2週間が経過した。大会に向けて、士気は上昇を続けていた。熱気が渦巻いていた――10連覇への熱。
F-1グループはこの2週間で最も熱気を育んでいた。活気ある練習に励んでいた。闘争心に溢れていた。みほを中心に団結していた。みほは副隊長らしさを発揮していた。グループは勝利への欲に満ちていた。冷静さを失わずに、貪欲さを養った。
週末には練習試合が山と積まれていた。隊長は国際強化指定選手として福岡市に出張していた、他の社会人/大学生の国際強化指定選手たちとの合同練習。
3年の指導強化グループ――隊長と全グループの練習メニューを決めるグループは東京での講習セミナーに出ていた。指導ブラッシュアップ勉強会=将来指導者になる面々の講習会。
2年生のレギュラーグループはBC自由との練習試合が組まれていた。飛行船で昨日の夕方に現地入りしていた。練習試合メンバー以外にも応援に駆りだされていた。
1年生の初練習試合には殆ど人数が割かれていなかった。試合に出るメンバー/どこにも行く指示がなかったメンバーが残っていた。1年生の半分以上は岡山に向かっていた。
3年生は意外に多く残っていた。優秀なメンバーは殆ど練習中だった――隊長抜き。整備グループの半分は東京に行っていた。残り半分は1年生のために残っていた――中舎もその1人だった。
ヘリでの観測要員。中舎には戦車に乗る以外の仕事があった。仕事はそれしかなかった。戦車には乗れなかった。悲しくはなかった。悔しくもなかった。使命感が滾っていた。雑用ばかりでも文句は言わなかった。
「そろそろ時間かしら?」
中舎の横に同輩。去年度までは副隊長として敬語を使われていた相手。今はD-3として同じグループの女――ヘリの操縦手。
戦車倉庫の表。アスファルトの道が連なる100mほど先。資材置き場の裏。Hの文字がコンクリートの地面に記されている。ヘリが鎮座している。ドラッヘ。ローターが横に張り出している。テールローターがない。飛行機のようにも見える形状。
「まだ行かないさ。あと15分もあれば連絡が来るからそれまでの辛抱だ」
「これで行くの?」
中舎が目線をドラッヘに向ける。
「いいや、これは西住家の自家用らしいね。いつもは倉庫に入れてるけど、一番取り出しやすいところにあるから、ヘリを出すときにはまずこいつをまず出さないと使う分が出せないんだよ」
「なるほど。大変ね」
言っている内に大型輸送車がヘリを牽引してきた。見慣れた形。中舎にはそれがどう動かすのかも分からなかった。
ヘリに乗る前の準備は1つ。今までの戦譜を作ってきた生徒が用意したマニュアルを一通り読むことだけ。ヘリで取るべき行動は全て一冊にまとまっていた。マニュアル化されていた。単純な仕事だった。
「おはようございます、ここ戦譜作成メンバーの集合場所であってますか?」
陽の出ている方向から声。太陽で影になって顔が見えない。姿だけが見える。律儀にPJを着ている――2人はジャージ。
ジャージは応援の時によく着る。中舎が袖を通すのは体育の時だけだった。久しぶりに休日に袖を通した。冬の残り香がしていた。
PJは試合に出るメンバーが着る。規定はない。ただの慣習だ。
「ここだよ。ちょっと遅い」
「すいません」不機嫌な声。
「おはよう」
中舎は手を出した。近づくと影から外れた。顔が見えた。プラチナブロンドの綺麗な子だった。見かけない顔――1年生。
「おはようございます」
ぶっきらぼうな声。むくれている。鋭い目で遠くを見ている。何かを見ようとしている。中舎を見ていない。
「おい、逸見! 乗るぞ」
威勢の良い声。ジャージの女。ヘッドセットを紙袋から取り出す。3セット。
「これで連絡取れるから、付けといてね」
「はい」中舎が言った。
「分かりました」逸見が言った。
昇降用ステップに乗る。逸見。ジャージ。中舎。風の通らないヘリ。倉庫の熱気が残っている。汗が垂れる。首が痒い。
ヘッドセットをつける。耳が痒い。顔をしかめる。操縦席の2人が確認作業中。右に逸見。左にジャージ。逸見が怒られている。背中からも不満そうな態度が見える。
「これ、もう使えるのかしら?」
「地声も聞こえるなー。でも、もうスイッチ入れてるから大丈夫なはずだよ。ヘッドセット変にいじんないでね。周波数変わっちゃうと会話できないからね」
「じゃあ、あなたたちはどうやって管制と連絡を取るの?」
「わたしたちはちゃーんと全部のスイッチがどこに繋がるか知ってるから大丈夫。あなたは別に必要ないでしょ?」
管制と何について話すのか知らない。連絡をどこと取るのか知らない。ヘリについて何も知らない。
熱気が肌にまとわりつく。誰も見ていない。水筒に入れた氷を取り出す。下着の下に滑り込ませる。ひんやりとした感触が肌を伝う。
「何してるんですか……」
逸見の声。冷たい。不満気な声。落ち着きを装っている。
「なんで見えるのかしら?」
「これ、教習用だからミラー多いんだよね。そんなに暑い?」ジャージ。
「ええ。どうしようもないの?」
「まあ、どうしようもないね」
ジャージが笑う。中舎も笑う。逸見は笑わない。
「どーしたの。いっつも不機嫌だよね。せっかくの試合だよ? 楽しもうよ」
ジャージが腕まくりする。逸見の首筋に汗が垂れる。プラチナブロンドが額に張り付いている。
「わたしはコレに乗りたくてここに来たんじゃないんです」
ジャージが言う。「ここ?」
逸見が言う。「黒森峰です」
ジャージが笑う。「そりゃあね。わたしもそうだったよ」
逸見が苦虫を噛み潰した表情を浮かべる。
「じゃあ何でそんな風に笑っていられるんです?」
「ヘリもまあ楽しいからだよ。戦車に乗る以外の貢献もあるってこと」
「わたしは戦車に乗りたいんです。同じ1年が下で試合をしてるのを見るために学校に通ってるわけじゃないんです」
目が冷たい――青い瞳。筋張った戦車乗りの手。腕の血管が浮いている。
「同じ1年、ね」
中舎は軽口が突いて出そうになった口を閉ざした。逸見の言葉を反芻する。痛みを抱え込む。胸が針に押し潰される。
――何が同じ1年、だ。
文句が浮かぶ。口に出しそうになる。寸前で口をつぐんだ。怒りは判断を鈍らせる。怒りは軽率な行動へ駆り立てる。一度深呼吸すれば、取るべき行動が心中に降りてくる。
中舎は黙りこくった。書類ばさみを取り出した。ボールペンの尻を叩いた。リズムを取った。落ち着きを取り戻す。軽率な行動を抑える。
「試合が始まるって。出るよ」
メインローターが回り始める。風が唸る。右にヘリが回る。酔っ払ってんのか、とジャージが逸見に怒鳴る。テールローターがヘリの回転を抑え始める。浮き上がったヘリからは青い空が見える。
**
熊本の桜はもう散っていた。湿度の高い風が吹いていた。演習場は立夏の足音に満ちていた――湿った土と腐った雑草の匂い。
継続高校の車長たちはジャージ姿で整列していた。ジャージが正装だった。黒森峰のPJとは対照的。整列も綺麗ではなかった。中にはポケットに手を突っ込んでいる者もいた。黒森峰は態度を崩さなかった。赤星も態度は崩さない。指先にまで意識を向ける。
「今日はよろしくお願いするよ、隊長さん」
チューリップハットを被った女――相手の隊長。みほの顔を覗き込む。周りの生徒には目もくれない。一歩前へ出る。握手を求める。みほも近づく。
「隊長ではありません。副隊長です。今日はよろしくお願いします、ミカさん」
それぞれのチームのメンバーは事前に配布されていた。赤星は全員の名前を覚えた。義務のように思えた。
「この隊の隊長だろう? まあ、本当は隊長さんとやってみたかったかな」
ミカが笑う。みほも愛想笑いを返す。継続のメンバーは目もくれない。黒森峰のメンバーは態度を崩さない。みほとミカだけが笑う。みほはすぐに笑うのをやめる。赤星は後ろからみほの背中を見る。ミカの顔だけが見える。まだ笑っている。
みほは口をつぐむ。ミカがチューリップハットをかぶり直す。
「まあ、いいんだ。今回はお手柔らかに頼むよ。お互い楽しくやろう」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
黒森峰のメンバーは直立不動を崩さない。指を揃えている。顎を引いている。かかとを付けている。胸を張っている。
継続はただ立っているだけだった。もぞもぞ動いている者が大半だった。ゆらゆらと頭が動いている。こそこそと小声で話をしている。
赤星は肩の力が抜けるようだった。緊張が解れていくようだった。敵が目の前にいることへの緊迫感が抜けた。練習時の張りつめた空気も落ち着きへと変化した。
自信がみなぎる。闘争心が掻き立てられる。無用な怯えが消え去る。平常心が緊張を取り除いていく。
自信――激しい練習が源となる。西住みほと共に厳しい練習に耐えた記憶が蘇ってくる。今立っているメンバーとの練習が記憶によみがえる。毎回の練習後のミーティングを思い出す。心配すべきことは何1つとしてないことを思い返す。
余裕が生まれる。
「それではこれより、黒森峰女学園対継続高校の試合を始める。一同、礼!」
日本戦車道連盟から派遣された審判員が真ん中に立って、互いの礼を促す。声を揃えて黒森峰は礼をする。継続高校も同じように――少しずれた礼をする。
試合が始まる。
**
黒森峰の森林はモミの木が多い。針葉樹林からなる森林は密度が高く、黒い。熊本の演習場は違う。シイ木のほか、灌木が山々を覆う。春の陽が山の湿気を炙る。サウナの様相を呈している。地面も湿っている。履帯の跡がくっきりと残る。
「位置につきました」赤星が言う。
「了解」みほが言う。
演習場には市街地/礫砂漠/森林地帯と様々な場所があった。試合会場は5km四方の森林だけだ。他の場所は別の団体が使用している――地元のチーム/西住流の道場のメンバー。
森林の地図は皆もらっている。みほにとっては、地図を見なくても殆どが把握できている場所だった。見慣れた山々だった。
等高線は複雑にうねっている。尾根と谷がいくつも並んでいる。途中には小川が演習場の外まで伸びている。特別演習で他のメンバーには地図の読み方を復習してもらっている。不安要素はない。
黒森峰と継続高校は互いに東と西の端に位置していた――開始地点。試合が始まってからはどう動くか分からない。
戦車が進める整地はなかった。登山道は試合の度に直されている――戦車が通ればロープは破れる。丸太は崩れる。灌木を避けて、高低差を地図で読み取りながら進むしかない。
高地も大した利点にはならない。広く灌木が植生する山――見晴らしが悪い。高いところに陣取れば、下から狙われかねなかった。上ではロクに仰俯角もつけられない。木々に隠れて相手を狙えない。
全周警戒しながら、前進する以外に道はなかった。それが一番戦車の性能を活かせる。重戦車で殲滅する。蹂躙する。
「全車、警戒しながら前進します。多少ズレてもいいのでパンツァーカイルを意識してください」
中央をみほのティーガーⅠが行く。両翼にはティーガーⅠが一両、Ⅲ号が1両。全てオリーブグリーンを吹きつけられている。森に紛れている。
どこから撃たれても反撃できるようになるべく固まる。定石。エンジン音が森のなかで反響する。木々に吸収されて消えていく。街よりも音自体は大きくならない。どこから聞こえているかが分かりにくい。相手も同じだとみほは自分に言い聞かせる。
エンジン音は自分たち以外聞こえない。谷に差し掛かるたびに、視界が悪くなる。平衡器が稼働する。
ルートは地図と記憶から引き出した動きやすい道を選んだ。極端に高低差がある道は選ばなかった――他のメンバーの実力を考えた判断。
尾根と谷が連続するルートは待ち伏せに最適だった。問題は走破できるかどうかだった。練習通りにやれば、問題ない。練習通り出来無いのが試合というものだった。慌てれば、余計な被害を生む。それが試合後にまで響けば、せっかくの練習試合の意味が無い。
練習試合でも勝利は目指すべきだった。みほはそれ以上にメンバーの士気を考えた。反省し、次に生かせる内容のほうがよかった。相手に負かされるのはいいが、自分たちのミスで負ける試合は作りたくなかった。
キューポラを開ける。周りを見渡す。首から提げた双眼鏡を使う。木々の隙間を注意深く観察する。地図にはない細かい段差を覗く。
エンジンが低い音をたてる。ぬかるんだ地面に履帯の跡がつく。
みほは地面も観察した――
「左翼、2号車と4号車は砲塔を左へ向けてください。警戒をお願いします。南側500m先に履帯跡がついています。全車45度左へ進んでください」
方向転換。練習通りにパンツァーカイルは乱れない。ティーガーの歩調にⅢ号が合わせている。左翼の2両は警戒を続けている。
「履帯跡は東へ続いています。おそらく背後に回りこんでいます」
4号車――Ⅲ号の車長が報告。履帯は1両分。起伏の激しい道を登坂した跡。開始早々一気に進んだと見て間違いない。
「1両だけ回り込んでいるようですね。エンジン音が聞こえないことから近くにはいないでしょう。相手を発見するまではこのまま相手の開始地点に向かって前進を続けます。残りの4両のほうが脅威になると思います。見えない車両にも注意を割いてください」
了解、と無線で応えが返ってくる。前進を続ける。パンツァーカイルは乱れない。
尾根と谷が続く。車両が揺れる。乗員の額に汗が浮かぶ。みほはキューポラから顔を出したまま、索敵を続ける。
10分、20分と時間が過ぎていく。敵車両の影すら見当たらない。時間だけが過ぎていく。汗が垂れる。首筋が汗で濡れる。目に入る汗を拭う。双眼鏡を持つ指が汗にまみれる。
太陽がのぼっていく。森が熱を溜め込みはじめる。雑草の腐った匂いが強くなる。くらくらするような熱気が渦巻く。
「全車、右に旋回してください」
会場の端ぎりぎりまで近づく。相手の開始地点までたどり着いた。敵の影はない。谷の終わり。上を向く戦車に合わせて砲の俯角を取る――砲が空を向くのを防ぐ。
車体を旋回。パンツァーカイルを維持。みほは右側を警戒した――旋回中の弱点。木々の隙間/谷の隙間――可能性のある潜伏場所を探る。
じっとりとした熱が首を這う。集中力をそぎ落としていく。研ぎ澄まされた戦意が刺激される。じれったさが這い上がる。
「北側100mに敵車両発見! こちらに砲塔を向けています!」
4号車――Ⅲ号の車長が無線で叫んだ。落ち着きがこの30分近い索敵で失われていた。興奮が無線越しにみほへ伝わる。
「落ち着いて対処しましょう。4号車は車体を相手に正対させてください」
ぬかるんだ地面を削りながら4号車が左へ向く。S字カーブを描く。エンジン音が大きくなる。砲手がハンドルを必死で回した。相手の戦車へ砲塔が向く。撃つ準備が整う。
相手が先に撃ってきた。木々が風圧になびく。森に砲撃音が響く。Ⅲ号の側部を抜ける。後ろの木々が吹き飛ぶ。泥が弾ける。無線で轟音が伝わる。カーボン越しでも外の音が聞こえる。
「大丈夫ですか!?」
「白旗上がりませんでした!」
T-26だ。500mではⅢ号に当てられなかった。
「撃てっ」
ほとんど同時に4号車が砲撃を開始。1発で相手に当たる。谷の隙間から覗く車体上部に直撃。轟音/白い煙が噴き出る。相手車両に白旗が上がる。
「撃破しました!」
4号車の車長が報告をする。みほが頷きかける。その瞬間にエンジン音が近づいていることに気づく――砲撃に紛れて近づく音。
「全車――」
指示を放とうとした。次の瞬間、
「4号車、やられました!」
砲撃の音が側部で響いた。車長の声がそれっきり聞こえなくなる。
「2号車、敵車両を確認。BT-42です。後方から2号車と4号車の間を抜けました!」
相手は本当に試合会場ギリギリに潜伏していたのだ――旋回できる距離程度を残した黒森峰車を見越して。
砲撃の音に紛れてエンジンを始動させた。接近を恐れなかった。敵は狡猾だ。恐れるべき相手だ。怯んではならない。
みほは/黒森峰メンバーは自身の慢心を感じた。最初の挨拶まで作戦の内だったかもしれない。相手は勝つ気でいる。黒森峰相手に一歩も引く気はない。
「2号車、まだ相手は見えますか?」みほが言った。
「谷に隠れて、方向が分かりません」2号車車長――赤星が答えた。
「4号車とT-26が相打ちになったのは相手の作戦だと思われます」
みほは前置きとして全員に伝えた。全員、周囲の警戒を怠らずに話を聞いた。森にはまた静けさが帰ってきた――不気味さを伴って。
「敵は、現段階でわたしたちよりドライビング・テクニックが高いと思われます。こちらは逆に、車両性能で上回っています。決して自分たちを過信しないようにしてください。尾根と谷で形成されている複雑な地形にもかかわらず、相手は姿を消しました。
恐らく相手は囮を使った待ち伏せ攻撃を展開するつもりのようです。1両ずつ互いに潰し合い、最後の1両はドライビングテクニックで翻弄し、叩く予定だと思われます」
敵車両は巧妙な連携を取っていた。無線で密な連絡を取れるのが第一。第二に正確なドライビングテクニックが必要だ。どちらも相手は備えている。
みほが率いるのは1年生だった。相手は1軍――少なくとも大会に出るメンバーを揃えているのだろう。
ここからは戦術がモノを言う。ティーガーⅠの射程が長くても、視界の悪い森林では意味を成さない。
「相手は密に連絡を取っていますが、車両自体は距離を置いていると考えられます。バラバラの車両を追い回し、連携を崩せば待ち伏せ攻撃の脅威は取り除けます。これから一列縦隊でルートを取り、再び東へ向かいます。待ち伏せと囮に注意し、連携して相手を叩きましょう」
パンツァー・フォーとみほは続けた。全員答えた。恐れなければいけない。怯んではならない。
茹でられたような熱気が森林に渦巻く。号車の若い順に並ぶ。尾根に沿って進む。徐々に山の頂上へ向かう。ぬかるんだ地面で鈍足になったⅢ号に合わせて進む。
葦の匂いが戦車内にまで伝う。鼻がガソリン/火薬/腐った葦の匂いで麻痺する。目に汗が入る。痛みでみほは目を瞬かせる。
ゲリラとの戦いのようだった。湿度と気温との戦いが始まっていた。時間が経つごとに、1年生メンバーの集中力は落ちる一方であることは明白だった。
相手は注意深く姿を隠した。エンジンの音は聞こえなかった。谷の隙間に砲塔は見えなかった。岩の影に車体は見えなかった。メンバーの苛立ちが募っていくのが目に見えるようだった。
みほは地図を見る。汗で紙がよれる。額に滴る汗を拭う。地図を凝視する。
「全車速度を緩めてください。エンジン音を抑えて、左側を警戒してください。ただし、砲塔を左へ向けないでください」
まだ敵は見えていなかった。みほは現れる確信があった。左は谷になっていた。必ず姿を現すと思った。
「2号車だけはすぐに左へ30度砲塔旋回できるように備えて、1号車の砲撃と同時に旋回してください」
頭の中で3カウント取った。1、2、3――谷側から1号車の側面が狙えるタイミングに入る。
「敵、BT-7が顔を出しました。1号車撃てっ」
みほは砲手へ告げた――全体には砲撃命令を出さなかった。みほの狙い通り1号車の砲塔照準眼鏡にBT-7が入る。顔を出したBT-7が激しく煙を吹き出す。谷を転がる。白旗が上がる。
「2号車、敵を発見! 撃ちます」
1号車が撃ったタイミングで縦隊右側の木々の影からKV-1が飛び出す。1号車の側面を狙っている。行進間射撃を狙っている――2号車が既に狙いを付けていることも知らず。
油圧式の旋回装置が相手の砲撃前に2号車の砲塔を回す。
KV-1が撃つ前に2号車がケリをつけた。木々をなぎ倒してKV-1が吹き飛ぶ。白旗が上がる。
「速度を上げてください。縦隊のままBT-7側の谷を下ります。これ以上この場に留まると危険です」
作戦は成功だった。じっと相手を探していた時間が報われた。戦車内は静かな歓喜に満ちていた。黒森峰の規範が大騒ぎを抑えていた。誰もが喜びに心を震わせていた。歓喜に頬が緩んでいた――みほを除いて。
みほはまだ戦いが終わっていないことを知っていた。喜びが士気を上げている間にカタをつけようと考えた――喜びが油断を生む前に。
次の指示を喜びが満ちる前に出したのも、考えての事だった。喜んでいる暇を作らせるわけにはいかなかった。気の緩みは禁物だった。
汗が滴る。拭う。髪が汗で張り付く。不快感に襲われる。集中して、余計な考えを振り払う――副隊長として。
谷を下って南下していく。ちょうど会場の真ん中辺り。地図と照らし合わせながら、自分たちの位置を頭に浮かべる。BT-7の履帯跡が南へ続いている。谷に沿って動いていたらしい。ドライビングテクニック頼りではない――地形を見て動いている。
「相手は待ち伏せ攻撃が見切られたことを知ったと考えられます。それに相手は相打ち覚悟の作戦では意味が無いので、一両ずつ倒そうとするはずです。乱戦になればこちらが有利ですから、今度は姿を見せずにこちらが相手の射程圏内に入った段階で攻撃しようとしてくるはずです。なので、わたしたちは敢えて動きます。相手の的になります」
動揺が広がった。4両のいずれの乗員も驚きを隠せなかった。みほの瞳は常に警戒を続けていた。爛々と輝いていた。戦う意志を見せ続けた。
「たとえ狙われても他の車両でカバーできます。2両で攻めれば相手は乱戦に持ち込むことになります。1両ずつ攻めても、必ず他の車両で相手を削れます。決して警戒を怠らず、相手車両の発見に努めてください」
了解、と全車車長が応答。みほの意思が皆に伝わる。戦意が結果ではなく、これからの戦いへ向けられる。
みほは頷きながら、双眼鏡を覗く。熱が森林に垂れ込める。じっとりと汗をかく。下着が肌に張り付く。暑い空気が身体を内側から熱する――呼吸する度に。
3両のティーガーⅠと1両のⅢ号が谷を沿って、南へ下る。
「ここから、元来た道へ入ります。恐らく、この先に残り2両がいるはずです」
試合開始直後に通った道――履帯跡が5両分。ここからさらに南下――敵車両の跡を追いかけた跡が残っている。
ここからは最初の履帯跡に沿った。谷と尾根の間――緩やかな傾斜を降りていく。索敵しやすい/索敵されやすい。
各車左右を確認した。谷に潜む砲塔を見つけようとした。尾根に隠れた戦車を探ろうとした。木々に潜む戦車を暴こうとした。岩陰に身を隠す戦車を発見してやろうと意気込んだ。
それでも継続高校は残り2両に軽率な行動は取らせなかった。
張り付く緊張感が森林を覆った――ゲリラとの戦いのように。撃破で上がった士気が持久戦を支えた。
「そろそろ開始地点に戻ることになります」
みほが再び指示を出し始めた。既に開始地点までの距離は200mを切っていた。十数秒で旋回が始まる――隙が生まれる。
「旋回中に相手は仕掛けてくると思います。ですから、旋回中が勝負になります。練習を思い出して常に冷静さを失わないようにお願いします。……では旋回してください。1、2号車は左向き、3、5号車は右向きに旋回、散開します」
開始地点より前に旋回。3号車は5号車――Ⅲ号に速度を合わせる。旋回で速度落ちる。エンジン音が小さくなる。周囲の音が聞こえやすくなる――微かに敵車両のエンジン音が聞こえた。
右手――北側の尾根からKV-1が顔を出す。
「1号車が壁になります。2号車は砲塔を右に回転させてください」
1号車が砲撃。KV-1と同時に砲火が上がる。KV-1の砲撃が2号車を抜く――1号車の側面に付いているはずの2号車が速度を合わせられなかった。KV-1と2号車が同時に白旗を上げる。
「1号車はKV-1の尾根に向かいます。3号車と5号車は――」
命令途中に最後の1両が現れた。KV-1の真後ろ――煙のあがったKV-1の影からBT-42が顔を出す。今までバラバラに動いていたからこその奇襲。
「――撃って!」
みほは咄嗟に命令を下す。すでにKV-1を撃った後――装填が間に合わない。キューポラから顔をひっこめる。
砲撃が鳴り響く。戦車が吹き飛ぶ――
BT-42が。
3号車と5号車が砲撃。互いに後ろの戦車が砲撃する形。1号車の白旗が上がる。同時にBT-42の白旗が上がる。
『継続高校チーム、全車両走行不能。よって、黒森峰女学園チームの勝利!』
**
ヘリの中は静かな熱気に包まれていた。試合に意識を飲み込まれていた。黒森峰の貪欲な勝利に対する姿勢に興奮していた。
「すごい……」
逸見がラダーペダルとサイクリックピッチを操作する。無線に耳を傾ける。ホバリング中のヘリが揺れる――誰も気にしない。無線に聞き入る。眼下の光景に見入る。
「やっぱり副隊長は強いのよ……どう逸見さん?」
中舎の心臓が跳ね上がる。喜びで笑みが溢れる。痛みと喜びが調和する――平衡を保つ。叫びたくなる。衝動を抑える。拳を握りしめる。腕が震える。血液が止まる――白くなる/血管が浮き出る。感覚がなくなる。喜びに打ち震える。
「今のわたしじゃ絶対敵わない……です」
ヘッドセット越しに逸見が言葉を返す。震えている。ヘリの操縦による緊張ではない。本物の強さを見た者の震え。
「まあ、だからここにいるんじゃないかな」ジャージが言う。
「でも、わたしも強くなりたいですね」
「じゃあ練習しないとね。ヘリじゃなくて戦車の方を」
逸見のグループは戦車に乗る練習は少ない。0ではない。逸見は可能性を捨てない。諦めない――中舎はそれに気づかない。
「今のわたしは副隊長には及ばないです。もっと練習しないと追いつけません」
追いつけない――追いつくつもり。今は追いつけない。眼下で戦った1年生グループは黒森峰の精鋭だ。逸見はそこに入っていない。入るつもりでいる――中舎は気づかない。中舎は興奮している。中舎と逸見は違う――中舎は気づかない。
「あなたは、同じ1年だなんて、言うべきじゃなかったわ」
中舎のつぶやき。逸見の耳には入らない。逸見も興奮している。ヘリが風に煽られる。ホバリング中のヘリが揺れる――誰も気にしない。
逸見は黙っている。中舎もまだ興奮が抑えられない。笑みが抑えられない。拳を握りしめるのが抑えられない。痛み/喜び――等しい感覚。
中舎は気づかない――逸見が「今の」と言ったことに。逸見は崇拝しているわけではないことに。
中舎は喜んでいる。震えている。痛みを味わっている。どれも幸福に繋がっている。副隊長の勝利に酔っている。副隊長に惹かれている。勝利をもたらす「西住」に惹かれている。勝利の代名詞たる「黒森峰」に惹かれている。
ヘリはぐるぐる回っている――いずれ降りていく。
**
練習試合があった日でも練習はある。戦車は整備で使えない。使わない練習をする――反省会。
みほは部屋で今日の練習を反芻する――まだ戦譜は出来ていない。
自分の判断にミスはなかったか/他のメンバーにミスはなかったか/相手から学べることはあるか。考えることはたくさんある――時間は少ない。
夕食の時間が近づく。食べている暇はない。資料をかき集める。過去の似た戦譜を探す。今日の会議に使えるか検討する。5両の殲滅戦は意外と少ない。資料探しが難航する。
ノック。部屋の外に客。
「入っていいか?」
まほの声。隊長の声。みほは脱いだPJを椅子からハンガーへ移す。シャツのボタンを閉める。スカートのホックをつける。乱れた髪を整える。
「どうぞ、隊長」
みほが背筋を伸ばす。立ち上がる。礼をする。隊長へ敬意を払う――姉としてではなく。
「副隊長、今まで何を?」
柔らかい声音。ソファに座る。冷めたコーヒーを手に取る。マグカップのふちに乾いた跡がついている。
「今日の反省会の資料を探していました」
まほは座っている。みほは立っている。
「なるほど……今日は大変だろう。終わった後の反省会は戦譜なしには出来ないだろうから、今日の練習時間は休むべきだ。明日の時間を使えばいい」
正しい提案だった。無理に効率の悪い反省会をするのは時間が勿体ない。
みほは少し引っかかりを覚えた。なぜ分かっていて練習の時間が組まれているのか。
「……何で今日練習が組まれていたんでしょうか?」
「毎年恒例なんだ。みほも来れば分かる。夕食の時間だから、食堂へ行こう」
まほは何も説明しなかった。ソファから立ち上がる。コーヒーをシンクに捨てる。手を洗う。ハンカチで拭う。水を一杯飲む。みほは背筋を伸ばして立っている。まほが手を伸ばす。
みほは手を見る。それからまほの顔を見る。
微笑んでいた――隊長の顔。副隊長を労う顔つき。
「はい」
まほと2人で部屋を出る。食堂は寮内にある――4月中旬に開放された。家政科の1年生がルールを覚えた。
廊下にはまばらに人がいた。大多数が食堂へ向かっていた。
食堂に近づくにつれ、喧騒が大きくなっていく。声が漏れている。普段よりも大きい声。休日だからかもしれないとみほは思った。それ以外のことがあまり浮かばなかった。頭の中は練習試合の反省でいっぱいだった。
下を向いて歩く。まほの背中を見ながら歩く。前を見ないで歩く。両開きの扉――食堂入口まで歩く。喧騒は大きい。雑談の内容は聞き取れない。
まほが扉を開ける。その後ろをついていく。ようやく大きな声が休日だからではないことに気づく。顔を上げる。食堂を見渡す。
「――今日の勝者のお出ましだ!」
いつの日かの割烹着が大声をあげる。食事中の生徒が立ち上がる。声を上げる。歓声をあげる。口笛を吹く。拍手喝采。そこらじゅうでビールジョッキが乾杯される。
お祭り騒ぎ。皆、賑やかに騒いでいる。勝利を祝っている――継続/BC自由との練習試合の結果。
「黒森峰の手作りビールだ。みほも飲んでみるといい」
いつの間にかまほはジョッキを持っていた。みほに1つ渡す。大きい。初めての感覚。みほは言われるがままにジョッキをあげる。歓声が最高潮に達する。騒ぎ声が外まで響く。拍手が鳴り止まない。口笛が鋭く響く。
同じF-1メンバーを見つける。先輩に囲まれている。みんな笑っている。みほと目が合う――赤星。丁寧に頭を下げる/はにかんだ笑みを見せる。みほも笑みを返した。
乾杯の音頭をまほが取る。一斉にジョッキを皆持ち上げる。
「黒森峰の勝利に、乾杯!」
プロースト! と食堂に声が反響する。一斉にみんな飲む。テーブルには頼んでもいない料理が並んでいる――家政科も承知の上。
ライ麦パンが大皿に乗っかっている。シュバイネブラーテンの濃いソースの匂いが立ち込めている。エアプセンズッペが湯気を立てている。
黒森峰は勝利に寛容だった。上下に厳しかった。隊長/副隊長に馴れ馴れしく声をかける下級生はいなかった。疎外感を感じるべきことではなかった。まほにもみほにも敬意が払われていた。尊敬の意が込められていた。
皆が話しているのを眺めた。先輩と敬語で今日の話をした。みほにとっては初めての経験だった。それが黒森峰の礼儀だった。
みほも他のメンバーに敬意を払っていた。互いに信頼できる関係だった。
会話はなかった。それでも信頼しあう仲となった。
喧騒が黒森峰を一体感に包んだ。勝利を御旗に一丸となった。
食堂の明かりが外へ漏れる――いつまでも。騒ぎが続くまで。