A いいえ違います(多分
それは静かすぎる夜の事だった。草木も眠る丑三つ時、静寂が全てを支配していた。いつもなら多くの職員やサーヴァントが行き来をし多くの笑い声や雑談が聞こえてくるはずの廊下には誰もいない。長すぎる廊下は窓から差し込む月明かりだけに照らされ、どこか儚げにも寂しげにも感じられた。
――昼間とはだいぶ違うな……。
静寂の中足を進める。聞こえるのは、自分の足音と息を吐く音だけ。眠れない夜に気晴らしに散歩でもと思い廊下に出てみたが誰もいないだけでこうも雰囲気が違うとは驚いた。カツカツと響く足音だけをBGMに更に足を進める。
暫く歩いた後、大きめの窓の前で足を止める。いつもは昼も夜も構わず吹雪いているといのに、今日に限っては吹雪はなりを潜め、雪すらも振降っていない。雲一つない空には大きな月が浮かんでおり月光が静かに辺りを照らす。見えるのは純白に染められた山々だけだ。
雪は音を吸収する、だから雪が降れば静かだ。そんな話を昔聞いたことがある。それは確か科学的にも証明されていたことだった筈だ。雪は確かに音を吸収するのだろうが、それ以上に心理的に静かに、静寂に感じさせるような気がする。一歩カルデアから外に踏み出せば、そこはここよりも遥かに粛々たる世界に違いない。寂しげに月光を反射する雪を見てそう思った。
――思えば、こうやって一人を感じるのは久しぶりだな……。
思い返してみると、ここ最近は寝る時以外は常に誰かと一緒にいたような気がする。ジャンヌもオルタも昔から特にレイシフトがない時は基本的に俺の部屋に入り浸っているし、それに加えて最近はリリィと仲の良いナーサリーとジャックもよく遊びに来てくれるようになった。その誰もが来ない日となれば、デオンが来る。そうなってくるとよっぽどのことがない限り俺の部屋には誰かがいることになる。
別にそのことに不満はない。誰と一緒にいることに苦痛を感じる性格でもないし、皆でワイワイと盛り上がるのは楽しいし、好きだ。
でも、かと言って一人が嫌いかと言われるとそうではない。静かに一人孤独で何かを考えるのが好きだった。ここに来る前、冬木でもそうだったし、そしてあのフランスでの日々でもそうだったように、一人になって考える時間というのは必要だ。
こうして窓の外に深々と降りつもる雪を見るとあの時の事を思い出す。
あの中世フランスでのクリスマスのあの日のことだ。凍てつく様な寒さの中、隙間風の吹きこむあの朽ちた教会で自らに問いかけた。
――俺がこの世界に来たことに何か意味があるのだろうか……?
あの日の答えは出た。
あの日と同じく、今の俺の中には疑問がある。カルデアに来てからずっと心の奥底で眠っていた疑問だ。
――俺は、俺は一体何者だろうか……?
小さく吐いた息はただ虚空に消えていった。
その答えはまだ出ない。
「ほう、これは珍しい」
月明かりだけが差し込む静寂な廊下をぼんやりと一人歩き、ドリンクサーバーやソファーなどが設置されている少し開けた休憩スペースへと足を踏み入れた時だった。急に声を掛けられた。目線を向ければソファーに腰かける一人の男が目に映った。紺色の陣羽織に身を包んだ和服の美丈夫は静かに月明かりの下にいた。
「あぁ、小次郎か」
全くの不意打ちだと言うのに少しも驚愕の念が浮かばなかったのはきっと掛けられた声が落ち着いたものだったからだろう。微量の動揺なく言葉を返せた。
彼の名前は佐々木小次郎。最早日本人では知らない人がいないだろう剣豪だ。優雅に座る彼の横には代名詞である物干し竿が壁に立て掛けられていた。
「眠れぬ夜に外に出て見ればめずらしいことに今宵は吹雪いていない。そして、幸運にも満月と来た。よって、月見酒と洒落込んでいたのだ」
何気なくそう言った侍の右手には赤い杯、そして左には一升瓶が座りよく置かれていた。
「月見酒か……なるほどこの風景は確かに肴になるな」
「流石、隊長殿だ。酒のこともよく分かっている。更に欲を言えば日の下であれば今は花見の季節。桜があればなお良い」
「隊長と呼ぶのは辞めてくれ、何だか小次郎に呼ばれると恥ずかしい」
日本人男子なら誰もが一度は憧れる男、佐々木小次郎。物干し竿と呼ばれる長刀を物の見事に扱い、燕をも切ったとも言われる「秘剣 燕返し」の使い手。そんな彼に隊長と呼ばれると何だかむず痒く感じられる。
「そう言えば、確かに今は四月か……花見のシーズンだな」
小次郎の言葉で今の季節を思い出した。四月も初旬、日本では春と呼ばれる時期だ。暮らしているのが年中吹雪いているカルデアだと常夏ならぬ常冬なのでスッカリそのことを失念していた。そして、桜の下で月と桜を肴に杯を傾ける美丈夫を想像してみた。直ぐに脳内に浮かんだその映像はとても絵になった。流石は色男、桜とも月とも見ごとに調和している。
「花見酒に月見酒、その両方が味わえる季節はこの季節だけよ」
まぁ、ここでは叶わない話なるが、そう付け加えて彼は笑う。ジャンヌとは違い薄く微笑むような笑みだったが、彼女と同じようにその笑みからは邪な感覚は一切しなかった。
「まぁ、確かにここじゃあは桜なんて夢の又夢だもんなぁ」
窓の外の雪景色を見ながら応える。相変わらず雪は降っておらず、ただ静寂だけが支配していた。
「桜は儚く散っていく。人の夢と同じ事よ……。夢か幻か。だから桜は美しい。人の記憶に残る。人の心を掴む。それにまぁ、日の下では見ることの叶わない春の雪見酒と考えれば、これはこれで一興よ」
彼もまた俺と同じように窓の外の降り積もる雪を見つめながら口を開いた後、手にする朱色の盃に酒を注ぐと、グッと手を伸ばしこちらに向けてきた。
「さて、隊長殿。酒はいける口であろう。ここは一杯如何かな?」
差し出された盃、その水面には俺の顔が揺れ湯らと揺れていた。
「なぁに、別に兄弟の盃を交わそうとかそんな事ではない。ただ盃がないだけだ。気軽にぐっといてくれ」
小次郎とから盃を受け取り、そのままグッと一気に酒を煽る。米の風味が鼻を突き抜け、まろやかな甘さが喉を通る。
――美味い。
素直にそう思った。生憎、彼が持つ一升瓶には銘が刻まれていないが、さぞかし名高い日本酒だろう。少なくとも俺が今まで飲んだことのある日本酒の中では一番美味い日本酒だ。
「ほう、流石は一個小隊の長。いい飲みっぷりよ」
彼は今度は豪快に笑った。そして、笑いながら空になった盃に酒を注ぎ、次は自ら煽った。
「さて、隊長殿。今宵の予定はお決まりか? 暇を持て余しているのなら、季節外れの雪見酒と共に洒落込むのはどうかな?」
笑いながら問いかけてくる小次郎に対して、
「これだけ美味い酒を前にして嫌とは言えないなぁ」
俺も笑いながらそう返すのだった。こうして、日本から遠く離れたこのカルデアにて美丈夫との季節外れの雪見酒が始まった。
「そう言えば、ここでこうして隊長殿と二人きりで話すのは初めてのことになるか」
盃を傾けながら小次郎が、はたと気付いたようにそう言った。
「そうだな、そう言えばそんな気がするよ」
俺ももうこのカルデアにやってきて結構な時が経つし、小次郎に限っては最古参といってもいいサーヴァントだ。お互いに長い間カルデアで生活して来たと言うのに思い返してみれば二人で話す機会が一度もなかった。
「二人で話すどころか小次郎と会話したこと自体が何だか少なかったしな」
「まぁ、それは仕方のなかろう。お主の隣には大抵あの聖女か彼女のオルタナティブがいる。悪気はないのは分かっているのだが、私が傍にいると無意識の内に警戒させてしまうのでな。悪いと思ってあまり近づかなかったのだよ」
小次郎の言葉を受けてジャンヌ達の態度を思い出す。
「ジャンヌもオルタも悪気はないんだ。許してやってくれ」
「勿論、分かっているとも」
小次郎はそこで言葉を区切り、酒を一口飲むと盃を俺に差し出す。俺も黙ってその盃を受け取って残っている酒を一口含む。
――あぁ、やっぱりこの酒は美味い。
「それにあの時は別として、ここでの出会い頭の件については私が百悪いのでな」
「確かにあの時は焦ったよ。まさか出会い頭に斬りかかられるなんて」
あの一刀を避けられたのは奇跡だ。今思い出しても肝が冷える。悪寒がする。
「そこは軽い戯れとして笑って流してくれると嬉しい」
「あぁ、分かってるよ。小次郎に殺意がなかったことくらい」
そう、もしも彼が俺を殺す気だったのなら、俺はあの一撃で真っ二つだったに違いない。
――だからきっと俺が今、こうして酒を飲めているのはきっとそういうことだ。
「なぁ、隊長殿。私は、雪を見ていると思い出すことがある」
空になった盃になみなみと酒を注いだ後、美丈夫は真面目な口調でそう切り出した。何時もの飄々とした笑みはどこかに消え失せ、まるで戦場に立つ侍のような顔持ちで窓の外を見ていた。
俺も目を外にやれば、いつの間にかパラパラと雪が降り始めていた。
「覚えているだろう? あの街で起こった戦争を」
――もちろん。
降りゆく雪を見ながらそう応える。そして思い出す。
忘れられる筈もない。あの冬を、あの戦争を、そしてあの戦いを。
今でもはっきり覚えている。あの戦争の終わりの日、柳洞寺にて剣を振るったその日は、
――確かに今のような雪がちらついていた。
「なぁ、お主は知っているか? 私があの戦争に望んだ願いを……?」
いや、と素直に応える。
「私はあの戦争に強者との戦いを望んだ。何分生前は山で剣を振り回すだけで対人相手にその得物を振るったことがほとんどなかったものでな。強者どもに我が剣技どこまで通ずるのか試してみたかったのだ」
俺は黙って彼の言葉を聞く。彼の言葉は徐々に熱を帯びていく。
「あの戦いは本当に愉快だった。多くの猛者がいた。獣のような俊敏な動きの槍兵、ギリシアの大英雄、そして、ブリテンの騎士の王……。皆強かった。一刀一刀が打ち合う度に心が躍った。血が滾った。あの戦争、確かにこの身は敗れたが、私は概ね満足していた」
しかし、だ。と美丈夫は熱の籠った口調で続ける。
「しかし、だ。あの戦争で唯一の心残りがある。もはや言うまでもないことだろうが、お主の首を取れなかった。それだけがあの戦争での私の心残りだ」
そう言い切ると小次郎はぐっと盃の中の酒を飲み干した。俺は何も言えずその様子をただ見つめ、彼の言葉を待つ。
「初めて会った時は、何の変哲もないただの有象無象だと思った。多少剣に心得があったようにも見えたが、所詮は人間。それにブリテンの王の様な迫力もなかった。獣如き殺気も感じなかった。一太刀で終ると確信すらしていた。しかし、結果はどうだ。一太刀を耐え、二太刀も耐え、三合四合とサーヴァント足る私の剣と打ち合ってなお、お主の息はあり、そしてあの山門から逃げ帰った。そして二度目もそうだ。あの赤毛の青年と共に我が前に立ち、そして生き延びた」
熱を帯びた小次郎の言葉に、俺は静かに言葉を返す。
――貴方のために祈ります。
俺があの戦いで生き残れた理由はきっと、
「あれは、たまた――――っ」
続く言葉強制的に切り落とされた。眼前にいつの間にか刃が迫っていた。月光を受けて雅に光るその刀は名刀物干し竿。その剣先が今俺ののど元に突き付けられている。冷や汗が流れる。廊下に落ちた盃がやけに響く音を立てて転がる。小次郎はやる気だ。言葉を間違えればこの首は刎ねられるだろう。
「謙遜も過ぎると美徳ではなくなると心得よ。たまたま? 偶然? 確かに私は山門に囚われていた。二度目の時は時間がなかった。あぁ、確かにそうだ。しかし! しかしだ! そんな安価な理由で我が剣技から逃れられると本気で思っているのか? 我が剣技確かに対人相手に試した回数は少ないが、燕をも切り裂いた剣をただの偶然で生き残ることが本当に出来ると思っているのか? もしも、そうならこれ以上の侮辱はないと心得よ!」
射抜く様な殺気を受けてようやく己の愚かさを知った。
「悪かった。俺が馬鹿だった」
口から出たのは心からの言葉だった。
――あぁ、俺は何て馬鹿な奴だろうか。
感嘆にも似た心の叫びはきっと小次郎にも伝わっているだろう。
ふと、圧力が消えた。殺気が消えた。目の前から刀が消えた。
「ふっ、分かってくれればいいのだ」
驚かせて悪かった、美丈夫はそう続けて刀を鞘にしまう。
「ずっと、気になっていたことがあった。あの戦いの事だ」
廊下に転がる盃を拾い直して小次郎が呟く。
「我が最後の一太刀。あれはお主に届いたのか、否か」
彼は何時もの飄々な笑みを浮かべて廊下のある一角を見た。
――なるほどね、ここで彼を巻き込むのか……。
俺も先ほどの小次郎の言葉に思うことがあったので彼に乗っかることにする。
「さぁ……どうだったろうな。肩を切り裂いたのかもしれないし、利き手を吹き飛ばしたのかもしれない。はたまた脚だった気もするし、刃は届いていなかったかもしれない」
「ほうほう、隊長殿も覚えていないとな?」
にやりと上がった口端。
「あぁ、だからこういう時は……あの時の状況を可能な限り再現すればいい。なぁ、そうだろ!?」
廊下の一角。小次郎が視線を飛ばしていた場所に声を投げかける。そこで話を聞いているのはだいぶ前から分かっていた。分かっていたが本人が混じろうとする気配が無かった為、気付いていない振りをしたに過ぎない。
「やれやれ。深夜に怪しい声がすると思い近寄ってみればまさかこんな羽目になるとは……」
そこにいたのは紅い弓兵。やれやれと手を竦める彼はこちらに近づいてきた。どうせ全部聞いていたのだから説明はしない。
「ほう、これは面白い。奇しくもあの時と同じメンバー。これは再戦のチャンスと見たがいかに?」
美丈夫の言葉に、弓兵が続く。
「同じメンバー? 何を言っている? 俺はあの何も出来ない赤毛の小僧とは違うぞ。それに俺も少しばかり悪魔の軍の隊長に借りがあってだな。是非とも生前取れなかった一本を取ってみたいと思っていたところだ」
難色を示すと思われたが意外と乗り気な弓兵を見て驚く。何だかどいつもこいつも血気盛んな奴らが……そう言う俺も最早止まる気はなかった。売られた喧嘩は買わないと男がすたるし、何よりも慕ってくれていたあの部下たちに申し訳ない。
「ふっ、よく吠えたなエミヤ。生前一本も俺から取れなかったというのに、よく言った。先輩と後輩の差は絶対に埋まらないということをおしえてやろう」
「それでは三つ巴の戦いで異議はないな。では、トレーニングルームにでも忍び込むとしようか……我が秘剣お前たちに存分に味合わせてやろう」
小次郎はそう言うとベンチから立ち上がり歩きはじめる。それの背中を追う様に紅い弓兵、俺と続く。
こうしてある静かな夜、熱い戦いの火蓋が切られた。
勝敗は―――――――それは想像に任せるとしよう。