こうして八幡達は去っていき、その場には、遼太郎と静だけが残された。
改めて二人きりになった事を自覚した静は、
ここからは絶対に失敗出来ないと、かなり緊張しており、
その為、静のいつもの悪い部分が顔を覗かせようとしていた。
自分を偽り、相手に出来るだけ自分を良く見せようと、無理に背伸びをしてしまう、
そのせいでいつも静が失敗してきた、あの部分である。
一方遼太郎は、残念ながらその事に気が付いてはいなかった。
八幡達とレースまがいな事をした後に、一緒にラーメンを食べるという一連の流れのせいで、
自分なりに考えていたデートの予定が全部パーになってしまい、遼太郎は、
これからどうすればいいか、とても悩んでいたのだった。
静はそんな悩む遼太郎の決断を、完全に受け身な状態で待っていた。
こういった経験の少ない遼太郎は、俺がしっかりしなくてはと、
使命感にも似た思いを抱きながら、一人で考え込んでいたのだったが、結論は出ない。
そんな焦る遼太郎の脳裏に、先ほどの静の言葉が浮かんできた。
『比企谷、君は自分一人では敵わない敵の存在を知り、
そしてそれを倒す為に、信頼する仲間の力を借りる事を覚えた。
君へのレッスンも全て終了だな。もう私が君に教えられる事は何も無い、卒業だ、比企谷』
(そうか……あの言葉は、八幡だけじゃなく、今の俺にも……)
そして遼太郎は一人で悩むのをやめ、静と相談しようと思い、話し掛けた。
「静さん、これからの事なんですが……」
「は、はい、遼太郎さんの行きたい所に行きましょう」
「俺一人だと決めきれないので……って、静さん?」
「は、はい、遼太郎さん、次はどこに行けばいいですか?どこにでも着いていきます」
「え……?」
そこで初めて遼太郎は、静の様子がおかしい事に気が付いた。
静の目が、まるで死んだ魚のような目に見えたのだ。
「し、静さん……?」
「何ですか?遼太郎さん」
静は遼太郎の方を向いて返事をしたものの、その顔の動きは、
まるで、ギギギという音が聞こえてきそうな不自然なものだった。
遼太郎は、静を正気に戻す為にはどうすればいいか考えたが、いいアイデアは浮かばず、
結局八幡に電話する事にした。
「静さんすみません、八幡に電話するんで、ほんのちょっとだけ待ってて下さい」
「はい、待ってますね」
遼太郎は、静の事を心配しながらも、急いで八幡に電話を掛けた。
幸い八幡がすぐに電話に出てくれた為、遼太郎は、とりあえず八幡に状況を説明した。
「……なるほど、どうやら先生は、フォースの負の面に落ちたっぽいな。
多分お前と二人きりになって、ここからが勝負だと、必要以上に入れ込んじまってるんだな。
さて、その状態の先生を元に戻す方法か……」
「自分でも情けないと思うんだが、いい案が思い浮かばねえ。頼む八幡、お前だけが頼りだ」
「まあ、まだお互いの事を良く知らないのに、
全部自分で解決しろってのも酷な話ではあるか。分かった、ちょっと待ってくれ」
八幡は、少し考え込んだ後、遼太郎に言った。
「……そうだな、とりあえず衝撃を与えてみよう。クライン、今すぐ先生の胸を揉め。
って、痛ってぇ!おい馬鹿やめろ、いやいや明日奈、今のはほんの冗談だって。
おい雪乃、その凶器はどこから出したんだよ!お前の凶器はその言葉だろ!
そういった物理的手段を併用するのはやめてくれ!」
「は、八幡?おい八幡?生きてるか?」
電話の向こうでは、ドタバタする音と共に、陽乃の笑い声と、
明日奈と雪乃が八幡に説教しているような言葉が聞こえてきた。
そしてしばらくすると、電話の向こうが静かになり、八幡は、遼太郎に返事をした。
「すまん、今のはほんの冗談だ。俺の命が危ないから、絶対に実行に移さないでくれ」
八幡の、恐怖に満ちたその声に、遼太郎は当然といった感じで答えた。
「あったり前だ!そもそも俺は、そんなセクハラは出来ねぇよ!」
「お、おう、そうか、それは何ていうか、クラインらしからぬ真っ当な返事だな。
で、代案なんだが、ちょっと先生と電話を代わってくれないか?」
「わ、分かった。今度こそ頼むぜおい」
「大丈夫だ、一発で先生を目覚めさせてやるから」
「一発ってお前……ちなみにどんな手段で?」
その自信満々な八幡の言葉に、遼太郎は恐る恐ると言った感じで質問した。
八幡はその問いに、簡潔にこう答えた。
「キットに煽らせる」
遼太郎はその、煽るという言葉に、やや不安を覚えたが、
だがしかし、有効なのは間違いなさそうなので、その案を実行してもらう覚悟を決めた。
「分かった、何かあっても、それくらいは頑張って何とかするから、ガツンとやってくれ」
『分かりました、お任せ下さい』
いきなりキットにそう言われた遼太郎は、反射的に、敬語で返事をした。
「あ、キットさんですか?お手数をおかけしますが宜しくお願いします」
「おい、何でお前、いきなり敬語なんだよ……」
その遣り取りを聞いていたらしい八幡が、横から呆れたように遼太郎に言った。
「だ、だってよ、キットさんって明らかに、俺より格上っぽいじゃないかよ!」
「お、おう……まあそう言われると、一概には否定出来ないが……」
「とにかく頼む!今静さんに代わる!」
『了解しました』
そして遼太郎は、静に電話を差し出した。
「キットさんが、静さんと話したいそうです」
「はい、遼太郎さん」
静は、状況を理解しているのか分からないようなぎこちない動きで、電話を受け取った。
そして電話に出てしばらくした後、急に静の目に光が灯った。
そして静は、電話の向こうのキットに向かって、とても悔しそうに言った。
「こ、これで勝ったと思うなよおおおおお」
遼太郎はその少し子供っぽい静の叫びを聞き、
笑いを堪えながらも、静が元に戻った事を確信し、心の中でキットに感謝したのだが、
次の瞬間、静は誰かに何か言われたのか、顔を真っ赤にしながら遼太郎の方を見た。
直後に静が遼太郎に電話を差し出してきたので、遼太郎は何事かと思いながらも、
その電話を受け取り、電話に向かって話し掛けた。
「もしもし?」
「おうクライン、『心配しなくても、クラインは先生にベタ惚れですよ』
って、今言っておいたから、後はお前に丸投げするわ。ちゃんと結果を出せよ」
「おいいい!そこまで言ったなら、せめてちょっとだけでも、何かアドバイスをくれよ!」
その遼太郎の泣き言を聞いた八幡は、電話の向こうでため息をつきながら言った。
「やれやれ仕方ない、そうだな、その場所からなら、千葉……あ~、千葉駅前にでも出て、
後は好きな所を適当に回ればいいんじゃないか?」
「適当だなおい!」
「あながち適当って訳でもないんだがな、後は自分で考えろ」
「おい、八幡……?」
「それじゃ、後は二人でごゆっくりって事で」
「お、おい、八幡?八幡?」
八幡はそう言い残すとあっさりと電話を切った。
遼太郎は八幡の残した言葉について必死で考え、
そして何かを思いついたようにハッとした顔をした。
静はまだもじもじしていたのだが、そんな静に遼太郎は語りかけた。
「あの、静さん、一つ俺から提案があるんですが」
「は、はい!」
「八幡達の乱入で、予定がすっかり狂っちゃったじゃないですか。
本当は、これからどうするか、静さんと相談して決めたいって思ってたんですけど、
八幡のアドバイスを聞いて、一つ思い付いた事があるんです」
「アドバイス、ですか……?」
「簡単に言うと、千葉に出て、適当に回れ、ってアドバイスです」
「千葉……千葉駅前ですか」
静はそれを聞き、八幡の言葉の意味を考え始めたが、
静が何かを思い付く前に、遼太郎は静に言った。
「とりあえず今からそこに、一緒に行きましょう。
で、興味がある所を交互にでも選んで、そこに入りませんか?」
「普通ですね。あっ……ご、ごめんなさい私ったら」
「いや、いいんです、その通りです、普通っす!」
静はその提案を聞き、思った事をうっかりそのまま口に出して言ったが、
それを遼太郎は笑顔で肯定した。
「多分それが、静さんの事をもっと良く知る為には、一番いい方法だと思うんです。
余所行きの場所に行くのは、少なくとも今じゃないって思うんっすよね」
「確かに……それなら私も、もっと遼太郎さんの事を色々理解出来るかも……」
静は頷きながら、遼太郎に同意した。
「あざっす!それじゃあそうと決まったら、早速行きますか!」
「はい、遼太郎さん!」
静は、花のように微笑みながら、遼太郎に言った。
こうして二人は、まったく背伸びをせず、自分達が興味を引かれた店に次々と入り、
時には何か買い物をし、時には何かに感動し、時には何かに怒りをぶつけた。
ちなみに夕食はサイゼだった。遼太郎はサイゼに入るのは初めてだったようで、
美味い美味いと言いながら、とても楽しそうに食事をしていた。
静はそんな遼太郎の姿を好ましく思いながら、
まったく緊張する事無く純粋に食事を楽しむ事が出来た。
「さて、次はどこに行きましょうか」
食事を終え、店を出た後、満足そうにそう言った遼太郎に、静が遠慮がちに切り出した。
「あ、あの、遼太郎さん」
「はい、静さん!」
「ちょっと遼太郎さんを案内したい場所があるんですが」
静の顔が真剣だった為、遼太郎は二つ返事でその提案をオーケーした。
「分かりました!どこへなりと、喜んでお供します!」