湖で一斉に孵化し、水面から浮上する水脚(ミズダコ)の幼体たち。
父がどうしてもその光景を見せたいというので、私は遥々把中の山々まで連れて来られた。 父が言うには、これこそ自然が織りなす生命の神秘であり、見ずに死ぬのは勿体ないのだという。
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虫送りの夜

 

 私は目を覚ました。

耳をすますと、森の向こうから縞梟(シマフクロウ)の鳴き声が聞こえてきた。珍しいな、と思った。繁殖期でもないのに鳴いているなんて。

 

「あれはな、水脚(ミズダコ)どもを憐れんで泣いてるのさ」

 傍らで、父がそう言った。私はふうん、と適当に相槌をうつ。父の言い方は何だか水脚をこけにしているようで、聞いていて気持ちの良いものでもなかった。

 

 私は布団の中でうーんと唸り手足を伸ばした。どうしても見せたいものがあるからと半ば無理矢理に連れて来られた田舎の山。うきうき気分の父とは打って変わって、私にとっては最初から気乗りしない旅だった。

 身支度を整えて、父とともに部屋を出た。板張りの廊下は薄暗くて、床はひんやりと冷たかった。ふいに、襖の向こうから声と音とが漏れ出てきた。何か作業をしているようだった。私があれは何の音、と問うと、父が答えた。

「寺子だ。今日の、準備をしているんだろう」

「そうなんだ」

 

 

 

 

 

 

 山々に覆われた把中の土地には多種多様な虫たちが生息していて、いま私たちの滞在している寺はそれらの管理及び駆除を無償で執り行っている。父のいう見せたいものとは「虫送り」と呼ばれる虫を駆除する儀式のことで、普段寺で修行に励んでいる寺子たちがその役に回るのだという。

 

 私はほんの少し興味を惹かれて、立ち止まった。親元を離れて山奥で精進の道に励む子供たち。まだ年端もゆかぬその子供たちを見てみたいと思った。父の手を引いて、言った。

「ね、見ていい?」

「ん、ああ。ちょっとだけだぞ」

 

 私は襖をほんの少し引いて、黒く開いた隙間から中の座敷を覗き込んだ。

中は広く、暗かった。天井を縦横に走る竿縁が白く浮かび上がっていて、その下では袈裟に身を包んだ数十人の子供たちが柱に大きな布のようなものを縫い付けていた。

 襖から覗く私の顔に気付いて、寺子たちの手が一瞬止まった。静寂。闇の中からじっとこちらを見つめる目。

 

 私は何だか気圧されたようになって、襖を閉じてしまった。無遠慮に敷居を跨いだのを咎められたのだろうか。いや、違う。あの目線はそんなものではなかった。もっと暗くて深くて湿っていて、とにかく彼らが私たちを歓迎していないことだけはわかった。急に寒気がして、私は身を竦ませた。

 父はしばらくそんな私の様子を訝しげに眺めていたが、すぐに行こう、と手を引いて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私と父は、年嵩の僧人に連れられて湖の下見に出かけた。道中、私たちを虫から守るのと、虫送りの準備設営のためという名目で、後ろからぞろぞろと寺子たちがついてきた。あまりいい気分がするものでもなかったが、我慢するより仕方がなかった。

 

 木漏れ日の漏れる小道をしばらく進んでいくと、急に視界が開けた。

水面に木々の緑をうつして、大きな湖が佇んでいた。湖畔を渡る風が涼しい。

 

「さて、今夜、ここから水脚どもが現れます」黒い袈裟に身を包んだ僧人が言った。それから、起こる現象についてのあらましを語って聞かされた。「水脚の雄は秋になると産卵のため産まれた水辺へと里帰りするのであります。雌はつめたい水中でじっとそれを待っており、雄が到着すると交尾のために一度水面に上がるのです。この際受精した雌は水に流されにくい岩場に卵を生みつけたのち、力尽きて息を引きとります。雄は他の個体や外敵が近付かぬようしばらく産卵床を守っていますが、やがてこちらも死にます。そして数日後に卵が孵化し、幼体が産まれるわけですが、この幼体が一斉に湖から浮上していく光景が貴賓がたの目にとまったと、そういうわけでありまして……」

 

 私はもう何度も父から聞いていたので退屈して、寺子たちの方に目を向けた。

彼らはさっきの座敷で作っていたものを担いで持ってきていて、岸辺に沿って幕のように布を張ろうとしているようだった。櫓を組んで、作業にあたっている。

 

「あれは何を?」

 私が彼らを指差してそう聞くと、黒衣の僧人はちらと目を向けて言った。

 

「水脚を囲い込むために網をはっておるのです。奴ら、光に吸い寄せられる習性がありますから、炎であの幕を照らしてやればみなそこに向かって飛びつくのですよ」

「ははあ、そうですか」

 

 父と僧人はそれから面白くもない世間話に耽り始め、私は蚊帳の外に置かれてしまった。寺子たちは黙々と櫓を組み立てていて、こちらには目もくれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて、森に夜のとばりが落ちた。

私と父は改めて湖畔に立った。幕の組み立ては終わっていて、作業にあたっていた寺子たちは皆一様に、先っちょに火のついた太い棒のようなものを手にしていた。

 監督する僧人たちの合図で寺子たちが集合した。私たちと湖を挟んで向こう側に陣どり、今か今かと水脚の孵化のときを待ち構えている。

 

「何か、かわいそうだねあの子たち」

 私は木立に身をもたれて、足をぶらぶらさせながら父に言った。火に照らされた白幕に、縁がぼやけて滲んだ私の影が大きく映っていた。

「何でそう思うんだ?」

「だって皆、ずっと暗い顔してたし。全然笑わないし。」

「客人の前だから、緊張してるんだろう。別に、かわいそうなんかじゃないよ」

 

 私は要領をえない父の言葉に適当に頷き、水面を渡る細かな波紋に目をやった。寺子たちのかかげる火の照り返りで、水面も橙の色に染まっている。

 

 と、だしぬけに、水面に白い飛沫が湧き上がり、てらと光る黒い何かが顔を出した。続いて、ゆっくりと細い足が水面に立った。全部で八本の足はもつれあって、宙に海藻のごとくそよいでいる。

 

 一瞬水脚は動きを止めて、次に細かく体を震わせ始めた。やがて絡まっていた足がほどけて、その体が宙に浮いた。八本の足を収縮させて、空を漕ぐように上がっていく。

 

 見れば、水面のあちらこちらから水脚たちが浮かび上がっていた。甲殻を橙にてらめかせて、一匹また一匹と夜空に向かってふわふわと水脚たちが浮上していく。

 どこを見ても、水脚、水脚。水脚。私には、まるで霙が湖に降り注いでいるように見えた。

 

 幕に目をやれば、表面を埋め尽くさんばかりに水脚が飛びついていた。一匹一匹が蠢き、揺れ、振り落とされかけながらも懸命にしがみついている。

 

 櫓の上で待機していた二人の寺子が、支え綱を切って幕を落とした。幕は裏面を白にきらめかせながら落下していき、真下に掘られた深い穴にぱさりと落ちた。すかさず、寺子たちが火種を投げ入れる。穴の中はぼうぼうと音を立てて燃え始めた。上では、既に新たな幕が取り付けられていた。

 

「ご覧、あれで水脚を燃やしてるんだ」

 父が言ったが、頭に入ってこなかった。生まれたばかりの儚い命が、輝く暇もなく消えてゆく。私は同情も感情移入もしなかったが、ただその光景を美しいと感じた。

 

 肩を叩かれて、ようやく現実に引き戻された。父がしきりに上方を指差して、見てごらん見てごらんと言っている。

 

 言われた通り頭上を見上げると、金属を擦り合わせたような耳障りな翅音をたてながら、五~六匹の大君蜻蛉(タイクンアキツ)の群れが近寄ってくるところだった。

 大君蜻蛉というのは把中の山々に分布する種で、節翅虫目アキツ科に属する。体は細長く、頭部からすらりと伸びた胴には四枚の透き通った翅がくっついている。これらの翅を高速ではためかせることによって重い体を宙に浮かせることを可能にしているのだという。

 また把中の生態系の中でも上位に君臨する肉食生物である。高空から一気に急降下し逃げる隙を与えずに獲物を掻っ攫う様がよく目撃されており、このことから把中周辺の村々では『あきつにさらわれる』という方言が、相手に出し抜かれる・騙されるといった意味合いでよく使用されている。

 

 数匹の大君蜻蛉が、乱舞する水脚の海の奥に飛び込んだ。口腔をぱかりと開けて、次々に水脚たちをその腹におさめていく。

 水脚の塊は、幕に吸い寄せられる集団と、脇目もふらずに大君蜻蛉から逃げる集団とに分かれた。一方の大君蜻蛉はといえば、この湖での狩りには経験があるのかこちらも上空で停止飛行しながら待機し逃げのびてきた水脚を捕食するものと、湖に降下し幕に向かった水脚を捕食するものとの二手に分かれていた。

 一匹の大君蜻蛉が、こびりついた水脚を根こそぎ喰らおうと幕に突っ込んできた。櫓の寺子たちが、すかさず炎を振りかざして対抗する。

 

 しかし大君蜻蛉は怯まずに、櫓を押し倒す勢いで幕に巨体を押し付けてきた。父も私もさすがに慄き、後ずさりしかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 息継ぐ間もなく、私の背後の草薮から、ばさっと音を立てて何かが飛び出してきた。反応する間もなく、そいつはぎらりと光る短刀の刃を私の首筋にあてた。

 冷や汗がどっとわいた。私は目を見開いた。私に刃をつきつけていたのは、紛れもなく、袈裟に身を包んだ寺子だった。その寺子は、大君蜻蛉の翅音にも負けぬ大声でがなりたて始めた。

 

「来たら、こいつを殺す」

 

 私は、喉元につきつけられたひんやりとした感触に怯えながら、必死に父の姿を目で追った。父は寺子の傍らで、おろおろと私を離すよう懇願していた。

 

「黙れ、黙れ」

 

 その叫びが合図になったかのように、湖の向こう側に陣取っていた寺子たちが一斉に、蜘蛛の子を散らすように走り出した。大君蜻蛉を必死に押しとどめていた数人の寺子たちも、櫓を飛び降りて一目散に暗い森の中へと駆け出して行った。

 ふいをつかれて一瞬ぽかんと口をあけていた僧人たちは、すぐさま怒りの形相をあらわにし、寺子を追いに森へ一歩足を踏み出しかけた。それを待っていたかのように、私に短刀をつきつけている寺子が声を枯らさんばかりに叫んだ。

 

「こいつを殺すぞ、俺は」

 

 僧人は踏み止まった。一瞬、静寂が流れた。父も、私も、汗を流して震える寺子も、言葉を発しなかった。湖からは無数の水脚たちが今も浮上し続けていて、大君蜻蛉が人間のことなど露知らずといった様子でそれをぱくついている。

 

「やめんか、カグミ」

 

 ちょうど朝に道案内をしてくれた僧人が、私たちの傍まで寄って来て、その寺子の名らしきものを呼んだ。寺子―カグミは、そちらに目もやらず、私の耳元でがなり続けている。

 

「黙れ、俺に近付くな」

 

 それからも問答は続いて、段々私にも事情がつかみかけてきた。カグミは仲間を逃がすために時間を稼ぐつもりなのだ。私という人質がいる限り、僧人たちは追手を放つことができない。だからこうして、僧人たちを威嚇し続けているのだ。

 カグミの手は震えていた。

じりじりと僧人たちが包囲の幅を狭めていく。それにつれて、カグミの呼吸も荒くなっていく。ああ、私は思った。カグミは僧たちに怯えているのだ。しびれをきらした僧人が不意をつけば、ぷつりと糸がきれてしまうかもしれない。もし、そうなったら―

 

 私がそんなことに思いを巡らしていた時、ばりばりと何かが倒れるような物凄い音がした。見れば、幕を突き破り勢い余った大君蜻蛉が地面につんのめっているところだった。カグミがそれに一瞬気をとられた。

 

 僧人はそれを見逃さなかった。ひとりがすかさず駆け寄ってきて、カグミの手から短刀を叩き落とした。

 

「畜生」

 

 それが、私が聞いた最後のカグミの言葉だった。父が、ふらりとくずおれた私を支えてくれた。

 

「ああ、よかった。よかった」

 父は私を抱きしめて、見ていて気味が悪いほどに涙を流している。私は安堵のため息をつくと共に、カグミに目をやった。彼は僧人たちから袋叩きにされていた。体中を殴打されて、呻いている。私にはそれが、大君蜻蛉に捕食される水脚たちの姿と重なって見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

よく晴れた朝だった。私は、昨日と同じ畳部屋の床に座り込んで、ぼうっとしながら外を眺めていた。緑と青の色彩が目に眩しい。

 

 後ろでは、父と、恐らくは寺で一番偉い嗣由杷(シユハ)という僧正が話し込んでいた。父はしきりに私が危険な目に遭ったことを主張し、寺に訴訟を申し込むほどの勢いで僧正を詰り、責めたてていた。私はそれを聞き流しながら、カグミに思いを馳せた。

 

 あの子は絶対、悪い子なんかじゃない。私に短刀をつきつけた時だって、手が震えていた。怖かったんだ。本当に私を殺す気なんてなかったに違いない。そうに、違いないのだ。

 

「僧正さん」私は言った。「あの子たちはどうなったの」

 

 僧正はちらと私を流し見て、答えた。

「逃げた奴らなら、ひとりを残して全員捕まりましたわい。今後はこのようなことが起こらぬよう、一層監視体制を強化していく所存であります故……」

 

 一人。

彼は今どうしているのだろうか。把中じゅうの寺を敵に回して、ひとりで逃げ続ける心境は、裕福な環境に慣れた私には想像すべくもなかった。

 

 寺を出発する時になっても、父はまだ怒っていた。

それから人力車を雇って、山道を辿っている間、これからの予定のことを父と話した。

 

「把南に行こうと思ってる。温泉ですっきりして、こんな嫌なことはもう忘れてしまおう」

「いいね」

 

 張り出した木々の枝が、人力車の幌を擦って飛び去っていく。

梢を透かして、沢がちらと視界をかすめた。流れる川面に、数匹の水脚の幼体がたゆたっているのが見えた。

 

 

 

 

 




最後まで読んで頂きありがとうございました。


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