―――あれからどれくらい経っただろうか。
あのゾンビ。保菌者に噛まれた者達の末路。
目の前で顔見知りが、友達が、親しかった先生が、守ってくれた人が死んでいく。
こんな生き地獄で精神状態がまともにいられる筈がないのが普通だが、そこで特に身体を張り、皆を励まし続け安心させ続けたのは大人達以上に香里だった。
時には何も言わず寄り添い、時には力強く励ます。時には涙を我慢する程の悲しみを堪え…… その小さな身体で本当に頑張ってくれていた。先生達も『どちらが大人か判らないな』と微笑むまでには精神を安定させることが出来た様で、少なくともパニックによる人間同士の二次被害は起きない。それだけが せめてもの救いだと言えるだろう。
そして今。龍は視聴覚室にあったPCの電源を入れ忙しなくキーボードをたたき続けていた。最初はノートとペンだったのに、と言うツッコミはもう無しだ。
もう誰にも明かすつもりはないが 正直 死を覚悟していた龍は、遺書のつもりでノートを使っていたから。
でも、消防隊の皆に尻を叩かれ、香里には泣かれ 完全に目を覚ました。
諦める様な気持ちは一切持たない事を。
だから今できる事をする。この小学校の場所。その地理情報。周囲の建物。全ての情報を頭の中に入れつつ、最適なルートを導き出す。ネットの情報も同時に照らし合わせながら。
この場所にとどまり続けるのはまだ可能だ。だが、それでも備蓄には限界があるのも事実。消防隊の皆が無事である事に疑う余地はないが、此処に救助に来る事が出来るのは何時になるのか、正直皆目見当がつかないから出来うることはしなければならない。物資の補給。そして最悪突破された時の対処法から脱出ルートの確保。と徐々に形を成してはいくもののまだまだしなければならない事は残っている。
でも――そんな忙しい時なのに、龍の手は時折止まってしまう。
その右手には包帯が巻かれており、血も滲み出ていた。そう、そこは保菌者に噛まれた所。正確には自分自身のミスでの負傷。バカ話にもならない傷だ。そこを中心に まるで広がっていく様に痛みが全身を駆け巡る。そんな痛みを前にしても竜は表情には出さない。自分の不安が全体の不安へとつながっていくのを理解しているからだ。
だが、それでも 時折手が止まってしまう事だけは どうしようも無かった。
「ちっ……
……因みに痛みのせいで止まる……のではなく、単純にタイピングがどちらかと言えば苦手だからと言う理由だったりする。机の上でカタカタするのは性に合わないらしく、実地試験の方が得意だから。だから 禁断症状の様に 手が止まる。それに痛みが合わさって更にムカつく。
つまり、竜にとって痛みはどうって事ない。どれだけ痛かったとしても 自己暗示の様に 痛みを多少コントロールする事が出来るからだ。
「でもまぁ、残せるもんは残さないとな。……皆に怒られそうだ」
痛みはコントロールできる。でも、命の終わりまでコントロールできるか? と聞かれれば頷けない。でも 最後までやるしかないのだ。
あの時の無線。もう繋がっていないが、はっきり言ってしまったから。『やれば良いんだろ!』と啖呵切ったのだから。そして、何より……。
「竜せんせー。珈琲入りましたー。ちょっと一服しましょうっ!」
笑顔を絶やさず、世話を焼いてくれる少女……香里がいるからだ。
この子の前であれば、自分は無敵にすらなれる。と本気で思ってしまっている自分がちょっぴり恥ずかしいとさえ思ってしまう。
でも、ただただそれに甘えるのは (精神的な)大人として失格だ。
「オレの前では無理しなくて良いぞ香里」
「っ……え、えー? 大丈夫ですよっ! だって、せんせーがいてくれるんですから!」
大丈夫、と言っても竜は知っている。
香里が携帯電話を時折持っては辛そうな表情をしているのを。
「香里」
「は、はい?」
「よく頑張ったな。これはオレからのプレゼントだ」
「え、え……(ま、まさか……ちゅー…… き、キス、かなっ!?)」
香里はこの瞬間だけ、大変だった事。今も続いている事。悲しかった事などが 少々不謹慎ではあるものの全部忘れる事が出来た。
張り詰めた空気の中、頑張り続けたのだから、この位香里が欲しても誰も文句は言わないだろう。
でも――文句は言わないが、勘違いしてしまう、と言うのは香里自身の責任だ。
「これだ」
「……え?」
目をぎゅっ と閉じて 『いつでもどーぞ!』と言わんばかりに、僅かに唇を突き出して待っていたのだが……来たのはノートパソコンの画面。
本当に一瞬。……一瞬だけ険しい乙女の表情になったのは言うまでもなかったが、直ぐに食い入る様に画面を見つめた。
訊いた事のある高校の名前…… そして 救出の文字。安全な移動手段……etc
目を向ける部分が山ほどあって追いつかなかった。
「ずっと心配してただろう? 兄の事。万全にとは言えないが助ける手段は整った。一番は 先生達が大型バスを補強してくれたおかげだな」
ここでの攻防戦の際、学校の壁を壊して侵入してきたのを除いて大型車の侵入は二度程あった。 1つは保菌者に襲われたのだろう。そのままコントロールを失い、学校の直ぐ横にある住宅マンションに衝突し炎上、ガソリンに引火して大爆発を引き起こした。
そして、もう1つは幸運にも無傷だった。
大型バスで逃げてきた運転手が 学校付近にまで逃げてきた所でバスを乗り捨て バリケードを超えて逃げ込む事が出来たから。燃料もほぼ満タンである事も幸運の1つだった。
後は簡単。龍が難無く群がってきた化け物達を一蹴して、安全地帯を少し広げるだけでバスの回収も済んだ。
運転手が目を白黒させながら『アンタ、何者だ!?』と驚いていたのは無理もない事だろう。
『私達のせんせーですっ!』
と香里は胸を張り。
龍はそれに乗る様に にっと笑顔を香里に見せると。
『オレに勝てるヤツはこの辺にはいない。もしこの辺にいる。来てるのなら もうオレ達は助かってるよ』
それで疑問が解消される筈がなく、運転手は暫くずっと目を白黒させていた。
龍の話から それが消防隊の仲間の話、と連想させ、理解するなんてできる訳ないから。
余談はここまでにしよう。つまり 移動手段はもう手に入れてあるという事だ。
でも全員を連れていくには当然往復しなければならない。保菌者たちを間違いなく引き付けてしまう為、安全なルートを何通りも検討しなければならない。
そして何よりも――助けるのは 自分達だけで良いとは考えていない事だ。
「香里の兄のいる高校はここから近い。だから さっさと連れてくるよ。家族は、一緒が一番だからな」
龍は香里の頭を二度、三度と撫でた。
そして 無言の涙。張り詰めていたものが一気に流れる様に出てくる涙。
香里は兄の事も心配だった。大好きな兄だから。そして龍の事も同じだった。保菌者に噛まれた人が死んでいくのを見てきて、本当に気が気じゃなかった。いつ、この笑顔が見れなくなるのか、と仮眠をとる事だってしたくなかった。目を離している間に……と悪く考えてしまうからだ。
でも、今はどうだろう。
兄を助けられるかもしれない。
そして 龍は笑顔だ。いつもと変わらない笑顔だ。
「大丈夫だ。……オレが全部守ってやる。約束、しただろう?」
泣き続ける香里を抱きしめ、背を摩る。小さな身体で、その小さな背に大きなものをずっと乗せ続けてきたのだ、と改めて龍は感じていた。
「あ、ありがとう……ござい、ます。りゅう、せんせーーっっ!!」
抱きしめ返す香里。格好悪い、と思う気持ちも少なからずあるが、それでもわんわん泣き続ける。どさくさに紛れてお礼のキスを……とも考えられずに泣き続ける。
暫くして落ち着きを取り戻した所で 龍は笑顔で言った。
「香里が頑張り続けたからプレゼントだ。……でも、ちゃんと我慢してもらう所はしてもらうからな?」
「え……? 我慢??」
「ああ。……香里」
笑顔だった龍の表情が真剣なものへと変わった。
そして、香里が自分が考えていたことを龍にあっさり見破られてしまった事に次の言葉で気付く事になった。
「一緒に付いていきたい。は