その週の土曜日、エリカは約束通り美帆に会うため、図書館へと向かっていた。盲目用の腕時計で時間を確認すると、まだ約束の時間まで三十分もある。
「ちょっと早く来すぎたかしら……」
とは言え、年下を待たせるわけにもいかないというエリカのちょっとしたプライドから、遅れて来るわけにもいかなった。
エリカは自分の見栄っ張りな部分に苦笑しつつも、白杖を揺らしながら図書館への道を歩く。周囲の人々は、やはりエリカを避け気味に歩いていた。
そして、図書館の玄関近くへと差し掛かったときだった。
「あっ、逸見さーん!」
元気そうな声が、エリカの耳に響いてきた。エリカはまさかと思いつつも、その声の方向に歩いて行く。すると、案の定元気そうな声がエリカの耳に入ってきた。
「こんにちは逸見さん!」
「美帆……あなた、いつから待ってたの?」
「えっと……だいたい一時間前くらいからですかね」
エリカは呆れてものも言えなかった。いくら年上相手の待ち合わせとは言え、そんな早くから来て待っていたとは。
それとも、最近の若い子というのは、待ち合わせにこれぐらい早く来るのが普通だったりするのだろうか……?
「そんな時間から待っていたなんて……ちゃんとお昼食べたんでしょうね」
「はい、そこは大丈夫です。ただいつもよりはちょっと早めに済ませましたが……。逸見さんに一対一で教えてもらえるとおもうと、つい嬉しくて……」
自分はそこまで技術や知識を持っている人間ではないのだが、とエリカは内心ごちる。
エリカは美帆からの熱い信頼と期待の意に、なんだかとても申し訳ない気持ちになってきた。
しかし、ここまできてやはり無理だと言うわけにもいかない。エリカは、自分に教えられるだけのことをできるだけ教えてあげようと、心に決めるのであった。
「……それじゃあ、少し早いけど中に入りましょうか」
「はい!」
二人は図書館の中へと入っていく。そして、図書館の中でも戦車関連の本が収められている本棚が近いテーブルへと腰掛けた。
そう指示したのはエリカであるが、案内したのは美帆である。
「それじゃあ、これから言う本を持ってきてもらえる?」
エリカは古い記憶を掘り返して、昔自分が参考にした書籍を思い返し、それを持ってこさせた。自分が口頭で説明するだけでもよかったのだが、参考図書があったほうが美帆も分かりやすいだろうと思ったからだ。
美帆はエリカに指示されると、素早く本棚から言われた本を持ってきた。どうやら美帆も図書館には通い慣れているらしかった。
「さて、持ってきたわね。じゃあ、今日は各国の戦車について話しましょうかね。本は『世界の戦車辞典』を使うわ」
「はい!」
そしてエリカの講義が始まった。エリカは臨時講師以外ではもう一二年間も戦車道から離れていたため、最初は記憶を思い返しながらでゆったりとしたペースだった。
だが、美帆はそのことに不満一つもらさず、むしろ必死になってノートを取りながら聞いていた。また、美帆は気になる点には要所要所で話の腰を折らないように気をつかいながら質問をしてきた。
そのこともあってか、後半からはエリカも気持ちよく美帆に戦車に関しての知識を教えることができた。
そうして、あらかた主要な戦車について話し終えると、エリカはそこで話を区切った。
「では、今日はここまでにしましょうか」
「えっ、もう終わりですか?」
美帆は残念そうな顔をエリカに向ける。無論エリカにはその表情は分からないが、長年盲目で暮らしてきたエリカは他人の感情の変化には敏感であったため、すぐに分かった。
「一日にあんまり色々詰め込んでも、あまり効果はないわ。それよりも、少しずつだけど要点を確実に覚えていったほうが効果はあるのよ。継続は力なりってね」
「なるほど……」
美帆は納得した様子で頷いた。エリカは美帆が理解したのを確認すると、ゆっくりと席から立ち上がった。
「それじゃあ、今日はこれぐらいで……」
「あ! ちょっと待って下さい!」
そこで、美帆がエリカを呼び止めた。エリカは怪訝な顔を美帆に向ける。
「どうしたの? 分かったんじゃなかったの?」
「いえ、そうじゃなくて……逸見さん。これからお帰りになるんですよね?」
「ん? そうだけど?」
エリカはイマイチ質問の意図が分からなかった。が、次の美帆の言葉にエリカは驚くこととなる。
「よかったら、逸見さんが一緒に帰るまでご一緒させていただけませんか!?」
「え……ええ!?」
てっきり図書館で会うだけで別れるものだと思っていたため、その申し出は予想外だった。エリカは少し狼狽しながらも、その理由を聞いてみることにした。
「えっと……どうして?」
「ええっと……やっぱり目が見えない逸見さんを一人にしてはおけないというか、できるだけ逸見さんのお力になりたいというか……やっぱり、余計なお世話、ですかね……?」
つまるところ、この少女は初めて会ったときのように、純然たる善意でこう言っているのだとエリカは理解した。
正直、エリカは一人でも何も問題はなかった。目が見えなくなったばかりの頃は困ることも多かったが、今では一人でなんとかやっていける。だが、美帆の厚意が嬉しいというのも本当だった。実際、一人とは言っても今でも沙織の助けを受けて生活している部分もあるし、たまには別の相手に頼るのも悪くないと思えてきた。
「……いいえ、そんなことないわ。そうね、それじゃあお願いしようかしら」
だから、エリカは美帆の申し出を受けることにした。一回りも年下の相手にそこまでされるというのも少々プライドに関わるものがあったとはいえ、断るほどの理由ではないからだ。
「本当ですか!? よかったぁ……」
美帆は安心したように息を漏らす。
だが、エリカには一つだけ心配な点があった。
「けど……あなたの家から遠くないかしら? 私の住所は……」
エリカはそこで自分の住所を教えた。一緒に帰ってくれるのはいいのだが、美帆が帰る道のりが遠くなってはいけないとも思ったのだ。だが、みほはまったく気にせずにエリカに笑顔を向けた。
「あ、そこなら大丈夫です。というか、私のいる寮と目と鼻の先ですよ」
「あらそうなの? ということは、あの寮ね……」
エリカは頭の中に寮の姿を――といっても実際はその目に映したことはないのだが――を思い浮かべた。かつてエリカがみほと一緒に暮らしていた、あの寮を。
これもまた、不思議な偶然だと思った。
「知ってるんですか?」
「ええ、ちょっとね……。まあとにかく、帰りましょうか」
「はい!」
そして、エリカは美帆の手助けを得ながら帰路についた。美帆はとても丁寧にエリカを導いた。他の歩行者や自転車、自動車の往来を細かくチェックし、エリカに危険が及ばないように心がけていた。そのおかげか、エリカはいつも以上にスムーズに歩くことができた。
エリカは玄関まで美帆に送ってもらった。家に入っていくエリカを美帆が見つめている。
「じゃあ、また明日ね」
「はい。それではまた明日」
美帆は朗らかな笑顔をエリカに向けた。その笑顔がエリカに伝わることはなかったが、美帆の優しい意志はたしかにエリカに伝わってきた。
翌日も、エリカは美帆と図書館で待ち合わせをした。美帆はやはり約束の時間よりもずっと前にエリカを待っていた。
エリカは呆れつつも、また昨日のように美帆に戦車道のことを教えた。美帆は大変覚えがよく、エリカも教えがいがあるというものだった。
そしてその日も、エリカは美帆に送って行ってもらった。
次の土曜日も同じだった。美帆はエリカよりも早く来て待っていて、エリカの教えをよく聞き、エリカの帰路に一緒に付いてきた。
一緒に帰っている間は、二人で他愛のない話をした。戦車道に関することや、ただたんにいつもの学校生活のことなど。話を聞くに、どうやら美帆は学校でも人気者のようだった。それは、この数日しか付き合っていないエリカにもよく分かる話だった。
美帆はとても感情的で、しかし負の感情は一切見せず、常に明るく振る舞って他人を楽しくさせるタイプの少女だった。また、他人のことを常に考えており、どうすれば他人の力になれるだろうかということを優先して動く人間でもあった。そのことが、エリカを助ける美帆の行動によく現れていた。
なんだか沙織と少し似ているなと、エリカは思った。
しかし、少し不思議な気もしていた。どうしてこの少女は、ここまで自分のことを考えてくれるのだろうかと。確かにエリカは目に障害を持っている。そのことが気になっているのは確かだろう。だが、普通の人ならば本来避けたくなるその障害に、積極的にここまで関わってくる人間は初めてだった。美帆の性格だけでは説明できない理由がある、そんな気がしたのだ。
だからこそ、エリカは日曜日の最後、またいつも通りに美帆に送ってもらった帰りの玄関で、そのことを聞くことにした。
「ねぇ、美帆」
「はい、なんでしょう?」
エリカの部屋の前で呼び止められた美帆は、きょとんとその場に立ち尽くした。
「あなた、どうして私にここまでしてくれるの? 自分で言うのも何だけど、障害者なんて普通はあまり関わりあいになりたくないものでしょう? でもあなたは、とても献身的に私に尽くしてくれる。そのことはとても嬉しいわ? でも、どうして? ……ただの親切心じゃ、ないわよね?」
そのことを聞くと、美帆はいつもの明るい雰囲気から、少し落ち着いた雰囲気になったことをエリカは察した。やはり、何か裏があるらしい。
エリカは、固唾を呑んで美帆の返答を待った。すると、美帆はハハハと困ったように笑って、もじもじと手をこねくり合わせ始めた。
「あー、なんとなくわかっちゃいましたか……。そうですね、逸見さんになら、話してもいいですかね」
そうして、美帆は語りだす。とても落ち着いた、しかし想いの篭った口調で。
「私……実は過去に死にかけてるんですよ。三歳の頃に。川で溺れて」
その言葉に、エリカは凍りついた。『三歳の頃』……つまり十二年前に。『川で溺れて』。
いや、まさか、そんなわけはない。それもただの偶然のはずだ。だが美帆の次の言葉で、エリカのその考えは否定されることになる。
「それでそのとき、誰かが私を助けてくれたんです。私は当時幼かったのもあって、その人の顔も名前も知らないんですが、でもどうやら私を助けてくれた人はそのまま川に流されて死んじゃったらしくて……」
確定的だった。十二年前に誰かが川で溺れたという話は聞いたことがない。少なくとも広いようで狭い学園艦の中で、その話が囁かれないのはおかしい。しかも、当時の美帆は三歳、学園艦にいるわけがなかった。そして、美帆を助けた人物はそのままいなくなった。
それは、まぎれもない、みほのことだった。つまり、こうしてエリカがしゃべっている少女は、かつてみほが助けたという、幼子であるということなのだ。
「それで私、そのことを知って決めたんです。私も、困っている誰かを助けられる人になろう。私を助けてくれた人のように、王子様みたいな人になろうって。だから、目が見えなくて困ってる逸見さんを見たとき、思ったんです。この人は、私が助けてあげなきゃって……」
エリカは何も言うことができないまま、その美帆の独白を聞いていた。
まさか、こんな形で自分がみほが助けたという子供と関係を持つことになるとは思っていなかった。
しかも、その子はみほに影響を受けて、今私を助けようとしている。なんという因果だろうか。これは、本当に偶然で片付けていいのだろうか?
そんな考えが、エリカの頭の中でグルグルと回っていた。
すると、みほは穏やかな口調で、再び口を開いた。
「逸見さん。今のお話を聞いてもらった上で、またお願いがあるんです」
「……何かしら」
エリカには、その一言を言うのが精一杯だった。自分の心の中に溢れる動揺を悟られんとするので必死だった。
「私、来週から春休みに入るんですが……その間、逸見さんのご自宅に邪魔して、逸見さんの生活の手助けをさせてはいただけませんか? 私の自己満足なのは分かってます。でも、それでも、私は逸見さんのお力になりたいんです」
その願いは、確かに美帆の心からの願いだった。エリカの助けになりたい。かつてエリカを助けてくれたみほのようになりたい、そんな気持ちが、よく伝わってきた。
エリカは悩んだ。この少女と、これ以上関わってもいいのだろうか? 彼女は言ってしまえば、みほがいなくなった原因でもある。そんな少女と、付き合っていけるのだろうか? だが、美帆自体には何の罪がないのも分かっている。そんな少女の純真な思いを、私は自分自身の歪んだ感情で否定することができるのか?
「…………」
エリカは見えない目で少女を『視』る。美帆という少女は、とても人間が出来たいい子だ。ここ最近付き合ってきて、楽しくなかったといえば嘘になる。そんな彼女が自分の生活まで助けてくれると言う。本来ならば、受けてあげるべきだろう。しかし……。
「……やっぱりご迷惑、ですかね?」
美帆が苦笑いしながらうつむく。
と、そこで、エリカは気づく。この子は、みほが助けた子。つまり、みほが『残していった』子だということだ。そこには、みほの自分を捨ててでも他人を助けるという、彼女の優しさが受け継がれていた。美帆の慈愛の心、他者を救おうとする心は、確かにみほから受け継いだものだ。つまり、彼女の中にみほは生きているのだ。
そのことを、もっとも彼女が体現しているのではないか?
私はみほを待っている。そのことは、今後も変わらない。しかし、彼女の残した子と接することで、何かが変わるかもしれない。
そんな希望が、エリカの胸の中に灯った。
だからこそ、エリカは美帆に応えることにした
「……わかったわ。いいわよ、私の家に来ても」
「本当ですか!?」
「ええ。人の手を借りて生活できるなら、それに越したことはないしね」
エリカはあくまで冷静を装って、美帆に接した。あくまで、いつもの逸見エリカとして接した。そのことが、美帆にとって一番だろうと思ったからだ。だからこそ、美帆を助けた人物がみほであることを伝える気には、ならなかった。
「じゃあ、来週からよろしくお願いしますね、逸見さん!」
「ええ、こちらこそよろしく……あ、そうそう」
エリカは喜んでいる美帆に、付け加えるように言った。
「私のことは、エリカでいいわよ。これから生活の世話まで診てもらうんだもの。苗字よりも名前で呼んだほうがいいでしょう?」
「……はい! エリカさん!」
美帆はいつものように、とても嬉しそうな声で、エリカの名前を呼んだ。