やはり一色いろはの青春ラブコメはまちがっている。 作:yayoi3
「じゃあお前ら、好きなやつとペア組めー」
体育のテニスの授業が始まった途端、体育教師の無慈悲な宣告がなされた。
「あの、俺あんまり調子良くないんで壁打ちしてていいですか? 迷惑かけたくないんで」
返事を待たず壁打ちを始めると、教師も声をかけるタイミングを見失ったのか何も言わなかった。
完璧すぎる……。
体調が悪い+迷惑をかけたくないの相乗効果が効いている。
且つ体育自体のやる気があることは示している。
これぞ長年のぼっち生活により培われた好きな人とペア組め対策。
あとで材木座にも教えてあげよう。
泣いて喜ぶぞ、あいつ。
そんなこんなで一人で壁打ちに集中していると、ころころとボールが転がってくる。
「やっべ、え、えーと……。ひ、ヒキタニくん、ボールとってくんね?」
誰だよヒキタニくん。
訂正するのもめんどうだったので、俺はボールを拾って軽く打ち返す。
「っべー。ヒキタニくん、今のやばくね? 魔球じゃね? 隼人くんの手に吸い込まれてったべ? っべー」
そりゃ、そこ目がけて打ったからな。
お前に言わせれば何でも魔球だろうよ……。
昼休み。
いつものベストプレイスで昼食を食べる。
ここで食べると風が気持ち良くて、ごはんがおいしくなるからね。
決してぼっち飯とかじゃないよ。
「あれ、せんぱい?」
「一色か?」
「せんぱいこんなところで何……あっ」
察するなよ、悲しくなってきちゃうだろ。
「冗談です」
そう言いつつ、俺の隣に腰かける。
「良い場所ですねー。風がきもちーです」
「だろ? 飯を食うならここに限る。というかお前なんでここにいんの?」
「……罰ゲームです」
「俺と話すことがですか」
「違いますよ。ジュース買ってくるやつです。パシリですね」
なんだーよかったー。
うっかり死んじゃうところだったわ。
「今日は結衣先輩がやけに調子良くてですね……」
雪ノ下そっくりの物真似をしつつ、罰ゲームに至るまでの顛末を話す一色。
途中までは楽しそうだったのだが、罰ゲームの内容に入ると声のトーンが落ちていき、
「次は勝ちます。完膚なきまでに叩きのめします。フフフ……」
「だからこわいっての」
瞳のハイライトさん、戻ってきて!
勝利への異常な執着を見せる一色に若干引きながらも、残りの昼食の消化を進める。
「でも、今日だけは負けてよかったですね」
「なんでだよ」
するりと。
ほんのわずかだけ距離を詰める一色。
ふわりと、脳をとろかすくらいに甘い香りがした。
「こうして、せんぱいと二人きりになれましたし」
「……っ! こほ、ごほっ」
そんなこんなで一色と二人で話し込んでいると、突然ボールが転がってきた。
「ごめんなさーい!」
そのテニスボールは俺の足元で止まった。
俺は仕方がないのでボールを拾い、近くまで来ていた生徒に投げ渡す。
「あ、比企谷くんだ。ボール、ありがとうね」
「お、おう」
「比企谷くんっていつもここでお昼ご飯食べているの?」
「ま、まあな」
冷や汗をかきながら返事をする。
視線は常に斜め上だ。
「……せんぱい、せんぱい。あのヒト誰ですか」
「……いや、実は俺も分からん」
「……あー、あれですか。元クラスメイトとかで向こうは認識しているけどこっちは名前すら分からない、あの。よく分かります」
分かっちゃうんだ。
雪ノ下や由比ヶ浜あたりだったら引いているところだぞ。
特に雪ノ下は記憶力が異常に高く、礼節を重んじるところがある。
「あ、あはは。やっぱりぼくの名前覚えてないよね。同じクラスの戸塚彩加です」
「わ、悪い……クラス替えからあまり時間経ってないから、ほら、こうね」
「一年の時も同じクラスだったんだけどね……。ぼく、影薄いから」
「やー、そんなことないぞ? ほら、俺あんまりクラスの女子と関わりないからさ。むしろ女子と喋ったのが数年ぶりまである」
「……私は女子ではないと」
「……いいからここは抑えてくれ、な?」
「……貸し、一個ですからね」
あとで何を要求されるのか戦々恐々とするが、今はこの場を切り抜けるのが先だ。
「……でも、まさかこんなところに伏兵がいるとは」
「……なんだよ伏兵って」
「……もちろん恋敵です」
口に何も入っていないのにむせかけた。
なんなの?
こいつ俺をむせころさしちゃう気なの?
だとしたら実に有効な手段であると言わざるを得ない……。
「大体、クラスでぼっちで休み時間もイヤホンつけて音楽聞きながらうつ伏せで寝たふりするようなせんぱいに話しかけるメリットがありません。絶対せんぱいに気がありますよ」
「……根拠は?」
「ラノベです」
「駄目じゃねーか」
「えー何でですか?」
最近渡したラノベで似たようなシチュエーションがあったので、聞いてみたら案の定だった。
ダメだしすると、ものっそい不満そうな顔をしている。
ちょっと毒されすぎじゃないですかね。
「ぼく、男なんだけどな……。そんなに弱そうに見えるかな?」
『は?』
ぴたっと、俺と一色の思考と動きが停止した。
先に再起動を果たしたのは一色だった。
「なるほど、これが噂の男の娘というやつですか。要注意ですね」
「順応早いなおい……」
俺は気まずさをごまかすため、戸塚に話題を振った。
「しかし、昼休みにも練習か? 大変だな」
「うん。うちの部はすっごく弱いから……お昼も練習しないと。お昼も使わせてくださいってずっとお願いしてて、最近やっと許可が出たんだ。比企谷くんと……」
「一色いろはです」
「一色さんはここで何してるの?」
「もちろん逢引を」
「おい」
「え……お邪魔だったかな?」
真顔の一色の発言に、戸塚がおろおろとし出す。
見ろよ、信じちゃったじゃねーか。
「冗談だからな」
「そっか。なら良かった」
ほっと薄い胸を撫で下ろす戸塚。
しかし何度見ても、男女共通の服装をしていると女子にしか見えないな。
「あ、そういえば比企谷くんってテニスうまいよね。もしかして経験者?」
「いや小学生の頃、マリオテニスをやって以来だ。リアルではやったことない」
「私テレサ超好きです」
「お、奇遇だな。俺も好きだ」
「……せんぱい、今のもう一回お願いします」
「……俺もテレサ好きだぞ。あのぬるぬるした動きがな」
「……おしい、録音しておけばよかったですー」
録音して何に使う気なんですかね。
一応、声量を小さくして戸塚には聞こえないように配慮していたので、俺は某ラノベ主人公の如く最後のは聞こえなかったことにした。
するとタイミングよく昼休み終了を告げる鐘の音が鳴る。
「わ、片付け急がないと。じゃあね比企谷くん、一色さん」
「お、おう。おつかれ」
「さよならですー。せんぱいもほら、戻らないと遅刻しちゃいますよ」
「それはそうだが、一色」
「は、はいっ」
何故かビシッと背筋を伸ばす一色。
「罰ゲームはいいのか?」
「あっ」
そして数日後。
再び体育の時間がやってきた。
度重なる一人壁打ちの結果、今や俺の壁打ちスキルはさらなる高みへと至りつつあった。
体力の消耗を避けるため、一歩も動かずにボールを打ち返せるようになったのだ。
手○ゾーン!
脳内でアホな妄想をしていると、その直後に打球があらぬ方向に飛んでいってしまう。
さすがに壁とのラリーでは回転を制御してなんちゃらするのは難しかったようだ。
ボールはまだたくさんあるので、転がっていったボールの処理は魔球開発をエンジョイしているやつらに任せた。
そうして再びボールを拾った瞬間、とんとんと肩が叩かれる。
「あははっ、ひっかかった」
えー嘘何この気持ち。
一色の言っていた男の娘ヒロイン説が現実味を帯びてきちゃったよ。
このまま戸塚ルートに突入しちゃう勢い。
「どした?」
「今日さ、いつもペア組んでる子がお休みなんだ。だから、よかったらぼくと……やらない?」
だからその上目遣いやめろって。
一色のようなわざとらしさが感じられないから破壊力がヤバい。
「ああいいよ。俺も一人だしな」
壁よ、今まで世話になったな。
お前との熱いラリーの応酬、忘れないぜ。
心の中で壁に別れを告げ、戸塚とのラリー練習が始まった。
「やっぱり比企谷くん、上手だねー」
「超壁打ってたからなー。テニスは極めたまであるー」
「それはスカッシュだよー。テニスじゃないよー」
緩い会話をしつつ、ラリーを続ける。
テニス部である戸塚は言わずもがな、スカッシュを極めた俺のコントロールもそこそこ良い。
他の連中がミス打ちを続ける中、俺たちだけが長いことラリーを続けていた。
ボールを拾いにいかなくていいから楽だなあ。
そんなことを思いつつ打球を返すと軌道がずれて、ついにラリーが途切れる。
雑念が入るとダメだな。
「少し、休憩しよっか」
「おう」
戸塚の提案により二人してベンチに座る。
しかし、ちょっと近くないですかね?
ほぼ拳一個分しか空いていないですよ?
電車で両脇が空いていないと座れない俺にこの距離はつらい。
「あのね、ちょっと比企谷くんに相談があるんだけど……」
「相談?」
「うちのテニス部のことなんだけど、すっごく弱いんだ。人数も少ないし、三年が引退したらもっと弱くなると思う」
「なるほど」
「それで。比企谷くんさえ良ければ、テニス部に入ってくれないかな?」
「……は?」
そして、放課後。
「無理ね」
「即答かよ。一応理由を聞いてもいいか?」
「無理なものは無理よ。だって、まだ依頼が終わっていないもの」
曖昧な言い方をする雪ノ下。
「いや、依頼ってなんだよ。戸塚のこととは関係……」
そこでようやく雪ノ下の言いたいことに思い至る。
気付いたときにはもう遅かった。
「一色さんの依頼のことよ」
雪ノ下は慈愛に満ちた笑みで続ける。
「もっとシンプルに言うわ。あなたが奉仕部を退部したら、一色さんが悲しむじゃない」
「いや、悲しむって……あいつなら俺が奉仕部を抜ければ追いかけてくるんじゃないか?」
我ながら自惚れも甚だしい考えだ。
だがとりあえず乗っておかないと話が進まない。
「私が付けた条件を忘れたの? 合わないと思った方が意思表示をする。その方法の一つに奉仕部から出ていくというものがあるわ。だからあなたが出ていった時点で一色さんはあなたに拒絶されたと判断するでしょうね」
「……」
「どうせあなたのことだから『テニス部に入ると見せかけてそっちも徐々にフェードアウトしていこう』とか考えているのでしょうけど」
「そ、そそそんなこと考えていませんよ?」
「冗談よ。本当は私にこのことを話して、遠回しに依頼をしたかったのでしょう?」
どんだけ好意的な解釈だよ。
本当にこいつ雪ノ下か?
何か別なの入ってないだろうな。
「奉仕部でどうにかできないか。それは無理でも何かしらのヒントを得られないか。それを聞きたくて話した。違う?」
「違うな。俺は別に放課後の自由な時間を得たいがために……」
「これが一色さんのいう捻デレというやつね。よく分かったわ」
一色さん?
一体俺がいないときにどんなことを話してくれやがっているんでしょう?
「もっとも、あなたという共通の敵を得て部員が一致団結することはあるかもしれないわね。けれど排除するための努力をするだけで、自身の向上に向けられることはないの。だから解決にはならないわ。ソースは私」
「なるほどなぁ。……ソース?」
「私帰国子女なの。当然転入という形になるのだけど、クラスの女子は私を排除しようと躍起になったわ。でも誰一人として私に負けないように自分を高める努力をした人はいなかった。……あの低能ども」
うわあ。
雪ノ下の闇の部分に触れてしまった気分だ。
普段の俺のゴミを見るような目の数倍冷たい目をしている。
「じゃあそれは無しとしてだ。他に良い案はあるか?」
「そうね……。やる気のない人にやる気を出させるのは至難の業よ。特にスポーツ系の部活動はスポーツそのものが好きでないと、続けることは難しいわ。上達には時間がかかるし、タイムリミットもある。その上結果が出るとは限らない。また閉じられたコミュニティだからこそ、周囲のやる気のなさが伝染しやすいのかもしれないわね」
なるほど。
スポーツ自体を好きになること。
どんな結果が得られるか示すこと。
やる気のない人を排除すること。
ここら辺がポイントか。
「結果が出るっていうのは分かりやすくていいな。勝つことは難しくても、スポーツやってて得られるものといえば、推薦や就職で有利になることか?」
「多少は有利になるかもしれないけれど、それは3年間続けたという肩書さえあれば十分ね」
「大会、賞、団体戦……。一応戸塚が強くなればそのメリットも強化される、のか?」
「トップがやる気があって、なおかつ実力もあれば、ある程度は。もっとも、空回ってしまっては逆効果だけど」
「そこで空回っているって思っちゃうやつはもうダメだろ。そういうやつらは全員抜けたって新しい部員を補充した方がいい。それが一番難しいんだろうけどな」
二人で色々と考えていると、ふと雪ノ下の視線がこちらに向いていることに気付いた。
「がんばるのね」
その生暖かい目でこちらを見てくるのはやめてもらえませんかね?
「まあ、あれだ……人に相談されたのは初めてだったんでな」
「私は良く恋愛相談とかされたけどね」
雪ノ下は張り合うように言う。
「といっても、女子の恋愛相談って基本的には牽制のために行われるのよね……」
「は? どういうこと?」
「自分の好きな人を言えば周囲は気を使うでしょう? 聞いた上で手を出そうものなら泥棒猫扱いで女子の輪から外されるし、なんなら向こうから告白してきても外されるのよ?」
「理不尽だな……ん?」
そこで先日の出来事に思い至る。
「じゃあ、一色のあれは牽制か?」
「……どうかしら? 少なくともいつもの恋愛相談のような、嫌な感じはしなかったのだけれど」
雪ノ下は少し考え込む。
「本当の所は本人に聞くしかないけれど。自分の覚悟を決めるため、とか……そういったところかしらね?」
「まあ、参考になったわ。お前にも分からんことがあるって訳だな」
「そうね。特に一色さんや由比ヶ浜さんのことは、よく分からないわ」
「一色はともかく、由比ヶ浜は単純だろ」
「そうかしら? 私には、彼女は私なんかより色々なことを考えているように見えるわ。同じ生き方は、できそうにないわね」
「そりゃそうだろ。お前は由比ヶ浜じゃないしな」
「それもそうね」
儚げに笑う雪ノ下のことが気になりつつ、なんと声をかけたものかと悩んでいると、ちょうどいいタイミングで部室のドアが勢いよく開かれた。
「やっはろー! 今日は依頼人を連れてきたよ!」
「きましたー」
間延びした声の一色が続く。
「依頼人? 一色がか?」
「違う違う。ほら、彩ちゃんどうぞ」
「お?」
二人に続いて顔を出したのは戸塚だった。
午後の体育振りだ。
遠慮がちに入室する戸塚を、一色が『戸塚先輩、遠慮せずにどうぞ』と促す。
「ありがとう、一色さんに由比ヶ浜さん」
二人に笑いかけながら戸塚がそう言った。
何、いつの間に仲良くなってるのん?
「お前無駄にコミュ力高いな……」
「あー。まあ普段は人間関係なんてくそく……どうでもいいんですけど、せんぱいのお友達ということで近づいておいて損はないかなと」
なん、だと……?
俺の数少ないコミュニティが一色に侵食されていく。
外堀からどんどん埋められている気分だ。
材木座もあれから毎日日記を見せにきては、一色のこと師匠とか呼び始めたし。
いや別に、友だちって訳じゃないですけどね。
あと一色の性格的に、妹の小町と会わせるのだけは避けたいなぁ。
でも無理そうだなぁ。
嫌だなぁ。
「で、戸塚彩加君だったかしら? 何かご用?」
「えと……テニスを強く、してくれる、んだよね……?」
「由比ヶ浜さんに一色さんがどんな説明をしたのか知らないけれど、奉仕部は便利屋ではないわ。強くなるかならないかはあなた次第よ」
「そう、なんだ……」
「でも手伝いはするんですよね?」
「そうね。その上で自立を促すだけ。だから、過剰に期待させるような説明をするのは控えてもらえるかしら?」
「ん、んんっ? でもさー、ゆきのんとヒッキーにいろはちゃんならなんとかできるでしょ?」
「……あなたも言うようになったわね。そこの男はともかく、私を試すような発言をするなんて」
「……私も本気を出しますよ」
由比ヶ浜の一言で、冗談の通じないお二方に変なスイッチが入ってしまった。
「いいでしょう。依頼を受けるわ。あなたの技術向上を助ければいいのよね」
「はい。ボクが上手くなれば、みんな一緒にがんばってくれる……と思う」
「で、どうやんだよ」
「一先ず、トップのやる気だけは十分よ。ならば……」
やる気があるのなら、あとは実力を付けるのみ。
雪ノ下は酷薄な笑みを浮かべた。
「死ぬまで走ってから死ぬまで素振り、死ぬまで練習をしましょう」
どうしてそんなに残酷なことを笑顔で言えるのか不思議でしょうがない。
当事者である戸塚はもちろんのこと、俺たちは全員が例外なく怯えた。
そして、次の日の昼休み。
前日はあんな恐ろしいことを言っていた雪ノ下だが、当然無理のあるメニューはこなさない。
まずは基礎体力をつけるためのランニングや筋トレを中心に行うようだ。
昼休みの僅かな時間であるため、雪ノ下基準で「死ぬまで」やらせてもそこまで問題はなかった。
トレーニングのメニューも、体全体に負荷がかかるようにしている。
また、戸塚の筋力はほとんどなく、腕立ても数回しかできないことが分かった。
それからは膝をつけて腕立てをさせたり、気合だけでどうにかさせようとはしない。
だからと言って雪ノ下が甘いというわけではないのだが。
「なんというか、大人しいんだな」
「?」
そんな雪ノ下を黙って見ている一色に話しかける。
一色は頭に疑問符を浮かべて、かわいく首を傾げた。
首の角度が計算され尽くしている、あざとい。
「開始前は『本気出します』とか『絶対勝ちます』とか言ってたからな。もっと張り合うもんだと」
「すでにスケジュールが組まれていましたからね。これでやり過ぎているところがあれば遠慮なく突っ込もうと思ってましたけど」
つまり一色の目から見てもこのトレーニングは妥当ということか。
口を出すところがない。
ならそれは雪ノ下の勝ちということにはならないのだろうか?
「だから私は私にできるところで勝負します」
そう言って自信満々に、一色は鞄の中からタッパーを取り出す。
「じゃん。定番のはちみつレモンです」
「おお……うまそうだな」
タッパーを開くとそこには黄金色に輝くはちみつと輪切りにされたレモンがあった。
これこそザ・部活のマネージャーの差し入れ、定番中の定番だな。
程良く疲労の溜まった体が、蜂蜜の甘さとレモンの酸味を求めている。
「はい、せんぱいもどうぞ」
「おう、ありがとな」
手を伸ばす。
あと少しでレモンに刺さった爪楊枝に手が届く寸前、タッパーが隠される。
「……なんだよ」
一色は意地の悪そうな笑みを浮かべて、そのうちの一つを取った。
そのまま俺の口元に近づけて、
「せんぱい、あーん」
「ちょっと待て」
「あーん」
「い、一色さん?」
「……あーん」
「落ち着け。自分で食べれるから」
「焦らさないでください……垂れてきちゃいますよ」
一色の言うとおり、はちみつはすでに垂れて一色の手にくっついてしまっている。
爪楊枝でかろうじて支えられているレモンごと落ちてしまいそうだった。
少しだけ躊躇して、雪ノ下や由比ヶ浜が見ていないことを確認してからパッと食べる。
「せんぱいにべとべとにされました」
「誤解を生むような発言は止めてね?」
「あ、せんぱい汗かいてますよ」
「誰のせいだ誰の」
「じゃあ責任とって私が拭いてあげます♪」
水に濡れたタオルの冷たさは心地良いが、それ以上に恥ずかしすぎる。
わしゃわしゃと顔全体を拭く一色の手に遠慮はなく、おかげで肌に張りついた汗もしっかりと取れたのだが。
「はい、綺麗になりましたよ」
「……ありがとな」
「どうですか、私の本気は? ……惚れました?」
惚れたかどうかはともかく、ちょっぴりときめいてしまった。
マネージャーが一色なら運動部に入ってもいいなと考えてしまった。
実際はもろもろの理由で帰宅部が最強過ぎるのでそんな選択は取らないが。
答えは求めていなかったようで、俺が固まっているのを満足そうに確認した一色は戸塚たちにもはちみつレモンを配りにいく。
そんなこんなで日々が過ぎ、俺たちの修行は第二フェイズへ移行した。
かっこつけて言ったが要するに基礎訓練が一通り終わり、ボールとラケットを使った練習に入ったのだ。
素振りをしたり、壁打ちをしたり、投げたボールを打ち返したり。
「由比ヶ浜さん。もっと厳しいコースにボールを投げなさい。それじゃ練習にならないわ」
雪ノ下は相変わらず鬼だった。
由比ヶ浜も真に受けて、コントロールもないので時折あらぬ方向にボールが飛ぶ。
それにも食らいついているうち、戸塚は足元を滑らせて転んでしまった。
「うわ、彩ちゃんだいじょぶ!?」
「大丈夫だから、続けて」
膝を擦りむきながらも、立ち上がる戸塚。
健気だ。
「まだ、やるつもりなの?」
「うん。みんな付き合ってくれるから、もう少し頑張りたい」
「そ。じゃあ由比ヶ浜さん、後は頼むわね」
そういってコートを去っていく雪ノ下。
「なんか、いつまでたってもうまくならないし、呆れられちゃったかな」
「それはないと思うよ。ゆきのん、頼ってくる人を見捨てたりしないもん」
「まあ、お前の料理に付き合うくらいだからな」
「どういう意味だ!」
「あー、テニスしてんじゃん、テニス!」
そう声をかけてきたのは、同じクラスのザ・リア充葉山隼人と愉快な仲間たちだった。
「ね、戸塚ー。あーしらもここで遊んでいい?」
「三浦さん、ぼくたちは別に、遊んでいる訳じゃ……」
「え、何? 聞こえないんだけど」
「あー。ここは戸塚が許可取って使ってるものだから、他の人は無理なんだ」
「はあ? あんたも使ってんじゃん」
「俺らは部活動の一環として練習に付き合ってんだよ」
「じゃああーしらも手伝うなら良くない?」
お前はただ遊びたいだけじゃねーか。
というツッコミは抑えつつ、平和的解決法を模索する。
しかし、何も思いつかなかった。
黙っている俺に焦れたのか、三浦はラケットを持ってボールを打ってきた。
「ねえ隼人。いい加減あーしテニスしたいんですけど」
「じゃあこうしよう。部外者同士、俺とヒキタニ君で勝負する。勝った方が今後休みはここを使えるってことで」
「ええと……」
「もちろん練習にも付き合う。強いやつと練習した方が戸塚のためにもなるし。みんな楽しめる」
たしかに俺たちはあくまで部外者だ。
文字通り戸塚はテニス部で、俺たちは奉仕部である。
そして俺たちにテニスの経験者はいない。
ある程度技量のある人間と練習した方が、戸塚のためにもいいだろう。
隙のない構えだ。
思わず納得して頷きかける。
しかし、そう思わなかったやつもいた。
「何それ超楽し」
「何言っているんですか」
ちょこんと。
控えめに手をあげた一色が、
仕草こそ控えめだったが、その言葉には有無を言わさぬ強制力があった。
「はあ?」
水を差された三浦は、露骨に不機嫌になる。
その威圧感たるや葉山オーラに導かれてコートの周りに集まりかけていた野次馬が身を引くほど。
しかし一色は動じなかった。
「練習にも付き合う、ですか?」
「あ、ああ。もちろん真面目にやる。戸塚の練習になるようにするつもりだ」
「つもり、ですか。それっていつまでですかね?」
「え、ええと……」
「みんなって誰ですか。そこにいる仲良しグループ全員ですか?」
一色の視線は葉山の後ろに隠れていた男子三人と女子一人に向かう。
その4人は葉山グループであってもほぼ傍観者だ。
案の定、一色に視線を向けられても、ただ目線を逸らすことしかしない。
「私たち4人は同じ部活のグループです。そして、戸塚先輩から練習を手伝ってほしいと依頼を受けたので手伝っています。戸塚先輩はもちろんのこと、私たちも部活動の正式な活動をしているんです。部外者はあなたたちだけですよ?」
「はぁ? 何訳わかんないこと……」
「楽しそうだからって理由でコートを使いたいそうですが。他の人もそこの女がやるって言ったからなんとなくついてきたんですよね。そんな義務も義理もない彼らが、ずっと戸塚先輩を手伝うんですか?」
一色の質問に答える人は誰もいなかった。
つまりはそういうことなのだろう。
「せんぱいは優しくて義理固いですから、手伝うと言ったあなた達を無条件で信じましたけど。私はそうではありません」
そんな大層なもんじゃない。
あくまで俺たちも部外者であるという意識が強かっただけだ。
だから何も疑問に持てなかった。
「楽しそう、面白そう、遊びたい。あまりに無責任過ぎやしませんかね? そんな理由でコートを使おうとしたあなた達を信じることはできません」
「ちょっとくらい別に……」
「繰り返しますけど、許可を取ったのは戸塚先輩です。戸塚先輩はテニス部の部長という、責任の伴う立場にあります。その戸塚先輩がテニスの練習をするために使うというから、学校側は許可を与えたんです」
すでに一色は三浦を見ていなかった。
「同じ運動部の部長として、それがどれほど大変かは分かりますね? 葉山隼人先輩」
矛先を向けられた葉山は、無言で頷いて同意を示す。
「優美子。俺が間違っていた。彼女の言う通りだ。ここは出直そう」
「は、隼人が謝ること……。大体あんた一年でしょ? さっきから生意気なんだけど」
「年齢は関係ありません。それに尊敬に値する人ならば、きちんと敬いますよ」
「これ以上は無理っしょ~……俺たちは校庭で遊ぼうぜ? そだ、バレーボールとかどう? 優美子めっちゃうまかったじゃん」
三浦の肩に手を当て、首を振る葉山。
一色との間に入って校庭にいくことを提案する茶髪ロンゲ。
二人掛かりで、やんわりと抑えにかかる。
しかし女王様である三浦は自分が悪いという事実に耐えられない。
ちっぽけなプライドが、自分の過ちを認めることを許さない。
「だ、だいたいさ、ゆいはどっちの味方なのよ」
次に三浦が矛先を向けたのは由比ヶ浜だった。
それでいいのか、三浦。
形勢は苦しくて、味方はもう誰もいない。
だから感情に任せて言っている部分もあるだろう。
けど、それの返答次第ではお前の仲良しグループは簡単に壊れるぞ。
俺は別に、こいつらがどうなろうと知ったこっちゃない。
知ったこっちゃないが……俺の見ているところでやられると気分が悪い。
時折、クラスのグループが喧嘩して空気が悪くなることある。
あれ、ぼっちには関係ないと思うかもしれないが、ただでさえ居心地の悪い教室がさらに息苦しくなるんだぜ。
だから俺は、内輪ノリも内輪揉めも大嫌いだ。
『これからも仲良く、できるかな?』
『ふーん。そ。ま、いいんじゃない?』
少し前のクラス内のいざこざが、脳内に反芻される。
三浦と由比ヶ浜がちょっとしたことで険悪になり。
最終的に由比ヶ浜が歩み寄る形で解決した。
今回も同じだ。
また同じことを繰り返すのか?
そう、するんじゃなかったのかよ。
「おい、三浦」
「は? あんたには関係ないでしょ。少し黙ってて」
「う……いや、黙らん」
「はあ?」
とは言ったものの、どうする?
話題を逸らすか?
それだと根本的な解決にはならないな。
そのまま、思ったままを伝えるか?
さらに意固地になる可能性もある。
「いいの、ヒッキー」
迷っているうちに、由比ヶ浜が前に出る。
……なんでだよ。
どうしてお前は前に出れるんだ。
「優美子」
薄っぺらで。
嘘ばっかりで。
すぐにでも壊れてしまいそうな関係性のために、どうしてお前が傷付かなくちゃならないんだ。
「あたしね、部活が大事」
由比ヶ浜ははっきりとそう言った。
三浦に瞳に戸惑いが宿る。
やがて、それは明確な敵意に変わっていく。
爆発した感情は、止まらない。
そうして、決定的な決別の一言が告げられる。
息を吸いこんで、瞳に溜まった涙を無視して、喉が震えて。
その寸前のこと、由比ヶ浜は「でも」と続けた。
「でもね。優美子も大事!」
「……え?」
「部活も大事だし、優美子も大事。だからあたしは、どっちもの味方!」
「な、何それ。どっちもの味方とか、ないじゃん。あーしら追い出すって、そういう話……でしょ」
気が強そうに見えても、案外それは外面だけなのかもしれない。
由比ヶ浜は不安そうにしている三浦の手を取った。
「今回は、優美子がちゃんと彩ちゃんの手伝いをするっていうなら、あたしからもみんなに言う」
「あ、あーしは……」
「まずは学校に許可をもらいにいこう! それがいろはちゃんの通してほしいスジコ? みたいなやつなんだと思う。平塚先生に言えばなんとかしてくれる……と思う。たぶん!」
根拠のない自信に満ちた声で由比ヶ浜が告げる。
それと、通してほしいのは筋な。
魚卵を通してどうする。
「ほら優美子、いこ? 早く早く!」
「ちょ、ゆい待って……。自分で歩けるから」
由比ヶ浜は三浦の背中に手を当て、コートから押し出していく。
三浦はそれに流されるまま、二人は職員室へと向かって行った。
ふと背後から視線を感じて振り向くと、そこにはにこにことした笑みを浮かべた一色がいた。
するりと、隣に寄り添うように並んだ一色は、だんだんと小さくなっていく二人の影をしばらく眺めていた。
やがて二人の姿が完全に見えなくなると、ぽしょりとこう言う。
「何も心配すること、なかったですね」
「ばっかお前。俺は別に心配なんてしてないですし」
「あれ、せんぱい心配してたんですか? じゃあ、私と同じですね」
「……」
……謀られた。
さっきのは一色の独り言だったのだろう。
それに反応してしまった時点で、俺の負けである。
「せんぱいのそういうところ、大好きですよ」
この、少し後のこと。
毎週水曜の昼休みに、実戦形式の練習がテニスコートで行われることになるのだが。
それはまた別の話である。