真・恋姫†無双~未踏世界の物語~   作:ざるそば@きよし

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 外史で最も奇妙な戦と言われた「狄道の戦い」。その全貌を知る時は今。



龍と虎 後編

 ――城を攻め落とすために必要な兵力は、一般的に守る側の三倍だと言われている。

 守る側の戦いは単純だ。迫ってくる敵を端から撃ち落とせばいい。梯子をよじ登る兵士は降ってくる弓矢から身を守ることも、かわすことも出来ないのだから。

 とは言え、三倍という数字が持つ威圧感は相当なものである。倒しても倒しても減らない敵を相手にするというのは、どんなに歴戦の兵士であろうと怯み、脅え、その動きを鈍らせる。

 にも拘らず、三倍以上の兵力を相手にしても全く怯む事のない馬騰軍の強さと覇気に、敵ながら見上げた根性だと女は心の中で評した。

 

 孫策という名のこの女は南から来ていた。元は江東一帯を支配する豪族で、今でこそ揚州を統べる名家・袁術の食客として身をやつしているが、その心はいつか世界を掴み、外史全土を我が領土にしようと目論む英雄の一人であった。

 

「しぶといな」ふと、女の隣から呟きが聞こえた。姿を現したのはこれまた褐色の肌を持つ若い女性で、忌々しげな視線を目の前の城に投げつけている。名を周瑜と言った。

 

「そうね。流石は“西涼の馬騰”と言った所かしら。あれだけの寡兵でここまで持つなんてね」呆れたように肩をすくめながら孫策が応じた。これほど気力と戦力が長続きする軍は、自身が手塩にかけて育てた親衛隊を含めても見た事がなかった。「でもいい加減ここらが限界でしょ。あたしらにはまだ本命が残ってる。こんな所でいつまでも遊んでいる訳にはいかないもの」

 

 討伐軍にとって、狄道での戦いは想定外のものだった。本来ならば目の前の城で遠征の疲れを癒し、彼らと共に金城の敵を倒す筈だった。それが馬騰の裏切りによって全て崩壊し、こんな場所に何日も釘付けにされている。

 相手の目的はただ一つ――時間稼ぎだ。

 

「そうだな」周瑜は頷きながら言った。「奴らの狙いは間違いなく金城からの援軍だ。あえて反乱を起こさず防衛戦を仕掛けてきたのも、乱戦になるのを防ぐためだろう。奴らは周到にこの戦いを計画し、準備している。次の策も間違いなくあると思っていい」

 

 定石を考えれば、一度こちらを城内に引き入れて油断させ、内部から崩した方が遙かに有効である。だがそれでは城内に敵と味方が混在し、例え援軍が到着したとしても入り込む余地がない。故に彼らは防衛戦を選択したのだ。後からやって来るであろう援軍を期待して。

 

「厄介ね。今の内に手を引いちゃった方が得策かしら?」冗談めかした表情で孫策が言った。口調こそ軽かったが、半ば本気でそう思っているようだった。

 

 君主の提案に周瑜は眉を小さく顰めた。「馬鹿を言うな。こんな所で撤退などしてみろ。それこそ袁術に何を言われるか判らんぞ」苦みばしった口調はそのまま唇へと広がり、彼女の整った顔を渋面へと変化させる。

 

 彼女たちは袁術の代理としてこの討伐に参加しており、食客という立場に甘んじている以上、雇い主の面子を潰すのは今のところ得策ではない。その事を二人は十分に理解していた。

 

「冗談だってば。でも何か手を打たないといけないのは事実でしょ?」おどけたように唇を曲げ、孫策が言う。

 

「判っている。だがいずれにしても、奴らを倒さなければどうにもならん。そろそろ本気で城を抜くとしようか」

 

「お、流石は我が軍一の軍師! 頼りにしてるわよ。それで? 具体的にはどうするの?」

 

 周瑜は再び城壁を鋭く見つめ、続いて硬く閉ざされた鉄扉を指し示した。「ちょうど本隊の連中が金城攻略のために持って来た破城槌を準備している。そいつを防衛し、西側の門を破ったところで一番乗りを貰うとしよう」

 

 軍師の強烈な提案に、孫策は新しい遊びを見つけた子供の様に目を輝かせた。「へぇ。なかなか面白そうな作戦じゃない。その案乗ったわ。あたしは当然行くとして、他には誰が?」

 

「お前の護衛には明命(みんめい)と亜莎(あーしぇ)。それに祭(さい)をつける。思春(ししゅん)は開門に向けての別工作に当たって貰っているからな。今は出払っているのだ」

 

 孫策は満足げそうに指を鳴らした。上げられた名前はどれも選りすぐりの手練れで、自分を守るにしろ指揮を任せるにしろ、申し分無い人選だと言えた。

 

「上出来ね。それじゃ、早速準備を始めるとしましょうか」にやりと笑みを浮かべながら孫策は城から背を向けると、自らの陣地へと引き返していく。

 

 その背中に向かって周瑜が言った。「首尾良く行けよ雪蓮。お前の肩には孫呉の未来がかかっているんだからな」

 

 彼女の忠告を背中で受けた孫策は、まさに遊びに出かける子供の様に無邪気な声音を返した。

 

「分かってるわよ冥琳」

 

――――――――――――――――――――

 

 戦いは厳しいものになる――あらかじめ覚悟はしていたものの、ここまで酷いものになるとは思ってもみなかった。

 既にこちらの戦力の半数以上は損耗し、防衛箇所にはいくつかの空白が現れ始めている。敵はまだそれに気づいてる様子はないが、いずれにしろ時間の問題だった。

 

「第一部隊は後退だ! 第二部隊は前に出て引き続き防衛に専念しろ!」周囲の兵士たちを鼓舞しながら、馬超は目一杯の大声で叫んだ。そして控えていた後続の部隊を前に出すと、前衛の部隊と守備を交代させた。

 

 傷だらけの男達が段階を経て壁の内側へと下がっていき、代わりに彼らよりはかろうじて軽傷な人間が守備の任へ就いていくーー焼け石に水の戦術だと分かっていても、今はそれしか方策がなかった。

 

「姉さん、大丈夫?」後続と共にやってきた馬休が心配そうに声をかけた。「少しは休んだ方が……」

 

 馬休の記憶では、彼女は戦が始まってから今まで一度も休まずに指揮を続けていた。いくら馬超が歴戦の戦士とは言え、これ以上戦い続けるのは無謀に思えた。

 

 半ば青ざめた顔を振りながら馬超が言った。「あたしは大丈夫だ。それより母さんや蒼の様子はどうだ?」そして妹へと近寄ったが、数歩進んだところで体勢を崩し、その場によろめいた。

 

「姉さん!」馬休が慌てて姉の元へと駆け寄る。

 

 だが馬超はそれを手で制すと、崩れた姿勢をゆっくりと戻し、心配そうに見つめる他の兵士たちにいくつかの指示を飛ばしながら歩みを続けた。

 

 その様子を見た馬休はしばらく言葉を失った。今にも倒れてしまいそうな状態でも戦い続ける彼女に、何と声をかけていいのか判らなかったからだ。

 

 ――なぜ彼女はあれほど苛烈に戦い続けられるのだろうか? 彼女の強い意志はどこから現れているのだろうか? 未だに戦士として未熟な自分と比べ、その強さは尊敬に値するものだが、同時にとても危ういものに思えた。

 

「鶸?」呆然と立ち尽くす馬岱を見て馬超が尋ねた。血の気を失った紙の顔は逆にこちらに心を配っていた。「それで、母さんたちの方はどうなんだ?」

 

 わずかに遅れて馬休は答えた。「あ……母さんは金城や羌の人たちと連絡を取るのにお城に戻ったよ。蒼(そう)のほうも大丈夫。まだ戦えてるし、指揮も乱れてない。あと何日かは耐えられると思う」

 

 末妹である馬鉄は城の反対側で指揮を取っていた。普段は少し抜けている性格の彼女だが、戦となれば優秀な――それこそ自分などよりもよほど優れた戦士に変化する。大きな心配はしていなかった。今は目の前にいる姉の方がよほど重要だった。

 

「そうか……」

 

 小さく安堵の言葉を零した途端、馬超は突如前のめりになり、城壁の床に倒れかけた。彼女は片膝を付いてその場に留まったが、その肩には一本の矢が突き刺さっていた。

 

「姉さん!!」馬休はふらつく姉に肩を貸しながら叫んだ。自分の声によって兵士たちに更なる動揺が走ってしまう事を予感したが、気にしている場合ではなかった。

 

「ただの流れ矢だ。心配ない……」鳴くような弱々しい声で馬超が答えた。そして己に突き刺さった矢を引き抜こうと掴んだが、苦悶の表情を浮かべるばかりで何もすることは出来なかった。

 

 やはり彼女は危険だーーこのまま誰も止めなければ、彼女は間違いなく命が尽きるまでここで戦い続けるだろう。それだけは何ともしても避けなくてはならない。

 

「ここの指揮は私が引き継ぐから、姉さんは急いで手当を! そんな状態で戦ってたら本当に死んじゃうよ! 誰か! 姉さんを下に運んで!」

 

 馬休の悲痛な叫びを聞き入れた数名の兵士たちが、馬超に肩を貸しながら城壁の下へと運んでいく。城壁の上から姿を消すまでの間、彼女は絶えず馬休を見つめていた。

 

 ざわつく城壁に取り残された馬休は大きく息を吸い、吐き出した――自分がこの場を指揮しなければならない。この防衛戦を継続させなければならない。彼らを、この城を生き残らせなければならない。

 

「……各員に次ぐ。この場の指揮は馬超に代わってこの馬休が引き継いだ! 全員、私と共に城を守り通せ! ただ一人としてこの場に上がらせるな!」

 

 周囲の兵士と自らの魂に命じるように、彼女は強い声でそう叫んだ。

 

――――――――――――――――――――

 

 この世界において、一体何人がこの景色を目にする事が出来るだろうか?――胸躍る感動と共に馬岱はそんな事を思った。

 

 上空から眺める外史は本当に美しかった。馬で駆け抜けた羌の草原はどこまでも続く自然の融和を表し、迂回するばかりであった岩山は力強い飾りとして大地に鎮座している。どんな名工も描けぬ、まさに神が生み出した絵図であった。

 

《草茂る山地》 https://imgur.com/a/zZIGE

 

「すごいよおじさま!こんな綺麗な景色、たんぽぽ初めて見たよ!」

 

 はしゃぐ馬岱の声にサルカンは低い唸りを響かせた。人間の喉ではないため明確な声を発することは出来なかったが、初めて会ってから共に過ごしてきた馬岱には彼が何を思い、どんな意志を自分に向けているか手に取るように判った。

 そして彼はこう言っていた。「遊びに行くのとは訳が違うぞ」と。

 

 たしなめられた馬岱はわずかに表情を萎ませた。「ご、ごめん……そうだよね。喜んでばかりじゃだめだよね。今はおばさま達を助けに行く最中なんだし……」

 

 しゅんとする彼女を慰めるようにサルカンはわずかに首を捻らせた。気にするな、という合図のようだった。

 

「でもすごいよ。おじさまはいつもこんな風に景色を見てたんだ……」憧憬を強く含んだ声で馬岱が言った。「他の次元では一体どんな景色が見えるんだろう……いつかたんぽぽも、自分の目で見てみたいな……」

 

 馬岱の小さな呟きは当然サルカンの耳にも届いていたが、残念ながら彼には彼女の望む回答を返すことは出来なかった。

 

 プレインズウォーカーではない者が、他の次元に渡る事は決してない。それは彼女も十分に理解している。いや、理解しているからこそ、余計に強く思い焦がれているのだろう。

 だとしたら、そんな彼女のために自分は一体何をしてやることが出来るだろうか? 次元を渡ることの出来ない彼女に、そのわずかな断片でも感じさせてやることは出来ないのだろうか?

 サルカンはしばらくの間じっと考え続けたが、明確な回答が出ることはついぞ無かった。

 

 それから二人はしばらく上空を飛び続け、やがて小さな岩山の一つへと休息を取るべく降り立った。

 

「この山岳を越えれば、城はもう目の前だ。着けばすぐにでも戦いになるだろう」燃え上がる篝火に身体を寄せながらサルカンは言った。「覚悟は出来ているか?」

 

「もうすぐ、戦うんだよね……」神妙な顔つきで馬岱が呟いた。その身体は寒さとは別の理由で小さく震えていた。「どうしてかな。戦いなんて今まで嫌って言うほどやってきたのに、震えが止まらないよ……」

 

「緊張だ」彼女の様子を見たサルカンは少し呆れたように肩をすくめ、軽く手を掲げて言った。「四つ数える。息を吸う。四つ数える。息を吐く――試してみろ」

 

 サルカンの助言を馬岱は素直に聞き入れた。四拍の合図と共に息を吸い、呼吸を止め、そして四拍の時と共に肺に溜め込んだ空気を吐き出す――それは彼がかつて別の次元で教わった、緊張や不安を解く為のまじないだった。

 

「どうだ? 少しは落ち着いたか?」

 

「うん……何とか」彼女は頷いた。そしてその効果を証明するかのように体の震えも収まっていた。「ありがとう。おじさま」

 

「蒲公英。不安なのは俺も同じだ。だが戦いの中においてそれは弱さだ。不安を抱いたままでは決して敵に勝利する事など出来ない――信じるんだ。俺たちが勝利することを。そして馬騰殿の無事を」

 

 しばらく炎を見つめていた馬岱だったが、やがて彼女は首を振った。「分かってる。もう平気だから」

 

 彼女の様子を見届けたサルカンは立ち上がり、目の前で揺らめく炎を消した。「そろそろ行くぞ。ここからは先は更に速度を上げて行く。振り落とされないようにしっかり掴っていろ」そして最後にそう言い残すと、纏っていた外套を脱ぎ落とし、再びその姿を人から龍のそれへと変化させた。

 

――――――――――――――――――――

 

 数千の部下と共に前線へと繰り出した孫策は、改めて眼前に聳え立つ城壁を見上げた。

 包囲攻撃に晒されて既に十日以上が経過しているにも関わらず、彼らは未だに防衛線を維持し続けている。やはり一筋縄ではいかない相手だと、改めて痛感した。

 そして破城鎚を運ぶ前方の一団に接近すると、先頭を進んでいた隊長兵士へと駆け寄った。

 

 《猛進する破城槌》https://imgur.com/a/GCMKr

 

「貴殿は?」隊長の男が尋ねてきた。浅黒い肌と多数の戦傷を持つ壮年の男であった。

 

「あたしは袁術軍の孫策。あなた達の支援に来たわ」乗騎を降りながら孫策は名乗りを上げ、彼らが懸命に運んでいる破城鎚を指し示した。「コイツで城門を抜こうってんでしょ? あたしらにも一枚噛ませてよ」

 

「ありがたい」彼女の提案に男は厳つい顔を僅かにほころばせた。「貴殿らには上からの攻撃を防いで貰いたい。奴らめ、こちらが攻城兵器を使うと見るや、あのような策を取り始めたのだ。見ろ」

 

 男が向いた場所――城壁の上には、巨大な鍋がいくつも置かれていた。そしてそれは銅鑼の合図と共に味方がよじ登る梯子へと傾けられ、溶岩のように煮えたぎった油を容赦なく注ぎ込んでいた。

 

「あれは……きついわね」

 

 孫策は思わず渋面を作った。高温の油は人の意志など簡単に砕いてしまう。現に油を頭から浴びた兵士は熱さのあまりに梯子から手を離し、他の兵士を巻き込みながら地面へと落下していく。

 そして更なる銅鑼の音が鳴り響くと、火矢を構えた兵士が姿を現し、彼らに向かって火炎の追い打ちを仕掛けていった。

 

「上手く城門の前までたどり着いたとしても、あのように上から火と油を撒かれればひとたまりもない。我らが城門を破るまで、何とか敵の攻撃を防いでは貰えぬだろうか?」

 

 男の嘆願に孫策は早速応じようとしたが、出し抜けに誰かが彼女たちの会話に割って入ってきた。「なるほどのぉ。ならばここは、儂らの出番であろうな」

 

 振り返った正面には一人の女が居た。薄紫の髪を靡かせながら立つその手には、精巧な造りの大弓がしっかりと握られてた。

 

「祭」孫策が闖入者の名を呟いた。それは孫策軍最古参の宿将にして、軍一番の弓兵でもある黄蓋であった。

 

「策殿。ここは我らが弓兵部隊に任せられよ。あのような陳腐な攻撃、させるまでもなく撃ち払って見せましょうぞ」

 

 凛々しい声で黄蓋はそう言い放つと、腰に備えていた矢筒から数本の矢を取り出し、無造作に構えて上空へと撃ち放った。

 

 彼女の動作が余りにも自然過ぎたためか、二人ともそれが何を意味したのか一瞬分からなかった。わずかに遅れて放たれた矢の方角を見ると、ちょうど別の場所で鍋を傾けようとしていた兵士が数名、悶えながら城壁の上に崩れ落ち、油を辺り一面にばら撒きながら絶命するのが見えた。

 

「如何ですかな?」呆気に取られている二人を見つめながら、黄蓋は満足げな笑みを浮かべた。

 

 あまりの絶技に言葉を失う男を他所に、肩をすくめながら孫策が答えた。

 

「祭。あなたを連れてきた事に感謝しなければならないみたいね。上からの迎撃についてはあなた達に任せるわ。あたしは前で防御と指揮につとめるから、思う存分やんなさいな」

 

 彼女の指示に黄蓋は満面の笑みを浮かべると、背後に控えていた弓兵達に指示を出し、自身も再び弓矢を番えた。

 

――――――――――――――――――――

 

 孫策が破城鎚部隊と合流する少し前のこと、馬休は流れ矢によって負傷した馬超に代わって必死に防衛線の維持に努めていた。

 姉と比べて足らぬ武勇は振り絞った知恵で補い、低下した士気は自ら敵を倒す事で再び高める――そうして辛うじてだが、彼女は城壁に敵が登り切るのを食い止め続けていた。

 

「鍋の準備はいい!」作業を進める工兵に向かって馬休が吠えた。「銅鑼の音を合図に油を流すから! 聞き逃さないようにね!」

 

 僅かな時間の後、工兵たちは全ての準備が整ったことを彼女に知らせた。あとは最適な時を待つだけだった。

 

 まだ早い……あともう一息……刻々と迫り来る敵の姿をじっと見据えながら、馬休は自らに言い聞かせた。その間にも敵は次々と押し迫り、城壁を踏破しようと試みている。

 隣に居た副官がちらりと目配せをした。もういいだろう、という意思表示だ。しかし彼女はそれを拒否した。完全な損害を敵に与えるにはまだ不十分だった。

 守備部隊が更なる猛攻に晒される中、ついに敵の部隊が集まりきった事を確認すると、馬休はありったけの声で令を発した。

 

「今よ! 銅鑼を鳴らして!」

 

 彼女の叫びと共に城壁を銅鑼の音色が駆け抜ける。そしてそれが引き金となって、油で満たされた鍋の大口が再び敵の頭上へと傾けられた。

 限界まで熱せられた油が敵兵の顔や頭を焼きながら絶叫や苦悶の声と一緒に落下していく。

 その耳障りな声を必死に脳内から追い払いながら、馬休は次の作戦へと移った。

 

「次! 弓兵、前へ!」

 

 待っていたとばかりに今度は火矢を構えた兵たちが背後から姿を現し、目下の大地へと狙いを定める。

 そして全ての兵士が狙いを定め終えたのを見計らうと、最後の指示を下した。

 

「……放てッ!」

 

 彼女の声に従ってもう一度銅鑼が叩かれ、弓兵たちは引き絞っていた弓の弦を思い切り解き放った。

 

 《猛火の斉射》https://imgur.com/a/n66DW

 

 降り注いだ油と炎によって、大地は瞬く間に地獄と化した。燃え盛る兵士たちが不格好な踊りのように地面をのた打ち回り、次第に人肉の焦げる臭いとおぞましい断末魔が辺りを支配する。

 あまりに凄惨な光景に、馬休は思わず目を背けてしまいたくなったが、逸らす訳にはいかなかった。今の自分は指揮官であり、勝利するためには戦場のあらゆる事を見つめ続ける必要があった。

 

 不意に近くに居た兵士の一人が報告と共に悲痛な叫びを上げた。「正面の敵部隊は壊滅! しかし西門の部隊には損害ありません!」

 

「そんな! どうして!?」馬休は目を剥きながら慌てて問題の方角を見つめた。するとそこでは、起こる筈の無い事が起こっていた。

 

 西門に設置された鍋――下にある破城槌を焼き尽くす筈だったそれは、中身の油を大地ではなく城壁の上へと撒き散らし、渦巻く火炎を引き起こしていた。防衛に当たっていた兵士たちが懸命に消火活動に当たっているが、火の勢いが強く思うように近づけていないのが現実だった。

 

 敵の仕業だ――馬休はすぐに察した。奴らは油を流す際に出来る僅かな隙狙って攻撃を仕掛け、こちらの自滅を誘ったのだ。

 

「あの炎じゃ敵もすぐには登ってこれない! その間に西門近くの人たちは消火活動と攻城兵器の迎撃に当たって! 他の人たちは引き続きその場の防衛に集中を!」

 

 ありったけの声で次の指示を叫んだ後、馬休は城壁を思い切り殴りつけた。

 

 自分のせいだ。自分の不注意がこの事態を招いたのだ。どうしようもない失態だった。

 だが言い訳を口にするのは後だった。今はこの状況を挽回する方が先だった。

 足りない頭を回転させ、次に取るべき方策を考得ようとしたその時、誰かが不意に自分の名を呼んだ。

 

「鶸!」

 

 声の正体は馬騰だった。援軍への連絡を終えてここまで戻ってきたのだ。

 

 母は馬休の身体を優しく抱き締めた。「お前一人でよく頑張ったね。あたしも今から力になるよ」そして控えている兵士達を見据えると、力強い声を掛けた。「野郎ども!! ここが一番の正念場だよ! お前達の後ろには大切な街と女子供が控えてる。てめえの命なんざ捨てる覚悟で、しっかりと戦い抜きなな!」

 

 君主の命に兵士たちは沸き立ち、興奮と闘志が辺りを包み込む。

 しかしその中から一つ、冷ややかな声が彼らに向かって返ってきた。

 

「――ほう。では貴様の命もこの場に捨て去ってもらおうか」

 

 割り込んできた敵意に彼女たちは振り返った。一体いつの間に現れたのか、城壁の上に刀を持った女性が毅然と佇んでいた。

 

「ついにここを登ってくる奴が出たって訳かい」馬騰の視線は冷静だった。長きに渡る経験か、あるいは防衛戦をかい潜る敵の登場をあらかじめ予想していたのか、いずれにしろ動揺一つせず平然としていられるのは流石であった。

 

 女は逆手に持った刀を構えた。「我が名は甘寧。西涼の馬騰よ、我が君主孫策のため、貴様にはここで死んでもらう!」そして襲い掛かる兵士たちを斬り倒しながら、猛然とこちらに走り出した。

 

「させない!」僅かに遅れて馬休も槍を構えると、迫り来る甘寧に向けて渾身の突きを放った。「お前は私が!」

 

 彼女の切っ先は正確に敵の心臓を捉えていたが、その軌道はあまりにも直線的過ぎた。甘寧は手にした刀で容易くそれを打ち払うと同時に一気に間合いを詰め、馬休の脇腹に鋭い蹴りを叩き込んだ。

 

 衝撃に負けた馬休の体は姿勢を崩し、その場に倒れ込んだ。弓を番えた馬騰が急ぎ援護に回るが、それでも甘寧が彼女の喉頸に切っ先を向ける方が早かった。

 

「もう終わりか? ならば貴様から先に黄泉路に送り届けてやる」

 

 そのまま止めを刺すべく甘寧は刀を押し込もうとしたが、その行為は上空から轟く咆哮によって押し留められる事となった。

 

――――――――――――――――――――

 

「おじさま! ようやく城が見えてきたよ!」

 

 落ち掛けた日が戦場を赤々と染める中、馬岱の言葉を聞いたサルカンが強い唸り声を返した。

 彼らの目下――狄道の城は墨汁を垂らしたような黒鉄色の染みが周囲を覆っていた。それらは全て敵の兵士であり、二人にとっては蹴散らすべき障害であった。

 

「あんなに敵が……」馬岱は僅かに怯み、続いて門の前に置かれた構築物に目を見張った。「しかもあれ、破城槌だよ! あんなのに取り付かれたら城門が持たない! おじさまッ!」

 

 分かっているとばかりにサルカンは再び龍の喉笛を鳴らすと、馬岱にしっかりと掴まるようにと仕草を送る。

 彼の意志を受け取った馬岱は手綱にしっかりと掴まると、他次元に住まう龍騎士よろしく鞍に自身の重さを全て預けた。勿論、万が一の落下に備えて命綱の準備も忘れてはいない。

 

「いいよおじさま。降りよう! おばさまたちを助けに行こう!」

 

 彼女の返事を受け取ったサルカンは高度を下げると、敵陣に向かって猛然と飛び込んでいった。

 

――――――――――――――――――――――

 

 上空から突如飛来してきた“それ”を、最初は誰もが呆気に取られたように眺めていた。

 

 雄々しい叫びは雷鳴のように鼓膜を貫き、山の如き巨体は存在するだけで圧倒的な恐怖と威圧感を相手に抱かせる。例え天下無双を誇る大英雄であったとしても、その存在の前では等しく無力であり、恭しく命を乞うしかない

 

 目の前に現れた“それ”は、まさにそんな存在だった。

 

「あれは、なんだ……?」戦場に居た誰かが呟いた。それはこの場に居る全員の総意であり、同時に誰も知る事の無い謎であった。

 

 《サルカンの憤激》https://imgur.com/a/9XUNW

 

 突風を巻き起こしながら“それ”は城の前に降り立つと、設置されていた破城槌を太い腕で掴み取り、それを連合軍の陣地に向かって鋭く投げつけた。

 

 大よそ飛んで来る所か浮かび上がる事すらない筈の物を投げつけられ、幾人もの兵士が為す術もなく弾け飛び、その命を散らしていく。

 それが自分達を狙った明確な攻撃だと遅れて気が付いた討伐軍は、混乱に陥りながらも抵抗を開始した。

 

 弓の腕に少しでも自信のある者たちは鬼の形相となって矢を射掛け、死を恐れぬ勇者は果敢にも“それ”へと戦いを挑んでいく。

 

 ――だがそれらは全て無意味な行為だった。

 

 全身を覆う鱗はさながら鎧のように飛来する鏃を退け、顎の中から吐き出した炎は襲いかかる兵士たちを抵抗の暇すら与える事無く焼き尽くす。

 

 まさに一方的なまでの虐殺――いや、虐殺とも呼べぬ蹂躙である。

 

 必死に抵抗する兵士たちを嘲笑うかのように、“それ”は暴力の限りを尽くしながら、目に付く敵の全てを破壊して回っていくのであった。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

「な、なんだあの化け物は……?」突如現れた異形を前に甘寧は刀を止め、信じられないと言った表情で呟いた。

 

 無理もない。空から突然怪物が現れて、自分達に襲い掛かるなど誰が信じられようか? そんな事を言って素直に聞き入れるのは、おとぎ話を信じる無知な子供くらいである。

 

 しかし彼女が呆気に取られている間にも、現実として目の前の怪物は討伐軍の陣地を破壊し、兵士を倒し、戦場を滅茶苦茶に蹂躙している。このままでは一刻を待たずに戦線が崩壊するのは明らかだった。

 

「いかん! このままでは雪蓮様が!」雷に打たれたように甘寧は馬休の身体から飛び退くと、城壁に掛けられた梯子の一つに足をかけた。「……貴様の命、しばらく預けておくぞ!」そして驚くほどの素早さでそれを伝っていくと、何処かと姿を消した。

 

「な、なんなのあれ?」同じく茫然自失となっていた馬休が同じような呟きを零した。「龍……? あれってもしかして、おとぎ話に出てくる龍なの?」

 

 皇帝が力の象徴として用いる神獣――龍。雷雲や嵐を呼び込み、天空を自在に飛翔すると言われる伝説上の生物である。

 彼らは決して人が訪れる事の出来ないような秘境に住まい、人々の行いを見守りながら時には密かに力を貸し、また時には力で以てそれを諫めていると言う。

 目の前に現れた“それ”が本当に龍なのかは分からなかったが、少なくとも馬休にはそうだと思えた。

 

「さあてね」彼女とは裏腹に、まるで悟りを開いたように余裕を見せながら馬騰が答えた。「だけどこれだけは分かるよ。あいつは今の所あたしらの味方で、あいつのおかげで流れが変わったってことさ。――野郎共! 今の内に防衛線を押し返すんだ! 今度こそ死ぬ気で戦い抜くんだよ!」

 

 彼女の一声に意識を取り戻した兵士達は勝ち鬨の雄叫びを上げると、暴れ回る怪物と共に戦場を駆け巡った。

 

――――――――――――――――――――――

 

 破壊と混沌が渦巻く中、孫策は一人子供のように無邪気な笑みを浮かべていた。

 

「なによ!なによ!なによアレ!!! あんなのがやってくるなんて誰が予想した? アッハハッ!! 最ッ高じゃない!こんな事って本当にあるのね! こんな西の果てにまで遠征に来た甲斐があったわ!」

 

 ひょっとしたら自分は狂っているのかもしれない。でなければこれは、白昼夢か幻視の類だろうか? 自分は未だ夢の中に居て、目覚める時を待っているのだろうか? 真相はそうでないと分かっていても、孫策は半ばそう疑わざるを得なかった。

 

 怪物の吐き出す何度目かの炎が、すぐ隣にあった味方の陣営を焼き払った。熱風と火の粉が孫策の顔を打ち、瞳を焙る。だが彼女は決して視線を逸らさなかった。出来なかった。未だ正体の分からない巨大生物に、彼女は夢中になっていた。

 

 喜び叫ぶ主を見かねた黄蓋が叱責を飛ばした。「策殿! 喜んでおられる場合か! あの怪物に我らの兵どころか、虎の子の破城槌までやられてしまったのですぞ!」彼女は生き残った部下たちを懸命に纏め上げ、退却の指揮を執っている最中だった。

 

 目前にある強烈な光景から孫策は目を離さず答えた。「何よ! あんなもの見せられて喜ばない方がどうかしてるわよ! あれってもしかして、昔の御伽話とかに出てくる龍って奴なのかしらね?」今の彼女にとって、味方の状況などは二の次だった。

 

 あの怪物さえ手に入れることが出来れば、孫呉の隆盛は間違いなく成功する。あの圧倒的な力さえあれば――

 

 そう考えた直後、孫策は自身の肩に誰かの手の平が乗るのを感じた。引き込む力が体勢を捻じ曲げ、黄蓋の眼前へと強引に向けられた。

 

「策殿!いい加減にして下され! 今はここから撤退する時ですぞ!」黄蓋が目を血走らせながら言った。「これ以上、部下たちを無益な巻き添えに晒す訳にはまいりませぬ!」

 

 彼女の身体は真紅に染まっていた。傷口には弓矢ではなく、木片や鉄のかけらが突き刺さっている。それらの多くは破壊された破城槌の部品だった。

 

 重症の腹心を見つめ、ようやく孫策は冷静さを取り戻した。「……悪かったわ。全軍退却! 互いの身を守りながら一旦本陣に下がるわよ!」そして腰に佩いた剣を指揮杖のように振りかざすと、本陣の方を指示した。

 

 孫策の巧みな指揮によって部隊は再び統率を強め、怪物の脅威からの脱出を図った。盾を持った守備兵隊を殿に据え、互いに損害を庇いながら素早く迷わず後退していく。

 怪物もこちらを無理に追撃しようとはせず、退却する兵士は逃げるに任せている――どういう意図があるのかはわからなかったが、今の“それ”は設備の破壊にのみ心を裂いているようだった。

 やがて怪物の手の届かない範囲まで距離を取ると、ようやく本陣の方から救援部隊の姿が見えた。

 

「雪蓮! 無事だったか!」遠くから自分の真名を呼ぶ声が聞こえた。後方で待機していた周瑜だった。

 

「ええ。何とかね」額に噴き出た汗を拭い、孫策が答えた。「それよりも祭をお願い。あちこち怪我してるわ。治療してあげて」

 

「無論だ。薬はたっぷりと持ってきた。しかし、一体何があった。あれは一体なんだ?」

 

 孫策はかぶりを振った。「あたしにも分からないわ。多分あの場に居た誰一人、分かる人間は居ないでしょうね」

 

「そうか……とりあえず本陣に一緒に来てくれ。今後の事を話し合わなければならない」

 

「分かったわ」

 

 残りの部下たちを救援部隊に任せ、二人は愛馬に乗り込むと他の指揮官たちが集っているであろう本陣へと向かっていく。

 

「……しかしあの怪物、いつかあたしのものにしてみたいわね……」

 

 最後に暴れ回る怪物をちらりと振り返りながら、孫策は一人そう呟くのであった。

 

――――――――――――――――――――――

 

 目についた兵器を可能な限り破壊し、敵兵がすべて撤退していくのを見届けたサルカンは、ゆっくりと飛行しながら城壁の上に降り立つと、背中に乗せていた馬岱を降ろした。

 

「た、蒲公英!?」龍の背から現れた従姉妹の姿に馬休は目を見開いた。「どうして蒲公英が怪物の背中に……?」

 

 彼女の質問にはあえて答えず、馬岱は忠告の言葉を口にした。「その辺の事情は後で説明するから、とりあえず今は目を瞑ってた方がいいよ」

 

「……? それってどういう事?」言葉の意味が解らず、馬休は困惑したように馬岱を見つめ返す。

 

 そうしている間にも、目の前で変化が始まった。

 岩のように巨大だった龍は見る見るうちにその身体を小さくしていき、そして代わりに生まれたままの姿で佇むサルカンの姿が現れた。

 

「うわ! ちょっと!? は、裸!? ……な、なんでサルカンさんが裸で!?」馬岱の忠告も空しく彼の全身を直視してしまった馬休が慌てた様子で己の顔を両手で塞ぐ。「っていうか! そんなものいきなり見せないでくださいよ!」まだ誰にも体を許した事の無い乙女にとって、鍛え抜かれた彼の身体はあまりにも刺激的なようだった。

 

「だから目を瞑ってた方がいいよって言ったのに」呆れたように肩をすくめながら、馬岱は馬具と一緒に外れた荷物の中から、サルカンの衣服を取り出した。「はい。おじさま。とりあえずこれを着てから話にしよう」

 

 呆気に取られながらやりとりを眺めている面々を尻目に、サルカンは手際よく自分の衣服を身に着けると、馬騰の前で拱手の構えを取った。

 

「――馬謄殿。遅くなりましたが、助太刀に参りました」

 

 馬騰はしばらく言葉を失ったようにその場に佇んでいたが、やがて大きなため息を吐くと言った。「……徹里吉の坊やから手紙の中身を聞かなかったのかい? あんたと蒲公英を匿ってもらうように頼んであった筈だが」

 

「知っています。貴女が羌族とこの地の人々のために叛乱を決意していたことも。争いとは無関係な俺や蒲公英を逃がそうとしてくれていた事も」

 

「そこまで知ってんなら、どうして戻って来たのさ? あんたには羌族と漢人の対立なんて、何の関係もないだろうに」

 

 サルカンはかぶりを振った。燃え上がる瞳が彼女を見つめていた。「俺は貴女に家族として認められた。家族の窮地に駆けつけるのは同じ家族の役目だ。それにこの街には俺を癒してくれた人が、俺が守りたいと思う人たちが大勢居る――だから俺は、ここに戻ってきました」

 

 彼の言葉は篝火のように人々の心を暖かく照らした。そこには次元の差や人種の違いなど存在しなかった。誰もが一つの家族であり、互いを守るべき大切な人であった。

 

「……馬鹿だねぇ、本当にお前さんは」馬騰が絞り出すような声で呟いた。いつの間にかその目には大粒の涙が溢れていた。「こんな婆とちっぽけな街のために戻ってくるなんて、本当に馬鹿な男だよ……」

 

 彼女の声に、いつの間にか馬休や他の兵士たちも肩を震わせていた。皆がサルカンと馬岱の帰還を心から歓迎し、その助力に感謝していた。

 

「――緑(みどり)だ」不意に投げつけるように馬騰が言い放った。「あたしの真名だ。あんたにはまだ預けてなかったからね。ちと遅すぎるかもしれないが、受け取ってもらえるかい?」

 

「無論です」彼は頷き言った。「ここを片付けたら一旦城に戻りましょう。俺がなぜ龍の姿になっていたのか、これまでに何があったのか、全てそこでお話します」

 




 書きたかった部分までがようやく作れました。

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