初夏の陽気が漂うこの雑木林の小道は、歩いていて心地が良い。砂利道ではなくて、 石畳の道が雑木林の奥の奥まで続くこの雰囲気が私は好きだ。
今日の私は、ちょっと気分が良い。理由は、行きつけの饅頭屋でおはぎをおまけしてもらったから。そう心の中で思いながら、椛はまだほんのり温かいおはぎの袋を抱えて帰路に着こうとしていた。
「あやや、随分と良い匂いを流してるじゃないですか、椛」
この人が来るまではだったが。
「…何の用ですか、文さん」
「あやー、そんなに睨まなくてもいいじゃないですか…」
おはぎの匂いに釣られたかどうかは知ったことではないが、この射命丸文はこの様な展開では椛にとって最悪の天敵である。
「私の非番の日にまで付き纏うのは止めて下さい」
「そんなつもり無いですよ。気色の悪い」
「どの口が言ってるんですか」
椛は射命丸の言葉を適当に流し足取りを速くする。
「椛に緊急の連絡を伝えに来たんですよ。銀杏さんからの言伝でね」
「…銀杏様が?」
「何でも今直ぐに来て欲しいそうですよ」
彼岸路 銀杏(ひがんじ いちょう)。椛の上司に当たる女性である。
椛の眉間に一瞬皺が寄った。折角の休暇がおじゃんになるのだと確信した。溜息ひとつ出したい所だが、射命丸が居る手前、そうする訳にはいかない。
指で顳顬を掻くふりをして、行き場のない気持ちを抑えようとする。
「わかりました。文さん、ありがとうございます」
そう言い終えるやいなや、射命丸は椛の抱えていたおはぎの袋を取り上げる。
「…何のつもりですか」
「御使いのお駄賃として頂きますね。おはぎ私も大好きですよ」
と射命丸はほくそ笑んでおはぎをひとつ頬張る。
「返してくれませんか、本当に斬りますよ」
椛は腰脇に差した刀をスラリと引き抜く構えを見せる。
「おお、こわいですね。いくら何でもおはぎひとつでそれはないでしょう?目尻の皺が増えちゃいますよ」
「………」
「あ、あと銀杏さんはご自宅で待ってますからね。間違えちゃダメですよ椛」
そう言ったかと思うと、射命丸は木々の葉を撒き散らし見えないほど遠くまでへと飛んで行った。
「ああ…もう」
椛はその場で軽い地団駄を踏み、鬱憤を露わにする。が、それも結局は虚しいだけであり、跡にはなにも残らない。それを分かっているので、尚更虚しい気持ちは増していく。
「だからカラスは嫌いなんだ…」
椛は捨て台詞のようにそれを吐き捨て、銀杏の所へと急いだ。
椛は昔から鴉天狗が嫌いだった。傲慢で馴れ馴れしい性格。自分達とは似ても似つかない、逆さまのような存在。確立された向後。それが地面を這って生きた白狼天狗の身としては許せないのだ。普段の任務をこなしていれば、鴉天狗と接触する機会はそうそう無いが、最近は哨戒任務の他に沢山の雑務を命じられた所為で、彼らと関わる時間が増え、散々にこき使われた挙句、罵声を浴びせられては堪らなかった。
ストレスが増えたのだろう、ここ数日は髪の丁寧な手入れすらしていないなと、跳ねた白髪を弄りながら、椛は銀杏の家にたどり着いた。
銀杏の家は、やはりと言うか想像よりも大層な構えで、今さらだが椛は少し緊張した。何せ銀杏様から直々のお呼びな訳で、何があるかは分からない。とにかく、淫らな恰好だけはいけないと、解けかけていた裾の紐を結び直し、髪を精一杯元に戻す。
「犬走様ですね、お待ちしていました。こちらへ」
銀杏様のお付きの人であろう白狼天狗が椛を手早に誘導する。綺麗な成りで、整った顔立ち。服装は一切乱れておらず、真っ赤な髪留めを付けている。椛はこの自分より年下であろう白狼天狗が少し羨ましく思えた。
「銀杏様、犬走様がお見えになりました」
「ご苦労、早速通してくれぬか」
そう言うとお付きの人はジェスチャーでどうぞ、という振りをして先に広間へと入った。
「失礼致します、犬走椛に御座います」
もう一度自分から挨拶をして、中へと入る。其処には銀杏、お付きの人、そしてもう一人、見知らぬ顔の男が座っていた。
「椛、来たか。急な呼び出しですまなかった。取り敢えず掛けてくれ」
椛は軽く会釈をして座る。
「さて、これで全員が揃ったわけ、といっても二人だけであるがな」
と銀杏は少し笑って見せたが、椛は真剣な顔を崩さない。隣の男も同様にだった。
「本題を話す前にだが、椛にはこの男のことを説明しておかなければなるまい」
椛も微かにだが頷いて目だけが男の方を向く。
「この男の名は斑鳴 千畝(はんなり ちうね)。椛と同い年の鴉天狗でな」
一瞬だが、椛の顔がひき攣る。またカラスですか、と言いそうな口を噛み締めて必死に押し殺した。
「ん?どうした椛、なにかあったのか?」
「いえ、何も御座いません」
銀杏は少し怪訝なふうに椛を見ながらも、話を続ける。
「千畝は鴉天狗ではあるが天狗の郷の中では腕の立つ剣士でな」
椛にとって正直そんな事はどうでもよかった。今はこの千畝とかいう鴉天狗から離れたい一心だった。名前とは裏腹に、かなりの威圧を感じる。本当に見ず知らずで道端で出会って天狗と分かっていなければ真っ先に斬りかかっているだろう。ほんの少しの間沈黙が続いたが、銀杏が口を開いた。
「そこで今日二人を呼んだのは、二人にある事をしてもらいたくて呼んだのだがな…」
それから暫くして、二人は共に里まで帰るよう銀杏に命じられた。椛は顔面蒼白になりながら外に出て、千畝はその後を追うように歩いて行った。
「…椛さん、大丈夫でしょうか」
「多分今は駄目だろうな。何せ椛は仲間内でも鴉天狗内でも相当のカラス嫌いと言われておるしなあ」
「またどうして大天狗様はあの様な命令を御下しになられたんでしょうか?」
「さあの。それは儂にも分からない」
(………椛………)
此の時、天狗の誰一人知る由すら無かった。
白狼天狗が鴉天狗に嫁入りすると。