まだ頭が痛い。まだ消毒用アルコールの匂いが鼻に残っている。まだ実感がない――黒森峰が優勝を逃したこと。
赤星の検査入院は1日だけだった。軽度の脳震盪。よくある戦車道の怪我。小学生の時に1度やらかしたこともある。
頭の痛みが食欲を削ぐ。病院の食事は味が薄い。食べた気がしない。魚はぶよぶよしている。野菜は感触がなくなるまで茹でられている。ご飯は表面が乾いている。食べる気がしない。
4人部屋の病室に他のメンバーはいなかった。怪我をしたのはみほと赤星だけだった。みほがどこにいるのかは知らなかった。赤星には知らされなかった。赤星にはしらなくてもいいことだった。
きっと副隊長は1人部屋にいると思った。
陸の病院には母親が来た。見舞い。昔から好きだったリンゴを持ってきていた。母がナースセンターでナイフを借りて剥いてくれた。身体の心配をしてくれた。学校の話を聞いてくれた。試合の話にはならなかった。お互い避けていた。
「明日戻ることになってるみたいだけど、嫌ならもう数日ここにいてもいいのよ?」
帰り際、母はそう言った。
「いいよ。わたしは大丈夫だから」
赤星は母を見て、答えた。そう言ってもらいたがってるように見えた。赤星は笑みを顔に貼り付けた。
リンゴはもう好きではなかった。
**
黒森峰は閑散としていた。いつものような活気はなかった。赤星はタクシーのドアガラス越しに外を見渡した。
中央の野外市場は開いていなかった。いつもはソーセージとビールを飲めるビアガーデンが開いていた。搾りたてのジュースも飲めた。野菜や果物を売っていた。その日は全部閉まっていた。人もいなかった。静けさが満ちていた。
道路沿いの店も人は多くなかった。
1番高いビルの電光掲示板には何も映っていなかった。去年は確か9連覇を祝う文言が踊っていた。中学生の時に見に行ったことを覚えている。ビアガーデンで友人とソーセージを食べたことを思い出した。
10連覇を逃した余波は学外にも広がっていた。
宣伝用の幟は畳まれている。青い土台だけがポツポツと歩道に置いてある。
寮の前でタクシーを降りる。静かな寮の中へ足を踏み入れる。誰も廊下にいない。窓も締め切ってある。くすんだガラスが曇り空を映している。
赤星は部屋の前で呼吸を整えた。覚悟を決めた。
まだ頭が痛い。
**
ほとんど眠れなかった。意識がぼんやりしている。ヘリの上から見た景色が頭にこびり付いている。白旗が悪夢を呼び起こす。呼吸が浅くなる。髪の毛をむしる。枕に抜け毛が散る。シャンプーと汗の匂いが混じる。ひどい匂い。
同室の赤星は決勝後、2日間学校を休んだ。学園艦にもいなかった。陸の病院にいるとうわさがたった。真相は赤星以外知らない。
機甲科はこの2日間死んでいた。戦車道の練習時間は自習になっていた。皆、学校と寮を往復するだけの日々だった。
中舎はこの2日間、誰とも会話しなかった。痛みと調和が取れずにいた。日常が不協和音を立てていた。授業の内容は頭に入らなかった。ノートを取る気力もなかった。
「お疲れ様です」
そんな中、ようやく赤星が帰ってきた。少し痩せているように見えた。中舎を見て怯んだように見えた。
中舎は、自分が赤星を睨んでいることに気づいた。
そうして、今まで沈黙を保っていた口に火がついた。赤星はひどく怯えていた。中舎は、自分が上級生であることを思い出した。
ベッドから立ち上がる。皮脂がついた髪を振り乱す。病的な瞳で睨みつける。
「あなたが誘ったの?」
赤星がひどくゆっくりと言葉を返す。
「何を、ですか」
「あなたが副隊長をⅢ号に誘ったの? あなたが誘惑したんでしょ? ねえ、答えなさいよ」
「ち、違います」
中舎が一歩近づく。赤星が一歩下がる。肩が壁に当たる。
「あなたが助けてって言ったんでしょ。絶対そう」
「……先輩は無線を聞いてますよね」
赤星の声は引き攣れている。怯えている。中舎は痛みを赤星へ押し付ける。自分の望んだ答えを言わせようとする。力を入れた腕に血管が浮き上がる。
「あなたが副隊長を唆したに決まってる。そうじゃなきゃ……あんまりだわ」
「わたしも、悲しいです」
中舎が赤星を見る。瞳を射抜く。痛みを抱えた顔つきで赤星を睨みつける。赤星は怯えている。手が震えている。鞄が震えている。足が震えている。
「わたしも? あなたがわたしの気持ちなんて分かるわけがない。あなたはまだ2回チャンスがあるのよ。わたしにはもうないの。わたしはもうここで優勝することはできないの。今年限りなの。最初で最後の10連覇だったの」
中舎は言葉で殴りつける。息が赤星にかかる。ひどく熱い。赤星はもう口を開かない。黙りこくって、中舎の怒りに身を任せている。
誰も中舎の言葉と真摯に向き合おうとはしない――中舎自身でさえ。
自分は誰かに八つ当たりしたいだけだと気づく。目の前の赤星を見る。
怯えている。悲しんでいる。
「――ごめんなさい」
中舎は赤星から身体を離す。赤星はまだ怯えている。
髪を強引になでつける。目ヤニを擦る。机の上から財布を取る。扉を開ける。外へ出る。
食堂の前まで歩く。頭を冷やす。誰にもすれ違わなかった。誰も廊下にいない。ロココ調の広い廊下で天使のレリーフが踊っている。幾何学模様が並んでいる。気分が悪くなる。
自販機でコーヒーを2つ買う。缶は冷たい。1つを首筋に当てる。熱くなった身体が冷えていく。落ち着きを取り戻していく。赤星に当たったときの自分を思い返す。可哀想なことをした。
缶コーヒーを持って、部屋に戻る。廊下で天使がラッパを吹いている。誰ともすれ違わない。自分の立てる足音だけが廊下に響く。
ドアの前で立ち止まった。赤星の顔を思い浮かべる。
2日前の大会の記憶が蘇る。メインローターの回る音が大きくなっていく。思考を奪っていく。バラバラと音が聞こえる。音は耳にこびりついて、離れない。ぐるぐる回って落ちていく――何もかもが。
部屋に入ることだけは自制できた。部屋に入って、赤星の顔を見れば自分が何をしでかすか分からなかった。
飲むことのない2本目の缶コーヒーがポケットの中で眠る。
**
みほの頭の中には達成感があった。病院に1人でいる間、ずっと母が見舞いに来ることを想像していた。褒めてくれることを想像していた。食事と体温測定の時以外に部屋の扉は開かなかった。ずっと待っていた。
結局誰も来なかった。大きな1人部屋で、空を見上げるしかなかった。達成感が不安へと取って代わった2日間だった。
検査入院では異常なし。着替えは郵送されてきた。退院時に払う入院費は、みほがロビーへ向かったときには支払われていた。みほには支払いを知らせる旨はなかった。誰からも連絡は来なかった。
帰りに誰か来るかどうかすら分からなかった。最初に病院前のロータリーで見慣れた車を見た時、安心が先立った。
「お帰りなさいませ、みほお嬢さま」
和装の麗人。おさげの小柄な身体が頭を下げると一層小柄に見えた。
「久しぶりです、菊代さん」
みほは笑顔で車へ近づいた。
「御見舞に向かえなくて申し訳ありません」
頭をあげた菊代はみほの笑みに答える。笑顔を見せる。陰のある笑み。
「いえいえ、大したことはなかったんです。大丈夫ですよ」
「……みほお嬢さまは強いんですね」
菊代は笑っていた。みほも笑っていた。2人とも笑っているだけだった。
「そうですよ、こう見えてもわたしも西住ですから」
「……そういうところは師範代にそっくりです」
菊代が目を伏せる。みほは開けてもらったドアから後部座席に乗り込む。
「褒め言葉ですかね……えへへ」
「退院おめでとう……」後部座席には既に先客がいた。
「お姉ちゃん!」
「元気そうで何よりだ。だが、その呼び方はやめるんだ」
まほの顔つきはひどく重々しい。何も伺えない瞳の奥に何かを抱えている。みほは覗き込むのをためらった。口を噤んで、シートベルトを締める。
「これから師範代に会うために実家へ行く。いいか、師範代に会うんだ。母にじゃない」
言い聞かせるようにまほは言った。菊代が車を出す。静かに動き出す。密室の車が重い空気に包まれる。運転席の菊代は何も口を挟まない。
「師範代は今年度の隊長と副隊長から話を聞きたがっている。敗北の理由を知りたいそうだ。それに、試合運びについても一言あるらしい。つまり黒森峰の隊長と副隊長に指導をしてくださるということだ」
まほはみほに言い聞かせる――母に会うわけじゃないと。みほは言葉から意味を取る。理解する。自分の取るべき態度を示されていることに気づく。
広大な敷地へ車が入っていく。曇り空が広がっている。砂利道を徐行していく。大きな家屋が見える。庭の草木がくすんで見える。
菊代が車を戻しに行っている間にまほは正面玄関から家へ入る。みほは後へ続く。靴を脱ぐ前に、玄関へしほが現れた。
「応接室へ2人とも来なさい」
一言だけ。冷たい瞳で2人を見据えていた。まほは頭を下げた。みほも一瞬遅れて頭を下げた。2人が西住流に入門してから、しほは母親としてではなく師範代として2人へ接していた。だが、今日はいつにも増して硬い態度だった。
まほとみほは靴を揃えて、応接室へ向かう。実家だから場所は分かる。廊下は冷えている。ひんやりとした冷気が靴下から這い上がってくる。
「入りなさい」
応接室のふすまをまほが恭しく開く。みほが一歩後ろからついていく。ふすまを閉める。しほとまほ、そしてみほだけの部屋。広い。冷たい。緊張が満ちている。みほの胸が痛くなる――怪我のせいではない。
「失礼します」
しほは床の間の前で正座している。まほとみほはしほと向かい合う。
「まほはこっちよ」
しほが自分の手元に掌を向ける。まほが一礼して、しほの隣へ向かう。
みほは2人と向かい合うように立つ。ナイフのような瞳でしほが見つめる。
「座ってよろしい」
しほが2人に言う。ざらざらとした声。みほは胸の痛みが増していく。重い空気を吸って、身体が重くなる。呼吸が辛くなる。
「今日は、決勝戦のことを話すつもりだわ。なぜ、あなたたちが負けたのか。なぜ勝てなかったのかという話をね」
いきなり本題を切り出してきた。みほの身体が強張る。まほの背筋が一層ピンと張った。しほは態度を崩さない。
まほがしほに身体を向ける。
「分かっています。今回の負けはわたしの責任で――」
「誰があなたに喋っていいと?」
しほがまほの方を見もせずに切り捨てた。空気が凍った。まほが口をつぐむ。俯く。
「――申し訳ありません」
しほは頷いた。
「今回の負けはみほ、あなたのせいよ。なぜ、自分の戦車を捨てたの?」
みほは顔を上げる。まほの顔色が変わる。気にせずに言葉を続ける。まほはひどく気落ちした顔つき。しほだけが一貫して冷たい。何も見透かせない態度を取り続けている。
「だってわたしは……」
みほは言葉を続けようとする。しほが言葉をかぶせる。
「あなたも、西住流の名を継ぐものなのよ。西住流は何があっても前へ進む流派。強きこと、勝つことを尊ぶのが伝統」
「で、でも……お母さん、」
しほがピシャリと言葉を止める。
「犠牲なくして大きな勝利を得ることは出来ないのです」
「あ、う……」
みほは言葉を続けることができない。犠牲の一言に喉が動かなくなる。しほを見る。しほの顔に冗談の色は見られない。まほを見る。反論する様子もない。
みほはこれ以上話すことはできなかった。
何を言っても無駄だと気づいた。負けたことの大きさにようやく気づいた。褒めてもらえないことに気づいた。
外は曇り空が広がっている。もうすぐ雨が降り出しそうだった。
**
実家は久しぶりだった。応接室から出た2人の間には重い空気が漂っていた。まほは黙りこくっていた。みほも黙っていた。
まほとみほの部屋は隣同士。別れる直前にまほがみほの肩をたたいた。みほが振り向く。
「なんで、Ⅲ号を助けようと思ったのか聞かせてくれないか」
みほが目を見開く。まほは俯く。みほは、まほだけは分かっていると思っていた。
「本当に分からないの?」
「すまない……」
まほが俯いている。いつもの屹然とした態度は鳴りを潜めている。無言で縮こまっている。
「わたしはみんなと優勝したいって言ったんだよ……」
「ああ、優勝したいってみほも言ったじゃないか、」
そこで畳み掛けるようにして言葉を続けようとしたまほが息を飲む。みほの目を見る。みほは重要なすれ違いに気づく。まほも気づく。
みほがⅢ号に行った理由は簡単だった。
チームメイトを助けたかったからだった。
優勝したかったからだ――みんなで。
**
雨が降り始める。雨の音を聞く。アスファルトの湿った匂いを嗅ぐ。雨粒が地面で跳ねるのを見つめる。
中舎は寮の入り口にある談話室にいた。古びて革が痛んだソファに腰掛けていた。すっかりぬるくなったコーヒーの缶を手の中で弄んでいた。部屋には帰らなかった。何をするかわからなかった。自分を抑える自信がなかった。
1人でぼんやり座っている。取り留めのない考えが廻る。まとまることはない。まとめるつもりもない。言葉にならない痛みが身体を苛む。
静かすぎる部屋に雨の音は心地よかった。雨の音に異音が混じるまでは。
砂利道をタイヤが噛む音が聞こえた。エンジンは静かだった。寮の前で止まった。磨りガラス越しに車が見えた。人が出てくる。中舎は影を見つめた。影は扉を開けて入ってきた。
和装の女性だった。50歳ほどに見える。黒い髪はあまりに艶を帯びていて、一目で染めていると分かった。皺を隠すために塗られた化粧は厚い。匂いが中舎にも届く。顔をしかめるのだけは辛うじて自制。
中舎がちらりと顔を伺ったのに合わせて、向こうも中舎を見た。相手は顔を輝かせた。
「あなたを探していたの。ちょうど良かったわ」
「はあ」
言われるがままに中舎はついていく。相手の運転手が後部座席の扉を開いてくれる。中舎が先を促される。後に和装の女性が続く。
相手は多分OGの1人だった。もしかすると、決勝で目があった気がした、あの女性かも知れなかった。
車が滑るように動き出す。スモークガラスの向こう側は薄い靄がかかったように遠い。車内に激しい音はない。音楽はない。ラジオもない。静かにタイヤが道路を噛む音だけが広がる。
「わたし、ここの卒業生なの」
和装の女性はそう切り出した。中舎は背筋を正す。
「今は結婚して、戦車にも乗ってないけどね。ただ、ここが好きなのよ。分かるでしょう?」
「ええ、もちろんです」
「ここに来て、海の匂いを嗅ぐたびに昔のことを思い出すわ。勝った思い出ばかりで、全部が綺麗なの。汚れた思い出は1つとしてないわ。もしかすると、忘れただけかもしれないけれど」
和装が笑う。中舎は笑わない。
「今はOG会でちょっとした立ち位置にいるのだけれど、結局は嫁いだ先が裕福だったからに過ぎないわ。今がどんなに幸福だとしても、あのときの輝きには敵わない。絶対に、昔のことのほうが楽しかった。そう言い切れるの」
「今もきっと幸福でしょう」
中舎が表情を変えずに言う。スモークガラスの先を見つめる。反射して自分の顔が映る。酷く気落ちした表情が浮かんでいる。
「確かに、今も幸せだわ。けど、学生時代のほうがもっと幸せだった。忙しい日もあったし、辛い練習も毎日してた。それがきっと良かったのよ。今は疲れることなんて、お金を払わないと得られないの。スポーツジムで泳ぐのもランニングマシンを使うのもお金が必要。昔は嫌で仕方なかった運動を、いつの間にか買ってまでやるようになってた」
和装はクスクス笑っている。
「結局、どんなに運動をしても昔には帰れないのよ。ただ、昔を懐かしむことは出来るの。楽しかった、黒森峰の思い出を。大好きな黒森峰のことを」
いつの間にか、和装は中舎の方を見ていた。スモークガラス越しに目が合う。中舎は気づく――同じ瞳であることに。
「あなたも、黒森峰が好きでしょう? 西住流が好きでしょう?」
中舎は息を飲む。心臓が早鐘を打つ。頭がグラグラと揺れる。意識が遠のきそうになる。腕が震える。追い詰められている。辛うじて口を開く。
「……はい」
「そう、良かった」
和装が笑う。中舎は黙り込む。車がビルの前で止まる。
「――同じ、黒森峰を愛する者同士。ちょっと早いけれどランチでもどう?」
最初からそうするつもりだったのだろう。中舎は頷く。当然というように和装はうなずき返す。運転手が後部座席の扉を開く。
黒森峰の市街地に足を踏み入れた経験はあまりなかった。中舎はビルを見上げる。曇り空が広がっている。
「ここの14階にある店はね、同期の家政科がオーナーなの。きっと楽しんでいただけるはずよ」
「そんな店に招待してくださり、大変感謝しています」
中舎は頭を下げる。本当のところは感謝なんてしていない。何のために呼ばれたのかも分かっていない。同士とだけ決めつけられた。怪しげな匂いが漂っている。
車はどこかへ去っていく。駐車場で運転手と共に待機するつもりだろう。2人だけでエレベーターを使う。上へのぼる。
レストランは清潔さが満ちていた。広い窓から取られた良好な採光。黒森峰を一望できる。校舎が見える。演習場が見える。戦車は見えない――誰も走っていない。
レストランには他に誰もいない。静かにピアノの音色が聞こえる。厨房から包丁の音がする。他に音はない。
「今日は貸し切りよ。少しの間だけど」
「わざわざ、ですか」
「大切な話があるから当然のことよ。座って待っていなさい。既に注文はしてあるの」
一番窓際に2人で座る。すぐに水がくる。ワイングラスに透明な液体が満ちている。汗はかいていない。
「熱い日は冷たい水が飲みたくなるけれど、食前は常温の水のほうがいいのよね」
「はあ」
「多分、冷たい水を飲んでしまうとそれだけで満足しちゃうからよ。だって、そうじゃない? 最も望むものを最初に与えられたら、あとはおまけみたいに思えてしまうもの」
そう言って和装は水を口に含んだ。中舎はグラスを持つ手を見た。ひどく皺が多い。硬く骨ばっている――戦車乗りの指。
「あなたも飲んだらどう? もう少しで料理が来ちゃうけれど」
「ありがとうございます」
中舎も口をつける。そうしている内に、料理が運ばれてくる。グラスを置いたのと同時に、2人の前に皿が並べられた。
「ヴィーナー・シュニッツェルはやっぱり黒森峰の家政科出身が一番美味しく作れるわね」
仔牛肉のカツレツ。ポテト/ブロッコリー/スライスされたトマトが添えられている。付け合わせのパンが添えられている。水のおかわりが透明な瓶から注がれる。甘い匂いが漂っている。食堂では出ないメニュー。
いただきます、と和装はナイフとフォークを手に取る。中舎もならう。
しばらく、肉の匂いと甘いソースの香りが漂った。静かに咀嚼する音がたった。ナイフがかすかに立てる音が響いた。
「明日、黒森峰は大きく動くわ」
再び和装が口を開いたのは2人とも食べ終えてからだった。丁寧にナプキンで口を拭った和装は、水を飲み終えると中舎の方を見た。
「決勝後初の会議が明日、開かれるの。もちろんわたしたちOGも参加する。議題はもちろん、決勝戦の敗北について」
ようやく本題が始まった。中舎は息を呑む。吐き気をこらえる。仔牛肉が喉まで戻ってくる。首が引き攣れる。声が出せない。
「敗北はあまりに黒森峰にとって大きすぎる。誰かが責任を取らなければいけないことになる。きっと、黒森峰と西住流の評判が地に落ちる。敗北の意味がそれだけ大きいことは在校生のあなたも承知だと思うわ。ね、そうでしょう?」
「はい」中舎は答える。
「それで、わたしはそれを食い止めたい。傷をなるべく最小限に留めたい。黒森峰は悪くないことにしたい。西住流へ傷が及ぶマネは避けたい。会議の結果次第では、それも可能だと考えているわ」
「はい」中舎は答える。
「わたしは黒森峰を愛している。西住流を愛している。あなたも同じだと思っている。だからこそ頼みたいことがあるの」
中舎はもう頷けない。首が動かない。引き攣れて動かない。喉から肉がせり上がる。辛うじて吐き気を堪える。腕が震えている。水を取ることができない。白いクロスの敷かれたテーブルの下で、足が震える。
和装が言った。「最小限の犠牲にコントロールするために、あなたに協力してもらいたい」
中舎は頷けない。
和装が言った。「あなたの持つ管理権限を利用して、試合の最後の無線記録を改ざんしてもらいたい」
中舎は頷けない。
和装が言った。「最後にⅢ号の扉を閉めたのはⅢ号車長だと記録して欲しい」
中舎は頷けない。
和装が言った。「事故の可能性は不確定だけど、記録の上では事故は絶対なかったとしてほしい」
中舎は頷けない。
和装が言った。「最小限の犠牲を、たった1人に押し込めたい」
中舎はゆっくり頷く。
引き攣れた首が小刻みに揺れる。手に取ろうとしたワイングラスを落とす。割れる。カーペットに染みが広がる。
和装の言いたいことが、中舎には理解できる。何をすべきなのかも理解できる。自分が何を愛しているのかも理解できる。賢く愛する方法を理解している。
――西住みほに全ての責任を負わせて、追い込め。
**
図書館にも人は少なかった。人が集まりそうなところに、人はいなかった。決勝の余波が広がっていた。
赤星たちは図書館の一画を占領して、頭を突き合わせていた。紙面と睨めっこしていた。シャーペンをクルクル回していた。時折、机に落ちて音が立つ。
「何で、わたしたちがこんなこと……」
赤星のⅢ号に乗っていた5人。そのうちの1人――皆川優衣は陰鬱な表情を浮かべる。目線の先には白紙のA5が15枚。
図書館には夕日が差し込んで、眩しい。赤星は顔をしかめる。それが優衣に見られる。にっこりと笑われる。
「小梅も、嫌なんだ」
「そうじゃないよ。ただ、眩しいだけ」
「そんなこと言って強がちゃって。本当は、嫌でしょ」
「それは、優衣がそう思ってるだけでしょ」
赤星は笑いながら返す。優衣と他3人が笑う。
「まあ、決勝で負けたらこんなことになるなんて想像もつかなかったよ」
優衣はシャーペンをクルクル回す。人差し指と中指の間からペンがこぼれ落ちる。芯が白紙の紙に跡をつける。
「反省文。誰のために書くのかも分からないってかなりキツいよね」
15枚は1人あたりの分量だ。5人で合わせて75枚。大会後に掲示板に貼ってあった通知だ。明日の朝までに提出。5人は始めに見た時、笑った。冗談かと思った。
しばらく経って、誰も剥がさない連絡のプリントに、本気を見て取った。冗談でも、誰かのいたずらでもなかった。
「わたしは、これを書く意味が分からない」
砲手が紙を夕日に透かした。何も見えない。赤く浮き上がった先には何もない。
「書く意味なんて求めるべきじゃないかもしれないね」
赤星はシャーペンを持つ手の撫でる。
「どういうこと?」優衣が言った。
「10連覇を逃したのはあまりに大きなことだったかもしれない。わたしたちの責任かもしれない。だから、とりあえず何かさせていないと、黒森峰も困るんだよ」
「じゃあ、わたしたちのやってることは意味が本当に、ないじゃない」
「そうだよ。きっと、意味のないことをやるしか、わたしたちにはないんだ」
赤星は1枚目に手を付ける。
夕日が図書館を照らしている。本の匂いが漂っている。遠くからエンジンの音はしない。戦車の気配はない。履帯の音は聞こえない。
**
講堂は広い。機甲科全員を座らせても、なお席が余る。前列にOGたちが座る。間々に風紀委員が立っている。クラスメイトを数えたメンバーたちが風紀委員へ報告をしていく。ざわめきが講堂に広がっている。波打っている。
後列は段上になっている。隙間なく生徒が詰まっている。みな、今日を待ち構えていた。息を飲んで待つ者もいる。友人とコソコソ話す者もいる。誰もが会議を気にしている。意識している。何が起きるか待ち構えている。
OG、最後の1人が入ってきた。一番前の真ん中に座る。後ろには西住流師範代がいる。壇上に据えられた長机の端へ座る。
その後ろには隊長/副隊長がいる。隊長は師範代の横へ座った。その横に副隊長が座った。
場が静まり返る。誰も呼吸すらしていないかのような静謐が訪れる。
誰もが壇上を見つめている。中舎も見つめている。震えている。
「これから、既に卒業された方々を交えた第62回戦車道全国高校生大会の反省会を始めます」
まほがマイクを前にして言い放つ。OGを含めて全員が立ち上がる。礼の言葉に合わせて、全員が頭を下げる。着席の音は揃っている。その後に座り直す者もいない。
「まずは、決勝戦での最後の記録が知りたいとのことで、議題を繰り上げてそちらから話を伺いたいと思います」
まほが紙を見ながら、喋る。会議進行は風紀委員の1人が通例として作成している。まほは前年までの記録を知っている。今回の進行が異常だと知っている。最初に決勝の話をするのは異例だ。負けたから起きている。異常事態にOGは興味津々。在校生は怯えている。
まほは泰然とした態度で、壇上に立つ。
「では、記録係の中舎深月。こちらへ」
「はい」
中舎は声を上げて立ち上がる。OGの幾人かが後ろを振り返る。西住みほと同じ髪型の女に異様さを覚えている。
壇上へ資料を持って、中舎は立つ。足の震えが黒壇で隠れる。質のいい滑らかな机上に資料を置く。まほは既に長机に戻っている。全員が中舎を見ている。
中舎は、冷たい目で資料を読み上げる。
「最後のⅢ号中戦車が崖から滑落した後の資料では、乗員は懸命な復帰活動を取っていた模様です。それに、滑落して視界が取れたため、相手のフラッグ車の居所を報告しています。これは黒森峰が一時的にであれ、勝機を掴んだと言えるでしょう」
事実に対して、推測を述べるのは中舎にとって初めての経験だった。
「それをフイにしたのは、フラッグ車車長の副隊長であると言えます。彼女はこの報告を聞くことなく、自車を捨てています」
OG会から手が挙がる。和装。
「しかし、副隊長がⅢ号に救出へ向かわなければ、人命が危うかったのではないでしょうか?」
分かりきった質問。茶番。
「記録では、そのような可能性は全くなかったと言えます。試合前に防水確認用にプールを使用した記録が残っています。これらはグループリーダー以上の者であれば、目を通しているはずの資料です。これらを副隊長が試合前に見ていなかったとは考えられません」
「では、なぜ副隊長はⅢ号に救出へ向かったのでしょうか?」
「恐らく、副隊長は心身が不安定だったと考えられます。大会開催中に一度、保健室を利用しています。さらには保健室の記録では、その後嘱託医師によるメンタルヘルスを受けているようです。大会前に副隊長の精神が不安定だったことは明白です。これらの事柄から推測するに、副隊長は保証された安全を個人的な不安から信頼できず、勝手に無茶な救出へ向かったものと思われます」
防水確認用プールの使用記録は2年前=試合前に行なったというのは本当。
保健室の利用=真実。ただし、副隊長はメンタルヘルスを受けていない。保健室の記録は風紀委員と医師の両方から許可を得なければ、閲覧不可。再度確認が取れないように、和装が金を握らせている。
真実は巧妙に隠されている。嘘で塗りたくられた安全。でっち上げの決勝戦の記録。無線に記録された、西住みほがキューポラを閉じたという事実は消えている。無線は試合の結果をデータ上にあげた時点で消すという規則。記録せずに、データを消した。
西住みほが悪くないという記録は1つとして、残さなかった。
中舎は読み上げる時、声が震えないようにした。
太ももにボールペンを突き刺した。スカートに血が垂れる。靴下に血がこびり付く。心臓に痛みがこびり付く。胸の動悸が収まらない。首筋が痙攣する。
最後まで報告した後、一礼。みな、礼を返す。
振り返って、壇上から降りようとした時、西住まほと目が合う。
怒りを湛えた瞳が刺さる。歯を食いしばっている。ちらりと見える拳が固まっている。腕の血管が浮き上がっている。噛み締めた顎が震えている。額に皺が寄っている。全身から怒りが噴き出ている。
中舎は長机の後ろで立つ師範代に一礼をする。そのまま降りる。ゆっくりと自分の席に戻る。
血が乾かない。ボールペンの先が刺さった太ももは血が垂れている。痛みは決して、中舎を落ち着かせない。
**
それから会議は、西住みほの責任問題へ話が移っていった。OG会は全試合の記録を漁って、1つずつ行動を批判した。全ての選択を間違いだったと結論づけていった。まるで最初から話を決めていたかのようなスムーズさで話は進んだ。西住みほに責任は押し付けられていった。誰もが西住みほの欠点をあげていった。
みほは黙っていた。まほも黙っていた。しほも黙っていた。
みほは春休みの試合を思い出す――中舎との初めての試合。最後の試合。その後、中舎が戦車に乗っているのは見たことがない。
中舎深月――自分が副隊長になった代わりに、下ろされた人。戦車に乗った姿は必死で、辛そうだった。
試合の前も後も同じ表情を浮かべていた。苦虫を噛み潰したような顔。何かを諦めている顔。何も諦めたくなかった顔。
それから、次に思い出すのは1年生だけで戦った練習試合。継続高校との練習試合。
みんなで得た勝利だった。全員のフルネームが言える。今でも誰がどこに配置されていたか思い出せる。
それは練習試合に限ったことではなかった。大会の最初から、全部思い出せた。全ての状況が思い出せた。試合以外の記憶も一緒に引き出された。試合に勝った日はいつも食堂でお祭り騒ぎだった。
みんなで優勝したかった――できなかった。
全員の顔と名前が一致する。どの戦車に乗っていたかも思い出せる。何をしている人かも思い出せる。戦車に乗っていない人が何をしていたかも思い出す。
ヘリに乗っていた――中舎深月。
それ以外にも、戦車に乗らない人は多かった。整備だけで3年間を終えたと記録されている人もいた。みんな、優勝のために頑張っていたのだと、今なら思えた。
何もかもを思い出せる。全員の顔が走馬灯のように脳裏へ走る。誰もが優勝を目指していたと理解できる。
中舎も、優勝したかったのだと思う。
記録は嘘だ。事実ではないことを使って、西住みほを追い詰めようとしている。
みほは気づいている。何か大きな陰謀が自分を攻めていると気づいている。中舎1人が悪いのではないことを知っている。中舎も黒森峰/西住流を愛していると知っている。
まほが隣で怒りに震えている。今にも大声をあげそうに、身体を揺らしている。膝の上に乗った拳が怒りで固められている。
みほはその拳の上を、優しく手のひらで包んだ。
西住みほは黒森峰を愛している。西住流を愛している。