---とある将校side---
1935年5月18日
イギリス ドーセット ボヴィントン陸軍病院
私の人生は苦しくも悔いのない人生だった。私は栄えある国王陛下に仕える陸軍将校として帝国の国益のために全てを捧げてきた。
だが私は帝国の国益の代わりに多くの憎悪と争いの種を植え付けてきた。私はどうせ地獄に行く。ならばせめて悔いがないように私の滑稽で道化のような人生を思い出していくことにしよう。
私はウェールズのトレマドックで生まれた。大学生になるとオックスフォード大学のジーザスカレッジで考古学の勉強をした。昔から考古学が好きで20歳の頃自転車でフランスを旅し、古城を見て回った。
大学卒業後はアラビア語習得のため、レバノンのビブロスに滞在した。我が恩師であるデイヴィッド・ホガース博士率いる大英博物館調査隊に参加しカルケミシュで考古学の仕事に従事した。
私は若干の帰国の後中東に戻り、レオナード・ウーリー博士と共に研究を続けた。研究の傍ら、私と博士はイギリス陸軍の依頼を受けネケヴ砂漠の水源調査を行い、地図を作成した。
戦争が始まると、私は召集を受け陸軍省作戦部地図課に勤務することになり、12月にカイロにある陸軍情報部に転属になった。さらに2年後に外務省管轄下のアラブ局に転属となった。この頃私は大尉に昇進していた。
私は任務を通じてハーシム家当主の三男ファイサルと接触した。私は彼と配下のゲリラ部隊に目をつけ、アラブ独立のためにと共闘を申し出ることにした。
ある時、ゲリラ部隊の面々と接触する機会があった。私はその中に気になる女性を1人見つけた。彼女はアングロサクソンでもアラブでもなく明らかに東洋系の顔をしていた。栗色の髪で目は大きく顔も整っていてまさに美人といった顔立ちだった。服装もスカート以外は見たことのない服装をしていた。
不思議だったのは彼女は顔や服装は明らかにイギリス人ではない。それにもかかわらず、彼女は美しいキングスイングリッシュを話したことだった。
彼女とティーパーティーを繰り返して行くうちに打ち解け、信頼できる仲間となった。そして彼女とはその後の戦場を共にして行くことになる。
1921年に私は本国からの命令でイギリスに戻ることになった。彼女らは最後の夜に宴を開いてくれた。夜通し歌い踊った。その夜は私にとって人生で最も楽しい夜になった。
私はイギリスに帰ると激しい恥辱と自己嫌悪に取り憑かれた。いや、アラブにいた時からそうだったのだがイギリスに帰ってからさらに悪化したような気がした。
政府はアラブ独立のためと言っているがそれはあくまで建前で、戦後はフランスと分割統治を計画していた。さらに独立を約束した土地にユダヤ人にも国を作る約束をしていた。私はそれを隠して任務にあたってなければならなかった。
私はしばらく名前を変え行方をくらますことにした。最初は空軍にいたのだがすぐに正体がバレてしまった。2回目は戦車隊にいたのだが私はこの部隊が好きではなく、空軍に復帰すること申請し受理された。わたしは1935年に除隊になるまで空軍で勤務した。
除隊から2ヶ月後、私はここの近くでバイク事故を起こした。2人の子供を避けようとしたのだ。そしてここに担ぎ込まれ今に至っている。
私はもうすぐ死ぬ。これで思い残すことはない。ただ一つだけ残念なのは彼女ともう会えないということだ。生きている間も死んでからもずっと。私は地獄に落ちるが彼女はきっと天国に行けるのだろう。
---第三者side---
イギリス ドーセット州 モートン 聖ニコラス教会。ここにあの将校の墓はある。墓にはこう刻まれている。
" TO THE DEAR MEMORY OF
T.E.LAWRENCE
FELLOW OF ALL SOULS COLLAGE
OXFORD
BORN 16 AUGUST 1888
DIED 19 MAY 1935
THE HOUR IS COMING & NOW IS
WHEN THE DEAD SHALL HEAR
THE VOICE OF THE
SON OF GOD
AND THEY THAT HEAR
SHALL LIVE
DOMINUS ILLUMINATIO MEA
そして墓前にはティーポットと2杯の紅茶が置かれていた。
『作戦が50回阻止されたら、51回目で目標を成し遂げる』 ートーマス・エドワード・ロレンス
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