――幸せとは何か。
それはある昼下がりの事だった。ジャンヌはふと、そんなことを考えた。何故そんなことを考え始めたのか、それはジャンヌにも分からなかった。何となく思いついたのがそれだった。いつも通りのバケツ一杯の青いペンキを空というキャンパスにぶちまけた様な青空の下、ジャンヌは立ちどまり、考えた。
空には燦燦と輝く八月の太陽が浮かび、その日光を遮ることなく受け続ているジャンヌの額には少なくない量の汗が見てとれたが、いつも外で遊び回っているジャンヌにとっては気にならないことだった。熱中症やら脱水症状やらは何時も外で遊んでいるジャンヌには心配のいらないことだ。
そして、考える。幸せとは何か。
――美味しいものを食べた時とかかな……。
果物やお菓子が好きなジャンヌは家でたまに出てくるブドウなどの果物や遊びに行った先で出てくる甘いお菓子などを食べることが好きだった。
好きな物を食べる。うん、美味しくない物を食べるよりも、美味しいものを食べる方が幸せだ。だから、きっと美味しいものを食べることが幸せなのだろう。
――でも。
と、ジャンヌは考える。
――お兄ちゃんが言うには私は考える時に後少しだけ考えることが足りないらしいから……。
彼女が言うお兄ちゃんはジャンヌの家の近所に住む黒髪の青年のことだった。どこか、この村の人達とは違う雰囲気と顔立ちを持った青年は面倒見がよくジャンヌを含めたこのドンレミの村の子供たちの兄的な存在だった。そして、それと同時にジャンヌに勉強を教えてくれる人でもあった。
その青年曰く、ジャンヌは少しだけ考えが端的らしい。
そんな指摘をいつも貰っていたジャンヌはもう少しだけ、幸せについて考えることにした。
――確かに美味しいものを食べている時は幸せだけど……うーん、それ以外にも皆と遊んでいときとかも確かに楽しいし。
楽しいということは幸せだ。少なくとも楽しくないよりかはよっぽど幸せだ。毎日、楽しいことばかりだったら何て幸せなことだろう。村の子供たちと遊ぶのは楽しい、間違いなくそう言える。そして、家でのお手伝いやたまにあるお説教は楽しくない、嫌いだ。
――と言うことは、毎日みんなと遊んで美味しいものを食べるのが幸せ?
そしてジャンヌは考える。
毎日、怒られもせずにジャンヌの好きな物を好きなだけ食べられる生活を。
――うん、悪くない。間違いなく幸せだ。
そんな夢の様な生活が出来れば間違いなくジャンヌは幸せだろう。そこに青年も加えればそれはもう言うまでもない。
うんうん。
そう人知れず八月の青空の下、ジャンヌが納得をしていると、目の前を見慣れた横顔が通りがかった。毎日のように見るその顔をジャンヌが見間違えるはずもない。
「お兄ちゃん!」
ジャンヌのその言葉に頭には帽子を被り、鍬を肩に掛けていた青年は顔を向けた。
「おう、ガキんちょか」
そして見慣れた優しい笑み。ジャンヌはその笑顔が大好きだった。思わず緩みそうになる顔をジャンヌは抑える。彼の笑顔は好きだし、彼のことは大好きだ。でも、彼のジャンヌを子供扱いする態度は嫌いだった。どれだけオシャレをしても背伸びをしても彼はジャンヌの事をガキんちょと言って相手にしなかった。
「むむ! 私はガキんちょじゃないもん! レディだもん!」
「そうかそうか、それは悪かった。で、今日はどうしたんだ。こんな所で立ちどまって」
「うん、遊びに行こうと思ったんだけど、その前に少しだけ考え事を」
「ふーん、そうか。それにしても今日は暑いから、そんな格好じゃ危ないぞ。これを被っていけ」
彼はそう言うと笑みを崩さず、左手で自分の帽子を取るとジャンヌの頭に被せた。青年の頭のサイズに合わせているため、ジャンヌではブカブカだ。直ぐにツバが斜めになった。更にツバが大きいため帽子を被るというよりも帽子に被られているような格好になっていた。
でも、ジャンヌはこの帽子を取ろうとは思わなかった。せっかく青年が被せてくれた帽子だし、何だかこの帽子を取りたくなかった。帽子を被り幾らか日光を遮っているはずなのにジャンヌには何故かさきほどよりも少しだけ体が熱くなったように感じた。それが何故なのかは分からない。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「どういたしまして」
彼は左手でポンポンと帽子の上からジャンヌの頭を撫でた。ジャンヌはこの手が大好きだった。小さい時から畑仕事をして豆がつぶれ固くなったその手が、何よりも好きだった。
「ねぇ、お兄ちゃん。一つ聞いてもいい?」
「ん、なんだ? 俺に答えられることなら何でもいいぞ」
ジャンヌは先ほどまで考えていたことを彼に聞くことにした。勉強を教えて貰い始めて以来、いやそれ以前から彼はジャンヌが知りたいことを全て知っていた。それこそ、ジャンヌは村の大人たちにも負けないくらい頭が良いと思っている。
「――幸せって何かな?」
ジャンヌの言葉を聞き、彼は顎に手をやり少しだけ考えた。しかし、それはすぐに終わり彼はいつも通りの優しい口調で話し出す。
「じゃあ、君はどう思った?」
彼は何時もそうだった。ジャンヌが何かを質問するとき、必ず彼は先にジャンヌの考えを聞いた。それが合っていても間違っていても必ずジャンヌの考えから聞くのが彼だった。
「私は、毎日美味しいものを食べて、そしてお兄ちゃんや皆と遊ぶことが出来たら幸せだと思った」
「なるほど」
彼はそう言うとまた少し言葉を止めて考え始めた。今度は少しだけ長かった。口に出す言葉を色々と考えて推敲しているように見えた。
暫く立って漸く彼は口を開いた。
「確かに、そんな生活は楽しくて幸せだろうね。間違いなく幸せの一つの形でもある。でも、それは刹那的な幸せだよ」
「ん? それってどういう事?」
「これは難しい話だからね、今はまだ理解できないかもしれないけど、こういうことは誠実に伝えておくべきだと思うからありのまま俺の考えを伝えるね」
「幸せっていうのは概念だからね。だから、その反対の言葉を実感できないと幸せって分からなくなるんだ。例えば、毎日毎日遊んで、好きなものばかりを食べていると楽しいということや、美味しいということがどういうことか分からなくなってくるんだ。意味が薄れていくんだよ。楽しいと言う言葉を実感するためには反対に辛いと言うことを体験しないといけないし、何かを食べて美味しいと思う為には、それとは逆に何か美味しくない物を食べていないといけない。だから、幸せっていう概念は何時だって不幸という言葉とともにあるんだ。まぁ、これは俺の考えだから、他の人にとっての幸せはまた違う。俺には俺の幸せがあって、君には君の幸せがある。幸せは個人差があるから、君がそれを幸せと思うのならそれでいいと思うよ」
ジャンヌは話の全部は理解できなかったが、彼の伝えたいことは分かった。
「じゃあ、お兄ちゃんは何が幸せって何?」
「俺にとっての幸せは―――――だよ」
「それってどういうこと?」
「あぁ、すまんすまん。分かりにくかったな。じゃあこう言おう。俺はこうして毎日このドンレミの村で畑仕事をしながら暮らすのが幸せだってね。辛いことも楽しいこともひっくるめて、こういう何気ない日常生活こそが幸せなのさ」
彼の答えに、ジャンヌは
「えー、そうかなぁー」
と少し不満げだった。八月の青空の下、確かにこんな話があったのだった。
「――ん」
「お、起きたか」
目を覚ますと目の前には見慣れた顔。
「あれ、何で私はここに?」
「いや、そんなことを俺に言われてもな、お前が勝手に炬燵で寝始めたんだろ」
困ったような顔でそう言われ思い出した。
――私、お兄ちゃんの部屋で炬燵に入りながら話していて、それでいつの間にうとうとして……。
よくみれば上着まで掛けられている。男性用のジャンヌには大きいものだ。
「そっか、私あのまま……。上着ありがとう」
「別に気にするな。風邪でも引かれたらことだしな」
部屋の主はそう言って笑う。優しい笑みだった。
「私、どれくらい寝てた?」
「うーん、一時間くらいかな」
部屋の壁に掛けられている飾り気のない時計を見れば午後三時過ぎを示していた。
「ごめんね、急に寝ちゃって」
「いや、気にするな。毎日レイシフト続きで疲れてたんだろうしね。なんか幸せそうな顔してたけど、良い夢でも見たか?」
そう言われて思い出す。
「全部は思い出せないけど、昔の夢を見ていたような気がする。ドンレミの村で過ごしたあの時の……」
どんな夢かはもう思い出せない。でも、思い出せないと言うことは幸せな夢だったんだろう。そして、ジャンヌはふと、心に浮かんだ言葉を口に出す。
「――ねぇ、お兄ちゃん。今って、幸せだね」
なんでそんな言葉が出たのかジャンヌ自身でも分からなかった。毎日楽しいことばかりでない。レイシフトで強敵と戦うことも多い。でも、何故かそのセリフはストンとジャンヌの心に落ちた。
そんなジャンヌのいきなりの言葉に青年は少しだけ戸惑いながらも、
「あぁ、そうだな」
そう返すのだった。
それからすぐにジャンヌが青年に寝顔を見られていたことに気付き、赤面させることになるのは別の話であり、そしてその赤面して床を転げまわるジャンヌの奇行の理由が分からずに青年が頭を悩ますのはもっと別の話だ。
女心と秋の空。
青年が女心を理解するのはまだ先のことになりそうだ。