喉がひりひりする、と提督が咳払いし、カフェ・ラテのカップに口をつけた。
各戦隊ならびに艦隊の旗艦娘を集めて、部内、および哨戒で得られた情報の共有をおこなう定例の提督レクの席である。書記を務める駆逐艦藤波のペンを走らせる、うつろな音だけが執務室に響いた。
ひとりだけ露骨な反応を示していたのは、ゆうべ提督と寝所をともにした英戦艦ウォースパイトである。ウォースパイトは提督のクンニリングスを人一倍好んだ。はじめて提督にクンニされたとき、彼女は一瞬、自分がなにをされているのかわからなかった。舌で愛撫されていることに気づいても、あまりに予想外であったため現実に起きていることなのか判然とせず、たっぷり五分も舐められてから、ようやく戸惑うことができるまでに至ったほどである。
なにしろ英国にクンニリングスの文化は希薄で、あそこを舐められるなどという発想そのものが、彼女にはなかったのである。指でもなく、怒張でもない、変幻自在にうねる、柔らかく熱い舌の愛撫は、一夜にしてこの気品と教養に満ちた戦艦娘をとりこにした。爾来、ウォースパイトは提督のクンニをなによりも楽しみとしている。もしイングランドに帰国する日がきたら、提督の口だけを持って帰ることはできないだろうかと彼女は本気で考えていた。
また提督は、クンニのさいにわざと音をたてて啜り、喉を鳴らして飲むことを欠かさなかった。自分がもっとも汚いと認識している場所を舐められているだけでなく、ラブジュースを飲まれているという羞恥が、いっそうの快感をもたらすのである。
その提督が、喉の異常をそれとなしにとはいえ訴えている。ラブジュースが多い体質のウォースパイトとしては狼狽を覚えるにたるものがあった。まさか、わたしの
しかれども、自身への奉仕が原因で相手に負担を強いているのであれば、それを看過することはできない、とウォースパイトは思った。おのれの面子のために他者に損害を被らせたままでいることは、彼女の矜持が許さなかったのである。
「鈴谷のさらなる改装についてじゃがの、改装設計図を用いて軽空母に改造したのちも、航空巡洋艦にもどすことは可能なのじゃが、そこからふたたび軽空母に改装するには、またあらためて設計図をよこせとな、妖精どもがいうておるのじゃ」
「妖精の要請か……」
「おぬしの命令でいちど軽空母にして、また航空巡洋艦に戻したわけじゃが、畢竟、あれをどちらで運用していくつもりなのじゃ」
航空巡洋艦の長を務める利根の問いに提督は腕を組んで悩んだ。
「軽空母としての鈴谷は、強い。強いが、いささか航空機の搭載数に問題がある」
「もとは巡洋艦じゃからの、飛鷹型のようにはいくまい」
「他方……航空巡洋艦としては、火力と装甲ではきみらに敵わないまでも、魚雷火力では勝るし、最大搭載数の関係で水上爆撃機の生存性はやや高い。とはいえ……」
「ツ級をふくむ敵艦隊と遭遇してはひとたまりもないでしょうね」
駆逐艦秋月が対空戦闘の専門家として意見を述べる。
「それなら、水上戦闘機部隊を搭載して、敵対空砲火のおよばない空域での制空戦闘を担当していただくのがよろしいのではないでしょうか」
とは、軽空母を代表して出席している千歳の言である。正規空母に比して搭載数の劣る彼女たちは小規模な航空隊の戦術運用に長けている。
「いずれにせよ、司令部からは軽空母としての鈴谷さんの性能評価試験として、彼女を配属した部隊でKW環礁沖に接近している敵機動部隊を撃滅せよとの指令がきています」
装甲空母翔鶴のいうとおり、任務のためにはまた、鈴谷を軽空母に改装しなければならない。提督が苦笑いする。
「軽空母鈴谷の搭載数で、かの艦隊と一戦交えるのは、ちと難題だ。航空機を砲弾のように浪費することになる。司令部もなにゆえこのような面妖な作戦を立案したのか……」
というようなレクは、物思いに耽っていたウォースパイトの耳には入らなかった。しかるに彼女は、ただ提督の変調を案じて、勇を奮い、つぎのような問いを発したのである。
「Admiral, それはもしかして、わたしのせいなのでしょうか」
時間が止まり、沈黙がみなの肩に堆積した。藤波だけが議事録を書き留めている。
提督はまず、なぜウォースパイトが自分に責があると考えたのかということの答えを胸中に探そうとした。ウォースパイトは聡明で責任感の強い女である。英海軍の代表という自負もある。とはいえ、まったく無関係の事柄まで自分の責任と主張するほど傲慢ではない。つまり彼女に自身の過失と思わせるなにかを見落としているのではないか、と提督はひとまずの結論を得た。
「なぜ、そんなことを?」
「だって、Admiralが、そう仰ったから……」
この場合における“そう”という副詞はいわゆる指示語で、なにを指示しているかといえば直前の内容である。国語のテストでよくある“傍線①がなにを指しているのか答えよ”というあれだ。答えは傍線で示された文の、直前の一文にある。
今回ならウォースパイトにとっては提督の“喉がひりひりする”を指すが、提督からすれば、全力を傾注して五分と五分という剣呑な敵に対して、軽空母鈴谷のテストをせんとする司令部の現場軽視ともとれる意向に難色を示したことを意味していた。
「それは、きみのせいではあるまい」
断言したが、
「だといいのだけれど、もしあなたが舐めたせいだとしたら、それはわたしに責任があるわ」
ふたたび提督は固まった。自分が舐めた、つまり侮っていたせいで今回の面倒ごとを招来しているといいたいのだろうか。いつのまに自分は責められていたのだ……しかし記憶を探った提督には心当たりがあった。司令部からの指令通達が遅れたという事情があるものの、鈴谷を軽空母に改造して、すぐ航空巡洋艦に再改装したせいで、改装設計図を一枚、無駄にしてしまったも同然だったのである。その勇み足をウォースパイトは追及しているにちがいない。甘んじて受けるつもりで提督はいた。しかし、なぜ彼女までが自責の念を感じねばならないのだろうか。提督はひとつの仮説をたてた。彼女は自身の存在価値を客観的に過不足なく自己評価できる女である。鎮守府、ひいては日本海軍の隆盛のため自分が戦艦戦力としていかに貴重であるか理解できていよう。重責をになう彼女は、提督の過失は自分の支えが足りなかったことが原因のひとつだとしているにちがいない。
危険な思想だ。彼女のような女性は将来ヒモにひっかかる。ここは男としてフォローせねば……提督はせいぜい気の利いたせりふをひねり出した。
「いや、これはわたしのミスだ。きみにいっさい非はない」
決まった……提督はみずからの男気に酔いしれさえした。
ところがである。
「ミスって、どういうこと? 舐めたのが
震える声のウォースパイトは目に涙さえ溜めていた。提督には理解できない。どこで間違えたのか。なんであれ嘗めてかかるのはミステイクではないのか……沈思黙考せざるをえない提督を時間が置き去りにする。
「やっぱり、わたしのjuiceが原因だったのね、Admiral!」
少女のように泣きじゃくるウォースパイトに提督はますます混乱するばかりである。ジュース? 提督はウォースパイトに紅茶を淹れてもらうことはよくある。しかしジュースとなると……そこで思い出した。故国であるイングランドで人気だというスカッシュなるジュースを彼女に振る舞われたことがある。カシス味だった。濃縮されており非常に濃いので水で薄めていただくのである。ジュースと水を1対4ほどの比率でつくってくれたウォースパイトに、提督が、
“カルピスみたいなものかな”
といったら、
“
驚愕し、
“美味い。わたしにとってはNo.1だ”
“
などというやりとりを交わしたのが、つい一昨日のことであった。
よもや、あのジュースのせいで鈴谷の改装における判断を間違えたのだ、とでも思っているのだろうか。ミョウガを食べると忘れ物をするという迷信があるが、スカッシュの摂取が判断力に影響を与えるとでもいうのか。
いっぽうで、同席していた米戦艦アイオワや仏水上機母艦コマンダン・テストは、juiceが体液を意味することを当然理解できていたし、昨晩ウォースパイトが提督と寝たことと関連付けて、なんとはなしに全体像の把握に成功しはじめていた。つぎに彼女らはある共通の存念を抱いた。その存念とは、こうであった。
“なぜ自分たちは朝から痴話喧嘩に巻き込まれているのか”
「わたしのせいであなたを困らせてしまっていることは、謝るわ。ごめんなさい」
急に謝罪されてもいまだ提督には話が見えない。できることは生返事だけである。
「でも、舐めてもらって、それが間違いだったなんていわれたら、おんなならだれでも傷つくわ。自分でいうのもなんだけれど、戦艦だからってこころまで打たれ強いわけじゃないの。それだけはわかっていてほしい……」
「それは理解している。だからきみは悪くないんだ」
「それが違うっていってるのよ!」
深窓の令嬢然としたウォースパイトがテーブルを叩いて息も荒くたちあがった。提督は首をかしげるばかりである。
「だいいち、あなたがあんなにもテクニシャンなのがいけないのよ、ああも美味しそうに飲まれたら、このひとに身を委ねてもいいんだって、そう思ってしまうじゃない」
人間にとって会話とは、全問正答を要求される選択問題を、時間制限つきで次から次へと出題されているにもひとしい。よって提示されたテクストのうち回答しようのあるもの、ないものを瞬時に判定し、前者を優先して、最適な返答を模索しようとする。この取捨選択の結果、テクニシャン云々というくだりが自動的に思考から排除されてしまったので、提督はまだ違和感を感知することすらできないのだった。
したがって、提督の出力した答えは、このようなものとなった。
「きみのジュースはとても美味かったよ。健康にもいいにちがいない」
ウォースパイトの白磁の頬はたちまち桜色に染まり、やがて彼女は紅潮した顔を両手で覆ってもだえた。そのようすを眺めていたコマンダン・テストは、人生の辛酸を舐めた中年女みたいな、くそ面白くもなさそうな表情になっていた。
「どんな味だったのじゃ」
「フルーティな香りで、蜜のように甘いが、ほのかな酸味が全体を引き締めていて、後味さわやか、喉ごしもよい。いくらでも飲める」
提督同様にジュースという単語を清涼飲料水として認識している利根が感心する。品評されている英戦艦はかぶりを振るばかりである。
「かように美味なれば、吾輩も一杯いただきたいものじゃな」
利根にウォースパイトは我を失った。
「だめよ!」
彼女は思わず叫んでいた。しんと静まる。藤波が変わらず議事録をとりつづけている。利根が意地のわるい笑みを浮かべた。
「なんじゃ、おぬしともあろう者が、らしくもない。さてはあれか、提督にしか飲ませとうないということかの」
室内の空気が納得から生ぬるい笑いへと変化する。いまやウォースパイトは耳までロブスターのように赤い。
「そうよ、それがいけないこと? そもそもわたしのjuiceをtastingしたいだなんて、crazyだわ、トネ!」
「おぬしもえらく好かれておるのう、果報者め」
利根が提督を肘でつつく。提督は自覚できるほどに気色のわるい笑みを噛み殺そうと顔をそむけた。
まったく口出しせずに眺めるコマンダン・テストは自分にも似たようなことがあったことを思い出していた。先月のことである。提督が、なにげなしに、
“コマンダン・テストのフレンチは
とこぼした。日本においてとくに注釈なくフレンチといった場合はフランス料理を指す。しかし、英語圏においてFrenchはしばしばフェラチオを意味する。むろんコマンダン・テストの祖国であるフランスでは使われない。だが外国、とくにドーバーを挟んだあの舌が何枚あるかわからない島国で、性技にことごとくFrenchが接頭語に用いられていることは知っていた。日本海軍はその弟子である。また、日本という国ではかつて混浴がメジャーであり、フランスが王政復古で揺れているころ、高名な浮世絵師により、女性が二匹のタコにレイプされている絵が発表され好評を博すなど、性におおらかであるとも聞いていた。ゆえに前の晩に振る舞った手料理のことではなく、てっきりフェラチオのほうのFrenchだと思い込んだのである。
“提督、そんな、恥ずかしいです……”
人目を気にしてどぎまぎするのに、提督は屈託もなく、
“あれだけ美味ければ自慢できるだろう”
“でも、まだそんな、日が高いうちから……”
“たしかにフレンチは夜というイメージがある”
コマンダン・テストはもうたじたじである。最後に彼女は上目遣いでこう訊いた。
“提督、わたくしのFrench、そんなに
“
と、以上のような経緯があったのである。後日、誤解であったことがわかったときの、恥ずかしさたるや! せっかくなのでコマンダン・テストはもうしばらく観察をつづけることにした。
「でも、提督がそうまで仰るなら、いちど試してみたいですね、ウォースパイトさんのジュース」
翔鶴をウォースパイトが信じられないという顔でみる。
「産地直送だからフレッシュな味わいだ。きっと口にあう」
提督がこともなげにいった。
「産地直送って」ウォースパイトは口をぱくぱくさせた。自分の下腹部を見下ろす。「たしかにそうかもしれないけれど」
彼女はふとあることに思い至った。古代日本の首都、平城京の遺跡から張形(ペニスの模型)が出土したことがある。長さ十七センチの堂々たるたたずまいで、根本付近には紐を通す穴があった。みつかったのは大膳寮(台所)で男子禁制の場所である。つまり一三〇〇年ものむかし、日本では官女がペニスバンドを使ってレズ行為に耽っていたということになる。また、時代が下った江戸の世において、大奥というハーレムに双頭の張形が大量に所蔵されていた記録が残されている。
こういう歴史があるから、日本には同性愛もさほど忌避されないという文化的土壌が下地として存在するのではないだろうか。だからこそ、利根も翔鶴も、まるで紅茶やビールを飲み比べるがごとく自然体でウォースパイトのを飲みたいなどといえるのかもしれない。
「そんなに、飲みたいのですか」
蚊の鳴くような声で問いかけると、執務室の全員が「飲みたい!」と返答した。むろんコマンダン・テストも加わっている。
ウォースパイトはいよいよ覚悟を定めねばならなかった。いかなる艦娘も一隻では弱い。個々のスペックでは格段に劣る艦娘たちが、強大な深海棲艦に勝利を収めてこられたのは、ひとえにチームワークの力である。互いが互いの死角と弱点を補いあい、長所がのばせるようサポートし、さながら艦隊がひとつの生き物のように一糸乱れぬ統率をみせる、それが敵との唯一の差なのである。結束を固めるために効率的な手段として、きっと日本海軍は同衾を採用したにちがいない。恥部をさらけだしてしまえばもう他人ではなくなる。心底から信頼しあえる絆がうまれ、円滑なコミュニケーションを可能とするだろう。それが大きな力となるのだ。と、嵐のように千々に乱れたウォースパイトの思考はこのような推論を導きだしたのであった。
「では、失礼して……」
すっとたちあがったウォースパイトが、スカートの両端をつまんでもちあげた。みな、貴き血筋の女性が“ごきげんよう”と礼をするときのあの所作だと思った。ウォースパイトはさらにスカートをあげた。みな、“さすがカニンガム提督から絶賛された戦艦だ。でもべつにそんなに急いでジュースを取りに行かなくてもいいのに”と微笑ましく思った。紫のレース地の小窓つきパンツや、ガーターベルトの固定部が露となったあたりで、みな、“なにかがおかしい”と思った。さらに、ウォースパイトのほっそりした二指が魅惑の小窓を開こうとしたところで、アイオワが「ストップ! ストップ!」と飛びかかってスカートを下ろさせた。
「止めないでIowa, 恥ずかしがったら、よけいに恥ずかしくなってしまうの」
透明な涙を流すウォースパイトには、全滅必至の最終決戦にでも赴くような悲壮な決意があった。アイオワが「あんたこのままじゃ人生の暗礁に乗り上げてしまうわよ!」とスカートを下に引っ張るのも聞かない。
ウォースパイトは叫んだ。
「だって、みんながわたしのLove juiceを飲みたいっていうんだもの」
だれもが押し黙った。ズビビとウォースパイトが洟をすする音と、藤波が走り書きする音だけが空間に吸収されていく。
ウォースパイトははっきりとLove juiceと発音した。その意味を全員知っている。しかし、「まさか、あのラブジュースのことではあるまい」と思い直そうとした。音がおなじで意味がちがう単語など洋の東西を問わずいくらでもある。早とちりだった場合、こちらの品性を疑われてしまう。「おまえいつも詩集読んでるよな。好きな詩とかあったら教えて」と訊いて、「高村光太郎の『道程』」という答えが返ってきて、「どっ……。おまえが白昼堂々そんな卑猥なことをいうやつだとは思わなかったよ!」と自分の無知を棚にあげて非難すれば大火傷を負う。加えて聞き間違いという可能性もある。みな慎重にならざるをえなかった。ウォースパイトが提督にご馳走したというスカッシュなるジュースは本国のスラングかなにかでラブジュースというのだ、と自分を納得させようとした。
「嗚呼、でもAdmiral, せめて、最初にクンニするのはあなたにして。そのあとなら、どんな辱しめを受けても耐えられると思うから」
聞き間違いでもなんでもなかった。提督と艦娘たちはおなじ動作でずっこけるのであった。コマンダン・テストだけは舌打ちしていた。
◇
「扁桃腺?」
「けさ、腫れているのに気がついた。ここのところの徹宵がこたえたらしい。もう若くはないようだ」
提督は喉の不調について説明した。
「よって、断じて、きみのを飲んだからではない」
あらためて面と向かっていわれて、ウォースパイトはまた上気した。提督は、これでレクを再開できると安堵した。慰めるつもりでつけくわえる。
「それに、きみのおツユが美味かったのは事実だぞ」
提督はウィットに富んだジョークのつもりだったろうが、ウォースパイトは顔色を赤やら青やら信号機のようにめまぐるしく変化させて、所在なさげにカウチに腰を下ろした。その肩にアイオワが手を置く。
「マン汁には美味い、美味くないというのがあるのか?」
利根が興味津々に尋ねた。彼女の改二艤装が下半身生まれたままの姿となるようデザインされているのは、洋上で排泄するほか、いつでも提督とことにおよぶためでもある。
「そりゃあ、男によって精液の味もちがうだろう。同様に、マン汁の味にも個人差があるし、同一人物でも、生活習慣や体調に左右される部分も大きい」
艦娘たちが真剣に耳を傾ける。
「ベースとなるのはやはり塩味だ。体液だからな。奥のほうは酸味がある。この上に、艦娘によって味が濃い、薄い、磯のような香りがする、汗で蒸れたような匂いがする、無臭である、苦味があるなど、おのおの個性が乗ってくる。本格的に感じはじめて白濁が混じってきたり、さらに進んでチーズ状になったりすることでも変化する。しかし経験上、純粋に加齢のみで味が変化することは少ないように思う。変わるとしたら衛生状態やホルモンバランスなど、ほかの条件のほうがより強く影響するのではないか」
メモをとっている艦娘さえいる。作戦通達時などよりよほど熱心にみえる。
秋月がおそるおそる手をあげる。
「司令……秋月の、臭ったりとかは、ないですか……? だいじょうぶですか?」
「全然。いまでも初々しくて素直な味と香りだと思う」
秋月がほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあ、わたしのはどうでしょうか?」
たわむれに千歳が訊く。提督は真面目な顔で応じた。
「柔らかく、風味が豊かで上質な味わいだな」
「興味深い。司令、この磯風のはどんな味なのだ」
第十七駆逐隊の旗艦を務める磯風には、
「香りが強くコクもあるなかなかのバラスト。じつにきみらしい」
即答した。
「Admiral, Meのは?」
アイオワが訊けば、
「力強いが後を引かない、稀有な出来栄え」
打てば響くように返す。コマンダン・テストも、「わたくしのはどんな味なのでしょうか」とこわごわ質問してみたところ、
「エレガントで味わい深く、塩味と酸味のバランスがよかった」
予想以上の高評価に彼女はのけぞった。
「あのう、わたしのは……」
翔鶴には、
「出来がよく、豊満で絹のような滑らかな味わいかな」
答えると、第一潜水隊旗艦の伊13が、ためらいながらも、自らを奮い起たせて、口を開いた。
「提督……イヨちゃんの味……訊いても……その……いいですか? 教えてあげたいから……」
「イヨちゃんのは、みずみずしさが感じられて申し分のない喉越しだったな」
伊13が忘れないようにメモに記している。妹に伝える期待感で口元がほころぶ。
「ちなみに、ヒトミちゃんのは爽やかながらも豊かなコクと程よいしょっぱさが調和した味だった」
伊13が硬直し、あどけなさを残す顔に朱をのぼらせて、「もう、提督ったら……!」と足をばたばたさせた。可愛らしさに周囲が微笑む。
「しかし、おぬし全員の味を覚えておるのか?」
「当然だ」利根に提督はさも心外だという表情さえみせた。「当然だ」
顔を伏せていたウォースパイトが、なにかに気づく。
「味には個性があるっていったわよね」
提督が首肯する。じゃあ、とウォースパイトは重ねた。
「このなかで、いちばん美味しいのはだれなの?」
「ああ、それは」
答えようとした提督の脳内に、ようやく警報が発令される。部屋の艦娘全員が身を乗り出して固唾を呑み提督に注目していた。毎朝定例のレクは、いつのまにか、一歩間違えば破綻を招く男女の駆け引きの場となっていた。
下手な答えを示せば、たちまち艦娘たちのあいだに不和がひろがり、やがては修復不能な亀裂となって禍根を遺すだろう。順位をつければかならず下位が生まれてしまう。真に実力を問うのであればしかたのないことだが、おりものの味で序列をつけられるのは好ましくあるまい。男の場合、あいつの精液は最悪にまずいなどとレッテルを貼られたら、EDに陥ることすらある。
どう答えればよいものか、時間を稼ぐため、ウォースパイトが淹れてくれていたカフェ・ラテのカップを手にとる。英国では十七世紀半ばごろにコーヒーを楽しむ文化が興り、万病に効能があり健康を増進する妙薬として永く親しまれてきた。すなわち英国におけるコーヒーは、同国の貴族階級を印象づけている紅茶とおなじくらい歴史が古い。むしろ彼らは、もともとコーヒーを愛飲していて、紅茶は高騰したコーヒー豆の代替品として導入されたのがはじまりという説さえある。
こと、十八世紀のロンドンに店を構えたコーヒーハウス、いわゆるカフェは、労働者階級と中産階級はべつの席で飲むのが当然だったパブとちがい、コーヒーや喫煙をまじえて、社会階層にかかわりなく客たちが自由に政治談義を交わす、一種の社交場となっていた。男が集まると政治談義に花を咲かせるのは古今東西で変わらないらしい。しかし情報の入手手段がかぎられていた当時としては画期的なことである。一ペニーのコーヒー代さえ払えばだれでも大学生や学者、ジャーナリストといった知的層と直接、意見を交換することができたのだ。コーヒーハウスの存在により情報が共有され、議論が促進されたことが、英国における近代民主主義の大地を育てる肥料となったともいわれている。だからウォースパイトが紅茶とおなじようにコーヒーを愛するのも、ゆえなきことではないのだ。
かぐわしい湯気をたてるカフェ・ラテは、ミルクとコーヒーが混ざりあい、どちらでもない色となっていた。白でも黒でもないカフェ・ラテ。提督の思考に光が閃く。
「きみのコーヒーがあまりに美味いので、つい飲みすぎてしまった。しばし中座する」
提督は席をたった。出入り口の扉に手をかけたところで艦娘たちが提督の意図に気づく。
「このわたしから逃げる気、Admiral!」
「それでも男か!」
ウォースパイトと磯風を筆頭に、艦娘らが提督を非難する。女は白黒つけないと気がすまないのだ。提督は扉を閉める直前、顔だけ振り向かせ、高らかと宣言した。
「これは撤退ではない。転進である!」
そそくさと消え去った。
艦娘たちの残された執務室には重いため息が満ちた。ウォースパイトはアイオワの胸で泣いた。
「だって、クンニなんてされたのAdmiralがはじめてだったんですもの。もうクンニなしでは生きる意味を見出だせない。クンニのないクニでは生きていけないわ」
「イギリスにはクンニはないんですか?」
千歳にウォースパイトは、
「ないわけではないと思うけれど、わたしはされたことなかったし、聞いたこともなかった」
素直に答えた。洟がアイオワの谷間から糸を曳いている。しかしアイオワはまったく気にしていないようだった。
千歳が顎をなでる。
「アメリカは……なんとなくどんなプレイもありなイメージが」
「Americaは、抑圧の反動みたいなところあるカラ」
「反動?」
千歳にアイオワは説明した。
「むかしのAmericaは、むしろ世界でも類をみない性の抑圧国だったわ。一九〇九年には各州でoral sexを禁止する法律が可決されている。一九二七年一月十日からはじまったチャーリー・チャップリンとリタ・グレイの離婚訴訟では、原告のリタはチャップリンの世評を失墜させるために、“フェラチオを強要された”とか“何度もしつこくクンニリングスされた”と私生活を証言台で暴露した。当のチャップリンは“フェラチオもクンニリングスもしない夫婦を夫婦といえようか?”と反論したそうよ。当時のAmericaではフェラチオという単語は浸透してなくて、ひとびとがこの耳慣れないラテン語を調べようとした結果、全米の書店からラテン語辞典が消えたという伝説もあるわ。さらに一九三八年、
「どんな映画なんですか?」
翔鶴が尋ねる。日本の艦娘たちには初耳の映画だ。
「内容はとくにないわね。おっさんがひたすら女性の谷間や太ももやお尻を舐めるように凝視するだけの映画ヨ」
「逆に興味あるわね……」
千歳が呟く。
コマンダン・テストが秀でた片眉をあげて言葉を紡ぐ。
「その映画のキャッチコピーって……」
「たしか、“厚顔無恥なアダルト・フレンチ・コメディ”だったかしら」
「あ、やっぱり……」
「もちろんboobsが大胆に露出しているし、主人公のおっさんの妄想とはいえ女性たちがやたら挑発的なしぐさをするもんだから、そりゃあ物議を醸したわ。道徳的によくないとするお堅い勢力もあれば、表現の自由を主張するひとたちも大勢いた。だいたい一九五九年から六〇年にかけてのことよ」
「日本が、日米安保をめぐって喧嘩をしているときに、アメリカは乳房が見たいかどうかで争っていたのか」磯風がこぶしを握りしめる。「勝てぬ……!」
「そんなこんなで、もはやガチガチな制約は時代にそぐわないという意見や、制限を課しすぎて逆に悪感情を抱かれたりすることを懸念して、態度を軟化させたことで、中絶が合法化されたり、oral sexが法的に認められたり、『PLAYBOY』でヘアヌードが掲載されたり、より過激な描写を追求したりと、行き着くところまで行った結果が、いまのAmericaということになるわ」
たとえば、美人コンテストの一種として、参加女性たちがブラジャーを着けずに白のTシャツを着た状態で水をかけられ、その透け具合を競うイベントが人気を集めていたりする。州によってはシャツを脱いでトップレスになることも認められている。先日アイオワとサラトガの主催で総勢六個艦隊ぶんの艦娘たちによる鎮守府濡れ透けTシャツコンテストが開かれ、審査員を務めた提督が前かがみのまま戻れなくなるという
しかし日本の艦娘たちには解せないことがある。
「なぜそこまでスケベを抑え込もうとしたのじゃ。聖書にも“生めよ殖やせよ”と書いておろうが」
「まさに、その
利根にアイオワが応じた。
「もともとChristianityでは、そりゃいろんな宗派はあるけれど、根っこには、快楽は悪魔が人間を誘惑するための罠だとする思想がある。賭け事とか、美味しいものをおなかいっぱい食べるとか、グースカ寝るとか。もちろん性行為もね。そういった楽しいことにうつつを抜かしていると地獄の業火に焼かれると説いている。だから、性行為は子供を作るためにしかたなくするものであって、快楽を得る目的でやってはいけないこととしていたのよ。oral sexを禁止していたのはつまりそれが理由ね。あきらかに楽しむことだけが目的だから。当然ながら避妊もだめ。中絶なんて、とんでもない。だから映画でもこれらの描写を禁止していたわけ」
「そういえばこのあいだ、ヴァチカンとマルタ騎士団がそんなような理由で争ってましたっけ」翔鶴が思い出す。「たしか法王はコンドームの使用を容認して、マルタ騎士団が避妊なんてもってのほかと反旗を翻したとか」
「えてして信者は教祖より純粋で先鋭的だったりするもの。
アイオワが引き取って賛意を示す。
「おなじような理屈で、
姦淫するなと言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
「想像のなかとはいえ、だれかを思ってよこしまなことを考えてもいけないとまで戒めていたのね。Masturbationしかりよ」
「日本の仏教が、坊主に女犯を禁じるかわりとして、少年愛や自慰をむしろ推奨していたのとは対照的だな」
磯風が見解を述べた。親鸞が夢告をもとめ、如意輪観音菩薩を本尊とする洛中随一の古刹という六角堂に比叡山から日参し、あくる暁闇とともに戻るという行を百日つづけたときのことである。九十五日めにして、ついに観音が
行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
「砕けた言い方をすれば、もしおまえがわけあって女と交わらねばならなくなったとき、その女子をわたしだと思いなさい、わたしがおまえに犯されてやろう、なれば女犯の禁を犯したことにはならぬ、そのかわり一生のあいだわたしを心の
歴戦の駆逐艦娘が紅い瞳を米戦艦に向ける。
「わが国ではこうして劣情に対処してきた。欲情もするなとは、現実として不可能なことなのではないか?」
「だから教会には懺悔室があるのよ、Masturbationしてしまいましたと告白できるように。もちろん黙ってたってだれにもわかりはしない。でも神だけはいついかなるときも自分のおこないを見ているという意識が刷り込まれている。法律ではなく、自分で自分が許せないという、極めて高次元の倫理がChristianityによって教育されていたの。それが犯罪をある程度未然に防ぎ治安を安定させていた側面もあるのだけど、同時に発生する良心の呵責に潰されてしまわないための回避策が必要だったのね。火にかけた鍋に蓋をしたら、ふきこぼれてしまうから」
磯風が得心のうなずきをみせる。
「宗教はChristianityも含め、読み書きも計算もできない一般大衆をも信者として多く取り入れる必要があった。治安を維持するため、また国家の屋台骨となる生産者たる民衆を束ねるために、自分は人智を超えた存在に愛され、またつねに監視されているという自覚を与えることが必要だったからよ。だからまず民衆に宗教への興味を持ってもらわなければならない。人間は美しいものに惹かれる習性がある。それで教会の執行部は美を演出することにした。大聖堂をはじめとした建築、ステンドグラス、音楽、彫刻、絵画、
だからキリスト教に関連する芸術はわかりやすい美しさに彩られている。民衆は堅い話になど興味をもたないからまずは娯楽で心を掴むのだとしたゲッベルス宣伝相もまた同様の手法といえよう。
「そんなChristianityが、映画という大衆に愛されるメディアを無視するはずもない。とくに映画が一大産業となったAmericaでは、
「それで、規制の基準がキリスト教からきておるわけか」
利根も腑に落ちた顔をした。
「英国でクンニがあまり馴染みのないものというのも、当然といえば当然なのかもしれんな」
磯風が三種の宝具を模した装備品を携えているウォースパイトを見やる。国教たるキリスト教の厳格な体現者として、オーラル・セックスなどというものがこの世に存在することさえ知らなかったのだ。ウォースパイトがおなじヨーロッパ出身であるコマンダン・テストに眼を動かす。
「フランスではクンニはどうなの、するの」
「ふつうにしますが。むしろ大好きですが。クンニリングスの指南書がいくつも出版されていますが」
「どうして。おなじキリスト教の国なのに」
「なぜって、したいからに決まってるからじゃないですか」
英戦艦が苦悩に頭を抱える。
「ご存じかもしれませんが、かのナポレオンが戦地から妻のジョゼフィーヌに宛てた手紙には、“きみにクンニリングスしたい”と受け取れるくだりがあります」
「ナポレオンが?」磯風が反駁する。
「ナポレオンが」コマンダン・テストが肯んじる。
「百日天下のあのナポレオンが?」
「そのナポレオンが」
「いまでもコルシカでは微妙に嫌われているという、あのナポレオンが?」
「そのナポレオンが」
「寝ているときに部下がいたずらでブルーチーズを鼻に近づけたら寝言で細君の名を呟いたという、あのナポレオンが?」
「そのナポレオンが」
コマンダン・テストはナポレオンの手紙の該当箇所を暗唱した。
“わたしは遠く、遠くへ旅に出る。あなたも来てくれるだろう? わが隣、わが腕のなか、わが胸の上、口の上にいてくれるだろう? 翼をつけてひとっ飛びにおいで、おいで! あなたの胸にキスを。そして、もっと下の部分にも”
「ナポレオンは生涯でジョゼフィーヌに二二七通ものラブレターを送っていて、これは結婚してから二日後にイタリア遠征に赴き、長引いて帰れないのでこちらに来てほしいとしたためた手紙です。口の上というあたりと、もっと下の部分にもというところが、おそらくはクンニリングスを意味しているといわれています」
フランスの水上機母艦娘はもう一通を例にあげた。……
“キスをもっと下、胸よりもずっと下のほうへ降らせるよ。尻の穴、太もも、膕、足の指のあいだをくまなく舐め上げたい。その塩っけ、その酸っぱさ、そのかぐわしい香りを想っただけで、ぼくはいてもたってもいられなくなるんだ。もちろん、あなたなら知っているはず、ぼくが寄り道を忘れるわけないってことをね……そうさ、あの小さな黒い森。そこへ千回のキスをして、あなたの血潮が燃えて果てるのを、ぼくは待つのさ……”
「小さな黒い森とは、陰毛、すなわち彼女の陰部のことでしょう。そこにキスをするというのですからこれはまちがいなくクンニリングスです。キスを千回とありますが、実際に千回するというわけではなく、そのあとの、絶頂に達するまでし続けるという文面から、回数が多いことのたとえだと思われます」
「日本でいう、八百万の神とか、千尋の谷とかいうのとおなじですね」翔鶴が理解を表す。「クンニだけでオルガスムスに導こうというのですから、ナポレオンはよほどジョゼフィーヌさんを舐めるのが好きだったのでしょうね……」
「でも、すごい手紙ですね。情熱的というか……」
秋月が照れ笑いをみせる。
「フランスでも常軌を逸した愛情表現です。ジョゼフィーヌはナポレオンからこの手の手紙がくるたび、友人にみせて笑い物にしていたとか。返事なんてめったに出さなかったそうです。なぜかというと、ジョゼフィーヌはべつの男性に入れ込んでいたからなんですね。ナポレオンはエジプト遠征中にこれを知り、身内に“浮気されて悔しい。彼女と離婚したほうがいいかな”という手紙を出しましたが、その手紙を乗せた船がネルソン提督率いる英国艦隊に拿捕されたことで、英国の新聞に“ナポレオンの奴、浮気されてやんの”と大々的に報道され、爆笑を誘うことになりました。大恥をかかされたナポレオンは本格的に離婚の決意を固めたといいます」
コマンダン・テストが歴史を簡単に述べた。ウォースパイトがひそかにほくそ笑む。英国はいわゆるタブロイド紙発祥の地である。
「ナポレオンは体臭に興奮するタチって聞いたけど、あれはほんとう?」
「ほんとうだそうです。というより、ナポレオンのみならず、フランスでは性交渉において臭いは非常に重要な要素です」
千歳の問いにコマンダン・テストは即答した。
「こう、なんといいますか、お風呂に入ってない、鼻が痛くなるようなむっとする体臭に包まれると、頭の芯が痺れて、理性のタガが外れるというか、膣圧が上がって子宮の奥がきゅうっと疼くというか、無性にムラムラしてわけがわからなくなるのですが、わかりませんか」
だれもが応答しなかった。どことなく視線が痛かった。
「わたくしは、相手の肌を舐めたときに、アカでしょっぱいくらいが好みです。ですから相手にも行為まえのシャワーなんて浴びないでいてほしいのですが、提督はそのわたくしの好みにも快く付き合ってくださいますので、とても満足です」
恋人との性行為を極限まで楽しむために、一週間も風呂へ入らないフランス人もいるという。臭いのきつい食べ物がくせになるのとおなじ理屈なのかもしれない。
「シャワーを、浴びないなんて」
「相手の生の味や匂いを堪能したい。それがわたくしの愛です。それを申し述べたとき、提督はわたくしになんといったと思います」コマンダン・テストは昂揚を隠せなかった。「いわく、“わたしにシャワーを浴びるなと? いいだろう。ただし条件がある。わたし同様、きみもシャワーを浴びてはいけない。わたしにもきみのそのままの芳香を賞玩させてくれ”。おんなにとって、あるがままを受け入れてもらえること以上の喜びが? それに、どうせ終わったあとにシャワーを浴びるのですから、二度手間じゃないですか」
ウォースパイトは聞かなかったことにした。切り替えて覚悟を述べる。
「いずれにせよ、もうクンニの快感を知ってしまったものはしかたがないわ。かくなるうえは、すこしでもAdmiralがクンニしやすいように努力していくしかない」
提督が、ラブジュースの味には生活習慣が関係するといっていたことをみなが思い出した。つまりケアを怠っていればラブジュースの味やヴァギナそのものの匂いが悪くなることを意味している。可能ならば自身をより向上させたいと願うのが女の情である。
「よく、直前に食べたものの匂いがするとかいう話を見聞きいたしますが……」
「あれは迷信です」コマンダン・テストに翔鶴が銀の髪を払いながらいった。「迷信ですが、体臭とおなじく、ふだんの食生活が大きくかかわることは事実です。肉食中心だと生臭くなって、塩味が強くなり、苦味も出るそうです」
ウォースパイトとアイオワが、それは困ったと天井を仰いだ。
「わたしなんて、緑に輝く牧草をみただけで、こんなみずみずしい食草で育った牛はきっと極上のローストビーフになるだろうって、期待に胸をふくらませるほどなのに」
ウォースパイトが悔し涙を滲ませる。欧米社会と肉食を切り離すことはできない。土地が痩せていて水資源が少なく、年間の日照時間も短い大陸では、農耕より狩猟がおもな糧だった。いまでも養畜農家や屠殺業者、肉屋は社会的に高い地位にあり、尊敬される職業の代表格でもある。
とはいえ、動物を殺すとなると、心的外傷を負いかねないすさまじい悲鳴があがるし、人間とおなじ赤い血を流す。まして数ヵ月から数年も飼育していた家畜なら愛着もわいていよう。しかしほかに食べるものがないのが大陸の冬だ。食肉となる動物を屠殺する罪悪感を軽減させなければならない。そこで、超越的で偉大な存在が自分に似せて人間を創造し、食べ物として動物を与えてくださったとする物語を編み出した。それがキリスト教の端緒であるといわれている。肉食の文化こそアングロサクソンの歴史そのものといっても過言ではない。なんでも食べる日本人や中国人にくらべ、欧米にベジタリアンが多いのは、それだけかれらの社会と肉食の習慣が強固に固着していることの裏返しともいえる。
「お魚や野菜といった脂肪分の少ないものをメインに摂っていると、しょっぱさが抑えられるそうですよ。果物をよく食べていればフルーティな香りになるらしいです。味は嗅覚に左右される部分が大きいですから……」
「野菜を……」千歳が真剣な眼をする。「欧米のレストランのお品書きでは、お米は野菜のところに分類されているのよね?」
欧州と米国の艦娘がうなずく。千歳がつづける。
「日本酒はお米からできている。お米は野菜の一種。つまり日本酒を飲んでいれば、野菜をたくさん食べているのとおなじことなのではないでしょうか」
少なくない艦娘たちが衝撃を受けて絶句した。そんな手があったとは。「たぶんそうはならないと思いますが」翔鶴にみなが落胆する。
「もし、ナットーばかり食べていたら、Cuntもナットーの匂いになるのかしら」
アイオワが思いつきを口にした。
「納豆にふくまれるピラジン化合物やナットウキナーゼは、血栓を溶かし、血行促進や、悪玉コレステロール値の低下、整腸作用もありますから、推測ですけど体質が改善されてかえって匂いが少なくなると思います」
翔鶴の解説に感心する。しかし納豆はハードルが高い。
「適度に汗をかいて老廃物を排出することも、匂いの軽減につながるそうです。それと、あまり念入りに洗わないほうがいいという話も」
みなが翔鶴の説明を傾聴していた。
「内部は蒸れやすく匂いもこもりがちですし、洗っておかないと饐えた臭いがしてしまいます。が、膣内には雑菌の繁殖を抑える成分がつねに分泌されています。あまり石鹸などでくまなく洗いすぎると、これらもまとめて流されてしまいますので、かえって雑菌がわいて臭いのもととなってしまうことがあります。外のビラビラは石鹸を使い、内部はシャワーで洗い流す程度に留めましょう」
「汗っかきだからって頻繁にシャワーを浴びていたら逆に臭くなるってのと似たようなものね」
アイオワは何度もうなずいた。
「素朴な疑問なんだけれど……」
沈黙を保っていたウォースパイトが手を挙げていた。
「そもそも前提として、ほんとうにAdmiralはLove juiceの味のちがいがわかるのかしら」
一理あると全員が思案した。執務室に隣接している給湯室にはいくつもコップがあったはずだと艦娘たちがほぼ同時に思い至る。
◇
尿意があったことは事実なので、提督は便所へ向かいながら、どう答えたものか思索することにした。“みんな美味いぞ”では納得するまい。衝突を避けるための玉虫色の答えであることを女というものは敏感に察知する。はっきりするまで追及の手を緩めないだろう。うまい手はないだろうか……廊下を歩いていると「司令官じゃん。なにしてんのさ」と声をかけるものがある。
駆逐艦敷波だった。ぷにぷにのほっぺが愛らしい。
「いまって旗艦とレクしてんじゃないの?」
提督はいきさつをかいつまんで話して聞かせた。また、どのような答えが彼女たちを沈静させうるか、知恵を借りたいと申し出た。蛇の道は蛇ではないが、女の子なら自分が頭を悩ますよりよい結果をもたらしてくれるにちがいない。提督は期待した。
「なっさけな……」
「面目ない。こういうとき男は使い物にならんのだ」
「まあ、司令官が困ってるっていうんなら、考えたげないこともないけどさ……」
敷波がほっぺをわずかに紅く染めた。
「で、ほんとはだれが一番なのさ」
「なんだって」
「あたしにだけ、あたしにだけ教えてよ。そんくらいいいじゃん。だれにも言わないからさ」
「いやそれは……」
「なんだよお、あたしにもほんとのこと言えないのかよ」
「つまり、だな」
提督はわざとらしくなにかに気づいた顔をした。
「小便のため中座してきたのだった。あああ、いまにもブローしてしまいそうだ。失礼する」
「あ、逃げないでよ司令官!」
提督は階段をまろびおちるように駆けおりた。本来の目的地に設定していたところより遠い便所へリルートする。
中庭で打ち水をしているのは独空母グラーフ・ツェッペリンであった。色素の薄い金の髪に白蠟のような肌が映えている。
「なんだ、Admiralか。この時刻にめずらしいな」
「実はな……」
信頼できそうな相手をみつけた提督は、一部始終を語ったうえで、あの場を丸く収めるにはどうすればよいか教えを乞うた。実直な空母艦娘は秀麗な美貌に呆れを浮かべた。
「しかたのないひとだな」
「いまこの星で、わたしを置いて自業自得のモデルケースたりうる存在はいないだろう。きみの助けが必要だ」
「しかし、なんであれ、あなたに頼ってもらえるのは悪い気はしない」
提督は愁眉をひらいた。彼女から答えをもらって帰れば円満に解決するだろう。
「Admiral, その前にひとつ訊きたいが……」
「答えよう。わが誠実さを証明させてくれ」
「実際、だれのが一番なのだ」
「なんだって」
「このGraf Zeppelin, 口の堅さには自信がある。わたしにだけはほんとうのことを言ってくれてかまわないぞ。それでその、もしわたしが一番だったりしたら、まぁなんというか、うれしくないこともないが……」
提督は「漏水警報だ。すまないがこの話はまたの機会に」とその場を辞した。あとには呆気にとられたグラーフ・ツェッペリンが残された。
用を足してからわざと遠回りをしていると、こんどは駆逐艦初月と遭遇した。これから装備点検だという。長十センチ砲の改修案について姉の秋月から聞いたかどうか尋ねられた。席を外してきたのでまだであると答えると、
「なぜ途中で中座してまでこんな離れたところまできたんだ」
もっともなことを質された。提督は事情を包み隠さず話し、名案が浮かぶまで帰れないのだと明かした。当然ながら救いようがないという顔をされる。
「まったくおまえという奴は……」
「返す言葉もない」
「まあ、僕は、おまえがほんとうはだれのが一番美味しいと思っているのかなんて、興味はない」
「助かる」
「興味はないけど」初月が続ける。「提督が、どうしても僕にだけは打ち明けたいというのであれば、聞いてあげないこともない」
「なんだって」
「隠したままだと、おまえも気分が悪いんじゃないか? 僕が聞いてあげるよ。ほんとのことを言ってごらん」
「それは、だな」
「強情な奴だ。僕がだれかに口外するとでも?」
「まさか。きみはそんな女性じゃない」
「だろう。さあ、教えてくれ。だれが最高の美味なんだ?」
提督は、芝居がかったしぐさで腕時計をみつめ、
「おや、もうこんな時間! すまないがこれで帰らせてもらおう、協力感謝する。長十センチ砲の改修については善処する。では」
初月の「意気地なし! もう赤ちゃんプレイはおあずけだからな!」という死刑宣告を背中に刺されながらも、そそくさと撤収したのだった。
答えが用意できないまま、重い足取りで執務室に帰ると、テーブルにコップが並べられていた。人数ぶんある。透明な液体が底から指一本ぶんの太さ、つまりウィスキーでいうところのシングルだけ入れられている。気のせいか艦娘たちはみな息があがっているようだった。磯風にいたっては満身創痍であるかのように突っ伏している。
提督があとずさりする。予感があった。第六感のお告げがあったのだ。
ウォースパイトが滑らかな指を提督に突きつけた。
「そもそも、Admiralがほんとうに個艦のLove juiceの味を判別できるのかどうか、失礼ながら確かめさせてもらいます。そう、利き酒ならぬ、利きマ……」
「その前にうかがっておきたい」
提督はウォースパイトを遮った。
「きみらは、鼻水をすすることはあるか?」
とまどいながらも全員がうなずいた。よし、と提督は勝利を確信した。
「鼻汁をすすることはできても、ティッシュにかんだ鼻汁を舐めることはできまい?」
顎を引いた艦娘たちの眼に理解の閃光。
「それとおなじだ。わたしはラブジュースは直飲みでしか受け付けられん。コップに注がれた状態では、それはティッシュにかんだ鼻水なのだよ」
ウォースパイトらはうちひしがれた。コップにためるにあたってどれほどの苦労がともなったのか想像に難くない。
「なら、直飲みでテイスティングしていただければいいんじゃないでしょうか、目隠しでもして」
翔鶴に全員がふりかえる。執務室に生気がよみがえった。つぎに提督へと視線が集中する。提督は首を横に振った。
「わたしは味だけでなく、体臭でも、きみたちを同定できるんだ。だから直飲みしたとて、純粋に味だけをみることはできない」
「匂いを嗅いでしまうのなら、鼻を塞げばいいじゃないですか」
コマンダン・テストが大仰に声をあげるが、提督は揺るがない。
「嗅覚を遮断されたら、正確な味がわからなくなる」
その後もいかに提督に味を見分けられることを証明させるかについて、鼎が沸くような丁々発止の議論が繰り返された。
だしぬけに警報が鎮守府じゅうに響き渡った。提督と艦娘たちの目つきが瞬間的に変わる。ホット・スクランブル。付近を航行中の油槽船が深海棲艦の有力な通商破壊艦隊に襲撃されたとの通報をうけ、彼女らに出動命令が下されたのだ。提督は澱みなくてきぱきと指示をくだし、艦娘たちもまた獰猛な笑みを浮かべ、いっさいの遅滞なくしたがった。あわただしく執務室から出ていく。
あとに残されたのは、書記の駆逐艦藤波だけだった。もっとも後任の彼女は人間社会の風俗習慣を学ぶための行儀見習いも兼ねて書記に任命されていただけあって、いまだ常識に疎い。よってマン汁がどうのとすべてを真面目に書き連ねた議事録を「これホントに出していいのかしら」と内心疑問に思いながらも、言いつけられていたとおりに総務課へ送り届けた。人間の姿をえて間もないがために羞恥すら芽生えていないのである。藤波は仕事を果たしただけにすぎない。すなわち、議事録が通常どおり総務部から本部へ定期便で送られ、麗しき文書主義に則ってアナログからデジタルのデータベースに変換されるにあたって、コンピュータのキーを叩く担当者がその驚愕すべき内容を上司に相談し、その上司がさらに上司に持ちかけて上層部に知れわたり、提督の召喚につながったことについては、彼女の責ではあるまい。
出頭し市ヶ谷の本庁舎五階にある多目的会議室に通された提督を待っていたのは、統合幕僚長、海軍幕僚長、統合幕僚監部運用部長、統合幕僚監部首席法務官、統合幕僚監部首席後方補給官といった、そうそうたる面々であった。窓を背にして逆光を味方につけているためよけいに凄みがある。
統合幕僚長が口火を切った。
「よくぞ……いや、よくもこんな議事録を出してくれたな」統合幕僚長は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。
「すべて読ませてもらった。端的にいって問題では、ある。しかし、これほどまでに明け透けに話ができているということは、それほど彼女らと信頼関係を結んでいる証拠であるとも考えられる。事実、きみの麾下の艦隊は求められたとおりの結果を出している」
全軍の頂点にたつ統合幕僚長がファイルを閉じる。
「戦士には個人で戦う力、兵士にはチームで戦う力が必要だ。艦娘にはその両方が要求される。彼女たちは戦うために生まれてきたといってもいい。戦場では感情を本能的に最適化して制御できる。恐怖や不安といった不要な感情は任意に軽減、または排除している。PTSDも戦争神経症もない。われわれ人間よりはるかに戦争に特化しているといえる。だがそれだけでは足りないのだ。なにが必要なのか? わかるかな。物語だよ。なんのために戦うのか。全身全霊をかけるのか。いわゆるモティベーションの源となるのが、物語なのだ。ゆえに多くの国では兵士に愛国心をすりこみ、宗教によっては神のための戦いで死ねば天国へ行けると教えている。人は、いくらでも替えのきく乱数であることには耐えられない。だれもがかけがえのない主人公でいたいと願っている。承認欲求は人と動物の最大の相違点だ。彼女たちの心にも同様に承認欲求は実装されている。ひとりひとりが、自分はだれかにとっての特別だという物語を背負うことによって、現実に特別な存在となる。これは精神論ではなく統計で裏付けされている。われわれは士気の観点からも物語による自己実現性を軽視しない。物語によって彼女たちは英雄となれるのだよ」
慈父のような語り口だった。つぎに厳粛な職業軍人の顔へと戻る。
「今回の件は不問とする。召喚の履歴も一年で消える。ひきつづき彼女たちを任せる」
「ありがとうございます」
張りつめていた室内の空気が軟化する。
「ところでだな」
提督に休めと指示してから、統幕長がおもむろに口を開いた。
「きみが言いたくないのなら、べつに言わなくてもいい。言わなくてもいいが、きみがどうしても、われわれにだけ言ってしまいたいと、そういうのであれば、聞いてやらぬでもない」
軍の枢要たちが提督を凝視していた。背筋に悪寒が走る。まさか。
「で……けっきょく、だれが一番だったのだ?」
提督はその場にへなへなと崩れ落ちた。