鋭いノックの音が何度か続き、沈黙にロム爺が振り返る。
その視線を受けて頷いたのはフェルトだ。彼女は自分を指差し、
「アタシの客かもしれねー。まだ早い気がするけど」
言いながらパタパタと扉の方に向かい、戸に手をかける。
日はもう沈みかけていて、虫の音だけが静かに盗品蔵の中まで伝わってきた。
そして、一際目立つ、銀色の髪。
「よかった、いてくれて。……今度は逃がさないから」
聞き覚えのある声に、一方通行が振り返ると、
そこに立っていたのは、路地裏で出会った銀髪の少女、エミリアと呼ばれていたあの少女だった。
「はァ? なんでアイツがここに……」
「なんじゃ、おまえさんの知り合いか?」
「いや、赤の他人だ。つってもあの盗人のガキはそうも言ってられねェだろうがな」
一方通行はそう言って、ロム爺に出されていたミルクを片手に、あちらのことは、ほとぼりが冷めるまでガン無視という状態だ。
一方、フェルトは、踏み込んできたエミリアの姿に、冷や汗をかきながら後ずさる。
下がるフェルトの表情は悔しげで、忌々しさに唇を歪めながら、
「ホントにしつっこい女だな、アンタ」
と文句を言ってみせることしかできない。
「盗人猛々しいとはこのことね。神妙にすれば、痛い思いはしなくて済むわ」
歯ぎしりしそうなフェルトに対し、エミリアの声の温度はひどく冷たい。
実際、部屋の気温が急速に下がり始めているのか、ただならぬ冷気と、所々に小さな氷が出現している。
ーー無意識下の能力発動...空気中の水分を凝固させる能力、薄々感じちゃいたが、コイツ、Level5級の超能力者か。
そんなことを考えている一方通行。
後ずさるフェルトはすでに部屋の中央から奥側へと移動し、戦いに慣れているのか、エミリアは自然な動きで扉への道を塞ぎながら掌をこちらへ向ける。
かすかに空気がひび割れる音が鳴るのは、エミリアの掌を起点に能力が展開しているのが原因だ。宙に氷の礫が生み出されるに従ってさらに室温が低下していく。
「私からの要求はひとつ。――徽章を返して。あれは大切なものなの」
宙を浮く氷の礫の数は六つ。先端が丸く潰されていて、威力は鋭さより重さを重視している。が、命中すれば飛礫と比較にならない打撃があるのは間違いない。
自然、その標的に自分が入っていることに気づいた一方通行は、舌打ちをすると共に首元の電極に手を伸ばす。
「……ロム爺、すまねー。アタシとしたことが、ドジ踏んじまったみてーだ」
「そのようじゃの。厄介事を厄介な相手ごと持ち込んでくれたもんじゃ」
気がつけばロム爺のその手には巨大な棍棒のようなものが握られていている。ゴツゴツとした厳つい棍棒。普通の人間があんなもので殴られれば、ただでは済まないだろう。
フェルトも武器を持って構えると、場の空気が先ほどまでの盗品蔵とはまるで別の場所のように感じられた。
部屋が一人一人の殺気で満たされる。
「お嬢ちゃん。……あんた、エルフじゃろう」
場の重い雰囲気を破って初めに言葉を紡いだのは、ロム爺だった。
ロム爺の問いにエミリアはしばし瞑目、それから小さく吐息して、
「正しくは違う。――私がエルフなのは、半分だけだから」
数秒後、彼女の告白に大きく反応した2人。
特にフェルトの反応は顕著なもので、彼女は大きく身じろぎしながら下がり、
「ハーフエルフ……それも、銀髪!? まさか……」
「他人の空似よ! ……私だって、迷惑してる」
エミリアが声を張って否定すると、フェルトはこの場において黙り込んでいる一方通行の方を見る。
その赤い双眸には厳しい敵意がこもっている。
「兄ちゃん、さてはアタシをはめたな?」
「あァ?」
「会ったときから変わった格好の奴だとは思ってたんだ。怪しい杖をついて、目つきも悪い。おまけにその白髪と赤眼、兄ちゃんもエルフで、そこのハーフエルフの姉ちゃんとグルだったんじゃねーのか?」
フェルトの的外れな追求に一方通行はため息を吐くと、
「何言ってンだか知らねェが、俺から見たらオマエらの方がよっぽど怪しい格好で、イカれてるように見えるがな」
他の連中を一旦無視して、一方通行とフェルトがにらみ合う。
「……? どういうこと? あなたたち、仲間なんじゃないの?」
困惑しているエミリアにフェルトは鼻で笑うような態度で「ハッ」と息を吐き、
「小芝居すんなよ。追い詰められてんのはこっちだ。堂々と徽章を取り返して、アタシの間抜けさでも笑うといいじゃねーか」
状況は悪化していく、この場の全員、誰が敵で誰が味方か分かっていない。
だからエミリアもこの事態がよく分からず、氷の礫に込めていた力を少しだけ抜いてしまったのだーーそしてその瞬間だった。
――滑るように黒い影がそっと、銀髪の少女の背後へと忍び寄っていた。
「ーーッ!!」
嫣然とした微笑みが室内の影を通り抜け、銀色のきらめきが白い首にのたくるような動きで飛びかかる。
――快音。
それは鋼が骨を断つ音ではなく、甲高いベクトル変換の音と、地面が踏み砕かれる鈍い音だった。
床が割れ、足場を失ったエミリアは前のめりに体勢が崩れる。ナイフはエミリアの肩を紙一重で擦め、白いドレスのような衣装に切れ目が入った。
「なに?」
「間一髪だったね、まさに」
振り返るエミリア。
彼女の動きに遅れて従う長い銀髪、その肩口から覗くのは灰色の体毛の小動物だ。
ピンクの鼻を得意げにふふんと鳴らし、パックはその黒い瞳でちらりと一方通行を見ると、
「なかなかどうして、まさに紙一重のタイミングだったね。助かったよ」
お礼を言うと、親指を立ててグッドサイン。一方通行が床を破壊したのに気づいたのはパックだけだった。
唐突に現れた黒い影、それと同時に崩れる足下。 他の連中は誰も事態を飲み込めない。
そして、まんまと奇襲を防がれた形になった襲撃者は、
「――精霊、精霊ね。それに貴方は...ふふふ、素敵。今日はなんてツイてるのかしら」
ククリナイフを顔の前に持ち上げて、恍惚を浮かべるのは、一方通行がフェルトに遭遇する前に出会った黒装束の女だった。
「おい、どーいうことだよ!」
叫び、前に踏み出して怒声を張り上げるのはフェルトだ。
「持ち主まで持ってこられては商談なんてとてもとても。だから予定を変更することにしたのよ」
怒りに顔を赤くしていたフェルトが、その殺意に濡れた瞳に見つめられて思わず下がる。そんなフェルトの恐怖を、エルザは愛おしげに見下して、
「この場にいる、関係者は皆殺し。徽章はその上で回収することにするわ」
慈母の微笑みのまま、酷薄に告げて彼女は首を傾け、
「――あなたは仕事をまっとうできなかった。口ばかり達者でお粗末な仕事ぶり、所詮は貧民街の人間ね」
エルザの指摘に身を縮めるフェルト。
エミリアとパックは先ほどまで作っていた氷の礫をさらに増やし、全て黒装束の女に向けると、
「まだ自己紹介もしてなかったね、お嬢さん。ボクの名前はパック。――名前だけでも覚えて逝ってね」
ーー全弾射出した。
直後、全方位からの氷柱による砲撃が女の全身に叩きつけられる。
「やりおったか⁉︎」
ロム爺がフラグを立てたところで、白煙からナイフを持った女がホラー映画のような演出で、のっそりと現れた。
「――備えはしておくものね。重くて嫌いだったけれど、着てきて正解」
ククリナイフを振りかぶり、身軽にステップを踏むその体に負傷は見えない。
全くのノーダメージだ。
ナイフの扱いに慣れているようで手元でナイフをクルクルと踊らせている。
パックはそういった隙も逃さず、次々と氷の礫を生成し、再びそれを女に叩きこむ。
しかし、女は重力を感じさせないほど身軽に壁から壁へと、飛び移りその礫を全て難なくかわし切ってみせた。
「戦い慣れしてるなぁ、女の子なのに」
「あら。女の子扱いされるなんてずいぶんと久しぶりなのだけれど」
「ボクから見れば大抵の相手は赤ん坊みたいなものだからね。それにしても、不憫なくらい強いもんだね、君は」
「精霊に褒められるなんて、恐れ多いことだわ」
賛辞を素直に喜びつつ、うなる刃が取り巻く氷塊を打ち払う。
そしてフェルトたちは、
「おい、ロム爺、この状況で何しようってんだ?」
「機を見て、エルフの娘に助太刀をな。まだ向こうの方が話がわかりそうじゃ」
巨大な棍棒を構えるロム爺。
だが、その瞬間、パックの手元が狂ったのか、氷の礫のいくつかが、フェルトやロム爺のいる方に勢いよく飛んできた。
「あっぶねー。当たったらアタシら死んでるぜこれ」
フェルトは驚きに目を開き、一歩下がる。
すると、
「あ、マズイ。ちょっと眠くなってきた。むしろ、今ちょっと寝ながら戦ってた」
パックが子供のように瞼をこすっている。
「ちょっとパック! しっかりやってよっ」
「……はっ! 寝てない! 寝てないよ! ボク、全然寝てないよ!」
「楽しく、なってきたのに。心ここに非ずなんて、つれないわ」
ナイフを構えて女が突進した。
エミリアはそれに対して氷の盾を作り上げるが、間に合わない。
ナイフが直撃する寸前ーー
先ほどまでミルクの入っていたガラスのコップが、とんでもない速さで、黒い殺人鬼の目の前を飛んでいった。
それに反応して咄嗟に後方へ下がる殺人鬼。
「何?」
目を見開いてそれが飛んでたきた方向を全員が確認する。
「ったく、ちっとばっかし無理して石ころ回収に専念したってのによォ。なんだァ、この馬鹿みたいな三下共は」
しばらくパック&エミリアと殺人鬼の交戦を見ていた一方通行だったが、ついに我慢の限界だった。
「シケた遊びしてはしゃいでンじゃねーよ三下。 もっと面白いことして盛り上がろォーぜェ。悪党の立ち居振舞いってのを教えてやるからよ」
後に腸狩りのエルザと判明する殺人鬼の女に向かい、一方通行は異世界に訪れてから初めて、満面の笑みを浮かべてそう言い放った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
◇◇◇2
気づいたとき、虚無感だけが自分の感情を支配していた。
暗黒大陸の最南部、暗い大峡谷の底を、彼女は走っていた。辺りは真っ暗で、頼れるのは視覚以外の五感。永遠とも感じられるほど長い間、孤独や不安と戦いながらひたすらに走った。
ーーもう迷わない。どこまでだって走ってやるんだ。
足が擦り切れて痛い。心臓が飛び出るかと思うほど呼吸も乱れている。それでも立ち止まらなかった。自分の本当の居場所を見つけるために。それが彼女のやりたいことだったから。
ーーこの先に何もなくても。
そして辿り着いたのは暗闇の中に灯る小さな光。小さな木のログハウス。
出迎えてくれた魔法使いはこう言った。
「向こう岸に行きたいかい?こちらからあちらへ連れて行くことはできても、逆はできない」と。
そして記憶はそこで途切れている。彼女は覚えていない、自分が問いに対して、何と答えたのかを。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「おい、嬢ちゃん。どうした、ぼーっとして?」
目の前に商人がいた。
厳つい顔立ちの中年に声をかけられ、思わず間抜けた反応が出てしまう。
「え……?」
こちらの応答に中年は皺の目立つ眉間を寄せて、
「嬢ちゃんのことだよ、そこの赤髪の。それで、リンガ買うのか買わないのか?」
私はどうしてこんなところにいるのだろう?当然の疑問が頭に浮かぶ前に、私は目の前の商人の言葉へ耳を傾けていた。
「え、えっと私は、その……」
「だからリンガだよリンガ」
筋骨隆々のスカーフェイスが、その掌にちょこんと可愛らしい赤い果実を乗せている。
よく見ると目の前には、その赤い果物が無造作に並べられていた。
「リンガとは、この赤い果実のことでしょうか?」
リンガ……
聞きなれない名称だ。
少なくとも私はこの果実を生まれてから口にしたことはない、と思う。
確信が持てないのは、その果実がリンゴとそっくりだからだ。
「何だ嬢ちゃん、リンガ、知らねーのか、さてはルグニカのもんじゃねーな、金持ってんのか?」
ルグニカ?
再び聞きなれない単語を聞いて、私は自分の状況を思い出した。
まず、ここはどこなのか?
私はなぜここにいるのか?
「こんなところでお買い物?、ってミサカはミサカは綺麗な赤髪の美人さんに尋ねてみたり!」
「え?」
気づくと隣には、外見10歳くらいのアホ毛が目立つ少女がうろちょろしていた。
「あの、あなたは?」
「その前にミサカはお腹が減って倒れそうかも、ってミサカはミサカは目の前のリンゴをおねだりしてみる」
お腹を押さえて、リンゴ?リンガを要求するアホ毛の少女。そうは言っても、私もこの場所で使えるお金は少ない。シンドリアで使っていた金貨ならいくらかあるが。
「嬢ちゃんの連れか?悪りぃけどこっちも商売でやってんだ。一文無しならとっととそこどきな」
まるで邪魔者を見るような態度で、中年男は手で追い払う仕草をとった。
私は慌てて、手持ちの袋から金貨を取り出すと、
「あの、このお金使えるでしょうか?」
思い切ってシンドリアなどで使っていたディナール金貨を差し出した。
「どこの国の金だ、まぁ見たところ金貨には違いねーが」
「あの、やはりこれではダメでしょうか?」
店主は一度困った顔をしてから、金貨を見つめると、仕方ないと言わんばかりに頭をかいて、
「金貨なら役所でルグニカの通貨に交換してもらってこい。今回はサービスしてやる。その代わりウチの店をご贔屓にな」
そう言って店主はリンガと呼ばれる果実をいくつか袋に入れて渡してくれた。
「ありがとうございます」
「やったーやったー、ってミサカはミサカは嬉しさのあまり飛び跳ねてみる」
袋を受け取ると真っ先にアホ毛の少女がその中から真っ赤なリンガを取り出してパクパクと食べ始める。同じように私も一口かじると、甘酸っぱい蜜の匂いが口に広がって、
「甘い……」
思わず漏れた純粋な言葉に店主も満足したらしく、
「嬢ちゃんたち、ルグニカは悪い国じゃねぇ、ゆっくりしていけよ」
私たちは店主にお礼を言うと、荷物を背負い直し、その場を後にした。
騒がしい街並みをよく観察しながら、歩いていると、気づくことがいくつかあった。
まず、文字が私の世界と違うということだ。店の看板やチラシ、壁に貼ってあるポスターらしきものにも読めない文字が書いてある。売っている品や、食べ物も見たことのないものばかりだ。
肌に感じる風や、空気の匂い、そういったものさえ、私が今まで過ごしてきた世界とは少し違う。
これは私にしか分からない感覚だと思うけど、人一倍五感には自信がある。
だからなのか、きっとここは私の知っている世界とは少し違う場所なのだと、なんとなく直感で感じ取れた。
私が目を丸くして、周りの景色を見ていると、視界に可愛いらしいアホ毛がチラチラと入ってくる。
ところで、
「結局あなたはいったい誰なんですか?」
さっきから付きまとっているこの小さな少女はいったい誰なのか?
私がここにいる理由を知っているのか?
気になることを聞いてみることにした。
「
「らすと……おーだーさん?」
私は軽く首を傾げる。
「
「はぁ……私にはよく分かりませんが、貴方はなぜここに?」
「ミサカにもよくわかんない。でも、きっとあの人がすぐに来てくれる、ってミサカはミサカは信じてる」
少し寂しげな表情を浮かべる少女。
あの人……というのは親か何かだろうか?
「もしかして、あなたも気付いたらあの商人の前に?」
「そーなの!、ってミサカはミサカは共感できる人を見つけられて大はしゃぎしてみる」
私と同じ状況..この事態に関係ないはずがない。それに、こんな小さな少女を1人にはできないと思い、私はこの子にしばらく同行することを提案する。
「あの、もしよかったらその人が見つかるまで私と一緒に来ますか?
きっと私たちとこの状況は無関係ではないでしょうし」
「え、いいの?、ってミサカはミサカは純粋な疑問を口にしてみる」
「大丈夫です。こう見えて私、とっても強いですから」
私が自信を持ってそう告げると、アホ毛さんは、子供らしく辺りを飛び跳ねて回りだす。
はしゃぐアホ毛さんの様子に引きつけられ、改めて街を見てみると、相変わらず見たことのない動物、人が多く徘徊していて、どこもたくさんの声で賑わっていた。
その様子から、この街がある程度平和で治安の良い場所ということが、一目でうかがえる。少なくとも、奴隷などの制度がないことも。
「もしかして、ここが大峡谷の向こう側なの?」
自分にだけ聞こえる声でポツリと呟く。
大峡谷というのは、暗黒大陸に存在する裂け目のことだ。
絶壁から続く暗闇が地平線まで続いており、渡れば二度と戻ってこられないと言われている。
まさかとは思うが、この子もあの暗闇の中を走りねけてきたのだろうか……
いや、それはないだろう。小さな子ども1人で走り抜けられるような簡単な大谷でもない。
そうなると、この子はきっと何か別の方法でここに来たことになる。それが何なのか、今は分からない。考えるだけ無駄だ。
だから今は、前に進むことを考えたい。
私が聞いた話では、反対岸にまだ自分の同族がいるという話があった。もしかしたら彼らに出会うことができるかもしれない。
しかし、もしここが本当に反対岸なら、二度と戻ることはできないという話をあの魔法使いにされたのも事実。
いったいこれからどうすれば...
そんな考え事をしながらしばらく悩んでいると、
「そんなに心配しないで、ってミサカはミサカはあなたを励ましてみる」
いつの間にかアホ毛さんが私の目の前に立ってる。
「あの、今私、声に出てましたか?」
「言わなくてもわかるよ。すっごく張り詰めた顔してる、ってミサカはミサカはあなたの悩ましげな表情を覗いてみたり」
「すみません、私……」
私が申し訳なさそうな表情をすると、
「大丈夫。きっと今頃あの人が、いなくなったミサカを心配してあちこち探してる」
そう言ってアホ毛さんが私の手を自分の両手で優しく包み込んだ。
「あの人は不器用で、本当はとっても弱いんだけど、根は優しい人だから、きっとあなたのことも放っておけないに決まってる、ってミサカはミサカはあの人のことを話してみたり」
そのあたたかい笑顔から、『あの人』という方がアホ毛さんにとって、とても大切な人で、信頼されていることがすぐに分かった。
きっと私にとってのあの2人のように。
だから私も立ち止まってなんていられない。
「ありがとうございます。少し勇気がでました」
「えへへ、どういたしまして、ってミサカはミサカは照れ隠しに手で顔を覆ってみたり」
アホ毛さんに慰められ、再び足を進める。
そうして今後の方針を練ろうとした、その時だーー
突然、前方から鋭い悲鳴が上がった。
1人ではない。2人3人と次々にさけび声が聞こえる。一体何が起こったのか、ふいに生じた違和感に息を詰め、足を止める。
空気が変わる、という感覚が如実に肌に伝わり、じっとりと疲労から流れていた額の汗の温度が急激に低下していくのがわかった。
肌を針でつつくように刺激するのは、濃密な存在感が無意識に放つ威圧の余波だ。そこにある、というだけで、普通の人間に恐怖を感じさせる。
大気の温かさが変わり、空気の流れが乱れるとそれは異臭を運んでくる。先ほどまでは、屋台の食べ物などの美味しそうな匂いしかしなかったに、今は思わず顔をしかめてしまうほどの生臭さが漂っている。
「何?」
「人がこっちに流れてくるよ、ってミサカはミサカは冷静に状況確認をしてみる」
猫耳、兎耳、多くの人が逃げてくる遥か前方に私は目を向ける。
「あれは……犬?」
薄っすらといくつか、黒い影がうごめいているのがわかる。
「え、どこどこ、ってミサカはミサカはワンちゃんに興味深々って……ふぇ⁉︎」
逃げてきた人々にぶつかりアホ毛さんがよろける。私がそれを支えると、走ってきたうちの1人の男性が叫ぶ。
「魔獣のジャガーノートだ。竜車の積み荷にくっついてやがったんだ!全員逃げろ!喰い殺されるぞ!!」
それを聞いて、立ち止まって様子を見ていた人々も一斉に逃げ出す。
ジャガーノート……
この聞きなれない動物の名前はおそらく、前方の角の生えた4匹の黒 い犬、いや、狼たちだろう。
視力に自信のある私は、その獣の額に生えた恐ろしい角と牙まではっきりと確認することができた。
だが……
それが私を怯ませることはない。
「アホ毛さん、ここで待っていてください」
私は一言そう言うと、石畳の地面を踏み砕いて走り出していた。
「え、ちょっと待って、ってミサカはミサカは...」
その声を軽く流し、地面を踏み砕く。
アホ毛さんの声が遠ざかり、一瞬で狼たちまで距離が詰まると、その禍々しい獣の瞳がはっきりと見えた。
体躯はトラに匹敵するだろうか。長い四肢が大地をしっかりと踏みしめ、どっしりと重量のある体を支えている。
発達した獣爪と、口の中に収まり切らない牙は、まさしく肉を穿ち切り裂くことに特化して進化した暴力の結集だ。
1番手前にいた1匹の黒い獣が、飛んできた私に気付くと、その大きな牙で私を噛み殺そうと口を広げ、襲いかかってくる。
だが遅いーー
私は走ってきた勢いを利用して、手始めにその鋭い牙へ蹴りを喰らわせる。
「はあぁぁぁッ!!」
ドスッーーという鈍い音と共に二本の牙は同時にヘシ折られる。
「なんだあの子?」
「すげぇ!」
近くにいる、逃げ遅れた人々の目が驚愕に見開かれた。
そのまま続く2匹目の獣の牙も同じようにへし折り、空中に飛んで空から踵落としを喰らわせる。私の蹴りが首元に突き刺さり、血しぶきが上がる。
しかし、この獣に仲間意識はないのか、まったく怯むことなく、3匹目と4匹目、そして最初の牙を折った1匹目が一斉に私を囲むようにして遅いかかってきた。
「嬢ちゃんあぶねぇ!」
私が劣勢になったように見えたのか、男性の叫ぶ声が聞こえる。
でも大丈夫だ。
なぜなら...
私の足は、身体は、
誰よりも、何よりも、
早い、鋭い!!
そして……
強い!!!
私はファナリス!!
大陸の覇者!
最強の戦闘民族!!!