夢もまた夢   作:てんのうみ

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夢現の境界

 夢とはなんだろうか。

 といっても将来のというのではなく、寝ている間に見る夢のこと。

 人が見る夢は儚い。それは寝ている時にしか瞳に映ることがなく、掴もうと手を伸ばすと、触れる寸前で指の間をすり抜け消えてしまう。掴もうと抗えば抗うほどその形は崩れて行く。なんとも世知辛い。現実も夢も、どちらも水は冷たく、太陽は暖かい。そこに違いがあるのなら、夢では風も、花も、空の青も、私に優しくしてくれる。

 向こうはいつでも私を手招く。その誘いに私はベッドに横たわり、瞳を閉じて応じる。

 一足向こうへ踏み込めば、ひらりと宙を舞う蝶が、私を呼ぶ。辺りの静けさに耳を傾ければ、風の声が聞こえてくる。何に縛られることもなく、一人広い草原を歩いてゆく。何処へ通じているかも分からない道を気ままに歩き、その道の果てにある未知を探しに出かけよう。――ああ。

 覚めない夢を見られればいいのに。

 ずっと眠り続けられればいいのに。

 だがそれこそ叶わぬ夢。人は眠ればいつか目覚める。夢から覚めてしまう。どれだけ長く、壮大な冒険でも。不思議の国のアリスのように最後には目覚め、その世界は夢となる。

 現実と夢に境目がある限り。

 

 ――――――

 ――――

 ――

 

「……」

 携帯の震えが部屋の中に広がり、メリーはその目を開く。その瞳に映るのは見慣れた自室の天井と、寝起きの目にはキツイじわり差す日の光。それでメリーはやっと「朝が来た」と認識する。今尚震え続ける携帯を手に取り、アラームを解除して体を起こす。

 ぐらりと歪む視界。込み上げる吐き気。

 まるで体の中身をグチャグチャにかき混ぜられているような不快感が全身を襲い、たまらず再度ベッドに横になる。――幾らかましになった。朝はいつもこうだ。一日の始まりは、この気持ち悪さに打ち勝つところから。しかし自身の体温で程よく暖かくなった布団は、そう簡単にメリーを離そうとはしない。それにメリーの瞼もまだ重かった。そんな中、細目で部屋に飾ってある時計に視線を持っていく。音のない部屋の中で小さく時を刻む時計の針は七時を指している。少々寝すぎてしまったようだ。メリーは頭の中のスケジュール張を引っ張り出し、今日の大学は午後からであることを確認する。余裕は十分にあった。

 アラームを止めたばかりの携帯に視線を戻し、バックライトの厳しさにますます目を細めながらメモ帳を開く。気持ち悪さが消えるまで、見ていた夢のことを思い出しながらメモ帳に書き留めることがメリーの日課なのだ。が、真っ白な画面の前に手が止まる。何故だか見ていた夢が思い出せない。珍しい――メリー自身も軽く驚きながら白紙のメモ帳を閉じる。何かとても長い夢を見ていたような気がするのに、どんな内容だったかまるで出てこない。

「仕方ない……か」

 思い出せないものはしょうがない。メリーはすっぱり諦めて枕に顔を埋める。柔軟仕上げ材のいい匂いがした。

 メリーは夢を見ることがとても好きだった。気紛れで、美しくて、自分の知らない風が吹く夢の世界が輝いて見えた。だからなのか朝は決まって体調が悪い。まるでメリーの体が現実の世界を拒否しているように。人間、眠ればいつか起きてしまう。夢は儚い。目の前に現れたかと思えば消えてしまう。それが悲しくて、子供の頃は朝起きる度に泣いては、覚めない夢が見たい――と幼心に抱いていた。

 しかしメリーも年月を重ねもう大学生。

 現実の厳しさは拍車が掛かり、色のない世界には息が詰まりそうになる。大学生活は忙しく、自然と睡眠時間も減り、夢の世界はますます遠退いてしまう。今日にいたっては夢の内容さえ思い出せない。

 しかし困ったものだ。日課である夢記録ができないとなると、途端にやることがなくなる。頭を捻るもいい考えは浮かばない。二度寝しようにも、先程まで重かった瞼が嘘のように軽くなっていて寝付けそうにない。かといって気持ち悪さが抜けきったわけでないので動くことはできないだろう。結局メリーが取れる行動は、ただ時間の流れに身を任せることだけだった。

「……」

 ふと視線を部屋の外へ向ければ、自室の窓に切り取られた青空が瞳に眩しく映る。今日は晴れだろうか。それとも午後からは雨が降るだろうか。少し調べればわかるようなことにメリーは頭を回す。昨日は晴れだったとか、今は九月だとか、考えてはみるものの、

「曇りがいいかな」

 最後にはメリー自身の要望になのだけど。

「あっ――そうだ」 

 数秒間の暇潰しの甲斐あってか、メリーは再び携帯をその手に取る。そして先程白紙のまま閉じたメモ帳を開いて、昨日の記録を探し始める。今日の夢が思い出せないのなら、昨日の夢に浸ればいい――無数に溜まっているメモ欄からタイトルに「九月十八日」と書かれたものに触れて文章を開く。

「読み返すなんて初めてかも」

 基本的に記録は付けるものの、読み返すことはしない。元々読み返すためにつけているのではないから当然なのだろう。あくまで形として残すため、他意ない。少しだけ新鮮さを感じながら、昨日自分が記した夢を追っていく。

 

 夜空に星が見える。雲は何処かに消えてしまったのか、煌々と照る月が夜空を蒼く染める。吹く風は辺りの辺り草木を鳴かせ、私の体に絡みついて消えていく。額や頬に自分の髪の毛がピタリとくっ付き、風が冷たく感じる。どうやら息も切れているようで、肩の上下が激しい。すっと肺に酸素を取り込むと、味のない夜の匂いがした。

 上がっている息を整え歩みだすが、足は鉛のように重い。それでも一歩、また一歩と歩みを進めていく。足元に道はない。けどひたすら真っ直ぐに歩いていくと、開けた場所に出る。吹く風は一段と強さを増し、大きく髪を巻き上げる。周りを見渡すと赤い鳥居や古ぼけた建物が見えた。神社なのだろうか。他に目ぼしい物も見当たらないから、建物の方へ歩いていく。すると何処から体に響くような音。まるで時計台の針が一周してきたかのような。だが視界の届く限りにそのようなものはない。

 その代わりに、視線の先――神社の賽銭箱の前に自分より一回り小さい女の子が姿を現す。先程まで誰もいなかったはずだった、というよりも私には自分以外の誰かが夢の中に出てきていることのほうが不思議に思えた。今まで私の夢には私以外の人間が出て来ることは一度もなかった。自分以外の存在に、心の何処かで興味と恐怖が姿を現す。

「どうかしたの?」

 その子の前まで歩み寄り、視線を合わせようと膝を折る。その子は可愛らしい帽子を深く被っていて目を合わせることはできなかったが、頻りにしゃくり上げているところから見ると何か悲しいことでもあったのだろう。その頬に涙が伝う。

「無くした、失くしちゃった」

 蚊の鳴くような声で少女は呟く。

「落し物? お姉ちゃんが一緒に探そうか?」

「……」

 返ってくる言葉はない。けどその場を離れるのは忍びなくて、少女の隣に腰を下ろす。少女は私のことを気にする様子はなく、俯いたまま泣き続ける。

「大切な物?」

「……かもしれない」

「貴女の物じゃないの?」

「……」

 私の問いに少女は答えない。そのまましばらく沈黙が続く。するとその内少女は泣き止み、頬に残った涙の跡を拭うと「何処だろう」と言い残してその場を去っていった。私は特に引き留めもせず、その背中を見送る。今私が何を言ってもあの子は止まらない――そう思えたから。

 一人取り残された神社は、静かに風に揺れていた。

 

 陶酔すること数分。記録の最後までスクロールを終え、メモ帳を閉じる。思えば不思議な夢だった──記録にもあったように、メリーの夢に他の誰かが出て来ることはない。もし出ていても記憶には残らない。そして、時間帯が夜というのも珍しいことだ。いつもは朝や昼、とにかく日が照っている場合が多く、場所も神社などではなく、花が綺麗に咲き誇る、まさに楽園のようなところが多い。

 そんな疑念が浮かぶのだが、結局は夢の話だ。そういう夢を見ることもあるだろう、それで話がついてしまう。考えても答えは出ないのだから、考えるのは時間の無駄とは思わないが、そろそろ気持ち悪さも消え始めたので、大学に行く準備を始めなければならない。考え事は講義の合間にでも――頭の隅に追いやって体を起こす。胸の内もすっきりした。視界も安定している。ならば支度をしなくては。ベッドから立ち上がると、手早く寝間着から、いつもの紫を基調とした長袖ワンピースに着替え、洗面台へと向かう。手早く歯磨きを終わらせ、顔を洗って髪を整える。今日は寝癖が絶好調で思いの外時間が掛かった。洗面台から戻ると、メリーはキッチンへ向かい、引き出しの中から買い込んでおいたパンを取り出し口に加える。料理ができないわけではないが、朝が一番気だるいメリーに朝ご飯を凝れるほどの余裕はない。手早く済ませてしまうのが手っ取り早く、体にも優しい。

 パンを綺麗に食べ終え、ベッドの上に置きっぱなしだった携帯をポケットにしまう。そしてリュックを背負って玄関に向かい、フックに掛かっている白いモブキャップを被る。この帽子、よく人に「可笑しな帽子だ」と笑われるが、メリーはこの帽子を心底気に入っている。この帽子の可愛さが、他人には通じないのだろうか。

 みんながこの帽子の良さに気付く日が早く来ればいい――起きているのにそんな世界を夢見つつ、メリーは玄関の扉を開く。見上げた空に先程の青はない。何処から走って来たのか、一面を雲が覆っている。秋の天気は変わりやすい。

「いい天気ね」

 メリーは要望通りになった空の下で、くすりと笑う。晴れの日は日差しが強くて億劫だ。雨の日は、雨音は好きだが、帽子が雨で濡れてしまうのは嫌だ。つまり曇りが何も気にせず過ごせる最もいい天気となる。

 マンションの階段をゆっくり降りて道路を見てみれば、いつもより行きかう人が少ない気がした。少し違和感を覚えたが、何に違和感を覚えたのかがわからずメリーはそのまま歩き出す。むしろ人がいないほうが気軽に歩ける。なんだか今日は京都の町も静かで、メリーの足音が道によく響いた。

 大学までそれほど距離はない。歩いて二十分くらいだ。通い始めたころはそれこそ辛かったが、二年も経つと体も自然と慣れてくる。今ではちょっとしたお散歩気分だ。辺りに広がり始める鼻歌。奏でているのはもちろんメリーだ。何時になく上機嫌なその足音は軽い。これも天気のせいだろうか。

 歩みを進めるメリーの背後に浮かぶ黒い雲。その足取りは重い。

 

   ◇◆

 

 夕暮れ。雨音が静かに京都の街を包み始めた。

 専攻である相対性精神学を含めた三つの講義をやり終え、帰宅しようと大学を出たメリーはその光景を目にして肩を竦める。――まったく、秋の天気は変わりやすい。何だかそんな予感はしていた。しかし参ったことに傘は持ち歩いていない。かといって大学に残ってもやることはない。

「でもまあ……これくらいなら」

 玄関の屋根の向こうに手を出せば、雫が弱弱しく手のひらに一つ、二つと溜まっていく。然程強くはない。これなら走って帰れることができる。大学からは講義を終えた学生達が、傘を差しながら各々散っていく。自分もこうして立ち尽くすわけにもいかない。帽子が濡れないようリュックの中にしまい、雨の中を歩き出す。走ることはしない。メリーは雨が嫌いではないから。少し体は冷めてしまうが、雨音は聴いていて何処か落ち着く。街の緑も、食べるものでさえ人工的に作られているこの時代。もう自然を感じられるのは雨か雪くらいしか残ってはいない。そういう意味では雨を感じることは大切だ――メリーは髪から頬へと伝う雫を指で拭い、辺りを見渡す。いつも通る商店街。ここは京都の中でも古くからその形を保ってきた数少ない場所。しかし時間帯と雨のせいか、何処もシャッターを下げている。いつもは少し買い物をして帰るのだが、これでは無理そうだ。

「今日はお饅頭とか買って映画でも見ようと思っていたのに……残念」

 軽く肩を落としてお饅頭屋さんに踵を返す。ならば今日は家に帰って課題をやりつつベッドの上で寝転がるとしよう。特にやりたいこともない。なら早く帰ろうと、お饅頭屋さんの屋根から一歩踏み出す。

 瞬間、視界を奪う光。

 数秒遅れの耳を刺す音。

 それを皮切りに、先ほどまで静かに降っていた雨は、バケツの水をひっくり返したようなどしゃ降りに変わってゆく。メリーは踏み出した足を引っ込めて、何処か雨宿りできる場所を探す。するとシャッターの灰色でいっぱいの視界の中に、少し遠くの向かい側で明かりが灯っているお店を見つける。ここでも雨は凌げるが、風は冷たく吹き付ける。申し訳ないがあの店で雨宿りさせてもらおう。屋根の中から飛び出し、一直線に向かい側へと走り始める。なるべく濡れないようにしないとお店の人に迷惑だ――向かい側に着くと、店々の屋根を傘代わりに進み、ひっそりと一か所だけ営業している店の前で足を止める。

 少し古ぼけたような外装のお店。木製の扉、その前の看板には「喫茶店 夢現」と書かれている。

「喫茶店か」

 丁度よかった。雨で濡れた体が冷え始めていたメリーにとって、温まることができるお店が運よく開いていたことは幸運だった。店内を濡らしてしまっては申し訳ないので、ハンカチで髪と袖の水気を拭き取り、ゆっくりと扉を引く。扉はわずかに軋み、中から光が漏れ出す。

「いらっしゃい」

 女性の声。店員だろうか。

 だがその店員の姿をメリーが瞳に捉えたその時、メリーはその眼を見開く。カウンターの向こうから、こちらを向き笑いかける自分によく似た顔。前に鏡があるのかと錯覚するほど。

 ブロンドの髪。

 紫を基調としたドレスのような服装。

 視線を捕えて放さない紫がかった瞳。

 赤いリボンが蝶々結びに付いている白いモブキャップ。

 完全に一致ではない。メリーより年上に見える。それに髪も少し長い。綺麗なお姉さん――という印象だ。世の中には自分と似ている人間が三人はいる。そんな言葉を聞いたことがあったが、まさか自分とそっくりな人と出会うことになるとは思ってもみなかった。

「あら、可愛らしいお客さんね。どうぞ」

 たじろぐメリーに女性は優しく声をかけ、目の前の席に座るよう促す。メリーもこのまま突っ立てるわけにもいかない。言われるままにカウンター席に腰を下ろす。

「かなり濡れてしまっているわね。今タオルか何か持ってくるわ」

「あっ、いえ、そんな……」

「遠慮しなくてもいいのよ」

 メリーの制止を聞かずに、女性は店の奥へと下がって行ってしまった。優しくしてくれるのはありがたいのだが、あまり慣れていないせいか、何処かくすぐったく思える。それに彼女の声で言われると、メリーは何故が断り切れなかった。その理由はメリー自身にもよく解らない。

 静寂の店内。一人取り残されたメリーは木製のカウンターや椅子、優しく店内を照らす照明を見て、「いい雰囲気」と肩の力を抜く。今までこんなお店、商店街にあっただろうか。この辺りにはかなり出入りしているメリーには、あの店が潰れたとか、新しくお店ができたとか、そういった情報はすぐ耳にする。しかし新しく喫茶店が開いたなんて話は聞いたことがない。

 そんな疑問を抱いていると、奥から女性が戻ってくる。

「はい、どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 手渡される白いタオルを受けとり、拭ききれなかった水気を取っていく。何処かで嗅いだことのあるような、いい匂いがした。

「それにしてもひどい雨だわ」

 カウンターに肘を付き、窓の外を眺める彼女の視線に、メリーも吊られて視線を動かす。雨が窓ガラスに強く打ち付け、吹く風が窓を小さく震わせる。先ほどより酷くなっているようだ。これはしばらく帰れそうにない。

「まるで誰かが泣いているみたいね」

「……誰か?」

 首を傾げるメリーに女性はくすりと笑う。

「さあ、誰でしょうね」

 深い意味があるのか無いのか、メリーには判断ができなかった。でも口に手を添えて微笑む彼女を見ていると、なんだか意味があるように思えてくるのはどうしてなのだろう。――掴み所のない人。それでもメリーが感じるのは不信感ではなく、親しみ。

「雨で冷えたでしょう? 温かいものでも飲む?」

「じゃあ紅茶を」

「紅茶ね……はい、どうぞ」

 注文からわずかコンマ一秒。メリーは目の前に置かれた紅茶に目を白黒させる。あらかじめ作ってあった──というわけでもないらしく、紅茶の綺麗な茶色の上には白く湯気が上がっている。唖然とするメリーを見て、女性は「クスクス」と声を漏らして笑う。まるでメリーの反応を見て面白がっているように見える。

 ティーカップを手に持てば、その温かさがジワリと手の平に伝わる。口に含むと、紅茶の香りが口の中に広がっていく。美味しい――そう言葉を溢した。

 紅茶を楽しむメリーに対し、女性はカウンターの上で手を組みながら、その姿をただ見つめる。自分と同じ髪の色、自分と同じ色の瞳を持つ少女を見るその視線には何が込められているのか。それを知るのは彼女だけだ。

 それからは、二人とも特に会話もせず、時間だけが過ぎていった。ゆっくり、でも確実に。メリーはお茶の味を楽しみ、女性はひたすらそれを眺め続ける。そんな沈黙をメリーは気まずいとは感じなかった。むしろ沈黙が心地いい。背後の雨音は、さらに激しさを増して行く。

「ねえ、貴女と私、似ていると思わない?」

 沈黙を破った女性の声は、メリーがティーカップを皿の上に置く音と重なる。カウンターからその身を乗り出し、メリーにぐっと顔を寄せた。

(綺麗な顔……)

 近くでみるとやはり整った顔立ちをしている。自分とよく似た彼女の顔を「綺麗」と形容するのは少し自画自賛な気もしないでもなかったが、率直な感想としてそう思う。

「私も……そう思います」

「他人の空似にしては似すぎなのよね。あっ、もしかしてドッペルゲンガーさんかしら?」

「た、たぶん違うかと」

 そんなわけない。それは彼女もわかっているはずなのだが、わざとらしく「よかった、まだ死にたくなかったから」と微笑み返す。本来メリーは人と話すのが得意ではない。生まれも育ちも日本なのだが、やはりこの特徴的な容姿は、メリーの周りから人を遠ざけてしまう。そのせいであまり見知らぬ人と会話すのは苦手なはずなのだが、彼女相手だと何故だか落ち着いて話せる。やはり自分と似ているからだろうか。

 それから他愛ない会話が続く。

 自分のこと。

 彼女のこと。

 大学のこと。

 お店のこと。

 振り返れば大した内容じゃないかもしれない。

 それでも話し続けられるのは、やはり楽しさを感じているからなのだろう。

 聞くところによると、彼女の名前は八雲紫。経緯は教えてくれなかったが、どうやらこのお店の店長らしい。話好きなのか、話すネタが尽きることはない。同時に聞き上手な人で、メリーの話にもしっかり相槌を打ってゆく。できる人、というのはきっとこういう人のことを言うのだろう。メリーは関心を抱きながら話す口を休めない。ずっと喋っていられる気がした。

「一人暮らしなんでしょ? 時間は大丈夫?」

 だが、どんな有意義な時間にも終わりはやってくる。

 紫の突然の言葉で、メリーの止まっていた時が動き出す。今は何時だろうか。慌ててポケットの中ら携帯電話を取り出し電源を入れる。

(よかった……まだ十九時だ)

 画面に映し出された時刻に胸を撫で下ろしながら窓の外を見やる。雨は上がっただろうか──話に夢中だったせいで今まで気づかなかったが、既に雨音は聞こえない。窓の向こうは茜色の光が辺りを照らしている。どうやら雨は上がったようだ。名残惜しさはあったものの、これを機に家に帰らなければ、またいつ雨が降り始めるとも分からない。

「……泣き止んだ……ですかね」

「泣き疲れていなければいいのだけど」

 赤く染まった窓に向ける視線は何処か心配そうで。やはり「誰か」のことを思っているのか、そう考えはしたものの、メリーは口には出さなかった。もしかしたら、ただ天気を人の感情で言い表しているだけかもしれない。それにもし、本当に「誰か」がいるとしたら、他人が勝手に立ち入ってはいけない。

 紅茶の代金を支払い、紫に見送られて、メリーはお店を後にする。お店から一歩外に出れば夕日に照らされた道。一体何処へ走り去ったのか、見上げる空に雲の姿は見当たらない。目の前を通り過ぎていく風は、季節に反して暖かかった。

 さあ、もう帰ろう。

 なんだか今日はこのまま帰って寝てしまいたい。

 家に帰れば、夕日に赤く照らされているベッドが待っているはずだ。

 寝転がっていればその内、夜が降りて来る。

 今日は月が笑う日だ。それにこれだけ晴れていれば空には星々が煌めくだろう。

 窓から見えるそれらを一つずつ数えながら、今日は深く微睡むことにしよう。――いい夢が見られる気がする。

 リュックから取り出した帽子を被って、メリーは夕日に踵を返した。明日また来ようかな――道にできた水溜りに映る少し緩んだ頬をそのままに、メリー家へと歩き出す。

 誰もいなくなった商店街通り。静かに夕日は暮れていった。

 

 まだ奇譚のこと始め。

 


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