夢もまた夢   作:てんのうみ

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ナイトエンド

 頬を伝う汗を拭わなくなったのは随分と前のことだ。

 走りながら何かを探し、かつ迫り来るタイムリミットの中で冷静さを保つのは、なかなかに難しい。息を整えようと立ち止まると、腕時計の秒針の振動が、速く打つ脈とは違い、ゆっくり、しかし着実に時を刻んでいる。

 紫たちと別れてから十分ほど経っただろうか。どこまで広がっているのか分からない自分の夢の世界の中で、メリーは悪戦苦闘を強いられていた。

 何を探せばいいのか分からない。それはおそらくメリー自身が忘れている何か。それは思い出せるものなのか。あるいはそれを見た瞬間に思い出せるものなのか。

 しかし、ゆっくり考えることができないほど、メリーは退路を断たれていた。残り時間を気にしながら再び走り出す。なるべく自分と関わりがあった場所を巡るように街を回った。違和感を強く感じた場所があったはずだ。それは確か――。

 メリーの記憶の中で一番印象に残った場所。紫の喫茶店を除けばもうあそこしかない。そこを尽きそうな体力を振り絞り、重くなった足を根気で動かす。そこに探し求めている物があると信じて。

 そしてたどり着く。

 周囲を鬱蒼とはいかないほどの風通しがいい常緑樹に囲まれた大きな建物。メリーは自分が通う大学へ足を踏み入れた。構内は真っ暗だというのに、自動ドアだけは通常通りに動く。感じた不気味さを押し殺して、メリーは構内を歩き始めた。

 ――この世界は私の恐怖を感じ取って形にする。恐怖を感じればそれだけ……。

 何もない空間に奇妙な亀裂が入る。それはまるで世界がずれ、他の世界とぶつかることで透明な壁がひしめき合っているようにも見えた。

 大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせて前へ進む。メリーの足音が明かり一つない構内に反射し、さらにそれがメリーの耳に反芻する。――できることなら耳を塞ぎたい。

 様々なものが迫ってくるなか、メリーはやっとの思いで目的地である講義室の扉を開く。当然誰も居ない。雑然と机、椅子が並べられているだけ。メリーが扉を閉めると、講義室内に重い音が響いた。

 メリーはあのとき自分が座っていた席を見つける。そこに座り、ある一点を見つめた。メリーが違和感を感じた場所、顔も知らないはずの誰かが気になった。あのときメリーにかかった雲が、メリーの無意識を読み取った結果だったのなら――立ち上がり、その誰かの席へ移動した。

 綺麗すぎる机を指先でなぞる。メリーは必死に見つけ出そうとしていた。現実に自分をつなぎ止めていた何か、それはこの席の主ではないのか? それなら無意識に彼女を求め、専攻でもない超統一物理学の講義を受けていたことにも納得がいく。

「ねえ」

 何もない空間に、メリーは語りかける。

「私たちって、どんな関係だったのかしら」

 メリーの声が広がって消える。

「たぶん親友とか……恋人とか……そんな感じ? 私、親しい友人は少ないの」

 机の上に座り込み、両足を抱えた。

 返ってくる声はない。メリーは俯き自嘲ぎみに笑う。講義室の時計は、秒針一つ動かない。これが私の世界か。腑に落ちてしまうのが憎らしい。本当に空っぽだ。

 腕時計の秒針の振動が手首から全身に伝わってくる。もう残り時間も無いらしい。

「俯いてても何にもならないのに……」

 

 ――物には色々な側面がある。だから下を見てないと気づけないことも、きっとある。

 

 懐かしい声が聞こえた気がした。

 誰の物かは分からないが、自然と耳に入ってきた声は心地よく。ストン――と心に落ちてくる。今、視界に見えるのは真っ暗講義室の床。下を向いていないと気付けないこと。それは――ああ、これか。

「私も……いい加減夢から覚めないと……駄目ね」

 座る机から降りて、メリーは机の影に潜んでいた"それ"を拾い上げた。何処かで見たことのあるような黒いソフト帽。帽子を掴む指先から伝わってくる懐かしさが、メリーに「これだ」と訴えかけてくる。そう、メリーには分かったのだ。残された時間の中ですべきこと、夢から覚めるためにしなければいけないことが。

 メリーは大学を抜け出し、空に煌々と照る月と目を合わせる。何処かで見覚えのある月だ。そうだ、きっとあそこで――帽子を胸に抱きかけ、メリーは走り出した。

 急ごう――君が待ってる。

 

      ◇

 

 夜空に星が見える。雲は何処かに消えてしまったのか、煌々と照る月が夜空を蒼く染める。吹く風は辺りの辺り草木を鳴かせ、メリーの体に絡みついて消えていく。額や頬に自分の髪の毛がピタリとくっ付き、風を冷たく感じさせる。走り疲れ、息を整えようと肩の上下が激しい。すっと肺に酸素を取り込むと、味のない夜の匂いがした。

 鬱蒼生い茂る山道で、重くなった足を引きずり上へ、上へと歩みを進める。帽子を手に取ってみて何かを感じたが、それだけでは夢から覚めなかった。けれど一つ思い出したのは、探し物をしていたのはメリーだけではない。ということだった。

 舗装されていない道は歩きづらく何度も足を取られそうになるが、これが最後――と踏ん張りを効かせる。そう――ここをもう少し歩けば。

「開けた場所に……でる」

 吹く風が一層強くなる。なびく髪をかき分け前へ進む。赤い鳥居、古ぼけた建物……すべてその通りだった。それなら――メリーは手首をそっと撫でながら辺りを見渡す。やはり辺りに特別な物はなく、ここが神社だと言うことがわかる。そして本堂の方に歩いて行くと、既読感のある光景が広がっていた。

 神社の賽銭箱の前で、膝を抱えて泣く少女。みっともない程泣きしゃくり、涙を拭っては目元を赤くする。

 私の夢に、私以外が存在することはない。ならこの子は――メリーは膝を折ると、少女と目線を合わせ語りかける。

「どうかしたの? もしかして落とし物?」

 泣き続ける少女は、流れる涙をそのままに顔を上げ、メリーと視線を交わした。

「どうして知ってるの……?」

「どうしてだろうね。はい、これ。落とし物」

 メリーは手に持つソフト帽を少女に手渡す。受け取った少女は目を見開き、弾けるような笑みを見せた。――どうやら落とし物はこれで間違いないらしい。

 よほど見つかって嬉しかったのか、先ほどまで泣いていたのが嘘のようにその場を走り回り、年相応にはしゃいでいた。そして、ひとしきり喜ぶと、被っていた可愛らしい帽子とメリーが渡したソフト帽を交換し、メリーが通った鳥居の方へ走っていく。

「何処へ行くの?」

「待ってるから、行かなきゃ。またね」

「もうなくしちゃ駄目だよ……うん、またね」

 少女の姿が見えなくなるまで見送ると、メリーは少女が座っていた場所に腰を下ろした。元々ない体力ももう限界。町中を走り回り、挙げ句の果て登山までしたのだ。もう疲労困憊。今日はよく眠れる気がする。

 ――瞼が重い。視界がぼやける。耳もよく聞こえない。

 ああ、起きたらまたあの具合悪さと戦わないといけないと思うと少し億劫だが、ここは素直に従おう。今日は星も月も、こんなに綺麗なのだ。きっといい夢が見れる気がする。

 メリーが意識を手放す直前、最後に聞いたのは聞き覚えのある鐘の音だった。

 

      ◆

 

 ――ゆっくり瞼を開く。

 頬に触れる空気は何処か他人行儀で、無機質で、つまらない。鼻に付く薬品の匂いが邪魔で、うまく呼吸ができない。私はどうやら寝ていたようだ。私の体は知らない柔らかさを持ったベッドの上で横になっている。虚ろう視界がようやく世界にピントを合わせると、ベッドの隣に座る彼女の顔が見えた。

 黒いソフト帽がトレードマーク。白いワイシャツと赤いネクタイ、黒のロングスカートという服装だが、自然と人の目を引く存在感のある少女。

「おっと、これまた随分と寝てたね。おはようメリー」

「……おはよう、本当によく寝たわ」

 体を起こして見ると、案の定いつもの気だるさが込み上げてくる。だがその気持ち悪さよりも、気になることが私にはあった。彼女が座る椅子の隣、私がいるベッドのサイドテーブルに上がっている"それ"だ。

「ん? 何処か体調悪い?」

「そんなことないわ。ねえ、これって……?」

「ああ、それね。さっきまで貴女とよく似た人と話しててさ。もうすぐ起きるだろう――って、その紅茶と花を置いていったの。もしかしてお母さん? まだ近くにいるだろうし、呼んでこようか?」

 そうか、こっちに来ていたのか。私はソーサーごと膝の上に乗せ、ティーカップを手に取る。暖かい紅茶の熱が指を通して伝わり、昇る湯気からはちょっと懐かしい味がする。一口含めばその暖かさは全身に広がり、まだ少しざわめく心を落ち着かせてくれた。

 病室の窓から外を覗けば、完全防音といえど、向こうの騒がしさが目で覗えた。まったく、夢と現実はこうも違うものか。科学世紀は世知辛い。

「ううん、大丈夫よ」

 席を立とうとする蓮子を制し、私はベッドの背もたれに体を預ける。一息ついて、サイドテーブルに飾られた濃い桃色の花――花蘇芳を見つめて、小さく声を漏らして笑った。もしかしたら結局は自分次第が気がしたのだ。相対性精神学を学んでいる私なら、特に。

「いいの?」

「ええ、多分……どこかで笑ってると思うから」

 飲み終えた紅茶の残り香に浸りながら、私はこれから夜が降りる街を眺め続けた。

 またいつか、夢の向こう側にいる貴女に会いに――行けたらいいな。

 


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