広場は今や、すさまじい喧騒に包まれていた。当然だろう、正式サービスでこれはまずい。
ハチマンは、茅場は一体どうしたのかと、不安な気持ちになっていた。
(晶彦さんが開発から外されたとかは、まさか無いと思うが……)
ハチマンは、昨日の夜、茅場と電話した時の事を思い出していた。
「迷ってたけど俺、ソードアート・オンラインを始める事にしました。
受験もあるので廃プレイとかは出来ないんですが」
「………そうか、君にとっての本物が見つかるといいな」
「晶彦さん、それはやめてください。本当に恥ずかしいんで……」
「ははは、ところで君は、本当に一人ぼっちなのかい?
話を聞いてると、にわかには信じられないんだが」
その時八幡の脳裏には、ある二人の女生徒の顔が浮かんでいたのだが、
まだ正式に、友達申請をした訳ではないと、八幡は、その二人の顔を、頭の中から消した。
八幡は、自分が今、『まだ』正式に、と考えた事には気が付かないままだった。
「ええ、間違いないです。俺の友達は、戸塚一人だけです」
「そ、そうか………まあ君が抱えていた問題も解決したようで、何よりだよ」
「はい、ありがとうございます。俺が思っている、本物の正体については、
まだ漠然としすぎていて分からないんですが、
これからは極力逃げずに、もっと他人を知る努力をするつもりです」
そんな八幡に、茅場は、予想外の言葉を告げた。
「………今の君が、少し羨ましいよ」
「そんな事無いです。俺なんかに、晶彦さんに羨ましがられる要素なんて、何一つ無いですよ」
「……この年になるとね、夢を追うのも大変なんだ。
それでも私にとっての本物を追い求めて、SAOを作っているんだが……」
「はい、SAOは、歴史に残る作品になると思います!断言できます!」
「歴史に残る……か。自分で言うのもなんだが、歴史には残ると思うよ」
「はい、絶対そうなります!
自分なりのペースになっちゃいますが、俺もクリア目指して頑張ります!」
「そうか……クリアを目指してもらえるなら、製作者としてこれ以上の喜びはないよ」
八幡は、茅場から何か、言いたい事を言えないような、そんな気配を感じていたが、
サービス開始前日だからだろうと、深く考えてはいなかった。
「それじゃ晶彦さん、俺はそろそろ明日に備えて寝ますね。
また良かったら、お話しさせて下さい」
「ああ………八幡君、何があろうとも、君が私の元に辿り着いてくれると信じて待っているよ」
「晶彦さんレベルに辿り着くのは俺にはどうですかね、俺文系ですしね」
「ああ、そうか、そうだな。それじゃ……またな……八幡君」
「はい、それじゃまたです晶彦さん」
ハチマンは、喧騒の収まらぬ群集の中で、一人考えていた。
(妙に感情の篭った、またな、だったよな……
そしてあのメッセージ……すまないとは言わない。君ならわかってくれるはずだ……)
その刹那、何かの気配を感じたハチマンが空を見上げると、そこには、
真紅の市松模様に染め上げられていく、第二層の底があった。
驚愕に包まれたハチマンだったが、これでやっと運営からのアナウンスがあるのかと思い直し、
そのまま肩の力を抜きかけた。そして『ソレ』が、唐突に出現した。
出現したのは、真紅のフーデッドケープをつけた、身長二十メートルはある、巨人の姿だった。
その目を見た瞬間、ハチマンは、それが茅場だと確信した。
そして確かに、茅場と一瞬目が合ったと感じた。
「プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ」
その後、その巨人――茅場晶彦から語られた内容はこうだった。ログアウトは出来ない事。
ゲーム内で死ぬか、外部の人間がナーヴギアを外そうとすると、
プレイヤーはナーヴギアの高出力マイクロウェーブによって死ぬ事。
電源切断は十分間、回線切断は二時間の猶予がある事。
(って事は、その間に現実世界の体を病院なりに運び込めって事か。
まったくよく考えたもんだな、晶彦さん)
ハチマンは、あまり怒りがわいてこない自分を不思議に思いながらも、
自分にとって大切な人達の事を考えていた。
(小町、悲しませてごめんな。
戸塚、俺がいないからといって、材木座辺りと仲良くならないでくれよ……
雪ノ下と由比ヶ浜は悲しんでくれるのだろうか。
川崎、受験頑張れよ。
折本とは友達になれたかもしれないのにな。
そして平塚先生、だめな生徒ですみませんでした。
最後に陽乃さんなら、必ず俺の体を病院まで運んでくれる手配をしてくれるはずだと信じよう)
考えるのは後でいい。今はそれよりも、この場をどうしのぐかだと、
ハチマンは自分に言い聞かせながら、なんとか冷静さを保っていた。
その後茅場は、全員にアイテムストレージを確認させ、そこに入っていた手鏡を使わせた。
その瞬間、群集は光に包まれ、その姿が変化した。
周りの会話から察するに、どういうカラクリか、おそらく全員が、リアルの姿に戻ったのだろう。
だが、ハチマンにとってはそれはどうでもいい事だった。
ハチマンの姿は正直あまり変化がないのを知っていたからだ。それよりも一番の問題は………
(まずいな、このままだと、下手をすると暴動が起きて、収拾がつかなくなる。
俺一人ならなんとでもなるが、知り合った以上、アスナを放置しておくわけにはいかない。
こいつニュービーだしな、俺がしっかりしないと)
その直後に、既に二百十三名の死者が出ている事を、
茅場が証拠の映像付きで提示した瞬間に、群集が爆発した。
すさまじい喧騒の中、ハチマンは咄嗟に、隣にいる少年のフードを下げ、顔を隠すと、
その手を引いて、全力で走り出した。
(確か牛乳が飲み放題の風呂付きの宿があったはずだ。
とりあえずそこに逃げ込んで、後の事は落ち着いてから考えよう。
アスナもこのまま放置する事は出来ない。
シスコンな俺だが、こいつは弟みたいに感じるし、今日だけはブラコンも解禁だ)
「すまんアスナ、考えるのは後だ。俺は人に知られていない落ち着ける宿を知っている。
ここはやばい。下手をすると、このままここで、命を落とす危険性がある。
巻き込まれる前に、とりあえずそこまで走るぞ」
「う、うん………」
アスナは放心しているようだったが、生存本能が働いたのか、
大人しくハチマンに手を引かれたまま、一緒に走り出した。
その頃キリトは、クラインと共に、ハチマンとは反対の方向へと走り出していた。
アインクラッドの運命を握る二人の少年と一人の少女の物語は、
この時点で一時的に分かれたのだった。
(しかしこいつ、よく俺の速度について来れるよな………とてもニュービーとは思えない。
これが本当の天才ってやつなのかな)
ハチマンは、全力に近い速度で走りながら、後ろを走る少年を、内心賞賛していた。
だがまだ安心は出来ないと、ハチマンは、気を取り直して走り続けた。
その時視界の片隅に、顔にペイントを塗った女のプレイヤーの姿が映り、
ハチマンとそのプレイヤーは、確かに一瞬目が合った。
(アルゴか……こうなった以上、あまり警戒ばかりしているわけにもいかないな。
ここはある程度、協力関係を築くのが得策だな。
しかしアルゴの中の人、女の子だったんだな……男かもと思ってごめんなさい。
って、顔にペイントがあるだと!?この短い時間に、わざわざ自分で書いたのか?
あいつは本当に、変わった奴だな……後、俺よりも先にここにいたって事は、足も早そうだ)
そんな事を考えつつ、ハチマンは、『風呂乳宿にいく』と、
おかしな日本語を一言書いただけのメッセージを、
全力で走りながらも何とか書き終え、アルゴに送った。
走りながらメッセージを書くのはこのくらいが限界だったが、
まああいつなら理解してくれるだろう、と考えたのだ。ちょっとセクハラっぽいが……
そもそもハチマンは、現実でもメールを送るのが得意ではないので、これ以上は望めない。
どうやら一度しか会った事のない情報屋の能力を、無条件に信頼できるほどには、
今のハチマンは、人を寄せ付けないぼっちでは無くなっていたようだったが、
ハチマン自身は、まだそんな自分の変化に、気づいてはいないようだった。
宿屋に着くと、ハチマンはすぐに契約を結び、自分達の定宿とする事に成功した。
これで一先ず安心だと思いソファーに倒れむと、
ハチマンは、うつ伏せのままアスナに話しかけた。
「その、悪かったな、なんかずっと走らせちまって」
「……うん」
「ちなみにここは、ほぼ誰にも知られていない、隠れ家的な宿でな、
牛乳が飲み放題な上に、一層では、ここにだけ風呂がついてるんだぜ。
しかもお値段はたったの一日八十コルだ。
一層では最高に安全かつ快適な環境で、落ち着ける場所なんだよ。
一先ずここを拠点にして、今後の事を考えようぜ。
男同士だから、プライベートが多少制限されるのは勘弁な」
「………ろ?」
アスナが何か喋ったようだが、難聴系主人公ではないハチマンですら、
その声は小さくて聞き取れなかった。
もしかして、アスナがかなり動揺しているのかと思い、
ハチマンは、アスナの不安を取り除く為に、さらにまくしたてた。
「とりあえず落ち着いたら、今後の事を相談だな。
今後どうなるかだが、一緒に行動する事になろうが、別行動になろうが、
俺は出来る限り、お前のサポートはするつもりだ。
後な、ショックなのはわかるし俺もショックだ。だがとりあえず悪い事は考えるな。
もし可能なら何も考えなくていいまである。とにかくネガティブになるのは一番だめだ。
話はいくらでも聞くから、とりあえず可能な限り、気持ちは前向きにいこう」
ハチマンは、アスナを励ましつつ、俺ってこんな奴だっけ?と疑問に思った。
小町の教育のせいもあるのだろう。
まあ他にも、あいつらのおかげもあるだろうなと、奉仕部の二人の事を考えつつ、
泣きたい気持ちを我慢して、ハチマンは、自分も落ち着こう、落ち着こうとしていた。
とりあえず風呂でも入って、心身をリラックスさせるように提案するかと、
ハチマンがそう考えた時、唐突に、その言葉がアスナから発せられた。
「お風呂!お風呂お風呂!お風呂入りたい!」
(あっれ、アスナが思ったより元気なのはいいんだけど、何だこの嫌な予感。
気のせいか、ちょっと、冷や汗も出てきたんですけど……)
ハチマンは葛藤の末、あまりアスナを待たせてもいけないと思い、
不自然さの無いように心がけつつ振り向き、なんとか話しかけた。
「あ~、それがいいだろうな。風呂は心のせ…ん……た」
その目の前には、きょとんと自分を見つめる、知らない女の子がいた。
ハチマンは思わず見蕩れてしまったが、混乱しつつもなんとか思考をまとめようとしていた。
(え、アスナだよな、いや待て、アスナは男の子で戸塚で弟みたいで、
あ、あれ?えーっと……)
ハチマンはまだ混乱していたが、なんとか口を開く事に成功した。
「えーっと……………アスナ?さん?」
「え?そうだけど何で?」
頭に疑問符を浮かべながら、アスナは改めて、自分の姿をじっと見つめた。
そこには先刻までの少年の姿はなく、本来の自分の姿を発見したアスナは、そこで我に返った。
「あ、あ、え~っと………ハチマン君、とりあえず、正座してみよっか?」
「ちなみに拒否権は………」
「あるわけないでしょ?」
「あ、はい、なんかすんませんでした………」
知らなかったとはいえ、うっかりと、女の子を宿に連れ込んでしまった事は事実なのだ。
理不尽だと思いながら、アスナの迫力に押されつつも、ハチマンは、
そんな美しいアスナの姿から、目を放せない自分がいる事に、まだ気付いてはいなかった。