれない。
「二度寝は駄目ですよ。」
「分かっている。エリカみたいなことを言うな。」
「それじゃ、失礼します。今回は助かりました。」
バックミラー越しに小さく手を上げるまほをちらりと見てゆっくりと西住邸を後にした。
熊本市から南へおよそ二時間半かけて車を走らせる。右側に見えていた海がいつの間にか消え、どんどん山の中へ入っていく。
そして線路伝いに駅舎が見えてきた。駐車場に車を止めて線路を覗いてみると、遠くに石造りの車庫が建っている。その中に黒色に光る一両の蒸気機関車が鎮座していた。
8620型蒸気機関車。通称ハチロクと呼ばれているこの機関車は日本で走っている蒸気機関車の中で最古の車両だ。1922年製造という事からいかに長く動態保存されいるかが分かるだろう。
「やっぱ良いな…ハチロクは。」
蒸気機関車の有名どころと言えばデゴイチことD51だろう。大柄なボイラーと叫ぶような汽笛は全身を震え上がらせる迫力がある。大してハチロクはまるで海外の機関車のような気品のある出で立ちだった。黒光りをする車体に金色のラインが入り、徐煙板が上半分を覆い隠すように取り付けられている。
ぽっぽっ♪
そしてこの機関車の最大の特徴と言えばこの可愛らしい音のする汽笛だ。日本中を探してもこの音を出す蒸気機関車はこのハチロクだけだ。
折角熊本に来たのだから九州で唯一運行しているこの蒸気機関車は絶対に見ておきたかったようだ。
煙突から煙を吐き出し、整備を受けている姿をしばらく眺めていると、いつの間にか隣に人がいた。白いワンピースに負けないくらい、白く綺麗な腕が柵の上に載っている。
麦わら帽子を被っていて顔は分からないが、口元が優しく笑っていた。
「あなたもハチロクを見に?」
「ええ、折角九州に来たので。」
「という事はどちらからいらしたのですか?」
「石川からです。」
まあ、それは遠いところから…と、女性は驚いた様子だった。
「SLがお好きなんですね。」
「はい、まぁSLに限らず機械だったら何でも好きですよ。」
「そうなんですか…やっぱり、あのCR-Xに乗られている方なだけはありますね。」
そのときはじめて春樹と女性の眼が合う。背中まで伸びる三つ編みの金髪が太陽の光で輝く。灰色の瞳はまるで吸い込まれそうなほど綺麗だった。
「あー…自動車が好きなんですか?」
「はい!」
ニコ…と女性は朗らかな、まるで太陽のような笑顔を春樹に向ける。そう言えば身近にこのような笑い方をする人間ていたっけ?と少し考えてしまうほど、眩しい笑顔だった。
「良かったら見てみますか?」
「良いんですか!?」
これほど自分の車に興味を持ってくれて嬉しいわけがなかった。まあ、納車してまだ二日しか経過していないが。
ハチロク観光を一旦中止して駐車場に戻った。すると自分の車の横に丸っこい車が止まっていた。
フォルクスワーゲンのタイプ1、その見た目からビートルやカブトムシと呼ばれている車だった。1938年から生産が始まりドイツの大衆車として2003年まで、総計2000万台以上作られた名車中の名車だ。後にニュービートルという車が後継として生産されている。
「おぉぉ!ビートルだ!」
旧車好きの春樹が反応しない筈がなく、興奮が抑えきれないようだ。
「やっぱり反応してくれると思いました。」
「まさか…持主さんで?」
恐る恐る尋ねると女性はゆっくりと頷いた。いた。
「私の愛車です。」
おもむろにトランクを開くと、そこはラゲッジスペースではなくエンジンが姿を現した。エンジンルームにも余裕があり簡単に整備をすることが出来るようになっている。オイルクーラーも付けられ、空冷エンジンながら冷却性は申し分無さそうだ。まさにドイツが生んだ合理性を追求した大衆車で、もはや芸術品と言っても良いくらいだった。
「初めて本物を見ました。ちゃんと整備も行き届いてるようで。」
良い車ですと春樹が言うと照れくさそうに女性が笑った。
「あなたの車も素敵ね。キャブレターの気持ちのいい音がしてたもの。しかもハイカムかしら?」
どうやらこの女性はキャブレターの音を聞き分けてわざわざ隣に止めたらしい。それにカムが変えられている可能性も指摘するあたりこれはかなりの変た…いや、マニアのようだ。
「ちょっとエンジンをかけてみましょうか。」
「ええ。」
お互い自分の車のエンジンを始動させる。
水平対向4気筒空冷エンジン独特の乾いた音。
ウェーバーキャブのくぐもった音。
その二つの音が合わさり二人の心を躍らせていた。
「良い音ですね…。」
「はい…。」
ふと春樹は当然の疑問が頭をよぎった。
「そう言えばまだ名乗ってませんでしたね。」
本田春樹、17歳ですとそっけない自己紹介をする。
「私はJessica(イェシカ)今日で21歳になりました。」
「それは…おめでとうございます。」
「ありがとう。春樹君はまだ高校生なんだ石川県ってことは継続高校の生徒かな?」
「はい。」
「そっかぁ…あれ、もしかして学生ラリーで2連覇したあの本田春樹君!?」
「ええ、まあ…そうですけど。」
イェシカは目に見えて取り乱していた。興奮した様子で春樹の手を取りぶんぶんと上下に振る。
「握手してください!」
「…もうしてませんか?」
「じゃあ、写真撮ってください!」
「……はあ。」
イェシカが目にも止まらぬ速さでスマートフォンを取り出し、春樹に顔を近づける。途端に花のような甘い匂いが鼻腔をくすぐる。海外の人と言うのは本当に距離が近いらしい。
「ありがとう!今日はこの子の誕生日だから、いい出会いがあってよかったぁ。」
という事はこのビートルとイェシカは同じ誕生日のようだ。同じ日に生まれた車に乗る機会なんて滅多にないだろうし、車に愛情を持つのも良く分かる。
「春樹君はこれからどこへ?」
「熊本港へ行って学園艦と合流する予定です。」
「それじゃあついて行っても良いかな?私もそろそろ帰らなきゃいけないから。」
春樹としても走っているビートルのエンジン音が聞けるのは願っても無いことで、二つ返事で了承した。
車の屋根を開けてビートルの後を追う。やはり旧車のエンジン音は惹かれるものがある。それに名前からしておそらくドイツの血が流れているであろうイェシカがビートルを操る姿はとても絵になっていた。
港の方へ向かう交差点で別れる際にクラクションを鳴らすと、向こうもハザードランプを点灯させて応えた。
港へ着くと既に黒森峰の学園間の横に継続高校の学園艦が停泊していた。搬入口の方をよく見ると継続から黒森峰の方へティーガーⅡが移動しているところが見えた。
トップがいない間にこっそりとティーガーを入れ換えておく算段だ。これでエリカの元に春樹が一から手掛けた渾身の一台が届けらるはずだ。
…そう言えば結局合わなかったな。
今からあちらの学園間に乗り込んでやろうかとも画策するが思いとどまる。まほと別れる時にも言ったがまたすぐにでも会うだろう。”まだその時じゃない”ということだ。
「おっとミカの癖が移ったか?」
「呼んだかい、ハル?」
いつの間にか近くのベンチにミカが座っていた。一週間ぶりに見るミカの顔は少しばかり不安の色が混ざっていた。
「ご両親の所へ帰っていたんじゃなかったのかい?」
「ラリーだよ、ラリー。おかげで快適な車を手に入れたぞ。」
ぽんぽんとCR-Xのボンネットを叩く。
「まったく…車の事になると見境がなくなるんだから。」
「なんだ、涼しい車は嫌か?」
嫌とは言ってないさとミカはポケットに手を入れる。そしてスッと春樹のハーモニカを差し出た。
「1週間ぶりの再会にどうだい?」
今日くらいはわがままに付き合っても良いか。
「…分かったよ。」
ハーモニカを受け取ってミカの横に座る。
ミカがカンテレを奏でる。その前奏で何を弾いているのか分かった春樹はメロディーを演奏する。頭に歌詞を思い浮かべながら。
荒野に可憐な花が咲いている、その花の名前はエリカ
慈愛に満ちたその花の衣からは優しい香りがあふれている
故郷に可憐な少女が住んでいる、彼女の名前はエリカ
荒野の花が咲くとき、僕は彼女への挨拶にこの歌を歌う
僕の小部屋にも小さな花が咲いている、その名前はエリカ
故郷で少女があなたの事を思って泣いているよ
その少女の名前はエリカ
八代海にカンテレとハーモニカの音色が潮風に運ばれ、流されていく。きっとこの音を聞く者は誰一人もいないだろう。海が、鳥が、風が聞き流すだけだった。
「今日の夕飯は何だと思う?」
「揚げ物の匂いがするね。」
料理をする春樹の手元をミカが覗き込む。その正体が分かったのか、ミカは静かに笑う。
「何かいいことでもあったのかい?」
「まあな。」
揚げたてのハムカツを包丁で切りミカに菜箸で差し出すと、すぐにかぶりつく。味わうようにゆっくりと咀嚼してから大切そうに飲み込んだ。
「やっぱりハルの料理は一番美味しいね。」
「そうかよ。」
実家は安心するし、西住家でカレーを作ったのも楽しかった。しかし、この家でミカと一緒に過ごすのもそれなりに好きだという事を改めて時間するのだった。