提督の我慢汁が多い件について   作:蚕豆かいこ

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提督の我慢汁が多い件について

 駆逐艦娘の長波が、しっとりとしたその濡れ羽色に桃色のインナーカラーを隠した波打つ髪の先を人差し指で弄びながら、鎮守府内にある寮へと戻っていたのは、おちこちで起きる鶏鳴がよく響くほどに空の澄んだ、ある冷えた朝のことだった。

 3段ベッドがいくつも組まれた部屋ではいましも長姉の夕雲のほか、朝霜が身支度を整えていたところである。長波をみとめた夕雲がターコイズブルーのリボンタイを締めながら艶やかに微笑んでいった。

「ゆうべの提督のお相手は長波さんでしたか。骨の髄まで愛していただけましたか」

「骨の髄どころか尻から髪まで可愛がってもらったんだけどさ」

 長波が頬をかく。夕雲が小首をかしげる。

「どうかされましたか、提督の出す量が少なかったとか薄かったとか……」

「量も濃さも味もフツー。ただな……」

 長波は腕を組んで「気のせいかもしれないんだが」とうなった。長い銀髪に蒼のインナーカラーの朝霜がざっくばらんに結わえ終えて興味深そうに伺う。長波が玄妙な色合いの瞳を迷いながら開いて打ち明けた。

「提督の我慢汁、やけに多くなってないか?」

 

  ◇

 

 我慢汁は射精にさきだって分泌されるもので、糸をひくほどに粘性があり、汗に似た味がする。つまりややしょっぱい。これは我慢汁に含まれるアルカリ成分に由来する。女性の膣内は雑菌が繁殖しないように酸性に保たれているが、そのままでは精子も殺菌されてしまうので、まずアルカリ性の我慢汁で中和しておくというわけである。

 提督はこの我慢汁が多いのだという。元からそうなら問題ないが、長波いわく、4ヶ月ぶりに連れ込まれた昨晩のこと、前回までにくらべあきらかに分泌量が増加しているとのことであった。これを受けすみやかに非番の駆逐艦が夕雲の発議により夕雲型姉妹の部屋へと参集された。「司令官の我慢汁が多いらしい」「マジか!」「前からそう思ってたんだよ」駆逐艦たちが血相を変えて集まる。

「たしかにそンな気はしたっけなぁ」

 江風がみずからの寝癖をつつきながら漏らした。

「いつぐらいから増えたかわかりますか」

「いや~、その……」

 夕雲に江風が左右の人差し指を突きあわせながら目を泳がせる。柱の陰から半身だけみせる山風が補足する。

「江風はいつも提督にあれやこれやされる側だから……提督のおつゆの量にまで気を配る余裕ないの……」

 江風が絶叫しながら両手で顔をおおって右に左に転がった。それから秋月、照月、天津風、朝潮、磯風、早霜、磯波らの情報を統合し整理してみたところ、おおむね半年ほど前をさかいに提督の我慢汁が増量をはじめていることがあきらかとなった。早霜が上気しながらいうに「笛を吹いてさしあげたら次から次へとお出ましになるので、喉がつっかえそうでした、ウフフ」とのことである。尋常ではない。

 夕雲がこれを直属である軽巡洋艦級に上申し対応の指針について意見を仰ぐこととなり、やはり非番のものから大淀、矢矧が応じて参画し合議となした。

「たしかに最近増えたかしら、気にはなっていたけれど、それが?」

 矢矧に磯風が答えた。

「船の機関は不完全燃焼を起こすと排煙が濃くなる。同様に、ヒトをふくむ動物のからだから排出されるものには体調が如実に現れる。変調もまた然りだ。司令のからだになにかしらの異変が起きていると、この磯風はみる。杞憂ですめばよい。しかし機をのがせば取り返しのつかんことになる」

 至極もっともであると大淀が了解して、長波に訊いた。

「具体的には、どれほど出るのでしょうか」

「まるでなかにトコロテンが詰め込まれてて、それが押し出されてくる感じ。舐めてたらもう溺死するくらい」

「味やニオイについては?」

「いつもと変わりないけど、後のほうになるとしょっぱさがなくなって薄味になるかな」

「精液も?」

「精液も」

 これについては全員が意見の一致をみたためとくに問題視はされなかった。もともと提督は肉を好まずタバコも吸わないため我慢汁も精液もニオイが少ないのだった。喫煙者の精液はえぐみが強く洗剤のように苦いのである。なお糖尿だと甘い。

 我慢汁が多いことの是非について延々2時間にわたり激論が交わされた。多くていいではないか。軍には健康診断があるのだからもし病変ならすでに発見されていよう。個性のひとつである。いや不安だ、我慢汁で髪パックができそうなほどの量である、なにかのっぴきならない原因があるに違いない。通常の人間ドックでは膵臓がんなどは見つけることができないという。それと同様の病魔がひそかに提督を蝕んでいるとだれが否定できよう。病種はなによりも早期発見が肝要だ。やはり精密検査のひとつも勧めるべきではないのか。

 それまで黙って会議の推移を見届けていた朝霜がテーブルをおもいきり叩いた。彼女は涙ながらに訴えた。

「好きな男の我慢汁は美味いんだよ! いいじゃねえか多くたって!」

「いや、それはない」

 ここでも議は容易に決せず、ついには重巡洋艦、戦艦、空母、その他の艦娘らにも中休み中の食堂へ招集を願って稟議を仰いだ。その劈頭、

「提督のカウパー氏腺液の増加に関する所見と今後の方針について各艦のご意見をたまわりたくぞんじます」

 夕雲がきりだした。

 一同はおもくるしい沈黙に包まれた。ここにいるのはいずれも提督と関係をもつ穴兄弟ならぬ竿姉妹である。やがて伊戦艦ローマがしびれをきらした。

「みんな黙っていてはなにもわからないじゃないの。それぞれに意見を述べないと……」

 促されて、米戦艦アイオワがハワイアンブルーのコーラを注ぎながら次のように答えた。

「あれはあれで、Yamatoに教えてもらったLotion-playに使えるし、好みの範囲にすぎないんじゃない、もし病気だったらまずAdmiral本人が気づいてるでしょ」

「Lotion-playはSexual lubricantでするものであって、Pre-ejaculate(我慢汁)を用いるべきではないでしょう」

 ミルクティに口をつけた英国戦艦ウォースパイトがすかさず反論した。伝統の不変と継承をこそ信条とするこの戦艦娘にとって、ある用途のために用意された道具を用いずに意図的に別なもので代用することは、それをつくるにあたって携わった者らへの冒涜であると受け止められるようだった。すなわちローションプレイはあくまでSexual lubricant(いわゆるラブローションのこと。Love lotionは和製英語なので通じない。ただしSexual lubricantを用いた性的遊戯をローションプレイと称してもそれはそれで通じる)でするものである。よってローションプレイのためにわざわざ最適に調整され安全性も担保されている正規のラブローションではなく、我慢汁を使うという発想がそもそもウォースパイトには受け入れがたいのだった。ウォースパイトにとって我慢汁はあくまで尿道を洗い膣内のpHを中性ないし弱アルカリに変化させて精子を防護するためのものであってローションではない。あらゆる道具は例外なく想定された正しい目的に供されねばならないというのがこの英国を代表する戦艦の哲学なのである。

「そんなこといって、こないだAdmiralがSperm出したあともしごきつづけて吹いた潮を浴びて素敵なシャワーとかなんとかいってたらしいじゃないのヨ」

 アイオワにウォースパイトが紅茶を吹いた。

「どうしてそれを……」

「この国では壁に耳あり、障子にメアリーというわ」

「とにかく、Lotion-playに、がま……Pre-ejaculateを使うのは反対です」

 ナプキンで口を拭っているウォースパイトを眺めながら、これがうわさに名高い二枚舌外交かと夕雲は思った。

「でも病気ならたしかに問題よね」

「うむ。飲まされるわけではないが即尺していると鼻にまで逆流してくるほどからな。しかし先走りの増える病気とはなんだ」

 陸奥に長門が疑問を呈した。性病の2文字が艦娘たちの脳裡をよぎる。

「これはまさか」

 と、フランスの水上機母艦コマンダン・テストと伊戦艦イタリアが同時に声をあげた。

「ナポリ病ではないでしょうか」

「フランス病ではないでしょうか」

 いってからふたりが顔を見合わせた。

「ナポリ病でしょう」とコマンダン・テストが断じれば、

「いいえ、それはフランス病です」イタリアが抗弁するのである。

「失敬デスネ。そんないかがわしい病気にわがフランスの名前を使わないでください」

「ナポリを梅毒の温床みたいにいうのやめて! 否定はできないですけど」

 提督たっての希望で夜な夜なピンク調のセーラー服に着替えて歳上のごとくふるまうプレイに興じているという空母サラトガが、ウォースパイトに「梅毒のことをブリテンではなんというのですか?」と訊ねる。その堂々たる返答は、

French disease(フランス病).」

「ほら、やっぱりフランスが悪いんじゃないのよ! だいいち国歌からして血なまぐさいのよ」

 ローマに指を突きつけられてコマンダン・テストは厳しい立場にたたされた。その潤んだアイスブルーの瞳が独戦艦ビスマルクに救いを求める。

「Mme Bismarck. Allemagne(ドイツ)ではsyphilis(梅毒)のことをなんとおっしゃるのですか」

 ビスマルクが氷河の底のような蒼氷の双眸を開く。美しい口唇が答えを紡ぐ。

französische Krankheit(フランス病).」

 コマンダン・テストは天井を仰ぎながら茫沱と涙を流した。なぜ世界の芸術と美食の祖ともいうべきフランスをよってたかって貶めようとするのか。ハイヒールやマントといったファッションもフランス発祥だというのに。

「なら……ロシアはなんと呼んでいたのでしょう」

 破れかぶれのコマンダン・テストの問いが響に投げかけられた。全員の注目がシーバスリーガルの12年をチェイサーもなしにストレートで舐めるように飲んでいる小さな駆逐艦娘に集まる。彼女はいささかも酩酊の陰をみせない端然たる佇まいのまま、頭脳にしまいこまれているロシア語の辞書をくり、該当する語句をこの場の公用語たる日本語に翻訳する。その答えとは、これだった。

「ポーランド病」

 あわれ! 憐憫の情が艦娘たちのあいだに流れた。第二次大戦をモデルとした架空戦記ではいまだにまっさきに陥落の憂き目にあうポーランドは、いままたロシアによって梅毒の汚名を被せられていたのである。なおポーランドでは梅毒をロシア病と称していたことなど彼女らの知るところではない。

「ならニホンでは梅毒を梅毒以外の名前で呼ぶことが?」

 独空母グラーフ・ツェッペリンがひとくちサイズのバームクーヘンをめずらしそうにつまみながらだれともなしに訊いた。ドイツではバームクーヘンはさほどポピュラーな菓子ではないらしい。

「琉球病だな、たしか」

 長波が鉄瓶で淹れた煎茶をすすりながら呟いた。

 では琉球ではなんと呼ばれていたのかという当然の疑問には、隣席の矢矧とともにぽたぽた焼きをかじる磯風が「唐瘡(からかさ)といったか」と思い出していった。「日本は沖縄に、沖縄は大陸に責任をおしつけていたわけだな」

 ではなぜ梅毒は世界中でこうもことごとく他国の名が使われているのかといえば、性病という恥部のなすりつけあいというより、その感染経路に着目したほうが正しい。まずコロンブスが新大陸から持ち帰った梅毒がスペインで発祥し、そこからフランスを経由してイングランド、ドイツ、イタリア、トルコなど欧州全域に感染が拡大した。英独伊からみれば梅毒はフランスからきたように映ったからフランス病と命名されたのである。さらにトルコからポーランドを介してロシアにも渡り、ときにはロシアからポーランドへも梅毒が逆輸入された。またシルクロードを通じてシナに伝わり、海上交易で沖縄、そして日本にまでもたらされたとされている。

 よって、たとえばカンザス州が起点であるのに最初に報道されたのがスペインだったからスペインかぜ、極東から南アジアまで広く分布するにもかかわらず日本ではじめてウィルスが分離できたことから日本脳炎と名づけられたのと同様、フランス病という病名にフランスはなんら責められるところはないのである。ウォースパイトはそれを知っていたが泣きじゃくるコマンダン・テストをよそに黙したままサンドイッチに舌鼓を打っていた。頼まれもしないのにイギリスがフランスを援護することなどあろうはずもない。

 いずれにせよ、

「梅毒の症状ではあるまい」

 と長門がウィスキーボンボンをプリンツ・オイゲンやサラトガとわけつつ断じた。生殖器に異変があるなら性病の可能性は高いが、いまのところ梅肉のような発疹がみられたり鼻の穴が増えるといった兆候はない。

「Pre-ejaculateを垂れ流す性病といえば……Gonorrhea(淋病)でしょうか」

 ウォースパイトが希望者に紅茶を淹れて案じる。ミルクを先に入れるのが彼女の流儀らしい。コマンダン・テストもズビビと洟を啜りながら飲む。

「でも、膿は出てませんでしたよ、おつゆの量がすごいだけで」

 ウォースパイトにケーキスタンドを勧められた秋月が目移りしながら答える。サンドイッチやスコーンやケーキが乗ったあの3段のやつだ。「すみません、これ、どの段からとるのがマナーとかそういう決まりってあるんでしょうか、秋月そういうの疎くて……」「Sandwichでも、Sconeでも、Pastryでも、お好きなものを召し上がれ。甘いもののあとにSandwichはNoなどと無粋を申すものがいたら、このWarspiteを訪ねろといってください」秋月が目を輝かせて、瑞々しいいちごとラズベリーとブルーベリーの彩りが鮮やかなタルトをとった。頬が落ちそうになる。戦艦ウォースパイトの菓子類は砂糖に精製糖を用いていないのでじっくり味わいながらでないと甘さを感じにくい。しかし味覚を馴致させれば精製糖にはない優しい甘さが五臓六腑にしみわたるようになる。英国のティータイムには日々の食事の強い味で鈍感になりがちな舌を教育する意味合いもあるという。

「膿が尿道よりとめどなく溢れるさまはさながら木立の梢より滴りおちる雨のごとし、もって淋病と号されるが、提督のあれはただの我慢汁だ。膿ではない」

 長門がキュウリのサンドイッチを頬張っていいきる。朝潮が興味を示した。「わたしもサンドイッチを……けほっ」

「じゃあなんだってんだ? 男ってのは理由もなく我慢汁が増えたりするもんなのかよ」

 サラトガの持ち寄った、化学の実験で使う硫酸銅みたいに真っ青なケーキをおっかなびっくりつついて朝霜が首をひねる。勇気を振り絞って口へと放り込む。直後に破顔する。「うめぇ!」

 しかしだれもが解答を見出だせない。軍隊だけに性病には一家言ある彼女たちですら皆目不明であった。新種もしくは何万人にひとりという難病の類いだろうか。

「お酒でもほしい気分ね……」

 陸奥がひとりごちる。いまだ涙目のコマンダン・テストが「Champagneでよろしければ」と応じた。明るい金の髪にトリコロールのメッシュを入れたフランスの水上機母艦娘はヴーヴ・クリコのロゼを開けた。シャンパングラスに透き通ったサーモンピンクが注がれる。発泡の囁きが耳をくすぐる。誘うような甘美な香りにウォースパイトが抗うすべもなく兜を脱ぐ。

「温暖化のおかげでUKでもぶどうが栽培できるようにはなったけれど、wineの味は、Franceにはとうてい敵わない」

 いただけますか。ウォースパイトにコマンダン・テストは大輪の薔薇のような笑顔を咲かせた。「もちろんです」

 駆逐艦をふくむ大半が所望し酒杯を傾ける。煽るとそろって熱っぽい吐息が漏れた。イエローのシャンパンが世間ずれしていない無邪気な愛らしい少女なら、これはさながら、大人の階段に足をかけた年ごろの令嬢といった風情。すこしだけ背伸びをしたくなった彼女がのどかな田園風景のなかを微笑みながら手を引っ張っていってくれる情景が目に浮かぶ。

 神がつねに悪魔とともに語られるように、また北があれば南があるように、シャンパンにチーズを欠かすことはできない。コマンダン・テストがその道理を落とすわけもなかった。コクがありながら繊細な味わいの白いチーズ、ブリア・サヴァランを放射状に切り分け、その上にレーズン、クランベリー、マンゴー、パパイヤ、グリーンレーズンの5種がミックスされたドライフルーツを盛って、ケーキのように仕立ててみせたのである。

 まずその宝石がトッピングされた白チーズを口にする。つぎにヴーヴ・クリコを飲む。ひと息ついて感嘆の声がそこここからこぼれた。ウォースパイトすら恍惚の表情となる。チーズとシャンパンはいうまでもないが、シャンパンはフルーツとも相性がよい。つまり三者が互いの旨味と酸味を引き立てあうのである。チーズの、ともすれば濃厚すぎるコクをシャンパンの泡が喉から洗い流し、あとには幸福感だけが残るのであった。

「チーズなら、これも合うかもしれない」

 ビスマルクが自室からとりだしてきたのはドイツ産赤ワインのボトルだった。グラスのむこうが見通せないほどに濃い赤紫が自分を味わえと妖艶に手招きする。

 装甲空母翔鶴も転がして香りを聞き、口にふくむ。辛口だが、よく熟したいちごを噛んでいるような果実の芳香がタンニンを包んでいて、渋みがない。「あら、おいしい……」頬がほのかに色づいた。チーズに対してシャンパンとはまた異なるアプローチをしている。

「このvinの風味なら、こんなおつまみはいかがでしょう」

 ドイツが執念で作り出した赤ワインを試したコマンダン・テストが、べつのチーズを被瀝する。円い木箱に米英独伊の艦娘たちが歓喜の声をあげた。

 もみの木に似た香りに食堂が満たされる。

 粉の吹いた波打つ表皮をナイフで切り取ると、溶かされたようにとろとろの濃厚な黄金が覗く。寒い冬はこのモン・ドールにかぎる。コマンダン・テストの勧めでまずはそのまま試してみる。日本の艦娘はいずれもモン・ドールは初体験であったから、室温でとろりとしたチーズというもの自体が物珍しく、欧米艦娘らの微笑みを誘ったが、いざ味わってみると、おお、なんたる美味! 艶があり、なめらかで、濃い乳の甘みに、うっとりとせずにはいられない。匂いこそややクセがあるものの、かえってそれが酒と合うのである。

「ではつぎにBaguette(バゲット)を……」

 斜めに切ったバゲットにモン・ドールを塗るように乗せる。

 2度3度、噛んだところで、朝霜が美味さに耐えきれずテーブルをばしばし叩く。磯波も陶然とする。食べながらアイオワとサラトガがハイタッチする。

 断面の大小さまざまな気泡にとろけたモン・ドールが入り込むことで、バゲットの塩味もあいまって風味の相乗効果をなしている。

「では、仕上げとまいりましょう」

 まだこの上があるのか……翔鶴らが笑みをたたえながらおののく。

 モン・ドールの円い木箱にアルミホイルを巻き、白ワインをまぶして混ぜる。その上にみじん切りにしたにんにくと、パン粉をふりかけ、予熱しておいたオーブンで焼き上げる。

 熱せられたチーズに、焼けたにんにくの匂いがたちこめ、食欲を強烈に刺激する。

 パン粉がきつね色になったら出来上がりだ。オーブンから出された熱々のモン・ドールに長波がおもわずあとずさる。

「おい待てよ……こんなもんが美味くないわけないだろ……」

 コマンダン・テストが自信たっぷりにテーブルに出す。

「さあ、熱いうちに召し上がれ」

 クリーミーに溶けたチーズに、茹でたじゃがいも、ヤングコーン、アスパラガス、パプリカ、ベーコン、ウインナーなどなど、思い思いの食材を絡めていただく。

 全員が絶句する。まさに味の爆発! モン・ドールでチーズフォンデュを味わう贅沢は艦娘たちからことばすら奪った。味覚をもっているということはなんたる幸福だろう。ワインがさらに美味くなる。酒は食事のためにあり、また食事は酒のためにあるのだと実感する瞬間だ。あれだけあったモン・ドールがたちまちなくなる。コマンダン・テストもにこにことなった。

「仮にだけど……Admiralの先走り汁が多いのがビョーキのせいだったら、Admiralが人間の女と寝たということにならない?」

 落ち着いたところでアイオワに幾人かが腕を組んでうなる。なぜなら、

「提督は翔鶴さんとヤるまで童貞だったものね」

「ええ。童貞と処女でよくうまくいったものだわ」

 矢矧と加賀がシャンパンにスルメという和洋折衷を展開して語るとおりである。「一瞬、尿道に挿れられそうになって焦りました」ほろ酔いの翔鶴が思い出す。爾来、味をしめた提督は戦艦や空母はいうにおよばず、駆逐艦や潜水艦にいたるまで開通させているわけであるが、

「それからこんにちにいたるまで、提督が人間の女性に手を出したとは考えにくい」

 という加賀の仮定に大多数が同意した。艦娘は人類とのコミュニケーションのためにヒト型をとっているが、どれも一様に見目麗しい造形をもつ。これは艦娘たちにはヒトの顔の個性が理解できず、やむなくみずからを没個性にデザインしているからである。個性がいっさいないとヒトの顔は美しくなる。顔を描くにあたってなんら特徴をあたえず完璧に左右対称にパーツを配置するとおそろしく美形になるのと理屈はおなじだ。個性とは基本的に欠点なのである。実体化している艦娘にそれはない。よって艦娘は個体差こそあれ美女と美少女ぞろいとなる。

 さらに、艦娘は長身の成人女性からまだ初潮もきてなさそうな年端もいかない幼女まであらゆる形態が揃い踏みしているわけで、つまり提督は女には不自由していない。おまけにヒトと艦娘では異種交配となるので受精はできても着床、すなわち妊娠は不可能だ。獣姦モノのポルノはいまどきめずらしくもないが、ヒトと豚、あるいは犬との混血児が生まれたなどという話は寡聞にして聞かない。同様に艦娘にも妊娠のリスクはないから膣内に射精し放題となる。結論としていまさら提督が人間の女性に興味をもつとは思えないのである。

「どなたか、提督にJuiceが多いことについて聞かれたかたはいないのですか」

 ひとりでボトルを空けそうなハイペースでワインを流し込んでいるサラトガが募ったときである。

「あれぇ、美味しそうなお酒の匂いがしますね~、このお部屋からでしょうか」

 扉の向こうから声がした。青ざめた艦娘たちが即応する間もなく、だらしのない顔が闖入してくる。伊重巡ポーラである。うわばみ、鉄の肝臓、バッカス、ざる、先天性アルコール中毒、シラフでも飲酒運転で検挙された女、トラトラトラ、レバーのアルコール漬け、酒計科、ほかにも彼女を形容することばはいくらもある。その瞳がグラスを映す。

「ああ~、それはシャンパーニュですね~、ポーラ、シャンパーニュ大好きです~」

「あんたミリンですら好きとかいって台所で舐めてたでしょ」

 ローマの怒声などお構いなしにシャンパンをねだる。ひとくち含むと至福の顔となる。

「ポーラ、貴艦はAdmiralのカウパー液についてなにか知見はあるだろうか。ささいなことでもいいので情報の提供をねがいたい」

 グラーフ・ツェッペリンの問いにポーラが桃色のシャンパンを飲みつつ考える。

「かうぱーって、あのネバネバしたやつですよね~、ポーラ、ネバネバ好きですよ~、ネバネバしたものはからだにいいって聞きました~。あら、こっちの赤ワインもおいしそう~、ビスマルクさん~」

 全員がお互いの顔を見合わせて力なくかぶりを振る。ポーラはまったく気にせずつづける。

「ポーラ、提督の大好きですよ~、提督のチンカスチーズはワインの赤によく合うんです~」

 これにビスマルクが蒼白となる。

「そんなものにweinを合わせるだなんて」

「vinのあらゆる生産者と脈々たる歴史、いえ、神に対する冒涜です」

 コマンダン・テストも独戦艦に和した。

「でもイタリアには、蛆の湧いたチーズをワインのアテにするところもあるくらいですしぃ~、たいして変わりませんよう~」

 それとこれとはわけがちがうと紛糾する光景に、酒の世界は奥が深いと下戸の長門はアイオワの青いコーラを飲みながら感心した。

「知ってますかぁ~、コンビニの安っすい赤玉ワインも、ブランデーをちょいと混ぜると、とぉってもおいしくなるんですよぉ~。こう、ワインの閉じてた花が、ぱぁって開く感じでぇ~、これがチンカスと相性抜群なんです~。あ、そうだ」アルコールの補給でシナプスの結合が促されたのか、ポーラが記憶を探しあてる。「ポーラ、このネバネバ多いですね~なんでですか~って訊いたことあるんですよ~、提督に~」

 新情報に艦娘らが食いつく。なにごとも本人にたしかめるのがいちばんである。

「そしたらぁ~、提督、そうか、そうだろうって、やけにうれしそうでした~」

 上質なシャンパンとドルンフェルダーを味わえて満足したポーラは食堂をあやしい足どりで辞していった。

「うれしそうにしていた、つまり自覚もあり、なおかつ司令にとって我慢汁の増加は目的であったと解釈してよいのだろうか」

 酔艦(よいどれ)を見送りシャンパンをジュース感覚で飲んでいる磯風に皆がいよいよわからないという顔になる。

「原点に戻って考えてみましょう、Pre-ejaculateはそもそもなんのためにあるのか」

 葉巻に火をつけたウォースパイトがクエスチョンを提示した。透き通るような金髪を手で払いながら足を組んで紫煙を吐き出す優雅な所作はアルフォンス・ミュシャの絵画のようだ。しかし実際は我慢汁について議論している。

「自身の尿道および相手の膣内の酸性を中和させ、より受精させやすくするため……でしたっけ。つまり妊娠の確率を向上させることが司令官の作戦目的なのでしょうか」朝潮が答えて、すぐに矛盾に気づく。「でもわたしたちはもともと人間とでは妊娠しませんし」

 翔鶴が酒で紅潮した頬を押さえて、断言した。

「提督にかぎって、おんなを孕ませるつもりなんて、ありえませんね」

 全員がおなじ動作でうなずく。というのは、いずれもが提督の性癖を知っていたからである。

 ヒトは1回の射精で1~3億の精子を放つ。膣内射精された精子は奥にある子宮の入口から頸管と呼ばれる狭いトンネルへ殺到する。頸管のなかは、排卵日の直前から大量の粘液で満たされているので、精液が泳いでいくことが可能となっている。とはいえ頸管の直径はわずか1~2mmしかない。精子の頭の長径は5ミクロンといわれる。直径が5ミクロンより小さいと仮定しても、200個や300個ほどの精子が横に並べば頸管はぎゅうぎゅう詰めになってしまう。しかも平均して2億の精子がここに押し寄せるのである。

 頸管のさきには子宮腔がある。ここをくぐった精子は卵管に入るとき卵管狭部という名前からして狭い関門を抜ける。卵管に進入できる精子は数百、卵管采で待つ卵まで到達できるものは数十にまで絞られる。

 もし、精子を人間の大きさに直せば、子宮口から卵までの距離はおよそ300km、東京~名古屋間に匹敵する。この長距離を、粘液をかきわけてだれよりも早く泳ぎきらなければならないのである。

 長く厳しい旅を征した結果、卵との合体を果たした精子は受精卵となる。受精卵は卵管から子宮へ移動し、子宮内膜に根をおろしてもぐりこんでいく。これが着床である。しかし艦娘の卵では、この着床がおこなわれず、受精卵は子宮内でむなしく死んでしまうのである。

「最初から報われないことが確定しているにもかかわらず必死に競争を勝ち抜いて、運にも恵まれた精子が、そのすべてを水泡に帰して息絶えていくさまを想像するのがたまらないらしいですから」

 翔鶴がグラスに残ったワインを飲み干す。

 もとから妊娠させるつもりがないのであれば、なんのために我慢汁を増やしているのか、まったくわからない。行き詰まる。

「ま……こんなときは気分転換にIrish coffee(アイリッシュ・コーヒー)でもいかが」

 提案したウォースパイトがやおら準備にとりかかる。ドリップした濃いめのコーヒーにブラウンシュガーを溶かしておく。生クリームをハンドミキサーでホイップする。このホイップ加減に神経を使う。過不足があってはいけない。早霜が興味津々で釘付けとなっていた。

 もちいるアイリッシュ・ウイスキーはタラモア・デュー。村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』でアイルランドの老人が超然と飲んでいた銘酒だ。

 取っ手のある耐熱グラスにメジャーカップでタラモア・デューを注ぎ、ランプの火で均等に炙る。頃合いをみて離す。軽く混ぜたバー・スプーンにランプの火を移してフランベよろしくグラスへと着火させる。透き通った幽玄な青い炎が揺らめいて皆の目を楽しませたのち消える。グラスへコーヒーを注いでウイスキーと優しく混ぜる。

 ここからが真骨頂だ。ホイップしておいた生クリームをしずかに浮かべる。これがむずかしい。ここまででなにかひとつでもミスしているとコーヒーと分離せずに混じりあってしまう。

 しかしウォースパイトは、まるで魔法をかけたようにコーヒーと生クリーム、黒と白の完全なるツートンカラーをグラスにつくりあげてみせた。「どうぞお嬢さん」かじりついていた早霜に差し出す。

「いただきます……」両手でおしいただくようにして、緊張の面持ちでグラスに口をつける。

 温かい至高のカクテルが喉を通る。

 前髪に隠れがちな目をつむる。吐息。そして沈黙。やがてひとすじの涙が流れた。

「……この感動を表現するにはどんなことばがふさわしいのか……自分の浅学がうらめしいです」

 それだけでじゅうぶんと喜ぶウォースパイトがつぎの1杯を用意する。ほかの艦娘たちも希望することは目に見えていて、事実そのとおりだったからである。

 で、そこへくだんの提督が現れた。型通りの挨拶を交わす。明るいうちからの飲酒を咎めるでもなく自身はウォーターサーバーの水を飲む。「だれかの体内を経て循環の果てにこうしてまた飲み水になっているかと思うといちだんと美味いな」艦娘たちが目線で意思を確認する。かくなるうえはじかに尋ねるほかはあるまい。翔鶴が皆を代表する。

「提督、たいへん尾籠なお話で恐縮なのですが……」

「いまさらだな。わたしは中学のころ、とくに好きでもなかったが顔だけは可愛かった同級生の女の子の体臭からその日が生理のピークだと推測して、彼女が学校のトイレから出たのを見計らってその個室に侵入し、汚物入れの使用済みナプキンに包まれていたまだほのかに体温の残る生レバーをありがたく口にふくんで、辛抱たまらずその場で自慰にふけった男だぞ。ためらうことなどない」

 それは初耳だったが翔鶴は我慢汁について建議した。量がただごとではないのでなにかしらの感染症もしくは悪性新生物がうたがわれる。ついては受診を検討してもらいたい。すると提督は、

「そのことか」

 おもむろにパンツごとズボンを脱ぎ下半身を生まれたままの姿にして後ろをむいた。

 ゆでたまごのようなすべすべの尻肉が、なにやら樹脂製の物体を挟みこんでいる。提督がそれを直腸から引き抜きながら艦娘らに向き直った。提督の手には奇々怪々な曲線で構成されたエネマグラがあった。

「ただいま前立腺を開発中だ。それで一年ほどまえからときおりこれを尻に突っ込んでいて、半年くらい経ってようやくトコロテンが出るようになった。ドライオーガズムの会得まであと1歩だな」

 男性のオーガズムは射精とほぼ同義である。しかし、訓練により射精をともなわない絶頂も可能となる。これをドライオーガズムという。対して射精とセットの絶頂をウェットオーガズムと呼ぶ。

 男にとって射精とは、絶頂を迎えるたびに膨らむ性的快楽という風船に穴を開ける行為に等しい。射精することなく頂に昇れば風船はどんどん膨らんでいく。繰り返し果てることでウェットオーガズムではたどり着けないさらなる高みを目指すことができる。

 陰茎を刺激するとどうしても射精してしまう。ドライオーガズムのためには陰茎ではなく前立腺のマッサージが必要になる。前立腺は直腸にほぼ隣接していて、感覚的には陰茎の付け根付近に存在し、女性でいうGスポットに相当する。腹からでは遠いので肛門から刺激してやるのである。エネマグラは挿入しているだけで継続的に前立腺を撫でてくれるので都合がいい。開発が進むと精子のない精液がトコロテン状になってとめどなく溢れてくるようになる。前立腺マッサージでは絶頂に至っても射精しないので、何度でもオーガズムを迎えることができるのである。提督は着衣のままことにおよぶのが信条だったこともあってだれもエネマグラに気づけなかったのだ。

「てっきりご病気かと心配いたしました」

「病気どころか、前立腺マッサージには新陳代謝を活発にする効果もあるらしく、最近は便秘しらずで、疲れもたまらず、朝も目覚めがいい。なかなか根気はいるが価値はあった」

 翔鶴に笑いかけ、ふいにエネマグラを見やった提督の瞳孔が縮む。神妙な顔つきのままエネマグラを艦娘たちに見せつける。

「サナダムシの破片がついていた」

「見せないでくださいそんなもの」

 皆が提督から全速後進で距離をとる。ウォースパイトとコマンダン・テストなど青い顔で震えながら互いを抱き締めあっている。誇り高きウォースパイトが涙さえ浮かべて提督に指をつきつける。

「Admiral, そもそも、なぜサナダムシなど」

「わたしは生まれつきひどい花粉症だ。寄生虫を飼うと花粉症は治るのだよ。きみたちも美容と健康のためにどうだね。わたしの腹で育った産地直送だよ」

「いりませんから、近づけないでください」

「どうでもいいが、カップヌードルとかのヌードルは、ギリシャ語のnudelからきている。その意味は、サナダムシだ。そう考えるとたしかに似ているだろう?」

Nouilles(麺類)が食べられなくなるからやめて!」コマンダン・テストが両耳をふさぐ。

「日清カップヌードルの“ド”の文字がやけに小さいのは、ヌードという言葉と似ていて恥ずかしかったからといわれている。メーカーもいろいろ苦労しているのだろうな」

「知ったことではないわ!」ウォースパイトが極上の陶器のようなほほに朱をのぼらせる。

「ところで、サナダムシはテープ状をしているが、蛇腹になっているだろう、このひと節ひと節に生殖器が1対ずつついているのだ。つまり長い1本のサナダムシは、1個体ではなく単縦陣を組んだ群れだということができるな」

「そんなことは聞いてないわ。とにかくAdmiral, それをお腹から駆虫できるまで、寝室には行きませんからね!」

 ウォースパイトはコマンダン・テストと手を繋いで一目散に撤退していった。

 エネマグラを肛門に戻し佇まいを直した提督がとなりに寄り添う翔鶴に語りかける。

「嫁と姑を仲良くさせる方法を?」

「不可能では……」

「それはな、つまり、旦那が悪者になるんだ。旦那が嫌われものになっていれば、家庭は円満に長続きする」

 哀愁を漂わせながら提督は食堂を後にした。実際、鎮守府は平和だったのである。 


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