大学の講義中にも関わらず、メリーは上の空だった。
その日も、夢が思い出せなかった。
初めて夢が思い出せなかった日を境に、白紙のメモが携帯に溜まり続けている。原因はわからない。少し前まですぐ近くにあったはずのそれが、今は何処にあるかさえ分からなくなってしまった。夢を見ていたあの頃に、ノスタルジーすら感じてしまう。
小さく溜息をついた後、止まっていた手を走らせる。一応講義に出席しているのだ、何もせずにぼーっとしていたのでは単位はもらえない。それにしてもこの講義――超統一物理学は、どうもメリーの肌に合わない。元々メリーは文系、相対性精神学が専攻だ。それなのに何故理系の超統一物理学など取ったのか、正直なところメリーには理系のことはさっぱりで、ただ退屈でしょうがなかった。教室の前方では赤毛の女教授が熱心に何かを語っているが、内容は然程頭に入ってこない。――ここにいる人は、みんな理解できているんだろうか?
辺りも見渡すも、誰もメリーのように動きを止めている学生はいない。皆、頭を手元と教授を交互に行き来させ、その手を忙しなく動かす。はやり分からないのは自分だけ……。考えるのはやめて、教授の後ろのホワイトボードに書かれている数式らしき何かを写し取る。あの教授の字はやけに達筆なので、メリーにとって記録するのは一苦労だ。
「それじゃ、今日はこの辺にしとく。レポートはさっさと出しなさいよ」
やっと終わった――疲れが一気に肩から抜け落ちる。今日の講義はこれで終わりだ。
席から立ち上がると、メリーは視界の隅に、たった一つの空席を見つける。
「優等生のあの人は今日も休みか」
ここ数日、この科目では学内トップの学生の姿をメリーは目にしていない。
何故か気になる。メリーはその人と面識がない――正確にはその記憶はないはずなのだが。
一瞬頭の中が曇ったが、すぐにそれを振り払う。手早く講義をまとめて、メリーは足早に教室を去った。特に急ぎの用事はないはずなのに。なぜかこの場に居たくなかった。
大学から出ると、まず一番に燦燦と輝く太陽と目が合う。これは秋晴れというやつだろうか。吹く風も何処か乾いていて、地面の落ち葉を巻き上げたている。
背負っているリュックを背負いなおすと、メリーは駆け足でその場を去っていく。
向かう先は、あのお店だった。
◇
「ごめんください……」
ここ最近頻繁に来ているというのに、メリーは何処か余所余所しく扉を開く。
中からいつも返ってくる紫の声はない。
「留守……かな?」
メリーは首を傾げたが、現にお店の扉が開いているのだ。休みということはないだろう。ゆっくり扉を閉め店内を見渡す。メリー以外誰もいない。思い返してみると、この店に紫以外の店員の姿を見たことが、メリーの記憶にはなかった。
誰もいない店内に少し困惑しつつ、メリーはいつも座っているカウンター席に腰を下ろした。
店内に沈黙が停滞する。
話し相手が不在では、こうも時間の流れが遅いものなのか。
メリーは店内の振り子時計が揺れるのを目で追いながら、ただただ紫の帰りを待つ。帰ってくるかどうかはメリーには分からない。いや、紫以外誰も知らないかもしれない。――が、みしりと木目の扉がきしむ音が店内に広がった。紫が帰って来た。そう思ったメリーは瞬時に振り返る。だがその予感はすぐに消えてなくなった。
「珍しい、この店に人が来てるなんて」
扉の前で物珍しそうにメリーを見つめる人影が一つ。
一歩踏み出して店内へ入ってくる黒いマントを羽織った少女。制服を着ているため高校生かとも考えたメリーだったが、その口調、その態度から、どこか年上のようにも感じた。
少女はメリーにように遠慮することもなくつかつかと店内へ入っていき、メリーの隣の席へ腰を下ろした。
その赤渕の眼鏡越しにメリーの瞳を見つめ、何かを察したように薄く笑う。
「ど、どうかしましたか?」
無意識に自分のほうが下だと思ったのか、メリーは丁寧口調になっていた。
メリーが尋ねると、少女はわざとらしく両手を開き、肩を竦めて首を横に振った。
「なんでもないよ。今のところはね」
訝しさが残る言い方――この時点でメリーは「この人もベクトルは違えど、紫さんと同じ人種だな」と理解した。決して口には出さないが。
「ねえ、此処にはよく来るの?」
「最近ここを知って……知ってからは大体毎日来ています。あまり人もないないし、落ち着くので」
「あはは、ここに人が多かったら困るよ」
手で口を押えながら少女は笑う。笑顔が絶えない人だ。でもその笑顔の奥に何か得体のしれないものを感じて、メリーは愛想笑いも浮かべず目を逸らす。あの瞳をずっと見ていたら、その奥にある何かに吸い込まれそうな気がする。
だが、メリーはこの少女に既読感に近いものを感じてもいた。全てを見透かした物言い、まるで自分には世界の仕組みが見えてるかのように振る舞うその姿。何処か引っ掛かるが、何に引っ掛かったのか、メリー自身よく分からなかった。
しばし静寂が辺りを包む。紫のように話しやすいわけでもないし、向こうから話しかけて来るわけでもない。ただ頬杖を突いて、どこか遠くを見つめている。気付けば店の置時計の針は、十九時を指していた。
「ねえ、いつまで居る気?」
メリーは一瞬にして身を強張らせる。沈黙を破った彼女の声は、先程の明るかった様子から一変し、その声は重く、強く、苛立ちすら感じられた。襲る襲る彼女の方へ視線を向けると、少し呆れたような顔で大きく溜息を零していた。
「それとも帰り道が分からないの? 私が一緒に探そうか?」
「それぐらい分かります」
馬鹿にされてると感じたのか、メリーの声色も少し苛立ちを帯びた。そもそも自分がどこにいつもで居ようと彼女にはなんの関係もない。だが少女は「なら……いいんだ」と小さく零すと、帽子を目深に被り席を立つ。
「紫を待ってるなら今日は来ないと思う。……それと、必要ないとは思うけど」
先程とは打って変わって神妙な顔つきの少女に、メリーも耳を貸す。
「道に迷ったら月を見るといい。時間が知りたかったら星を見るといい。タイムリミットはそう遠くないうちにやってくる」
「じゃあね」少女は踵を返して店の扉を開こうとドアノブに手をかけた。が、「――ねえ」振り向き、不敵な笑みを浮かべてメリーに言う。
「何か忘れてない?」
◇
日はしっかり沈み切り、辺りは夜の暗闇が広がる。昼時よりは涼しいものの、その空気にはまだ夏の暑さを含んでいる。残暑が厳しい、がメリーはそれが嫌いではなかった。辺りを行く人も少なく、今日は京都の街も静かに夜空に広がる星々の輝きを楽しんでいた。
それから少し店で待ってみたが紫は現れず、あえなく帰宅している。だがメリーの頭の中では、彼女の最後の一言が反芻していた。何か他のことを考えようとしてもどうしてもその言葉だけが頭から離れない。「自分が何かを忘れている」と唐突に誰かから言われてもにわかに信じがたい話だ。だがもしそれが本当だとしたら。
こうもメリーが悩むのには理由がある。メリー自身、自分の中から何か抜けてしまっていると感じ始めていたからだ。それは最近夢を見なくなったこと、あの店に行くようになったことに何か関係があるのだろうか。それにあの少女は、何をどこまで知っているのだろう。今自分が感じていることについて何か言っているのは間違いない。だが彼女に聞いたところで直接的な解答は返って来ない予感はあった。
「……あれ?」
そして今まさに新たな違和感に襲われる。本来、商店街を抜ければメリーが住むマンションまでは一本道、歩いて数分の位置にあるのだが、もう歩いて十分は立っているはずなのにマンションが視界に入る気配はない。それどころかここは何処だろうか? 考え事をしているうちに知らない道に迷い込んでしまったのか、辺りを見渡すも見覚えのあるものが見当たらない。広い京都とは言え、自分が住む地域に何があるかくらいはメリーも把握している。だが、自分の記憶の中から該当するものが見つからない。まるで見知らぬ土地に足を踏み入れてしまったような感覚を覚えて、メリーはその場で狼狽えた。
振り向いても自分の知る道はない。元来た道を辿っても戻れる保証はない。右か左か、どっちへ行けば良いかすら分からない。できることと言えばその場に立ち尽くすことだけだ。
「……」
だがそれすら許されない事態に、メリーは立たされることになる。
見上げた空が歪みだす。まるで不安に揺れるメリーの心情を同期するかのように、その揺らぎは大きく空に広がっていく。その様子はメリーを更なる不安に陥れた。自分の目の前で起こっていることが自身の常識の埒外であることは言うまでもない。みるみるうちに辺りの風景は歪んで行き、歪みが酷くなると黒く塗りつぶされるように闇に消えていく。
「なに……これ……」
数歩の後ずさりの後、振り返ったメリーは走り出した。幸い進行方向に歪みはなかった。だが、背後の歪みは、世界をかなりの速度で浸食しながらメリーの背中を追ってくる。メリーは泣き出したい気持ちを必死に堪えて、なるべく振り返らないようにして足を動かし続ける。本能的に感じ取ったのだ。あれに飲み込まれたらおしまいだと。
暗闇の中の街に、メリーの足音が強く広がる。視界の届く範囲に人影はない。まさかこの世界で一人だけになってしまったのではないか、そんな考えがメリーの頭の中を過る。額から頬に伝う汗が冷や汗なのか、走っているためのものなのかもう分からない。息は徐々に上がっていく。元々メリーは体力に自信がない。全力で走れる距離などたかが知れている。次第に足に乳酸が溜まっていき、逃げようとする意志に付いていけなくなる。足が縺れ、その場に倒れ込んでしまう結末は、もはや予測するのも馬鹿らしいくらいの確定事項だった。
「うっ……」
全身に伝わってくる鈍い痛み。立ち上がろうと試みるも、体は先に切れてしまった酸素を取り込むのに必死でいうことを聞いてくれない。
歪みの浸食はもうメリーが倒れているアスファルトも飲み込もうとしていた。下半身に触れているアスファルト感触が曖昧になっていく。メリーが首だけで振り返ると、自身の真下は既に暗く塗り潰されていた。
「あっ」
そして引きずり込まれるように歪みに落ちてゆく。反射的に手を伸ばすが、掴むべき物は何もない。もう無理だ。失意の中でメリーは瞳を閉じる。何が起きたかすら最後まで分からなかった。忘れているであろう何かを思い出すことも叶わなかった。
「ほらみなさい」
言葉と共にメリーの降下が止まる。聞き覚えのある声だ。
ゆっくり目を開ければ、先程の喫茶店にいた少女がメリーの手首を力強く掴み、宙に浮いている光景が飛び込んできた。
「やっぱり帰り道、分かってなかった」
状況が飲み込めず、目を白黒させているメリーの意識を置き去りにし、少女はメリーを引き上げる。弾みをつけてメリーを抱きかかえると、宙を蹴って空に入った亀裂のような物に飛び込んだ。
一瞬の出来事。黒く塗りつぶされていく街の光景が、メリーの瞼の裏に焼き付ついていた。
――――――
――――
――
混乱していたメリーにはそれが瞬間移動だったのか、それとも自分が覚えていないだけでちゃんと移動してきたのか、どちらか分からないが、気がつけば先程まで居た喫茶店「夢現」に戻ってきていた。
「紫! どうしてこんなになるまで放っておいた!」
耳がしびれるような少女の糾弾の声が店内に響き渡る。
その声の波紋が収まると、また空間の亀裂が入り、その隙間から紫が姿を現す。申し訳なそうな紫の表情を見た少女は、怒りをおさめるかのように舌打ちをした。
「この子は貴女より繊細なのよ。本当のことを言ったら、その瞬間に崩壊しかねない」
「そこをなんかするのが、あんたの役目でしょうが」
「あ、あの……」
蚊帳の外に追いやられていたメリーがようやく声を上げる。
メリーは混乱しつつも自分が置かれている状況を理解しようとしていたのだ。
紫はメリーの意思をくみ取り、少女と一緒に席に座るように促した。メリーはいつもの席に座り、少女も少し不服そうな顔をしながら席につく。
「メリー、貴女最近夢を見なくなった……そう言ってたわね」
「はい、そうですけど」
「なぜだか分かる?」
首を捻るメリーに、紫は一段と声色を優しくして告げる。
「――今、この瞬間こそが貴女の夢なの」
人は本当に驚くと声が出ない。まさに今のメリーの状態がそれだ。
そんなことを言われても信じられるだろうか。いや、信じられない。
「私は全て見ていたもの。天気が急に曇りになったのも、帰りに雨が降ったのも、貴女がそうなってほしい、そうなるんじゃないかと思ったから」
――言われてみれば、たしかに思い当たる節はある。日常の数カ所に違和感を覚えることはあった。紫さんの言うことが本当なら、これは本当に――。
一瞬でパニックになりそうになる。今見ているものが夢なら、現実の私はどうしている? 向こうでは一体どれだけの時間が経っている? どうして向こうの私は目覚めない? 分からない。疑問に押しつぶされそうになる。
そのとき、紫の手がメリーを顔を包んだ。
紫の手の温かさが、メリーの冷え切った頬にじわり広がる。
メリーの心は、再び落ち着きを取り戻した。
「貴女が取れる選択肢は二つ。一つは夢から覚めること。もう一つは……このまま夢の世界に残ること」
「夢の……世界に」
「私は残った」
しばらく黙り込んでいた少女が、被っていた帽子をカウンターの上に置いた。懐かしむような目線をメリーに向け、頬杖をつく。
「夢を現実に変える――それが私の目標だった。夢の世界に居座り続けて、もう何年経ったかなんて覚えてない」
「じゃあ現実の貴女は……」
少女は目を瞑りながら首を横に振る。夢の世界に残るとは、つまりそういうこと。現実を捨て、自由な世界を手に入れる。この世界が自分の気持ちを読み取って形にするのなら、常にいつも思い描いていた理想を見続ければいい。そうすれば世界の形は保たれ、先程のようにメリーを襲うこともない。
しかしなぜだろう。
覚めない夢を見られればいいのに。
ずっと眠り続けられればいいのに。
そう思っていたはずなのに。
メリーの心の何処かに引っかかる何か。これが少女が言っていた「何か忘れている」ものなのだろうか。憧れた夢の世界を蹴ってでも、その「何か」を求めていることに、メリーは戸惑う。けれど嬉しかった。
自分が住む世界にも、それだけのものがあった。
「私……帰ります」
「そう……わかったわ。現実の貴女が目覚めないのは、貴女自身が夢と現実の境界を見失ってしまったから。でもその無くしものは、必ずこの世界の何処かにある。それを見つけ出せれば」
「帰れるんですね」
「でも簡単じゃないよ。言ったでしょ? タイムリミットは遠くないうちにやってくるって。残り時間は……」
少女は店内の置き時計に視線を運ぶが、見た瞬間ため息をついて、手首の腕時計を見直した。
「一時間もないか。それを過ぎると、もう現実には帰れない」
「……」
残った僅かな時間で、この広い街から「何か」を見つけなければならない。メリーの表情は陰鬱なものになっていく。無理もない。姿形も予想できないものを、この短時間に探し出すのは至難の業だ。
「まっ、頑張ってよね」
少女は立ち上がると、手首につけていた腕時計をメリーに渡した。見れば針は十一時を過ぎていた。なぜ時計を渡されたのか。メリーが困惑していると、少女は置き時計の方を指さした。置き時計の針は、十九時で止まっている。
――ああ、そういうことか。
メリーは時計の意図を理解し、手首に巻き付けた。
秒針が動き、その振動が心地良い。うるさかった胸の鼓動も、秒針に同期するかのように落ち着いていく。
「十二時まで時間がないわ。私たちはもう手を貸してあげられない。これでお別れね」
「お別れ……ですか。寂しいです」
「そうね。貴女とはもっと話したかった」
メリーは立ち上がる。寂しそうに見送る紫に踵を返し、扉の前に立ってドアノブを掴むと、不意に振り返った。
「また……会えますか?」
「会えるわ。貴女に夢と現の境界がある限り、また何処かで」
その一言を聞き、メリーは店を飛び出した。
紫さんも、あの少女も、笑って送り出してくれた。だからもう怖くなんてない。
冷たい風がメリーの前を通り過ぎる。それは不安の表れか、それともしばしの別れの悲しさがそうさせるのか。
寒々しい街の中に、メリーの足音が広がり始める。
止まっていた時計の針が、朝に向かって動き始めた。