“彼”は、こう表現するのもどうかとは思うけれど、優秀な道化師だった。
そう、例えばその天才性に気づいてしまった団員達が酷く狼狽し嫉妬するくらいには、その青年は余りにも例外過ぎた。
経験で補えるものではない。
技術で賄えるものでもない。
己にはもうその道しかないのだと信じて、血反吐を吐きながら身に着けた芸が、技術が、感性が、磨き上げた技が。
ただ一度。
その数回を見ただけで、呆気なく彼はそれをやってのけてみせる。
青年は、疑いようもなく天才だった。
何千人何万人に一人かしれない。けれど彼を目の当たりにした人間の尊厳を損ね、奪い取ってしまう程に、どうしようもなく天災でもあったのだ。
無自覚に。
意識など無く。
彼は、団員達の僅かな自信と誇りを足掛けにしていた。
それでも、男達の意思までが折れなかったのは、青年が道化師としてしか存在しようとはしなかったからか。
団員としてある為の役割、立場。
彼は、それだけ多くの技術を盗み蓄える才を持っているにも関わらず、どうしてか道化師という役割にしか執着しなかったのである。
技術を学び取って、磨いて。
けれど舞台に立って観客に見せるのは、芸のパロディ。
滑稽な、それでいて上手い失敗の仕方を模索して自らの芸としている。
誰にでも出来るようで、誰にも出来ないソレを道化師の彼は得意とした。
まるで馬鹿にされているようで腹が立った者もいたかもしれない。
それでも団員達が感じたのは、深い安堵の思いだった。
嗚呼、良かった。
“彼”が道化師で良かった。
彼が道化師でいてくれて良かった。
それなら、それなら私たちは――――まだ、此処に居られる。
団員達には自尊心など、もう既に無かったのだ。
その頃には、青年はサーカス団において恐れられる存在となっていた。
出来る限り彼と関わることが無いように。これ以上の技術も芸も奪われることのないように、練習でさえ各自ひっそりと隠れてやるようになっていたのである。
まだ幼い子供たちはそれでも無邪気に彼に近づいたけれど、誰かしらが言い聞かせて止めている内に態度が変わった。
特に顕著に変わったのは、悪戯好きで団員達を困らせることの多かった双子の少女達だ。
彼女達は、彼の姿をその目に入れた瞬間怯えたように身体を震わせるようになった。
何に怯えているのか、何をされたのか。
問いかけて宥めながら根気よく話を聞いたけれど、彼女達から聞き出せたのは要領の得ない話ばかり。
それでも、二人が何かを見たということは理解できた。
――――今思えば、その時に止めていれば良かったのだ。
下手に探ることもなく、放っておきさえすればその内、団員達には肌が合わないと気付いた団長が追い出してくれる。
それまで、待っていれば良いだけだったのに。
好奇心と、猜疑心。
何度注意しても悪戯を止めない、無邪気な悪餓鬼であった少女達をここまで怯えさせた何かに興味を抱いて、そして同時に恐ろしかった。
彼が何者であるのか、何を隠しているのか。
気にしてはいけなかったものに踏み込んで、男はその足元を崩すことになったのだ。
あの夜、公演後の機材整備に駆り出された彼の帰りが遅くなったその空き時間、男は彼のテントに侵入した。
彼のテントは休職しているピエロのものをそのまま使用している。だから男達のものと型は同じだったし、そもそも鍵なんてものも付いていない。
勝手に誰かのテントに入るのはプライベートを壊すとして推奨されていなかったけど、彼女達が悪戯目的で侵入したのだと言っていたのだから手がかりを探すにはそこしかない。
『悪戯してやろうと思ったの』
『彼、驚かそうとしても笑ってるだけだったから』
『ちょっと困らせてやろうと思っただけなの』
『大切なものをちょっと隠してやろうって』
『動揺させたかっただけなのよ』
『でもね、』
『『……みちゃった』』
彼のテントには、私物なんて殆ど置いていない。
仕事用具が箱一杯と、仕事用の衣装が何点か。公演時やメイクをしていない休日に付けているらしい道化師の仮面が予備なのか数枚あるだけ。
それ以外には、ただ大きな鞄がひとつ。
思い出す。
この鞄は彼がここに来た時には既に持っていたものだ。手放すことなく、結構な頻度で持ち歩いている箱のような大きな鞄。
楽器でも入れるような、長方形で細長い黒い箱。
一見、棺桶のようにさえ見える鞄は頑丈なのか傷一つ付いていなくて、その大きさといえば人が一人寝転んだまま入れる程である。
そこまで考えて、これには何が入っているのだろうかと男は思った。
普通に考えればこれもまた仕事道具だろう。けれど、それが無いと落ち着かないというようにこの鞄を気にしていた青年の姿を知っているから、気になった。
それが、好奇心からこのテントに侵入した幼い少女達と同じ行動をしているのだとも知らずに、男は鞄を開ける。
「…………? っ、…」
なんだこれは、
一目したとき男はただそう思った。
それはまるで人形。
陶器か蝋で出来ているような、精巧で繊細な等身大の人形。
細身のドレスに身を包み、そのまま眠ってしまったとでもいうように儚くも未だ眠り続ける妙齢の女性。
背徳的で、退廃的で、耽美な姿がそこにあった。
それが、それ自体が美術品であるような、いっそ完成しているようにさえ思えるような“終わった”美しさ。
息をのんだ。
呼吸を忘れた。
景色の色が褪せて見えた。
あまりにもソレに飲まれてしまいそうになって、伸ばしてしまった手は人形の頬を掠めて止まる。
一瞬触れた肌は、当然温もりなどなかった。
生きている筈などない。それでも、その一瞬だけで男は気づいてしまった。
悲鳴なんて上げられない、そんな余裕などとうに無い。
ただ、ここから逃げ出したくて。
こんな恐ろしいものを一瞬でも美しいと魅せられてしまった自分にも恐怖して、ソレがもう見えないように鞄を閉じる。
嗚呼、自分はやってはいけないことをした。
見てはいけないものを、知ってはいけないことを知ってしまった。
双子の少女と同じように知る筈のないことを知ってしまって、同じように彼が恐ろしい人間であることに気づいてしまった。
後悔をしても、もう遅い。
逃げるようにして、テントを出る。
途中で彼の姿を見てしまって、もしかして自分が彼のテントから出て来るのを見られてしまったのではないだろうかと身の毛がよだった。
急がなくては。
急いで逃げないと、遠くへ。
あいつをどこか遠くへ追いやらないと今度は、自分たちの身が危ない。
一瞬でも早く。一秒でも短く。
少しでも、もう自分達が青年と関わらずに済む場所へ。
殺すつもりはあった。
敢えて碌な噂を聞かない同業者との繋がりをとって、団長にも黙ったままに身代と情報を売り払う。
あわよくば、そのまま死んでほしいと思っていた。
男がその手で殺そうとするには青年は余りにも恐ろしくて、だから誰かが殺してくれることを望んだ。
あんな、
あんな趣味の悪いものを持ち歩く彼を。
穏やかに笑っているようで、誰の姿も認識していない狂人を。
殺してくれ。
死んでくれと。
横たわった冷たい裏路地の道の上。
ぼやけた視界で男が見たものは、暗い宵闇の夜空だった。