ハチマンは風呂から出ると、とりあえず腰に手を当てて、牛乳を一気飲みした。
(この世界には、さすがに千葉のソウルドリンクは無いよな……はぁ、自作できねえかな)
ハチマンは、料理スキルを取ろうかとも考えたが、
スキルスロットが絶望的に足りないので、しばらくは我慢する事にした。
ハチマンは、今日はさっさと寝ようかと思って横になったが、すぐには寝付けなかった。
基本人は寝る時には、とかく余計な事を考えてしまうものだからだ。
ハチマンの脳裏には、残してきた大切な人達や、新しくこの世界で会った人達の姿が、
浮かんでは消え、また浮かんでは消えていった。
「ハチマン君、まだ起きてる?」
そんなハチマンに、突然アスナが声を掛けてきた。
「眠れないのか?」
「うん、さっきまでは平気だったんだけど、いざ寝ようとすると、
やっぱり余計な事ばかり考えちゃうんだよね」
アスナは、そう言うと、突然自分の事を語り始めた。
リアルの事を話すのは、あまり褒められた事では無いが、とにかく不安なのだろう。
ハチマンは、黙ってアスナの話を聞く事にした。
名家に生まれた為、親の期待がすごい事。成績が落ちるのが怖くて仕方ない事。
子供の時から常に試験試験で勝利を義務づけられる苦しみ。
実のところハチマンには、それらの悩みは、まったく理解できなかった。
人は所詮、他人の痛みを、本当の意味で理解する事は出来ない。
(予想はしてたけど、やっぱりお嬢様なんだな…
でも同じお嬢様でも、雪ノ下とは正反対だな。どちらかというと、陽乃さんと同じか)
「ハチマン君は、これまで生きてきてどうだった?」
「……聞いても面白い話じゃないぞ。むしろその、気分が悪くなる話ばかりだと思うぞ」
「無理に言えとは言わないけど、どうしてそんなに他人に優しいのか、知りたいの」
そのアスナの言葉を聞いたハチマンは、即座にそれを否定した。
「俺はそんな優しい男じゃない。全て自分のためにやってる事だからな」
「嘘ばっかり。それならあそこで私を見捨てた方が、はるかに楽だったはずだよね?」
「それは……」
「大丈夫だよ、私はあなたを傷つけたりはしない。恩人だもんね。
だから恩返しって訳じゃないけど、どんな話でも、ちゃんと聞くよ。
それでハチマン君の気持ちが少しでも楽になるなら、私はその手助けがしたいの」
アスナは、ハチマンの過去に何かあったんだと察しながらも、ハッキリとそう言った。
そんなアスナの気持ちに感化されたのか、それとも雰囲気がそうさせたのか、
ハチマンは、自分がこれまで何をされ、どう思ったかを、ぽつぽつと話しはじめた。
アスナは、じっと黙ってそれを聞いていた。
(想像以上だった………安易に聞いちゃいけなかった)
アスナはハチマンの過去に衝撃を受けたが、やはり全てを理解する事は出来なかった。
経験していない事をさも知ったように語る事だけなら出来る。
ただ、それを本当に理解する事は難しい。
それでもアスナは、ハチマンの事をもっと理解し、出来るだけ支えたいと思った。
自分を助けてくれたハチマンの優しさは、決して打算の産物では無いと、
理解していたからだった。
「お前、泣いてるのか?」
気が付くとアスナは、涙を流していた。その涙は月の光を反射して輝いていた。
「ばっかお前、俺は好きで一人でいるんだよ。大体だな、ぼっちのどこが悪いんだ?
人はぼっちでいる限り、誰にも迷惑をかけない、究極のエコだ。
そもそも一人で頑張ってる奴が、みんなと一緒に頑張ってる奴より劣るなんて俺は認めない。
俺は一人で完結しているので、お前に泣いてもらう必要なんかこれっぽっちも無いんだよ」
慰めようとしてくれているのかなと、アスナは涙を拭きながらくすっと笑った。
そんなアスナに、ハチマンは、普段から不満に思っていた事を、何故か話していた。
「人間関係に悩むなら、それ自体を壊してしまえば悩むことは無くなる。
負の連鎖ならもとから断ち切る。俺はそうやって生きてきた。
逃げちゃダメだなんて考えは、強者の驕りでしかない。
他人は変われとよく言うが、変わるのは現状からの逃げだ。
変わらないまま勝ちたいなら、強くなるしかない。
それは喧嘩が強いとかそういう事じゃなく、俺みたいに強い自己をしっかり保つ事だ。
ぼっちでも群れの一員でもいい。自分さえしっかり持っていれば、何も問題は無い」
「自分……目標とか?考え方とか?」
「目標でもいいし、変わらぬ強い気持ちでもいい。守りたいものでもいいな」
アスナは、静かにハチマンの言葉を聞いていた。
さきほどまでは少し濁り気味だったアスナの瞳にも、力が戻ってきているようだった。
「後な、俺はアスナによく似た境遇の人を、一人知っている。
その人もアスナみたいに、家庭の事情で常勝を義務づけられてる人なんだが、
そのせいか、強くあろうとして、仮面をかぶって、絶対に他人に弱みを見せないんだよ。
それでいて、本人は隠してるつもりなんだろうが、すごい妹思いでな。
親に逆らえない、自分の意見を持たない妹をなんとか変えようと、
時にはすごい厳しいやり方をする事もあるが、あの手この手を使って、
妹に嫌われようが、何をしようが、とにかく頑張って、
妹を自立させようとしてる、そんなすごい人をな。ちなみにその妹は、うちの部の部長だ」
「大事な人に嫌われても頑張れるの?」
「いくらそいつから嫌われても、そいつが幸せなら俺も幸せだと思う時とかあるだろ?」
「うん、そういうのって、あるよね」
「だから俺なんかどうでもいいんだよ。俺なんかと一緒にいたら、変な目で見られちまうし、
例え俺が嫌われても、そのおかげで多くの人が幸せになれるなら、
それはとても効率的な救い方だ」
アスナはその意見を聞き、ハチマンの事を、とても危うい人だと感じていた。
そして彼がいなくなった時の事を想像して、
とても悲しい気持ちになる自分がいる事に、気が付いてしまった。
そしてアスナは今、決意した。
「それも確かに、真実だと思うよ。でもね、ハチマン君」
アスナは、覚悟を決めて、ハチマンの心に一歩踏み込んだ。
「それはね、ハチマン君が傷ついていい理由にはならないんだよ。
少なくとも私は、ハチマン君がいなくなるのは、すごく寂しい。
まだ知り合ったばっかりなのに、変でしょ?
もしかしたらこれが、吊り橋効果なのかもしれない。でもね、私はね、
ハチマン君と一緒に、喜びも、苦労も苦痛も、全て分かち合った上で、
胸を張って、現実世界へと帰還したいって、そう思う。
最後まで、一緒に戦おう、ハチマン君」
アスナから聞かされた言葉は、まるで愛の告白のようだった。
クリスマスイベントを経た今、その言葉は、すんなりとハチマンの中に入ってきた。
クリスマスイベントで、八幡が玉縄に噛みついた後、
雪ノ下がまるで、ハチマンと共犯になるかのごとく、玉縄に噛みついたあの時から。
ハチマンは、自分と共に傷ついてくれる人がいる可能性を、心に刻み込まれてしまっていた。
基本一人だったハチマンと、一緒に歩む覚悟を決めた者。
状況のせいもあるのだろうが、そんな事は今は関係が無い。
その可能性を体現している者が、今まさに、ハチマンの目の前に存在しているのだ。
それはおそらく、現実世界にも、確実に二人……
(いつも俺が一人で守っていた小さな俺の心には、少しだけ空いている場所があって、
俺はずっと知らなかったんだな、二人でもいいんだって………)
それはまるで雪解けのようで……気が付くとハチマンは、子供のように泣いていた。
アスナは、そんなハチマンの頭をずっとなで続けていた。
「どう?現実世界に、あなたの居場所はあった?」
「ああ、確かにあったわ。どうしてもあの場所に戻らなくちゃいけない。
本物だったかもしれない物を、本物かどうか確かめないまま死ぬわけにはいかない。
あそこは俺がやっと手にいれた、とても居心地のいい場所なんだ。
もう一度あいつらに会って、一緒に笑いあえるまで俺は戦う。
今までも、本気で戦うつもりではあったが、この決意は、それとは違う」
「うん、私も一緒にいくよ。ところでそのあいつらの中に、私は入るのかな?」
不意にかけられた言葉に、ハチマンは虚をつかれた。あの部屋に、アスナが入る?
雪ノ下、由比ヶ浜がいて、たまに一色がいて、そしてそこにアスナがいる光景を思い浮かべ、
ハチマンは、それがとても自然な光景に思えた。
「私も必ず帰って、親に文句の一つでも言ってみたい。もちろんただ逆らうんじゃなく、
やるべき事をやった上で、自分がやりたい事をしっかりと見つけて、それで、それで、
お父さんやお母さんにその事を認めさせたい。認めてもらうんじゃなく認めさせる。
そして奉仕部の人達と一緒に、ハチマン君の話をするの」
「帰ったら、必ずみんなを紹介してやるよ。きっと仲良くなれると思う」
それは、ちょっと知り合いを紹介しますみたいな、軽い言い方だったが、
アスナはそれが実現する事を、もう疑ってはいなかった。
ハチマンから、何か大切な物をもらった気がして、
その大切なものを、ハチマンと一緒に、守ろうと思った。
「ハチマン君、もし良かったら………」
「その先は俺に言わせてくれ。俺もちょっとくらいは、かっこつけたいからな。
あんな過去を持ち、アスナの前で、醜態を晒した俺が言うのもアレなんだがな。
俺は目も腐ってるし、人と話すのが得意というわけじゃない。
基本どこかに出かけるのを面倒臭がるし、あと、目が腐ってる」
「腐ってるって、二回言ってるよ?もうそういうのはやめよ?」
「す、すまん……それで、だ」
「それじゃ、せっかくだから、一緒に言おうか?」
アスナがそう提案し、ハチマンは頷いた。そして二人は、同時にその言葉を発した。
「俺と友達になってくれないか、アスナ」
「私と友達になってくれないかな、ハチマン君」
こうしてハチマンは、生まれて初めての、異性の友達を手に入れた。
更に初めて、異性からも友達になる事を申し込まれるという、おまけつきだった。
「あ~、俺が泣いた事とか、その、秘密でたのむ」
それを聞いたアスナは、いたずらっぽくこう答えた。
「うん、奉仕部の人たちと会った時までは、秘密にしとくね?」
「まじかよ………」
この時から結城明日奈は、本当の意味で、細剣使い、アスナになった。
そして比企谷八幡は、仮の意味で、ぼっちをやめた。
「これから宜しくね、ハチマン君」
「ああ、必ずお互いの背中を守り抜き、二人揃って、現実世界に帰ろう」
「私もこれから、もっと強くならないとだね」
「俺も、今までの情けない自分とは、もうサヨナラだな」
奇跡だけで出来た完全結晶などは存在しない、
クリスマスイベントまでの積み重ねがあってこそ起こった奇跡。
だからひとつづつゆっくりと積み重ねて、二人は手をつないでゆく。