哀歌   作:ニコフ

25 / 28
12話 米花町より愛を込めて 中編

 赤井との約束を取り付けられてから数日後のこと。子供達と米花デパートへのお出かけを明日に控えた週末の夜。阿笠邸のリビングにはコーヒーの芳醇な(こう)ばしい香りが漂っており、博士が夕食後の一服を楽しんでいた。

 キッチンで博士の分のコーヒーを淹れた灰原が、コーヒーパックと紅茶のティーパックを見比べながら、自身と伊吹の分の飲み物はどちらにしようかと小首を傾げる。

 キッチンから顔を覗かせても伊吹の姿はなく、彼に決めてもらうことも出来ない。自室かトイレにでも行っているのだろうと、彼女が手に持ったコーヒーと紅茶をキッチンカウンターに置いたとき、それは目に入った。

 一瞬それがなんなのか理解できなくて、思考が追いつくと今度は理解したくなくて。それでもそれは確かに彼女の視界の隅に鎮座していた。

 

「…………ッッーーッ!!」

 

 夕食後のゆったりとした時間が流れるいつもの阿笠邸に、少女の声にもならない悲鳴がこだました。

 

 

「どうしたッ!?」

「あ、哀くん!?」

 

 キッチンから聞こえてきたその少女の悲鳴に、ドアをぶち破る勢いでリビングに飛び込んできたのは伊吹。その激しさに扉の上の蝶番のネジは吹き飛び、ドアは半開きのまま斜めに傾き、か細い鳴き声を上げるようにキイキイと金属音を上げる。

 リビングのソファで寛ぎながらニュース番組を見ていた博士も脚がもつれそうになりながらも慌てて飛び上がる。

 キッチンの外には顔を青くして飛び出してきた灰原が身を縮こませ、自身の体を抱きしめるように腕を組み怯えた表情で佇んでいた。油の切れたブリキ人形のようにギギギと首を軋ませ、駆けつけた二人を見やる。

 

「ゴ、ゴ……、ゴキ……」

「ゴキ? ……あー、なんだ、ゴキブリか」

「名前を言わないで……!」

 

 辺りをキョロキョロと見回しながらそろそろと足音を殺して伊吹の側へとすり寄る灰原。目を離した隙に標的を逃してしまったのか、怯えた表情のまま彼の服の裾を引っ掴みせわしなく頭を振って周囲を警戒する。

 伊吹は半ば呆れたような声色で「悲鳴上げるから何事かと思ったら……」とあくび混じりに呟き頭を掻く。

 

「ビックリしてトイレ引っ込んじゃったよ。あ、博士いいね、俺も紅茶でも淹れよ」

「ちょっと! 信じらんない! ゴ、ゴキ……、得体の知れない生物が家の中をうろついてるのに、なに呑気に紅茶なんて飲もうとしてるのよ!」

「まあそりゃ普通に生活してたら出てくるよ、ゴキブ」

「名前を言わないで……!」

 

 伊吹は特に気にした様子もなくキッチンへと脚を踏み入れると、自身の分の紅茶を淹れる準備を進める。「哀もいる?」と尋ねる彼に、灰原はキッと目尻を吊り上げて「今それどころじゃないわ!」と声を荒げ、両の手を握りしめて訴えるように彼を見つめる。

 

「じゃあ、ちゃばねんとか?」

「やめて」

「ゆるキャラ的な」

「やめて」

「……まぁなんだ、そりゃ、()()も出てくるよ。仕方ないよ。ここ東京だよ? 人多いよ? お互いに歩み寄って生きていくしかないんだよ」

 

 自身と灰原の分の紅茶を淹れた伊吹がティーカップを両手にダイニングの椅子へと腰掛ける。彼女に片方のカップを差し出しながら自身の紅茶に口をつける伊吹。「あー……」と熱い紅茶が染み渡ると言わんばかりにうなり声を上げ、目を閉じて投げやりに灰原を諭した。

 

「冗談じゃないわ! ちゃんと掃除もしてゴミもこまめに捨ててるのに」

「じゃあ外から入ってきたのかもね。家にいなくても侵入されたりするんだよ」

 

 伊吹と会話をしながらも不意にバッと振り返り辺りを警戒する灰原。そんな彼女を尻目に伊吹は紅茶の味と香りを楽しみながらほっと一息吐く。

 

「だから何であなたはそんな落ち着いて紅茶を飲んでるのよ! 早く退治して!」

 

 眉間に皺を寄せ眉尻を吊り上げながら珍しく語気を荒げ取り乱す灰原に、伊吹も重い腰を上げ「仕方ないなぁ」と自身の履いていたスリッパを手に取る。

 

「ちょ、ちょっと、なにしてるのよ……?」

「え? 退治するんでしょ? だからこいつでスパンと」

「や、やめて、あなたの馬鹿力でそんなことしてもし体がバラバ……ラ……に」

 

 手首のスナップを効かせて風切り音を鳴らしながらスリッパを素振りする伊吹を慌てて止める灰原。自身の言葉の光景を想像してしまったのか、声のトーンが尻すぼみに沈んでいき、意気消沈してしまう。

 

「じゃあどうすんのさ」

「殺虫剤よ! 玄関の棚に殺虫剤があったはず、それ取ってきて!」

 

 ズバッと指を差して指示を飛ばす灰原に「へいへい」とやる気のない返事を残して伊吹が玄関の殺虫剤を取りに行く。

 彼が片手に持った殺虫剤の容量と使用期限をチェックしながら戻ってくると、中の溶液が混ざるようにスプレー缶を振りながらキョロキョロと辺りを見回した。しばらく辺りを捜索していた伊吹が標的を見つけると、すかさずスプレーのノズルを向ける。すると灰原が慌てたように待ったをかけた。

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 伊吹が「今度はなに」と呆れたように灰原を見やると、彼女はソファの背もたれの上へとよじ登り、その上で猫のように体を丸めて警戒する。()()が這い回る可能性のある床との接地面をできるだけ減らしたかったらしい。

 

「……いいわ」

「あ、はい」

 

 そんな姿のまま表情はいつもの澄まし顔の灰原。伊吹も最早なにも言うまいと、ちゃっちゃと対象を排除することにした。

 伊吹が遺体の事後処理まで済ませると、灰原は「ふう……」と一仕事終えたかのように一息吐いてソファから降りてくる。

 

「ッ!!」

 

 すると唐突に声にならない悲鳴を上げて自身の首の裏に手をあてがいながら振り返る。

 

「あるある。こういうとき何もないのに何かいるような気がするよね」

 

 伊吹の声も聞こえていないのか、灰原は周囲の警戒を怠らずキョロキョロと辺りを見回しながらダイニングの方へと後ずさる。

 

「ッ!?」

 

 テーブルの上に視線を落とした灰原がまたも声にならない声を上げて体をビクッと跳ねさせ、思わずその脚がテーブルを蹴っ飛ばしガタリと揺れた。

 

「大丈夫、大丈夫。これただの袋の切れ端だから」

 

 ()()()と見間違えた恐怖で動悸が荒くなってしまったのか、両手を胸の前で握りしめる灰原。伊吹はビクビクとする彼女を落ち着かせるように、しかしどこか愉快そうにそっとその柔らかい髪を撫でつけた。

 灰原は黙ったまま伊吹の服の裾を引き寄せ彼をしゃがませると、よじよじとその大きな背中によじ登る。伊吹が灰原を背負ったまま立ち上がると、彼女はその高くなった視点から部屋の中を注意深く見回した。

 

「……ふー……っ……!」

「まるで猫だな」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あの新しい入浴剤入れたの哀? 体からすごい甘い匂いしてなかなか落ちなかったんだけどー……って、いないし……」

「哀くんなら疲れたからもう寝る、だそうじゃ」

 

 お風呂上がりの伊吹が濡れた髪を首にかけたバスタオルでかき回すように拭き、自身腕の匂いを嗅ぎつつ灰原へ苦言を呈しながらリビングへ顔を出す。

 しかしそこに灰原の姿はなく、先程の阿笠邸もとい灰原を揺るがせた「Gショック事件」の後、すっかり意気消沈した灰原はさっさと入浴を済ませ、明日の米花デパートへのお出かけに備えてさっさと寝ようと重い足取りで自身の部屋へと引きこもってしまったらしい。

 伊吹が冷蔵庫から取り出した缶ジュースのプルタブを引くと、プシュッという炭酸の抜ける音に混じって自身の携帯のコール音が聞こえてきた。リビングのソファに放置していた携帯の画面を見ると、伊吹は眉をしかめて表情を曇らせる。

 携帯片手に缶ジュースを呷りしばらくコール音を無視していた伊吹だったが、相手に諦める様子がないと察すると渋々ながら通話ボタンに触れる。耳にあてがうと受話器の向こうから男性の甘い声色が聞こえてきた。

 

『早速で悪いんだが、例の約束を守ってくれないか』

「……何事ですか?」

『先日の約束の件だ。俺の家族に手を貸してほしい』

 

 電話の向こうから聞こえたのはチョーカー型変声器のスイッチを切った赤井秀一の声。受話器越しのその声からはいつもの余裕な雰囲気が醸し出されはていたが、その中に僅かな焦りの色が滲んでいるようだった。

 

「……状況は?」

『弟から俺に連絡が入ってな。夕方に真純が出かけてからホテルに戻ってきてないと、母から弟の方に連絡があったらしい』

 

 そう聞くと、伊吹はチラリと壁に掛けられた部屋の時計を見る。まだ深夜と呼べるほどではないが、女子高生が夕方から連絡も無しに一人歩きするには遅い時間だった。

 伊吹は面倒くさそうにまだ乾ききっていない髪をタオル越しに掻く。

 

「まあ年頃ですし、色々あるのでは? ボーイフレンドのとこにいるとか。そもそも彼女の腕前があればさほど心配する必要もないかと思われますが」

『……残念だな。今後君が米花町(そこ)を離れる必要が出来たとき、灰原(彼女)は一人ぼっちでさぞ心細いだろう』

「……分かりました。冗談です、約束は守ります」

 

 詳しく、といっても詳細の調査も込みで振られてしまったためあまり細かくは聞けなかったが、一通り話を聞いた伊吹が溜め息と共に通話を切る。そろりと振り返ってリビングから地下室へ繋がる階段を覗く。どうやら自室に引きこもっているあくび娘には聞かれていないようだ。

 携帯をソファへと投げ捨てた伊吹が、自身の髪をタオルで荒々しく拭き取りながら自室へと戻ると、先程までの寝間着代わりのラフなスウェットから外出用の服に着替える。

 

「どこかへ出かけるのか伊吹くん」

「……ちょっと野暮用でね」

 

 伊吹の格好を見た博士がそう言うと、伊吹は自身の口元に手を指を添え「しー」とジェスチャーする。灰原に聞かれていない事を確認して、伊吹は困ったように肩をすくめ嘆息を零す。

 

「こんな時間にかの?」

「……まあ、できるだけ早く帰るよ。明日もあるし」

 

 伊吹が小声で話すと、釣られるように博士も声のボリュームを落とす。彼の態度から灰原に内緒で出かけるであろう事は容易に想像がついた。

 しかし万が一にでも彼が黙って行き先も告げずに出て行った事を彼女に知られてしまうと自分が問い詰められかねないと、博士も慌てて伊吹を止める。

 

「しかし、哀くんが来たら……」

「そのときは、()()()()()()とかなんとか言ったら多分部屋から出ないと思うから、頼むよ博士」

 

 伊吹はよろしくとウィンク一つ残して博士の肩を叩くと、そっと玄関のドアを開けて夜の街へと出かけていった。マフラーを震わす重低音が聞こえないのを考えると、ご丁寧にもわざわざバイクを手で押して阿笠邸から少し離れたところでエンジンをかけたようだ。

 

「ま、参ったのぉ……」

 

 リビングに一人残された博士から思わず深い溜め息が漏れ出す。げんなりと肩を落としながら、「どうか哀くんがこのまま朝まで眠っててくれますように」と地下室に祈りを捧げるのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「さて、ここでいいのかな」

 

 都内某所。伊吹は星空に吸い込まれそうなほどに高いホテルの足下から、その上層階の客室を見上げていた。

 真純を探そうにも全く見当がつかないと話にならない。そこで伊吹は改めて赤井やコナンへと連絡を取り、現在彼女が宿泊しているホテルの場所を聞き出していた。もっともコナンには説明が面倒なのでその理由などは省いたが。

 そして赤井を介して彼の弟である羽田秀吉からホテルの部屋番号まで聞き出していた伊吹。

 

「そこまでわかるならあなたが行けば」

『言っただろう。俺はまだ顔を出せないんだ、彼女たちの前にはな』

 

 という問答を交わしながら、伊吹は「はいはい」と、当たりをつけた部屋の窓を見上げる。

 遙か高層の窓際では、カーテンと窓こそ閉め切られてはいるものの、間接照明だろうか薄ぼんやりとオレンジ色の明かりが灯されていた。

 伊吹がバイクを止めるとホテルのロビーへと入りフロントに声をかける。

 

「失礼。友人を訪ねてきたんですが、903号室の……世良さんに電話を繋げませんか? 携帯に連絡を入れても応答がなくて」

 

 そう言ってきたのは筋骨隆々で古傷だらけのいかにも怪しい男だったが、こちらが教えていなくても部屋番号や宿泊客の名前を知っていたことから、フロント係も電話一本くらいならと彼の要求を承諾した。

 

「少々お待ちください」

 

 もといその威圧感を前に、極力関わりたくなかったのかもしれない。

 

「……お客様は呼び出しに応答されませんね」

「……。そうですか、では結構です。わざわざありがとうございました。……()()()()()を考えます」

 

 そう言い残すと迷いなく踵を返す伊吹。

 

「こちらにお名前を教えていただければ、後でお客様のお部屋にご連絡を……って、あれ?」

 

 フロント係の男が一瞬目を離した隙に、まるで幻だったのかと錯覚してしまいそうなくらいに自然に、影も形も音もなく彼の姿はどこにもなかった。

 フロント係の「……別のやり方……?」という小さな問いかけだけががらんとした広いロビーに取り残された。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「危ないことはするなって言われたばかりなんだけどなぁ……」

 

 強烈な横風が彼を吹き飛ばさんが如く吹き荒れる。そこから見える夜景はこんな状況じゃなければさぞ美しく見えたことだろう。

 伊吹が今居るのは例のホテルの9階フロア、その壁面である。真っ正面から部屋を尋ねても相手にされないことは承知の上。

 伊吹は夜闇にその体躯を溶かし、ホテルの窓を伝い客室のバルコニーを飛び移りながらその壁面をよじ登っていく。

 強烈な横風に吹かれようともその巨躯はビクともせず、髪を靡かせながら灰原に言われたことを思い出しついついぼやいてしまう。

 

「……読まれてる、か」

 

 それに気がついたのは目的地である903号室の隣室、902号室のバルコニーに音もなく降り立ったときだった。ぼんやりと灯っていたはずの間接照明の明かりは消え、903号室は闇に包まれていた。そしてその窓は開け放たれ、風に誘い出されるようにカーテンが大きく靡いていた。

 伊吹が細心の注意を払い903号室のバルコニーへと侵入する。住人が先制で仕掛けてくる様子はない。

 伊吹が目くらましのように視界を塞ぐカーテンを振り払うと同時に室内へと一歩踏み入れた。

 

「ッ……!」

 

 照明が消された部屋は薄暗く、窓から差し込む月光のみが頼りとなる。その月明かりに伊吹の大きな巨影が落とされた。それと同時に何かが風切り音を伴いながら彼の右から差し迫ってくる。

 暗闇から迫るそれが何か正確には把握できなかったが、瞬時に伊吹の眼光は鋭く研ぎ澄まされ鈍く輝く。

 身を低く室内に侵入した伊吹が立ち上がり様に、迫ってくる何かを払うように右の裏拳を振り抜く。

 

「痛っ……」

 

 ガラスの砕ける甲高い破裂音、そして木材と金属のひしゃげる鈍い音が室内に反響する。己が砕いたものが間接照明のスタンドライトだと理解したのは、その電球の破片が拳に突き刺さる痛みを伴ってのことだった。

 暗闇からふわりとシャンプー混じりのいい香りが鼻腔をくすぐったかと思うと、素早い影が疾風の如く駆け抜けた。その小さな影が駆けてきた勢いそのままに踏み込んだかと思うと、振り抜かれ伸びきった伊吹の太い右の腕に絡まるようにしがみつく。

 恐らく相手の腕に右手首を取られた。二の腕を股に挟み込み、細い脚が胸元と首元を押さえ込むように伸ばされる。

 空中でも見事なまでに腕を極めてくる技術。走る勢いと体重を乗せた飛びつきを利用し、全身を使ってこのまま転倒させる狙いか。腕一本容易にへし折れるであろう見事な空中での腕ひしぎ十字固めだった。

 

「……ッ!?」

 

 しかし飛びついたその人物にとって予想外だったのは、相手の腕が予想以上に太く自身の脚では抑えきれないほどの筋骨と体躯だったこと。そしてビクともしない体幹と膂力。

 それでも数十キロはある自身の体重に助走をつけた上で飛びついたのだ。並の相手ならば例え成人男性であろうと、()()()()()()()()()()()()程度であればそのまま転倒させるくらいは訳ないはず。しかし、この標的の肉体は()()どころではなかった。

 飛びつかれ傾きかけた伊吹の身体がピタリと制止する。

 

「ぅラァッ……!」

「なっ……!? くっ……!」

 

 上半身を仰け反らしながらもその恐ろしい程の脚力と体幹で踏ん張る伊吹。

 彼の腕にしがみついたまま制止する相手の肉体をふわりと浮遊感が包んだ。

 持っていかれそうになった右腕をその力業で無理矢理振りかぶる伊吹が、腕に絡みついた者を投げ飛ばすように振り抜いた。その強烈な遠心力に思わず拘束を解いてしまった人物はベッドへと放り出され、クッションの上で咄嗟に受け身を取る。

 開け放たれた窓から吹き込む夜風にカーテンが再び舞い、差し込む白い月明かりが影を揺らしながらベッドの上の少女の横顔を照らし出した。伊吹の目的である、メアリー世良その人である。

 

「……っ」

「……」

 

 一瞬の沈黙が二人を包み、風に吹かれはためくカーテンの音とスタンドライトの破片が零れ落ちる音だけが聞こえた。

 彼女の姿に一瞬驚いたように目を見開いた伊吹だったが、何かを察するように再びその眼光を鋭く研ぎ澄ます。

 メアリーもまた逡巡していた。目の前の男が何者なのかということ。そしてその戦闘能力について。

 初手の不意打ちを逃した事が酷く悔やまれる。この戦闘スキルに体格差、そして圧倒的筋力差は致命的。あの怪腕に捕まりでもすればひとたまりもない。

 逡巡するメアリーがチラリとベッド脇のナイトテーブルへと視線を移す。視界の隅には確かに一本のペティナイフが見えた。しかし問題は目の前のこの男が、こちらがナイフに手を伸ばすのを黙って見ているはずがない。一瞬でも隙が出来さえすれば――

 

「私の目的――」

「ッ!」

 

 伊吹が沈黙を破りその拳を解いて彼女へと手を差し出そうとしたその瞬間、メアリーは即座にペティナイフを逆手に拾い上げ伊吹へと駆け出した。

 まるでジャガーかチーターか、ネコ科の獣のようにしなやかな動きで素早く伊吹の懐へと潜り込むメアリー。問答無用、いや問答はこちらが場を制してからだと言わんばかりに、迷いなくそのナイフを振り上げる。

 咄嗟に半歩退いて身を躱す伊吹の右手に薄らと赤い線が走る。一瞬でも反応が遅れていれば指くらいは持って行かれていたであろう一撃に伊吹の表情も曇る。

 

「だからッ……!」

 

 逆手で突き刺そうとナイフを振り下ろすメアリーの返しの刃を更に一歩引いて躱す。その巧みなナイフ捌きは簡単に腕を抑えさせてはくれない。伊吹の実力を把握した絶妙な距離感のヒットアンドアウェイの前ではその身体を捕らえる事も容易ではなかった。

 腱、腹部、頸動脈、下から上へと舐め上げるようにしなやかに、されど竜巻のように激しく巻き上がってくるナイフ捌き。それは一撃入れば相手を制する事が出来る致命的箇所をピンポイントで狙ってくる。

 しかし、完璧な狙いだからこそ伊吹もまた太刀筋を読み取り、その流れるような連撃を薄皮一枚で捌いていく。

 

「うぉッ……と!」

「チッ……!」

 

 伊吹にナイフの連撃を躱されるやいなや、迷いなく彼の股間を蹴り上げるメアリー。スナップの効いた鞭のようにしなやかで強烈な蹴り上げ。伊吹も咄嗟に自身の右足を折りたたむように曲げ、その甲で彼女の一撃を防御する。

 その反応速度に思わず舌を打つメアリーが、片足立ちとなった伊吹にナイフの追撃をお見舞いする。再び逆手に持ったナイフで彼の腹部めがけて突き刺すように振り下ろした。

 

「ああッ、クソッ……!」

「な、にッ……!?」

 

 面倒くせえ、そう言いたげに舌を鳴らす伊吹の大きく頑強な左手がメアリーのナイフの刃を鷲掴んだ。それは予想外だったのか、軽やかに動き回っていたメアリーの身体も思わず制止する。

 刃が掌を傷つけ指の隙間から漏れた赤い液体が床を叩く。一瞬、面食らってしまったメアリーだったが即座にその鋭い眼光で再び伊吹を捕らえる。致し方なし、その瞳は言外にそう語っていた。

 メアリ-はナイフを掴む自身の右手首を左の手で鷲掴み、伊吹の指を落とすために両手の力一杯に素早くナイフを引き抜く。

 

「ッ!?」

 

 しかしナイフはビクともしない。なんという握力、驚愕する彼女を余所に、伊吹は刃掴む左手の親指をその刃面に添える。彼の左前腕を中心に筋肉が盛り上がったかと思うと、その刃は冷えたチョコレート菓子の様にあっけない音を立てて容易くへし折れた。

 咄嗟にナイフを手放し距離を取ろうとするメアリーに迫る鬼の如き(かいな)。その右腕に胸ぐらを捕らえられたメアリーの身体に加わる強烈な加速。

 叩きつけられる、そう理解したメアリーが自身の頭部を守るように受け身の体勢を取ると、彼女の背に触れたのは予想よりも柔らかな感触。メアリーを捕らえた伊吹は彼女を再びベッドへと叩きつけるように押さえ込んだ。彼女が苦しくない程度に、しかしその強靱な腕に力を込め決して逃れられないように。

 

「聞いて下さい……。私は、あなたの、敵じゃない」

 

 右腕でメアリーを押さえ込み、左手の人差し指を彼女に向け言い聞かせるように囁く伊吹。その指先から滴る赤い液体が彼女の白い頬に紅を差した。

 

「はぁ、はぁ……げほっ、はぁ……けほっ」

 

 頬に落ちた生ぬるい液体が耳へと垂れてくるのはなんとも不快だった。しかしそれを拭う事も億劫なほどの疲労感が彼女の身体を包む。

 胸元を押さえる彼の怪腕はビクともせず、純粋な力比べでは離脱できない事を当に理解しているメアリーも無駄な抵抗はせずに息を整え体力の回復を図る。

 

「……けほっ、……そんな、息を荒げて、ベッドに連れ込むな……。ベッドインにしては……っ、はぁ、少々強引で力業が過ぎるな……、けほっ、はぁ、はぁ……」

「誤解を生むような言い方はやめてください」

 

 彼女の軽口に伊吹はそっとその押さえ込む右腕から力を抜く。次の瞬間にでも飛びかかってきそうな彼女に両の手を向けながら、警戒するようにそっと後ずさりで距離を取る。

 咳き込みながら少し激しく肩で息をする彼女はベッドに寝転んだまま起き上がる気配はなかった。

 

「もう一度言います。私はあなたの敵じゃない」

「……」

 

 寝転んだまま少し首を傾け伊吹を横目に見ながら自身の頬を伝う彼の血を拭うメアリー。深呼吸で息を整えると、気怠そうにむくりと身体を起こす。

 

「……わかっている。私を殺す気ならば、その機会は何度かあったはずだ……」

 

 敵視する眼光は消えたものの、未だ疑うような眼差しで伊吹を見やるメアリー。

 伊吹も小さく嘆息すると、疲れたといわんばかりにだらりと腕を下ろした。

 

「端的に言います。あなたの……、娘さんの事で、必要であれば手を貸しに来ました。不要だと言うならば帰ります」

「ッ……! ……なるほど。貴様が、()()()か……」

 

 伊吹は一瞬躊躇したものの、彼女に対しとぼけることなく真純の事を娘と断じた。

 その発言に今度はメアリーが驚愕に目を見開くも、なにか得心したのか、確認するように眉をしかめて伊吹を見つめた。

 

「改めて、こんばんは、()()()()()()()()()さん」

 

 そちらの素性は把握している、伊吹の言葉の真意をメアリーも理解する。彼女の質問に関しては肯定も否定も返す様子はない。

 

「詳しい自己紹介はやめましょう。お互いの不利益になりそうですので」

「……私のこの姿を見て疑問を持たぬということは、やはり貴様が行動を共にしているという例の少女は――」

「その質問は意味がない。私が何を言ってもあなたは信じないし、そもそも私は何も答えない。不毛な問答です」

 

 お互いの腹を探り合うように影の中で絡みつく二人の視線。

 

「……何をどう推察しようとあなたの勝手、ご自由に。重要なのは一点、私はとある人物に頼まれてあなたとあなたの娘さんの安否を確認しにここまで来ました」

 

 伊吹の言葉に耳を傾けながら乱れた自身の寝間着を整え、かき上げるように髪に手櫛を通すメアリー。

 

「少なくとも今は、あなたの味方と言うことです。信じるか否かはお任せしますが」

「……」

 

 メアリーの遠慮のない疑惑の視線が伊吹を貫く。その眼光はまるで暗闇に怪しく光る猫の目のように鋭く妖艶で、伊吹の心中を覗き込むかのようだった。

 

「……そして娘さんはここにはいない。何かあったのかは分かりませんが、必要であれば捜索及び救出に手を貸します」

 

 伊吹が彼女の怪しい視線を遮るように血にまみれた左手の平を突き出す。

 

「余計な質問は無しです。とある人物というのが誰かというのも答えません」

 

 ――私も必要以上にあなた達家族のごたごたに首を突っ込みたくはない――

 伊吹が発しかけた言葉を飲み込むように小さく頭を振った。

 

「どうしますか。私を利用しますか、それとも帰しますか?」

「…………いいだろう、その腕には利用価値がある。今はお前を利用し、まずは……娘の安否を確かめる」

 

 僅かな沈黙と逡巡の後、メアリーは小さな嘆息混じりにそう吐き捨てる。「では、よろしくお願いします」と左手を差し出した伊吹だったが、その手の平が血で汚れている事に気がつくと、困ったように笑いながらすかさず右の手を差し出した。

 彼の妙な紳士的態度にメアリーも思わず嘆息を零し、その手をとる。少しだけ彼女の表情が和らいだ気がした。

 

「尋問するか、あるいは……。それは後で考えることにする」

「怖いなぁ……」

 

 伊吹の手を握るメアリーがその手にぐっと力を込め、その翡翠と琥珀を思わせる緑がかったイエローゴールドの双眸で伊吹の瞳を見上げる。つかみ合ったこの状態なら自身の方が優位なはずなのに、そのどこか挑戦的で、鉄のように強固な意思を感じる視線に晒され伊吹は思わず背中に冷たいものを感じた。

 

「お客様、大丈夫ですか? どうかなさいましたか?」

 

 部屋のドアをノックする音と共に、扉越しのくぐもったボーイの声がかけられる。改めて部屋の様子を見回した伊吹が頭を掻きながら「まぁ、これだけ暴れたら、ね」と小さく呟いた。

 息を整えたメアリーが扉を開けることなく、「大丈夫だ」とドア越しに端的に答える。

 

「そ、そうですか。それと、先程お客様に取り次ぐようにとフロントにお見えになられた方がいらっしゃいましたが……、一度お部屋の方にお電話をさせて頂いたのですか……」

「ああ、それも大丈夫だ。……もう会ったからな」

「へ?」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「それで、娘さんの所在の心当たりは?」

「……夕飯の買い出しに出たきりだ」

 

 アメニティのタオルを濡らして握り込み自身の手の平を止血しながら、砕けたスタンドライトの破片を片付ける伊吹。

 メアリーがチラリと警戒するように外を覗いてから、開け放っていた窓とカーテンを閉める。

 

「どちらまで?」

「……死ぬほどうまい、ラーメンとかなんとか言っていたな

「ああ、閻魔大王ラーメンのところですね」

 

 自身の小さな顎に手を当て思考を巡らし真純との会話を思い返すメアリー。伊吹は彼女の零した“死ぬほどうまい”という言葉だけでピンときたようで、部屋の照明を点けながら年季の入ったラーメン屋の外観を思い出す。

 伊吹が携帯を取り出すと数回操作を行い、心当たりのあるラーメン屋に電話をかける。

 

「あ、おじさん、萩原ですけど」

『おー、マッチョの(あん)ちゃんかい。どしたい?』

 

 伊吹が名乗ると携帯の向こうのしゃがれた声の主もすぐに分かったようで、伊吹も常連として通っているようだ。

 

『お、電話ってこたぁまた“超特製特盛りマジでやばいスペシャル閻魔大王ラーメンセット”の予約かい?』

「あ、いや、今日はそうじゃなくて」

『じゃあ、あの嬢ちゃんと来るのかい?』

「いや、そうでもなくて……。と言うかおじさん、俺が超特製特盛りスペシャル食ってること哀にはくれぐれも内緒でね。カロリー摂り過ぎって怒られるから……」

『へへへ、いかつい見てくれの割にゃあ、あの嬢ちゃんに頭上がんねえな』

 

 電話向こうのラーメン屋の店主の言葉に、伊吹は思わず声を押し殺して懇願するように店主へと釘を刺し頭を下げる。超特製なんとかは彼の健康を気遣う灰原の目を盗んでの、彼のささやかな楽しみらしい。

 店主もまた電話向こうの大男が背を丸めてお願いする姿を容易に想像できて思わず笑いが込み上げ、伊吹は「ははは……」と乾いた笑いを零す。

 

「あ、えっと、聞きたいのは今日ある客が来なかったかなんだけど」

 

 伊吹と店主の談笑に業を煮やしたように、メアリーが腕を組んで伊吹の前で仁王立つ。なにも口にはしないものの、その目は口ほどにものを言っていた。伊吹は慌てて本題へと戻る。

 

『どんな客で?』

「あの()、癖っ毛のショートカットに八重歯がキュートな……」

 

 伊吹がチラリとメアリーを横目に確認する。少し逡巡したものの、伊吹は構わず店主へと尋ねた。

 

「おじさんがマリちゃんって呼んでる()ですよ」

 

 伊吹の言葉にメアリーも一瞬眉をしかめたものの、深く追求することはなかった。

 

「……来てない。そうですか、ありがとうございます。……ええ、また行きますので。くれぐれも特盛りスペシャルのことは……、はい、では」

 

 電話のやりとりを聞いていたメアリーが、伊吹が電話を切ると同時に口を開く。

 

「と言うことは、道中で何かあったな」

「ここからラーメン屋のルートとなると恐らくは……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「この道ですね」

 

 辺りはもう既にシャッターを下ろしている店も多い。空には街灯りにかき消されながらも僅かに瞬く星の光。すっかり車通りの少ない通りには人影も見当たらず、唯一浮かび上がる影は大男と美少女のシルエットのみ。

 少し離れた大通りを抜けていく車のクラクションが遠くから聞こえてくる。

 

「で、私一人でもよかったんですけど。ついて来られますか?」

「私はまだ貴様を信用しきっている訳ではないのでな」

「……然様で」

 

 伊吹を見るでもなく道の奥へと鋭い視線を向けながらぴしゃりと冷たく言い放つメアリー。その態度に苦笑いを浮かべながら頬を掻く伊吹が、彼女を横目に困ったように呟く。

 

「最低限の変装はして下さいね。時間が時間ですが、万が一にもあなたと一緒にいるところを見られるのはまずいので、色んな意味で」

 

 彼の言葉にメアリーは黙したまま、上着の胸ポケットに差し込んでいた黒縁の伊達眼鏡をかけ、そのプラチナの髪に映えるキャメル色のキャスケットを被る。

 これでいいかと横目に伊吹を見やると、彼は眉を垂れ未だ困ったような表情で頭を掻いた。

 

「大丈夫かな、どう見ても普通の中学生ですよ。こんな時間に私みたいな見てくれの男がこんな金髪美少女を引き連れていたら――」

「君、ちょっといいかな」

「……ほら、こうなりますよね」

 

 夜も更け点々と灯る街灯が頼りなく灯る薄暗い通り。堅気には見えない男が年端もいかない外国人の美少女と連れ立っているものだから嫌でも目を引いてしまう。偶然にも通りかかった警邏中の警察官にも当然のように呼び止められてしまった。

 そっと腰を屈めメアリーの耳元に口を寄せた伊吹が手短にそっと囁く。

 

「無駄な時間を取られるわけにはいきませんし、下手に探られると私もあなたも困るでしょう。ここはどうか――……」

「…………っ、……仕方あるまい……」

 

 小声で何かを提案する伊吹に対し、苦虫を噛みつぶしたかのように眉間に皺を寄せ一瞬の逡巡と共に渋々承諾するメアリー。

 

「人は見かけじゃないけどねぇ、おじさん達は見かけで判断するしかないんだよ」

 

 朗らかな笑みを浮かべて声をかけてくるのは壮年の警察官。ベテランであろう彼の後ろにはまだ若い警察官が控えており、その鋭い視線で二人を捕らえる。

 

「気を悪くしないでね。ほら、君凄い体してるし、その傷跡とかも、ねえ。ちょっと一般人離れしてる感じがしてさ」

「ああ、この傷跡は昔事故に遭いまして、その時に。体は普段から鍛えてるもので」

 

 同じく柔和な笑みを湛えて朗らかに警官と言葉を交わす伊吹。後ろで腕を組むメアリーはそっと帽子を深く被り伊吹の後ろに一歩下がり、若い警官からの視線を躱す。

 

「そうなんだ。いやー、ここ最近暴力団関係の事件も多くてね。一応、ね」

「身分証などありますか?」

 

 そう言う壮年の警察官は変わらず笑みを浮かべているものの、その視線は微かに鋭さを帯びる。彼の意図を汲み取ってか、控えていた若い警察官が割って入る。

 ああ、面倒くさい。などという感情はおくびにも出さず、伊吹は自身の財布から快く学生証を取り出した。

 

「へー、東都外国語大学の学生さんね」

 

 壮年の警察官は差し出された学生証と伊吹の顔を何度か繰り返し見つめた後、どこか訝しがるような視線をメアリーへと向ける。メアリーはそっと帽子のつばを下げる。

 

「そちらのお嬢ちゃんは?」

「えっと、この子は親戚の子で」

「…………」

「親戚、ねぇ」

「ええ、ちょっと人見知りで」

 

 警察官二人の懐疑的な視線と、伊吹の少し困ったような嘆願するようなアイコンタクトがメアリーを捕らえる。

 出来ることならば関わらずにこの場を抜け出したかったメアリーだったが、彼らの視線に晒され、聞こえない程に小さく舌を打った。

 致し方あるまい、と嘆息を零したメアリーがそっとキャップのつばを持ち上げ、上目遣いに伊吹を見上げた。

 

「は、早く行く、……い……行こう、よ、……お、……お、兄ちゃん」

 

 その不服そうな半眼をどこか恥ずかしげに泳がせるメアリー。思わず口元に手を当て顔を背ける伊吹は、込み上げる笑いを堪えているようにも見えた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「助かりました。随分と可愛らしかったですね」

「……二度とやらん」

 

 なんとか警官の職務質問を切り抜けた二人だったが、愉快そうに笑ってしまう伊吹に対してメアリーの視線は凍てつくような冷たさを帯びていた。

 静かに怒れる彼女を宥めつつ路地の奥へと顔を覗かせる伊吹。すると何かを見つけたのかその足を止め、後ろを歩いていたメアリーが声をかける。

 

「どうした?」

 

 路地の奥を見つめながら動かない伊吹に、メアリーもそっと顔を覗かせる。

 

「あのビル、ついこの前までテナント募集がかかってたんですけどね」

「普通に考えれば、ただ新しい業者が入っただけと見えるな。……だが」

「ええ、どうにも()()()()

 

 路地の壁を背に微かに顔を覗かせる伊吹と、その彼に隠れながら同じく覗き込むメアリー。

 彼らの視線の先に建つ古ぼけたビルは先日まで使用されていなかったらしいが、今はぽつぽつと電気の灯った部屋が散見される。

 なにより怪しいのは、先程から作業着を着込んだ男二人がビルの前でタバコ片手に突っ立っているところだ。吸い終わった吸い殻を踏み消し、二本目三本目へと手を伸ばす。仕事の合間のタバコ休憩というわけでもなさそうで、そこに突っ立っている事が目的に思えた。

 

「見張り、ですね」

「ただの業者が、か?」

 

 確信めいて呟く伊吹に、メアリーが微かな溜め息交じりに返す。どこぞの業者になりすました目の前の男達のずさんな警備体制に少し呆れているようだ。

 

「ただの業者じゃ、ないんでしょうね」

 

 携帯でその作業着を着込んだ男達が掲げる企業名を調べるも、ヒットする情報は見つからない。

 携帯をポケットへとしまいながら伊吹が親指でビルを指差した。

 

「好奇心の強い彼女のことです、不用意に首を突っ込んで巻き込まれたパターンかと。十中八九、ここだと思いますけど」

 

 伊吹の言う通りこのビルとあの見張りの業者は限りなく怪しい。しかし、こいつらが法に触れる集団だったとしても真純とは無関係の可能性もある。外れを相手にしている暇はない。

 メアリーが顎に手を当てしばし逡巡していると、その思考を寸断するかのように何かの砕けるような甲高い破壊音がビルの上階から聞こえてきた。

 砕けたガラス片がアスファルトを叩くよりも早く、二人はビル上階の部屋の窓が割れたのだと察知する。

 彼らの視線の先で地面に叩きつけられたガラス片が更に細かく砕けると、耳を劈くその音に混じって何やら気の抜ける、カポンッという太鼓のような音が聞こえた。

 その音の正体がビル上階から振ってきたブラウンカラーのチャッカ・ブーツだという事は、鍛え抜かれた二人の眼力をもってすればこの薄暗い暗闇の中でも容易に把握できた。

 しかし、なぜそんな物が振ってきたのかと訝しげにビルを見上げる伊吹に対し、そのレディースのシューズに見覚えがあるメアリーからは表情がすっと抜け落ち、その眼光が研ぎ澄まされる。

 

「靴?」

「真純のものだッ――」

 

 そう吐き捨てるとメアリーは即座に路地から駆け出す。彼女の言葉になにも聞き返すことなく、伊吹もその眼光を鋭く研ぎ澄まし鈍い光を灯す。彼女の横に並ぶように身を低くその巨躯で疾走する。

 

「右をッ……!」

「左だッ――!」

 

 ()()()、そんなこと確認するまでもないと言うように、二人は一言だけ交わす。ビル入り口に突っ立ったまま突如割れた窓に困惑する、もっともなんの音なのかも理解が追いついていないかもしれない見張りの男達。

 身を乗り出しビルを見上げる男達は背後から音もなく迫る危機に未だ気がつく様子はない。

 

「「――ッ……!」」

 

 伊吹が向かって右側に立つ男の首へ背後から腕を回すと、その太い怪腕で男の体を木の葉のように舞上げる。音が鳴らぬよう地面に叩きつける前に急減速させると、男はそのまま眠るかのように意識を刈り取られた。一瞬の締め上げとぶん回す急加減速による強烈な重力を利用して男の酸素供給を遮断したらしい。

 メアリーは向かって左側の男に対し、背後から容赦の無い急所への蹴り上げを見舞う。呻き声すら上げられない男が思わず身を屈めると、その下がった顎に対して横から振り抜くように渾身の掌底を見舞う。男は自身を襲う悶絶ものの痛みすらも忘れるかのように、いとも容易くその意識を手放した。

 

「これを」

「?」

 

 伊吹がポケットから取り出したのは包装された大きめの黒いマスクだった。彼女にそれを手渡すと伊吹自身は大きな黒い帽子を顔まで覆うように被る。目元が切り取られたそれは即席のいわゆる目出し帽だ。

 

「万が一に備えて、さっき立ち寄ったコンビニで買っておきました。あなたは()()()()()嫌がるかと思いまして」

 

 目出し帽を被った伊吹がくぐもった声で自身の顔を指差す。その大きな体格に目出し帽の姿はあまりにも怪しく犯罪者臭が漂っていた。

 

「それに、あなたの顔を見ていると、どうにも私も()()()()()……」

 

 彼女の知的でクールな横顔が誰かと重なるのか、伊吹は視線を逸らして頬を掻きながらボソリと零す。

 どこか呆れるような半眼で彼を横目に見ながらも、メアリーは渡されたマスクを装着する。子供用でも女性用でもないそれは彼女の小さな顔を隠すには十分で、伊達眼鏡とキャップと相まってその顔を識別することは難しい。

 

「目出し帽とは、相変わらず、合衆国(ステイツ)の連中は品が無いな」

「……どうしました? 紅茶(葉っぱ)の効果が切れましたか? 英国人は定期的に摂取しないとイライラするそうで。顔にフィットして視認性が高く、シンプルに顔を隠せる。目出し帽は合理的なアイテムですよ」

 

 二人がお互いに悪態を吐きながら身を隠し、ガラス戸の入り口から中を覗き込む。中ではスーツ姿や作業着を着込んだ男達が何やら騒がしく浮き足立っていた。

 幸い二人の音も無い早業に、中の連中も見張りが伸された事には気がついていないようだ。

 

「あのタイミングでの靴の落下です。偶然にしては出来過ぎています。恐らく、あの部屋に監禁されている娘さんが窓からあなたを見つけての救援要請でしょう」

 

 ビル内を中を覗き込み、その構造や相手の人数などを把握しつつ淡々と告げる伊吹。それは相手に教えると言うよりも、念のための確認作業と行った具合だった。

 

「派手に窓が割れましたからね。中も何事かと浮き足立っている。この機に乗じて正面突破の最短最速で突っ切るというのはいかがですか」

「構わんが、足を引っ張るなよ」

「……言ってくれますね」

 

 中の様子を窺いながら彼の方を見るでもなく刺すような一言を零すメアリーに、伊吹も思わず苦笑いを浮かべる。

 作戦は決まったようで、出入り口の左右に身を隠す。二人が視線を合わせると、ハンドサインで互いに意思疎通を図り、伊吹の指の合図でドアを蹴破る勢いで素早く強襲をかける。

 

「あ? なんだおまウェッ――」

 

 二人の存在に気がついた男の理解が追いつくよりも素早く、伊吹の掌底がその顎を打ち抜き意識を刈り取る。糸が切れた人形のように力無くガクンと膝をつく男。奥には目を点にしながらその様子を見ている別の作業着の男達の姿が。

 ぽかんと口を半開きにし思考が追いついていない様子の彼らだったが、眼前の倒れ込む仲間と目出し帽で顔を隠した大男の姿を前に少しずつ頭が回転していく。

 目の前の男の目出し帽から除くその鋭い眼光は常軌を逸しており、なぜかその傍らには子供の姿が。先程聞こえてきた窓の割れる破砕音といい、何がなんだかよく分からない状況ではあるが、とりあえずこいつは敵であると。

 スーツを着込んだ男のこめかみがピクリと引きつる。

 

「ヤレェッ!」

 

 男の一括が飛ぶやいなや、作業着を着込んだ男達が伊吹達へと駆け出した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんだか、外が騒がしくなってきたような……」

 

 痺れの残る体に鞭を打ちなんとか窓を蹴破り靴を落とした真純だったが、やはり自由に動き回れる状態ではないらしく、再びその薄暗い部屋の中で倒れ込んでいた。

 自身が窓を蹴破ってから、部屋の外からは複数の人間の走り回る音や焦るような騒ぎ声が聞こえてくる。

 

「大丈夫かな、ママ……」

 

 思わず真純もどこか心配そうに眉を顰め、割れた窓から覗き込む青白い月を見上げながらポツリと呟いた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「な、なんだ、なんでガキがこんなところに――ウブゥッ!?」

 

 通路の奥に見慣れぬ子供の姿、当然のように困惑する男。思わず立ち尽くす男の横から迫るは巨石のような拳。顎が横にずれるように外れ、激しく揺らされる脳は頭蓋の中で暴れ回り電源が切れたテレビのように男の視界は暗転する。

 

「その幼い姿は囮に使えますね」

「……」

 

 うんうんと頷きながら合流する伊吹に冷めた視線を浴びせるメアリー。その冷たい半眼にまた誰かを思い出してしまったようで、思わず苦笑いで目を泳がせる伊吹。

 

「いたぞッ! アイツらだッ!」

 

 上から降ってくる声に見上げれば、吹き抜けとなっている二階の通路から顔を覗かせる男の姿。腰ほどの高さの手すりから身を乗り出しこちらを指差す男と、その横で無線機片手にどこかと通信をする男が。

 

「昇降機ッ!」

 

 二階のその男達の姿を確認するや、伊吹はそう叫ぶと、足下に乱雑に放置されていた虎柄のロープをメアリーへと放り投げ駆け出す。

 こちらに飛来するそれを思わず掴み取るメアリー。最初は伊吹の言葉の意味が分からなかったが、彼が男達のちょうど真下に来る位置でこちらへと振り返り、バレーボールのレシーバーのように両手を組み膝を軽く曲げ構えたところでその意味を察した。

 

「ゥルァッ――!」

 

 ロープを引っ掴んだまま伊吹へと駆け出すメアリーが駆け抜ける勢いのまま彼の組んだ両手に飛び乗ると、伊吹は全身の筋骨を躍動させ両腕を振り抜くようにメアリーを上方へと跳ね上げた。メアリーもまた彼の力に合わせるようにその手の中から飛び出す。

 

「……は……?」

 

 男達がそんな間の抜けた声を上げたのも無理は無い。さあ今から下に降りてとっ捕まえてやろう思っていた相手が唐突に眼前に現れたのだ。階段も何もない、下から数メートルはあるはずの目の前にだ。

 深く被った帽子と大きなマスクの隙間、伊達眼鏡の奥にほんの微かに見えた少女の女豹のような眼光に臆するのも束の間、少女は二階の手すりにトンッと軽く降り立ち、手すりの隙間から通したロープを男達の体へと絡ませる。

 なにしてる、呆気にとられる男達がそう声に出すよりも早く、細い手すりの上を軽業のように舞う少女の蹴撃が男達の側頭部を打ち抜いた。

 その一撃に意識を刈り取られた男達は干された布団のようにだらりと手すりへ引っかかる。するとメアリーはその男二人の後ろ襟首を引っ掴み、男達ごと後ろへと倒れ込むように下へと落下していく。手すりが低く、男達の重心も上半身側へと寄っていたため、彼女の軽い華奢な体でも男二人を引っ張り落ちる事は訳なかった。

 

「よっ、と――」

 

 ロープの反対側を掴んでいた伊吹が跳ねれば、落下していく男達の重量に引っ張られるように上へと吊り上げられていく。男達とのすれ違い様に、一緒に落下してきたメアリーを優しく抱きかかえて回収する。

 伊吹が二階の手すりを引っ掴むと、その片腕の膂力を持ってして自身とメアリーを二階通路へと無事送り届ける。

 

「よく、あの一言で分かりましたね」

「私も同じ事を考えたからな」

 

 伊吹の小脇に抱えられたメアリーがどこか得意げに答えると、さっさと下ろせと言わんばかりにもぞもぞと身をよじらせる。

 彼の腕から抜け出ると乱れた帽子を被り直し、ずれた眼鏡を外して蒸れるマスクを軽く指で摘まみ上げた。

 

「……」

「ふぅ……、……なんだ?」

「あ、いえ、……別に」

 

 もの言いたげな伊吹の視線に気づいたメアリーだったが、彼はバツが悪そうにさっと視線を逸らすだけだった。

 

「……ちょっと似てるからやりづらいんだよな……」

「なにか言ったか?」

「いえ、なにも……。……顔を隠して下さい」

 

 彼女の長い睫毛に白い陶磁器のような滑らかな肌、氷のように冷たくも美しい瞳、小ぶりながらもすらっと高い鼻、シャープな顎。そもそもの血筋なのか顔の作りが似ているようで、ふとした瞬間が想い人のそれと僅かに重なってしまう。伊吹は眉を顰めて困ったように額に手を突いた。

 彼らがそんな会話を交わしていると、通路の奥から複数の荒々しい足音が聞こえてきた。

 

「流石に気づかれましたね」

「これだけ暴れればな」

 

 その岩石のような拳を強く握りしめ骨を鳴らす闘う気満々の伊吹とは対照的に、メアリーは面倒だと言わんばかりに腕を組み瞳を伏せながら溜め息を零し、マスクと眼鏡を身につける。

 通路の奥から姿を現したのは高そうな黒いスーツに身を包み、手には刃物や鈍器など様々な凶器を握りしめた複数の男達。見開いた目に飛び交う怒号、確実にこちらを敵だと認識しているようだった。

 

「黒いやつらがわらわらと、まるでゴキブリですね。……オフの時まで黒ずくめの服なんざ見たくないんだよ」

「おい貴様、今なんて――」

 

 伊吹の鬱陶しげな呟きに思わず反応するメアリーが彼の方へと向き直るも既にそこには彼の姿は無く、疾風の如く駆けだした彼が巻き上げた埃だけが舞っていた。

 瞬きする間に彼の嵐の如き暴は目の前の男達を木の葉のように蹴散らした。メアリーは一人、先日何となく見ていた通販番組で紹介されていた、枯れ葉を吹き飛ばすブロアーの姿を思い出していた。

 

「まったく、まるでキングコングだな」

「……褒め言葉として受け取っておきます」

 

 昏倒する男達の高そうなシャツで自身の拳に付着した血を拭う伊吹。メアリーは呆れたように、足下に転がる鈍器や凶器の類いを足で払う。

 

「おどれラァッ! いい加減にしとけやコラァッ!」

 

 通路の端、床に転がる男達が出てきた方向とは逆側から、再び幾人かのスーツ姿が飛び出してきた。

 「呆れた連中だ」そうぼやいたメアリーが小さく鼻から息を漏らし、「またか……」と零す伊吹の目出し帽から微かに覗かせる目元には哀れみの色さえ浮かんでいた。

 しかし彼らの隠されたその表情が一瞬硬直し、目元が鋭利に研ぎ澄まされたのは、男達がその手に黒光りする拳銃を取り出したからだ。

 

「ぶち殺すッ!」

 

 その言葉は脅しでは無い。殺せるかはともかくとして、引き金を引く決意は固めている。こいつらは撃つ気だ。数々の修羅場をくぐってきた二人はそれを瞬時に悟った。

 この広くは無い通路で、小口径のハンドガンと言えど複数人に発砲されれば流石にたまったもんじゃない。

 全速力で駆け出そうにもこの距離では、伊吹の鉄拳が男達に辿り着くよりも先に鉛玉の方が飛んでくるだろう。

 この距離を詰める必要がある、そして相手の虚を突く必要があるのだ。一瞬にして駆け巡る伊吹の思考。

 

「っ!」

 

 すると弾かれたように顔を上げる、どうやら一手なにかを閃いたようだ。いや、しかしそれは……。

 

「――ッ、――カタパルトッ!」

「えッ、まじっ……!?」

 

 困ったようにチラリとメアリーを覗き見る伊吹だったが、彼の瞳を見つめ返す彼女の視線は力強く、一喝するように声を張り上げた。

 その一言に伊吹も困惑しながらも、素早く彼女の腰裏のベルトと襟首を鷲掴んだ。

 

「ドォラァッ――!」

「!!?」

 

 思わぬ二人の行動に銃を構えた男達も呆気にとられ、反応する間も声を発する間もなかった。

 メアリーを掴んで彼女を振り回すように半回転した伊吹が、その遠心力と己の膂力を持ってして少女の体を男達へとぶん投げたのだ。まるで地面と水平に飛来するかのように錯覚してしまうその威力たるや、まさにカタパルトの如し。

 

「な、にっ……!?」

「なってないな、若造(ボーイ)――ッ!」

 

 空中で体勢を整えたメアリーは勢いのままに男の首へと腕を回し、一瞬にして締め落とす。そして流れるような華麗な動作、男の首に回した腕を軸に身を翻す彼女が遠心力を乗せた膝を振り抜き隣の男の側頭部へと叩き込んだ。

 囁くような彼女の叱責も混濁する男達の耳には届かない。

 

「こっ、の、ガキッぶうぇッ――!!」

 

 残る一人がメアリーを捕らえようと腕を伸ばすも、その指先が彼女に触れるよりも早く、伊吹の鉄拳がその顎を貫いた。

 

「あまり無理をしないで下さい、また息が上がりますよ」

「要らぬ心配だ」

 

 メアリーがそのか細い指先でマスクを摘まみ上げ、少し息苦しそうに呼吸を整える。ビルに乗り込んできてから立て続けに戦闘を繰り返したせいか、その雪のように白い頬がほのかに上気している。

 

「しかし、よく瞬時に理解したな」

 

 深い呼吸で息を整えた彼女が少し感心するように、小さく唇の端を吊り上げてニヒルに微笑んだ。

 

「ああ、射出機(カタパルト)ですか? 私も同じ手を考えていたので……、本気で投げ飛ばす気は無かったですが……」

 

 そうなんて事無く答える伊吹だったが、薄らと微笑む彼女の瞳に捕らえられると、思わず顔を伏せて頭を掻いてしまう。

 

「……顔を隠して下さい」

「あらかた片付けただろう、誰もおるまい」

「あなたの顔を見てると、やりずらくて」

 

 訝しげな表情の彼女の乱れた帽子を整える伊吹。彼の言葉の真意は分からなかったが深く追求することも無く、メアリーは小さな嘆息を零して再びマスクで顔を隠した。

 メアリーが一息吐くと、ほのかに桃色に上気した頬は雪のような白さを取り戻し呼吸も整っていく。すると彼女は「それにしても……」と、少し逡巡するように視線を彷徨わせてからその宝石のような琥珀色の瞳で伊吹を見つめた。

 

「先程の昇降機といい囮といい射出機(カタパルト)といい、私の()()()をここまで使い込んだ男はお前が初めてだ」

「……その言い方やめてくれませんか」

 

 メアリーのその瞳が微かに歪められたのは不快感かそれとも愉悦か……。付き合いの浅い伊吹にはその真意は読み取れなかった。

 そしてマスクの下に隠された彼女の楽しげな笑みを知るよしも無い。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。