その日も雪ノ下雪乃は、日課である、お気に入りの猫動画の巡回活動を行っていた。
一通り見終わり、とても満足した表情を浮かべた雪乃が、
お気に入りに新たな動画を追加すべく検索活動に入ろうとしたその時、携帯が鳴った。
(この長さはメールじゃないわね、由比ヶ浜さんかしら)
姉からだったら無視しようと思いつつ、雪乃は携帯を手にとった。
表示は小町からだったので、少しほっとつつ、雪乃は通話ボタンを押した。
「もしもし小町さん?どうしたの?もしかして、また比企谷君が何かしでかしたのかしら?」
小町からは、たまにあの目の腐った男関連で電話があるので、
あの男がまた何かやらかしたのかしら、と思いつつ、雪乃は小町にそう尋ねた。
その表情は、とても優しかった。
「雪乃さぁん……」
その第一声で、どうやら小町が泣いているようだと気付き、雪乃は狼狽した。
「どうしたのかしら小町さん。またあの男に泣かされたの?」
「雪乃さぁん……今帰ったら、テレビでナーヴギアが……
それで慌てて部屋に見に行ったら、お兄ちゃんが……」
泣いている小町の説明は、ちっとも要領を得なかった。
困り果てた雪乃は、とりあえずテレビをつけてみる事にした。
どのチャンネルを見ても、内容は同じだった。その雰囲気から、どうやら自分が知らない間に、
世間ではとんでもない事が起こったらしいと思った雪乃は、ニュースを注視した。
(ナーヴギア?猫ゲームのために購入を検討していたあれの事ね。
え?茅場晶彦?聞いた事がある名前だけど………
あ、この人、姉さんのお見合い相手で、見事に姉さんをふった人だわ……
あの時は、姉さんを振る人が、この世に存在したのかと、とても驚いたのだけれど……
ソードアート・オンライン?デスゲーム?どういう事?
ゲームから脱出できないって、まさか……比企谷君が?)
雪乃はその時、劇的に関係が改善されたはずの奉仕部の今後に、
暗い陰が忍び寄る気配を感じて寒気を覚え、肩を抱いた。そして慌てて小町に話しかけた。
「小町さん、落ち着いて答えてちょうだい。もしかして、比企谷君は……
今、ソードアート・オンラインをプレイしているの?」
「はい、雪乃さん。お兄ちゃんが……お兄ちゃんが……」
「すぐ行くから待っててちょうだい。場所はうちの運転手が知ってると思うから。
とにかく落ち着いて、ご両親と、出来れば平塚先生に連絡をお願い」
小町はその言葉に、多少落ち着いたようだった。
雪乃と連絡がとれて、少しは安心出来たのだろう。
「雪乃さん、ごめんなさい。今小町に頼れるのは雪乃さんだけなんです。お願いします」
「わかったわ、気をしっかり持って、今言った人達に連絡を入れて、待っててちょうだい」
「はいっ!」
雪乃は電話を切ると、どうすればいいか考えた。思ったよりも冷静な自分に驚いた。
すぐ決断し、アドレス帳から姉の番号を慎重に選び、通話ボタンを押す。
数コールで通話が繋がり、携帯から、いつも通りの姉の声が聞こえた。
「ひゃっはろー!どうしたの雪乃ちゃん。雪乃ちゃんからかけてくるなんて珍しいね?」
「ごめんなさい姉さん、緊急事態なの。これから私の言う事をよく聞いて」
「ん?どしたの~?また比企谷君が何かしでかしたの~?」
姉妹揃って同じ思考な所に、雪乃は頭痛を覚えたが、今はそんな余裕はない。
「姉さん、事情を説明する前に、まずテレビをつけてちょうだい。
チャンネルはどこでもかまわないわ」
「今勉強してたんだけどなぁ。テレビテレビっと、ちょっと待ってね~?」
「姉さん、急いで!」
「わかったわよ~。雪乃ちゃんは相変わらず、怒ると怖いなぁ」
姉は、言われた通りテレビを見てくれているようだ。焦燥感で手に汗が滲む。
唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
思ったより早く戻ってきた姉の声色は、さっきまでとはまるで別人のようだった。
「理解したわ。もしかして彼が?」
「ええ、比企谷君よ」
「すぐ行く、家の前にいて」
「何か必要な物は?」
「大丈夫」
姉妹の通話はそれで終わった。雪乃は支度を整え、
自分のただ一人の友達に電話をかけながら外に出た。通話はワンコールですぐ繋がった。
「もしもし、ゆきのん?なんかテレビがすごいね。ソードなんとかってやつ」
「今まさにその件で電話をかけたのよ、落ち着いて聞いてちょうだい。
比企谷君が、今まさにそれをプレイしているの」
「え?それって……」
「既に姉さんに連絡して、色々手配してもらっているわ。詳細がわかり次第すぐ連絡するから、
出来れば由比ヶ浜さんは、どこにも出かけないで、私からの連絡を待っていてほしいの」
「………わかった。お願い、ゆきのん……ヒッキーをお願い!」
「まかせて由比ヶ浜さん。比企谷君は、大事なうちの部員だものね」
結衣は話しながら、何も出来ない無力感に包まれていた。
そして雪乃に全てを託し、出かける準備をして、連絡を待つ事に決めた。
幸い迎えはすぐに来たため、雪乃は会話を切り上げて、車に乗り込んだ。
すぐに陽乃の鋭い指示がとぶ。
「都筑、全力で飛ばしてちょうだい」
「はい、陽乃お嬢様」
「姉さん、状況は?」
「どうやら少しの間だけなら、回線が切断されても平気らしいわ。
多分その間に病院へ運べという事だと思う。雪ノ下系列の病院に、既に全て手配したわ。
まったくやってくれるわあの男、お見合いの時、一発殴ってやれば良かった」
陽乃は、冗談ぽくそう付け加えたが、その声色は、怒気をはらんだものだった。
「あの男、何かたくらんでる雰囲気があったのよ。
うさんくさかったから、こっちから断ろうとしたら、先に断られてしまったんだけどね」
交通法規ぎりぎりまで速度を振り絞った車は、驚くほど早く比企谷家に到着した。
家の前で待っていた小町に案内されて、
雪乃と陽乃は、ナーヴギアをかぶったままベッドに寝ている八幡と対面した。
(こんな形で来る事になるとは思わなかったのだけれど……)
その時陽乃も、まったく同じセリフを呟いた。
「まさかこんな形で来る事になるとは思わなかったなぁ」
(似た事を考えるものね。やっぱり姉妹って事なのかしら)
その後陽乃が、全ての手配をすごい早さで済ませ、八幡は、病院に移送された。
雪乃はすぐに結衣に連絡し、結衣の到着を待つ事にした。
今はそれしか、雪乃に出来る事は、無いのであった。
数刻後、雪乃の携帯に、結衣から病院に着いたと連絡があった。
雪乃が外に迎えにいくと、結衣は手を振りながら雪乃に駆け寄った。
「ゆきのん、ヒッキーは今どうなってるの?」
「体調面は今のところまったく問題ないらしいわ。中には入れないのだけれども、
外から様子は見れるようだから、すぐ病室に向かいましょう」
「うん、ありがとうゆきのん。私じゃきっと何も出来なかった」
「全て手配をしたのは姉さんよ。今ほど、姉さんがいてくれて有難いと思った事はないわ」
「それじゃ陽乃さんにもお礼を言わないとね」
そして二人は病室に向かった。
その途中エレベーターの中で、結衣が話し出した。
「ゆきのん。あのね。
こんな事があったのに、私まだ泣いてもいないんだよ。おかしいよね?」
「おかしくはないと思うわ、由比ヶ浜さん。だって私もそうだもの」
「なんか悲しいというより、すごいヒッキーらしいな~って。
手が届きそうになると、するって逃げちゃうの」
「そうね、比企谷君、逃げ足だけは早そうだものね」
目的の階に着くと、二人は黙って病室に向かった。
そこには、ひたすら泣いている比企谷家の家族と、黙って八幡を見つめている陽乃がいた。
小町は二人を見つけるやいなや、すごい勢いで二人に飛びついてきた。
「雪乃さん結衣さん、お兄ちゃんが……お兄ちゃんが……」
「もう大丈夫よ、小町さん」
「もう大丈夫だよ、小町ちゃん」
二人は小町が泣きやむまで、ずっと小町の頭を優しくなでていた。
ようやく小町が泣きやんだ頃、陽乃が口を開いた。
「明日になったら病室にも入れるみたいだから、今日のところは帰りましょう」
「はい、陽乃さん。お兄ちゃんのために、今日は本当にありがとうございました」
「わかったわ、本当にありがとう、姉さん」
「本当にありがとうございます、陽乃さん」
「三人とも、変な事考えちゃだめだぞ?今日は帰ってお風呂につかってゆっくり寝なさい」
陽乃は、とびきりの笑顔でそう言った。
その笑顔に元気づけられたのか、小町と結衣は、しっかりとした足取りで帰っていった。
「それじゃ私達も帰りましょうか。雪乃ちゃん」
「そうね、行きましょう、姉さん」
車に乗り込み、発車してしばらくしても、二人とも何も喋ろうとはしなかった。
あと数分で雪乃のマンションに着くかという頃に、雪乃が口を開いた。
「あの場面であの表情が出来るなんて、やっぱり姉さんはすごいわ」
陽乃は答えなかった。雪乃は陽乃の方を見て、さらに続けた。
「でもね、姉さん。ここには私たちしかいないのよ。
ここではもう仮面を外してもいいんじゃないかしら」
「!……雪乃ちゃん、比企谷君が、比企谷君が…………」
それは雪乃にとって、生まれて初めて見る陽乃の涙だった。
陽乃の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。
雪乃は優しい表情で、家に着くまで陽乃の頭をなで続けていた。
そして次の日の朝、ホームルームで、担任の静の口から、
八幡が、ソードアート・オンラインに囚われた事が知らされた。
悪口を言う者もいたが、葉山と三浦の一喝により、その声は無くなった。
噂は学校を駆け巡り、昼休みに教室に来ためぐりといろはは、
その場で人目もはばからず号泣した。
周りにとっては意外だったが、川崎と、相模も一緒に泣いていた。
葉山は何かを堪えるように上を向き、三浦はじっと八幡の机を見ていた。
戸部と海老名も、俯いて一言も話そうとはしなかった。
そして放課後、部活を休みにした奉仕部メンバーは、八幡の入院する病室へ来ていた。
メンバーは、静、雪乃、結衣、いろはの四人だった。
四人が病室に入ると、先に来ていた小町が立ち上がり、四人を迎え入れた。
「皆さん今日は、うちのお兄ちゃんのためにわざわざありがとうございます!」
「初めまして小町ちゃん。先輩の後輩で、生徒会長の一色いろはです」
「あ、初めまして!お兄ちゃんの妹の小町です!」
「あら、二人は初対面だったのね」
「二人とも初対面だったんだ」
一通り挨拶が終わったあと、平塚がまず口を開いた。
「で、お兄さんの具合はどうなのかね?」
「お医者さんは、体の方は問題ないって、絶対に守ってくれるって言ってくれました」
「そうか、とりあえず良かったな、小町君」
「はい。それで、もう一つの方なんですが……ちょっと小町的に意外っていうか……」
「もう一つ?病院で医者以外に何かあるのかね?」
「はい、陽乃さんが派遣してくれた、技術者の方がですね、えっと、
中の様子をちょっと解析?って言うんですか、状態だけ調べてくれたみたいなんですよ」
その言葉を聞いて、一同に緊張が走った。そんな中、代表して雪乃が口を開いた。
「それで、比企谷君に何か問題があったのかしら?」
「それがですね~雪乃さん。小町にもよくわからないんですけど、
どうやらうちのお兄ちゃん、
誰か知らない女の人と、ずっと二人で行動してるみたいなんですよ」
あまりにも予想外な小町の言葉に、全員の思考が止まった。
気まずそうな小町を前に、四人はしばらく黙っていた。そんな中、まず平塚が沈黙を破った。
「やれやれ比企谷、まったくお前って奴は……」
その言葉で思考が働き出したのか、残る三人は、八幡に詰め寄った。
「あなたと言う人は、これは一体どういう事なのかしら?
まことに遺憾ながら、この私がこれだけ心配しているというのに、
知らない女性相手に何をしているのかしら?エロヶ谷君」
「何それ信じらんない!ばか!えっち!ばか!」
「何ですかそれ口説いてるんですか?
他の女の影を散らつかせて私の気を引こうだなんて手口が当たり前すぎるので、
もうちょっと工夫してから出直してきてくださいごめんなさい」
それを聞いた平塚は、やれやれといった感じで肩をすくめた。
三人は、顔を見合わせたかと思うと、誰からともなく笑い出した。
とまどい、驚き、呆れ、怒り、様々な感情で病室が満たされた。
もし今八幡の意識があったら、彼は何と答えたのだろう。
最初に静が、明日またこの件についての職員会議があり、朝が早いからと席を立った。
残された三人も帰ろうとしたが、その時小町が、雪乃と結衣を引き止めた。
「あの、雪乃さんと結衣さんに渡す物があるんです」
二人は小町から、丁寧にラッピングされ、
雪ノ下、由比ヶ浜、と別々に書かれた小さな包みを受け取った。
二人が包みを開けてみると、その中にはピンクと青のシュシュが入っていた。
「小町さん、これは?」
「えーっとですね……
クリスマスイブの昼間にですね、珍しくお兄ちゃんがちょこっと出かけたんですけど、
帰ってきた時に、お兄ちゃんのバッグの中にそれが入ってるのが見えたんですよ。
なので名前も書いてあるし、間違いなく二人への贈り物だと思って、
小町、勝手に持ってきちゃいました!」
小町は、てへっという感じであざとく自分の頭を叩いた。
「比企谷君がそんな事を……」
「なんか意外~!でも、私のが青でゆきのんのがピンクって、反対じゃない?」
「そうね、なんとなく反対な気もするわね」
「多分お兄ちゃんには、何か考えがあったんだと思います。
今となってはわからないんですけどね」
「ヒッキーが選んでくれたんだから、きっとこれでいいんだよ、ゆきのん!」
「そうね、きっとそうなのよね」
そして二人は、その場でシュシュをつけた。
いろははどこか悔しそうに、それでいて羨ましそうに、二人のシュシュを見つめていた。
そしてそんな二人を見た小町が、決意のこもった口調で、雪乃に話しかけた。
「小町考えたんですけど、雪乃さん、良かったら小町に、勉強を教えてくれませんか?」
「それは別に構わないのだけれど、理由を聞いても?」
「小町、受験まであんま時間がないんですけど、もしここで小町が落ちちゃったら、
お兄ちゃん絶対自分を責めると思うんですよ。
だから小町、お兄ちゃんが帰ってきた時に自分を責めないために、
ここから受験の日まで本気で勉強しようと思うんです」
それを聞いた雪乃は、即答で快諾した。
「わかったわ。その依頼、引き受けましょう」
「私も手伝うよ、小町ちゃん!」
「大丈夫よ由比ヶ浜さん。絶対に口を出さないで見守っていてね?絶対によ?」
「なんか言い方がひどい!?」
「それと、私からも一ついいかしら。まず由比ヶ浜さんと一色さんになのだけれど」
「うんゆきのん、何?」
「何ですか?雪ノ下先輩」
「奉仕部を三人で守りましょう。ここで奉仕部が無くなってしまったら、
きっと帰ってきた時に、比企谷君が自分を責めると思うの」
三人は口々に、その意見に同意した。
「あ~、ヒッキーなら確かにそう思うかも…」
「そうですね、先輩ならそう思うかもしれませんね」
「お兄ちゃんならきっとそう思うと思います!」
「なので、少なくとも私たちが卒業するまでは、私たちで、彼の帰る場所を守りたいの」
「うん!私も一緒に守るよ!ゆきのん!」
「私も陰ながら協力しますね!もし存続が危ない時は入部しますので!」
「小町も必ず合格して入部しますね~!」
雪乃はそれを聞くと、満足そうに頷いた。
「それじゃあ私からもゆきのんに一つ、いいかな?」
「何かしら?由比ヶ浜さん」
「ねぇゆきのん。この中でまだ、私達二人だけが、泣けてないじゃん?
だからヒッキーが帰ってきたら、その、一緒にいっぱい泣こう!」
「そうね、ちょっと恥ずかしいのだけれど、了解したわ、由比ヶ浜さん」
いろはも、負けてなるものかと口をはさんだ。
「それじゃあ私からもお二人に一つだけ。勝負はまだついていませんからね!」
「あら、勝負と言われては負けるわけにはいかないわね」
「勝負なら仕方ないね!私も負けないよ!いろはちゃん!」
「うわー、ここにきてお義姉ちゃん大戦勃発!?
でも知らないお義姉ちゃんもいるみたいだしなぁ……
小町じゃ収拾がつかないから、とにかく早く帰ってきてよね、お兄ちゃん」
四人は、顔を見合わせて、嬉しそうに、そして恥ずかしそうに笑い合った。
そして皆、タイミングを計ったかのように同時に、横たわる八幡を見た。
この光景は、言葉は、きちんと彼に届いたのだろうかと。
もしこの光景を、アスナやアルゴが見たら、一体どこがぼっちなのかと、
溜息をついたに違いない。それはそんな、とても優しい光景だった。
「これは必ず帰ってこないとだね、比企谷君。この私も泣かせたんだしね」
出るに出られずその光景を隠れて見ていた陽乃は、羨ましそうにそうつぶやいた。