風呂から戻り、北上と大井に第六駆逐隊の四人を任せ部屋でストレッチを行う。呼吸と共に身体を動かし、身体の隅々まで意識を伸ばしていく。
「少し鍛錬でもするか」
些細なものではあるが身体が少し硬くなっている気がする。肉体的鍛錬の量が減ったとはいえ、それでも維持には気をつけてきたのだが。
「大井です」
「鍵は開いている」
部屋の扉が叩かれ、大井が入って来る。
「四人を寝かせ終わりました」
「そうか。別に報告などはいらなかったのだが」
「北上さんが心配するからと」
意外とまめな性格だったんだな、北上は。
「わかった。報告感謝する」
これで終わり――のはずが、まだ大井の姿はそこにある。
「どうかしたか?」
「少しいいかしら?」
そう言うと部屋の扉を閉める。
「提督は、まだあの遊びをなさっているので?」
「あの遊び? 催眠術の事か?」
「ええ、そうです。それで、どうなんですか?」
もしかして怒っているのか? 口調こそは丁寧だが威圧感がある。
「たまにだがな。大井には、もうやらないから安心しろ」
前に一度だけだが大井に催眠術を掛けた事がある。結果は、特に無し。正直に言って、大井は信用できない。催眠術に掛かったフリをしている可能性が高く命令を下した瞬間を狙ってくる可能性がある。私から北上の安全を守るための行為ではあるが、こちらとしては手を出すのは細心の注意を払う必要がある。
「……私だけですか?」
威圧感が更に増す。
「北上にもやるなと言いたいのか? わかった。大井がそう言うのならやめておこう」
言葉はすぐに返ってこない。その代わりに鋭い双眸がこちらに向けられる。少なくとも上官に向けるものではない。
「……北上さんは、今まで通りでいいです」
「ん? そうか」
今の大井がよく分からない。これは新たな作戦か?
「……もう面倒なのは嫌いなのよ!」
そう言うと、大井はベッドに腰掛ける。
「私が身をもって提督の催眠術が安全か調べてあげます! ほら、サッサと掛けたらどうですか?」
「よく分からんが、流石に時間が遅い。日を改めて――」
「やるのやらないの?」
「……やります」
大井に言われるがままに準備をしていく。とりあえず、五円玉のでいいか。
「本当にいいんだな?」
「何度も言わせないでくれます?」
笑顔が怖い。
「では、やるぞ」
大井の目の前に五円玉を吊るし下げる。
「大井は、眠くな~る。ドンドン眠くな~る」
紐で吊るした五円玉を左右に揺らしていく。古典的な物だが今の私なら有効的な催眠術を掛ける事ができる。
「どうだ、大井? 眠くなってきただろう?」
ジッと見ていた大井の瞼がゆっくりと落ちてくる。ここまでは、前回と同じだ。
「……大井?」
大井の顔の前で手を振る。反応は無し。
「大井も掛かる方だと思うんだが……」
《球磨型 大井》
危険です。催眠術を掛ける場合は気をつけて下さい。ポイントとしては、優しく紳士的に接しましょう。焦らず騒がずゆっくりと慎重にお願いします。いろいろと大変だと思いますが一度上手く行けばこちらのものです。
本に書かれていた内容が、ただの注意書きにしか思えなかった。その為、前回は命令などはせずに確認だけで終わってしまった。
「さて、どうしたものか?」
確認の為に手に触れてみる。頬を指でツンツンしてみる。普段なら一言あるはずだが何もない。
「他の手段を考えるか」
大井の反応を見る一番の方法は間違いなく北上関係だろう。例えば、悪口なんてどうだろうか? 北上の悪口を言われれば……いや、ダメだ。北上の悪口を言う気にはなれん。そうなると別の方向からいってみるか。
「大井。実はだな、この前北上に抱きついた」
「…………」
言葉こそないが、部屋の空気が重いものに変わった。
「本当に眠っているんだよな?」
未だに瞼は落ちている。表情にも変化はない。あるのは場に満ちる威圧感だけ。
(北上に抱きついた以外で何かあるか?)
抱きつく以外で実際にありそうなこと。そうなると……もし仮に罠なら死ぬかもしれないな。
「実は、もう一つある。私は、北上とキスをした」
「…………」
何もない。先ほどまであった威圧感も消えている。まるで嵐の前の静けさのような気もしなくはないが、キスまでした私に大井が何もしないわけがない。
「抱きつくだけならともかく、キスでも反応は無しか。コレでもダメならいっそのこともっと凄いことにしておけばよかったな」
キス以上となるとそれはもうアレだ。嘘とは言え、大井の前ではなかなか口にはし辛いな。
「大井。本当に催眠術に掛かっているのか?」
訊いても返ってくることはない。
「……よし、わかった。大井。私はこれからお前に抱きつく……起きているのなら今のうちだぞ? 本当にやるからな?」
大井の横に座り、肩に手を回す。すると、ビクッと大井の身体に反応がある。
「嫌なら逃げろよ? 今なら殴ったとしても不問とするから」
ゆっくりと大井の反応を見るように抱き寄せる。
「本当に眠っているのか?」
未だに疑念は消えない。しかし、一つ確かな事は大井を抱きしめる事に成功した。
「まさかあの大井をこうして抱きしめる時が来ようとは思わなかった」
大井の髪が頬に触れる。柔らかく毛並みは良いのだろう。心地良い感触だ。匂いも初めて嗅いだ。どうやら大井は香水などを付けていないようだ。もしかしたら先ほど風呂に入り、尚且つ後は眠るだけなので付けていないだけかもしれないがそれでも香るのはなぜだろう。ずっと嗅いでいたい。
「このまま眠りに就きたいものだ」
もしそれができれば良い夢を見られる事だろう。だが、そうはいかない。
「名残惜しいが部屋に帰さない訳にもいかない。北上も心配するだろうからな」
大井から離れ、元の位置まで戻る。
「これから催眠術を解く。大井、催眠術に掛かった後の事は全て忘れろ、いいな? それでは、指を鳴らすと大井に掛けた催眠術が解ける」
指を鳴らして起こす。
「…………」
ゆっくりと目を開けた大井は、提督をジッと睨む。
「どうかしたか?」
平静に対応するんだ。大丈夫、問題はないはずだ。
「……やっぱり、ダメね。これなら北上さんも安全でしょう」
「そうか。やはり私の催眠術は不完全なようだな」
「当然です。提督は、素人なんですから。でも……気が向いたら付き合ってあげます」
大井は、そう言うとベッドから立ち上がり扉の方まで移動する。
「それまで、精々催眠術の腕でも磨いておいてください」
その言葉だけ残し、部屋から立ち去る。
「なんだこの敗北感は」
催眠術に掛かったはずなのに負けた気がする。
「大井よ、いずれ再戦する。その時まで待っていろ」
大井への再戦を誓うと、ストレッチの続きに戻る。しかし、先ほどまでと違い身の入らないそれはどれだけの意味があるのだろうか。
♢♢♢♢♢♢
「お帰り、遅かったね」
「起きていたんですか!?」
「大井っち、静かにしないとダメだよ? 寝ている人も居るんだからさ」
大井と北上の部屋には、他にも人が居る。三、四人で一部屋が此処の決まりだ。
「ごめんなさい」
大井は、北上が上に居る二段ベッドの下へと潜る。
「大井っちもさ、今の状況を上手く使いなよ。そうでないと後で後悔するよ?」
「私は、別に……」
「そうかな~?」
上の段から北上が降りて来て、大井の所へと潜る。
「ちょっと北上さん!? 嬉しいですけど、いきなり――」
「クンクン。大井っちから誰かさんの匂いがするな~。これは、どういう事かな? 北上様に教えてよ、大井っち」
「それは……」
それから北上による尋問が始まる。
「うるさくて眠れないクマ~」
同居人の苦情も知らずに二人の夜は更けていく。