哀歌   作:ニコフ

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10話 ハートの行方 後編

 米花駅からほど近いデパートの中に灰原の姿があった。一度家に寄ったのか背中にランドセルはなく、小さな黒猫がプリントされたエコバッグを肩から提げている。

 平日だがまだ日の高いこの時間帯には、主婦や学校帰りの学生などの姿も見て取れた。

 地下の食料品売り場が目的地だが、せっかく近所のスーパーではなく大きなデパートまで来たのだからと、色々なお店のウィンドウショッピングを楽しむ灰原。

 貴金属や化粧品など、女性向けであり尚且つ少し高級感の漂うエリア。彼女のお気に入りの柑橘系の香水が今も取り扱われていることを確認して、満足そうに上階を目指す。上には衣服類を扱うコーナーが設けられており、鼻歌交じりに服を見て回る彼女。

 

「……」

 

 綺麗な生地や可愛らしいデザイン、いくつかの服を思わず手にとって眺めてしまう彼女だったが、ふと寂しげな表情で拗ねるようにパッと手を離す。どうせ今の自分には着られないのだから、と。

 昔、シンプルな服と白衣ばかりを着ていたような気がする。こんな姿になるんだったら、もっとお洒落しておけばよかったかな、そして彼と一緒に出かけたりして……。

 

「⋯⋯なんてね」

 

 自身の思考を吹っ切るようにそう一言呟いてから、小さな嘆息を零す。

 子供服でも見ようかと思ったけれど、なんだかそれは悔しいような気がしてパス。女性用の服を横目に見ながら彼女が地下を目指そうとすると、エレベーターは他の多くのお客さんたちでごった返していた。人混みをあまり好まない彼女は小さく鼻から息を吐いて、エスカレーターのへと向かう。6階から地下までエスカレーターを乗り継いで行くつもりのようだ。

 今晩の献立は何にしようか、明日のお弁当にはなにを入れてあげようかな、と思考を巡らせていると自然と笑顔を浮かべていることに気がつく灰原。思いのほか今日の彼の反応に自分も浮かれているのだと思い知らされるも、素直になれない彼女は恥ずかしそうに頬を染めていつものジト目を浮かべる。

 小さく息を吐いて体内に響く鼓動を落ち着かせると、彼女はポケットから携帯を取りだし伊吹へと電話をかけた。ほんの数回のコールの後、向こうから心地よいテノールの声が響いてくる。

 

『はいはい、もしもし?』

「私だけど、今日の夕飯の……っ、えっ、きゃっ……!」

『哀っ?』

 

 彼女がエスカレーターに足をかけた時だった、突然の地響きが辺りを襲い、地鳴りのような轟音と共に足下が激しく揺れる。地震よりももっと近くで感じるような振動。それが何なのかを理解する前に今度は店内の照明が落とされ真っ暗な影に包まれる。

 明かりの中で収縮した瞳孔は暗闇に咄嗟には対応できず、手の先も見えないほどの闇に飲み込まれる。エスカレーターも停止し、つまずくように灰原もその場にとどまる。慌てて手すりに捕まり体制を整えた彼女がほっと一息吐いたとき、今度はすぐ近くから大きな爆発音が聞こえた。

 その轟音に灰原が咄嗟に振り返ったとき、彼女の体を熱い突風が襲った。彼女の軽い体はいとも簡単に煽られる。足場の悪いエスカレーターを踏み外した彼女の体がより深い階下の影の中に飲み込まれるように落ちていった。

 

「うぅっ……!」

 

 体が打ち付けられるような鈍い音を上げながらエスカレーターを転がり落ちた灰原。咄嗟にできる限りの受け身を取り大きな怪我は避けられたものの、最後に頭を打ち付けたらしく見えない視界がぼんやりと滲んでいく気がした。

 遠くから他の客の悲鳴と子供の泣き声、その子供を探す親の絶叫など阿鼻叫喚の声があちこちから反響して聞こえてくる。真っ暗闇のデパート内が途端に戦場と化した気がした。

 取りこぼした携帯電話が視界の隅で転がっている。その向こうからこちらを呼びかける彼の声が聞こえる気がするも、体が動かずそれに答えることができない。

 ちゃんと眼を開いているのか、閉じているのかも分からない中で、眠りに落ちるように灰原の意識は遠のいていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ん?」

 

 帝丹高校に残り掃除を済ませた彼がカフェオレのパックを片手に帰路につく途中、ポケットの中で携帯が震える。画面に表示された文字を確認すると、彼は嬉しそうに電話に応える。

 

「はいはい、もしもし?」

『私だけど、今日の夕飯の……っ、えっ、きゃっ……!』

 

 愛しい声が受話器の向こうから聞こえると、思わず空のお弁当箱の入った保冷バッグを握ってしまう伊吹。しかし、彼女の言葉は最後まで紡がれることなく、小さな悲鳴へと変わる。そして直後に聞こえたのは爆発音のような激しい雑音。

 

『哀っ?』

 

 電話の向こうの彼女に呼びかけるも応答はない。彼女が何かに巻き込まれたのは明白だった。しかし情報を得ようと耳を澄ましても聞こえてくるのは変わらぬ雑音と遠くに響く悲鳴のみ。

 

「哀っ!? どこにいる!? 何があったっ!?」

 

 その問いかけも独り言のように中に消える。耳を刺すような一際大きな雑音が入ったかと思えば、通話は途絶えてしまった。再び灰原へと電話をかけるも、その耳元に彼女の鈴の音のような澄んだ声は聞こえてこない。

 

「……」

 

 やけに辺りが静かな気がした。人気がないと言うよりも、人の気配がどこかに流れていくような感覚。そして、午後の穏やかな風にふわりと、似つかわしくない、しかし嗅ぎ慣れた火薬の匂いが混ざっていることに気がつく。

 帰路についていた足は自然と自宅の方向から逸れていく。流れる人の気配を追っていくと、徐々に辺りがざわめき出す。胸中を覆う不安の影を振り払うように、飲み干した紙パックをゴミ箱へ投げ捨て自然と足は駆け出した。

 導かれるように彼が辿り着いたのは黒煙を噴き上げる大きなデパートだった。

 確証はない。しかし、彼の眼は自然と鋭く鈍く研ぎ澄まされていく。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「最後の爆弾はどこだッ! どこに仕掛けたッ!」

 

 どこか寒々しく冷たい印象を受ける取調室の中では手錠をかけられた男が刑事に詰め寄られていた。マジックミラー越しに目暮警部と小五郎がその取り調べの様子を苦い顔をしながら見つめていた。

 

「おじさんっ、どうかしたのっ!?」

「あっ、このガキはまた勝手に……!」

 

 小五郎を迎えに来たコナンだったが、取調室周辺の物々しい様子に気がつく。突如現れたコナンを捕まえようとする小五郎だったが、それよりも取調室の犯人の様子が気になるようだった。

 コナンも取調室のマジックミラー越しの窓にしがみつくように中を覗き込む。

 

「あれ、この前逮捕した爆弾犯だよね。どうかしたの?」

「ああ、ヤツが盗んだ火薬の量が全然足んねえんだよ」

 

 小五郎も取調室の爆弾犯を睨みながら、ついいつものように答えてしまう。その小五郎の言葉に驚愕を隠せないコナン。

 

「目暮警部、実際に今行方の分からない火薬というのはどれくらいなんですか?」

 

 小五郎も隣の目暮警部へと詳細な情報を尋ねる。コナンも気になるようで、深刻な表情を浮かべる。顎に手を当てた目暮警部が一瞬の逡巡の後に重たい口を開いた。

 

「うむ……。ここ数件の爆弾騒ぎで実際に使用された火薬の量は、ヤツが盗んだ分の半分にも満たないんだ。残りの量から換算するに、一度に使用されれば……ビルの一つくらいは吹き飛ぶ」

「なんですってッ!」

 

 帽子をぐっと深く被り直す目暮警部が、その帽子の影から微かに眼を覗かせて神妙な面持ちを浮かべる。

 想像以上の規模に、コナンと小五郎も目を見開く。彼らがしばらく問答していると、沈黙を守っていた取調室内の男が何やらごそごそと動き出した。

 

「刑事さん、今何時だい? 俺、時計も取られちゃってんだよ」

 

 テーブルに片肘をつき、半身を乗り出した男が挑発するように尋問する刑事へと声をかけた。訝しがりながらも、刑事は腕時計を確認し、男へと教える。

 

「午後、5時ぐらいだ。それが何だ」

「5時を回ってんのかい? まだかい?」

「なに?」

「いいから、早く教えてくれよ」

「……回っている。5時3分だ」

 

 時間を聞かれた刑事の背中を冷たい汗が伝い、嫌な予感がする。刑事の言葉に男は光の宿らない死んだ動物のような瞳まま心底楽しそうに表情筋を愉悦へと歪め、勝ち誇ったような高笑いが取調室内に反響する。性根の腐ったようなその捻くれた笑顔に思わず刑事が詰め寄ろうとしたとき、男が手錠のかかった両手を前へと突き出し刑事を制する。

 

「野郎、なにを笑ってやがる」

 

 取調室の外から覗いていた小五郎たちも男の異変に気がついた。時間を確認する犯人にコナンもまた、最悪の事態を連想する。しかしそれを確認するには、この男から話を聞き出すしかなかった。

 男が右手の人差し指を立てて刑事を指さし、「無能」と一言呟く。怒りに思わず立ち上がる刑事を尻目に、今度はマジックミラーの方へと指を差し、自分を見ているであろう刑事に対しても「無能」と吐き捨てた。

 

「野郎ッ!」

「落ち着けっ、毛利君」

 

 男の挑発ともとれる行動に思わず眉間が引きつる小五郎と、それを制する目暮警部。

 男がぐっと身を乗り出して立ち上がった刑事を下から覗き込む。ニヤリと口元を歪めながら男が淡々と口を開いた。

 

「もう頃合いだ、教えてやるよ。最後に用意した()()()()()は、セルフリッジだ」

 

 椅子に深く腰掛け背を預けながら男は続ける。表情から笑みは消えていき、徐々に冷たさを帯びていく。最後は抑えきれない憎しみをその瞳の奥に宿らせる。

 

「あそこは幸せの集まる場所だ……。デートに着ていく服か? 夕飯の食材か? 大切な人への贈り物? あそこは色んな幸せが集まってくる場所だ……。俺は他人の幸せが大嫌いでね、全部吹っ飛ばしたくなるんだよ」

 

 男の独白を前に取調室外の小五郎たちは焦り手のひらに汗が滲み、コナンが忌々しそうにガラス越しの男を睨みつける。

 

「セルフリッジって言やあ、あのデパートかっ!?」

「あんなところで残りの火薬を爆破されたらどれだけの被害が出るか! 大至急爆弾処理班を向かわせ現場を封鎖するんだ!」

 

 焦る目暮警部の怒号にも近い指示が飛ぶ。「怪我人が出る前に!」そう張り上げる目暮警部の声が聞こえたのか、取調室内の男が一言「もう遅えよ」と呟いた。

 その一言にコナンが振り返ったとき、目暮警部の携帯に緊急の連絡が入る。

 

「なにっ!? 都内で……、デパートセルフリッジで爆発だとっ!?」

 

 その連絡に小五郎の舌打ちを漏らす。コナンがハッとして急いで携帯を取り出すと灰原へと連絡を入れる。しかしその通話口の向こうから聞こえるのは、相手の携帯の電源が入っていないことを告げる音声のみだ。

 コナンは電話を切り、今度は伊吹へと電話をかける。数回のコールの後、向こう側からどこか静かで重たい伊吹の声が聞こえてきた。

 

「萩原っ、今セルフリッジって駅近くにあるデパートに爆弾が仕掛けられてる! そこに灰原が行ってるかもしれねえ! お前今どこにいるっ!?」

 

 少しの沈黙の後、彼は静かに淡々と答えた。

 

『大丈夫だ。今、目の前にいる』

 

 それだけ言い残すと彼は通話を切った。現場へと急ぐ刑事たちに小五郎とコナンも同行する。男も手荒く取調室から連れ出され、現場へと連れて行かれるようだ。

 現場へと向かう途中のパトカーの中からも、遠くに上る煙がよく見えた。風の少ない明るく陽気な天気は、その足下で巻き起こる事件とは裏腹に、のどかで平和そうに、白い雲を漂わせていた。

 コナンたちがデパートの前に辿り着く頃には、辺りは一層騒然としており、建物内に親しい人が取り残されている人々や、外で被害に遭った人を保護する救急隊員、火事を消すための消防隊、そして爆弾処理班などがごった返していた。

 警官が野次馬を下がらせようと声を張り上げたとき、何度目かの爆音が辺りを揺らした。降り注ぐ瓦礫とガラス片に辺りからは悲鳴が上がる。

 

「中の民間人の救出はっ!?」

 

 目暮警部が現場にいたレスキュー隊に尋ねるも、首を振るばかり。建物に入ろうにも、出入り口はことごとく爆発による瓦礫などで塞がれていたり、入り口そのものが吹き飛ばされており、それらを撤去し道を作らねばならないため中に入るには時間がかかりそうだった。

 

「下がってください! 危険ですから下がって!」

 

 警官に押されるように現場を離れる野次馬たちだったが、その中の1人の男性が困惑したように声を上げた。

 

「あ、いや、でもさっき……、男の子が一人、入っていきましたけど」

 

 その言葉に警官やレスキュー隊、目暮警部や小五郎たちもが驚愕の顔で建物を見上げる中、爆弾犯の男がニヤリと、不気味に笑っていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ん……っ、ぁ……」

 

 灰原が目を覚ますと、そこは先程と変わらないデパートの中だった。悪い夢じゃなかったのねと彼女が体を起こすと、同じく爆発に巻き込まれたであろう若い女性に声をかけられた。

 

「気がついたのね、大丈夫? どこか痛む?」

「え、ええ。大丈夫よ。ありがとう、お姉さん……」

 

 この女性が気絶していた自分を介抱してくれたということは、灰原もすぐに察しがついた。

 真っ暗だった暗闇の中にポツポツと小さな明かりが灯っていることにも気がつく。他の巻き込まれた客たちが自分の携帯やライターを使って辺りを照らしているようだ。客たちの中には肩を寄せ合う者や、うろちょろと動き回り出口を探す者、壁際でうずくまる者、泣きながら携帯で電話する者など様々だったが、いずれにも疲労と不安が見て取れ、言い知れぬ緊張が辺りを包んでいた。

 詳しいことは分からないが、なにかが爆発し、それに巻き込まれたことは想像できた。幸い火や煙は回っておらず、少し休むとぼーっとしていた頭も徐々に冴えてくる。自身にも大きな怪我はないようだ。

 

「携帯……」

 

 ふっと自分の携帯の存在を思い出した灰原が、少しふらつく足に力を入れ煤のついた体を払って立ち上がると、寝起きのぼんやりする頭を押さえながらエスカレーターの下を探す。確か自分はここに倒れていたはず、と辺りを見回すと、そこには確かに灰原の携帯が転がっていた。

 それを拾い上げ助けを呼ぼうと試みるも、その液晶には大きなひびが入り、いくら操作しようとも電源はつきそうになかった。溜め息と共に辺りを見回し通路をいくつか確認するも、そのどれもが瓦礫に邪魔されていたり、扉がひしゃげており出られる箇所はなさそうだった。

 仕方ないと再び女性の元へと戻り壁にもたれるように座り込む。

 

「ついてないわね……」

 

 天井を見上げて小さく零す灰原。

 

「大丈夫? なにか見つけた?」

「いいえ。どこも通れそうにないし、ここで助けを待つしかないわね」

 

 その言葉に女性の表情が暗く沈む。そんな彼女に助けて貰ったほんのお礼のつもりか、灰原は元気づけるように、こんな状況なんてことないとでも言うかのように、暗闇の中で微かな笑みを浮かべた。

 

「大丈夫よ、きっと助けが来るから」

「でも、こんな状況だと、警察もレスキュー隊もなかなか……」

「大丈夫。もっと頼りになるのが、そのうち来るわ」

 

 薄暗い中で見えた少女の横顔に、思わず尋ねてしまう。

 

「それって、だれ?」

「…………私の……騎士(ナイト)ってところかしら」

 

 悪戯っぽく微笑む少女の声色は、どこか自信と確信に満ちており、なぜか信用できる気がした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「入って行ったのって、体の大きくて傷だらけの男の人?」

「あ、ああ、そうだけど。学生服だったけど、あれは堅気には見えなかったよ」

「こ、コナン君、まさか中に入っていったのって」

「うん。間違いなく伊吹兄ちゃんだと思うよ。そして恐らく灰原も中に」

「な、なんだって……っ」

 

 野次馬の証言から中に入ったのは伊吹だと確信するコナン。それを聞いた目暮警部や小五郎も驚くばかりだ。

 

「レスキュー隊を早く! 救出せねば!」

 

 目暮警部の言葉と同時に、レスキュー隊が瓦礫の一部を撤去し1本の通路を確保する。メットのライトを点灯し、レスキュー隊員が通路へと足を踏み込んだときだった。通路の側面が小規模ながら爆発しはじけ飛ぶ。先頭を歩いていた隊員が右足を負傷し、他の隊員に引きずられるように避難する。

 その一部始終を見ていた犯人の高笑いが辺りに響き渡る。

 

「お前たちが()()()()()()()()()()は作っておいてやったぜ。気をつけろよ、そこはブービートラップだらけだ」

 

 男がにやつきながら目暮警部と小五郎を挑発する。男の嘲るような言葉は止まらない。

 

「辛抱たまらず入っていったっていう兄ちゃんも気の毒だなぁ、楽に死ねてればいいが、今頃片足が吹っ飛んで芋虫みたいに這いつくばってるかもなぁ」

「テメェッ……!!」

「よせっ、毛利君っ」

「しかしッ、警部殿ッ!」

 

 思わず男の胸ぐらを掴み上げる小五郎の肩を掴み押さえる目暮警部。小五郎をなだめる警部の目にも怒りの炎は燃えたぎっていた。

 

「この男は法の下に裁かれる。こんな男を殴って君が罪を被る必要はないっ」

 

 自身の肩を掴んでくる目暮警部の手にも力が加わり痛いほどだ。小五郎も目暮警部の胸中を察し、男から手を離す。しかし男はますます挑発するように、口を開く。

 

「この建物に仕掛けた爆弾が吹っ飛べば、この周りの野次馬共もくたばるだろうぜ。()()()()()()に爆弾を仕掛けた。できるだけ大きな被害が出るような場所にな」

「テメェでまかせをっ」

「別に信じてくれなんて言ってねえよ。だがな、もう調べはついてんだろ警部さんよ。このデパートの設計者は俺の爺さんだ。俺にも建築の心得がある。この建物のどこに、どれくらいの爆薬を仕掛けりゃいいかはよーく分かってるぜ」

「爆弾をどこに仕掛けたッ!? 解除方法はッ!?」

 

 小五郎がパトカーのボンネットを激しく叩きながら犯人へと詰め寄るも、男は楽しそうに不気味な笑みを浮かべるだけだ。

 

「誰が教えるかよ。俺は死刑だろう、ありったけの幸せをぶち壊して死んでやる」

 

 べろりと下を垂らす男は小五郎や警察の怒りを逆なでする。

 

「ほら、早くしねーと、6時になったらドカンッ、だぜ。さっさと中の奴ら見捨てて逃げねーとよお」

 

 その言葉に一同が咄嗟に時計を確認する。時刻は既に5時30を回っており、タイムリミットが迫っていた。

 建物の中からまた数回の爆発音が聞こえ、辺りにガラス片と悲鳴を振らせる。一同が焦りの表情でデパートを見上げる中、男は口角を吊り上げ、不気味な笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 赤い液体が転々と瓦礫だらけの通路に続いている。その先には右肩から吹き出す鮮血を左手で押さえながら眉をひそめ歯を食いしばり、苦悶の表情で奥へと突き進む伊吹の姿があった。

 初弾のブービートラップの直撃をすんでのところで咄嗟に回避した伊吹だったが、その広範囲に飛散する破片を全て避けることは適わず、右肩と右大腿部側面から激しい流血が見て取れた。

 右足を引きずるように歩く伊吹の歩調は決して早いものではなかったが、その目に宿る活力の光は暗い通路の中で輝いて見えるようだった。

 

「うぉらッ……!」

 

 目の前に倒れ込む大きな瓦礫の破片を、その両腕で押しのける。力んだとき太ももと肩から赤い鮮血が筋骨に押し出されるように飛び散る。

 どうにもならない道は道中に解体し、回収したトラップの爆薬を利用して、即席の簡易爆弾で無理矢理に切り開いていく。しかし即席の荒削りな爆薬に安全性など考慮されているはずもなく、ましてや先を急ぐために最速で深部を目指す伊吹がその都度安全な距離まで避難することもしないため、爆発のたびに熱風と爆破片が彼の体を傷つけていく。

 

「ああ、くそ……」

 

 鋭いガラス片か何かが伊吹のこめかみを掠める。深くはない傷だったが、頭部の傷の出血量は多く、顔に垂れ視界を深紅に染める流血を鬱陶しそうに拭う。

 違和感は感じていた。確かに無理矢理に突き進んできた箇所もあったが、明らかに自分が今突き進んでいる道には作為的な何かが感じる。あらゆる所にトラップが仕掛けられているのではない、確実にこの通路にだけ狙って仕掛けられているのだ。

 犯人に誘導されていることは薄々分かってはいるものの、灰原の居場所に当てもない伊吹は奥へと進むしかなかった。

 思わず足下がふらつく伊吹が体を支えるように壁に手をつく。赤黒い手形がハッキリとそこに残され、力が抜けるように壁にもたれかかりずるずると引きずるように、その歩みを止めない。

 鉄かガラスかコンクリートか、何か分からないが確かに体内に残る破片が傷口の奥で疼くのを感じる。思わず指を突っ込んで引き出してやろうかと考えてしまう。

 そんな彼が引きずる右足が瓦礫に取られ、体制を崩し床に左手をついて体を支えようとしたときだった。金属の擦れるような音と、張り詰めたピアノ線がはち切れるような痛々しい乾いた音がすぐそばで聞こえたのは。

 

「ッ……」

 

 伊吹の舌打ちの音が誰もいない通路を反響し、一瞬の静寂が辺りを包んだかと思うと、(まばゆ)い閃光が彼を襲い、爆音がすぐそばで彼の耳を(つんざ)いた。

 煙る黒煙が散り、新たな瓦礫が崩れ落ちる中、そこには青年が1人、倒れ伏していた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「今の、結構近いわね」

「は、離れましょうか……」

 

 灰原と女性がもたれかかっていた壁のすぐ奥から内臓を震わせるような振動を感じた。チラリと壁面を確認した2人がそこから距離を取るように離れる。

 それから数回の爆発音。それは徐々にこちらに近づいているようで、ついに壁1枚を隔てた隣で何かが爆発したようだ。血の気のひいた青い顔を浮かべる女性と、壁を睨み付ける灰原。周りにいた一般人も何事かと様子を見ながらも離れていく。

 ふっと、途端に爆発音が止まった。そのままの爆発の流れでこのフロアが吹き飛ばされるかと汗ばむ手を握りしめる灰原に、あの声がかけられた。

 

「……哀?」

「っ!」

 

 切迫したこの状況でも、相手を安堵させるように優しくそっと、慈しむようにかけられるその声は、彼女の待ち望んだそれだった。コンクリートの壁だったが、幸いにも所々が砕け隙間ができており、そこから声が聞こえていた。

 その声が聞こえると弾かれたように慌てて壁際へと駆け寄る灰原。両手を壁につき、必死に向こうへと声をかける。

 

「ここにいるわ!」

「よかった……。ちょっと壁から離れてて。()()()()()

 

 彼の言葉の意味は分からなかったが、彼が()()と言ったのだから《来る》のだろうと、灰原はその言葉に尋ね返すことはせず、言われたとおりに距離をとる。

 壁の向こうで彼が何やらごそごそと動いたかと思うと、数秒の沈黙の後、壁面の壁が爆風にはじけ飛んだ。

 足下にコロコロと転がってくるコンクリート片。生暖かい風に前髪が揺れた。黒い爆煙と白い粉塵の向こうに立つ男は、威風堂々と佇み、彼女を目にとめると、血みどろの姿の痛みをこちらに想像させないかのように、小さく微笑んだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「いででっ」

「我慢しなさいっ」

 

 最後のブービートラップも体を捻りギリギリのところで避けた伊吹だったが、左腕が犠牲になったようで、今は両の手をだらりと垂らして流れる出血を止めるすべもなかった。

 彼の派手な登場にしばらく呆けていた灰原だったが、その全身に滴る液体が彼の血だと分かるやいなや、その鋭い目をキッと吊り上げ語気を強めて彼を叱咤する。

 よほど怪我の具合を心配したのか、その瞳の端に微かな涙が浮かんでいたようにも思えたが、暗闇の中では誰にも気づかれずに済んだようだ。

 微かな明かりの下で伊吹の傷口を確認し、可能な限りの処置を施す。といっても今できることは辺りに散乱した衣類の布で、これ以上出血しないように強く縛って圧迫する程度のことだった。

 傷を手当てしてくれた灰原の頭を血のついた手で撫で、立ち上がる伊吹が何かを探すようにフロアを散策する。彼女も心配するようにその後ろをついて回る。

 

「ここに来るまでの道のりはやけに作為的なものを感じた。もし犯人の目的がここに救助に来た者をおびき寄せることだったんだとしたら、恐らくここには……」

 

 振り返りはしなかったが、後ろにいる灰原に説明するように続ける伊吹。彼の言葉をただ静かに聞いている灰原の眉間にもしわが寄り、嫌な予感が胸を覆っていく。

 ピタリと足を止めた伊吹が暗闇の中で見つけたのは、壁と一体になっている非常ボタンと、それと一緒に備え付けられた消火用散水栓のカバーだった。

 幸い歪みのないその金属製の扉は容易に開くことができそうだ。伊吹は後ろへ手のひらを突き出し灰原に少し距離を取らせると、何かを警戒するようにそっと開いた。

 

()()がある」

 

 嫌な予感が当たったと言うように、困ったような声色で独り言を零す伊吹。そこにはティッシュ箱よりも一回り大きな黒い金属製の箱が安置されていた。

 カバーのような蓋がされており、伊吹はそれをそっと優しく、極力刺激を与えないように取り除いた。そこにはデジタル時計のような文字盤が表示されている。暗闇の中でぼんやりと光るその数字は、時計とは異なり、1秒1秒確実に数字を減らしていく。誰が見ても分かる、それはカウントダウンであり、残りの時間は10分を切っていた。

 

「それって」

「ああ、こいつが本命だな」

 

 離れて見ていた灰原が伊吹の背中越しに覗き込む。そこに刻まれた数字の減少していく文字盤に、彼女もそれが何なのか察しがついた。

 

「制御盤の裏から配線が伸びている。コナンの話じゃ犯人はこの建物を午後6時に吹っ飛ばす気らしいから、残りの制限時間から考えてコレがその爆弾のタイマーだろうな」

 

 手元を携帯のライトで制御盤を照らし、懐から取り出したフォールディングナイフを器用に操りネジを外す。制御盤の外装を剥がしながら淡々と説明する伊吹。

 辺りの一般人たちも状況を察し始めてかざわつきはじめた。

 

「この配線が各階に仕掛けられた爆弾に繋がってるんだろう」

「解除できるの?」

「……まずは中を覗いてから」

 

 そう答えると伊吹はそっと外装の天板部分を持ち上げる。中には予想通り多くの配線がこんがらがっていたが、一つ伊吹の予想を反したことがあった。中を縦横無尽に伸びるコードは、全てが同一の黒色だったことだ。

 このフロアに到達するまでに解除した爆弾は、どれも配線の色が異なっており、伊吹も多少手こずったものの、解除は可能だった。

 

「……っ」

 

 思わず言葉を失う伊吹。その額を汗か流血か分からない液体が伝い落ちる。

 爆弾の配線は製作した者が自分で分かるように、作成時に誤爆などしないよう色分けしていることが多い。そこからいくらか推測し解体するわけだが、目の前の基盤にはそれがない。ただでさえ暗い周囲に溶け込むような黒い配線は視認しづらく、ましてやそれを解除しようなど、あと10分足らずで出来るようなことではなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あれは俺の最高傑作だ。そう簡単に解体なんざできねえ……」

 

 建物の周囲では民間人の避難が進んでいた。駅の近くと言うこともあってか、野次馬は溢れかえるように増えていき、ごった返している。しかしそんな野次馬も警察たちの怒号のような避難指示に気圧されるように離れていく。

 駅も電車の乗り入れが制限され、辺りは物々しい雰囲気に包まれていく。デパートから吹き出す黒煙が、紫色に染まっていく空に、不気味なほど高く上っていった。

 警官に押さえられながら下がらされた犯人がぽつりと呟いた一言は、コナンの耳にだけ届いたが、コナンにも今できることは、あの超人をただ信じることのみだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 伊吹の額に汗が滲む。痛みと出血で鈍くなっていく両手の感覚を極限まで研ぎ澄まし、その配線を丁寧に1本ずつ処理していく。

 残りの時間が10分を切っていた時点で、他の一般人を率いてトラップだらけの道を引き返すことは不可能だった。

 残された選択肢が解体のみだと判断した伊吹の動きは素早く、上着を脱ぎ捨てネクタイを外した。痛みに顔を歪ませながら袖をまくり、ナイフ片手に作業へと取りかかった。

 隣では灰原が携帯で彼の手元を照らす。彼の額を伝い落ちる汗や血をハンカチで拭い、その揺れる瞳で彼の横顔を見つめる。

 だが、トラップや切る順番に気をつけながら配線を半分ほど切断した頃だろうか、背をかがめて解体していた伊吹がふっと、そのナイフを持ち上げて体を起こした。

 よほど集中していたのか、呼吸が荒くなる。目の前の爆弾は刻一刻と時を溶かしていく。残りの時間は僅か5分を切ろうとしていた。

 

「ちょっと、大丈夫?」

 

 彼の見開かれた眼に滲む汗、黙ったまま俯き床に視線を落とす。何かに怯えているのだ。この状況ではない、爆弾にではない、命の危機にではない、このままでは()()()()()()()()()()()()()()()という事実に。ほんのあと、5分足らずで。

 そんな彼の姿に灰原も心配そうにそっと背に手を当てて尋ねる。

 その声に引っ張られるように伊吹の顔がゆっくりと持ち上がる。彼女の瞳を見つめた彼が、ナイフを落とし灰原の両肩を力強く掴んだ。

 

「……俺の入ってきた道を戻れ。多少崩れていても小さい哀の体なら抜けられるかもしれない。隙間に逃げ込めば助かるかも」

 

 いつになく焦った様子で灰原へと迫る伊吹。その様子から、爆弾の解体が間に合わない可能性を察した灰原。彼女の手と唇が微かに震える。しかし、その怯えを心の奥底に隠すように、彼女は自身の両手を強く握りしめ、俯いて唇を噛む。鼻から大きく息を吸い込んで深呼吸を繰り返したかと思うと、次に顔を上げたとき、彼女はいつもの呆れたような、ジトッとした半眼で彼を見ていた。

 震える指先に気づかれないように、彼の額を人差し指でトンと突く。

 

「ばかにしないで」

 

 そして、慈愛に満ちるような優しい瞳で彼を見つめる。

 鈴の音のような凜と澄んだその声は、伊吹の頭を驚くほどクリアに落ち着かせた。灰原の肩を掴んでいた両手から力が抜ける。

 だらりと垂れる彼の手を、灰原が両手で握りしめ、その胸に抱き寄せる。奥深くに微かに青みがかったその双眸が伊吹の両の目を真っ直ぐに見つめる。ぼんやりと灯る明かりの中でもハッキリと見えるほどに白く美しい肌と、その桜色の薄い唇が微かに動いた。

 

「あなたのいない世界を一人で生きるなら……私は、あなたと一緒に……」

 

 その言葉を聞いたとき、ハッとした伊吹が指先でそっと彼女の唇を塞ぐ。彼女にその先の言葉を紡がせてはならないと、そう思ったからだ。

 乱れる呼吸は静かに落ち着いていく。唇をきつく結び、彼の目から絶望と怯えは消え去った。伊吹が一度大きな深呼吸をすると、いつもの飄々とした調子で応える。

 

「二人のいる世界を、二人で生きよう」

「……。⋯⋯まるでプロポーズね」

「しまった。だったらもっとロマンチックな言葉を選んだのにな」

 

 彼の顔を横目に見つめながらからかうように微笑む灰原。その告白に、頬に微かな朱色が差す。彼も照れくさそうに困ったような笑顔を浮かべる。

 

「病める時も、健やかなる時も、ってやつだ」

 

 彼が床に置いたナイフを拾い上げてそんなことを呟いた。

 

「候補は絞ってる。正解の1本を切ればタイマーは止まる」

「もし、外したら?」

「……愛は奇跡を起こすって、相場が決まってるだろ」

 

 伊吹がその刃先を制御盤の配線の上で揺らす。残り時間は1分を切った。チャンスは一度だけだった。

 

「これ」

「オッケー……」

 

 灰原が伊吹の手ごとナイフを掴み、1本の配線の上でその刃先を止めた。確証も理由もない、本当の運任せだった。

 思わず灰原が生唾を飲み込む。伊吹の手にも力が入る。彼女の肩を抱き寄せた。痛いくらいのその力に灰原が笑う。

 

「あら、怖いの?」

「まさか」

「ほんと?」

「まあ、多少は……」

 

 緊張を誤魔化すように軽口を叩き合う2人。

 

「もし、無事に戻れたら……?」

 

 伊吹の目を見つめて灰原が何となく尋ねた。本気で聞いているわけでも、大した答えを求めている訳でもないその一言に、伊吹は一瞬考えてから、子供のように微笑んだ。

 

「……もう一度、哀の弁当が食べたいな」

「……ばかね、そんなこと。……腕にうんとよりをかけて作ってあげる」

 

 ナイフの刃先が配線の1本を引っかける。2人の手に力が込められた。ぷつりと、命をかけるにはあっけないほど簡単にそれは切り離された。

 

 

 

 

 

 

「……ありがとう」

 

 彼のその一言に、思わず体の力が抜けた彼女が、ぐったりとその胸板へともたれるように倒れ込んだ。

 さすがの彼も手で体を支えるようにぐったりと座り込む。大きな一息を吐いてから、小さな少女の体を優しく抱き寄せ、ぬくもりと鼓動を感じるのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「萩原くん今日もお弁当なんだね」

「哀が作ってくれたんだよ」

「はいはい、よかったわね」

 

 爆弾事件から数日後。伊吹は体にいくらか包帯を巻きながらも通学できる程には回復していた。彼の超人じみた体には最早誰も驚きはしなかった。

 そして今日は灰原があの日の約束通り、またお弁当を作ってくれたらしく、伊吹は朝から上機嫌で怪我を思わせないほど足取りも軽かったという。

 

「なんか、おっきくない? その日の丸」

 

 伊吹が弁当箱を開けると、そこには確かに巨大な日の丸がご飯の上に乗っていた。弁当を覗き込んだ園子が思わず聞いてしまうのも無理はない。

 

「今朝、弁当を持って行こうとしたら凄い剣幕で止められて、なんかキッチンでごそごそしてから渡されたなぁ」

「なんか失敗でもして誤魔化したのかもね」

 

 顎に手を当て天井を見上げながら「そういえば」と思い出す伊吹に、ニシシとからかうように笑う園子。

 1人じーっと弁当箱を覗き込んでいた蘭が、何かに気がついたようにパッと笑顔を咲かせる。「そっか!」と両手を叩き、照れるように頬を染めて目を輝かせながら園子に何やら耳打ちをする。頷きながら聞いていた園子が改めて弁当箱を覗き込み、彼女も頬を染めて「そっか、そっか」と両手で頬を包んで気恥ずかしそうに笑う。

 

「ね、ね、絶対そうだよ!」

「よっ、色男っ、よかったわね!」

 

 女子2人が互いの手を取り合ってキャッキャと盛り上がる。1人状況が分からないまま頭に「?」を浮かべて腕を組んだまま首を傾げる伊吹。

 

「きっと哀ちゃんの気持ちがうんと込められたお弁当だよ」

 

 口元を手で隠しながら心底嬉しそうに伊吹に教える蘭。

 

「いや、おかずも別にこの前とそんな変わらないけど……」

 

 玉子焼きを端でつまみ上げながら困惑する伊吹に、「「鈍いなぁ」」と2人の声が重なった。

 午後の帝丹高校の教室では、傷だらけの超人が1人、頭を抱えていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 朝日が重い腰を上げるよりも早い時間。街は今日も朝靄の中に未だ眠っている。昨日と同じように新聞配達のバイクだけが住宅街を抜けていく。東の空が蒼い蒼い瑠璃色から徐々に白ずんだ水色へと染まっていく。

 眠たげな目をこすりながら灰原が阿笠宅のキッチンに立っていた。黒猫のプリントされた子供用のエプロンを身につけ、壊れてしまったあの携帯の画面を思い出すように顎に手を当てる。今日も今日とて眠気覚ましの濃いコーヒーからカフェインを摂取しつつ、調理を進めていく。

 一通り完成し、腰に手を当てドヤ顔で弁当を見つめる灰原。要領を得たのか、どうやら今日のは前回以上に自信作のようだ。その弁当に蓋をしようとしたとき、灰原の手がピタリと止まる。

 両手に持ったお弁当の蓋で口元を隠しつつ、斜め上を見つめる視線は何かを思いついてどうしようか悩んでいるようだ。振り返った彼女が冷蔵庫の中から取りだしたのは、鮮やかな桃色の桜でんぶだった。

 片手に持つ桜でんぶを振りながら半眼でそれを見つめる。なにをしようとしているのか、その顔も恥ずかしげに薄らと桜色に染まっている。

 

「…………」

 

 意を決したように桜でんぶをお弁当のご飯の上へと乗せていった灰原だったが、丁寧に形を整えてそれを乗せきったとき、いつものジト目でその弁当を見下ろしていた。

 そこには鮮やかな桜色のハートが、白米の上で輝いていた。

 この前の事件の時に腕にうんとよりをかけてなど言ってしまったから、つい浮かれてやってしまった。これはだめ、さすがにやり過ぎた。そう自問自答しながら1人恥ずかしくなり、思わず自身の顔を両手で覆ってしまう。

 つい気合いを入れてしまったと反省しながら、誰かに見られてはいないかと警戒する猫のように辺りをキョロキョロと見回して確認してしまう。

 

「……」

 

 彼女の震える手が弁当箱の蓋へと伸ばされる。緊張するように固唾を飲み込み、その蓋を閉めるか閉めまいかと逡巡する。

 

「うぅむ……、哀くん、今日も作っておったのか」

「はっ、博士っ!? え、えっと、お、起こしちゃったかしらっ!? ご、ごめんなさいね」

 

 物音に気がついた博士がベッドからのそのそと起きてきた。その声に慌てて弁当を隠すように蓋を閉めてしまった灰原。

 それから目を覚ましてしまった博士の手前、怪しまれないように冷蔵庫に片付けた弁当には触れることが出来なかった。そして灰原も慣れない早起きのせいでまどろみ、リビングのソファの上でうつろうつろ船を漕いでしまう。

 落ちそうになる意識の向こうで伊吹の声が聞こえたような気がした。

 

「じゃあ、行ってきます」

「っ!」

 

 玄関から聞こえた伊吹のその言葉に灰原の意識は唐突に覚醒した。慌ててソファから駆け下り玄関の彼を呼び止める。

 

「あ、起きた? 今日もお弁当ありがとう」

 

 彼がそう言って笑いながら手に持った保冷バッグを見せつけてくる。灰原は咄嗟にそのバッグを両手で引っ掴む。

 

「ええっ、なになに?」

「ちょっと待って」

「え、いやでも」

「いいから、ちょっと待ってなさい」

「はい……」

 

 目尻を吊り上げて顔赤く染めながら呼び止める彼女には有無を言わせない迫力があった。伊吹から弁当を奪うと彼女はキッチンへと駆け込み、博士に見られていないことを確認してから急いでそのお弁当に踊るハートの上に追加の桜でんぶをふりかけ、それを隠すように無理矢理大きな日の丸へと変えてしまった。

 

「……はい、持って行っていいわよ」

「う、うん。ありがとう」

 

 何が何だかと首を傾げる伊吹がそそくさと出て行く。朝から多大な疲労感を感じる灰原がぐったりと、リビングのソファに座り込んだ。

 

『――座の人の今日のラッキーアイテムは、ハートのお弁当! 愛する彼のために――』

 

 テレビから流れてくる今朝の占いコーナーに、人の苦労も知らずに今更なんだと、無性に腹が立つ灰原だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「はあ……」

 

 帝丹小学校の休み時間。灰原は眩しい陽光にその綺麗な瞳を細め、高い空を見上げながら今日何度目になるか分からない溜め息を吐く。朝から心がモヤモヤとして落ち着かない。

 

「哀ちゃん、どうしたの?」

「トイレがまんしてんのか?」

「違うわよ」

 

 子供たちの声もどこか上の空で、ぼんやりと考え事をしてしまう。

 もし、もしあのまま渡していたら、彼は喜んでくれたのだろうか。どんな反応をしたのだろうかと、想像が頭の中をぐるぐると止めどなく巡っていく。

 

「はぁ……」

「また溜め息ついてるね」

「どうしたんでしょうね、灰原さん」

「腹減って給食が待てねーんじゃねーの」

 

 明るい太陽の日射しの反射か、憂うような期待するような眼差しが瞳に浮かび、空をのんきに漂う雲を反射する。その雲に飄々とした彼の姿が重なって、汚れのない白い彼女の頬が少し、桜色に染まっていた。

 

「はぁ……」

「あ、また」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あ、それ俺と同じ機種だよ」

「あら、そうだったかしら」

 

 後日、あの事件で携帯が壊れてしまったため、新しい携帯を探しに来た灰原と付き添いの伊吹。彼女が「デザインが気に入った」と手に取ったのは伊吹が使用しているモデルの色違いだった。

 

「データは大丈夫?」

「携帯には大したデータは入れていなかったし、バックアップも取ってあるから大丈夫よ」

「そ、ならよかった」

「……あ」

「どしたの?」

「……残念なことといえば……一つだけ。……あなたとのメッセージのやりとりが見返せなくなったことかしら」

 

 連絡先のバックアップはとっていた灰原だったが、過去のメッセージのやりとりまでは保存していなかったらしい。

 

「それこそ、大したこと話してないから大丈夫でしょ」

 

 なんてことないように言う彼にどこか不満そうな、不服そうな目を向ける灰原。横目の半眼で彼を見上げる。

 

「わかってないのね。……大したことないから、大切なのよ」

 

 「ま、仕方ないわね」と新しい携帯を片手に先を歩いて行く灰原。彼女は時折、思い出したように、彼とのメッセージをのやりとりを見返していたらしい。

 「そういえば」と後ろからついて行く伊吹が何かを思い出したように報告する。

 

「ネットのお気に入り登録は引き継がれてるらしいよ」

「そう」

 

 彼女がチラリと振り返り伊吹の顔を覗いてから、確認するように自身の携帯を操作した

動物系のサイトやニュースサイト、BIG大阪関係のスポーツサイトと並んで一番新しくお気に入り登録したサイトが目に止まった。

 画面を傾けて伊吹にから覗かれないようにして振り向く灰原。彼の呑気な笑顔を見つめて、微かに染まる頬に気づかれないように再び前を向き直る。

 ちょっと呆れるように小さく笑った彼女がそっともう一度、画面を確認する。そこには白やピンクの配色が可愛らしい、いかにも女の子らしいサイトが表示されていた。

 

 

 

 

――『彼氏に褒められる! おいしいお弁当の作り方』――

 

 


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