『――――お待たせしました、目的地に到着です』
飛行船内全域に流された放送を聞いて、ふと顔を持ちあげた。
反射的に声に反応して正面を向いてしまった僕の目に映るのは、同じ背格好の男が映り込む、壁に貼られた一枚の板。
僕が右手に刷毛を持っていれば、目の前の男は同じものを左手に持っている。
自分の姿が映り込んだ鏡の前に僕は立っていて、刷毛には白粉を溶いた水がたっぷりと含まされていた。
それを戸惑いなく顔に塗りつけて、顔の形がわからなくなるほど大げさに上から色を付ける。
長年見慣れた道化の顔が鏡の中に出来上がると、化粧の為に上げていた髪を下した。
長い前髪が視界の端にちらついて邪魔ではあるけれど、仕事中でもあるまいしわざわざ撫でつけて整える必要も無いだろうと、僅かに癖の付いた髪に指で櫛を通す。
母よりも色が暗いけれど、それでも良く似ている自分の灰色の髪を僕は嫌いではなかった。
女でもないし流石に長く伸ばそうとは思わなかったが、愛着があるのは確かだ。
ただ、気に食わないのは鏡と向き合えば嫌でも目に入るこの瞳。
生物学上の父親に似ているらしい、紫の目。
その二つの色が、確かに自分はあの二人の子であるのだと、仮面に隠していた不快感を燻らせる。
これ以上見る必要も無いと、目線を外してため息を吐いた。
そもそも、僕はあのまま試験が終わるまで仮面を付けていたって構わなかったのだ。
そりゃ邪魔になる場面もあっただろうけれど、不便であると思ったこと自体は余りない。
だというのに、暫くの睡眠をとって目を覚ませばあの男は、付けていたものも予備の仮面も全部取り上げて化粧の道具だけ置いて行くのだから、愉快犯にも程がある。
僕がこの目を好いていないの知っているくせに。
知っているからこそなのか、あの鬼畜め。
嫌っているのに散々助けられて、商売道具としても優秀であるから尚の事複雑で。
時折、わざと見せびらかして晒して、誰かの依頼で群がってきた後ろ暗い職業の男達を蹴散らして遊んでいるヒソカのことだから、これも意味のない事ではないのだろう。
まぁ、彼奴が何を考えていても僕には関係ないのだけど。
集まる受験生達の後を追いながら窓越しに外を見れば、せり立った崖の上に一つだけ建てられた塔のようなものが見えてくる。
一所に集まった彼等の騒めきが聞こえるようになる頃には、それがへこみも出っ張りも何もない簡素な外観をしているのが分かって、窓も何もない作りそのものが次の試験を推測する材料になるのではないかと首を傾げた。
数秒、思考を巡らせるも面倒になって放棄する。
考え込んでも少しすれば内容がはっきりするだろうと考え、適当に見回して目に入った二人に僕は片手を上げた。
「おーっす、ゴン坊ちゃんとキルア坊ちゃんはよく眠れたかい?」
「いやお前誰だよ」
最近の若者はこう挨拶するのだろうかと、前の試験時にキルア坊ちゃんが言っていたのを思い出しながらそう言えば、当の彼に素気無い言葉を返される。
もしかして僕はキルアに忘れられたのだろうか。
僕も人の顔を覚えるのは苦手だし、実は僕になんざ全く持って興味を持っていなかったというなら忘れられても当然かもしれない。
憶えていないならそれもそれで良いだろうと内心頷いていれば、じっとこちらを見ていたゴン坊ちゃんが徐に口を開く。
「……もしかしてフーラ?」
もしかしなくてもフーラだけど。
と、思わず返してしまいそうになって、嗚呼そういえばそうだったと今は仮面のない顔に手を当てた。
「は、こいつあの仮面野郎なの!?」
「えっ、だって服とか体格もだけど、声だって同じじゃん」
お互いに名乗り合ったはずなのに未だ仮面野郎と呼ばれていることに苦笑しつつ、仕方ないと肩を竦める。
服は仕方なかったのだ。いい加減に着替えてしまいたかったのだけど、頼みの綱であったヒソカも僕が着れるものを持ち歩いてはいなかった。
「付けてた仮面はどうしたの、フーラ」
さっきまでは付けていたよね、と問いかけてくる声にひとつ頭を縦に振って、困ったポーズを少し大げさにやってみせる。
「取られちゃった」
「取られた?」
「仮面ばっかりつけて楽をしてたら、化粧の仕方を忘れるよーって」
意地悪だよね、と僕がぼやけば、それは意地悪なのだろうかと首を傾げる小さな二人。
特にキルア坊ちゃんの方は、警戒は既にされてはいないようだけど苦手意識は持たれたようで、少し表情がぎこちない。
僕は何もしていない筈だけど、何故だろうか。
……ヒソカのせい?
そうかもしれない、この子もアイツに目を付けられているみたいだから。
それが理由だったら僕もまだ警戒されたままである筈、なんていう答えは要らない。
昔からどうにも子ども――無知で素直な子ならば兎も角、賢しい子どもにはあまり好かれてくれない質なのだ、二つほど前のサーカス団に居た双子の少女達しかり。
あんな奴いただろうかと言わんばかりに投げかけられる不躾な目を流すように無視して、指示されるままに開いた扉から外へ出る。
三次試験の合格条件を片耳に聞きながら見渡した塔の頂上は、見事に何もなかった。
扉も道具も柵も、何一つ。
余りにも何もないから、地上へ降りるとは壁を下って行けと言われているのだろうかと考えて、二次試験の崖のようにまた登ったり下りたりするのは御免だとため息を吐いた。
地上まで降りる。
72時間以内。
合格条件を二つ頭の中に並べて、首を傾げる。
少し変だ。
時間があり過ぎる。
壁を伝って降りる道を選んで、大きな鳥に食われた男を目の当たりにしながら僕は考えた。
壁を伝って降りろというならば、問題なのはあの鳥だ。だけどこれだけの受験生がいれば、他を囮にするなり鳥を殺すなりして容易く降りることも出来るだろう。
でも、それならば与えられた程の時間を必要とはしないのだ。
発想を求めてのこの状況であっても、また同じ。
限られた時間の中での行動を試験内容にするにしては、三日も猶予を与えられるのは長すぎる。
ならば、与えられた時間に相当するような別の道が有るのだ。
そう考えて、思考を巡らせるという柄にもない行動に疲れ、きょろりきょろりと周囲を見回す。
適当に見渡した距離に小さな二人の姿は無かった。
行動力のある彼等だから、僕みたいに立ち尽くして考えるでもなく歩き回ってみているのかもしれない。
何か仕掛けてあるなら多分地面だ、歩いていればその内行き当たるだろう。
わざと足音を立てながら地面とぶつかる音を確認し、赴くままに歩調を進める。
特に考える必要もない単調な作業であったから、一歩足を踏み出すごとに少し前の出来事を思い出した。
そういえば、少し口調がぎこちなかったのだ。あの少年は。
ヒソカに仮面を持っていかれてしまったから、公演中でもないのに化粧をしなければいけなかったのだけれど、誰何されて僕であると判明して、クラピカ坊ちゃんだけが他とは違う反応をした。
いや、僕だと気付く前から彼は動揺をしていただろうか。
あの歯切れの悪い口調は、どんな理由から来たものであるのか。
もしかして、知り合いだったのかもしれない。僕は他人の顔を覚えるのが本当に苦手であるから、こっちが忘れているだけなのかもしれない。
もしかしたら、この目を知っているのかもしれない。
父親の血縁関係なんて僕は知らないけど、クラピカ坊ちゃんの知り合いに、所謂僕の親戚という人がいたのかもしれない。
様々な可能性があった。その中には、都合が悪い可能性もある。
ただ単に、どこかのサーカスで僕の公演を見たことがあるという確率の方が、よっぽど高い。
「……そうだと良いのに」
ぽそりと小さく呟いて、今は仮面に隠せない表情を慣れた形に整える。
紅で塗り潰した真っ赤な口で弧を描き、面倒事が積み重なる予感に顔が歪みそうになるのを覆い隠した。
遠くの方で僕の名前を呼ぶ声がして、そちらの方に顔を向けた。
まだ声変わりをしていない少年の高い声は僕だけではなく、地面に隠し扉が有るのではないかと探っていた二人のことも呼んでいる。
反射的に踏み出した足が、僅かな違和感を感じ取った。
「フーラ?」
「ん、あ、ごめん今行く」
あれ? と、違和感を感じて足を止めたのも一瞬。
もう一度呼ばれてゴン坊ちゃんの元へ行こうと足を踏みしめれば、唐突に地面が沈んだような感覚と、浮遊感。
目の前の四人が視界から消えてしまったのに驚いて、自分が消えたのだと数秒経ってから気づいた。
覚えのある感覚だった。
何の意図もなく、偶々そこを通ったというだけで理不尽に穴の中に落とされた経験。
以前落ちたことのあるそれは他の誰かを引っ掛けようとした子ども達の作ったものだったけれど、こんなところで同じ目に合うとはまさか誰も思わないだろう。
嗚呼、いや僕が察しが悪いだけなのか。
「あーあ、やらかした」
しかも子どもの目の前で。
いやまあ、それを見たあの子達が笑ってくれたのなら別に良いのだけど、わざとでもない滑稽な様を見せたことには複雑な気分である。
人生、多分二回目の。
落とし穴に落ちました。でも、これは塔の仕掛けなのだと思います。
目が、目が、といいながら一度もオリ主君の容姿には一切触れていなかったことに今更気づきましてのこの回です。
急遽この子には鏡を見てもらいました。
ヒソカには仮面を持って行ってもらいました。
……でないと仮面ばっか被って容姿の描写なんてなかなか出てきませんし。
もう、あらゆる意味で文章力が欲しいです。