空から暗幕でも垂れ下がったような、帳が視界を遮断する夜だった。
見上げれば、紺と紫が混ざり合ったような夜空に澄んだ星が美しく瞬いていて、こんなにも美しい夜なのだから今夜の公演は成功するだろうと、短絡的なことを考えてしまう。
公演は成功するのだろう。
ダートが所属しているそのサーカス団はこの近辺でしか興行をしないけれど、その分この辺りでは信用のある一団だ。
それはきちんと理解していて心配など殆どしていないのに、それが堪らなく寂しいように思えるのは自分が“其処”から居なくなってしまうことを自覚しているからか。
喉の奥からせり上がってくるものに咽て、力無く咳をした。
咳をして失う体力を温存しようと口元に押し当てた手が、吐き出した血でべとりと塗りたくられる。
自分がもう限界であることを、男は理解していた。
諦めるように、諦観するように。
力を抜いた腕は冷たく冷えきった地面に付いて、まだ意識ある程度には残っている僅かな体温を奪っていく。
閉じた瞼の裏には、彼が先ほど目撃することになったその光景が未だ焼き付いていた。
夜の闇夜に溶けて消えそうな黒髪をした、痩身の体躯。
逃げ道を塞ぐようにして立っていたものだから、今宵が満月にほど近いといえども逆光になってその顔までは見えなかった。
少なくとも、女では無かったのは判る。
話すつもりは無いようだったけれど、その男は彼に対し一方的な言葉は告げていたから。
「気に食わないんだよねぇ、キミ」
そう淡々と、人間相手に告げているような調子でもなく無関心にそう言った声は、男としては高くも低くもなくて、ただそんな時であるのにも関わらず耳障りの良い声だと思った。
その男が何かを語り始めたら大抵の人が耳を傾けるのではないだろうかと、そんなことを考えながらふと“彼”のことを思い出して。
「――綺麗さっぱり消えてくれない?」
殺気も敵意も殺意もなく、手慣れたように振り下ろされるナイフの奥をただ見つめていた。
月明かりの下、ぼんやりと怪しくも美しく光る瞳。それは今宵の夜空とも違う、けれど宵闇を思わせるような眩い紫紺の瞳。
男は、ソレから目を離すことが出来なかった。
理解してしまったからなのかもしれない。少なくとも、彼はそう思ってしまったからかもしれない。
理不尽のように唐突であった現状が、報いであるのだと。
かつて、という前置きすらもいらないほどつい最近のことだ。
彼自身もまだ完全に忘れ去ることなんて到底できていない、二月から三月程前のこと。
男は、己を刺したのと同じ色をした瞳を知っていた。
珍しい色だと、顔を合わせた時にはまじまじと見てしまったし、男以外にもその瞳に見惚れる団員は多かった。
“彼”という道化師の人気には、瞳の色も少なからず関係していたのだろう。
だけど、アイツは死んだ筈だ。
一月近く前。この目でその死体を確認した訳ではないけれど、飛ばされた先の一団は誰かの襲撃を受けて皆殺しにされた筈で。
身元確認といってもアイツを証明するものなんて何も知らなかったから、死体の中に転がっていたというアイツが愛用していた仮面を代わりに見せられた。
あれは、確かに彼のものだった筈だ。
それならば目の前にいるのは。
嗚呼そういうことなのだと、突拍子もない事を男は思った。
紫眼の亡霊が。死に追いやった自分を殺しに来たのだと。
カタン、と玄関側から聞こえた音を捉えて手を止めた。
それは決して大きくもない物音。次いで、誰かが去っていったような微かな足音を確認し、飲む行動を停止していた手元のカップを机に置く。
朝から一体何だったのだろうか。
去っていったみたいだから来客では無かったようだけど、何の用も無しに誰が泊まっているかもわからない部屋の前で止まることなんてない筈だ。
手伝えることは無いかと聞いた筈の僕は、ヒソカに言われたように大人しく椅子に座ったまま、いつも通り追い出されてしまったキッチンの入り口を睨むように見る。
手元にはまだあたたかいホットミルク。
ちびりちびりとそれを飲みながら、玄関の様子を見てこようかどうしようかと垂れた足を揺らした。
「フーラ、」
ふと、聞きなれた声に呼ばれて反射的に返事をする。
キッチンからの作業音が一部聞こえないと思えば、顔を覗かせていたヒソカが告げた。
「買ってた新聞が届いたから取っておいで♣」
「わかった」
地に足を付けて立ち上がりながら、嗚呼あれは新聞の配達だったのかと納得して息を吐く。
昨日部屋を借りた時に、数日分の料金と追加で幾らか払っていたのはこの為だったのだと、疑問ともいえない疑問が解消された。
ハンター試験を終えて、約一週間。
合格者への説明会後、解散ということでいつも通り一緒に行かないかと誘うヒソカの言葉に、数か月単位ならと頷いた僕等は天空闘技場へ向かっている途中であった。
試験の為に十日間以上を外界と隔離されていた僕達は、その間に外では何があったのか何も知らない。流れを知る為に新聞を購入するのは確かに手だろうと思いつつ、扉の差込口に挟まれていた紙の束を手に取った。
そしてふと思うことがあって、回収した新聞を開いて内容を軽く斜め読みする。
政治経済、大統領、株の暴落、為替の変化。
犯行予告、盗賊団、賞金首、注意勧告。
強盗、犯罪、詐欺。
数日前に起こった事件を追う記事や、昨日起こった出来事を載せている内容を適当に流し見て、一つの記事に目を止める。
『震撼、幼い少女を襲った悲劇』
そんなどこかで見たような小見出しを付けられ、他のものよりも幅を取られた今が旬なのだろう記事。
部分部分を拾って読んでみれば、その事件は丁度試験が始まった頃に起こり、他の要因を絡めながら今日まで関連性のある事件を追ってきたものだったらしい。
『今月七日に行方が分からなくなった五歳の少女が、翌日の夜殺害された状態で見つかった事件のことで――――またひとつ進展が――――数日前彼女が行ったサーカス団のメンバーが四人――――公演後、行方がわからなくなり翌日の未明~の路地裏で死体で――――最初の事件で亡くなった少女の目が刳り抜かれていたのと同様に――――犯人が持ち去ったものと――――…』
「ふーん…」
内容が把握できる程度に読んで、意味もなく声を出してみれば、心底つまらなそうな声が出たことに自分でも驚いた。そして確かにつまらなくなってしまったと、訳もなく頬を膨らませる。
「あ~あ、だから折角忠告したのに」
逃げきれなかったんだな、あの子。
と、小さく呟きながら用の無くなった新聞を畳んで机の上に置いた。
静かに目を閉じれば、サーカス団を移る時に話しかけてきた小さな女の子のことが思い出される。
僕を見上げて大きく開いた金色の目。
零れ落ちそうなそれの色は今思い出してもやっぱりよく似ていて、お客様だったのに思わずその目に手を伸ばしてしまった。
あのサーカス団は、偽装した僕の死体を含めて四人の団員が死んだらしい。
死んだのが誰で、誰が殺したのかはどうでも良いけど、事件の噂が影響してサーカス団が解散してしまったことに関しては、少しくらい思う所もある。
「紫眼の悪魔、ねぇ」
死体に残された判りやすい特徴から、事件の犯人ではないかと言われている殺人鬼の呼び名を口の中で転がす。
闇夜のなかで、その目だけが浮き上がって光っているように見えたことでそう呼ばれるようになったB級賞金首。快楽殺人者だとか、実は殺し屋だとか、容姿だけではなく目的も解っていない犯罪者。
その殺しかたの特徴は単純明快、目だけが刳り抜かれている。綺麗に。
それも金色の目ばかりが。
目が細まって、思考を巡らしながら表情が乏しくなっていくのが自分で分かった。
嗚呼、あいつが。
目の前の机に倒れこむようにして、投げ出した腕で顔を覆う。
まただ、と酷く荒れて暴走しそうになる思考と、これは違うのだ、と冷静になろうとする思考が交じり合った。
蘇るのは思い出さないようにしていた一つの光景。
その姿を思い出す度に、もうとっくの昔に経験して終わった筈の絶望が蘇って、あの時に戻ってしまったように錯覚する。
殺さなきゃ、殺さなければあの男を。
ゆるさない。なんで、ひどい。どうして僕は。
八つ当たりだって、これは僕の虚しい反抗期なんだって自覚しているけど、でも、だからって。
「……母さん」
はくり、と動かした唇で模ったその言葉は、音にならずに溶けて消えた。
ひとまず試験編はこれで終わりっ!
無理やりですけどとりあえず終了。
ここから先は、恐らく原作無視です。
原作の物語に主人公は関わっていきません。多分壊れもしません。
オリジナル展開ではなく、うーん…オリジナルストーリー? に、なります。
ほら、あらすじにも主人公の足取りを追っていく物語的なことを書いておりますし。(多分)
原作に関わっていく主人公を読みたい方は、おすすめ致しません。
そんなの関係ない、何でも読める雑食ですぜ。って方はのーんびり気楽に待っていただけると嬉しいです。