「これより継続高校対黒森峰女学園の試合を始めます。一同…礼!」
「「よろしくお願いします!」」
戦車道大会の第二回戦。この試合の勝者が聖グロリアーナと戦うことになる。
「あら、ごきげんよう。春樹さん。」
「お久しぶりです。」
「あら、春樹さんですわ!」
今日のお供はローズヒップとオレンジペコらしい。毎度のことながら豪華な観客席は遠目から見えてもすぐに分かる。
「今日は手土産を作ってきたのでいかがでしょう?」
「あら、それは嬉しいわ。どうぞ、春樹さんもおかけになって。」
ダージリンに促されて、椅子に座る。柔らかいクッションで体が沈み込み、丁度いい場所でフィットする。
「昨年の椎の実が残ってたので、クッキーにしてみました。」
「しいのみ…?」
生粋のお嬢様学校の人間であるオレンジペコは材料の正体が分からず、首を傾げるばかりだった。
バスケットを覆っている布を取ると、バターのいい香りが広がる。
「わぁ、懐かしい……ですわ!」
一瞬素の口調に戻りかけたローズヒップは、その正体が分かったらしい。
「ローズヒップさん、しいのみとは一体…。」
「どんぐりの事ですわ!」
椎の実、特にマテバシイはどんぐりの世界でえぐみが少なく、一番食べやすいことで知られている。
「やっぱりお前は知ってたか。」
「もっちろんですわ!小さい時によくどんぐり拾いをしてたのを思い出しますわ。」
「……。」
マテバシイ…。よくばっちゃと一緒にクッキーを作ったっけ。
「さて、とりあえず一枚どうです?」
オレンジペコは恐る恐るといった様子でクッキーを手にする。他の二人は余裕そうな表情だ。
「……これは、まさかスダジイかしら?」
「ご名答。流石はダージリンさんだ。」
今はあまり見なくなったスダジイ。マテバシイはその実の大きさと、アクが少ない事から沢山植えられたため色々なところで見ることが出来る。だけど、味で言ったらスダジイ、ツブラジイの方が上だ。
「あなたの所の学園艦、まだスダジイが取れるの?」
「ええ、おかげで秋になると猫が沢山どこからか採ってくるんです。」
「わぁ、猫さんを飼ってらっしゃるんですか?」
それが比喩だという事を知らないオレンジペコは無邪気な瞳を、輝かせる。
「気が付いたらどこかに行って、腹が減ったり飽きたら帰ってくるんだ。暖炉の前が定位置だ。」
「そしていつも大きめの帽子を被っている。そうだったら可愛らしいと思わない?」
…コイツ。
ダージリンが一つ探りを入れてくる。
「そうですね、でももともと野良猫なんでそういうのは嫌がると思いますよ。」
「その猫さんはとても幸せですね。春樹さんのような飼い主さんに出会えることが出来て。」
「ふふふ、そうね。」
「うぅ…春樹さんは犬派と信じてましたのに~」
ローズヒップが悔しそうに春樹を見つめる。
「あら、あの白いワンちゃんはどうしたのかしら?」
「い、犬もいるんですか?」
…この人はどこまで把握していてどこまで牽制なのか良く分からない。
「ええ、時々よそのウチのコーギーと一緒に山で遊んでますよ。」
「あら、それは楽しそうね。」
口元を抑えて柔らかく笑ってから小さく「はぁ…また無断で自動車部に関わったのね。」と呟いた。
「あの…お二人とも試合始まっちゃいましたよ?」
ドォン!
戦車の重い砲撃音が少しだけカップを揺らす。
「さて…どちらかが勝つかな。」
「エリカ、先行を頼めるか?」
「はい、5号車から7号車、着いてきなさい!」
試合が始まり数十分が経過したが、未だに継続の戦車が一両も確認することが出来ない。このままでは埒が明かないので、高台で偵察を行うことにした。分隊の車両のエンジンを切らせて、耳も頼りにする。継続の連中は基本的に単独行動をする場合が多い。根気よく索敵を行えば一台ずつ各個撃破を行うことが出来るはずだ。
「隊長、南南西の方角距離800m先にKV-1を確認しました。」
「了解。」
まほに報告を行ってから数分後に、この試合が始まって最初の砲撃が鳴る。
ドォン!
この音は、隊長のティーガーⅠだ。すぐさまKV-1が行動不能になったことを告げられる。
「一両破壊した。このまま索敵を頼む。」
「はい。」
序盤で攻撃の要であるKV-1を破壊できたのは大きい。いくら装甲が厚いこちらの戦車でもKV-1の砲撃は軽視できないものだからだ。
……っ……。
風に乗って微かな音が耳に届く。双眼鏡で探すと複数の影が見えた。不自然に木々が揺れる。あそこか。
「隊長その丘陵を超えた先に複数待機しています。おそらく3~5両。」
「了解、十分だエリカ。合流してくれ。」
「分かりました。」
各車にエンジンを始動するように指示をした瞬間だった。
ガン!
隣のパンターが被弾した。
「全車後退!ここから離れるわよ!」
「6号車履帯破損!お先にどうぞ!」
くそっ、またか。
三号突撃砲が継続高校に導入されて以来、こちらの履帯破損率が大幅に高くなった。足を止めてから確実に撃破するのは間違っていない。問題なのは継続高校には戦略の概念が無い点だ。その場の状況をに合わせて行動を変えてくる水色の戦車はまるで水物のようだ。しかし、この短時間であの丘陵地からここまで来たとは考えにくい。
「…まさか。」
ゾワっと嫌な予感がした。継続高校は戦略を練らない。そんなこといつどこで、誰が決めた?
本人たちが言っていたから?いや、本人たちが言っていたからこそ、疑わなければいけないことだった。森林を抜けてすべての答えが明らかになる。複数台の影を素早く数える。
5両―
「隊長、敵フラッグ車発見!現在5両と交戦中!」
相手の狙いは最初から私だったのか…でも、一体何故?
「エリカ、何とかB地点まで後退できるか?」
エリカとまほの二つの分隊が最短期距離で合流できる場所がそこだった。
「しかしそこでは…。」
その地点はその一帯で一番標高が低い場所だ。先ほどの丘陵地から狙いやすく、こちらの攻撃は届きにくい。このまま合流する方が危険だ。それなら…。
「この場に留まり、出来るだけ台数を減らします。隊長はフラッグ車を!」
幸い相手は勝手を知る継続高校だ。なんとなくだが挙動も予測できる。
「方位54.3…合図と同時に撃ちなさい。」
砂利道で横滑りをするBT42だったが、サスペンションの反力を利用して一気に逆方向へ向きを変えようとする。
…あの子ね。
履帯が再び路面を捉え一瞬だけ動きが単調になる。
「feuer!」
砲弾は吸い込まれるように砲塔と、車体の隙間に直撃する。
シュパっと白旗が上がる。
「すまないエリカ。中隊が合流後、こちらも急ぐ。」
まほとの交信を終了させ、目の前の相手に集中する。
「6号車、履帯修復完了しました!」
これはチャンスだ。
「そこから砲撃は可能よね。」
「はい、問題ありません。」
「良いわ、そこで待機してなさい。」
私ばかり狙っていることを後悔させてやるわ。
―その時だった。
「7号車、撃破されました!」
耳を疑うような報告が飛び込んできたのは。装甲の厚いエレファントが撃破された。それも一撃で。そんな馬鹿な。三突がそこまで火力があるはずがない。森林地帯を睨むと…見つけた。しかし、それはエリカの想像していた三突とは大きくかけ離れたフォルムをしていた。さらに車体が低くなり、そこには巨大な砲塔が乗せられている。自走砲という言葉をさらに具現化したような、悪魔のような戦車。さながら猛獣をしとめるハンターの狙撃銃。
「…嘘、でしょう?」
部品さえあればあの学校ならやりかねないが、いったいどこから入手した?いや、今はそれを考えている場合じゃない。あんなもの一発でも食らえばただじゃすまない。こちらの装甲はえぐり取られ、一撃で行動不能になるだろう。エリカの表情が絶望の色に変わった。
「良い顔するなぁアイツ。」
「春樹さん。」
愉快そうに笑う春樹をオレンジペコが注意する。
「そうはいっても、半分はあなた方も要因ですよ?」
「それは、まあそうね。」
ダージリンも心底楽しそうに笑っていた。
「でもアレは弱点の塊だからな。」
あの三突は足が非常に遅い。静粛性を優先したために、出力がギリギリまで絞られているからだ。戦車道のレギュレーションはエンジン出力の上限が戦車ごとに決められている。しかし下げる方向に関しては特に決まりはない。いくら出力を下げてもお咎めは無い。まぁ、本当にやる学校は他にいないだろうが。次に砲塔の構造上装填が面倒でとても時間がかかるのだ。一度砲撃を外してしまえば位置がバレる。そしてその機動性からすぐに逃げることもできず、狙われる可能性が非常に高くなるわけだ。そのため運用にはとても慎重にならなければいけない。相手に見つからないように息を潜め、一発で仕留める必要があるのだ。そして最大の弱点は車体をギリギリまで低くしたために、エンジン回りの装甲が薄いことだ。そこを狙われたら豆鉄砲でも簡単に火が付くだろう。
「あんな欠陥だらけのロマン砲使うくらいなら、俺はCV-33に乗りたいね。」
「ではなんであんな戦車作ったんですの?」
ローズヒップの質問に春樹はとてもとても悪い笑顔で答えた。
「決まってんだろ、相手の困った顔が見たいからだよ。」
今回はそれがエリカだった。勝ち気で、高飛車で、生意気な顔が焦りと絶望の色に変わる。これ以上ない愉しさがこみあげてくるのは必然。
「うわぁ…。」
流石のローズヒップもこれには引くしかなかった。
「良いもの見れたし、後は応援するだけだ。お前なら乗り越えられる。頑張れエリカー。」
「全く、どちらの味方なのかしら?」
ダージリンはあきれ顔でため息をついた。
「5号車、あの自走砲は動きが鈍い。回り込んで確実に仕留めなさい!」
「了解!」
エンジン音と砲塔自体の重量を考えれば、撃破するのは難しくないはずだ。ついでに軽量化のため砲塔回り以外の装甲はかなりギリギリまで削ってあるはず。あの三突は脅威ではない。問題があるとすれば。
「すみません外しました。」
「何やってんのよ!」
あのフラッグ車のBT-42だ。散々誘導し、6号車の射線に何度も通しているがどの砲撃も当たらない。ひらりひらりとまるで木の葉の様にかわしていく。距離を詰めない限り当たりそうになかった。そしてフラッグ車も全く砲撃してこない。必殺の間合いに詰めるまで絶対に撃たないつもりだ。こうなったら覚悟を決めるしかない。
「自走砲撃破しました!」
「よくやったわ。今からフラッグ車に突っ込む。他の戦車を近づけさせないで!」
「了解!」「了解!」
相手が殴り合いの喧嘩を望んでいるならこちらも受けて立とうじゃないか。こちらはティーガーⅡ。体も拳も自信はある。何度も強度計算し、何度も図面を引き直し、何度も整備したのだ。
…負けたくない。
本田春樹が仕上げた戦車と真っ向から勝負が出来る。こんなチャンスは滅多にない。
勝ちたい…。
あの時からずっと目標にしていた。目指していたものが今目の前にある。同じ土俵に立ったことを、スタートラインに立てたことを証明したい。
絶対に勝つ―
闘争心が、野心が、限界まで燃え上がる。三突が撃破されたことで、BT42が真正面から向かってくる。望むところだ。
「歯食いしばりなさい、目にもの見せてやるわ!」
こちらもBT42に向かって真っすぐ直進する。ヘッド・オン、どちらかが根負けして射線を外した方の負けだ。エンジンが限界ギリギリまで回る。今まで聞いたことのない金属の悲鳴がそこら中から聞こえだした。…まだ大丈夫。これならまだ耐えられる。自分で整備したから、隅々まで熟知しているからこそ判断できることだった。
「5号車榴弾装填!フラッグ車の前に撃ち込んで!」
「了解。」
間髪入れずに榴弾がティーガーⅡとBT42の間で炸裂し、土煙が上がった。その中でもエリカはキューポラから乗り出し、煙の奥の戦車を睨みつける。
「ショック姿勢!」
エリカの目に広がる光景がスローモーションのようにゆっくりと映る。土煙を突き破るようにBT42が飛び出てくる。榴弾を打ち込んでできた段差に乗り上げたようだ。あちらの砲塔は真っすぐにこちらを向いていた。二台はそのまま真正面から激突した。お互いの装甲がぶつかり合い火花が散る。部品が吹き飛び、ひしゃげてもなお戦車のエネルギーは収まることを知らない。
BT42がティーガーに乗り上げるのとほとんど同時に砲弾が発射される。しかし、僅かに乗り上げる方が早かった。砲塔が上を向き射線が外れる。打ち出された砲弾はティーガーの分厚い装甲を掠めて後方へ飛んでいく。
…ここだ。
戦車道の撃破判定を受ける箇所は複数存在する。その中で一番狙われやすいのがエンジンだ。冷却の問題や、エンジン自体の大きさから車体の中心部に押し込むのは難しい。そして、一番整備が面倒な撃破箇所である。大丈夫、去年のようなミスはしないわ。数ある撃破箇所の中で整備の手間も少なく、回収も楽なもの…砲身に狙いを定める。
「…feuer」
88㎜がBT42の短い砲身の根本を捉え、へし折った。直後にシュパっと白旗が上がる。
『継続高校、フラッグ車走行不能。よって、黒森峰女学園の勝利!』
そのアナウンスを聞きほっと胸をなでおろす。
「大丈夫?怪我は無かったかしら?」
車内にいるメンバーの様子を伺う。苦虫を噛み潰したような顔でエリカを見ていた。
「…死ぬかと思いました。」
「副隊長、あまりティーガーをいじめないで下さいよぉ。」
しっかりと防御姿勢を取れていたおかげか、思いのほか元気な返事が返ってきた。キューポラから車外に出る。
…上手くいったわね。
昨年は三突のエンジンを打ち抜いたため、相当春樹は苦労したようだ。結局廃棄された同型のエンジンを持ってきて3個一にしたらしい。またそんな苦労をさせるのは忍びない。練習試合でエンジンをブローさせたのもそういえばこの戦車だった。当の本人が聞いたら「そんなこと試合中に考えるな」と怒り出しそうだが、だからこその価値がある。脳裏で春樹の心底悔しそうな顔が映り、ニヤリと口角が上がった。終わったら真っ先にアイツの所に行って散々嫌味を言ってやるわ。
「副隊長は継続キラーですね。なんであの不規則な動きに合わせて偏差射撃が出来るんですか?」
砲撃手が一番最初に回復したのか車外へ降りてきた。
「BTはそもそも上体がふらふらしてるから惑わされやすいのよ。足元を見なさい。」
「足元…?」
「履帯とサスペンション、それに路面の様子。」
「そんなの見ても分かるのはあなただけです。」
エリカは小さく笑ってから衝突した箇所を確認する。
BT42もティーガーも細かな部品が飛び散り装甲がひしゃげ、派手な壊れ方をしているように見える。
……良かった、やっぱり間違いじゃなかった。
が、しかしメインとなるフレーム部分はしっかりと守られていて、消耗品だけ交換すればまた動き出せるレベルだった。装甲の形状と材料、部品の取り付け位置を見直し、いわゆる衝撃吸収材の役目をさせることによって、主要部分を保護する方法だ。工作機械と材料の進歩の賜物でもある。この方法はリーダー研修で春樹からもらったヒントを元にして、考え付いたのだった。BT42を見るに、細かいことは違えど根本的なところは全く同じと言って良いようだ。
「もー整備長に言われた通り真っすぐぶつかり合ったけどさー。乗り上げる程スピード上げる必要なかったよね?」
「いやぁ、ホントはあそこで止まるはずだったんだよ。けど思いのほかあっちの車速が早くってさ~。」
小柄な少女がBT42から顔を出した。
「そちらの車長は?」
「おたくとぶつかった時のショックで伸びてるよ。」
あの人でもそうなることもあるのか…。
意外な事実を知り、少しだけエリカは驚いた。いつも余裕そうにカンテレを弾く姿を見ているものだから、なおさらのことだった。
「車体は動くでしょう?早く降りて頂戴。」
「へーへー、分かりやしたー」
エンジンが再び始動し、ゆっくりとティーガーから降りていく。
「…まさか砲身を狙って撃ったとか言いませんよね?」
「あなたの所の整備士にはいつもお世話になってるわ。」
それだけでお下げの少女は理解したようで「ふぅん…。」と頷いた。
所で…と、エリカはBT42を見る。
「あなたは装填手と砲手を兼任しているのでしょう?野砲なのになかなか器用じゃない。」
「…なんで分かったんですか?」
「あの隊長が装填しながら指示する姿が思い浮かばないから。どーせカンテレ引きながら外でも見てるんでしょ?」
エリカの言葉で女子生徒は笑い出した。
「あははは、確かに!なんだ、ミカの事も知ってるんですね。」
「ええ。」
流石に一晩寝食を共にしたとは言えなかった。
「私の名前はアキ。今年からあの変な人と戦車に乗ることになりました。」
「私はミッコ!流離いの戦車乗りだ。」
やはり継続は不思議な人間が多い。でも、その分面白い。
「私は黒森峰女学園の副隊長。逸見エリカよ。」
アキはエリカの顔をじっと見つめてから「…なんだかウチの整備長と同じ匂いがします。」と言った。その何気ない一言が、エリカの耳に妙に残響するのだった。
「ご苦労だったエリカ。」
「すみません、出過ぎた真似を。」
良いんだと、まほはゆっくりと首を横に振った。
「あの場面ではB地点で合流するよりも、エリカが引き留める方が最善だったようだ。…私もまだまだだな。」
「そ、そんな…。」
「エリカの分隊が撃破されてもフラッグ車を落とす自信はあったのだが…まさかフラッグ車を撃破するとはな。」
まほはエリカの頭に手を置いた。
「た、隊長?」
何が起こっているのか整理がつかないエリカは、体を硬直させたままだった。
「よくやったエリカ。」
そして優しくその頭をなでる。
「そ、そんな…私はただ必死に。それにあの子たちが頑張ってくれたから―」
「なら、お前が沢山褒めてやれ。その方が彼女たちも喜ぶだろう。」
そういうものなのだろうか?
いまいち納得がいかないが、まほに撫でられているという事実がエリカの思考を溶かしてゆく。
「あ、あの…隊長?」
思いのほか長く撫でるものだからエリカはおそるおそるまほを見つめる。
「お前は撫でがいがあるな。」
十数年間姉をやっている身にとっては、エリカの表情や髪の触り心地が姉センサーに反応するのだった。
「もう、良いのではないでしょうか?」
「もう少しだけ良いか?」
「…はい。」
嫌ではない。むしろ憧れの人に頭を撫でらているのだから、これは実に幸せなことのはずだ。
…しかし、なんだろうか。この感じは、舞い上がる自分と冷静な目の自分が混同している。
これは嬉しいことのはずだ。目指していた人に認められて本当は声を上げたいほど、舞い上がっているはずなのに。
…目指して”いた”?
「どうしたエリカ。深刻な顔をして、納得がいかないのか?」
それとも―
そっとまほはエリカの耳元で囁く。
「春樹に褒めてもらいたいのか?」
ドクン
殆どゼロ距離にいるまほに聞こえてしまうのではないかと思うほど、大きく心臓が跳ね上がった。
体温がみるみるうちに上昇し、声が上手く出なくなる。
「そ、それは…。」
まほがエリカから離れ、その表情をじっと見つめる。
「少しずつ素直になれてきたんだな。」
そして少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「撤収まで時間がある。…行ってこい。」
「…はい。」
まほに向かって一礼し、エリカは継続高校のテントまで走った。
戦車の損傷は思いのほか軽く、これならほかの連中に任せても大丈夫そうだった。エリカが砲身を打ち抜いてくれたおかげだ。あの状況下でそこまで余裕があったことに驚く。
…まあ、直すのに時間はかかるがな。
撤収の準備を任せて戦車の中で気持ちよさそうに気絶していたミカを引っ張り出し、芝生の上に寝かせる。その隣に座り、しばらく彼女の看病をすることにした。春樹の鞄を枕に、いつものチューリップハットは春樹が被る。海の風がミカの長い髪を静かに揺らした。傾いた夕日が反射して、彼女の髪はまるで高級な絹糸のように輝いていた。そんな光景がまるでおとぎ話からこぼれ落ちてきたかのように、非現実的なものへと感じられる。
「こいつも黙ってりゃなぁ…。」
真意の分からない発言。予想不可能な行動。含みのある笑い。彼女を理解しようとすると真っ先に疲れが溜まる。理解することを諦めた者たちは、積極的に接しようとはしてこない。そしてそれが大半であった。
「……ハル。」
ミカの口から小さく春樹を呼ぶ声が聞こえる。目が覚めたのかと思ったが、ただの寝言のようだった。
「ったく、寝てる時ぐらいは他の奴でも出て来いよ。」
彼女の世界には風以外にいったい何が映っているのだろうか。
「…ハル…ハル。」
ミカが動く。まるで目も開いていない生まれたばかりの動物のように、春樹の方に向かって体が移動する。そして、ミカの頭が春樹の膝の上に乗った。
「…で、いい加減起きねーとこの帽子は工具入れになるがどうする?」
「それは困るね。」
パチッとミカの眼が開いた。チューリップハットを渡すと、寝転んだ姿勢のまま頭に被る。
「全く、いつから気付いてたんだい?」
「同居人にそれを聞くか?」
「それもそうだね。」
ミカは寝返りを打ち、春樹の方を向く。お腹に顔を近づけ、気持ちよさそうにゆっくりと目を閉じた。
「良い匂いだ。凄く落ち着くよ。」
「そいつはどーも。」
あまりにもミカの髪が綺麗に輝くものだから、無意識のうちに彼女の頭に手を置いていた。
「今日は気前がいいんだね。」
「まあ、頑張ったご褒美…と言ったところか?」
今日のミカの戦略は見事と言うほか無かった。部隊を分断させ、かつ自分の有利な地点へ誘導させる。そしてそのことすら相手に気取らせない。相手の動きをすべて把握しているのかと思うほどの流れるような采配。しかし、一つだけ腑に落ちない点がある。
「どうしてフラッグ車を狙わなかったんだ?」
あの時点で強襲をかけるべきはまほのティーガーⅠだったはずだ。しかし、ミカはそうはしなかった。主力部隊を引き連れて狙ったのはエリカの偵察部隊の方だった。もし、まほの部隊に強襲をかけていればうまい具合に挟撃になりもしかしたら勝っていた可能性だってある。
「違う…そうじゃないよハル。風が言ったのさ…」
ミカは再び仰向けになると、まっすぐに春樹の眼を見据えた。いつものあの何を考えているか分からない笑みではなく、真剣な表情だった。こんな顔、今まで見たことが無かった。同時に彼女の瞳に、その美しさに、吐息のリズムに一瞬で引き込まれてしまう。逃げられない。そう直感する。
「敵を撃てって。」
ミカの手が伸び、春樹の首に腕が回される。グイッと力が込められ、春樹が支えとなってミカの体が持ち上がった。そして、頬に生暖かい感触を感じた。
「…おいミカ。これは一体何のまでだ?」
右腕は春樹の首に、左腕は頭に、蛇のように絡みついたミカの体は予想以上に熱くなっていた。
「ははら、ひっははろう?」
「そのまましゃべるな。」
舌が頬に当たる生々しい感触が否が応でも、ミカという一人の女性を意識させられる。その時だった、誰かが駆け足で近づいてくるのを音で感じたのは。ああ、おそらく彼女は今日も嫌みの一つでも言いに来たのだろう。してやったりと、きっと得意になって、楽しそうに。そんな彼女は瞳を大きく見開き、口を半開きにさせて硬直していた。今目の前に広がっている光景が整理できないのか、それとも信じたくないのか。
「なに…やってんのよ。」
やがて絞り出すように、弱弱しくそう呟いた。
そしてだんだんとその表情が曇り始め、表情が分からなくなるまで俯く。口は真一文字に結ばれ、体が小刻みに震える。
「…エリカ。」
「……っ!」
エリカは踵を返し、逃げ出すように走り出した。振り返った瞬間に見えたのは大粒の涙だった。支えになると約束したはずなのに。あれが最後の涙にすると決めたはずなのに。泣かせてしまった。
すぐに追いかけないといけない。立ち上がろうと足に力を入れるが、ミカに取り押さえられて上手く動けない。
「何の真似だ、ミカ。」
「……。」
春樹とミカの視線が交差する。
「頼むミカ、放してくれ。」
いつもの怒鳴り声ではなく、子供を諭すような優しい声色だった。
「ごめんねハル…。」
そっとミカは腕の力を緩めて、春樹から離れた。
「…行って。」
目を合わせずに、小さくそう呟く。
春樹は迷わずにエリカの後を追うように走り出した。
やってしまった。どうしても抑えることが出来なかった。
日に日に増していくこの感情が。
ハル…君が欲しい、誰にも渡したくない。
ハルの物になりたい…誰も代わりなんて出来ないくらいに。
そう言えたらどんなに楽だろう?
けど、言えやしない。言えやしないそんなこと。
大好きだから、ハルの事が大好きだから、こんな我が侭を言ってしまえば優しいハルは傷ついてしまう。自分を責めてしまう。
あぁ、どうしたらこの気持ちが上手く伝わるのだろう。
誰か教えてほしい、彼を傷つけずにこの感情を伝える方法を。
好きと言わずに好きと伝える方法を…。
とりとめのない話をして、戦車や車の話をして、笑って、喧嘩してそんなことを望んでいたのが馬鹿みたいだ。全速力で走ったおかげか、あっという間に黒森峰のテントに着く。肩で息をしている私を見て、何事かと人が集まってきた。
「どうしたエリカ?」
その中に隊長がいてくれたことが、唯一の救いだった。隊長なら何も言わずに分かってくれる。分かって欲しい。覚悟を決めて顔を上げた。歯を食いしばり、必死に涙がこぼれないように我慢する。きっと酷い顔をしているに違いない。私の顔を見た隊長は優しく肩を叩いて「奥の部屋で休んでいろ。話はあとで聞く。」と言いってくれたどんな言葉で返事をしたのかは、正直覚えていない。だけど隊長の気遣いが心の底から嬉しかった。
今までこんな全力で走ったことは無いだろう。息が上がろうと、肩で腕を振ろうと構わず走り続けた。黒森峰のテントに着く。胃の奥から込み上げてくるものを押さえつけて、足がふらつくのも構わずにエリカを探す。
「はぁ…はぁ…はぁ…っ!」
「…何をしに来た?」
テントの奥からまほが出てきた。まほはいつものような弟をかわいがるような雰囲気ではなく、試合中ような重い雰囲気をまとっていた。
「……。」
「……。」
暫くの間二人は無言で睨み合う。今にも戦争が勃発しそうな雰囲気に、周りの生徒たちが息をのむ。
「副隊長は?」
まほはゆっくりと首を横に振った。
「今のエリカをお前に会わせるわけにはいかない。」
それでは困る。あの涙を見た今居ても立っても居られないのだ。
「どうしても、どうしても謝らないといけないんです。」
春樹を諭すように彼の両肩に肩を置く。
「黒森峰はこれ以上醜態をさらすわけにはいかない。今年こそ勝たねばならないのだ。」
「そんなもの理由には―」
そこで春樹は言葉に詰まった。俯く彼女の顔もまた春樹のように苦しい表情をしていたからだ。
「これ以上エリカを追い詰めるな。」と春樹にしか聞こえない声でつぶやく。まほは両手にぎゅっと力を込め、顔を上げた。そこにはいつものような冷徹な表情があるだけだった。
「金輪際エリカと接触することは許さん。絶対にだ。」
まほの眼は本気だ。これ以上ここいても進展は無い。何よりこの奥にいるであろうエリカを傷つけるだけだ。がくりと、春樹はうなだれた。
アンツィオ高校との試合も無事に勝利を収めることが出来た大洗女学園は、少しずつ注目を浴びるようになってきた。学園内でも、戦車道を履修してい生徒たちにも声をかけられたりする機会が増えてきている。次の準決勝の対戦相手は、みほにとっては因縁のある学校だった。プラウダ高校。去年の優勝校。黒森峰の10連覇を打ち破った学校。みほのミスが原因とは言え、プラウダは強い。そうでなければ決勝まで勝ち上がっては来ていない。次こそは負けるかもしれない。今の大洗が勝つには、いろいろな策を練る必要がある。ただでさえ奇跡に近い勝利を拾って進んできているのだ。
「…ん?」
鞄の中の携帯電話が震える。着信相手は…春樹からだった。何の用事だろう?よほどの急ぎの用事でない限りはメールでのやり取りの方が多い。継続高校は先週の黒森峰戦で負けてしまった。そのため整備班は特に急いで作業をする必要は無いのだが…。
「もしもし春樹君?」
「……すまないな、大事な試合の前に。」
おかしい。私の知っている本田春樹という男の子はこうも弱弱しい声を発する人だったろうか?あまりにも予想していなかったので、上ずった声が出てしまう。
「ど、どうしたの春樹君?」
「その…なんだ、少し相談事がな。」
いつもの威勢のよさはどこへやら、今の春樹の声に覇気というものが一切感じ取れない。
「実はな…。」
春樹は先週の一件を、みほに包み隠さずすべて打ち明けた。それを聞いて最初に感じたことは、「何やってんだか…この二人は」という呆れの感情だった。それにしてもひっ掻き回すなぁミカさん…。あの人のおかげで話が余計にこじれてしまう。
「どうするのが正解なのか全く分からないんだ…。」
すがるような春樹の言葉に少しだけドキリとする。恐らく春樹の心境として、今すぐにでもエリカに謝罪と弁解をしたいに違いない。しかし、今は状況が状況だ。いまあの二人が顔を合わせてしまったら、悪い方向へ転がってしまう可能性の方が高い。お姉ちゃんの春樹君を突き放すような言葉は、二人の事を考えた最善の策であると思う。二人には上辺だけの関係で終わって欲しくない、そんな気持ちが窺い知れる。
…ちょっとやきもち妬いちゃうな。
「私も何が正しいのかは分からないよ。だけど、私よりも”そういう事”に詳しい人なら知ってる。」
「本当か?」
「でも、それを教えるには条件があります。」
だから少しだけ彼にイジワルをしよう。
「……なんだ?」
まるで裁判の判決を待っているかのような弱った声。きっとこの向こうには捨て犬のような、誰かにすがる目をしているんだろう。僅かな優越感が込み上げる。大丈夫だよ、そんなに無理難題を言う訳じゃないから。いつもの苦笑いが出てしまう。
「今度から私の事をみほって名前で呼んでほしいな。」
お姉ちゃんも、エリカさんも名前で呼ばれているのに私だけ「西住妹」だもん。お姉ちゃんを西住さんと呼ぶわけでも無いのに。ずるい。それくらいの我が侭を言っても許されるはずだ。
「分かった。教えてくれないか?みほ。」
少しだけ胸が高鳴る。
…がんばってね春樹君。エリカさん。
「…で、なんだ私に相談事と言うのは。」
エスプレッソを啜ると、小さくツインテールが揺れる。
みほのアドバイスを聞いた春樹は、その足でアンツィオ高校に向かった。
「アンチョビさんに相談してみると良いよ。」
彼女の趣味は恋愛小説を読むことだ。いろいろな感情の起伏について知っているだろうし、具体的な解決策は出ないまでも、気持ちの整理の仕方は教えてくれるはず。というのがみほの考えだった。普段であれば頼りになる沙織は最近暴走しがちなため、突撃あるのみ!などと言い出しかねない。そのため早い段階で候補から外した。
「えぇ、実はですね…。」
アンチョビ自身物語の世界に没頭するあまりか、現実の世界ではかなり奥手な人間だった。だからその手の話題に関して全くの無関心なまほやミカに対して、彼女は少なからず仲間意識を持っていた。しかしその話を聞いて少しだけショックを受けた。あのミカが予想以上に異性に対して積極的なアプローチをかけていたからだ。
「そ、その…どうだった?」
内心興味津々で恐る恐る聞いてみる。
「特に何も。」
「そ、そうか…。」
ミカも見てくれだけはかなりの美人だ。スタイルも良い。そんな彼女に頬へキスされたともあれば、多少は舞い上がるはずだ。それなのに春樹は淡々とした口調でそう答えた。声の感じから平静を装っているというわけでも無いようだ。ともすれば、そこまで黒森峰の副隊長のことを想っているのだろう。今どきの高校生にしては珍しい一本気な性格だ。良いだろう、その心意気や良し。最後まで相談に乗ってやろうじゃないか。
「話を聞くに、今はあまり関わらない方が良さそうだな。戦車道に集中させてやれ。」
「…やはりそうですか。」
それが一番いいという事は春樹も納得している。しかし、内面は何かしらの打開策を模索しているところだった。
「せめて戦車道が落ち着いた後に話がこじれないようにしたのです。」
「…保守的だな。私の見ている本田春樹という人間はもう少し攻める性格だったはずだぞ?」
「そうはいっても…保守的にならざるを得ないでしょう。」
どうやらアンチョビが思っていた以上に、春樹は精神的に凹んでいるようだ。その理由を聞きださない事には話は進まない。ここはもう少し深いところまで聞きださないといけないな。
「そこまで彼女を泣かせたことが許せない理由を聞いても良いか?」
「約束したんです。アイツが傷ついたときは支えになるって。」
昨年の黒森峰の事件と言っても良い出来事。賛否は両論だった。当事者は糾弾され、傷つき排除された。もう一人の当事者はそんな陰に隠れて、副隊長の座に就いた。そんな話はいくらでもある。ありふれた話はすぐに忘れるもの。きっとあと数年もすれば世間の記憶からは消え去ってしまうだろう。それがエリカには許せない。風化すればするほど、エリカの心は傷ついていく。だから春樹は彼女を支えると決めたのだ。
「それなのに、彼女を傷つけてしまったことが許せないんです。」
「…良い奴だなお前。」
そこまで他人の事を私は思えるだろうか?人の深いところまで踏み込むのはとても怖いもの。しかし、それでも思いたい人がいるというのはとても良いものだ。本物だ。アンチョビはそう感じた。そうであれば、相応の本気で応えてやらなければならない。
「黒森峰の次の対戦校はどこだ?」
「聖グロリアーナです。」
「ダージリンか…。」
きっとあの腹黒女の事だ、彼女たちの事情を利用したエグイ作戦を考えてくるに違いない。
「であれば、だ。お前に必要なのはこれだな。」
アンチョビはメモ帳を取り出すと、何か数字を書き込む。
「…これは?」
「黒森峰の隊長の、西住まほの携帯番号だ。アイツの個人的な連絡先を知っている人間は殆どいないんだぞ?」
まほは機械に疎いため、携帯電話の操作もかなりおぼつかない。持ってはいるが、ほとんど使ったことが無い。常時利用する連絡手段はもっぱら書類のやり取りだけで、携帯を使った連絡はかなり希少だ。
「これをどう使うかはお前次第だ。」
ピッとページを割き春樹に渡した。
「ありがとうございます。このお礼はいつか返します。」
「いらん。”上手くいった”の言葉が聞ければそれで十分だ。」
残ったエスプレッソを飲む。カップの底に溜まった砂糖が口直しになる。最初は苦いが、最後には甘い結果が待っている。彼にもこのエスプレッソのような結末を迎えて欲しいものだ。
「頑張れよ、少年。」