過去森峰の話   作:725404

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練習、始めます!

 赤星はもうD101の場所を覚えていた。エアコンがある。窓もある。廊下との兼ね合いから風通しはよくない。講義室ほど開かれた形ではない。黒板は大きい。天井の明かりはLED。床は板張り。4月。まだワックスの匂いが残っている。床にはガムの跡1つなかった。

 入学2日目。新入生テスト/身体測定――大忙し。

 厚い生地の制服の下でじっとりと熱がたまる。赤星は隣の席になった友人たちとD101へ向かった。昼から新入生たち向けのオリエンテーションがある。練習はまだ先だった。戦車もまだ先にあった。ティーガーはまだ目にしていなかった。先輩のPJ姿もまだ見ていなかった。全てまだ遠い向こう側にあった。地に足がついた感覚は身体測定では得られない。

 

「出席番号で一番若い人がクラスの人数確認をして、わたしに報告してください」

 

 座った途端、前に立った風紀委員が告げる。再び立ち上がる。級友との雑談をやめる。D101に静けさが満ちる。赤星と同じあ行の生徒たちの足音だけが響く。風紀委員はだんまり。何かを待っていた。時計を確認していた。

 

「36人。揃ってます」

「はい」

 

 きっちり8クラス。8回同じようなやり取りが繰り返される。赤星は自分の席に座る。固い木の椅子。時間が経つまで皆黙って待った。黒森峰の風紀を乱す気は誰もなかった。風紀委員の目を恐れた。

 チャイム。ドアの開く音。全員が起立する。椅子があがる。スプリングが軋む。横長のテーブルと一体となった椅子。全員が挨拶をする。音が混ざる。雑念としたやかましさ。それから沈黙。壇上の女性の言葉を待っていた。

 西住隊長。

 

「座っていい」

 

 全員が座る。また椅子の軋む音。息を吐く音。声は聞こえなかった。誰も声は発さない。規律の大事さをわきまえている。黒森峰の校風を知っている。

 

「今日から1年生には練習に参加してもらう。その前に練習の割り振りと、それぞれの練習の説明をさせてもらう。そしてその前に、今日の連絡事項の伝達もする。沙美、黒板を頼む」

 

 短い応答。

 

「最初に連絡事項からだ。1つ、寮内で消灯後も騒がしかったと苦情がある。1年生はまだ慣れないだろうが、団体行動ではルールを守らなければ人に迷惑をかけることになる。くれぐれも注意してくれ

 次にこれまた苦情だ。入寮時の荷物に生き物を持ち込もうとした者がいた。基本的に寮内はペット禁止だ。よく寮の手引を読んでおくように。これらは寮生向けの連絡事項だ。寮住まいではない者はこれからの話をよく聞いておくように」

 

 隊長は紙を片手に持っていた。全部連絡事項をまとめていた。全部管理しようとしていた。全部掌握しようとしていた。1年生には緊迫した空気が張り付いていた。風紀委員は隊長の後ろでひたすら黒板に板書をとっていた。

 最前列の赤星はチョークの匂いを嗅いだ。支配の匂い。緊張の匂い。これからミーティングの度に嗅ぐ匂い。

 

「最後の伝達事項だ。再来週、1年生を主体としたチームで継続高校と練習試合を組んだ。メンバーを発表するので呼ばれた者は副隊長の指示に従うこと。では名前を呼ぶ。赤星小梅、浅見――」

 

 赤星は脳みそを穿たれた。頭をバットで打たれた。激しい興奮で動悸が止まらなかった。脈拍が上がる。頬が紅潮する。自然と口角が上がる。整えた眉が持ち上がる。

 連絡――練習メニューの説明。全員の名前を発表された後に説明が始まった。継続高校との試合の指揮は副隊長が取る手はずになっていた。練習は一部別メニューになると言われた。

 練習――体力をつけるためのランニング/戦車を使った走行訓練/練習弾を使用する演習/実弾を使用した演習/小規模な戦車部隊を組む模擬試合/試合中の戦車修理の訓練。全てにおいてその後のミーティングがセットだった。

 1年生は小さなグループに分けられた。AからLまでの名前がつけられた。1グループ25名。1年生のAグループはA-1グループとなった。

 グループ単位で別々の練習が組まれる。カレンダーの縦が練習メニュー/横が日付/マスの中にはグループ名――配布された資料。

 説明――グループの順番に意味はない。AからLで差別はない。3年間でグループは何度も変更が加えられる。徐々にグループごとにルールが増えていく。

 最初のルール――練習試合に出るメンバーは1グループに固めた。通常練習に加えてグループリーダーによる特別演習時間が与えられる。練習試合までの間、特別演習をこなすこと。

 全員が黙って聞いていた。ひたすらメモを資料に書き込んだ。自分のグループを確認した。資料の一番後ろにグループが載っていた。

 赤星はFだった。西住みほもFだった。Fのリーダーは西住みほだった。Fが練習試合のメンバーグループだった。笑みがこぼれる。資料を掴む手が汗ばむ。熱心に説明を聞く気持ちが湧いてくる。

 Fのメンバーを何度も確認する。西住みほの名前を指でなぞる。口の中でメンバーの名前を唱える。一番上に書かれた名前だけ2度唱える――西住みほ。

 西住みほに仕える――勝利に貢献する。練習試合が楽しみになる。気持ちが高揚する。興奮がせり上がってくる。

 

「――これで説明は終わりだ。今日の訓練の確認を各自すること。明日からは1年による全体ミーティングは行わないから直接練習へ向かうように。質問がある者は?」

 

 誰も手をあげなかった。まほがファイルをまとめる。小脇に抱える。壇上を下りる。後ろに風紀委員がつく。部屋を出る。扉の閉まる音。

 空気が弛緩する。ようやく緊張がほぐれる。途端に椅子から立ち上がる音/雑談を始める声/荷物をまとめる音がたつ。部屋が喧騒に満ちる。次の訓練開始時間まで30分ほどあった。

 赤星は目で西住みほを探す。見つからない。

 茶髪は目立たない。プラチナブロンドは目立つ。横で爪を噛んでいる。横の子はFに名前がなかった。

 

 

 **

 

 

 D101は大きい。F301は小さい。第一資料室が移動になった代わりに空いた教室。埃っぽい匂いが満ちている。木の床がきしむ。黒いガムの跡が消えない。くすんだガラス。かびの生えた窓枠。湿った空気。淀んだ空気。

 中舎がファイルを整理する――戦譜。何十年分もの試合記録。前半の方は紙が黄ばんでいる。字が滲んでいる。古ぼけた匂いがする。

 中舎は今D-3グループだ。前はGグループだった。Gは試合に出るレギュラーだけのグループだった。Dにはレギュラーがいない。中舎もレギュラーではなかった。

 黒森峰には明確にレギュラー、という区分はない。試合に出る前に出場メンバーがグループ単位で呼ばれる。試合ごとに出るグループが変わることもある。試合に出す戦車によってメンバーを選ぶこともある。

 それでも全然試合に出ないグループは出てくる。試合によく出るグループも出てくる。戦車の整備を中心としたグループ/試合に出るグループ。戦車に乗らないグループ/戦車に乗るグループ。試合に出ないグループ/試合に出るグループ。

 レギュラーが正確に決まっているわけではない。試合に出ると決まっているグループがあるわけではない。それでもレギュラーと控えはある。明文化されていないだけだ。

 中舎は整備のグループ=D-3に回された。整備ができるわけではなかった。グループ間での役割分担は、ほとんどが1年の後期あたりに決まっていた。整備グループDは皆、整備ができた。平衡器の直し方を知っていた。エアクリーナーの掃除の仕方を知っていた。戦車を知っていた。

 中舎は知らなかった。何も分からなかった。今まで自分が乗ることばかり考えていた。整備の事は知らなかった。

 仕事を割り振るグループリーダーは頭を抱えた。中舎は縮こまった。痛みを覚えた。心臓が握りつぶされる。顔面が青くなる。瞳が乾く。瞬きを忘れる。

 結局、戦譜の整理を任されることになった。ほとんど何もない仕事。訓練をすることもできない。戦車に乗れない。黒森峰にも貢献できない。

 ファイルを持つ手が震える。胸に痛みが走る。

 扉が叩かれた。

 

「ちょっといいか?」

 

 西住まほの声。震えが止まる。痛みが収まる。瞬きする。服を整えた。呼吸を整えた。髪を整えた。

 

「どうぞ」

 

 扉が開く。まほが入ってくる。ファイルを持っている。後ろに風紀委員がいる。教室の前で立っている。扉が閉められる。まほと中舎だけになる。

 手にしたファイルを机に置く。頭を下げる。45度。微動だにしない。

 

「頭を上げていいぞ、深月」

 

 中舎は頭を上げた。「ありがとうございます」

 まほは部屋を見渡した。棚に目を走らせた。古い紙の匂いが漂う。時代の流れの匂いが漂う。

 

「ここは……資料室か」

「はい。昔の戦譜ですね」

「なるほど。入ったことはないが……保存状態はあまり良くないな」

「昔のものですからね。新しいものは第一資料室の方へありますよ。ここにある戦譜の大半はカーボンが使用される前のものです」

「それは確かにこんなところに置くしかないな」

 

 まほが資料を一部取り出す。匂いを嗅ぐ。ページをめくる。

 

「丁寧な資料だ。わたしたちもこんな風に未来へ残さなければいけないな」

「その通りですね。隊長のおっしゃる通りです」

 

 まほが部屋を回る。窓を開ける。窓枠がきしむ。グラウンドの匂いが部屋に入る。風は通らない。

 

「そうだ、戦譜を作らなければいけない。深月も分かるだろう?」

「ええ」中舎が言った。

「戦譜がどうやって作られるかは知っているか?」

 

 突然の質問。中舎は一瞬言いよどむ。すぐに唾を飲み込む。喉を鳴らす。答えを言う。

 

「ヘリで上空から会場を見渡し、地図に書き込みます。無線は全て記録し、後でファイルへ資料として挟みます。地図への清書を済ませて、1つの戦譜が完成します」

 

 試合の監視は全日本戦車道連盟もしていた。それでも細かい部分は、実際に戦車の運用をする学校にしか分からない。そのためヘリを出していた。黒森峰は過去から学ぶことで常に強さを維持してきた。戦譜は最も大切な手立ての1つだった。

 なぜその話を今するのか――

 

「ヘリの搭乗員が1人欲しい。もし、今の仕事に暇があるなら手伝ってもらいたいんだ。頼めるか、深月」

 

 まほの声は重々しかった。告白は痛みだった。中舎は呼吸すら苦しさを感じた。

 整備グループからも仕事を任されない。戦車にも触れない。

 それでも戦車を夢想していた。戦車に乗れる機会を伺っていた。

 ヘリは中舎を戦車から遠ざけた。高校3年生。大会前。戦車から離れる。

 それがどういう意味か中舎は知っている。自分がどういう道を進むか知っている。

 大会で戦車に乗ることはできない。

 

 

 **

 

 

 夕食はまだだった。夕食後にも訓練はある。夜間走行訓練をするグループもある。ミーティングを食後に予定しているグループもある。

 みほは特別演習をFグループのために用意していた。割り当てられた教室で1人地図とにらみ合い。時間まではまだ十数分あった。皆夕食を食べていた。みほだけは食べていなかった。時間がなかった。

 演習をやるようにと言われたのは昨日だった。夜に姉の部屋で告げられた。初日だから特にやることはないだろうと思っていた。黒森峰は予想以上にハードだった。練習自体は家よりも楽だった。問題は人の多さだった。まとめるのは難しかった。1年生の名前は全て把握していた。グループメンバーの資料は頭に浮かんだ。それでもまだ足りなかった。

 今日の演習をまとめる。走行演習。B-2、G-3と合同訓練だった。走行演習前にポジションを決めておくのはリーダーの仕事だった。頭の中の資料を頼りに皆を配置する。車長、砲手と選んでいくうちに不満そうな顔を浮かべられた。上級生はみほを見ていた。見定めようとしていた。目が怖かった。

 みほはあくまで屹然とした風に装った。姉を参考にした。母を参考にした。真似にしかならなかった。頭を少し上げると、地面が疎かになる。転けそうになった。誰も笑わなかった。

 演習中は全員と連携が取れた。針葉樹林の多い人工の森をパンツァーカイルを維持したまま抜ける訓練。

 事前に確認した地図から進路を決定する。地図では分からない樹木を避ける。重いアニマルシリーズを腐葉土で走行する。課題はいくつもあった。

 1年生の5両は2、3年生に遅れを取った。遅れ自体は問題ではない。どれだけ遅れたかが問題だった。今日中にレポートをまとめて、全員に改善点を配布する。そこまでがグループリーダーとしての仕事。

 それから特別演習のことも考えなければいけなかった。特別演習は練習試合を臨むメンバー向けの時間だった。申請すれば戦車も使えた。教室も貸してもらえた。時間だけが与えられた。それ以外は自由だった。

 副隊長向けの課題ということだった。まほ抜きでどこまで練習をできるか。1年生を育成できるか。みほに向けた演習に他ならなかった。手を抜くことはできなかった。

 過去の演習を資料室から持ってきた。資料室への資料請求の方法を聞くところからだった。資料室の管理は3年生の一部の管轄だった。資料室の鍵と資料室責任者の管轄は風紀委員だった。許可を両方から得た。過去の演習の資料がどこにあるかを探すのに手間取った。本棚の上の資料を取るのにも手間取った。梯子を探すのに10分も使った。

 当面必要な資料は得た。複製不可の資料が7つ。持ち出し厳禁の資料は持ち出せなかった。過去の戦譜の一部は複製/持ち出しが厳禁だった。いずれも負けた記録。負けは貴重な経験だった。資料としての価値は高い。一通り目を通して、要点をメモ帳へ書き込んだ。

 資料室から出る際、メモ帳は取り上げられた。一部複製と見なされた。一度目だから許された。資料室はかなり厳しい。みほは気落ちした。風紀委員は気にした風も見せなかった。

 みほはとりあえず持ち出せる資料だけ確認した。練習試合は5両同士の殲滅戦。黒森峰としてはもっと大規模な試合がしたかった。継続高校にその体力はなかった――大会直前。

 練習試合のルールと似た戦譜を手に入れた。いずれも勝利に終わっている。試合後のミーティングも資料に含まれている。かつての隊長の名前と戦車メンバーが記入されている。手書きのボールペン字。にじみがひどい。新しい物になるとパソコンで作られていた。7つのうちボールペンで会議議事録が書かれているのは3つ。いずれも1970年台。母の時代よりも前――

 間違えた。

 3つの資料――全て試合は模擬弾で行われている。ペイント弾で試合を行なっている。

 理由――カーボンがまだなかった。試合のやり方もぜんぜん違う。資料にならない。

 みほは頭を抱えた。もう特別演習まで10分を切っていた。

 

「みほ、いるか?」

 

 扉が空けられた。風が抜ける。髪がなびく。耳元がくすぐられる。思わず振り返る。

 

「お姉ちゃ――隊長?」

「ぎりぎりだな。まあ、わたしが皆を下の名前で呼ぶのが紛らわしいんだろう」

 

 まほがレジ袋を持って教室に入ってきた。袋の中身を教壇に出す。サンドイッチ/おにぎり/お茶。まほがみほを見て笑みを浮かべる。

 

「これ、わたしに?」

「夕飯はまだなんだろう?」

「うん」

「じゃあ食べるべきだ。演習の時間に腹が鳴っては舐められるぞ」

 

 まほが笑う。みほも笑った。サンドイッチを手に取る。包装を剥がす。レタスとハムの感触を楽しむ。お茶で喉を潤す。おにぎりを頬張る――昆布。

 

「美味しいよ、ありがとう」

「みほのためだ。気にしないでいい」

 

 まほがレジ袋にゴミをまとめた。教室にゴミ箱はなかった。そのまま立ち去ろうとしていた。みほの夕食のためだけにまほは動いていた。

 みほが後ろ姿を見る。まほの背中を眺める。黒い髪を見つめる。きっちりと校則を守った制服を見る。

 

「待って、隊長」

 

 まほが振り返る。片手のレジ袋が揺れる。

 みほが笑う。手招きする。まほが近くに寄る。

 

「最近、ちょっと寂しいんだ」

「すぐに慣れる」

 

 まほがみほを抱きすくめる。肩に頭を預ける。

 

「ちょっと練習試合って大変だね。今まで家の人達に手伝ってもらってたこと全部自分がしなきゃいけないし」

「ああ、そういうものだ。いずれ慣れる」

 

 まほは当然のこととばかりに返した。

 

「荷が重いなあって思っちゃうや」

 

 えへへ、とまほに抱かれたままみほは笑った。すぐにまほが身体を突き放した。突然温かみが失われた。手持ち無沙汰の腕が宙ぶらりんになる。資料が床へ落ちる。レジ袋が床に落ちる。まほの足音が後ろへ下がる。

 まほの目が冷たさを湛えた。みほは射すくめられた。身を縮めた。まほの突然の拒絶。胸のどこかにすっぽりと穴が空いた。

 

「副隊長の自覚を持つんだ、みほ」

 

 分かったな、と念押しされた。無意識に頷いていた。

 みほは気づいた。求められていたのは友達作りでも姉離れでもなかった。

 姉妹ではなく、隊長/副隊長の関係。上司/部下の関係。

 まほが立ち去る。扉が閉められる。窓の外が暗闇に染まる。夕食の時間がすぎる。学食が閉まる。

 特別演習の時間が来る。

 

 

 **

 

 

 特別演習は通常練習の反省会だった。赤星は終始メモを取っていた。副隊長の言葉は一つ一つが重要なことのように思えた。

 終わったのは22時。消灯1時間前。これからはもっと時間を切り詰められると言われた。もっと密度を高めると言われた。皆、返事はイエスだった。本心は恐れていた。これ以上密度の高い座学なんて、思いつきもしない。

 赤星は外から部屋の窓を見た。明かりが点いていた。誰か居ると分かった。誰なのかも見当がついていた。帰る足が重かった。目を逸らしたかった。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ」

 

 中舎がいた。赤星は呼吸を置く。頭の中から言葉を探る。準備した言葉を一息に口にしようとする。

 

「あのですね――」

「気にしてないわ。全然、大丈夫よ」

「え?」

「だから、気にしてないって。わたしを1年生って勘違いしてたことでしょう?」

 

 中舎は掛けていたメガネをデスクへ置いた。デスクには教科書とノート。勉強中。

 

「そうですね。でも、それも申し訳なかったんですが、もう1つ……副隊長の――」

 

 眼光は鋭かった。緊張が部屋に満ちた。中舎は自分の腕を撫ぜていた。瞳は赤星を見ていた。黙れと言っていた。言葉はいらなかった。

 

「何も気にしてない」

 

 中舎が深呼吸する。

 

「何も気にしてない」

 

 2回言った。赤星も2回頷いた。中舎も2度目は頷き返した。足を組み直して、デスクに腕を置く。

 

「それより、選抜入りおめでとう。掲示板で見たよ」

 

 掲示板――昇降口前に置いてある連絡表。教師ではなく、基本的に学生の共同連絡に使用される。練習表も貼ってある。月間予定表も貼ってある。誰もが1日に一度は目にする。

 その掲示板に練習試合の選抜メンバーが記されていた。赤星は知らなかった。中舎は足を組み直した。そこまで長くない足が宙ぶらりんに垂れ下がる。ベージュのパジャマが揺れる。

 

「ありがとうございます。頑張りたいと思ってます」

「それはまあ、わたしに言わなくていいんじゃない」

「決意表明みたいなもの、ですかね」

 

 赤星が頭をかく。

 

「まあ、勝てば良い待遇になるわよ。もしかすると今年の大会に出れるかもしれないし」

 

 中舎はボールペンを指先でいじる。グルグルと回す。赤星を見ている。

 

「もしかして、先輩も経験が?」

 

 赤星が中舎を見る。笑みを浮かべている。

 

「まあね。去年もやってたし、多分有望な1年を試すってことで毎年恒例みたいよ。わたしの代はBC自由とやったわ」

「結果はどうでした?」

「勝ったわよ。黒森峰は負けることを許さない。必ず勝つ。たとえそれが1年であってもね」

 

 赤星は緊張で目を瞬かせた。中舎は言葉を続けた。

 

「大丈夫。だって今年も1年生には”西住”がいらっしゃるのよ。必ず勝利に導いてくれるわ」

 

 それに、と中舎が続ける。

 

「勝てば上に行けるわ。わたしが副隊長になれたみたいにね」

 

 中舎が笑った。赤星は固まった。バッグを持つ手が痛かった。座っていいのか――動いていいのか分からなかった。中舎の目を見た。

 

「冗談よ。笑ってもいいのよ、惨めだなんて、思ってないから」

 

 

 **

 

 

 金属パイプはひんやりとしていた。ベッドの端は壁とともに冷えていた。端によれば熱はこもらなかった。

 消灯して既に30分以上経っていた。明かりの落ちた部屋には赤星の寝息だけが聞こえた。中舎は息をするのも辛かった。静かに息を吸い込む。目をつぶって羊を数える。寝付くことはない。

 頬をベッドの金属パイプにすり寄せていた。静かな冷たさが伝わっている。考えがまとまりかける。眠気はやってこない。

 赤星の方を見る。カーテンで仕切られて見えない。月光が赤星側の影を落とす。ベッドの影。デスクの影。変わったところは1つもない。

 音を立てないようにシーツをはぐる。身体を起こす。痛みに耐える。

 ゆっくりとスリッパを履く。冷蔵庫に忍び寄る。冷蔵庫――中舎の私物。個人用。腰ほどの高さまでしかない。

 開けるときが一番大きい音が出る。片方の手で抑えながら開ける。光が溢れる。素早く欲しいものだけ取り出す。

 缶コーヒーだ。

 毎日買うのは面倒だった。小遣いで毎日買っていれば、すぐにお金がなくなった。親に頼むと、ダンボールで送られてきた。単価は安い。置き場所に困るけれど、そこさえ目をつぶれば問題はなかった。好都合だった。好きなときに缶コーヒーを飲めた。

 シーツに缶コーヒーと腕をつっこむ。汚さないようにゆっくり開ける。くぐもった開封音。

 ベッドに腰掛け、コーヒーに口をつけた。甘い味。苦い香り。ジュースのような味だった。

 コーヒーで、頭がますます冴えた。明瞭になることはなかった。考えることは多かった。まとまることはなかった。いつも昔のことばかり考えていた――春休みの一戦。

 敗北は大きかった。黒森峰に入って久しい経験だった。自分の前に”西住”がいない試合は久しぶりだった。勝利するときは、必ずと言っていいほど西住まほに支えられていた。西住の実力が勝利へと導いていた。

 今までの勝利を反芻する――全て西住まほによって支えられた勝利だった。いつだって、勝利に導いたのは西住まほだった。貢献したことは幾度もあった。それでも勝つのは、西住まほあってのことだった。

 自分が勝っていたのではない――西住まほが勝っていたのだ。西住みほとの練習試合はそれを浮き彫りにした。

 西住みほは強かった。西住まほも強かった。どちらも中舎より強かった。それが痛みを与えた。

 コーヒーを飲む。手が震える。目がチカチカと痛む。胃を押さえる。吐き出しそうな気持ちを抑える。喉の震えがコーヒーを拒む。無理やり飲み干す。

 無理やり痛みを抑える。

 西住まほは強い。西住みほも強い。”西住”は強い。黒森峰も強い。中舎は弱い。

 それでもやれることがあると中舎は思った。ヘリはチャンスだと信じる。戦車に乗らない貢献もあると信じていた。

 コーヒーを飲み干す。口内がべたつく。もう一度、歯を磨いた。フロスで隅々まで磨き直す。

 夜が更ける。月光が部屋を照らす。カーテンが揺れる。

 

 

 **

 

 

 消灯した部屋。広い部屋。静かな部屋。

 みほはベッドの中でうずくまっていた。目は開いていた。カーテンを見つめていた。寝付けなかった。

 特別演習は成功した――かろうじて。同級生相手に母から習ったことを繰り返した。上級生には通用しない。明日からはもっときっちり考えなければいけない。まだ考えていない。書類もまとめていない。資料の整理だけした。消灯時間が過ぎて、ベッドに入った。

 残りは明日の朝しようと思っていた。寝付けなかった。身体の芯に冷たい針を撃ち込まれた――隊長から。自分が変わることを望まれた。

 背中が汗ばむ。パジャマが張り付く。余計目が覚める。

 立ち上がって、明かりをつけた。

 流麗なシャンデリア。LEDのすっきりとした明かり。ガラス細工の僅かな陰影が壁に映る。みほ自身の影も壁に映る。

 デスクに座る。写真立ての横にあるボコを手に取る。小さな手乗りサイズ。背中に洗濯表示がついている。ブランド表示もある。安物。

 ボコの感触を確かめる。握ると反抗的な抵抗がある。何度も握ると考えが浮き上がってくる。目が冴えている理由が浮かび上がる。

 仕事が終わってない。

 これだけだ。明日にでもやれる。今日寝る前にやる必要はない。それでもやりたいと思っている。

 デスクに資料を広げる。紙の匂いが広がる。書類ばさみがパチリと音を立てる。ファイルの留め金を外す。気持ちのいい音。

 筆箱からボールペンを取り出す。新しいルーズリーフをデスクに置く。目が冴える。手が動く。

 茫漠とした気持ちにケリをつけられる。姉――隊長が何を求めていたのかを理解する。

 副隊長。それがみほの立場だ。妹ではない。

 姉は初日からずっと自覚を促していた。自分は避けていた。姉に甘えようとしていた。隊長はそれを許さなかった。隊長という立場が、副隊長としてのみほを求めた。

 みほの部屋は消灯時間を過ぎても部屋に明かりがついていた。点けることができた。誰にも咎められることはなかった。

 時間が過ぎていく。仕事が片付く。過去の戦譜の要点をまとめる。前回の練習の反省点/改善点をルーズリーフにまとめる――人数分コピーする。コピー機は部屋の端に置いてあった。

 静かな夜にコピー機の唸り声が響いた。カーテンが揺れていた。

 

 

 **

 

 

 今日は車長だった。昨日は操縦手。赤星は興奮した。車長になりたかった。目標が叶った。1ヶ月足らずで黒森峰の車長。ただの練習でも興奮せずにはいられなかった。

 コンクリートの地面。戦車の熱。生ぬるい風。PJだと暑かった。汗が脇腹を伝う。首を伝う。耳元を伝う。

 F-1の予定は不整地における行進間射撃の訓練だった。G-2とB-3と合同。5分前集合。戦車倉庫前には80人近いメンバーが1グループ2列、全部で6列で並んでいた。

 戦車倉庫に併設された高台には風紀委員がいた。

 無断欠席の監視役。

 上から赤星たちを一瞥した。穴抜けはなかった。無線で連絡する素振りを見せている。赤星は興味がなかった。ぬるい風が頬をなでた。ブザーが鳴る。時間ぴったりになる。

 

「間に合いましたかね?」

 

 声が戦車倉庫の影から聞こえる。全員が影を見る。赤星の心臓が跳ねる――西住みほ。

 

「時間ちょうどです」

 

 G-2のリーダーが頭を下げる。さりげなく釘を刺す。みほも頭を下げる。資料を取り落とす。コンクリートの地面に紙が散らばる。風で流される。慌てて拾う。かがむ。他の資料も落とす。全部ばらばらになる。

 

「す、すいませんっ」

「大丈夫です。そこの一番前の。拾うの手伝え」

 

 赤星のことだった。あ行だから、一番前だった。

 飛んでいった資料を集める。ルーズリーフに書き込まれた赤字を覗き見る。たった1日でこなした仕事の量。みほの姿を見る。疲れているように見える。目元に隈ができている。声に覇気がない。

 一層、赤星のやる気を掻き立てた。自分も気合を入れなければいけない。勝つための努力をしなければいけない。

 落とした資料をかき集める。90分1コマの内、1分ほどが犠牲になった。G-2のリーダーはあくまで礼儀正しくみほに接する。みほも倣う。皆、倣っている。気をつけの姿勢を崩さない。

 

「じゃあ今日の練習を始めます。今日は、えーっと……」

 

 Bー3のリーダーが資料ばさみをめくる。

 

「不整地の行進間射撃訓練です」

 

 G-2のリーダーが答えるほうが早い。

 

「じゃあ、始めましょうか。各車乗員は車両の確認後、発進。所定の位置についたら待機してください」

 

 全員が返事を返した。小走りで車両へ向かう。倉庫の扉は開いている。すでに訓練が始まっているグループもある。砲撃音が森の中から聞こえる。ランニングの掛け声が響く。整備グループが倉庫内で慌ただしく駆けまわっている。隙間を縫うようにして皆動く。

 

「左後方よーし、右後方よーし、下方よーし」

 

 赤星のティーガー乗員は全員確認作業をこなした。赤星は泥除けをよじ登ってあがる。キューポラに収まる。ちょうど平衡器が横にくる。

 再度確認してから、赤星車は倉庫を出た。エンジンの音が響く。熱が戦車内に満ちる。

 不整地訓練場には全車が揃っていた。グループの中にはⅢ号戦車やティーガーⅡ、IV号駆逐戦車が混じっている。

 4km平方ほどの訓練場。大きなコーンが目印として並んでいる。端にはプレハブ小屋が建っている――倉庫。コーン/予備のフェンス/的に使う簡易障壁が入っている。どれももう並べられている。準備するためのグループもある。多くは1年生グループの仕事だ。

「全車集合確認しました。これからグループに分かれての不整地における行進間射撃訓練を始めます」

 副隊長はみほ。3年のグループリーダーを押さえて、みほが練習の指揮を取る。B-3のリーダーが返事をする。G-2のリーダーも倣う。全員倣う。礼儀をわきまえている。家の違いを弁えている。立場の違いをわきまえている。

 

「B-3はパンツァーカイルを組んで前進し、所定の位置で砲撃し、目標地点まで走行する。終わったらその場で待機」

 

 まずB-3のリーダーが指示を出す。全部隊が同時に練習できるほど広くない。

 赤星は頭の中で戦車を動かした。難点を考える。色んな問題が思い浮かんだ。待機し、先輩たちの動きを見るのが先だ。

 パンツァーカイルの中央はティーガー。その両横にパンターとⅢ号が2両ずつ。履帯が岩や砂を噛みながらずるずると進んでいく。整地を進むよりずっと遅い。軌道輪が回る。12気筒のエンジンが唸る。

 2度の方向転換。右へ一度。左へ一度。高低差の激しい坂を進む。端のⅢ号が遅い。すぐ他の車両が合わせる。通信手と操縦手の連携が取れている。全体の形は崩れない。崩さない。B-3は完璧な統制。黒森峰にふさわしい威容。

 赤星から見える戦車の姿が豆粒ほどになる。遠くに飛ぶ鳶と同じ大きさになる。

 戦車の先から火が噴き上げる。煙が地面に対して垂直に、円状に広がる――砲身の先。39式徹甲弾が飛ぶ。一瞬だけ赤色が空に混じる。

 砲弾は500m離れた的を射抜く。砲の放たれた音に遅れて数瞬、弾着音が微かに広がる。枯れ草が砲撃の勢いでなびく。乾いた葦の匂いが鼻につく。

 そのまま2度、パンツァーカイルを維持したB-3が砲撃をする。いずれも綺麗な隊列を維持した。F-1の無線には感嘆のため息が漏れている。赤星もため息をついた。西住みほの息遣いは聞こえない。

 

「B-3目標地点まで到着しました」

「了解」G-2のリーダーとみほ。

 

 戦車の姿はもう見えない。4km先の目標地点に到着した。G-2が進み始める。B-3よりはぎこちない。ティーガーの走行性能が高い。Ⅲ号は追いついている。坂でエンジンを吹かしすぎている。B-3と僅かな差。音が大きい。この少しの差を埋めるのが目的だ。砲撃は3度の内2度外れた。行進間射撃――それも不整地での砲撃は難易度が高い。

 

「G-2目標地点まで到着しました」

「了解」B-3のリーダーとみほ。

「F-1。練習を開始します。パンツァーフォー」

 

 赤星車は中央左。隣はⅢ号だ。

 エンジンは既にかかっている。キューポラから顔を引っ込める。ペリスコープを覗く。視界が狭い。エンジンの熱が背部から伝わってくる。風の通らない車内が蒸し風呂のようになる。

 

「まず40m先のコーンで左に回ります。その際、砲塔は前方へ向けるように心がけてください」

 

 全体無線で指示が入る。40m先は3秒後には通過する。もっと早く言われれば簡単だった。それは全員がクリアできると判断された。出来るか否か――ギリギリの指示を出して練習の糧にする。赤星は砲手に砲塔旋回を指示。手元の砲塔旋回用ハンドルは使わない。

 砲手がペダルを踏む。操縦手がクラッチを繋げる。エンジンの回転数だけ上げる。車体速度はカーブに入る前に十分落としている。エンジンの回転が砲塔旋回速度をあげる。綺麗に砲塔が前を向いたまま車体が左周りを切り抜ける――合格点。

 

「次は右回りです。次のコーンを曲がります」

 

 左回り直後。回る半径は小さくなる。砲塔旋回は大きくなる。赤星は砲手に指示を入れる。油圧式旋回装置が音をたてる。車体速度は上がらない。ゆっくりとティーガーの砲塔が回る。左回り時より隊列全体の速度が落ちる。

 

「道がでこぼこしているので、気をつけてください」

 

 カーブが終わる。坂道に入る。ペリスコープからの景色が不明瞭だ。車体が上に向くと景色の大半は空になる。下を向くと土と岩。自分たちが真っ直ぐ走っているか判別しにくい。一瞬の判断で操縦手に修正指示を与える。正解なのかどうか分からない。

 

「2号車、もう少し右へお願いします」みほが言った。

「了解」赤星が答えた。

 

 軌道修正。赤星は拳を握る。ヘマをした。悲しみはない。不安もない。次はないと言い聞かせる。ペリスコープの先へ集中する。

 それから何度か他の車輌に修正指示が入った。いずれも2度指示されることはなかった。誤りを繰り返さなかった。F-1は全員指示を守った。

 

「100m先、コーンの位置から500m先の的を狙ってください」

 

 コーンから500m先の的は右前にあった。全車が砲塔を前に向けている。斜めに旋回を始める。油圧式旋回装置で30度ほど右に傾ける。

 ファインダー内に目標を収める。手動の旋回ハンドル、仰俯ハンドルで微調整を加える。

 その間にも車体は前進している。速度は時速20km。動き続ける中、常に油圧式旋回装置を動かす。おおまかな動きだが、手動では間に合わない。赤星も車長席からハンドルを回す。砲手が砲塔照準眼鏡に釘づけになる。

 

「砲撃してください」みほが全体に指示を出す。

「砲撃開始」赤星が砲手に告げた。

 

 激しく音が立ち上る。車体が直前で岩に乗っかる。砲塔が上へ向く。仰俯角が見当違いの方へ向く。的の上を39式徹甲弾が飛んで行く。5つの的。5つの戦車。当たったのは1つだけ。中央のティーガー。

 その後2度砲撃をした。いずれも直前で微調整が狂った。不整地に足を取られた。

 

「F-1目標地点まで到着しました。実地訓練を終了します」

「了解」B-3/G-2のリーダー。

 

 赤星車は沈黙が降りていた。無線は静けさに満ちていた。エンジンの音と履帯が地面を噛む音だけ響いた。

 

「F-1のメンバーに報告があります。通信手の方たちは、F-1専用回線へ繋いでください」

 

 模擬試合用の森林脇の整地を通っていた。前にはみほの乗るティーガーがいた。一列縦隊で進んでいた。

 通信手が通信機の調整をする。B-3とG-2から切り離す。みほの息遣いが聞こえる。

 

「今回は初回の練習です。大事なのは、この訓練を次へ活かすことなので、各自反省点を考えておいてください。特別演習時間で改善方法について話し合いたいと考えています。皆さん、これからも頑張りましょう」

 

 息遣いが聞こえた。落ち着き払ったつもり声。喉をならす音。赤星は心中で笑みを浮かべた。安心した。指導しようと頑張っている意思が見えた。同じ1年生だと感じた。団結して頑張ろうと思った。落ち込んでいる場合ではなかった。

 赤星は車長席に座って、ペリスコープを覗いた。戦う意思に満ち溢れていた。F-1メンバーの意思だった。

 人工林から砲撃音が聞こえる。鷲が飛び立つ。高く旋回している。

 

 

 **

 

 

 一度寮へ戻った。みほは資料を部屋からかき集める。風紀委員に頼んで、学校まで送ってもらうように整えている――隊長/副隊長の特権。まほの教え。

 訓練の後のF-1グループの顔つきは昨日よりも険しかった。練習試合を意識していた。砲撃が全員の血に熱を与えた。

 夕飯は部屋のテーブルに持ってきた――これもまほの教え。明日までに食器を洗えば、許される。

 ラップを掛けた。全部終わってから食べる予定。ハックステークだけひとくち食べた。肉汁が溢れた。ハンバーグと何が違うのかは分からなかった。

 特別演習――F202室。エアコン/プロジェクター/ホワイトボードが備え付けられていた。昨日の資料は人数分コピーしていた。

 

「失礼します」

 

 続々入ってくるメンバー。前から座って行く。資料のコピーに目を通している。

 全員揃う。特別演習時間が始まる。既に窓の向こうは暗くなっている。エンジンの音が微かに聞こえる――夜間走行訓練。

 

「では、今日の反省を始めます。資料はひとまず置いてください。メモできるものを出してください」

 

 ノートを広げる。ファイルからルーズリーフを出す。ペンケースからボールペンを取り出す。

 後ろのドアが叩かれる。全員が振り向いた。

 

「どうぞ」みほが言った。

「入るぞ」まほが言った。

 

 全員の緊張感が高まる。みほも喉がこわばる。唾を飲み込む。

 まほが悠然と後ろの座席に座る。ノートを広げる。ボールペンを取り出す。カチカチと鳴らす。

 

「少し、話を聞いていたいんだ。構わず続けてくれ」

 

 みほは頷いた。笑みはこぼさなかった。口を引き絞った。次に開く時は、副隊長の声になっていた。落ち着き払った声音。

 

「では、今日の練習の反省から始めます。まずは右回り直後の左回りについて。問題点を思いついた方は手を挙げてください」

 

 全員手を上げた。既にノート/ルーズリーフへびっしりと書き込みがある。

 

「Ⅱ号車操縦手の鷹野さん、どうぞ」

 

 背の高い鷹野が立ち上がる。壇上にあがるみほと目の高さが揃う。

 

「右回り後、少しでも速度を上げるべきだったと考えています。低速ギアのまま進んだためエンジン音が響きすぎました」

「なるほど。Ⅱ号車は確かに遅かったように思います。次はカーブ前の直進であっても、ぎりぎりまで速度を上げてください。カーブ手前でエンジンブレーキを掛けながらでも砲塔旋回は可能です」

 

 全員がメモを取る。まほはみほを見ている。みほは前を見ている。まほを見ない。意図して目を合わせないようにしている。副隊長らしく振る舞う。

 話し合いを進めていく内に、熱が入る。隊長が意識から遠ざかっていく。後ろが気にならなくなる。

 反省点/改善方法が次々と上がってくる。ホワイトボードにまとめる。皆のペンが動いているか確認する――生真面目にメモしている。

 話し合いは1時間続いた。砲塔旋回/速度調整/車体の位置感覚――色んなことが俎上に載った。みほが気づかない部分に困っているメンバーもいた。

 ペリスコープから覗く風景と今走っている位置の間隔が擦り合わない――みほには思いもよらない感覚だった。小さい頃から乗り慣れていると、多少の揺れでは動じなくなる。感覚の問題だった。調整は時間がかかる。一朝一夕ではどうしようもない。

 練習試合には間に合わない。補正はみほ自身がやると決めた。練習中に問題点が見つかったのは幸運だった。試合中に気づくよりも、動揺が少ない。最初から仲間の把握ができている方がいい。個々のメンバーの実力を把握は指示を出す上で重要だった。

 まほは全部見ていた。みほは気にせず、話し合いをした。F-1のメンバーも熱心に話し合いに参加した。隊長の威圧も途中から気にならなかった。まほは最後まで口を出さなかった。

 夜のブザーが鳴った。食堂が閉まる1時間前。区切りがついた。

 

「では今日の特別演習時間は終わりにしたいと思います。明日のメニューはランニングですので、特別演習時間は過去の戦譜から試合状況の確認作業をしたいと思います。各自配布資料に目を通しておいてください。今日は解散したいと思います」

「はい、ありがとうございました!」

 

 気持ちが良くなるほど規律が整っていた。威勢も良かった。まほは無言で頷いた。

 F-1メンバーはみほを中心にまとまっていきつつあった。全員がみほに敬意を払っていた。戦車道に敬意を払っていた。黒森峰に敬意を払っていた。

 まほが立ち上がり、教室を去る。

 まだ廊下には明かりが灯っていた。LEDの光が満ちている。ロココ調の細かい装飾の陰影が浮いていた。


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