「我が名はむきむき。紅魔族随一の筋肉を持つ者!」   作:ルシエド

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■■「ゲームも、人も。好きだったものを、生まれ変わっても好きでいられたら、嬉しいな」


0-0-0 ゼロエピソード・エンド

 一つ、つまらない小話をしよう。

 この小話の主人公は、紫桜(しおう)優也(ゆうや)という少年である。

 

 

 

 

 

 紫桜優也は、小学一年生の時から六年生までの六年間、佐藤和真のクラスメイトだった。

 クラス替えがあっても一緒。席替えすると三回に二回くらいは隣の席になる。

 家が近いからか登校班も一緒で、和真とは一年生の頃からの親友であった。

 

「今日はどうする? なにして遊ぶ?」

 

「スマブラやろーぜスマブラ。

 紫桜ん家でやればゲームは一日一時間とか、うっせーこと言われねーし」

 

 自分の家でゲームをやりすぎると親に怒られるから、友達の家に行ってゲームをするという小学生伝統の秘技。それを結構な頻度で互いの家にて行うくらいには、仲が良かった。

 

「あ、砂糖と塩コンビじゃん! さよーならー!」

「買い食いとかしないで帰れよ! また先生に怒られるぞ!」

「まーたーあーしーたー!」

 

「おう! また明日なクラスメイトの衆!」

 

 クラスメイトが、帰っていく優也と和真に手を振ってくれる。

 この二人はこの六年間ずっと、二人セットで呼ばれる時は『砂糖と塩コンビ』と呼ばれていた。

 佐藤と紫桜で砂糖と塩。

 小学生らしい、安直なあだ名だ。

 されど優也も和真も、そのあだ名が嫌いではなかった。

 

「あー、習字の授業面倒臭いな。紫桜はそう思わねえ?」

 

「自分の名前を筆と墨で書くのは楽しいよ」

 

「俺は面倒臭くて嫌だわ。特に藤と真のとこ」

 

「あはは、画数多いもんね」

 

「第一なんだ『自分の名前を書いてその意味を考えなさい』って。

 意味わっかんねー、名前なんてただの名前だろ。

 かっこいいかダサいかくらいしか気にするとこないってーの」

 

「そう? 僕は和真くんの名前好きだけどなぁ」

 

「こんなありふれた名前のどこがいいんだか」

 

 優也はふにゃっと笑う。

 

「和は仲の悪い人とじゃ作れない。

 和は一人や二人じゃ作れない。

 和真くんは『真』に仲の良い人を沢山作れる、そういう人なんだよ」

 

「……そう思うか?」

 

「うん!」

 

 和真は自分がそういう人間であるとは思えなかった。

 けれど、この友人からそう言われて、悪い気はしなかった。

 

「そういうお前も『優しい也』だろ?

 お前なんて今の時点で名前そのまんまの性格じゃんか。

 クラスの女子とかいっつもお前のことそんな感じに言ってるしよ」

 

 優也は自分がそういう人間であるとは思えなかった。

 けれど、この友人からそう言われて、悪い気はしなかった。

 

「えへへ」

 

 この友人と何も考えずに遊んで居られれば、それだけで自分の名前が好きになれる気がした。

 

 

 

 

 

 和真は異性受けが悪く、同性受けがいい子供だった。

 対し優也は同性受けがそこそこで、異性受けも悪くない子供だった。

 小学生にありがちだが、男同士で集まればサッカーなりドッチボールなり、体を動かすボール遊び等をするのが常道である。

 和真はそういう遊びには進んで参加していた。

 だが、優也は誘われてもそういう遊びに参加することはなかった。

 

「僕は、体が弱いから。ごめんね」

 

 興醒めして離れていく男子達に、優也は困ったような微笑みを向ける。

 和真はドッチボールを楽しんでいる同級生から離れ、花壇の縁に座る優也の隣に腰を降ろした。

 

「見てるだけってつまんなくないか?」

 

「つまんなくはないよ。頑張ってる人は見てるだけでも楽しいから」

 

「そういうもんかねえ」

 

 優也はいつも、元気に走り回っている誰かを見る時、薄皮一枚通してそれを見るような目をしている。

 

「でも、あの中に混ざれたら……楽しいんだろうなあ……」

 

 その薄皮は、彼には決して越えられない薄皮だった。

 

「自分で体を動かして、仲間と協力して、勝つことを目指すって、楽しいんだろうな……」

 

 儚げにほにゃっと笑んで、優也は唐突にむせこむ。

 

「こほっ、こほっ」

 

「! お、おい、大丈夫か?」

 

「ん、大丈夫。ちょっと呼吸が変になっただけだから」

 

「変、って……」

 

「本当に大丈夫だってば。次の病院での治療で治るはずだよ、こんな体も」

 

 その言葉に、和真はほっと息を吐く。

 

「そしたらまず何したいんだ? 体治ったらさ」

 

「走り回りたい!」

 

「サッカーとかドッチボールとかじゃねえのかよ!」

 

 結局、和真は気付かなかった。

 『次の治療で治るという事実がある』のではなく。

 それが『次の治療で治ると言って他人を安心させようとしている』優しさであり、『次の治療で治ると信じる』という形での希望の保持であったということに。

 そう言っていなければ、優也が希望を欠片も持てない身の上だったということに。

 最後まで、気付かなかった。

 

 

 

 

 

 紫桜優也は、最後まで上手く隠し通したと言えるだろう。

 和真は彼の体の弱さをそこまで深く受け止めてはいなかったし、いずれ治るものだとしか思っていなかった。

 いや、そもそも、小学生の認識では"体が弱い人"は『体を強くすれば普通の人になるだけの人』程度のものとしか思われていなかったかもしれない。

 

「卒業と同時に引っ越すのか?」

 

「うん。体ちゃんと治さないといけないから。和真くんとも、これでお別れだね」

 

 優也は体を治すため、と言った。

 それは真実でもあるし、嘘でもある。

 実際には"体が悪くなりすぎて遠くの病院に入院することになった"というのが正しい。

 治る見込みなど、どこにもなかった。

 

「あーあ、昔一緒に立てた街冒険プランもこれでおじゃんか。

 俺達ももう中学生だし、街を冒険するって歳でもなくなってきたしな」

 

「あはは、ありがとね、和真くん」

 

 だからか、最後まで和真は優也が治った後のことを語ってくれていた。

 それが救いだった。それしか救いがなかった。

 別れ際に、優也は笑顔で和真に手を振っていく。

 

「もう会えなくても、お互い元気でやっていこう!

 でももしまた会えたら、その時は目一杯一緒に冒険しよう! 街とか、お店とか!」

 

 死ぬ気で病気を治してもう一度会おう、と優也は決めた。

 和真ともう一度会いたい、と心の底から思っていた。

 だから、再会の約束をする。

 

「ああ!」

 

 和真はその約束が果たされることを何も疑っていなかった。

 引っ越しする友達にまた会おうと約束をする、程度のものとしか受け取っていなかった。

 また会えたらいいな、くらいにしか考えていなかった。

 

 けれど結局、その約束は―――

 

 

 

 

 

 紫桜優也の症状は悪化していく。

 和真と別れてすぐに、ベッドから出ることもできないくらいにまで悪化してしまった。

 どうやらこの少年が寝たきりにならなかったのは、佐藤和真の前では元気な自分を見せようとする、精神的な頑張りによるもの……要するに、気力の力だったらしい。

 生まれた時から病弱で、好きに外出することもできず学校も休みがち、そんな少年は気力の力を借りなければ"普通"を演じることさえ難しかった。

 

 ベッドから出られない。

 病室から出られない。

 窓から病院の中庭を見る以外に、病室の外の世界を眺める手段がない。

 病気の苦痛が命を削る感覚があった。

 無機質な環境が心を削る感覚があった。

 優也は、自分が"削り取られて細くなっていく"感覚を味わう。いつか折れてしまうと、他の誰でもない彼自身がそれを自覚していた。

 

「あー、和真くんは今頃何してるのかな」

 

 肉が減り、骨も脆くなった。

 すっかり細くなった優也は、病院の外の世界に思いを馳せる。

 親友なんて和真しかいない。

 胸を張って友人と言える存在でさえ、和真しかいない。

 だから、病院の外に思いを馳せる時は自然と和真を引き合いに出してしまう。

 

「そういえば和真くんクラスの子と将来結婚する約束とかしてたっけ。今はもう恋人なのかな」

 

 優也が"和真は何もかも上手くやっているはずだ"と信じているのは、自分の人生が全く上手く行っていないことの反動だろう。

 彼の症状は悪化するばかり。

 好転する要素は何も無い。

 死は刻々と、まだ13歳の少年に忍び寄ってくる。

 

「こんないい天気の日に走り回れたら、どんな気持ちなんだろうな……」

 

 室内で寝たきりな彼は天気の変化を肌で感じ取ることはできない。

 窓越しに見て、目で判断することしかできない。

 だから大抵の人間が当事者になる"今日の天気"のことも、この少年にとってはどこまでも他人事でしかなかった。

 

「失礼する」

 

「あ、兄さん」

 

「お前のゲームを荷物から出してきた。暇な時間に遊ぶがいい」

 

 窓越しに空を見ていると、病室に男が入ってきた。

 優也の三つ上の兄、信也(しんや)である。

 信也は優也と違って頑強な健康児であり、祖父が残した道場で日々体を鍛えている。祖父の教育のせいか話し方も古風で、腕っ節も生まれる時代を間違えたかのように強かった。

 

 言葉は少なで、体格がゴツいのもあって誤解もされやすい。

 だが、『体の弱い弟を守るため』に体を鍛え始めたというこの兄は、言葉少なでも確かに弟思いであった。

 弟のためならつまらないことでも全力を尽くす。

 時間と労力の無駄になりそうなことでもやる。

 走って二時間はかかる自宅とこの病院を往復し、弟の制止を振り切ってゲームを取ってくることなど、兄ならば当然だと考えるほどの男だった。

 

 持って来たゲームはヴァルキリープロファイル。

 佐藤和真がお古として優也にプレゼントし、以降飽きもせず暇さえあればプレイしている、優也の大のお気に入りのゲームである。

 

「ありがとね、兄さん。こんな面倒なことしてもらっちゃって」

 

「構わん。愛する弟のためだ」

 

 多弁ではないが、短い言葉と行動をもって家族愛を示してくれるこの兄のことが、優也は好きだった。現在進行形で好きだ。

 無論、両親も好きだった。だが両親に対するそれは、日々少しづつ過去形になりつつあった。

 

「兄さんはちゃんと愛してるって言ってくれるんだよね」

 

「一言で済むのなら、それが一番だ。言葉は簡潔であるべきだ」

 

「父さんも母さんも、愛してるとか大好きとか言ってくれないしね」

 

「……」

 

「かといって、僕がそう言ってくれって頼むのも、何か違う気がするし」

 

 優也も幼い頃は、両親から愛の言葉を沢山貰った記憶がある。

 だが日々彼の体が悪くなっていくにつれて、優也が貰う言葉は愛の言葉より、謝罪の言葉の方が多くなっていった。

 優也の病気は先天性のもの。

 親がそういう風に産んだのだ、と言い換えることもできるもの。

 だからか両親は彼の体が悪くなるたびに、「ごめんなさい」と息子に謝った。

 

 無論、愛の言葉が減ったからといって、両親の愛が減ったわけではない。

 両親が示す息子への愛の形が、悲しみ、憐れみ、涙、苦痛、後悔、謝罪という形に変わっただけのことだ。

 泣きながら健康な体に生んでやれなかったことを謝る親は、その子供のことを確かに愛していると言えるだろう。

 

 されど両親も次第に学んでいったようだ。

 優也の前で泣くことや謝ることが減り、笑顔で励ますようになった。

 だがそれは表面上取り繕っているだけのこと。心の中では優也に謝り続けていることに変わりはない。

 ならば、愛している、大好きだ、という言葉が両親の口から出てくるわけがないのだ。

 罪悪感に呑まれている両親の心は、そういった言葉が自然と出てくるような精神状態ではないのだから。

 

(難儀なことだ。父上も、母上も、優也も、もう精神的に限界か)

 

 信也が兄として両親に『優也に愛してると言ってやれ』と伝えれば解決するのだろうか。

 いや、しないだろう。

 そんな上辺だけの解決では、この問題は形を変えてまた再発してしまうだけだ。この問題は両親が自分で気付くくらいしなければ、根本的には解決しない。

 

 第一、優也は人のそういった心情に敏いところがある。

 信也が両親に"そう言わせた"ことをすぐに見抜いてしまうだろう。

 結局、意味は無いのだ。

 

「知ってる兄さん? 病室にずっと居ると、全然生きてるって気がしないんだよ」

 

「知らん。分からん。某はお前ではないからだ」

 

「あはは、兄さんらしい。

 でもさ、体の調子が悪くて寝てる時も、生きてるって気はしなかったな」

 

「……」

 

「ねえ、生きてるってどんな感じなの?」

 

 優也は生きていない。少なくとも、自認識において彼は生きていない。

 生きている実感が全くないからだ。

 生まれてから今日に至るまで感じた生の実感が、あまりにも少ないからだ。

 だから自分が生きているとは思えない。

 なのに、生きていないのに、死にはするというのだから不思議な話だ。

 

 弟の問いに、兄は答える。

 

「生きることは……何かと戦うことだ。そして自分を鍛えることだ。

 立ち向かわない人生に意味はない。自分を高めない人生に価値は無い」

 

 この時代に生まれた人間とは思えないような返答が返って来た。

 どうやらこの男、本当に困難を乗り越えることと自分を精神的にも肉体的にも鍛え上げることだけを、人生の基本としているらしい。

 

「へえ、凄いね」

 

 気遣いができる人間であれば、ベッドから起きることもできない優也の前でこんなことは言えないだろう。ともすれば、嫌味と取られかねない言葉だからだ。

 だが、信也は自分の心の内を正直に告げた。

 "弟に何かを偽る兄がいるものか"と考えているからだ。

 その馬鹿みたいに愚直で古臭い考え方の兄の言葉が、逆に優也の心の救いになってくれていた。

 

「僕の人生には、本当に無縁そうだ」

 

「いや、お前もそう生きるべきだ。お前は治る。必ず治る。

 貴様の体が完全に健全に治った後、某がお前に生き方を教えてやろう」

 

「……ありがと、兄さん」

 

 こういう兄が居てくれたから。和真という友達が居てくれたから。優也は最後まで希望を捨てずに、いつか体を治す未来を夢見て生きることができた。

 けれど、それも無為な希望でしかなく。

 

 病には敵わない。

 望みは叶わない。

 生命は適わない。

 

 紫桜優也の死は、生まれた時から確約されていた。

 

「うん、僕も諦めない。絶対にこの体を治して、皆と一緒に外を見て回るんだ!」

 

「いい気合いだ」

 

「だって僕、世界の素晴らしいところなんて全然見たことないから!

 これでこのまま死んじゃったら、世界の素晴らしいところ何も見ずに終わっちゃうよ!」

 

 希望を頼りに、カラ元気とやせ我慢でそんなことを言う。

 

 少年にとって、この世界が素晴らしいと思う理由になるものなど、何もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 信也は兄だ。だが、祖父から喋り方や道場を受け継いだのは、兄だからではない。彼がそういうものを好きだったからだ。

 弟の優也を気遣い守ろうとするのは、誰かに言われたからではない。自分が兄だからだ。自分が兄だからそう生きるのだと、彼は自分自身の意志でそう決めた。

 彼はそういう生き方が好きだったからだ。

 

 道場で一人、信也は汗を流して体を鍛える。

 父は入院費を稼ぐため遅くまでずっと働いている。母は仕事と見舞に自分の時間のほとんどを使っていて、家に居る時間はほとんどない。弟は幼少期からずっとああだ。

 道場で彼が一人体を鍛える時間が増えたのは、自然な流れだった。

 

(弟が母の腹に宿った時、強くならなければと思った)

 

 祖父から教わった体術と剣術。それを淡々と鍛え、磨いていく。

 彼は自分を高めることそのものに価値を見い出せる、努力を苦にしないタイプだった。

 その技を誰かに使うわけでもなく、誰かに教えるわけでもなく、淡々と積み上げて鍛え上げていく。

 努力を苦にしないのは、兄弟の両方が持つ性質である。

 

 だからこそ、()()()()()()さえ奪われた弟の悲惨さが、際立って見えた。

 

(強くなって弟を守るのが、兄の役目だと思った)

 

 不器用な人間には救えない子供が居る。

 器用な人間だったなら、救えたはずの子供が居る。

 

(だが、某は何も守れていない。力では守れないものがあった。

 力では解決できないことがあった。某では弟を笑顔にできない。

 何よりも重んじられるべきは弟を笑顔にすることであるというのに)

 

 最近になって、信也は優也が小学校の頃に仲良くしていた男の子のことを思い出していた。

 

(……何もかもを笑い話で終わらせられるのが、本当に最も強い者なのではないか)

 

 小学校の頃は、優也もよく笑っていた。

 生きる気力を強く持っていて、それが体の状態にまで良好な影響を与えていたようだった。

 笑顔が減ったのは、小学校卒業と同時に引っ越した後からだ。

 

(そう考えれば……優也の小学校での友人だった、あの佐藤和真という少年が一番……)

 

 力ある者より、何もかも笑い話で終わらせられる者の方が必要な時もある。

 記憶を想起しながら鍛錬を続ける信也だが、鍛錬と記憶の想起を邪魔するかのように、道場備え付けの電話が鳴り響いてきた。

 

「電話か」

 

 嫌な予感はしていた。

 嫌な予感しかしていなかった。

 それでも電話を取らないなんて選択肢は、信也の前には存在せず。

 取りたくもない電話を取って、聞きたくもない言葉を聞く覚悟を決める。

 

『紫桜さん! 紫桜さんのお宅ですか!?』

 

「いかにも。ここは紫桜家であるが」

 

「急いで病院に来てください! 優也君の容態が―――」

 

「!」

 

 電話を取る前から、直感で分かっていたのだ。

 

 これは、弟との永遠の別れを知らせる死神から来た知らせなのだと。

 

 

 

 

 

 死と生の狭間で、昏睡状態の優也は現実と夢想の区別がつかなくなっていく。

 誰かが自分に呼び掛けているのは分かる。

 それが両親や兄のような姿だったかもしれない、と思う程度の思考は残っている。

 なのだが、それが現実なのか夢なのか、死にかけている優也には判別がつかなかった。

 

 次第に理性と本音の区別もつかなくなっていく。

 抑え込んでいた本音が吹き出してきた。

 見て見ぬふりをしていた本音が滲み出てきた。

 死の間際にようやく、彼は強がりの皮衣を脱ぎ捨てて、絶望しか産まない自分の本音と向き合うという苦行を始める。

 

(嫌だ)

 

 死んでいく。自分が死んでいく。

 生きる理由も、生きる目的も、生きてやりたいこともないくせに、間近に迫る死の実感は少年の内に絶望をかき立てていく。

 

(死にたくない、死にたくない、死にたくない)

 

 死にたくないと彼は願っていた。

 

(こんな人生終わってしまえって、何度も思った。でも、死にたくない!)

 

 死にたいと、何度も思った。

 病気のせいで寝込んでいる時間が人生の大半だった彼は、人生を生きた実感も、人生をまっとうに生きた記憶も無かったから。

 "こんな人生は早く終わらせたい"と何度思ったかも分からない。

 この少年のような人生を送りたいと願う者など、どこに居るというのか。

 死にたいと願うその想いは、至極当然のもの。

 

 それでも、死の間際には死にたくないという気持ちしか浮かんでこなかった。

 

(生きたい、生きたい、生きたい)

 

 死にたい理由は沢山あって。

 生にしがみつく理由はどれもこれもが小さくて。

 ……それでも、たった一度でいいから、彼は『生きて』みたかった。

 

(何か……何かあるはずなのに! 生きてれば、きっと何かいいことがあるはずなのに!)

 

 生きてみたいという気持ちはあるのに、どう生きれば生きた実感を得られるのか分からないがために、未来で自分が生きるビジョンのことごとくがぼんやりとしている。

 当たり前だ。

 生きた実感を得られたことがない者が、どう生きればいいかなんて知っているわけがない。

 

 生きたい気持ちはある。

 それは"こう生きたい"という気持ちから生まれるものではない。

 『一度も生きられないまま死にたくない』という悲嘆と、『どう生きることで人は幸せになれるのか』を何も知らない無知から生まれる、目を覆いたくなるような、欠損だらけの子供の渇望だった。

 

(こんな自分は嫌だ。なんで僕は、こんな死ぬしかない体に生まれたんだ)

 

 少年は自分をこんな体に産んだ両親を恨んだことはない。

 何故ならば、彼にとって自分の人生を台無しにした原因は、他の誰でもなく自分の体の中にあったからだ。

 彼の憎悪と嫌悪は自分一人で完結する。

 彼は自分が嫌いなわけではないが、自分の体は心底憎んでいた。心底嫌っていた。

 特殊な自己嫌悪が、彼の中にはあった。

 

(『皆と同じ』が良かった。

 特別な何かが欲しいなんて思ったことなかった。

 ただ、皆と同じように遊んで、皆と同じに扱われたかっただけだったのに)

 

 彼が他人に向けるのは憎悪ではない。憧れである。

 

(走り回って汗をかくって、どんな気持ちなんだろう。

 体のことを気にせず、食べたいものを食べられるってどんな気持ちなんだろう。

 いつでも遊びたい時に外に出ていけるのって、どんな気持ちなんだろう。

 明日には死ぬかもしれないって怖がらずに生きるのって、どんな気持ちなんだろう……)

 

 息が止まる。心臓が止まる。思考がぼやけて、体が死んでいく。

 最後に少年は手を伸ばし、天井のその向こうにある空を求める。

 最期に心の中に満ちたのは、叶わない願いと他者への憧れ。

 

(一度くらい、走り回ってみたかった。他の人が当たり前にそうしているように。

 一度くらい、お腹一杯何かを食べてみたかった。他の人が当たり前にそうしているように。

 一度くらい、友達と一緒に体を動かして遊んでみたかった。

 友達と同じ気持ちになりたかった。友達と同じものが見てみたかった……でも、僕は……)

 

 少年は、最期に全てを諦めた。

 

 

 

(僕は、人間の出来損ないだから。きっと、最初から、そんなこと許されていなかったんだ)

 

 

 

 命と魂が体から抜けていき、走馬灯が始まる。

 

(あ)

 

 少年は、一つだけ思い出した。

 自分が生きた実感を得られた、たった一つの時間のことを。

 病気の影響で歯抜けになってしまった記憶の中で、たった一つだけ覚えていた、友達と楽しく笑えていた時間のことを。

 まともに学校にも行けなかった日々の合間に遊んだ友達のことを思い出して、彼は思う。

 『会いたい』と、彼は最後まで叶わない願いを捧げていた。

 

(和真くん)

 

 その願いも、叶わずに散る。

 最期に友達に会いたいという願いすら、今の彼には分不相応なものだった。

 

 虚弱な体に向かう自己嫌悪。

 今の生への否定。

 死にたくないという叫び。

 『生きる』ということをしたいという渇望。

 かつて別れた友への想い。

 その全てを魂に刻んで、紫桜優也は死んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、転生に至る。

 

「ようこそ死後の世界へ。

 あなたはつい先ほど、不幸にも亡くなりました。

 短い人生でしたが、あなたの生は終わってしまったのです」

 

 命は死ねばそこで終わりにはならない。死んで巡って、また生まれて、それで一巡り。

 それが『転生』であり、それを管理するのが『神』である。

 

「私の名はアクア、女神アクア。

 死したあなたに新しい道を示す女神よ。さて、あなたには三つの選択肢があります」

 

 死んだ優也は女神の御前に招かれていて、女神アクアを名乗る女性により、とある異世界のことと三つの選択肢について教えられる。

 

「天国に行くか。

 全てを忘れて生まれ変わるか。

 肉体と記憶はそのままに、ここではない別の世界に生まれ変わるか」

 

 提示された三つの選択肢の中で、二つは論外だった。

 優也に"今の自分を保ちたい"という意識は無い。むしろ捨てられるのであれば喜んで捨てたいとさえ思っていた。

 

「僕は、自分が嫌いです。この体が、この命が、憎くすらある」

 

 その上で、彼は一度でいいから()()()()()()()()のだ。

 

「こんな自分が嫌です。この自分のまま、生きていたくないです」

 

「……そう。なら、天国も嫌よね? それなら、道は一つだわ」

 

 全てを忘れ、自分さえ捨てて、新しい人生を歩む道を彼は選ぶ。

 

「あの、全てを忘れて生まれ変わる僕を、その追い詰められてる世界に送ることはできますか?」

 

「へ?」

 

「その世界に生まれさせるための命が足りなくて、困ってるんですよね?」

 

「それはそうだけど……いいの?

 危険な世界よ。命の保証なんてされない。

 記憶の問題で、あなたに特典をあげることもできないし」

 

「はい、大丈夫です。人並みに健康であれば、それだけで」

 

 ただその選択は、楽な道を行きたいがゆえのものではなかった。

 別の人生を歩めるのなら、それがどんなに危険なものでもよかったのだ、彼は。

 

「僕の人生は、ただの一度も誰かの役に立てなかった人生だから……

 せめて、最後くらい誰かの役に立ちたいんです。だからお願いします!」

 

「……いい子ね、あなた」

 

 人生で一度くらいは、誰かの役に立ってみたかったのだ、彼は。

 アクアは微笑み、少年の足元に魔法陣の扉を開いて、両手を祈りの形に組む。

 

「あ、あの……?」

 

「光栄に思いなさい?

 私がこうして送り出す若者のために祈るなんて、滅多にないんだから」

 

「!」

 

「力も込めてない女神の祈りなんて、とても小さなものでしかないわ。

 でも無為じゃない。あなたの想いが強ければ、あなたの祈りは届くかもしれない」

 

 女神のただの祈りに何かを変える力などない。

 せいぜいが、人の祈りの後押しをするかもしれない、程度のものだ。

 

 虚弱な体に向かう自己嫌悪。

 今の生への否定。

 死にたくないという叫び。

 『生きる』ということをしたいという渇望。

 かつて別れた友への想い。

 

 死の瞬間に彼が抱いたそれらが強ければ、そよ風のような変化を起こせるかもしれない、程度のものでしかない。

 されど、アクアが善意で彼のために祈ったことは、確かなことだった。

 

「あ、あの!」

 

 開いた世界の扉に、少年はゆっくりと落ちて行く。

 

「僕は、こんなですから。

 生まれ変わっても、同じようなこと繰り返してしまうかもしれないけど……

 でも、頑張ります! 頑張りますから! この感謝を、ずっと覚えてますから!」

 

 転生すれば、忘れてしまうというのに。少年はそんな言葉を残していく。

 

「ありがとうございました!」

 

 転生の道に乗り、魂を残して全ての精神構造と記憶を消去された少年は、かくしてとある異世界へ生まれ直すのだった。

 

「記憶なんて綺麗さっぱり消えちゃうのに、どこで覚えてるっていうのよ。まったく」

 

 アクアは呆れた顔で、でも悪い気はしないとでも言いたげに、スナック菓子に手を伸ばす。

 

「男の子って、ホント馬鹿ねー。嫌いじゃないけど」

 

 好意や善意で動くくせに、それが大抵調子に乗る・考えなし・不運の結果裏目に出がちで、しかもちょっと時間が経つと忘れてしまう。それがアクアという女神だった。

 

「エーリースー! 聞こえてんでしょー!

 あんたもその子のために祈りなさい!

 その子が生前に持っていた祈りが届きますように、とか!

 事情が分からない? なら今から説明するから耳かっぽじって聞きなさい!」

 

 アクアは数多く送る転生者達の記憶と一緒に、後にこの記憶も忘れてしまう。

 

 

 

 

 

 そして優也は『むきむき』という名を与えられ、紅魔の里に生まれ変わった。

 

 

 

 

 

 女神は全知でも全能でもない。

 彼女らは善意だけを動機に、世界の維持と管理に己の全てを投じているだけの存在だ。

 行動の結果成功に至ることもあれば失敗に終わることもある。

 それでも彼女らは精一杯やっていて。

 精一杯やっていても、失敗という名の取りこぼしはあった。

 

 むきむきという少年に関して言えば、その失敗は紫桜優也という少年の持っていた『想い』の桁外れな大きさを、見誤ったという点にあった。

 

 想いを力にする武器でもあれば、紫桜優也が心の中に秘めていた感情を使うことで、戦略兵器に匹敵するような威力が出せていたかもしれない。

 そのくらいに大きなものが、彼の心の中にはあった。

 女神二人の小さな祈りを触媒にすることで―――『次の自分の肉体をとんでもないもの』にしてしまうくらいには。

 むきむきのプリースト適性――神の力をその身に受けるのが得意――が高かったことが、魂経由での身体影響を加速させる。

 

 弱い体を強い体にしたいという心の叫び。

 憎悪と嫌悪が相乗する、弱い体への拒絶。

 別の自分になりたいという魂に残る咆哮。

 それは女神の祈りを通して紅魔族の肉体へと干渉し、紅魔族の肉体という要素を使って、彼の体を『病弱な体の対極』へと進化させた。

 

 誰もこんな風になるだなんて思ってはいなかっただろう。

 予想さえされていなかったはずだ。

 神さえそうなると考えていなかった、神の知らない所で結実した神の奇跡である。

 

「ほう。これは面白いものを見た。女神のうっかりというやつかな」

 

 その幼子を見て、バニルはそう感想を漏らしたものだ。

 バニルが幼少期のむきむきを見たのは二回だけ。

 生まれてすぐと、むきむきの両親が死の宣告を受けた直後である。

 

 むきむきの両親は紅魔族らしく、細かいことをあまり気にしない性分だった。

 バニルとも戦ったことがあるものの、バニルの他人を弄ぶ性格や、人の死を望まない大悪魔としてのスタンスもあり、敵ながら自分の赤ん坊を見せびらかす程度の仲ではあった。

 

「貴様ら人間が一人生まれるたびに、我輩は喜び庭駆け回るだろう」

 

 とは、バニルの言である。

 事実であるかどうかは別として、バニルがむきむきの誕生を喜んだことは事実だった。

 敵同士であることは変わらぬままに、むきむきの両親とバニルの間には、不思議な友情のようなものが生まれていた。

 

 だが、だからこそ……その夫婦が死の宣告を受け、死に至るまでの数日の間にバニルを呼び出したことは、奇妙な行動だと言えるものだった。

 

「我輩に何用か?」

 

 死を前にした二人はバニルに契約をもちかける。

 対価は数日後には呪いで持っていかれるその命と、死後の自分達の魂そのものを、悪魔バニルに売り渡すというものだった。

 

「ほう」

 

 よくある話だ。

 悪魔に魂を売った者は、死後に地獄に落ちて悪魔の同類となる。

 死の宣告をかけられただけの魂、それも上位の紅魔族アークウィザードの魂ともなれば、悪魔と契約するには十分な対価となるだろう。

 契約の履行もすぐであるとなれば、とりっぱぐれもない。

 だがそれは、生半可な決意でできるものではなかった。

 

「転生を迎えない魂はアンデッドに等しい。すなわち永遠である。

 ならばお前達は永遠に悪魔の奴隷として扱われることになるだろう、分かっているのか?」

 

 悪魔の奴隷となれば、どんな辱めを受けようと、どんな労働を課せられようと、どんな命令を下されようと、バニルに逆らうことはできなくなる。

 死という終わりもなく、奴隷としての日々は永遠に続くだろう。

 二人はその全てを分かった上で、その命と魂、死後の全てを売り渡す気でいた。

 

「分かっているか。ならば問おう。貴様らはこの契約の対価として、我輩に何を望む?」

 

 二人は親として、契約の対価を求める。

 

 『自分達の死後にも、この子がちゃんと生きていけるように』と。

 

「……なるほどな。ベルディアの死の宣告は解除できない、ならば、というわけか」

 

 むきむきの両親は、死の宣告を受けた時点で自らの未来は諦めていた。だが、愛する息子の未来だけは諦めていなかったのだ。

 死の宣告の特性は、『死の確定』と『死の到来』に日数のズレが有ることである。

 剣ではなく死の宣告で殺される人間には、こうして何かをする時間の余裕があった。

 

「しかし面倒臭い、と我輩は言おう」

 

 二人はバニルのその言葉を予想していたのか、困ったように苦笑した。

 

「我輩が見通す限り、さして手助けが必要な生涯を送るとも思えん。

 その子供の生涯は波乱万丈なものであるようだ。

 それも困難や障害にぶち当たるたびに強く育っていく手合いの、な」

 

 バニルは見通す悪魔。未来さえ見通す悪魔だ。

 二人は愛する息子の未来をバニルが保証してくれたことを喜び、それをわざわざ伝えてくれたバニルの好意に、涙が出るほど感謝していた。

 

「我輩の目に入った時、気が向いた時、助けてやろう。契約の内容はそれでいいか?」

 

 二人の死後の永遠を捧げることの対価であると考えれば、"気が向いた時に助けてやる"というこの契約内容はあまりにも酷い。

 だが、二人はそうは思わなかった。

 愛する息子の未来だけは、この悪魔が保証してくれたからだ。

 

 未来は金では買えないが、悪魔に魂を売れば買えるものだったのかもしれない。

 

「とりあえずは、女神の祈りを媒介に自然発生したこの肉体を調整するとしよう。

 何、これも契約の内。気が向いたから助けてやるだけのことである」

 

 女神の善意を苗床に、偶発的に生まれた異常な肉体を、悪魔が弄り調整していく。

 

「宝石は傷を付ければ価値が無くなるが、人間は傷を付ければ価値が出る!

 傷無き宝石に価値はあるが、傷無き人間に価値は無い!

 うむ、この子供には存分に苦労してもらおう!

 いずれ苦労した分の価値が備わるのだ、この子にはな! フハハハハハハハハハ!」

 

 むきむきという子供の命は、両親の愛と、悪魔の気まぐれによって紡がれたものでもあった。

 

 

 

 

 

 日々は巡る。

 かくして少年は、初めての友達であるゆんゆんと、自分の人生に新しいスタートをくれためぐみんと出会う。

 

―――大きくて、強くて派手で、豪快。そういうのが私は大好きですからね

 

 殺し文句という言葉がある。

 文字通り、生きている誰かが死ぬほど参ってしまう台詞のことだ。

 めぐみんがむきむきに言ったこの言葉は、彼にとっては紛れもなく殺し文句だった。

 俯いていた彼を殺し、生まれ変わらせる一言だった。

 

 彼の人生において、そんな殺し文句はいくつあっただろうか。

 何度も死んで、何度も生まれ直して。

 再スタートを切るたびに、少年は少しづつ強くなっていく。

 

 

 

 

 

 地球とこの異世界の時間の流れは、同一ではない。

 地球で同時期に死んだ者が大きく離れた時代に行くことも、違う時代に生まれた者が近い時代に転生することもある。

 また一人ここに、地球からこの異世界へと転生する者が居た。

 

 

 

 

 

 優也が死んで、誰も何も思わなかったのだろうか。

 そんなわけがない。彼の家族は、悲嘆に暮れた。

 父は子のために無理をして働く毎日を辞め、どこか気が抜けた様子で日々仕事をこなしていた。

 母は習慣で時折間違えて病院に足を運んでしまったり、優也の見舞いの準備をしてしまったりしていたが、それでも仕事は続けていた。

 

 痛々しい姿ではあったが、それでも両親は悲しみを自分の中で消化していて、愛する息子の死を乗り越えつつあった。

 乗り越えられていなかったのは、信也の方だ。

 

「……」

 

 信也は自分を鍛えることを継続していた。

 守ると誓った弟はもう居ない。虚しい鍛錬だった。

 そのくせ彼はありもしないものを求めるかのように夜な夜な街をうろつき、他人様に迷惑をかける不良やヤクザを見つけては、それに絡むようになっていた。

 

「貴様ら、そこに直れ」

 

 彼に自覚はなかったが、彼は街に"自分が失った何か"を探し求めていた。

 そして悪行を行う人間を見るたび思うのだ。

 「某の弟が生きたくても生きられなかった今日を、お前らはそんな風に過ごすのか」―――と。

 

 そう思えばもう止まらない。

 生きていていい明日が欲しかったはずの弟と、毎日を無駄に、かつ他人に迷惑をかけながら過ごす悪人を頭の中で比べてしまう。

 何も悪いことをしていなかった弟と、悪いことをしている悪人を頭の中で比べてしまう。

 彼が夜の街の悪人を見つけ次第殴り掛かるようになったのは、必然の帰結だった。

 

 正義などと言えたものではない。むしろ悪に近い、ただの八つ当たりだった。

 

 そして、その果てにヤクザのナイフに刺されて死んだ。

 笑えるくらい、呆気ない最後だった。

 呆気なく死んで、呆気なく死んだ彼の命は世界を巡って、そうして別の世界へと渡る。

 

 女神の申し出を受けて転生した時も、彼の心は自暴自棄でやけっぱちなままだった。どうでもよかった。なにもかもがどうでもよかった。

 弟を救えなかった罪悪感が、彼を動かしていたのだ。

 一度死ぬだけでは飽き足らず、二度死んでもまだ足りないと、そう思うほどに。

 自罰的な思いだけが、信也を転生に駆り立てていた。

 

 そして、時は流れる。

 

「幽霊さん、どうしたんです?」

 

 だが、まさか生まれ変わったその先に、変わりに変わった弟が居るだなんて、信也は思いもしていなかった。

 生まれ変わった弟は、彼のことを"幽霊さん"と呼んでいる。

 

『なんでもない。気にするな』

 

 彼は幽霊になって、生きていた頃には見えなかったものが見えるようになった。

 アンデッドが生命力に溢れた特別な生命とそうでないものを見分けることができるのと、原理は同じだ。

 それに弟が生まれた時から見守り続けた兄の勘が加わって、弟の転生体を見抜くことができた、というわけである。

 

『さあ、修行を始めるぞ』

 

「はい!」

 

 祖父から習った武術を、信也はむきむきに伝えていく。

 

(……某しか教われなかった祖父の技、か。

 そうだ、あの頃、優也は道場の片隅で、羨ましそうにじっとこちらを見ていた……

 習いたくても習えなかったのだ。あの時の優也には、そうしたくてもできなかったのだから)

 

 優也はもう死んだ。優也はもう居ない。ここに居るのはただの一人の紅魔族でしかない。

 全てを忘れて転生するということは、そういうことだ。

 それを分かった上で、幽霊さんと呼ばれた兄は亡き弟に厳しく接する。

 

 そして何一つ秘密を語らないまま、消えていった。

 されど消える前に、残すべきものは残していってくれたと言えよう。

 

――――

 

『生きて、生きて、生きて……この広い世界を、見て回るがいい』

 

『貴様のような者でさえ、素晴らしい友と出会うことができる、この素晴らしい世界を、な』

 

『心定まらぬ時は、右の拳を握れ。右の拳を見よ』

 

『そこに勇気を置いていく。拳を見るたび思い出せ』

 

――――

 

 もはや意識するまでもなく、彼の握った拳の中に『それ』はある。

 

 ベルディアを倒したのは、彼の全力の右拳だったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つまらない小話はここまでだ。舞台は現代へと戻る。

 

「ふふふっ……ようやく孵ったわね、私の愛し子よ!」

 

 屋敷(じたく)の居間にて、アクアは今日も絶好調だった。

 いや、今日はいつも以上に絶好調だったと言えよう。

 なにせ先日とある巡り合わせで購入した小さな卵、アクアがずっと暖めていた卵が、この日ようやく孵ったのだ。

 卵から生まれたヒヨコ――アクアはドラゴンの雛だと信じている――は、アクアの手の中で可愛らしく動いていた。

 ちなみに羽衣はまだ修復中で、彼女の服装は普通のワンピースである。

 

「あなたの名はキングスフォード・ゼルトマン! いずれドラゴンの帝王となる者よ!」

 

 生まれて間もないというのに元気に動き回っているゼル帝を、とても誇らしそうにアクアは見守っている。

 アクアの騒ぎ声が目覚ましになったのか、アクアがヒヨコを可愛がり始めてから数分ほどで、カズマが上階から降りてきた。

 

「朝から何はしゃいでんだお前は」

 

「あ、カズマ。寝不足そうね?

 ネットもパソコンも無いこの世界で何夜更かしとかしちゃってるのよ」

 

「うるせー、あんな話聞かされた後で寝られるわけないだろ……孵ったのか、それ」

 

「ゼル帝と呼んでちょうだい。いずれドラゴンの帝王となる女神の僕よ」

 

 カズマが寝不足だったのは、アクアから全てを聞かされたからだ。

 アクアはむきむきには何も明かしていない。他の皆にも明かしていない。

 教えたのはカズマにだけだ。

 他の皆に話しても話がややこしくなるだけだったとはいえ、おかげでカズマだけが眠れぬ夜を過ごすことになった。

 

「なあ、むきむきのあれ、本当なのか?」

 

「嘘言ってもしょうがないでしょ」

 

「……死んだのか、優也」

 

「そうよ、死んだのよ。それで転生したの」

 

「……」

 

「なんとなく思い当たるフシはない?」

 

 ある。性格的な相性の良さにはむしろ納得する理由付けがされてしまったくらいだ。

 それでも、カズマははいそうですかと素直にこの案件を流せない。

 

「でも、おかしいだろ。その転生の仕方だと全てを忘れるんじゃないのか?」

 

「記憶は肉体じゃなくて魂に付随するものよ。

 だから記憶を消しても、魂にその名残が残ることはたまにあるの。

 カズマだって前に死んだ時、エリスに魂だけであった時も、ちゃんと記憶はあったでしょ?」

 

「ああ、そういえばそうだったな」

 

 むきむきが見ていないところだと、カズマも実は死んでしまっていたりする。

 天界規定によれば人間の蘇生は一回限りという制限があるらしく、カズマもそれでこの世とおさらばしかけたのだが、エリスを脅してアクアがカズマの蘇生を認めさせ、事なきを得た。

 その時、カズマもエリスと話した覚えがある。

 死後の世界に肉体など持っていけるわけがない。

 ならばその時、カズマの魂は記憶を持って死後の世界に行ったということなのだろう。

 

「でも、なら、優也の記憶を蘇らせる方法とかがあればさ」

 

「無いわ。言ったでしょ? 所詮、記憶の名残でしかないのよ、それは」

 

 カズマが珍しくこうした食い下がり方をするのは、そこに認めたくないものがあるからだ。

 

「それでも、転生した後も何かを心に残すのは容易じゃないわ。

 むきむきの前世だった子は、『それ』を本当に大切に思ってたのね」

 

「……っ、いい話風にまとめられても困る。要は、優也が死んでたって話だろ……」

 

 親友の死。

 それがカズマに突きつけられたもの。

 紫桜優也とむきむきは、同一人物でありながら別人である。

 転生後に別人として生きているからその人が死んだことは悲しくありません、なんて言うやつが居たならば、それこそサイコパスだろう。

 

 悲しむカズマに、ゼル帝を撫でるアクアが声をかける。

 

「カズマだって、いつかは死ぬのよ?」

 

「―――」

 

「むきむきだって、めぐみん達だっていつかは死ぬわ。

 百年後も普通に生きてるのなんて、多分私だけよ」

 

 カズマは楽しく冒険できる今の生活を楽しく思っている。

 けれど、その冒険もいつかは終わる。永遠ではない。

 人間の寿命が永遠ではない以上、最後にはアクアだけが残される。

 それを分かっていながらも、アクアは泣きも喚きもしていない。

 ……きっと、初めてではないのだろう。好ましく思った人間が、自分を置いてどこかへ行ってしまうという悲しい別れを、既に経験しているのだろう。

 

「命は死んだらそこで一区切り、そこで終わり。

 でも終わりであって終わりではなく、次の命に続いていく。

 死んでも次の命に繋がらないのなんて、アンデッド連中みたいな畜生くらいのものよ」

 

 アクアはゼル帝をデレデレした顔で愛でながら、今日の天気を語るような言い草で、世界の真理を語る。

 

「悪い人生、悲惨な生涯を送った人も、死んでそこで終わりじゃないの。

 次の人生で幸せになれるかもしれないから、悲劇で終わるわけじゃないわ。

 それが『転生』するってことなのよ。

 カズマだってむきむきだって、この世界に転生して人生やり直したのは同じでしょ?」

 

「それは……そうかもしれねえけど」

 

「全てを忘れて、死んだ後に幸せになることくらい認めてあげなさい、カズマ」

 

「―――!」

 

 アクアが適当に言ったその言葉は、カズマの納得できない心を打ち据えるものだった。

 

「だから、死者とか言って粘ってるアンデッドは嫌いなのよ。あのベルディアとかね」

 

 生は転がるもの。

 死なない命はあってはならない。

 次に繋がらない命に意味はない。

 アクアも蘇生はするが、永遠の命をもたらそうとすることは絶対にない。

 

 逆に言えば、そうして世界を転がっていく限り、その命には意味も価値も有るということだ。

 命はただ流転していくだけで、世界を維持する。命の営みを生み出していく。

 親が子を産み、子が孫を産み、死しても今の生から次の生へ。

 それが素晴らしいものであると、女神達は保証してくれる。

 

 世界という体に流れる血液が命である。

 止まってもいけない。淀んでもいけない。そういうものなのだ。

 だからこそ、魔王軍に殺された命がこの世界での生まれ変わりを拒否しているがために、この世界の人類は滅びかけている。

 

 転生という世界のシステム視点で見ても、よく分かる。

 魔王軍は、人類が倒さなければならない絶対的な敵なのだと。

 

「ま、お爺ちゃんになって自然死したら、蘇生魔法も効かないけど、安心して死になさい」

 

 女神であることが信じられないようなバカだと、カズマは常々思っていたが。

 

「私とエリスが、生まれ変わった後も見守っていてあげるから」

 

 こいつはただバカでアホで調子に乗りやすいマヌケなだけで、ちゃんと女神でもあるんだなあとカズマは思った。

 

「お前に見守って貰ってても、不安しかねーよ」

 

「ちょっとカズマ! 私は偉大なる水の女神なのよ!?

 カズマは私のことを舐めてるけどね、そこら辺はもっと崇めてもらっても――」

 

「はいはい」

 

 いつもの空気が戻って来る。

 カズマはそこでようやく、アクアといつものやり取りができていなかったのは、落ち込んでいた自分の方に原因があるのだと気付いた。

 そして、平常運転なアクアの雰囲気に救われたのだ、ということにも。

 カズマは何かを誤魔化すように頭を掻いて、居間に入ってきた少年と視線をかち合わせる。

 

「あ、おはよう。今日は二人共早いね」

 

「……むきむき」

 

「ちょっと待ってて。今簡単な朝ご飯作っちゃうから」

 

 カズマであれば、むきむきに対しどんな評価を下すことも許されるだろう。

 やり直した親友だとも言える。

 親友の残骸から生まれた者だとも言える。

 紫桜優也の名残を残しただけの別人だとも言える。

 優也という個人とも、むきむきという個人とも、何の先入観も持たずに親しい友人となったカズマだからこそ、どう評価することも許されていた。

 

 カズマは何かを言おうとする。

 むきむきに言いたい言葉が、十や二十では収まらないくらいの数あった。

 けれど、その全てをぶつけるのは、何かが間違っている気がして。

 一つの言葉を残してそれ以外の言葉全てを噛み潰し、カズマは一つだけ問いかける。

 

「なあお前、今幸せか?」

 

 それが一番聞きたかったことで、一番大切なこと。

 

「うん、とっても幸せだよ。友達に恵まれたからかな?」

 

 それが一番聞きたかった答えで、それだけ聞ければ十分だった。

 

「……そっか。あ、悪いむきむき。

 俺とアクアこれから用事あるから、朝ご飯いらないんだわ。そんじゃな!」

 

「え、ちょ、カズマ!?」

 

「ああ、そんなに慌てて出て行かなくても、いってらっしゃい!」

 

 カズマはアクアの手を引いて、ゼル帝とむきむきを置いて居間を出て行く。

 用事など無い。カズマが突発的に吐いた嘘だ。

 居間を出てから街に辿り着くまで、カズマは一度も振り返りはしなかった。

 

「ちょっと待ちなさいよカズマ! ……カズマ?」

 

 強引に引っ張られてきたアクアが文句の一つでも言ってやろうとカズマの顔を覗き込んで、何やら不思議そうな顔をして黙り込む。

 何故アクアがそんな顔をしたのか、カズマの方は全く分かっていなかった。

 

「今日は朝から酒飲んでもいいぞ、アクア。今日は俺のおごりだ」

 

「! いいの!? どういう風の吹き回し?」

 

「いいだろ別に。ああ、今日は俺も飲むぞ。朝からたらふく飲んでやる」

 

 アクアはカズマが本当に辛い時、何も言わずにそばに居てくれる、癒やしの女神である。

 だから普段はトラブルメーカーであっても、カズマは彼女を嫌いになれない。

 

「……今日くらいは、朝から潰れるくらいに飲んでも、別にいいよな」

 

 カズマが一番気を許しているのは誰かと言えば、それはきっと、この女神なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本日の屋敷における四人目の起床者は、部屋を借りていたクリスだった。

 台所でちまちまとした昼飯の下ごしらえをしていたむきむきだが、クリスの足音を聞いて一旦手を止め、クリスのための簡単な朝ご飯を作り始める。

 

「あ、おはよう。はやいねー」

 

「おはようございます。今朝ご飯作ってますので、座って待ってて下さいね」

 

「はーい」

 

 クリスは適当に席につき、先程までアクアに愛でられていたゼル帝を発見する。

 ゼル帝はヒヨコのくせにやけに威風堂々と振る舞っていて、クリスのことをじっと見ていた。

 

「君も本当に、筋金入りだよね」

 

 クリスは微笑んで、指先で嘴の先をつつく。

 ゼル帝も優しく、彼女の指先を嘴の先でつつき返した。

 

「元、紫桜信也さん。

 現、キングスフォード・ゼルトマン。

 誰も何もしてないのにこんな風に巡り合うんだから、本当に凄いもんだよ。

 人間として死んでも、魂に欠損を作っても、鶏に生まれ変わってまで会いに来るんだから」

 

 特典付きという転生でなければ、人は全ての記憶を捨て次の命へと巡る。

 それが、どんな形であってもだ。

 途方もない愛があれば、人はそこで女神すら驚くような奇跡を起こすこともある。

 

「……あなた達の行き先に、祝福があらんことを祈っています」

 

 ヒヨコと少年の未来の幸を願うその時だけ、クリスの声はとても優しく、柔らかで丁寧なものに変わっていた。

 

 

 




●ホースト
・1-8-1
>「DT戦隊とかいう部隊も今じゃあるしな。受け皿はあると思うんだが」
>「DT戦隊……なんでそこでその名前が?」
>「仲間になったら教えてやるよ」

 女神の力を魔王の力で改造したのがDT戦隊。女神と悪魔がちょっと手を加えたのがむきむき。要するにバニルが色々した跡に気付いた、ということ

●アクシズ教徒
・2-2-2
>ベテラン店長にしてアクシズ教徒である私の勘が言っている。
>この少年をアクシズ教に勧誘できれば、アクア様はさぞお喜びになられると……!

 こわいよアクシズ教徒

●ミツルギ&紅魔の里
・1-6-1
>他の人には読めない文字も、むきむきには読めるらしい。
・2-2-2
>あ、むきむきさん、これむきむきさんの冒険者カードですよね?
>鍛冶屋の人が誰のものかも分からない冒険者カードが落ちていたと、ギルドに届けてました

 むきむきのカードの文字はこの世界の人にはぐちゃっとしたものにしか見えないが、それは要するに『日本語』で書かれているということ。
 このカードの文字を読めたのは作中の描写範囲では幽霊(信也)とミツルギのみ。むきむきのカードは、彼の特殊な誕生経緯のせいで日本語仕様になってしまっている。

●クリス
・2-3-1
>「はいはーい、お待たせし……あれ? 君……」
>その人物はむきむきの巨体に驚くことはなく、けれどもむきむきの顔を見て少し驚いた様子を見せ、なのにむきむきはその人物に全く見覚えがなかった。
>「? 初対面の人ですよね?」
>「あ、うんそうだね、初対面初対面」

 初対面のような初対面じゃないような

●カズマ
・3-1-1
>不思議と、カズマはこの少年となら上手くやれそうな気がした。
>不思議と、むきむきはカズマとなら上手くやれそうな気がした。
>むきむきはアクアにはさん付け敬語。カズマにはくん付けタメ口。
>それはカズマの方により親しみを感じているということであったが、なんとなくアクアの方が上にランク付けされている感じがして、カズマは複雑な心境であった。

 そら特に理由もなく年上をくん付けとかしませんよ、むきむきは。

●バニル
・3-4-1
>「ほう、よく育ったものだ」
>「両親の面影が見える。あの赤子が、こうまでなったか」

 バニルさんは気まぐれ。特に見張っているわけでもなく、別に気を遣ったりもせず、気が向いた時に助けてくれるという、バニルさんらしいお助けマンです。
 あ、3-7-2などバニルさんがむきむきの両親に語りかけてるシーンは、実際に地獄に居る二人に語りかけてるってことです。独り言じゃありません。

●細かいとこ
 なんでヴァルキリープロファイル?
 なんでアクアが女神だってあっさり信じて、しかもその後疑いもしないの?
 プリースト適性が高い意味って何さ?
 その他諸々だいたいそういうことです。



 ぼちぼち終盤戦の序盤に突入します。次の話から四章で、この作品は全五章で終わりですので
 あ、章タイトルも見返してみて下さい

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