過去森峰の話   作:725404

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黒森峰、入学します!

街まで上がると船の気がしなかった。学園艦は大きい――黒森峰は特に。みほはキャスター付きのバッグを引きずる。

アスファルトの道を歩く。道の両端にはチューダー様式の角ばった家々が並んでいる。門の向こうには一軒ずつ庭がある。

広い庭にはガーデニングがされている。バラが咲いている。路肩には等間隔で街灯が立っている。ロココ調の装飾がされている。青銅風の色味。広い車道では車が時折すれ違う。

遠くに人が見えた。

 

「こっちだ!」まほが言った。手を振っている。

「お姉ちゃん!」

 

春休み。明日から学校だ。まだ1年生は学校に来ない。みほだけが例外だった。

 

「どうだ、大きいだろう」

「うん。ちょっと迷いそうになっちゃった」

 

まほは苦笑いしている。みほは頬に垂れる汗を拭う。キャリーバッグを握り直す。ガラガラと音を立てている。春の陽気にあてられる。桜の花びらが落ちている。アスファルトを彩っている。

 

「とりあえず寮へ荷物を置きに行くか。昼はわたしがご馳走しよう」

「え! いいの?」

「ああ。美味しいレストランがあるんだ。きっとこの3年間で何度も足を運ぶことになるさ」

「楽しみだなあ。どんなところなの?」

「欧風レストランだよ。カレーからオムライスまで何でも食べられるぞ」

 

みほが笑う。まほが不思議そうな顔をする。

 

「だって、お姉ちゃん変わらないなあって」

「変わらない?」

「カレー好きなの、昔から変わらないね。さっきカレーって言った時すごく楽しそうだったよ」

 

みほがいたずら気に笑う。キャリーバッグを引く音が軽やかに響く。まほが笑みを浮かべる――してやられたという表情。

 

「みほがこの学校に来てくれたのが嬉しいんだ」

「わたしも、お姉ちゃんと一緒の学校に来れて嬉しいよ」

「みほがそう思ってくれていて、良かった」

 

まほが安堵の表情を浮かべる。みほも笑顔になる。まほがみほのバッグを取る。自然な動作で受け渡される。

 

「寮はすぐそこだ。先端が尖ってる塔が見えるだろう? あれが寮の管理棟。その横に連なってる赤レンガがわたしたちの寮だ」

 

いくつもの家々が通りに面している。広い庭がそれぞれについている。1つ路地を入る。奥に寮が見える。

 閑静な住宅街の一画。学校からは歩いて10分ほど。

 

「きっと気に入ってくれるはずだ」

「お姉ちゃんは好き?」寮のこと。

「ああ。黒森峰も、寮も。全部」

 

寮の前には戦車も乗り入れられるほどの門が立ちふさがる。真鍮製。細かいレリーフが彫り込まれている。天使の意匠がついている。横のインターフォンで開く。重い音が響く。

 

「ようこそ、黒森峰に。1日早いが入学おめでとう、みほ」

 

 

 **

 

 

内装はロココ調だった。装飾過多。みほは息を飲んだ。まほは笑顔を絶やさなかった。白いしっくいと茶色の彩色。

 

「こっちだ」

 

まほが先導する。キャリーバッグを引く。みほはついていく。キョロキョロ辺りを見回している。何もかも珍しいといった調子。

廊下の装飾が変わる。まほがさらに進んでいく。カーペットの毛足が長くなる。びたりと並んだ扉の感覚が広くなる。

幹部たちの部屋。一人部屋を充てがわれる者たちの部屋。

みほは察した。自分が特別な部屋を充てがわれることに気づいた。

足が止まりかける。どうにか動かす。まほがキャリーバッグを引く。みほの動きには気づかない。

理由は分かっている。西住の次女だからではない。先日の試合の結果だ。

中学を卒業してすぐ、春休みの最中に黒森峰に招かれた。試合をしろと言われた。素直に従った――母の命令。

5両対5両の殲滅戦。みほ以外は敵も味方も黒森峰の生徒だった。みほの指揮力を見るための試合。OGも見に来ていた。しほも見ていた。まほも見ていた。現役生も見ていた。

皆見ていた。

そこでみほは勝った。残ったのは2両だった。相手はゼロだった。相手の指揮は現職の副隊長だった。

ブラウンの瞳。黒い長髪を後ろで1つにまとめていた。唇を噛んでいた。悔しそうだった。みほと直接喋ったのは最初と最後の礼の時だけだった。ありがとうございます、と2度。互いに私的な会話はしなかった。それで咎められることもなかった。

それでも分かった。次の副隊長は自分だと。みほはあの副隊長の後を継ぐことになる。漠然とした直感。

 

「ここだよ」

「ん……!」

 

まほが立ち止まる。キャリーバッグを引く音がやむ。みほが少し遅れて気づく。姉の背中に頭をぶつける。

 

「どうした、考え事か?」

「うん……普通って二人部屋なんだよね?」

「まあ、そうだが」

「でもここ1人部屋だよ」

「わたしも最初から1人部屋だった。嫌ならマンションを頼んでみるといい。先に父さんに話を通しておけば何とかなるだろう」

「ううん。いいの。ただ、何で1人部屋なのかなって」

 

みほは話を聞きたかった。自分が副隊長になったら元副隊長はどうなるのかを聞きたかった。

話は遮られた。目の前の装飾過多な扉が音を立てる。内側に開く。中からダンボールが出てくる。顔が隠れている。

 

「深月、まだいたんだな」

「申し訳ありません、隊長。すぐに出ていきますので」

「急がせてすまない。手伝おうか?」

「そんな訳には行きません。すぐにどけます」

 

ブラウンの瞳。黒い髪。少し曲がった背。試合の時はつけていなかった青いフレームのメガネ。

副隊長だった。

 

「ちょっと待ってくれ」まほが言った。

「何です?」重そうなダンボールを抱えた副隊長が立ち止まった。

「今日付けで副隊長になる西住みほだ。あっちは元副隊長の中舎深月。お互い知っているだろうが、一応挨拶くらいはしたほうがいい」

 

だろう? 、とまほが言った。中舎が荷物をカーペットの上に置いた。深く沈み込んだ。

中舎は直立不動の姿勢を取った。みほも動きが止まる。固まってしまう。

 

「元副隊長の中舎です。これからよろしくお願いします」

「に、西住みほです。これからよろしくお願いします」

 

みほは噛みそうになるのを抑えた。まほの視線が背後から刺さる。握手をしようと手を伸ばしかける。それより前に中舎が動く。

深く礼をした。中舎の頭頂部が見えた。慌ててみほも頭を下げる。ちらりと上目遣いで相手を覗く。頭を上げる気配はない。

みほが恐る恐る頭を上げる。まだ頭を上げない。中舎は1ミリも動かなかった。敬意を払っていた。

 

「じゃ、じゃあまた会いましょう」みほが言った。

 

自然と敬語が口から出た。中舎はまだ頭を下げていた。動かなかった。みほは部屋に入る。扉を閉める。

いつまで動かないのか、怖くて見届けられなかった。

 

 

 **

 

 

最初は入学式。それから教室で自衛隊式C-5型適性検査を受けた。50分かかった。戦車乗りとしての適性を検査された。結果は後日。

初日にも関わらず、ぐったりとすることばかりだ。赤星はため息をつく。大きな荷物は既に宅配便で送っていた。手荷物はリュックサックだけ。学校から寮へ歩く。

明日はテスト。今日は機甲科の新入生ミーティングを除けば、もう授業はない。テストは明日からだ。ポロポロと路地を歩く新入生の顔が見えた。まだ誰とも喋っていなかった。

ロココ調の豪奢な寮が大通りから見えた。路地へ入る。入学時に貰ったIDカードをかざす。門が開く。寮へ入る。

自室の前には荷物が積まれていた。ダンボール3つ分。規定通りの数。テレビは許されている。勝手にCSに加入することは許されていない。

鍵を開ける。荷物を中に入れる。同室の子はいなかった。荷物だけが積まれている。まだダンボールに入ったままだった。

相部屋は同級生と赤星は思った。

白い壁紙。部屋の対面に置かれた二つのベッド。奥には大きな窓がついている。ベッドの下には収納棚が備え付けられている。勉強用の机は色の濃い自然木。綺麗に部屋の真ん中で割れた2人分のスペース。

共用なのはシャワー室とトイレ、小さなキッチンだけだった。 

狭さは感じなかった。広いとも感じなかった。

 

『ミーティングは14時からです』

 

声がした。上を向くと部屋の真ん中にスピーカーがついていた。声はそこからだった。

 

『ミーティング場所はD101教室です。新入生の方々は学内地図を確認してください』

 

2回同じ内容が流れた。ブツリ、と音がして切れた。赤星は腕時計に目を落とす。時間は1時間ほど。

荷解きはできない。ご飯だけ食べようと思った。

リュックサックから財布だけ取り出す。キッチンはまだ使えそうもなかった。もう一度時計に目を落とす。

陽が窓から差し込む。まだカーテンすらなかった。

 

 

 **

 

 

D101は機甲科棟で一番大きい教室だ。機甲科の1年がすし詰めにされる。最前列にはOG会の一部が座る。壇上には隊長が上がっている。

後ろの席の床には緩やかな傾斜がついている。後ろからでも壇上が見えるようになっている。クラス順に座ることになっている。

赤星は後ろのほうに座る。人が多くて熱い。風通しが悪い。窓が開いている。風は感じられない。

14時の5分前には全員揃った。点呼を取った人間が、隊長の横に立つ風紀委員に報告する。1クラスに1人。出席番号順で一番の生徒。貧乏くじ。

 

「全員が揃ったようだな」まほが言った。

 

まほはきっちりと糊の効いた制服を着て、1年生を見回した。鋭い目が新入生に向いた。緊張で教室全体が引き締まる。かすかなささやき声が消える。

 

「新入生への挨拶は朝の入学式で済ませたから、やめておこう。これからのことだが、明日から毎日朝練があるので7時には集合できるようにしておくこと。他の連絡はまとめて君たちへの連絡をやってくれる風紀委員の沙美が後でやる。よく聞いてメモすること」

 

よく響く声が教室に満ちる。みんなメモ帳を取り出す。

 

「それと連絡が1つ」まほが言った。

「西住みほ。今日付けで正式に副隊長に任命する。書類を渡すので明日までに提出するように」

 

ほとんどの1年が息をのんだ。驚きに喉を鳴らした。赤星や一部の生徒だけが平静でいられた。

赤星はみほの実力を知っていた。横に座る同級生は動揺していた。メモを持つ手が震えていた。

みほは西住流の門下生とアマチュアの社会人チームの二軍で活躍していた。赤星は、一度だけ練習試合を組んだことがある。

みほの率いる小隊にやられた。

赤星はその時のことを覚えている。忘れてはいない。

 

「それから今日はOG会の方々に来ていただいている。今年の大会は10連覇がかかっていることをよく考えて、しっかりと聞くように」

 

ではお願いします、とまほは壇上から降りた。脇に立った沙美がマイクをOGの1人に渡した。

和服を着た女。濃い化粧の匂いがたつ。白髪の頭から老いの匂いがする。

マイクを手に取り、しゃべり始める。ほとんどの1年生が上の空。

同学年の「西住」が副隊長になった。それですっかり場は持ちきりだった。黙っていても皆そのことを考えていることが丸わかりだった。

みんな、OGの話なんて聞いていなかった。赤星は窓側に視線を向ける。プラチナブロンドの同級生が横でまだ震えている。

 

 

 **

 

 

1年生が入学式の間、3年はテストだった。機甲科でも大学に進学する割合は多い。すぐに社会人チームへ行くのは極少数だ。

中舎深月もテストを受けていた。今日は6科目。明日は3科目やって昼から練習だ。

昨日部屋を移動してから中舎は荷解きを済ませていなかった。みほとの出会いに動揺していた。何にも手がつかなかった。手が震えていた。動悸が収まらなかった。

寮へ戻る道すがら自室の窓が見えた。明かりが点いていた。二人部屋だと思いだした。同室は1年だと聞いた。寮長はこの時期が一番忙しい。苛立ちを隠さない目つきで睨まれたことを思い出す。

廊下の扉は間隔が狭い。一人部屋は二人部屋よりずっと広い。バスルームにはシャンプードレッサーがついていた。キッチンには電子レンジがあった。窓際には観葉植物を置くスペースがあった。

二人部屋には何もない。

鍵を開けて、部屋に入る。一歩目が硬い。カーペットはない。

左側に荷物が積まれている。同室の子がいた。緩くウェーブがかかったショートヘアの子だ。荷解き中だった。ベッドに教科書をばらまいていた。

中舎に気づいて手を止める。教科書を持ったまま振り返る。まだ制服のままだ。

 

「あなたが赤星さん?」

 

寮長から聞いた名前。赤星小梅。

 

「あ、もしかして同室の?」

「始めまして。わたしは中舎深月。よろしくね」

 

手を出す。握手を求める。赤星は教科書をベッドに置いた。

赤星の手は戦車乗りの手だった。節くれだった指。信頼できる手だった。

 

「これからよろしくお願いしますね」赤星が言った。

「ええ。お互い助け合っていきましょう」中舎も答えた。

 

2人は話をしながら自分の荷解きをした。中舎は観葉植物を実家に送っていた。大きなトラの尾はよく育つから水やりが楽しかった。もうここにはない。

赤星はいくつもの資料をデスクの収納棚に片付けた。デスクの上に小さなサボテンと写真立てを置いた。家族の写ったものだった。

中舎は少し見ただけですぐに目を逸らした。まじまじと見ていいとは言われなかったから。

赤星は中学時代、戦車道チームで隊長をしていたみたいだった。出身は神奈川。黒森峰にはそういう人材が集まりやすい。全国の元隊長が黒森峰へ入学してくる。別に特別ではない。よくあることだ。

中舎も中学時代のことを話した。山口の学校で隊長をしていた。チームは小規模で履修者全員がレギュラーだった。赤星のところとは違う。

不思議と中学時代のことしか聞かれなかった。途中で赤星の勘違いに気づいた。

赤星は中舎のことを同級生だと思っている。

実際は違う。中舎は3年だ。去年の大会後に副隊長になった。そして昨日、元副隊長になった。それでダンボールに荷物を詰めていた。それが勘違いの原因だった。

訂正はしなかった。面倒だった。どうせすぐ気づく。致命的なことは起こらない。何も問題は起きない。心配する必要はない。

ゴツゴツした手で手際よく荷物を整理していく。資料と教科書をデスクに収める。制服の替えとシャツをロッカーにかける。下着をベッド下に収める。どんどんダンボールの中身を片付ける。

入学当初を思い出した。1年の頃同じように荷物を片付けたことを思い出した。赤星の手際の良さに舌を巻いた。自分が1年の時よりもずっと手際が良かった。

赤星が切り出す話は戦車の話ばかりだった。無理もない。黒森峰には戦車道をやりに来たのだろう。中舎も1年の頃はそうだった。熱気に溢れていた。情熱で血が湧いていた。

過去の試合の話を聞いた。一番おもしろかった試合を聞く。何度も喋り慣れているといった早口で答えが返ってくる。

曰く、赤星は西住みほと試合をしたことがあるらしい。

中舎は心臓が痛くなった。胃が重くなった。喉元に吐き気がせり上がってきた。先輩であることを言うべきだったと後悔した。

 

「みほさんは凄いんですよ。わたしは戦ったことがあるから知ってるんです。並みの上級生何かよりずっと強いから、副隊長になったのだって驚くことじゃありません。それこそ西住の名前だけで副隊長になったわけじゃあ、絶対にありません」

 

1年生の間では西住みほの話題で持ち切りらしかった。食堂は今日は開いていなかった。話題については知らなかった。

中舎は渦中の1人――『並みの上級生』だった。

 

「よく知ってるのね」

「よくは知りませんけどね。ただ、西住の力だけで副隊長になったなんて絶対に思いません。それだけです」

 

赤星は知った口を利いた。みほの所属を考えれば、試合経験のある1年生は少ないだろうと思った。

中舎はベッドに座った。布団で手を隠した。握りこまれた拳が充血する。爪が手のひらに食い込む。

 

「西住の力よ」

「え?」

 

水を差された赤星が目を見開く。壺を回すように上げていた手をベッドに置く。言い返そうと口を開く。中舎が立て続けに喋る。

 

「副隊長になるだけの力があるのは『西住』だからよ。『西住』だから副隊長なの。『西住』だから強いのよ」

「でもそれはみほさんの――」

 

赤星が反論しようとする。スピーカーからノイズが聞こえる。

 

『11時になりました。消灯時間です。皆さんおやすみなさい』

 

2回同じことを繰り返した。その後ノイズが再び入った。それきり音はしなかった。

 

「もう消灯時間だわ。電気消すわよ」

 

シャワーは朝早く浴びましょう、と付け加えた。中舎は既に寝巻きのジャージに着替えていた。赤星はまだ制服のままだった。

 

 

 **

 

 

消灯時間を過ぎた。明かりは点けたままだった。みほはまだ片付けを済ませていなかった。

一人部屋は広すぎた。実家の自室の3倍はあった。ボコのぬいぐるみ用に持ってきた棚はロココ調の過剰な装飾には不釣り合いだった。家具は既に揃っていた。電子レンジは綺麗に掃除されていた。冷蔵庫に匂いは残っていなかった。洗濯機にゴミは溜まっていなかった。

カウチにはボコを2人置いた。ベッドにもお気に入りを備えた。勉強用デスクの隅にも1人。

その横には家族で撮った写真を並べた。姉と2人で笑っていた。後ろには両親がいた。カメラの向こう側には菊代さんがいた。全部覚えている。随分昔の写真だった。最近は姉と2人でいることが減っていた。家族で顔を合わせることが減っていた。

部屋の向かいは隊長室――姉の部屋。

パジャマに着替えていた。部屋を出ることを少し迷った。結局パジャマのまま外へ出た。鍵をかけて、姉の部屋をノックする。

すぐに扉が開いた。

 

「どうした?」

「ちょっと、眠れなくて」

 

えへへ、と笑った。まほは笑わなかった。手にはボールペンが握られていた。

 

「もしかして、まだお仕事?」みほが言った。

「仕事じゃない。これは仕事とは言わない」

 

まほがみほを部屋へ入れた。片手で扉を閉める。

みほの部屋と同じく明かりが点いていた。シャワーを使った形跡はなかった。まほはまだ制服を着ていた。ボタンは上だけ外していた。デスクの明かりも点いていた。資料が積まれていた。

 

「これ……1年生の資料?」

「ああ。風紀委員と生徒会に許可を貰った」

 

デスクの横に積まれた資料――1年生の履歴書。今まで積み上げてきたキャリアを確認するもの。300枚以上。

 

「全部に目を通してるの?」

「とりあえずだ。今後全員を1人ずつ試して行けるわけじゃない。過去の成績からある程度選別していかないと練習が回らないんだ」

 

まほの目は真剣だった。残酷な輝きが瞳の中に収まっていた。自分でも避けがたい痛みに耐えていた。一度も戦車に乗らせずに判断することに耐えていた。組織を回すうえで必要な判断だった。

みほはまほの目を見た。まほは資料に目を落としている。

 

「評価基準はなに?」

「過去の戦績。必要なら過去の戦譜にも目を通す。優秀な結果と過程を経た1年生をピックアップしたい」

「わたしも手伝うよ」

 

まほが資料から目をあげた。みほの方は見なかった。虚空に目を彷徨わせた。みほとは部屋にあげてから一度も目を合わせなかった。

みほはまほの態度に違和感を覚える。じっとまほを見る。それでもまほは視線を返さなかった。意地を張っているみたいだった。

 

「じゃあ、副隊長。これを頼む」

 

虚を突かれた。みほ/副隊長。副隊長と呼ばれた。姉からそんな風に呼ばれるのは初めてだった。冷たい声音を反芻する。固まった瞳でまほを見つめる。返ってこない視線にとまどう。

 

「返事は?」

 

まほは資料の半分をカウチ前のガラステーブルに置いた。みほは立ったままで固まっている。

 

「うん」

 

みほはソファに座る。テーブルの資料に手を出す。震える手を押さえる。乾いた目を何度も瞬かせる。

そこでようやく視線に気づく。

まほがみほを見ていた。痛みを抱えた瞳。

 

「はい」

 

みほは言い直した。背筋を正した。外には静かな夜が降りていた。部屋は冷たさを残していた。

 

 

 **

 

 

朝の準備。制服に着替える。髪を整える。薄くリップを乗せる。

アイシャドウはバレやすいからなし。まつげも整えるだけ。眉も整えるだけ。書きすぎれば校則違反。黒森峰は厳しい。

最後に赤星は、スカートの裾を整えた。整えるばかり。何か盛るようなことは出来ない。

中舎は先に出た。赤星を待たなかった。待ってとも言わなかった。

昨日の話がまだしこりとなっていた。赤星はその話をするつもりだった。中舎はなさそうだった。

真新しいローファーを履く。外へ出る。他の1年生も外へ出た頃合いだった。1年とそれ以外の区別は何となくだがついた。ぎこちなくてキョロキョロしているのが1年だ。きっと自分もそうだ。

赤星はバッグを持ってポケットの中を確認する。鍵と紙。鍵は閉めた。

紙は11枚1綴りのチケット。学内食堂で使える回数券だ。

普通は学内食堂で朝は摂らない。ただし4月初めに限っては別だ。寮内の食堂は家政科の担当だ。家政科の1年の指導が一通り済むまでは学内食堂を使うしかない。

案の定食堂は人でごった返していた。寮生のほとんどが集まっていた。テーブルは人で埋まっていた。人の匂いと朝食の匂いが混ざる。高い天井。シーリングファンが回っている。窓から朝日が差している。陽気と熱気が立ち込めている。

席の確保が第一だと考えた。テーブルの間を回遊する。目を泳がせる。空きを探す。座って朝食を摂る団体。ぽつりぽつりと話をしている1年の塊。これを期に仲良しを増やそうと魂胆が見える。

空きは少ない。2つだけ見つけた。返却口から遠い。食券を買うところからも遠い。出口からも遠い。静かな2人テーブル。両方空いていた。

 

「ちょっと待った」

 

赤星はテーブルに向かっていた。カバンを置こうとしていた。後ろから声をかけられた。振り返る。割烹着を来た家政科の生徒。上級生。

 

「何でしょうか?」

「そこは指定席だから他に座りな。ここ、拭いたら使っていいよ」

 

女は布巾を手にしていた。テーブルを拭いていた。目つきは鋭かった。背は低い。恰幅があった。

 

「指定席、ですか?」

「ああ、2人用さ。学内でも寮内でも指定席がある。2人分だけね」2本指を立てた。笑みを添えて。

「隊長と副隊長用ですか?」

 

ああ、と女は答えた。テーブルを拭くのをやめていた。ただ立ち話をしていた。サボるのが好きな顔をしていた。

 

「まあ姉妹用って言ったほうがいいかもね。前はあの人が使ってたけど、今日は席を取るつもりなのか早く来てたよ」

 

そう言って女は顎を遣った。その先に中舎がいた。赤星も中舎を見た。中舎はうどんを啜っていた。赤星には気づいていなかった。

赤星は凍りついた。

昨日の失言に気づいた。もう遅かった。中舎は同級生ではなかった。中舎は1年生ではなかった。

中舎は元副隊長だった。

赤星は空いた席に座る。カバンを置く。目を凝らす。中舎の横に空き席はなかった。誰とも会話はしていなかった。話をする隙はなかった。

とりあえず、朝食を摂るしかない。

 

 

 **

 

 

「食堂って寮内にあるんじゃ?」

 

みほはスタスタ歩くまほの後ろをついていった。まほは立ち止まった。みほを見た。怖しい瞳だった。

 

「数日は学内食堂を使うことになる。今日はわたしの食券を使うといい」

「……はい」

 

みほは切り替えた。街路に学生が増えつつあった。副隊長の顔。見慣れない隊長の顔をした姉に合わせる。

食堂は人でごった返していた。早く来なかったことを後悔した。

辺りを見渡した。まほへ挨拶する人が大勢いた。周りの人は皆みほの顔を覗き込んだ。挨拶を返す他なかった。注目を集めた。無用な注目だった。耳たぶが熱くなった。首筋に汗が垂れた。まほの背中に隠れた。

 

「ここが空いている」

「あ、ここ……」

 

空いている、ではなかった。空けられていた。静かな席。角の奥。2人掛けのテーブル。不自然な空席。近くには割烹着を着た家政科の生徒がいた。

 

「おはようございます、隊長」

「わたしは家政科の隊長じゃない。まほと呼んでくれ」

 

失礼しました、と頭を下げた。

 

「注文は如何なさいますか?」

 

まほが2枚食券を渡した。みほはまほの背に隠れていた。小さく頭を下げた。荷物を椅子に置いた。プレートを取りに行こうとする。まほに手で制される。

 

「定食1つ。みほは?」

「え、えぇっと……じゃあわたしも同じので」

「じゃあ定食2つで」

「承知しました。すぐお持ちします」

 

他の生徒はみんな自分で取りに行っていた。自分で席をとっていた。自分で片付けていた。

自分たちは違った。席は取ってもらっていた。メニューは運んでもらった。片付けもきっとしなくていい。

何もかもに差があった。みほの耳たぶの熱があがった。首筋に垂れる汗。震える指。周りを見たい気持ちは抑えた。きっと周りが見ているから。見られている感覚が一層みほを焦らせた。

まほは気にしていなかった。手帳を取り出していた。予定の確認をしていた。自分のやるべきことをしていた。

隣のテーブルからコーヒーの香りがする。みほは水を取ろうと立ち上がる。その目の前にさっきの割烹着が来る。

 

「定食2つお持ちしました。水もこちらに」

 

汗をかいたコップが3つ。まほが無言で2つ取る。1つはみほの方へ。その後自分のプレートに3つ目を乗せる。

 

「よく水を飲む方だからな。みほも飲みたかったら頼むといい」

 

まほは軽く頭を下げた。慌てて後に続いた。笑みを携えて割烹着が返礼。踵を返してごった返す人波に消えた。

 

「いただきます」

「……いただきます」

 

平然とポタージュを食べるまほ。みほは戸惑いを隠せなかった。焼きソーセージの脂に吐きそうになる。

優しい姉の姿は消えた。冷たい隊長が目の前にいた。

あまりそれを見たくはなかった。見ても、見つめ返されることがないのは知っていた。いつもなら視線が交差するはずだった。微笑みが返ってくるはずだった。

視線を朝食から外す。姉から外す。

中舎がいた。

まほと同じポタージュ、ソーセージ、ポテト。ポタージュはカルトッフェルズッペといった。ローリエが彩りを与えていた。

中舎の姿にみほは見入った。まほの態度に意味を見いだせた。人が大勢食堂に集まっていた。みほはまほしか見ていなかった。

姉離れを始めなきゃ。友だちを作らなきゃ。

 

 

 **

 

 

勝手に痛みを感じていた。心臓を締め付ける痛み。苦しさは自分の意識から来ている。勘違いした後輩は悪くない。

朝は去年度いつも隊長が食べていた定食にした。少しだけ落ち着きを取り戻す。

カルトッフェルズッペの濃厚な匂いが現実をたぐり寄せる。ソーセージの脂が喉を焼く。現実をたぐり寄せる。

全部食べ終えてから、コーヒーに手を伸ばした。表面に脂が浮いている。少し冷めている。コーヒーフレッシュを1つ。スティックシュガーを2本。かき混ぜるとコーヒー本来の匂いが消えていく。コーヒーは嫌いだった。目が覚めるから飲むだけだった。

一息に飲み干す。喉を苦味が通り抜ける。

誰とも会話しなかった。同級生は遠巻きに見ているだけだった。いつも座っていた席を見る。西住姉妹が座っていた。妹の方が座っている席は、先月まで中舎が座っていた。神々しい輝きが見えた。ただの朝日の反射だった。中舎にとっては神だった。まごうことなき、光だった。信仰すべき強さだった。

目を閉じれば、春休みの出来事が脳裏に浮かぶ。作戦は全て裏目に出た。全て読み切られた。同じ車両で揃えていたから、戦術の違いが結果に出た。自分の弱さが裏打ちされた。西住家の強さを実感した。

その時から、信仰が始まっていた。痛みはついて回った。自分の弱さが、西住家の強さの足を引っ張ることになる予感がつきまとった。痛みは自分のせいだった。

痛みと共生するよう努めることになった。西住家を見ているだけで痛みは増した。なるべく見ないようにした。太陽から目を背けるように。

プレートを片付けて、食堂を出る。一息つく。緊張がほぐれていく。鞄から小物入れを取り出す。電動歯ブラシは艶のあるスティック状のものにしていた。見た目は化粧用具だった。水道に向かう。一限には間に合う。

 

「中舎さん!」

 

その時、後ろから声をかけられた。声は聞き覚えがあった。廊下で立ちすくんだ。痛みが最高潮に達した。頭が割れるように痛んだ。心拍数が上がった。瞬きを忘れた。目の痛みで意識を取り戻す。振り返る。甘い香りがする。

 

「に、西……副隊長」

「そんな。みほって呼んでくださって構いません」みほが笑う。

「い、いえ。そんなわけにはいきません。名前を覚えていてくださって光栄です」

「こっちこそ、急に話しかけてごめんなさい」

 

努めて明るい態度をとっていた。オドオドした態度を押し隠していた。

 

「それより、少し教えてほしいことがあるんですけど」

 

軽い口調だった。周りの生徒が2人を見ていた。みほは気にした様子だった。それも押し隠そうとしていた。中舎も倣った。周りは気にせず、会話を続けようとした。

 

「何でしょうか?」

「副隊長って初めてで。どんなことすればいいか分からないんです。教えてもらえると嬉しいかなー、なんて」

 

えへへ、とみほは笑った。中舎は固まった。答えることが決まった。周りはみほの態度に不信感を覚えているようだった。

強い西住流。強い副隊長。隊長を2年連続務めるまほは、こんな風に笑いはしなかった。

少なくとも中舎は、笑顔を見たことがなかった。

周りの態度が気に食わなかった。舐めたような目線。友だちになれるかも、と考えているような瞳。同じ1年生だと考えていそうな表情。

全部ぶち壊した。

 

「いいえ、まさか副隊長にお教えすることなんてありません! むしろ教えを請いたいことばかりです! 西住家として、誇りを持ってください! 西住として、副隊長としての責務を勤めてください! わたしのようなものに声をかける優しさを下さってありがとうございます!」

 

中舎は声を張り上げた。廊下が静まり返った。1年生が固まった。中舎は頭を下げた。90度。みほの顔は見えなかった。 3年生の中舎が頭を下げた。礼儀を見せた。副隊長の威風を感じさせた。周りの態度が変わる。

1年生が頭を下げて通り過ぎていく。食堂にいるほとんどの生徒が見た。声は中まで聞こえていた。

 

「あ、頭を上げてください」

「いえ。そんな訳にはいきません。わたしは副隊長に敬意を払っております。敬意を払うべきだと知っています」

「で、でも……」

 

みほが言葉に詰まった。返す言葉はなかった。コミュニケーションは断絶していた。

 

「じゃ、じゃあお疲れ様でした。また……ミーティングで会いましょう」

 

みほの言葉は硬かった。中舎ははい、とだけ返した。頭を下げていた。みほが廊下から去るまで頭を下げていた。みんなそれを見ていた。1年の頭に焼き付いた。みほは副隊長だった。副隊長への接し方が決まった。

中舎がようやく頭を上げたとき、もうみほはいなかった。


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