ARMORED STRATOS 兎と鴉の唄   作:バカヤロウ逃げるぞ

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修正版


21 オヤコ シテイ

 研究室では愕然とした空気が流れていた。

 

 クロエの暴走(・・)

 

 それは普段のしっかりとした彼女の態度からでは、ジャックも束も想定していなかった事態だった。

 クロエが暴走した瞬間ジャックは彼女を取り押さえ、束は遠隔操作のシステムをシャットダウンさせて一夏への攻撃を阻止しようとした。

 しかし取り押さえようとしたジャックは逆にクロエに投げ返され、シャットダウンを試みた束はクロエのコア同調能力によって逆にシステムを一時的に乗っ取られてしまった。

 今はジャックによって物理的に、束によってシステム的に取り抑えられたことでクロエの暴走は収まっている。

 クロエは肩で呼吸をしていたが、それも徐々に収まり始めている。抵抗する素振りを見せなくなったのをジャックは確認すると、クロエが装着しているHMDとコントローラーを取り外した。

 ヘルメット型HMDを取り外されたクロエは汗で顔中が濡れ、頬を紅く染め涙目になっていた。

 

「くーちゃん……」

 

 システム面を掌握し終えた束がコンソールから離れてクロエを見つめながら近付く。ジャックも取り押さえていた彼女を開放するとその場に座らせ顔を見る。

 しかしクロエは荒かった呼吸も昂っていた精神も落ち着きを見せるが、見つめてくる二人の視線をまるで「自分は悪くない」という子供の様に、振り払うように顔を背けた。

 

「クロニクル、何を考えていた?」

 

 ジャックは片膝を着きクロエとの視線の高さを合わせてから、落ち着いた様子で訊く。

 

「私は、私、は……」

 

 何を考えていたのかを訊かれたクロエは、そこで漸く頭が冷え徐々に自分がしでかしたことの大きさを知り蒼褪めていく。悲しいことに彼女は賢かったために現実逃避という手段が出来ず、事実を受け止めてしまった。

 そしてまた呼吸が激しくなり跳ね上がるように立つと、二人から逃げるように研究室から出て行った。

 

「くーちゃん!」

「慌てるな、博士。この研究所からは出られまい」

 

 束は逃げるクロエに対して大声を上げる。だがジャックは冷静に、クロエの独力ではこの研究所から逃げることは出来ないことを束に告げた。

 

「そういう場合じゃないでしょ、ジャックくん!? てか、なんでそう冷静でいられるの!? くーちゃんが心配じゃないの!?」

 

 クロエが何故(・・)暴走したのか。何故(・・)自分たちから逃げるように研究室から出て行ったのか?

 束の予想を超えた事態だというのに冷静でいるジャックに、彼女は声を荒げてしまった。ジャックはそんな彼女の態度に激情することなく、変わらず冷静さを保ちながら口を開ける。

 

「私だって心配だ、博士。だが、我々まで取り乱してはどうしようもなくなるのではないか?」

「それは分かっているよ!? でも、どうして? くーちゃん……」

「分からぬなら、お前が直接クロニクルから動機を訊いてくれば良い。それだけではないか?」

 

 最もな解決方法をジャックは束に提示する。だか、そう言われた束は疑問を抱き、眉をひそめてしまった。

 

「あのさぁ、くーちゃんは今さっき束さんたちから逃げるように出て行ったよね? いきなりそんなギクシャクした状態で直接話をして来いっていうの?」

 

 最近の束にしては珍しく棘のある声でジャックにそう言い返した。

 言われたジャックはというと、研究室に持ち込んでいた冷水が入ったペットボトルを二本持つと、右手に持つ方を束に差し出し、もう一方のキャップを開けるとそれを一気に飲み干した。

 

「博士の言う事も正しいだろう。私だって空気は読む」

 

 ジャックも今の状態でクロエから直接動機を聞き出すことは、あまり良い手段ではないことを理解している旨を束に告げる。

 

「なら、なんでそんなことを……」

「だがな」

 

 束は理解しているのであれば何故それを提案したのかを訊こうとしたが、その最中にジャックによって遮られてしまう。

 

「だがな、博士。お前はクロニクルに対して自分は彼女の“何” だと言った?」

 

 それは今思い返せば随分と昔の話になるな、とジャックは言いながら思う。束もジャックが何の事(・・・)を言っているのかを直ぐに理解した。

 

「束さんは、くーちゃんの……」

 

 彼女にとって親しい人たちとの時間は、決して忘れることのない記憶として残されているのだから。

 

「くーちゃんの、お母さんになるって……」

「……ちゃんと覚えていたか」

 

 もし覚えていなかったら舌先だけの人間というレッテルを張ろうかともジャックは考えていたが、それが杞憂に終わりちゃんと束が彼女に対して告げた言葉を覚えていることに一安心する。

 

「束さんだって、ジャックくんやくーちゃんに、ちーちゃんたちと過ごした時のことは一秒たりとも忘れたりなんかしないよ」

「ならば、尚の事彼女と話をして来い」

 

 ジャックは束に対してただそう告げた。そして束の返答を待たずに言葉を続ける。

 

「偉そうなことは言えない身ではあるがな、博士はクロニクルに母親になると言ったのであれば、他人として接するのではなく、彼女の母として接してやるべきではないか?」

「くーちゃんの、お母さんとして……」

 

 ジャックに言われたことを復唱するように束は言葉を漏らす。

 

他人(・・)であれば博士の判断は正しい。しかし、母親になると言ったのであれば、母親(・・)として(クロエ)の気持ちを、しっかりと分かってやるべきではないか? 多少踏み込んでも、だ」

 

 ジャックはそう提言しながら飲み干したペットボトルを握りつぶし、ゴミ箱へ向けて投げた。放り投げられたペットボトルは弧を描きながら、精確にゴミ箱の口へと吸い込まれるようにして入っていった。

 

「でも、それならジャックくんでも……」

「私は普段から彼女に稽古をつける傍ら、彼女と会話していた。それでも彼女の心境を知ることは出来なかったがな。だが、博士。お前はどうだ?」

 

 束はジャックでも代わりが利くと思いそう言うが、ジャックからの反論に口を閉ざしてしまった。

 

「お前はクロエと、一対一で、ちゃんと、会話をしてきたか?」

「た、束さんは……」

 

 ジャックにそう言われて、束は遂に口を閉ざしてしまう。

 彼女は親しい人との記憶なら一秒たりとも間違えずに覚えている。クロエと主に会話するときは決まってジャックが隣にいた。ジャックとのけいこの終わり際、三人での食事、それにこの間や今回の様なこと。それが殆どだった。

 

 ならば何故、クロエとのマトモな一対一の会話が、彼女を蘇らせたときの物しかない(・・・・・・・・・・・・・・・)のか?

 

 束はジャックからそう言われて、初めてクロエと二人きりで接し、会話した時間の圧倒的な少なさを知り、膝を着いてしまった。

 

「私は……」

 

 ジャックでも見たことが無い、束が一人称を使う姿。ジャックの言う事が正しくて、母親になると言っておきながらの自覚の無さを思い知らされて、クロエのことを分かってやれなくて……。束はそれらを思い知り、余りものショックから“私”を使ってしまった。

 

「遅くは無い」

 

 ジャックは膝を着き俯く束の前にしゃがむと、彼女の両肩に手を置いた。

 

「遅くは無いって言っても、今更母親って言ったって……失格だよ! 何も分かってあげられていなかったんだもん!!」

 

 あの時の酔った勢いとはいえ、束は余りもの体たらくに悔し涙を浮かべながら投げやりにそう叫んだ。

 

「……博士、私はな、世界を救うための強者を見極めるために、親友を殺したことがある」

 

 突然昔話を始めるジャックに束は鼻をすすりながら顔を上げた。

 

「親友を……?」

「ああ、そうだ。そうでもしなくてはならない程、世界の滅びが近づいていた」

 

 ジャックの話す内容に口は挟まなかったが、束からすればそれは衝撃的な内容だった。世界が滅ぶのを防ぎ救うための強者を選ぶために、親友を殺したという事に。

 束は、自分ならばそうはしないと考える。むしろ滅ぶと分かっていても、親友(千冬)たちと共に居ようと考えてしまう。

 

「彼は最期にこう言ったよ。『どうして』と。私は、あいつに真の目的を伝えることなく、建前の目的だけを伝えて……裏切り者に仕立て上げて、見込んだ強者にけしかけた」

 

 束はただ、ジャックにしては珍しい過去の告白に耳を傾けた。

 

「陰謀家として生きていたが、あの時程悔やんだことは無い。機密の漏えいを防ぐためとはいえ、何故あいつに真実を伝えなかったのか、とな。まさか、私もあいつも、生き返って再会できるとは思わなかったが」

「それって、北アフリカで会ったレイヴンのこと?」

 

 束の問いにジャックは頷く。

 

「あのお人好し、私が全てを打ち明けると赦してくれたよ。そしてあいつは、真実を教えてくれてもよかったのにと言っていた。その時思ったよ、生き返ってよかった、とな」

 

 ジャックはそう言いながら立ち上がる。

 

「何が言いたいかと言うとな、生きていれば遅いという事は無い、と伝えたいのだ。片方が死んでしまえば、分かりあうことなど出来はしないからな」

 

 ジャックはそう言うと頭を掻く。

 

「私が博士に遅かったと言うときは、クロニクルが死んだ時だ。自覚が無かったとはいえたかが数ヶ月、まだ博士には十分にやり直す機会はあると思うぞ」

 

 ジャックにそう言われた束は、両手で握る冷水が入ったペットボトルを見つめる。それは鈍く彼女を反射していた。

 

「今まで母親として行動していなかったならば、今からでも娘の気持ちを訊いてやれ」

 

 束はジャックの方に視線を移す。そこにあったのは見下すものではなく、彼の真剣な表情と眼差しだった。それに促され決心した束は瞳に浮かんでいる涙を腕で拭うと、ペットボトルのキャップを外し、冷水を一気に飲み干した。

 

「……くわぁ~! ギンギンに冷えているよ、これ!」

 

 ジャックが渡したペットボトルは、先程彼が一気飲みしたものよりも更に冷えているものだった。氷水の様に冷たいそれを一気飲みした束は、冷えたものを急いで食べた時の様な頭痛に襲われる。

 

「やはり私たちの間には、良い話だったというオチは無い方が良いな」

 

 頭を押さえ痛みに耐えている束に対して、ジャックはしてやったという悪い笑顔を浮かべながらそう言った。

 

「い、今に見ていろ! 束さんは、いいお母さんになってやるんだから!」

 

 余程痛かったのか、涙を浮かべる束はジャックに指をさしながらそう宣言するとすかさずクロエが居るであろう部屋へ向かって走って行った。それを見たジャックは、ゆっくりと立ち上がると彼女の後をついて行く。

 

「そうだ。私と違って、やり直せる。遅すぎるということは、ないのだ……」

 

 

 

 

 クロエは自室に置かれたベッドに逃げるように潜り込み、枕に顔を埋め嗚咽を漏らしていた。それは全てから逃げる、彼女なりの現実逃避だった。しかし、賢いが故に彼女は自分がしてしまったことの大きさを理解し、後悔の念に苦しめられる。

 何時までも止まらない涙。黒い眼球でもハッキリと分かる程充血し、瞼も赤く腫れあがっている。それでもクロエの瞳から涙が止まる気配は無かった。

 

(私は、どうして……)

 

 クロエは、研究室で無人機を動かしていた時のことを思い出していた。

 

 無人機の遠隔操作。緊張していた自分を解すジャックと束。

 二機目として襲撃に参加し、その操縦を見て称賛するジャックと感嘆の声を上げる束。

 マッチポンプであるため“負けなくてはいけない”という、残酷な結末。

 だからこそ沸き上がってしまった、負けたくない(・・・・・・)という激情。

 負けたことで沸き上がった恐怖心。

 

(ああ、私は……)

 

 彼女がそう思っていると、扉の外から足音が聞こえてくるのが分かった。それは彼女からすれば死刑執行人の足音にも感じられた。

 それを聞いたクロエはベッドにある掛け布団を自身の頭まで覆いかぶさるように羽織った。たとえ無駄な足掻きであったとしても、そうでもしなければ精神が保てなかったから。

 部屋の前で止まる足音。クロエは瞼をきつく閉じた。

 

「くーちゃん、居る?」

 

 それは、今の彼女からすれば一番会いたくない人の声だった。

 

「束さん、くーちゃんと二人でお話ししたいなぁ」

 

 扉の向こう側から聞こえてくるそれは、不気味なものでも怒気を含んだものでもなくなく何時か聞いた、母親になってあげると言ってくれた時と同じの、あの優しい声だった。

 クロエはその声に釣られてベッドから這い出ると扉まで行き、ロックを外して開けた。

 彼女の前には、普段傍らに居るはずの師匠(ジャック)の姿は無く、珍しく束だけが立っていた。

 

「束様……」

「あ~あ、くーちゃんったらお目目真っ赤。そんなにしたら可愛い顔が台無しだよ」

 

 束はスカートのポケットから柔らかそうなハンカチを取り出すと、涙で汚れたクロエの顔を拭き取る。クロエはそれに抵抗せず、ただ束の厚意を受け止めた。

 

「ねぇ、くーちゃん」

「は、はい」

 

 じっと束の厚意を受け止めていたクロエは突然声を掛けられ、素っ頓狂な声で応えてしまう。やがて束はハンカチでクロエの涙を拭き終えると、それを折り畳んでスカートのポケットにしまった。

 

「束さん、くーちゃんと二人っきりでお話ししたいの。くーちゃんが何を思ったのか、考えていたのか、束さんは知りたい」

 

 いつものふやけた様な笑顔ではなく、あの時(・・・)と同じ柔らかく優しい笑顔を向けながら束はそう言った。クロエは少しだけ躊躇ったが、諦めたように頷き束を自室へと招いた。

 クロエの部屋に入ると彼女はベッドに腰かけ、束は机の傍にあった椅子をクロエの方に向けて対面するようにして座った。

 

「束様。私は……」

「くーちゃん。束さんはね、ただ怒りに来たわけじゃないよ。くーちゃんの気持ちが知りたいの」

 

 開口一番に謝ろうとしたクロエに対して、束は叱りに来たわけではないことを告げる。そして彼女があの時、何を思ってあのような行動に出たかを知りたいと告げた。

 

「このまま分からないままだと、束さんはくーちゃんのお母さん失格だよ。だから、知りたいの」

「……」

 

 束から動機を話すように促されて、クロエは観念したように、あの時何を考えていたかをポツリ、ポツリと話し始める。

 

 

 

 

 クロエは最初に束に対してこう告げた。

 

 自分はただ、嬉しかった(・・・・・)のだと。

 初めて二人から頼りにされて。二人から純粋に褒められて。そして、二人から認められて。

 

 クロエはずっと思い悩んでいた。常に自分がこの研究所で一番下の地位にいることを。それは嫉妬ではなく、高い知能を持つ束に、数々の修羅場を潜り抜け経験豊富なジャックと自分を比べ、果たして二人の邪魔になっていないのだろうか、と。

 たった一人で世界を変えてしまった天災と、闇の世界で生きてきた強者。二人の言葉は本心ではなく、うわべだけのものではないかとクロエは思う事が度々あった。二人の本心が分からなくて、何度も不安にさせられたのだと言う。加えて、二つの分野での天才に板挟みにされ、更に彼女が遺伝子強化試験体の失敗作(・・・)の烙印を押されて劣等感を無意識に抱いていることが、それを増長していた。

 

 だからこそ成長しなくては、と焦っていた。

 

 ジャックとの稽古は、肉体的に強くならなければ二人の足を引っ張ると思って頼んだという。束へのIS改修の手伝いは、少しでも知能面で彼女の隣に立てる程にならなくてはと思って承諾した。

 

 だが、時が経てば経つほど、肉体的にも頭脳的にも、己と二人との間には絶望的な差があることを思い知らされた。

 

 そんな絶望していた時、自分には生体同期化したISコアとの同調能力があることが分かった。それは彼女からすれば暗闇の中に差し込んできた一筋の光。

 二人にはない力を使い、二人のために役に立とうとクロエは粉骨砕身の覚悟で頑張った。それにより一夏の専用機の改修完了が早まったり、今回の無人機の遠隔操作を可能にしたりと、役に立ったことに彼女は内心とても喜んでいたという。

 

 そして今回の襲撃計画は、そんな彼女にとって嬉しいことの連続だった。

 束から教わったISの知識と、ジャックとの稽古によって身についた体術を最大限活用して無人機を遠隔操作したが、それは彼女が思っていた以上の動きをすることが出来たのだ。その時、クロエは今まで我武者羅になってやっていたことがちゃんと自分の身についていたことに驚いていた。

 更にディスプレイに映る彼女が遠隔操作するISの動きを見たジャックは、素直に称賛の言葉をアフレコする傍らでクロエに送り、束は想像以上の動きを見せていることに驚き、クロエの才能に感嘆していた。

 

 それがクロエにとって堪らなく嬉しかったのだ。

 無駄だと思っていたことが、ちゃんと自分のものになっていて。

 今まで負担を掛けていた二人から褒められ、認められたことが。

 

 だからこそ、クロエはこの襲撃計画の最後が嫌になっていた。

 織斑一夏を成長させるための計画であるため、最終的に負けなければいけないという結末が。

 ならば八百長の様にわざと負けてやろうと考えていたが、その結果は怒りに身を任せ零落白夜の封印を解除した一夏によって敗北を味わわされるというものだった。

 

 負けたとしても元々計画通りであるため束もジャックも何も言うことも無かった。だが、クロエにとっては一大事だった。

 零落白夜の解放という予想外の事態に対応できずそのまま敗北。更に戦闘が終わった後に束もジャックも声を掛けてこなかった。

 それはクロエからすれば、見捨てられたかのように思えて、昔、失敗作と烙印を付けられ強制的に眠らされた記憶が蘇ってしまった。

 

 クロエは悔しかった。最後の最後で、純粋に力負けを起こしたことが。クロエは怖かった。また失敗作(・・・)の烙印を押されることが。

 

 だから勝者(一夏)に対して悪あがきをした。

 負けたくないという純粋な闘争心から。見捨てられたくないという恐怖心から。

 

 それが、クロエが暴走を起こした理由だった。

 

 

 

 

「ごめんなさい……」

 

 全てを告げ終えたクロエは、普段から着ている青いギャザースカートの裾を握りしめ、目の前に座る束にそう言った。

 クロエの告白を聞き終えた束は静かに目を閉じ、一度深呼吸をして椅子から立ち上がると、クロエへと近づいた。

 クロエはじっと処罰を受けるのを待った。鍛える対象であった織斑一夏を半殺しにし、更には妹である篠ノ之箒すらも攻撃対象にしたのだ。言い訳をしたところで、彼女の犯した罪は消えなければ、罰を逃れることも出来ない。

 

 目の前に束が立つと、ぶたれると思ったクロエはギュッと目を閉じた。

 

 

 

 しかし、彼女を襲ったのは頬に来るはずの痛みではなく、優しく抱きしめられるというものだった。

 予想していたこととまるで違う事態に、クロエは目を見開いてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして抱きしめてくる束から出てきた言葉に、クロエは信じられないと驚いてしまった。

 

「そんな、束様は悪くは……」

「ううん。束さんが悪かったよ」

 

 束は反論しようとするクロエと目を合わせた。

 

「束さん、全然分かっていなかった。くーちゃんが……くーちゃんがそんなに思い詰めていたなんて」

「そんな、こと……」

 

 まだ反論しようとするクロエに対して、束は彼女を強く抱きしめ、優しく背中をさすり叩く。

 

「くーちゃん。大丈夫、大丈夫だよ。くーちゃんの傍にいるから。絶対に見捨てるようなことしないから」

「で、も……私……」

 

 束は鼻声になるクロエともう一度、目を合わせた。

 

「こんなにもくーちゃんは頑張っているのに、見捨てるなんてしないよ。こんなにも頑張っている娘を見捨てるなんて、母親失格だよ」

 

 束はそう言いながら、クロエが流している涙を指で拭き取る。

 

「ほ、本当に? 本当に、見捨てない?」

「見捨てないよ。見捨てたりなんかしないよ。くーちゃんは束さんの大切な娘なんだから」

 

 未だに見捨てられるのではという恐怖心を抱いているクロエに対して、束は優しくクロエの頭を撫でながらそう言う。

 

「お母さんになってあげるって言ったのに、こんなに追い詰めちゃって……くーちゃんの気持ちに気付けなくて、本当に、ごめんね」

 

 束はそう言うともう一度クロエを強く、強く抱きしめた。

 

「あ……う、ぁ……」

 

 クロエは思う。何故母が謝らなければならないのか、と。悪いのは、あの時二人の制止を振り切って暴走した自分ではないか、と。ならば謝るのは、自分の方ではないか、と。

 

「……ごめんなさい」

 

 抱きしめられる心地よさが、束の温もりが、彼女からの謝罪が。それらが、クロエが必死になって抑えていた心の箍を外す切っ掛けになった。もう一度口にした謝罪の言葉が、まるで堰き止められていた水が溢れ出るように、クロエの口から発せられた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい! お母さん、ごめんなさい! 本当に、ごめんなさい!!」

 

 まるで叱られた後の子供の様に、クロエは束に抱き着き泣きながら彼女に謝る。声を殺して泣いていた先程とは違って、今度は感情を抑えず声を上げて泣き続けた。

 束はそんなクロエを抱きしめ、優しく頭を撫で続ける。

 

「うん、うん。辛かったよね、いっぱい我慢したよね」

 

 クロエを抱きしめ、彼女の頭を撫でながら慰める束の頬には、一筋の涙が流れていた。

 

(なにが、なにが束さんは全てを分かっているだ……)

 

 束はクロエを慰めながら自嘲する。

 彼女は自分と関わる人のことを全て知っていると豪語していた。しかし現実はどうだ?

 こんなにも身近に居た少女の、母親になると言ってあげた娘がどれだけ追い詰められていたのか、その気持ちすら分かってやれていなかった。

 束はそのことが情けなく思えて仕方なかった。

 

(これじゃあ、箒ちゃんやちーちゃんにいっくんの気持ちも、分かってあげられていないんだなぁ)

 

 束の脳裏に映る、自分の親しい人たち。彼女はこんなにも近くに居て、毎日接していたクロエの気持ちを分かってあげられていないのであれば、そんな彼女らの気持ちも理解してあげられていないのでは、と疑問を抱いてしまう。

 

(束さんって、本当、どうしようもなく自分勝手だったんだなぁ)

 

 束は気付かない。ジャックと出会う前であれば、そんなことを微塵も思わないという事に。

 彼女は知らない。ジャックと出会わずクロエとだけ出合っていたら、クロエを娘と言いつつ駒の様に扱ったであろうことに。母親として接そうとも思わなかったことに……

 

 そんな束とクロエのやり取りを、ジャックは部屋の外の廊下で、壁に背もたれ腕を組みながら聞いていた。

 

(私も、存外甘かったという事か……)

 

 ジャックは心の何処かで、今のクロエならばこの任務を問題なく完遂してくれるであろうと思い込んでいた。しかし、彼女が暴走する要因は何処にでも散らばっていたことにジャックは彼女が暴走した瞬間気付いた。

 クロエは非合法遺伝子研究所のサンプルであったこと、遺伝子強化試験体だったが失敗作として扱われたこと、何より肉体年齢に反して実年齢はずっと幼いこと。

 ジャックは束だけに注視し、クロエが普段からしっかりとした言葉遣いに態度を見せていたからこそ、それらの要因を無視し暴走するという可能性を頭の隅に追い払ってしまっていた。

 

(私の人を見る目も、鈍ったものだ……)

 

 仮にも世界に対して戦争を起こした叛逆組織の総帥だったが、こんなことすら想定できなかった事にジャックは自嘲する。

 今回の騒動はお互いの相互不理解によるものだとジャックは結論付ける。ならばその責任を束に全て押し付けるつもりは、彼には無かった。彼にもクロエの暴走の可能性を見逃すという失態(・・)があるからだ。

 

(それを防ぐためには相互理解を深めるしかないな。だが、私は……)

 

 ジャックは己と、彼女ら(束とクロエ)との距離の取り方を未だに決めかねていた。

 思い返せば半年以上この研究所で生活してきたわけだが、ジャックの中では未だに束とは依頼主と傭兵という関係でありたいと思っていた。それが、レイヴンとして生きたいという願望を持つ彼の希望でもある。

 だが束はその関係以上に彼に対して接し、クロエは師匠として彼に接していた。最早依頼主と傭兵という関係では説明できる範疇を超えていた。束の言う通り、家族のような関係になりつつあることに、ジャックは戸惑っていた。

 

(レイヴンとは、常に使い捨てられ、裏切られることが常……)

 

 陰謀家として必要以上に長く生きてしまったことが、二人に信頼を寄せることを妨げる要因になっていた。そのことをジャックは気付いていない。

 

 自分はこれから、どのようにして二人と接していけば良いのか?

 それはジャックの中に芽生えた、新しい課題でもあり問題でもある。

 

(しかし、あの娘……)

 

 ふとジャックは、中国の代表候補生の口から出た人物の名前を思い出した。

 

(烏大老、お前もこの世界に来ていたのか……)

 

 代表候補生という国家の未来を担う人材、中国最新の第三世代型IS、それらを持つ人物から堂々と烏大老の名が出たということは、少なくとも彼は中国で重要な地位に就いているだろうとジャックは推測する。

 

(だが、その前に)

 

 ()(クロエ)の気持ちを理解している傍ら、ジャックは今回の襲撃でIS学園が被った損害と提供(・・)してしまったISコアの後始末と、IS学園の生徒と教員、そして襲撃対象となった織斑一夏とその取り巻きがどのようになったかの事後観察といったことを先にやらねばならない。

 特に鍛える対象であるはずの織斑一夏を、最後の攻撃で重傷を負わせてしまっている。彼が無事なのかどうかを調べる必要があった。

 ジャックは今後の予定を頭の中に描きながらその非常な現実(・・・・・)感動的な和解(・・・・・・)をしている二人に伝えるべく、部屋に足を踏み入れることにした。

 

(またこれから、忙しくなりそうだ……)

 

 ジャックの通告により感動的な雰囲気がぶち壊され、休む暇もないことを知った束とクロエは、先程とは違う別の涙を流したという……

 

 

 

 

 突然の騒動に見舞われたIS学園だったが、夕日が学園を照らすころには落ち着きを見せ始め、教員主導による生徒たちの安全確認と学園の被害状況の確認が行われていた。

 そんな中、IS学園の保健室で、一人の生徒の意識が回復し始めていた。

 

「う……うぅ……」

 

 一夏は窓から差し込む夕日の光に眩しさを覚え、しみる眼に対して瞼を強く閉じる。手で夕日の光を遮ろうとするが、腕に痛みを感じた。よく見ると腕には包帯と点滴用のチューブが刺されている。そこで意識が覚醒し始めた。

 

「うん……あれ、ここは……」

 

 何故かベッドに寝かされていることに一夏は少々驚く。だがそれは直ぐに収まり、辺りを寝たまま見渡す。見慣れぬ空間。白く清潔感のあるその部屋は、夕日によって赤く照らされていた。

 

「目を覚ましたか」

 

 部屋を見渡していると聞き覚えのある声が一夏の耳に入る。

 

「千冬、姉……?」

「ああ、そうだ」

 

 窓側の壁に背持たれていた千冬は一夏が目を覚ましたことを知り、自然と顔の緊張が解れた。しかし一夏からでは千冬は夕日を背にしているため、逆光によりそのことが分からなかった。彼女は背持たれるのをやめてベッドに寝ている一夏に近づく。

 

「俺……どうなったんだ?」

「無人機の最後の一撃で背中に負った火傷は、ISの生体維持機能である程度応急処置がなされていた。そのあとは我がIS学園が誇る医療技術によって後遺症も出ず傷痕も残らぬようになっているさ」

「そ、そうか……」

「ただ、身体の随所の打撲、それと筋肉痛で暫くは地獄だな……一夏、気分はどうだ?」

 

 千冬が自分のことを名前で呼ぶことに疑問を抱くが、一夏は徐々に記憶を取り戻し始めた。

 

「まだ痛みがある……それより、あの無人機は? 箒と鈴はどうなったんだ?」

 

 一夏は千冬にあの後どうなったのかを訊きながら起き上がろうとしたが、体中を痛みが襲い苦悶の表情を浮かべる。そんな彼に対して千冬は、優しく彼を支えるとベッドにゆっくりと寝かせた。

 

「再起動した無人機だが、第二射を照射する寸前で増援として駆けつけてきたオルコットによって破壊された。凰は治療を受けたが、異常無しだ。ただ、篠ノ之についてだが……」

「箒が? 箒がどうしたんだよ!? あっ!! 痛……」

 

 まるで箒が無事ではないかのような言い方に一夏は飛び上がろうとして、先程よりも強い痛みに襲われる。

 

「すまん、言い方が悪かった。篠ノ之自身は無事だ。だがな、彼女の独断行動はやはり教員の方でも看過するわけにはいかないという事になり、自室待機中だ。近々処断が下される」

 

 そう言われて一夏は反論することなく納得してしまう。

 

「それって……退学とかになるのか?」

「否、それは出来ない。仮にも重要人物保護プログラムの対象人物であり、あのバカ()の妹だからな。下手に学園から追い払って、篠ノ之が被害に遭いあいつの逆鱗に触れるくらいならば、学園に留めるべきだという意見で一致したのだ」

 

 政治的な要因で判断が左右される箒に対して、一夏は同情と、少なからずそういった人々に対して疑念を抱いてしまった。

 

「結局、箒はどうなるんだ?」

「知りたいか?」

 

 そう言う千冬の顔は悪戯を思いついた悪童の様なニヤついた笑顔を浮かべていた。それに若干ひきながらも一夏は頷く。

 

「今のところ決まっているのは、凰が提案した反省文五十枚二万字。それに加えて学園に対する清掃といった奉仕活動だ。それを一定期間行ってもらう」

 

 千冬から告げられる箒の処断を聞き、一夏は心の中で幼馴染(篠ノ之箒)に弔いの念を送る。そうしながら一夏は比較的自由に使える左手で頭を掻こうとすると、ある違和感を覚える。

 ふと自分の左腕を見ると、そこにはあるべきものが無くなっていた。

 

「あれ、白式は?」

 

 一夏は自分の左腕にある筈の待機状態の白式が無いことに気が付き、千冬に尋ねる。

 

「白式だが、シールドエネルギーがほとんど残されていない状態で最後の攻撃を受けたため、スラスターが爆散し大破判定が下された」

「……そうか。俺、白式を壊しちまったんだな」

 

 一夏はようやく手に入れた()であり、何度も自分を助けてくれた相棒を壊してしまったこと後悔し弱い声で呟く。千冬はそんな一夏の態度を見ながらも説明を続けた。

 

「予備のパーツはメーカーから渡されているが、それ以上に損傷していてな。やむを得ずメーカー修理に回すことが決まった。ついでにだが、凰の甲龍も母国での修理が決定されたよ」

 

 暫くは白式と一緒にいられないことが残念だと思いつつ、一夏は鈴と自分のISをそんな状態にしたあの襲撃者たちのことを思い返した。

 

「なぁ、千冬姉。あれって、やっぱり無人機だったのか?」

 

 それを聞かれた途端、千冬の表情が強張る。

 

「……いいか、一夏。お前が当事者であったからこそ話せるが、これは外部に漏らすな」

 

 千冬に念を押すようにそう言われた一夏は、固唾を飲み込み頷いた。

 

「凰との事情聴取で我々も初めて襲撃してきたISが二機も居たことを初めて知ったが、一機目は映像ログで、二機目は残骸を分析した結果無人機だったことが分かった」

 

 一夏は、やはりあれらは自分の見間違えではなくやはり無人機であったことを、千冬からの説明で確信した。

 

「一機目は二機目の攻撃でコアを残して消滅。その二機目も残骸を回収し調査したが、オルコットの支援攻撃によって制御系などが破損しきっていた。あれが自律型だったのか、それとも遠隔操作型なのかは最早知る術はない」

 

 千冬は一呼吸置くと説明を再開する。

 

「だが、調査していくうちに二体目の無人機に関しては、既存のISを凌駕する性能があったことが分かった。一夏、本当によく生き残ったな」

 

 千冬は目を細めながら一夏に対して、生き残ったことを素直に褒める。千冬から褒められた一夏は気恥ずかしそうに視線をそっぽに向けながら、先程までの戦闘を思い返した。

 一機目は無人機だからこそできて、人間には出来ない的確な動きで彼らを追い詰め、エネルギーが減った状態であの高火力の塊とも言える黒い無人機が乱入してきたのだ。観客たちを攻撃させないため、加えてクラッキングによって閉じ込められて逃げられない状態での連戦。

 思い返せば思い返すほど、よく生きているなと一夏は思った。

 

(あ、あれ……?)

 

 思い返していくうちに、急に体温が下がり、身体が震えていることに一夏は気付く。それを抑えようとしても震えは痛みを伴って益々大きくなっていった。

 

「一夏、どうした?」

 

 千冬も一夏の異変に気付き彼に近づく。

 

「ち、千冬、姉……お、俺、生きて、いるんだ、よな……?」

 

 蒼白になり腕を組み身体の震えを必死に抑えようとしながら、一夏は瞳に涙を浮かべながら千冬にそう尋ねた。それを見た瞬間千冬は彼にどのような事態が起きているのかを理解し、ベッドの脇に座ると一夏の頭を撫でた。

 

「ああ。お前は生きている。本当に、よく頑張ったな」

「お、俺、どうしちまったんだよ?」

 

 頭を撫でられたことで多少は震えが収まったが、それでも一夏の顔色は悪く不気味なほど蒼褪めている。

 

「ISの生体補助機能の弊害だ。あの戦闘で白式は常にお前の肉体を安定した状態にしていたが、恐怖心もそれで抑えていた筈だ。その補助が無くなり今になって恐怖心を自覚しているのだ。安心しろ。ゆっくり、すべて吐き出せばいい」

 

 千冬はそう言いながら更に一夏の頭を撫でる。一夏もその説明を受けて今の状態の原因が分かり安心すると、ゆっくりと恐怖心を吐き出した。

 

「俺、本当は、怖かったんだと思う」

「ああ」

「逃げられなくて、逃げたらみんな死ぬと思って」

「そうだったな」

「だから俺たちが抑えないとって思って……でも、本当はすげぇ怖かったんだと思う」

「本当に、よくやってくれた。よく生き延びてくれた」

 

 千冬は恐怖心から震えている一夏を、優しく抱きしめ、頭を撫で、慰めの言葉を彼に送った。安心出来る唯一の肉親に慰めてもらっている一夏は、ただただ彼女の言う通り、怖かったということを告白し続けた。

 

 

 

 

 その後も少しずつ一夏の恐怖心を千冬が受け止めていき、徐々に彼の容態が回復したのを確認すると、千冬はベッドから立ち上がった。

 

「ごめん、千冬姉。情けない姿、見せちまったな」

「なに、学園でも実習後にそういう症状を起こす生徒はいる。お前の場合、その刺激が余りにも強すぎたからな。こうなるのは当然だ」

「じゃあ、鈴は?」

「あいつは腐っても代表候補生。メンタル面も相当扱かれていたらしくてな、何ともなかったよ」

 

 代表候補生とはいえ()である鈴が平気で、()である自分がこんな姿を晒してしまうとは、と一夏は悔しい気持ちになる。

 

「一夏」

 

 見るからに落ち込んでいる彼の姿を見た千冬が声をかける。一夏はそれに応えるように顔を上げた。

 

「許せとは言わん。助けてやれなくて、本当に済まなかった」

「……」

 

 その一言で、一夏は千冬がどのような気持ちだったのかを理解した。

 

「いいさ。千冬姉だって必死に頑張っていたんだろ?」

 

 本当は自分が直ぐにでも助けに行きたくて、しかし指揮官だからこそ管制室から離れるわけにはいかず、助けたくても助けられなくて。

 そんな千冬の焦りと無念を、一夏は今の一言で全て理解した。

 

「俺も、鈴も、箒も皆無事だったんだ。そりゃ、怖かったさ。でも、必死に助けようとしてくれていたんじゃないのか?」

「だがな……」

「それに千冬姉を責めても……」

 

 言葉を続けていた一夏だったが、突然腹の虫が部屋中に響き渡ってしまう。それを聞いた千冬は突然のことと、締まりのない弟の姿に小さく笑ってしまった。

 

「わ、笑うなよ……」

「お前というやつは、本当に……」

 

 良いことを言おうとしていただけに、この失態は恥ずかしかったのか一夏は顔を赤くして俯いてしまう。このまま(一夏)をいじるのも面白味はあるが、あれだけの事を成し遂げた彼をイジメるもの後味が悪いと思った千冬は、クスクスと笑いながら一夏が寝ている間に保健室に持ち込んでいた紙袋に手を伸ばした。

 

「内臓に異常が無かったのは幸いだな」

 

 千冬はそう言いながら紙袋の中からフルーツ盛り合わせを取り出した。色とりどりの瑞々しい果物が切り揃えられ盛られたそれは、千冬が学食の炊事係にお願いをして作ってもらったものだ。

 千冬はフルーツが盛られたプラスチックの容器の蓋を外し、フォークと一緒に一夏へ渡す。渡された一夏はそれを食べようとフォークを掴もうとした。

 

「あれ?」

 

 しかし手に握られるはずだったフォークは一夏の手から滑り、ベッドに落ちた。落ちたフォークを拾おうと一夏は手を伸ばすが、力が入らないのかフォークを持つことすら出来ない。

 それを見ていた千冬はベッドに落ちているフォークを拾うと、果実が盛られた器も一夏から取り上げる。そのまま空いている手で部屋の片隅に置かれてある椅子を持つと、それを一夏の隣に置き千冬はそこに座った。

 

「仕方のない奴だ」

 

 柔らかい表情を浮かべながら千冬はフォークを厚切りにされたオレンジに突き刺し持ち上げる。瑞々しいオレンジから垂れる果汁がベッドを汚さないようにもう片方の手を受け皿にしながら、上半身を起こしている一夏の口元まで運んだ。

 

「ほれ、口を開けろ」

「えっ?」

 

 千冬が何を考えているのか一夏は理解する。

 つまるところ『あーん』をさせて食べさせようとしているということだ。

 しかし流石の一夏も馬鹿正直にそれを出来るほど恥知らずではなく、躊躇ってしまう。

 

「ちょ、これは、その……」

「なんだぁ? せっかく姉が食べさせようとしてやっているというのに、お前はイヤと言うのか?」

 

 千冬は意地悪な笑みを浮かべながら早く食べるよう促され、一夏は恥ずかしながらも渋々差し出されているオレンジを口に運んだ。

 噛むたびに果肉から溢れ出す果汁。果汁に含まれている糖分が空腹状態の身体に沁み、オレンジ独特の酸味が口内に程よいアクセントを与える。試合前も軽く食べただけでそれ以外何も口にしていなかった一夏にとって、『空腹は最高のスパイス』とはいえそのオレンジは非常に美味しく感じられた。

 

「どうだ? 旨いか?」

 

 ゆっくりと噛み味わうだけ味わいオレンジをゴクリッと飲み込むと、千冬は既に別の果物をフォークに刺し食べさせる準備をしていた。

 

「えーっと、その食べ方じゃなきゃダメなのか?」

「自分でフォークを掴めないというのに、どうやって食べる気だ?」

 

 恥ずかしさから食べさせてもらうのはあまり気が進まなかったが、千冬の反論に対して首を横に振ることはできず大人しくフォークに刺され差し出されている果物を口に運んだ。

 

「……旨い」

 

 差し出された果物を飲み込むと一夏はそう呟いた。

 

「そうか。なら、私も頼んで作ってもらった甲斐があったというものだ」

 

 その後も観念した一夏は千冬によって食べさせられるという恥ずかしい体験をさせられたが、ふと、あまり記憶に残っていない昔のことを思い出した。そう思うと自然と心にゆとりが戻り微笑みが浮かぶ。

 

「どうした、一夏?」

 

 妙に嬉しそうな彼の姿を見て千冬が問いかける。

 

「いや、昔はよく千冬姉にこうやって食べさせてもらっていたっけ」

 

 まだ食器をうまく扱うことが出来ないくらい幼かった頃、一夏は今の様に千冬に食べさせてもらっていたことを思い出した。

 

「ああ、そうだな。あの時のお前ときたら……」

 

 千冬は続けて少しだけ思い出話をする。そのどれもが一夏の羞恥心を掻き立てるものばかりではあったがしかし、その話の端々からいかに弟である彼を大切に見守ってきたかが伺えた。

 一夏は千冬が語る思い出話を耳に傾けながら、おぼろげながらもあることを考える。

 

(やっぱり俺たちって、姉弟(・・)なんだなぁ)

 

 千冬は己のことを顧みずに一夏の為に苦労し、一夏も千冬の為にと思って嫌味も言わずに家事をし、一時は進学すらやめて就職しようかと考えたこともあった。流石にその時は千冬から叱られ進学するようにと強く言われることになった。

 己の事より身内を、相手をと考える、自己犠牲の精神。そっくりなその精神はまさしく二人が姉弟であることの証明になった。

 それから少しすると先程食べた果物によって腹が膨れ、空腹感が満たされ消化の為に血液が消化器官へと周り始めると自然と眠気が一夏を襲い始めた。

 

「なんか、眠くなってきた……」

 

 千冬はその言葉を聞くと、フォークと既に空になったプラスチックの容器を持ってきた紙袋にしまい、一夏の身体を腕で支えながらゆっくりとベッドに寝かせる。そして春になったとはいえ寝冷えをおこさぬようにと掛布団を彼に被せた。

 

「ごめん、千冬姉」

 

 そこまでやらなくてもと一夏は最初考えたが、思ったよりも眠気が強く力の入らない身体では何も出来ないだろうと思うと、千冬の手助けに感謝しつつまた煩わせたことに罪悪感を抱いてしまった。

 

「このくらいの事、気にするな。唯一の肉親に死なれることに比べれば、なんてことはない」

 

 千冬はそう言いながら、持ってきた紙袋の柄を持つ。

 

「それに、私の方こそ謝りたい。直ぐに助けに向かえず、お前に怖い思いをさせてしまった。済まなかった」

「千冬姉……」

 

 お互いに謝る姉弟。自分の事よりもまずは他者のことをという共通した姿勢。それがよく似た姉弟であるということをお互い認識させることになった。

 

「また今度な。今は、しっかり休めよ」

 

 そう言い保健室から退室していく千冬を一夏は寝ながら見送る。彼女が部屋から出ていきその足音が聞こえなくなるほど静かになると、ようやく心地の良い眠気が彼の意識を刈り取った。


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