哀歌   作:ニコフ

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12話 米花町より愛を込めて 後編

「……静かになった……?」

 

 薄暗い一室にて未だ拘束されたままの真純。先程までと異なるのは、救難信号を出すために蹴破られた窓から吹き込む風にカーテンが埃と共に舞上げられていることと、彼女の靴が左足しか無いことだ。

 未だスタンガンの影響で痺れる体に鞭打って、なんとか脚の拘束だけは解くことが出来た。震える脚で立ち上がりなんとか窓から外を覗き込んだとき、自身の母親の姿が見えたのには驚いた。もう一人誰か居たような気もしたが、震えるおぼつかない脚では立っているだけでも辛く、それを確認する余裕は無かった。

 母という思わぬ人物の登場ではあったが、自身を救出してくれるに十分な人物である。なんとか自身の存在を伝えるために、痺れる脚にありったけの力を込めて窓を蹴破った。勢い余って靴が飛んでいってしまい、自身は体を支えきれずにその場に尻餅をつくように転倒する。割れた窓ガラスの破片で切ったのか、後ろ手に縛られた手にピリリと小さな痛みが走った。

 

「……っ! 誰か来る……」

 

 それからしばらくすると部屋の外が騒がしく、慌てたような焦ったような男達の声が飛び交い、激しい足音が往来していた。

 しかしその足音たちも遠のいていき、しばらくすると一体は静寂へと包まれる。少しでも外の情報を得ようと、真純は体をよじらせ身を引きずって古びたアルミ製の扉の前へと這い寄る。

 先程までより幾ばくか痺れのマシになった脚で立ち上がろうとしたとき、静かながらも力強い足音が遠くから反響してくるのが聞こえた。

 その場で尻を浮かせ片膝膝立ちの体勢を取り迫る足音へ構える。足音は徐々に大きくなり、扉の前でピタリと止まった。

 母の、もとい少女の足音にしては重たすぎる。真純は脚に力を込め重心を前方へと傾ける。扉が開くのと同時に駆け出すか、場合によっては奇襲の一撃を食らわせる。額に一筋の汗を垂らしながらも彼女は不敵に笑った。

 

「……っ!」

 

 そんな彼女がビクリと肩を震わせたのは、その足音の主が部屋のドアに手をかけると、唐突にガシャガシャと激しくノブを上下させたからだ。

 

 ――鍵がかかってるのを知らない?――

 

 真純が思考を巡らせるとノブは動きを止め、扉の向こうが静寂に包まれた。

 今度はなんだ、と彼女が扉の方へと身を乗り出したその瞬間だった、かけられた鍵が激しい金属音と共に弾け飛び、突風のような風圧に前髪がなびき、眩しい蛍光灯の灯りに目が眩む。

 

「うわあぁっ!」

 

 扉が無理矢理ぶち破られたのだと理解したのはその勢いに圧されるように自身の体が後ろに転がってからだった。幸い蹴破られた扉が直撃することはなかったが。

 

「な、なんだぁ……?」

 

 転がった状態の上下逆さまの視界に大男のシルエットが映る。慌てて身を起こす真純。

 通路から差し込む光はこの薄暗い部屋に慣れた彼女の視界には眩しすぎた。目を細めながら見やると、その大男がこちらへと近づいてくる。

 頭を過ったのは、自身がここに拉致される時に見たざんばら髪とゼブラ柄の大男二人。彼女は素早く体勢を立て直し、後ろ手に縛られながらもその健脚をもって男の頭部へと鋭い右ハイキックを見舞う。

 

「ふッ――!」

「うぉっ、と、……威勢がよすぎるんじゃないですか……?」

 

 しかし無理な体勢から放った蹴りは体に残る痺れの影響もあってか威力に欠け、目の前の男の左手にあっさりと受け止められた。

 

「まだまだッ……!」

 

 男の声をどこかで聞いたことがあるような気が、そんな思考が一瞬頭を過るも、火の付いた彼女の連撃は止まらない。

 捕まれた右足を軸にジャンプするように体を持ち上げ、脚で挟み込むように左の蹴りを頭部へと振り抜く。しかしその二撃目もあっさりと捉えられてしまった。

 

「うっ、わわわぁっ」

「おっとと、無茶するなぁ」

「――ッ、……へ……?」

 

 両足を捕まれた真純は体を支える術も無く後ろへと倒れていく。縛られた両手では受け身も取れない。思わず目を閉じる彼女に訪れたのは背中と後頭部への鈍い衝撃では無く、ふわりと自身を抱きしめるような大きく心地よい両腕の温もりだった。

 きょとんとする彼女を立たせるようにそっと下ろすと、大男はその体の状態を確かめる。彼女に大した怪我が無いことを確認すると、よかったと言わんばかりに大きく頷いた。

 

「……その男は味方だ。少なくとも今は、な」

「ママっ! あっ……」

 

 蹴破られた扉に背を預け様子を窺っていたメアリーが呟くように真純へと声をかける。きょとんとしながらも、未だに警戒するように男を見つめていた真純だったが、待ち望んだ人物の声に思わず顔がほころび声を上げてしまう。そしてしまったと言わんばかりに口を噤み、目の前の男の様子を窺う。どうやら思わずその少女を母と呼んでしまった事を気にしているらしい。

 

「大丈夫だ。その男は()()()()()

「無用な詮索はしない。忘れろというなら今の言葉も聞かなかったことにする。だから、そっちも聞かないでね」

「おっ、お前っ……!」

 

 メアリーの言葉の意味が分からなかったが、目の前の男がその目出し帽を持ち上げ顔を覗かせると合点がいった様子の真純。

 これまでのこの男の様子や雰囲気、例の薬と深く関係のあると思われる少女を護るような行動、母の正体を知り、この戦闘力。この男もまた()()()()の人間だと理解するのに時間はかからなかった。そして先程この部屋から目撃した母と共にいた人物だろうと。

 だがその優しげながらもどこか不敵な笑みで「詮索はなし」だと釘を刺されれば、真純も深くは追求できなかった。もっとも、母が味方だと言い切り現に今自身を助けに来てくれたのだから、それだけで真純はなにも詮索するまいと小さく息を吐いた。

 

「しかし、無事でなによりだ」

 

 メアリーが真純へと歩み寄りそっとその肩を抱きしめる。先程までの眉がつり上がり眉間に皺の寄っていた表情もほぐれ、心底安堵したようにそっと笑みを零す。

 

「うん……ママも、ありがとう。体は大丈夫? このビルの奴ら結構な人数がいたと思うけど……」

「大丈夫だ。ビル内の敵勢力(エネミー)も既に制圧済みだ。こいつが思いのほか役に立った」

「こいつて……」

 

 メアリーに顎で指され、思わず乾いた苦笑い浮かべながら真純の後ろ手に縛られた拘束を解く伊吹。解放された両手首をさすりながら真純は改めて伊吹へと向き直り、真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。

 

「事情はよく分からないし詮索もしないけど……、ボクを助けに来てくれたことと、ママに手を貸してくれた事には礼を言うよ、……ありがとう」

「いや、こっちも理由あっての手助けだから、気にしないでいいよ」

 

 伊吹が含みの無い柔和な笑みを浮かべると、真純も少し照れくさそうに笑いながら頬を掻いた。

 

「しかしママはともかくとして、あんたも凄いな。結構ヤバそうなやつもいたのに」

「ヤバそうなやつ?」

 

 真純が半ば呆れたように肩をすくめながら感心したように伊吹の胸を叩く。しかし彼女の言葉にピンとこない伊吹が、なにかを警戒するように僅かに眉間に皺を寄せ聞き返す。

 

「ああ、あんたくらいの体格のいかつい二人組が……、――ッ」

 

 伊吹越しの扉を視界に捕らえた真純の表情が強ばり、息を飲む。

 暗い室内に差し込む廊下の光が何かの影に遮られ足下に伸びていた自身の影が別の影に覆われたとき、伊吹は咄嗟に目の前の真純とメアリーを抱きしめるように飛び退いた。

 

「ッ――!」

 

 ほんの一瞬遅れて激しい風切り音が耳に届く。先程まで自身の頭があった位置を重く硬そうな鉄パイプが渾身のフルスイングで振り抜かれた。

 倒れ込む真純と咄嗟に受け身をとるメアリーを庇うように背を向け、片膝立ちで即座に襲撃してきた人物へと振り返る伊吹。

 そこには今まさに伊吹を襲ったであろう、白地に黒の縞模様のゼブラ柄のスーツに身を包んだオールバックの男が鉄パイプを肩に担ぎタバコを吹かす。その隣には縁起の悪そうな灰色のスーツに黒シャツを着込んだ、色の抜けた髪が獅子の(たてがみ)のようにザンバラに逆立った男がぼーっと上の空に天井を眺めている。

 

 ――ああなるほど、確かにヤバそうな連中だ――

 

 伊吹はこの男達が、先程真純が言いかけた連中だと察する。その雰囲気といい、問答無用に迷いも躊躇いも無く振り抜かれた鉄パイプといい、自分たちの仲間か部下かが軒並み制圧されているにも関わらず落ち着いているその態度といい……。

 伊吹は自身の中で目の前の二人組への警戒心が高まっていき、己の心が鋼のように冷たく重く沈み込んでいくのを感じた。その眼光が鈍い光を湛え鋭く研ぎ澄まされる。

 

「おいおい、なんなんだよお前達は。家主がいない間に人のビルに入り込んで好き放題してくれてよォ」

 

 ぼーっと突っ立ったままのザンバラ髪の男を押しのけるように、二人の大男の間から姿を見せた男。整えたその長い前髪を撫でつけながら葉巻の煙を(くゆ)らせる。

 若く見える男だったがその座った目つきは生半可なものではなく、カタギの人間では無いことは火を見るより明らかだった。

 

「あんたたちに用はない。連れを回収しに来ただけだ。下の連中も生きている。ここはお互い、“今日は何もなかった”ことにしないか?」

 

 伊吹が目出し帽越しのくぐもった声で提案する。淀みなくすらすらと出てくる言葉は本心では無く、会話を繋げることで時間を稼ぎ相手の様子を観察するためのようだ。

 

「……ああ、そうだな。って帰すと思ってんのか?」

 

 男の吸う葉巻がじりじりと焼かれる。その色濃い紫煙を鼻から吹き出した男のこめかみが微かにヒクつく。

 

「お前の提案を飲んだフリして後ろから襲わないだけ紳士的だと思ってくれ」

 

 すくめるように肩を持ち上げた男が天井を仰ぐ。再び葉巻の煙を胸いっぱいに吸いこみ、濃煙混じりに言葉を紡ぐと、前に立ちはだかるゼブラの男がその手に持つ鉄パイプを握り込む。

 伊吹の眼光は彼らの動きを見逃さない。

 

「答えはNOだ。ここから、お前ら三人、帰す気はねえ」

 

 血走る男の眼が伊吹達を捕らえる。人差し指と中指に葉巻を挟んだまま突き出し、ポツリと呟いた。

 

()れ」

 

 途端、強烈な踏み込みと共に鉄パイプを振り抜くゼブラの男。しかし彼らの一挙手一投足見逃さない伊吹はその襲撃を知っていたかのように難なく躱す。鉄パイプを振り抜いたままの体勢の男にすかさず左の鉄拳を叩き込む。

 伊吹と変わらぬほどの体躯をしたゼブラの男だったが、その強烈な一撃に踏ん張りもきかぬように壁際までよろめき窓を突き破る。

 そして先程まで呆けていたザンバラの男も葉巻の男の言葉にハッとし、弾かれたように動き出したものの、その駆け出しに合わせたメアリーの強烈な足払いで派手に転倒してしまう。足下まで落ちてきたその男の側頭部に渾身の力で蹴り抜くメアリー。少女の力といえど、硬い皮素材の靴を用いた無防備な頭部への一撃は痛烈なものだった。

 

「そうか、残念だ。交渉決裂だな」

 

 伊吹が両の手を組み準備運動のように手首をぐるりと回しながら、淡々と告げた。

 目出し帽から覗かせる抜き身の日本刀のように鋭い彼の瞳は目が合った者を戦慄させるほどだったが、その目に睨まれる目の前の男は今一度葉巻を吸い込むと親指を弾いて灰を落とした。

 男は薄く不気味に笑った。

 

「おい、さっさと殺れ」

 

 男の呟きに応えるように、倒れていた二人の男がむくりと起き上がる。

 ザンバラ髪の男が頭部への一撃で揺れる視界を鎮めるかのように、額に手をついて頭を振る。その緩慢な動きで腰に差していた大きなアーミーナイフを逆手に引き抜いた。

 ゼブラ柄スーツの男も突き破った窓にもたれ掛かっていた自身の体を起こすと、ガラス片がこぼれ落ちパラパラと床を叩く。片方の鼻の穴を塞ぎながら、鼻に詰まった血を抜くように息を吹き抜く。

 

「……タフだね」

 

 そんな男達の様子に少し呆れたような半眼を向ける伊吹。メアリーもまた警戒心と不快感を隠そうともせず、伊達眼鏡とマスクの奥に隠れながらも眉間に皺を寄せ男達を睨み付ける。

 二人とも先程の一撃で終わらせるつもりだったようで、思わぬ男達の打たれ強さに些か辟易とし、それと同時に気を引き締め直す。

 

「ゼブラで」

「ライオンだ」

 

 なにをと確認するまでも無く、一言言葉を交わしただけでお互いの意図はくみ取れたらしい。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ぅぐッ……!」

 

 伊吹と相対するゼブラ柄のスーツを着込んだ男であったが、力任せに振るう鉄パイプの軌道を完全に見切っている伊吹には掠りもせず、その間を縫うように迫り来る拳にボディを激しく打ち抜かれる。

 

「もういいだろ。何発打ち込まれたら気が済むんだ」

 

 まともに受け身も取れず倒れ込むゼブラ柄の男に、伊吹は微かに眉を顰め男を止める。その表情にはどこか憐憫や哀れみさえも見て取れた。

 

「……」

「おいおい……まじかよ」

 

 男は伊吹の声も聞こえないように、そして大したダメージも受けていないかのように音も無く立ち上がった。

 感情が抜け落ちたかのように無表情の男が己の口の中へと指を突っ込む。唇の端から夥しい量の血を吹き出しながら口内をまさぐると、指先に力を込め何かを引き抜き、それを指で弾くように投げ捨てた。

 唾液混じりの粘性を含んだ赤い血を纏いながら、それが床を転がる。それは伊吹の拳によって折られた男の奥歯、その根元だった。口内に残った歯を自身で無理矢理引き抜いたらしい。

 少し離れた位置から見ていた真純も「うげえ」と不快そうに、そして痛そうに顔を歪める。

 ゼブラの男は痛がる様子も見せずに、今度は自身の右手の指に触れる。激しい戦闘でへし折られたのか、あらぬ方向へと向いていた己の中指と薬指を引っ掴むと、ごきりと生々しい鈍い音を立てて力ずくで元に戻す。それは治療や応急処置と呼べるほど上等なものではなかった。

 

「その濡れた刃面……、刃に何か塗布しているな」

「お前、ちょろちょろ、うっとうしい……」

 

 その後方ではメアリーがザンバラ髪の男を相手取っており、体格や膂力では適わないながらも、その巧みな身のこなしで相手を翻弄していた。

 

「ふッ――!」

「……ッ、……」

「……なに……?」

 

 メアリーがその小さな体を活かし、女豹の如くしなやかな身のこなしで男の懐へと潜り込むと、鞭のように強烈なスナップを効かせた脚撃で股間を蹴り上げた。

 プロテクターの類いで阻まれた感覚は無い、確かな手応えはあった。普通ならばどれ程鍛えられた屈強な男でも悶絶必至の一撃だ。にも関わらずザンバラ髪の男はまるで意にも介さずに足下のメアリーへとナイフを振り下ろす。

 男の鉄槌をすんでの所で躱したメアリーが飛び退き男と距離をとり伊吹と隣り合わせに言葉を交わす。

 

「なんだこいつら、痛みを感じないのか?」

「……ああ、なるほど」

 

 忌々しそうに吐き捨てたメアリーの言葉に得心するのは伊吹。痛みを感じないのならば異常な打たれ強さも、先程の治療とも言えない異常な行動にも納得がいく。

 

「やばい(ヤク)でもキメて痛みを飛ばしてるのか」

「なんだその薬は」

「さあ。まあいわゆる違法薬物なんかにも鎮痛効果がある代物も存在しますし、この世界には()()()()()()()。そうでしょう?」

「……」

 

 伊吹が言外にメアリーの容姿を幼児化させた毒薬の事を示唆する。メアリーも小さな嘆息を零すものの、それ以上噛みつかない辺り納得したらしい。

 

「そしてそういった非合法なヤバい薬を造ってるのか仲介してるのか……。どちらにせよその要所がこの建物で、こいつらが薬物犯罪者って訳だ」

 

 伊吹の言葉が聞こえているのかいないのか、ボスと思しき男はその半眼で天井を見上げながら葉巻を吸う。そしてザンバラ髪の男とゼブラ柄の男が再び二人へと迫る。

 

「まあ、痛みを感じなくてもやりようはある」

 

 そう呟き、伊吹が眼光鋭く再びその拳を構えたとき、後方から焦りに染まった真純の声が反響した。

 

「ママッ!」

 

 振り返った伊吹の視界に映るのは、ここに来て体調不良を訴える自身の体に足下をもつれさせるメアリーの姿。

 体から溢れ出すように止まらない咳に思わず体が硬直し、たまらずマスクを引き剥がし呼吸を整えようと試みるも、無理矢理に動かそうとする足下はふらついてしまう。ザンバラ髪の男は構うこと無くその凶刃でメアリーの綺麗な顔面を抉り突き上げるように切っ先を向けて振り上げる。

 真純の声に応えるように、すんでの所で身を起こしその切っ先を躱すメアリー。しかしその刃先は彼女の深々と被った帽子のつばに引っかかり、遙か上方へと跳ね上げる。

 

「…………ッ」

 

 息苦しげに歪む彼女の口元が、どこか忌々しそうに、それでも健気に助けを求めるような瞳が、白い肌が、細い指先が、小さな体が……、大切な人とどこか重なって見えてしまうのだ。

 

「し、ね」

「げほっ、んぐっ、げふっ……」

 

 再びメアリーへと襲い来る返しの振り下ろし。彼女の体はまだ満足に動かない。

 背を丸め咳き込み身を縮こませる彼女の姿を目の当たりにしたとき、伊吹の眼光は更に鈍く鋭く研ぎ澄まされ、その白眼が赤く血走る。

 彼の眼光はまるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のように、どこかの誰かを護ろうとする時のような、焦燥と覚悟と、憤怒と辛苦に染まる。

 

「ッ、ど、けぇええッ――!!」

 

 うねり上がる伊吹の渾身の右拳がゼブラの正中線を打ち抜く。肋骨を幾本かへし折る程のその一撃は男の肺から強制的に空気を弾き出し、縮み込んだその肺はまともに膨らまず、酸素の供給を強制的に遮断した。

 薬物で痛みを誤魔化す男は自身の肋骨が折れたことにも気づかなかっただろうが、酸素の供給を止められた脳は機能障害を起こし、痛みなど関係なく視界をブラックアウトさせる。

 壁際まで殴り飛ばされ受け身も取れぬまま崩れ落ちるゼブラを意にも介さず、伊吹はすかさずメアリーへと振り返ると、一瞬の躊躇いも無く彼女へと飛び込んだ。

 飛びつくように彼女を抱きしめザンバラの凶刃から逃れる。そしてその勢いを殺すように、彼女の小さな体が傷つかぬよう庇いながら床を転がる。

 

「大丈夫かッ、あ……、……い、……いや、大丈夫、ですか?」

 

 自身の腕の中でもぞもぞと動くメアリーに、邪魔だと言わんばかりに自身の目出し帽を脱ぎ捨て慌てて声をかける伊吹だったが、彼女が胸元から顔を覗かせると冷静さを取り戻すようにその声も尻すぼみになっていく。

 

「げほっ、……あ、ああ、問題ない。……どうした?」

「あ、いえ……、なんでも」

 

 どこか気が抜けたようにきょとんとした顔でこちらを見てくる伊吹に、メアリーも怪訝な表情を浮かべた。

 その視界の端には、伊吹の肩越しにザンバラ髪の男の姿が映る。男の握るナイフの刃から滴り落ちる赤い滴が目に入った。まさかと思い、伊吹を抱きしめるように彼の体に手を這わせた。

 

「痛っ……」

 

 ぺちゃりと、メアリーの指先に触れる生暖かい液体の感触。彼女の細く白い指先が赤く染まり、伊吹が眉を顰めた。

 

「切られたのかっ?」

 

 伊吹の右肩の裏から滴る赤い液体。服は裂け、その下の皮膚から溢れる血がじわりと染みとなって広がっていく。

 彼の傷に触れ赤く染まる自身の指先を見て眉を顰めるメアリー。

 

「あなたに怪我をされると……私がどやされる」

 

 なぜ庇ったのかと言外に問いかけるそのしかめっ面に、伊吹も思わず目を逸らして軽口を叩く。

 

「げほっ、……貴様を私の元へ遣わした者との契約か?」

 

 どこか問い詰めるように伊吹の目を真っ直ぐに見つめながら問うメアリー。目の前の男が我が身を省みず自身を庇うことに彼女は困惑し、その理由を求めていた。

 彼女をそっと手放すとそのイエローゴールドの瞳から逃れるように小さく振り返り、背後からゆっくりと迫り来るザンバラ髪の男の様子を窺う。

 

「契約と言うほどでは……約束、と言えばそうですね」

 

 ナイフ片手に焦点の合わない目を彷徨わせ呆けたようにゆっくりと歩み寄ってくるザンバラ男を一瞥し、伊吹は足下に転がっていたメアリーの帽子を拾い上げ、「ただ……」と独り言のように呟く。

 埃を払いながらその帽子をメアリーの頭へそっと被せる伊吹。彼女の顔を隠すように……。

 

「ただ、私が……、見たくないんです。⋯⋯あなたが傷つく姿を」

 

 なぜかは言えませんが、と少し困ったように眉を下げる彼の横顔が妙に瞳に焼き付いて離れなかった。

 

「あれ……」

 

 未だ体を自由に動かせないメアリーに代わってザンバラ髪の男を相手取ろうとする伊吹だったが、自身の体の違和感に思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 切られた右肩の裏からじんわりと広がる違和感。彼女に帽子を被せた右腕がだらりと垂れ下がる。すぐにピンときたのはザンバラ男がナイフに塗布していたであろうなにか。

 

「……即効性の神経毒の類いか」

 

 伊吹が咄嗟に左手で傷口を押さえ無理矢理に血を流し毒抜きを試みるも、傷口に付着する薬物はそう簡単には流れてくれない。

 

「動くな」

「えっ、って、()たたたっ」

 

 そう告げるやいなや、メアリーは彼の傷口に己の唇を這わせた。その裂傷を舐め上げるように舌を這わせ吸い付き血を抜き出す。

 毒薬ごと口に含んだ彼の血を吐き捨てる。呼吸が苦しいのか、何度か咳き込みながら彼の血を繰り返し吸い出した。

 

「……応急処置だ」

「ど、どうも……」

 

 唇の端から唾液混じりの血を零しながらメアリーが淡々と告げる。「……少し舌が痺れるな」と彼女がぺろりと舌を出すと銀の糸がつっと伝い落ちる。伊吹は思わず彼女から目を逸らしてしまう。外見はいたいけな少女でありながら未亡人でもある彼女のそんな姿はなんだか見てはいけないような気がしたのだ。

 

「し、ね」

 

 脚を引きずるようにのそのそと動いていたザンバラ男だったが、伊吹達のやりとりの間に既に側まで迫っていた。忘れてたと言わんばかりに振り向く伊吹が数回、感覚を確かめるかのように自身の右の拳を握り込むと、一際強くその拳を固めた。右腕を中心に彼の筋肉が盛り上がり、その筋骨の締め上げに傷口さえも塞がったようにも見えるほど。

 振り下ろされる男のナイフにカウンターを合わせるように、立ち上がり様にその右拳を叩き込む。

 

「うらァッ!」

「あぐぇッ……!?」

 

 大男の凶刃と腕の隙間を縫うように放たれた一撃は的確にその顎を打ち抜く。骨身を砕くような鈍い音が聞こえ男の巨躯がふわりと浮いたかと思うと、そのままザンバラ髪の男は仰向けに倒れ込む。

 脳が揺れたなどという程度では済まない一撃に視界はシェイクされ明滅する。上下も左右も分からなくなって、浮遊感が身を包んだかと思うと男の記憶はそこで途絶えた。

 

「おいおいおいおい、冗談だろ。そいつらをそんなあっさりとよォ」

 

 目の前で繰り広げられる戦況を眺めていた葉巻の男は、取り巻きの男達が劣勢と見るやいなや音も無くひっそりと真純の傍らへ移動していた。

 ザンバラ髪の男もゼブラ柄の男も倒れピクリとも動かない。圧倒的不利な状況にも関わらず葉巻の男が余裕そうにそう言い放ったのは、その手に黒々とした拳銃を握っており、その銃口を真純の側頭部へと突きつけているからだ。人質を使ってこの劣勢を覆すつもりのようだ。

 

「……」

「んだ? びびっちまってんのか?」

 

 男に銃口を突きつけられたまま俯いていた真純だったが、自身の両の手を数度開いては握り込む。先程の伊吹同様に()()()()()()()()()()()()()ように。そんな彼女を見た伊吹は「やれやれ終わった終わった」とでも言わんばかりに小さく嘆息を零す。メアリーもまた半ば呆れたように腕を組み瞳を閉じる。

 彼らの沈黙の意味を何やら勘違いした男が息巻いていると、隣の女子高生が腹から息を吹き出す。

 

「おい……何してんだ?」

「ふーっ――……、……らぁッ!!」

「ぶうぇっ……!」

 

 真純の渾身の裏拳が男の顔面を的確に捉え、その指先にピクリとも力を込める暇も与えずに意識を刈り取った。

 

「ふー、やっと体がまともに動くようになったよ」

 

 足下に倒れる男に見向きもせず爛漫な笑顔を浮かべる真純が、伊吹とメアリーにピースサインを向けた。

 

「あー、うん……。……お見事……」

 

 静かな深夜のビルの一室に、伊吹の疲れたような声の賞賛が響いた。

 

「側近が強いと、ボスとは闘わず終わるってゲームじゃよくあるんですよ」

「ゲーム?」

「あれ、詳しくありませんか? てっきりMI6は機械好きなギークばかりだと思っていましたが」

「機械工学は好きだが、ピコピコのことはよく分からん」

「ピコピコて……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「でもあれでよかったのか?」

「死人はなし。全員捕縛しご丁寧に違法薬物の製造使用及び売買の証拠も揃えて匿名で警察に通報した。俺達の痕跡は髪の毛一本たりとも残しちゃいない。上出来だろう」

 

 一同がビルを後にする頃には真上で輝いていた月もすっかり傾き姿を隠してしまっていた。

 真純が頭の後ろに手を組みながらふん縛られたビルの男達の事を尋ねるも、伊吹は肩をすくめて疲れたと言わんばかりに大きなあくびを零す。

 

「いてて……、ったく、早く帰らないと。明日は子供達を連れて米花デパートに行かなきゃいけないんだよ……」

「ああ、そういえばそんなこと言ってたっけ」

「今から帰ってシャワー浴びて怪我の手当して……三時間くらいしか寝れねえ。ああ、腹も減ったな」

 

 伊吹がげんなりしながらこれからやるべき事を指折り数え、携帯を取り出し現時刻を確認する。痛む肩の傷を抑えながら「この怪我は誤魔化すのが大変そうだ……」と小さくぼやいた。

 すると腕を組み瞳を伏せ沈黙していたメアリーがチラリと横目に彼を見つめ、心なしかどこか申し訳なさそうに口を開いた。

 

「……ホテルへ来るか?」

「ええっ」

 

 自身を庇って傷を負わせたことに少し後ろめたさもあるのか、その幼い外見には似つかわしくない扇情的な言葉はいささか犯罪の香りがする。彼女の言葉が予想外だったのか、真純も驚いたように声を上げてしまう。

 

「手当くらいはしてやれる。それくらいの義理はある。背中の傷だ、自分でするよりも早いぞ」

 

 伊吹が顎に手を当ててしばし思案するも、困ったように(かぶり)を振った。

 

「あー……いや、やめときます。誰かに見られると色々と困りますし。それに……万が一、目が覚めたときに私が居なかったら()()()()()()()()()()になっちゃいそうですし……」

「……?」

 

 彼のその言葉の意味が母娘(おやこ)には分からなかった。

 

「ま、これに懲りたら好奇心の赴くままに行動せず、少しは自重することだね」

「……はーい」

「あなたからもくれぐれも注意して下さい」

「なんだか担任の先生みたいだな」

 

 真純へ注意喚起すると共に、メアリーに対しても人差し指を立てて真純に言って聞かせるようにお願いする伊吹。対するメアリーは腕を組んだまま小さく肩をすくめるのみ。

 

「……まあ、何かあったときは、また必要であれば助けに来ますが……何度でも」

「なにそれ、もしかしてボクを口説いてるのかい?」

「違う」

「え、じゃあママを……?」

「違います……。こっちにはこっちの事情があって。それにあなた達は……」

「ボクたちが、なんだ?」

 

 伊吹は少しの沈黙の後、「俺の大切な人にとっての、大切な家族になるかもしれないから」という言葉を飲み込んで、なんでもないと眉を下げて笑った。

 そうこうするうちに真純とメアリーをホテル前まで送り届けた伊吹。帰り道の間、軽口を叩きながらも辺りを警戒していたが特に不審なこともなく、今頃は警察もあのビルへと到着していることだろう。

 伊吹が先程までの命のやりとりや肩の怪我のことなどを微塵にも感じさせないような柔和な笑みを浮かべて手を振る。

 路地の向こうへと消えていく彼に手を振り返す真純が、隣で腕を組んだまま小さくなる伊吹の姿をじっと見送るメアリーの顔を少し不思議そうに覗き込む。

 

「しかし意外だな、ママが他人を部屋に呼ぼうとするなんてさ」

「……少なくともあの怪我は私に原因がある。お前の救出に手を貸してもらったのも事実だ。怪我の手当くらいはしてやってもいいだろう。そもそもお前の救出に向かう前にやつは既に部屋に侵入してきている、一度入室済みだとも言えるな。まあ得体の知れないやつならばまだしもアイツは何かと役に立ちそうだし……――」

 

 腕を組んだまま眉間に皺を寄せ、少し苛立たしそうに真純を流し目に見つめる。表情にこそ出ていないものの、その早口にまくし立てる様は慌てて何かを誤魔化そうとしているようにも見える。

 

「あ、そ、そう……。まあ、悪い人じゃ無いみたいでよかったよ。ま、ママも気に入ったみたい、だね」

 

 普段は静かなメアリーの口がよく回るものだから、真純も思わず目が点になる。真純の一言に思わず口をつむりじろりと視線を鋭くするメアリー。

 なにかを思案するように視線を夜空に彷徨わせた彼女だったが、しばらくすると気が抜けたようにふっと小さく笑みを零し、顰めていた表情を解した。

 

「…………ま、悪くはないわね、あの子。……ふふっ……」

「……え、なにその笑い、キモいんだけど……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ふぁ……」

「ふわぁあー……」

「なんだお前ら、揃って大あくびかよ」

 

 翌朝のこと、伊吹含め少年探偵団一行は予定通りに米花デパートへと買い物へ出発していた。

 青空広がる晴天は眩しいほどで、先程から何度も欠伸を繰り返している青年と少女の目には辛いつらいようで、涙ぐむ目をしょぼしょぼと擦る。

 

「てか、どうしたんだ? その目の下のクマ……」

「ふぁ……。昨夜(ゆうべ)、寝る前にゴキ……、嫌なものが出てね」

 

 目にクマをつくる灰原の顔を覗き込むコナン。灰原は目の端に涙を浮かべながら忌々しそうに昨夜の害虫のことを思い出し不快そうに顔を歪める。

 

「彼が退治してくれたと思ったら、夜中に博士がもう一匹出たとか言うし。おかげで部屋から出られないしトイレも我慢して寝不足よ」

「ああ、萩原(おめー)も眠そうだな」

「ちょっと、昨夜(ゆうべ)はゴキ――」

「……」

「あっ、……ええと、ちゃばねん退治に忙しくてね」

「その呼称やめて」

 

 寝不足のせいか、いつにも増して鋭い半眼が伊吹を刺し貫く。

 

「そういやお前(おめー)、昨日は結局なんで世良の宿泊先のホテルなんか聞いてきたんだよ」

「……なに、それ。どういうこと?」

「え、いや、それは……」

 

 灰原の様子から察するに昨夜の不在はうまく誤魔化したようだが、まさかのこのタイミングでのコナンからの質問に思わずその寝不足で充血した視線を泳がせあわあわと手を振る伊吹。

 腰に手を当て下から覗き込むように彼を睨み上げる灰原の視線もまた、寝不足で赤く迫力は普段の三割増しだ。

 

「いや、ほら、あんまりこっちを嗅ぎ回られても困るしさ、こっちも向こうの情報をなにか握っておこうかな-、って」

「……ふーん……」

「そ、それより、お昼は米花デパートの最上階のホテルで食事だろ、いやー楽しみだなぁ、ははは」

 

 頭を掻きながら下手くそに話を逸らす伊吹に対して、灰原はいつものように嘆息を零して瞳を伏せる。

 

「そう。……のん気な男ね」

「す、すんません……」

 

 肩を落とし思わず謝罪してしまう伊吹。彼を置いていくように灰原は踵を返して前を行く子供達と博士の後を追う。

 

「……あのボクッ娘になにか用でもあったのかしら」

「いや、オレも知らねーけど」

「……」

「萩原に直接聞きゃいいじゃねえか」

「……いいわ、別に。言いたくなさそうだったし」

 

 伊吹から少し距離を取ったところでポツリと呟く灰原。それは独り言のようにも思えたが、隣を歩くコナンの耳には届いたようだ。

 前を向いたままこちらを一瞥することもなく去って行く灰原を見送って、コナンは後ろからとぼとぼと付いてくる伊吹を見やる。

 

「事情は知らねーけど、お前(おめー)、誤魔化すの下手すぎ」

「……嘘は吐きたくないんだよ、哀には。だったら、()()()()って手しかないだろ」

「ったく、揃いも揃って、似たもの同士というかなんというか……」

 

 呆れたように苦笑いを浮かべるコナンに対し、肩を落としていた伊吹も恨めしそうな視線を送る。

 

「というかコナン、お前も哀の居る前で聞くなよ……」

「わ、(わり)ぃ……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「わぁーっ、すごーい!」

「すげーー!!」

「ワクワクしますねー!」

 

 米花デパートに到着すると子供達のテンションはうなぎ登りだ。

 

「ねえ哀ちゃん、見て見て! お化粧やってるよ!」

「ああ……、化粧品の実演販売ね」

 

 ウキウキしながら灰原の腕を引いてデパート一階の化粧品コーナーを指差す歩美。そこでは販売員と思しき綺麗な女性がお客らしい女性を鏡の前の椅子に座らせ何やら手に持った化粧品の説明をしているようだ。

 

『あら、このマスカラいい感じじゃない!』

『これでデートもバッチリですね!』

 

「マスカラ……デート」

「いいなー!」

 

 販売員と女性客の会話を耳にして、灰原と歩美も興味が引かれたらしい。歩美は瞳を輝かせ、灰原も心なしか高揚したように頬を染める。

 

「おーい、博士が呼んでるよ」

「だいたい、オメーらにあんなの()えーっつーの」

「……」

 

 後ろから呼びかける伊吹に、後ろ髪を引かれる思いながらも化粧品売り場を後にしようとする灰原だったが、その後のコナンの一言に思わずカチンとこめかみがヒクついてしまった。

 するとムキになった彼女は踵を返し、販売員に化粧品の自身への実演を要求した。

 

「はぁ? できない? じゃあなーに? 私達はお客様じゃないってわけ?」

「あ、だからお母さんになら……」

「お、おい……」

「あ、哀……?」

 

 歩美を引き連れて、子供には出来ないと断る販売員に食ってかかる灰原。止めるコナンと伊吹を尻目に、どうやらマスカラの実演をしてもらえるようだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 都内の某ホテル。昨夜、伊吹が世良母娘を送り届けたホテルの一室。

 昨日の疲れか真純もメアリーも揃ってお昼まで眠っていたらしく、すっかり日も昇りきったこの時間に目が覚めたらしい。

 どちらが淹れたのか室内には香ばしいコーヒーの香りに包まれている。真純はスポーティな下着姿のままソファにもたれかかり、メアリーはラフな部屋着のままカップに口をつける。

 

「それで、結局彼は何者だったんだ」

 

 二、三人掛けのソファに寝転び、ぼんやりとした頭のままテレビをザッピングする真純。その逞しくも細く締まっている脚を組み直しながら昨夜の出来事を思い出し、伊吹への疑問を口にする。

 

「解毒剤を持ち、自身も幼児化したと思われる少女……。そしてそれを護衛する謎の男、か。……あの男は十中八九、合衆国(ステイツ)の工作員だ」

「えっ、それって、CIAってこと?」

 

 コーヒー片手に呟くメアリーの言葉を聞き真純は驚いたように身を起こす。彼女の問いかけが聞こえてないのか、メアリーは手元のコーヒーカップの水面に映る自身を見つめながら思考に耽る。

 真純の問いかけへの答えというよりも、己の思考を整理するように呟く。

 

「……CIAは合衆国(ステイツ)の利益のためならば手段を選ばぬ野蛮な連中だ。そんなやつと例の薬の解毒薬を持つ、恐らく幼児化された少女……。その薬、あるいは解毒薬を用いれば莫大な金が動くはずだ。あの工作員はその少女と薬を利用しようと画策しているのか……?」

「そんな悪いヤツには思えないけどなあ」

 

 メアリーの思考に割って入るように、ソファに頬杖をつきながらうつ伏せで寝転がる真純がテーブルに手を伸ばしナッツを一つ摘まむ。

 そんな彼女を横目にメアリーは静かに息を吐く。

 

「……まあ、そうかもしれんな……。とにかく、薬の情報は必要だが主たる目標(ターゲット)は江戸川コナンという少年に絞り、その灰原とかいう少女には迂闊に手を出さないほうがいいかもしれん。……番犬に手を噛まれる、どころか腕ごと食い千切られかねない」

 

 一口静かにコーヒーをすするメアリーが、宙に視線を彷徨わせる。

 

「なんにせよ、その二人の関係はこちらが思っている以上に複雑なのやもしれんな……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ど、どうかなぁ?」

「見間違えたかしら?」

 

 マスカラの実演をしてもらった灰原と歩美が一同の元へと戻ってきた。

 

「あ、ああ……」

「き、きれいですー……」

「……まあ、ある意味見間違えたな……」

「すっごい似合ってる、ちょっと大人っぽすぎる気もするけど、超可愛いよ」

 

 半ば呆れ気味に答える博士やコナン達。それとは反対に二人、というより灰原に対して興奮気味に褒めちぎる伊吹。

 灰原もどこか得意気に胸を張って満足そうにに小さく微笑んだ。

 じゃあ食事に行こうかと子供達を連れて行く博士とコナンに置いて行かれても構わず、というより気づかずに未だ灰原を眺めながら頭を撫でる伊吹。いつもなら人前で撫でられると鬱陶しそうに払いのける灰原だが、今は満更でもなさそうに腕を組みドヤ顔で大人しく撫でられ続ける。

 

「かわいいなあ。化粧してるところ久々に見たけど、似合ってるよ、すごく綺麗」

「ふふん……っ」

「ちょっとくらいならたまにはお化粧もいいかもね、かわいい」

「ま、これくらいは嗜みよね」

「おい、さっさと行くぞそこのバカップル」

 

 呆れたように二人を呼ぶコナン。この二人の関係は、メアリーが想像するほど複雑なものではないのかもしれない。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 その夜。阿笠宅のキッチンにはまた伊吹と灰原が並んで夕食の準備を進めていた。伊吹が野菜を刻む隣で灰原がせっせと食器を取り出す。

 

「結局フサエブランドのポーチ、事件のごたごたのせいで買えなくなっちゃったけどよかったの?」

「ああ、別にいいわよ。本気で今日買おうなんて思ってなかったし」

 

 あの後、食事を終えた一同が買い物をしようと各自欲しいものを探しに一時解散した際にデパート内で殺人未遂事件が発生し巻き込まれてしまったらしい。

 もっとも事件そのものはコナンや伊吹、少年探偵団の活躍もあって解決したものの、事件の影響でデパートは一時閉鎖される事態となり、買い物どころではなくなってしまった。

 

「……」

「……」

 

 二人の間に流れる沈黙。その発端は、つい先程伊吹が浴室にてシャワーを浴びていた際に、その真新しい右肩の傷跡を彼女に見られたからだ。

 伊吹が慌てて隠したものだから、それが見えたのはほんの一瞬で、見間違いだったかもと思ってしまうほど。けれど覚えのないその傷と、今朝コナンが言っていた伊吹が昨夜あの女の滞在先を聞いていたということが線で繋がりそうな気がした。思えば昨夜の博士の妙な言動も自身を部屋から出さないようにする下手な芝居のようにも思えてきた。

 

「……昨日の夜」

「……うん」

 

 お皿を一枚抱きしめて少し逡巡するように視線を天井に泳がせていた灰原が、伊吹へと振り返る。じっと伊吹を見つめるその瞳は、言葉には紡がなくとも強く彼に問いかけていた。

 伊吹は小さな溜め息を零して、観念したように困ったように笑った。そして参ったと言うように肩をすくめて灰原へと向き直る。

 

「……哀が答えてと言うのなら、俺は嘘も、偽りも、誤魔化しもしないよ。絶対に」

 

 彼の言葉は灰原の聞きたかった問いかけの答えではなかった。それでもその言葉は余りに真っ直ぐで誠実で。彼女の中のもやもやした感情をいとも容易く解きほぐしてしまった。

 さあなんでも聞いてくれと言わんばかりにこちらを見てくる彼を一瞥して、灰原は自分の中のかき回された(おり)のように揺れる感情を吐き出すように鼻から大きく息をついた。

 

「…………別に、なんでもないわ。昨日の夜、ゴ……害虫を退治してくれてありがとうって言いたかっただけ」

「……そう。ま、少しだけ手こずったけど」

 

 今問いただされていたらきっと昨夜の事を話してしまって、そこからずるずると芋づる式に聞き出されて、真純やメアリーのこと、彼女たちと灰原自身の関係なども伝えることになっていただろう。それは灰原を余計なトラブルや危険にさらしかねないと、伊吹は彼女が何も聞いてこなかったことに一人安堵した。

 

「あ痛っ、つ……」

「ちょっと、なにやってんのよ。大丈夫?」

 

 再び包丁片手に野菜を刻む伊吹だったが、つい気が抜けてしまったのか思わず自身の左手の指先も傷つけてしまった。

 彼の手をとった灰原が、ぷくりと膨らむ赤い液体を見て咄嗟にその太い指をくわえ込む。彼女の湿った小さな舌先が傷の上を這うように舐め上げてピリリと甘く痛む。

 灰原の唇の端が少しだけ濡れて蛍光灯の明かりを反射する。

 

「あ、いや、ちょっと」

「ん? ……()に?」

 

 灰原が伊吹の指を咥えたまま喋ると、伊吹は思わず右手を口元へとあてがい、その視線は自身の指をくわえ込む彼女へと釘付けになってしまう。

 

「た、確かに傷口を舐める行為は洗浄作用があるかもしれないが、蛇口で洗えばいいし、ムチンなんかは傷口の乾燥を防いでくれるけど、リゾチームの抗菌作用とか細菌の凝縮作用とか炎症を抑える作用とか色々理屈というか理由は考えられるが、普通に傷口洗って消毒しておけばそれが一番で……」

 

 灰原に言っているのかそれとも自分に言い聞かせているのか、口元を隠したままくぐもった声でぶつぶつと呟く伊吹。

 しばらく伊吹の指を咥えていた灰原がその口元を離すと、自身の唇の端をそっと指で拭った。伊吹は「あー……」とうなり声を上げて項垂(うなだ)れる。

 

「なんだかちょっと、いけないことをした気がする……」

「……ばかね、ただの応急処置でしょ。動揺しすぎよ」

 

 澄まし顔でそう告げる彼女はどこか蠱惑的で、小学生という今の外見からは想像できないほどに扇情的だった。

 すると彼女がいたずらに自身の指を突き出し、昨夜の傷が薄く残る自身の人差し指を今咥えていた彼の指先にちょんと触れさせる。

 

「……約束よ。嘘も……、偽りも、……誤魔化しもなし」

 

 一言一言を丁寧に、確かめるように言葉を紡ぐ灰原。自身の指先の傷を彼の指先の傷に押し付けるようにくにくにと艶めかしく動かす。

 そしてその細くしなやかな指をそっと伊吹の屈強な指へと絡める。

 ――指切り……――

 聞こえないほど小さな声を伴って、彼女の唇がそっと動いた。

 

「絆創膏、取ってくるわ」

「あ……うん……」

 

 そう言い残してキッチンを後にする灰原の指先と伊吹の指先が一瞬、細く短い銀の糸で繋がれて音もなく途切れた。

 思わずぼーっとしたまま彼女を見送る伊吹が、呆けたままにぬらりと光る自身の指先を見つめる。誰に何をされても大して気にもとめない彼だが、彼女には指先一つ咥えられるだけで、どうにも意識してしまうのだ。

 

「おや、哀くん。今夜の夕飯は期待できそうかの」

「あら、どうして? 博士」

 

 リビングの救急箱を漁る灰原の後ろからテレビを見ていた博士の声がかかる。

 

「いや、なにやら上機嫌に見えたからのぉ。てっきり夕飯が上手にできたのかと」

「そう、別になんでもないわ。残念だけど、夕飯もいつもと同じよ。……ふふっ」

 

 なんでもない、そう言いながらも嬉しそうについ笑顔が零れる灰原。まだ傷の残る人差し指でそっと撫でるように唇に触れる。彼の動揺する姿がどうにも可愛らしく、愛おしく思えた。

 私が彼を想って意識するように、彼もまた私のことを想ってくれている。彼の反応はそう思えるには十分で、なぜだか分からないが、「ただの応急処置」で彼がそんな慌てふためいた反応をしてくれるのは自分にだけだろうという気がして、なんだか妙に心が弾んだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そういえば、聞きたいことがあるんだけど」

「ん、なに?」

 

 食卓を伊吹と灰原、博士の三人で囲んで出来上がった夕飯に舌鼓を打っていると、灰原がなにかを思い出したように伊吹へ声をかける。伊吹は生返事を返しながら熱々できたて具沢山のミネストローネに息を吹きかける。

 

「先週の水曜日、帰りが遅かったわね。どこで何してたの?」

「え、先週……? あー、ホームセンター行ってたような。ほら、庭の草刈り用の鉈買ったんだよ」

「その前の日曜日は? 午前中姿が見えなかったけれど」

「うぇ、日曜? えーっと、確かジョギング中にコナンに力貸せとか言われて、そのまま逃走中の強盗犯を追っかけていつもより帰りが遅くなった、かな」

 

 伊吹を見るでもなく、手元のミネストローネを冷ましながらパクつく灰原。伊吹は眉をしかめてスプーンを持ち上げたままに記憶を辿る。

 灰原は淡々と質問を続ける。

 

「先月末の金曜日は?」

「せ、先月ぅ? えっとその金曜日は……」

 

 頬を掻き困った様子ながらも、灰原の問いかけに律儀に頭を傾ける伊吹。

 天井の照明を見上げるように思考を泳がせる彼が先月末の金曜日のことを思い出すと、ハッとしたように目を見開く。

 確かその日は灰原に内緒で“超特製特盛りマジでやばいスペシャル閻魔大王ラーメンセット”を食べていた日……。

 伊吹が顔を見上げたまま、チラリと視線だけを動かして灰原の様子を窺うと、先程までミネストローネに向けられていた彼女の猫のような涼やかな瞳がじーっとこちらを捕らえていた。

 

「嘘も偽りも誤魔化しも無し、よね……?」

「う……、余計なこと言ったかなぁ……」

 

 頭を抱える伊吹を見つめる彼女の頬が楽しそうに緩む。水の入ったグラスを傾けて、その表情を隠す。

 嘘も偽りも誤魔化しもなしで聞きたかった本当のことはもっと別にあるのだけれど……。素直になれない自分に、今度は呆れたようにそっと溜め息を零す。

 目の前で「いや、その……うーん……」と腕を組んで首を傾げる彼を見てると、まあ、また今度でいいかと、心が綻んでしまうのだった。

 

 ――私のこと、どう思ってる?――

 

 彼女は少し頬を染めながら一人そっとバケットを頬張った。

 

 

 

 


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