「それじゃ、ゆっくり歩いてちょうだい」
「お、おう」
次の日から八幡のリハビリ生活が始まった。
もっとも八幡の場合は筋力を戻すだけなので、通常のリハビリよりは楽であった。
その日は朝から雪乃が見舞いに来ていた。雪乃は職員に手伝いをかって出たため、
こうして今、八幡は雪乃に手を引かれて歩いているのだった。
「なあ、助かるんだが学校の方はいいのか?」
「何を言っているの、今は三月よ。つまり今大学は休みなの」
「あーそうか、すまん、そういった感覚がすっかり抜け落ちてたわ。
何しろあそこは、フロアごとの季節の違いはあったんだが、
基本的に四季なんてものは無かったからな」
「四季の無い世界って、日本人には想像しにくいわね」
「そうだな、やっぱり四季があるっていいよな」
二人は微笑みあい、リハビリを続けた。
しばらくして職員からそろそろ休むように指示があり、二人はベンチに腰を下ろした。
「調子はどうかしら」
「やっぱ体が重く感じるな……このギャップを埋めるのは大変そうだ」
「そう……やっぱりゲームの中だと、思考速度も関係してくるのかしらね」
「あと反射速度だな」
「そうよね、確かに私も……」
「私も何だ?」
「あ、いや、なんでもないわ」
「そうか」
(解放直後でVRMMOに忌避感があるかもだし、
私達がALOをやってる事を話すタイミングは、慎重に考えないといけないわね)
「そうだ雪ノ下、もし可能なら、俺の事は八幡って呼んでくれないか?理由は……」
「二年近くもハチマンって呼ばれてたから、苗字で呼ばれるのに違和感があるのかしら?」
「おう、お前の理解力は相変わらずだな。何か懐かしいわ」
「これはもうプロポーズと受け取っていいわよね?それじゃ私とけっこ……」
「おい待て、その遣り取りには覚えがあるぞ!陽乃さんに話を聞いてたのかよ!」
「ふふっ、ごめんなさい、その通りよ」
「まったく姉妹揃って……で、呼び方なんだが、どうだ?」
「そうね……それじゃ試しに……八幡君、八幡君」
「昔なら違和感がすごかったのかもしれないが、今だと普通なのが不思議だな」
「それじゃ私の事も雪乃でいいわ。姉さんが陽乃さんなのに私が雪ノ下なのは、
やっぱりちょっと変な感じがするものね」
「了解だ、雪乃」
「私をそう呼ぶのに少しも躊躇が無いのはやはり驚きね。
それにしても、あなたが私を雪乃って呼ぶ日が来るなんてね。雪乃、雪乃、ふふっ」
雪乃は楽しそうに自分の名前を何度も呟いた。
「ところで由比ヶ浜さんはどうするのかしら?」
「由比ヶ浜な……ヒッキーって呼ばれるのは、元があだ名だけに、特に違和感ないんだよな。
まあ話してみた上で、あいつの好きに呼ばせるさ。一色は別にほっといていいな」
「名前でも何でもなく、先輩、だものね」
「何かあいつといると、高校時代に戻った気がするんだよな。
あっ……そうだ雪乃、俺、また学校に通えるみたいなんだよ。
詳しくは聞いてないんだが、政府が被害者のために学校の準備をしているとか何とか」
「その話なら聞いているわ。あなた達の頑張りでクリアが早まったせいで、
校舎の建設がまだ間に合っていないみたいだけれども」
「まさかまた学校に通えるなんて思ってもいなかったから、正直すげー嬉しいわ」
「ふふっ、本当に嬉しそうね。でも少し悔しいのも確かね。出来れば一緒に卒業したかった」
「……そうだな、それは本当にそう思うわ」
「私も大学をやめて、もう一回その学校に入ろうかしら……」
「おい」
「ふふっ、冗談よ。可能なら保護者としてあなたの卒業式に参列するわ」
雪乃はそう言って、楽しそうに笑った。
「保護者かよ」
八幡はその一連の遣り取りで、雪乃も変わったんだなと改めて実感した。
「なあ、雪乃は冗談を言う事も増えたし、よく笑うようになったよな」
「確かにね。おかしいかしら?」
「いや、いいんじゃないか?俺がいなくなった事での悪い影響が出てないってよく分かるし、
なんかほっとしたっていうか嬉しいっていうか、そんな感じだな」
「不謹慎かもしれないけど、あなたがいなくなったおかげで、
姉さんも含めて他の人との距離が縮まったのは確かだと思う」
「苦労した甲斐はあったな」
「ふふっ、ありがとう、八幡君」
「比企谷君、雪ノ下さん、そろそろ再開しましょうか」
「あ、はい、宜しくお願いします」
二人の様子を隣で微笑ましそうに眺めていたリハビリ担当の職員が、
八幡にそう声をかけてきた。八幡は雪乃に補助してもらい、立ち上がった。
「それじゃ頑張りましょう。雪ノ下さんは引き続き、八幡君の補助をお願いします」
「はい」
「お母さ~ん、お見舞い終わったから帰るね~」
その時、その職員の娘らしき少女が現れ、声をかけてきた。
「あらごめんなさい、今日は娘が友達のお見舞いに来てたんだけど、
どうやら私の所に顔だけ出しに来たみたいね」
「八幡君は私が見てますから、どうぞ娘さんの所に行ってあげて下さい」
「ごめんなさい、すぐ戻るわね。ちょっと待ってて留美、今行くわ」
「留美?」
八幡はその名前を聞き、職員の娘を改めてじっと見つめた。
よく見ると、どこか見覚えのある少女がそこにいた。
その少女も八幡に気付いたのか、目を見張りながらこちらに近付いてきた。
「もしかして、八幡?」
「やっぱり留美か。随分背が伸びたな、ちらっと見ただけじゃまったく分からなかったわ」
「久しぶり!二年ぶりくらい?」
留美は笑顔で八幡に話しかけた。
「あ、留美さんってキャンプとクリスマスイベントの時の……」
雪乃もどうやら留美の事を思い出したようだ。
留美も雪乃の事を思い出したらしく、ぺこりと頭を下げた。
「あら、三人は知り合いだったのかしら?」
「あ、はい。二年前の夏休みとクリスマスイベントの二回会っただけですけど」
「あー、留美が前言ってた、お世話になった高校生のお兄さんて八幡君の事だったのね。
不思議な縁もあるものね。私は鶴見久美。この留美の母親よ」
「自己紹介の時に、確かに鶴見さんって聞いてましたけど、
さすがにこれは想像もしてませんでしたね」
「ふふっ、比企谷君と違って、よくある苗字だからね」
「お母さん、私が話すの!」
「はいはいごめんなさい。リハビリ再開は少し後にして、一度ベンチに戻りましょうか」
「そうですね」
八幡は苦笑しながらそれに同意した。
八幡は、雪乃と留美を交互に見ながら、ぼそっと呟いた。
「大きいルミルミ、小さいゆきのんか……」
「ルミルミ言うな!」
「何よその、標語みたいな言い方は……」
「すまん、二人を見てたらつい言いたくなった」
八幡はそう言いながらベンチに腰掛けた。
ベンチに座るやいなや、留美は待ちきれなかったとばかりに八幡に話しかけた。
「二年ぶりくらいかな?」
「そうだな。留美は今中学二年か?まあ五歳も離れてると接点なんかほとんど無いから、
二年くらい会う機会が無いのも当然と言えば当然なんだろうな」
「八幡、すごい痩せたね。病気?大丈夫?」
「ああ。ちょっと体が弱ってるだけだな」
「お母さん、八幡は大丈夫なの?」
留美はそう言いながら、久美の顔を見た。
「あー……えーっとね……」
「ねえ、どうなの?」
久美には守秘義務があるため、困っていたのだが、
留美はそんな事はまったく知らないので、しつこく久美に返事を促した。
その事に気付いた八幡は、自分から話す事にした。
「留美、お母さんが困ってるぞ。これはな、お母さんの口からは言えない話なんだよ」
「えっ……まさか重い病気とかなの?」
「そういうんじゃないんだよな。鶴見さん、俺から話す分には問題ないですかね?」
「それは問題ないと思うわ。ごめんなさい、私にはこの件に関しては守秘義務があるのよね」
「ですよね。なあ留美、これから俺が話す事を、絶対誰にも話さないと約束出来るか?」
「うん、約束する」
「よし、それじゃ、あっちの端っこのベンチに行くぞ」
四人は人のいない隅のベンチに移動し、八幡は留美に説明を始めた。
「まあ、もったいぶったような感じになったが、実は説明は一言で済むんだ」
「そうなの?」
「ああ。留美、俺は二年間な、ずっとゲームをやってたんだよ」
「ゲーム?遊びすぎて体を壊したの?」
「俺がやってたのはな、ニュースで見たかもしれないが、SAOなんだよ、留美」
「あ…………」
その言葉に、留美はやっと事情を理解したようだ。
「だから病気とかじゃないから心配するな」
「ごめん、私そんな事ちっとも知らなかった」
「ははっ、学年も五つ離れてるし、連絡先だって知らないんだ。
知らないのは当たり前だろ。謝るような事は何も無いぞ」
「うん……」
「まあ、こうして俺はちゃんと生きている。後は筋力さえ戻れば何も問題は無いんだ」
「……死にそうになったの?」
「そうだな……何度も死にそうになったが、仲間と一緒に頑張って、こうして戻ってきた」
「良かった……」
留美はそう言うと、八幡に抱き付き、震えだした。
八幡は困ったような顔をして久美の顔を見たが、久美は頷くだけだった。
八幡は留美に向き直ったが、どうやら留美が声を殺しながら泣いている事に気が付いた。
他の患者さん達に迷惑をかけないように、必死に声を殺しているのだろう。
八幡はそう思い、留美の頭を優しくなで、背中をぽんぽんと叩いた。
しばらくその体勢のまま、留美は泣き続けていた。
「そろそろ落ち着いたか?」
「うん!ごめんね八幡、ありがとう」
「こっちこそ、俺のために泣いてくれて、ありがとうな」
「あっ、もうこんな時間……友達と約束があるんだった。
それじゃ八幡、今度改めてお見舞いに来るね」
「おう。またな。友達と仲良くな」
「うん!」
留美は手を振りながら帰っていった。友達とも仲良くしているようで、八幡は安心した。
そして八幡は再びリハビリを再開した。
「しかしまさか留美が八幡君と知り合いだとはね。世間は狭いって言うけど本当ね」
「そうですね、びっくりしました」
「留美さんの事は二年前の事しか知らないけど、
あの頃と比べると随分と明るくなっていたわね。本当に良かったわ」
「二人が留美に初めて会ったのって、丁度留美が一人ぼっちだった時なのよね?」
「あっ、ごめんなさい鶴見さん……無神経な発言でした」
「ううん違うのよ。むしろ私は感謝しているのよ。
二年前、毎日とても暗い顔をしていた娘が、
夏休みからクリスマスを経て、どんどん明るさを取り戻していった。
あなたたちのおかげだったのね。本当にありがとう」
「少しでもお役にたてたのならいいんですが……」
「あ、そういえばね」
久美が、何か思い出したように言った。
「あの子、クリスマスイベントの時の写真を、今でも時々見てるのよね。
その中にどうしても見せてくれない写真が一枚だけあるんだけど、
もしかしたらそこには比企谷君が写ってるのかしらね」
「そういえば八幡君、留美さんと二人で写真を撮ってなかったかしら?」
「そういえば、留美に頼まれて撮った気もするな」
「やっぱりね。まあ私がこう言うのもちょっと複雑なんだけど、
出来ればあの子が傷つかないようにふってあげてね」
「またいきなりですね……」
「だって私もあの結婚写真は見てるし、
お見舞いに来てる女の子達の事も何度も見てるからね」
「まあ、そうですよね……」
「最初は、何だこのハーレム野郎はって思わないでもなかったけど、
こうして実際に接してみると、比企谷君がそんな子じゃないのはすぐ分かったしね」
「恥ずかしいんでそれくらいで勘弁して下さい……」
「まあ留美ももう子供じゃないんだし、母親の私が言うのも何だけど、
あの子は雪ノ下さんに似て美人だし、これからいくらでもいい出会いがあると思うしね。
あ、変な男に引っかかりそうになったら、助けてあげてね」
「私と留美さん、そんなに似ているかしら」
「ああ、似てる似てる。特に気の強いところとかそっくりだろ」
「……それはどういう意味かしらね、八幡君」
雪乃から急に殺気を感じた八幡は、ごまかすようにこう答えた。
「それくらい凛とした美人だって事だよ」
「そ、そう……美人、美人ね。それならいいのだけれど」
(ふう、雪乃から強烈なプレッシャーを感じるのも久しぶりだな。危ない危ない)
八幡は、なんとか命拾いをしたなとほっとし、その後もリハビリに励んだのだった。