「先日の殺人未遂事件について、真夜に幾つか聞きたいことがある」
私がオフィスに着くなり、所長室に呼び出された。
そして、ナルの第一声がこれだった。
ナルが座る斜め隣後ろにはリンさんが立っていた。
まるで秘書の様だ。
「佳奈さんの件なら目撃した人から聞かれた方が詳しい事が分かると思いますが」
私はまず、最初からあの場所にいたわけではない。
「僕が知りたいのはそういうことではない」
じゃあ、何を?
意味がさっぱり分からなかった。
「自ら説明したする方が真夜の為だと思ったが、言わないのならこちらから言わせてもらう」
ナルは背もたれにもたれ、ギュッと音がなる。
机を挟んで立っている私を、人間味のない感情の取り除かれた無表情が見上げる。
「僕は、真夜があの事態を前々から予測、またはそうなるよう仕組んだ、のではないかと考えている」
私に発言も求めず、ナルはさらに続けた。
「まず、リンに頼まれていた書類を取りに渋谷のオフィスに行った。オフィスから嶋田宅まで1時間はかかる。勿論、公共交通機関を利用して。その距離を40分で嶋田宅に着いている、普通は不可能だ」
ナルは一枚の紙を机の上に出した。
白く細長い指が紙をなぞる。
どの経路でも1時間、それ以上かかることが示されていた。
「もう一つの疑問点はなぜ上橋佳奈の制圧にPKを使わなかったか、だ。目撃証言によると真夜は飛び蹴りをした様だが、確実性はPKのほうが高い。PKを使えなかった、もしくは敢えて使わなかった。そう考えるのが妥当だ」
「40分に短縮のトリックはおいおい考えるとして、まあ真夜が話せば早い話だが、短縮したのはあの事態になることを知っていたから、とすれば一つの結論が見えてくる」
表情のない顔に口角だけが少し上がり、絶対零度の冷たさを漂わせる。
「真夜、君は僕を傷ついてまで助けるヒロインになりたかっただけ。そんな安い芝居に僕が騙されると考えていたとは。15歳とは言え残念な脳味噌だ」
嘲笑といった風にナルが言った。
ここまで曲解されることになるなんて、考えもしなかった。
ナルの言葉が体中に突き刺さり見えない血を流してた。
「短縮は難しい話ではないです、ただ自分の脚に弱めのPKを持続的に使ったら可能です」
念力で脚を動かしてしまえばいいのだ。
イメージトレーニングと少しの訓練で私はそれができるようになった。
それを使えば速い速さを保って長い距離を走ることができる。
「なるほど」
頬杖をつきながらナルが相槌をうつ。
「嶋田宅に着いた時にはあの状態でしたので、PKをチャージしなおす時間がなくて飛び蹴りをしました」
「傷だらけにはならない予定だったのですが、慣れない事をしたので着地に失敗した私のミスです」
まだ説明しきれていないことがある。
黙ってしまえばナルから追及されるのは避けられない。
だけど本当のことをいうわけにはいかない。
私のあの日のトラウマを引き出すことになる。
あの日にもう二度と人には言わないと誓ったのだから。
「短縮しようとした動機は?」
やはりナルは私を逃がしてくれるつもりはないらしい。
「嫌な、嫌な予感しました。早く戻らなきゃいけない……と思いました」
佳奈さんの……殺意。
歪んだ愛に満ちた心。
殺意があるからといってすぐに実行にうつされることばかりではない。
念のため急いだら、ギリギリだったのだ。
「話は以上です」
冷たくピシャリと言い渡された。
私の言ったことなんて、信じられていないんだろうな…………。
素早く軽く一礼して所長室を出た。
さっきまで感じていなかったはずの血の味がする。
唇に舌を這わせる。
やっぱり、か。
私は何かを堪えるとき唇を噛む癖がある。
血の味のせいか胃がムカムカとする。
トイレに駆け込んだ。
胃の内容物が白い便器の中にどんどん出ていく。
「…………っく…………!」
涙が勝手に流れていく。
バイト先なんかで泣きたくなかった。
帰るまで我慢しようって、所長室では思ってたのに。
意志に反して流れていく。
やがて吐きたくても胃の内容物もなくなってしまった。
体の中まで空虚になった。
手の先からじわじわ痺れていく。
寒い、寒い寒い。
六月だというのに私はトイレで座り込んで震えていた。
虚しかった、ナルにあんな風に言われて。
なりふり構わず飛び蹴りして、あのままだと佳奈さんが砂利の上に落ちて怪我したらと思って芝生までPK使って飛ばして、でもそれで自分の着地は犠牲になって。
ボロボロになって、捻挫もして。
人命を救う、それだけを考えて駆けたのに自分の心は踏みにじられた。
やはり人を超えた力なんか使って運命を変えてはいけなかった。
もうやめよう…………こんなこと。
バイト中に油売ってると思われても困るしそろそろ出よう。
水道のところで顔を洗ってから自分の顔を見た。
真っ青過ぎて、一瞬自分じゃないのかと思った。
色をなくした唇に噛んだ傷だけが鮮やかな赤で嫌に生々しい。
「リンさんに心配かけるな、こんな顔してたら…………ってリンさんもナルと同じ考えかもしれないじゃん」
つぶやいてしまったことで自分の中での現実味が増した。
また悲しくなってきた。
考えるの、やめよう。
帰るまで、禁止。
調査のレポートでも作るか、と思ってパソコンの前に座った時、所長室の扉が開いた。
ビクッとした、別に悪いことしてるわけじゃないんだけど、なぜか。
リンさんが出てきた。
まだいてたんだ。
てっきり、私が出たあとにリンさんも例の小部屋に戻ってると思ってた。
リンさんは小部屋に入っていった。
何も言われないのも、逆に怖いよね。
ナルまで出てきた。
また何かを言われるのだろうか。
「真夜」
ナルの声が低く響いた。
「はい」
かろうじて返事だけは返す。
声は掠れてたけど、一応は。
「なぜ、自分より上橋さんの身の安全を優先した」
リンさんあたりが言ったのだろう。
「私の場合、調査中の怪我で済みますが、佳奈さんはナイフを持っていたとはいえ一般の人ですから調査の依頼を請けただけの立場の人間が怪我をさせてはいけないと考えたからです」
「どうしてそれを言わなかった」
「そうして当然だと、思っていました。すいません」
相変わらず白皙の美貌に表情はない。
その後何も言わずに彼は部屋に戻った。
一旦あいた溝はなかなか埋まりはしない。
「私の人生、こんなのばっかりだな……」